海老澤善一『ヘーゲル論理学と弁証法』

この前、ラノベ天鏡のアルデラミン」を読んでいたら、主人公のイクタ・ソロークが、非常に奇妙なことを言っていた。

科学? 何それ? と兵たちの間でざわめきが起こる。似た言葉で彼らが知っているのは「神学」だけだ。この世界の辞典にはまだ載っていない言葉、それが「科学」なのだった。
新興宗教の教祖じみた語り口で、というかそのもので、イクタは続ける。
「合理的で無駄のない、結果として大いい怠けられる素敵な考え方。それが科学の本質。
思い返してみるといい、人間はどうやって今日まで進歩してきた? ----人は畑を作った。成果の不安定な狩りに毎日行くのが面倒だったからだ。----人は井戸を作った。いちいち川の水を汲みに行くのが面倒だったからだ。----人はお金を作った。物々交換のために毎回重いものを持ち運ぶのが面倒だったからだ。
結論。人類の進化は、全て『楽をしたい』という衝動から導かれている。....それなら戦争は? もちろん戦争も同じことだ。ということは、『楽な戦争』こそが『正しい戦争』なんだよ!」

ようするに、この世界では人々は「科学」というのを知らない、というのである。ところが、この主人公の言っていることは、科学というより「合理的」思考のことを言っているように聞こえる。
例えば、三国志において、諸葛孔明が「策略」によって、戦争に勝つことは、一種の「合理的」思考が、相手を上回ったということであろう。つまり、最近はやりの言葉を使うなら「コスパ最強」だった、ということを意味しているに過ぎず、それと「科学」を知っているということを、なにか「差別」用語として使うことは違うわけであろう。
このことと、ここで言う「科学」と、一体なんの関係があるのだろうか?
私はこのラノベを読んでいて、これと同じことが、カントとヘーゲルについても言えるんじゃないのか、と思うようになった。
はっきり言ってしまえば、カント以降。まったく、哲学というのが「もりあがった」ことがない、ということなのだ。どうも、それは「哲学」とか「形而上学」といったカテゴリーが、真の意味で「終わった」ということに関係しているように思われる。

われわれは一般に知というものを、主語Sに述語Pが結合される形式すなわち命題で表し、そのSが真であるか偽であるかを判定するものだと考えている(名辞はそれだけは真でも偽でもない)。ところが、ヘーゲルの「思弁命題」は形而上学的知識に関して----もちろん記述的知識のような思弁命題以外の知を否定するものではない----、命題という形式を否定せよと迫るものである。彼は「神は有である[存在する]」(PhB46)という例を挙げている(神でなくても、りんごでもどんな例でもよい)。普通の思惟(「表象的思惟」)ならば、主語(神)を固定しておいて、それにさまざまの述語(有・無限・永遠・愛など)を付与してゆき、そうして神について多くの知識を得たと考えるであろう。つまり、主語はそのままにして、それと結びつく述語をいわば横並びに探索しようとする。しかし、思惟は実際にはどのように、どの方向に動いているか、そのことを注視すれば、表象的思惟が間違いでることが分かる。「神は有である」と言明すると、思惟は「神」を離れて述語の「有」へ移っており、思惟のなかでは主語(神)は「溶けてなくなっている」(PhB46)。「思惟は主語の内に有していた確固たる対象的基礎を失い」、対象へと向かっていた自分の歩みが「阻止され」、そうして自分自身へ投げ返される(反省する)のを知る(PhB47)。

カントの弁証論は特殊形而上学にのみ関わる。感覚と悟性がとらえ得ぬもの、(悟性と感覚にとって)無限なるもの、理性的なるもの、霊魂・宇宙・神について。それらを表象的思惟によってとらえようとする限り----すなわち霊魂・宇宙・神という超越的な主語にこだわる限り----その思惟は必然的に矛盾に陥ることを指摘したものである。ヘーゲルはカントのこの弁証論の本質が思弁的命題にあると気づき、命題形式は否定されるものでり、その上で述語自身の運動が始まると考えたのである。しかし、この運動すなわち弁証法は特殊形而上学の対象に限られるものではない。存在に関するすべての規定が自分の内に弁証法的なものすなわち否定的なものを持っているからである。こうしてヘーゲルは一般形而上学存在論)を構成しうる論理として、弁証法を肯定的にとらえ得たのである。
ヘーゲル弁証法を述語同士の関係と考えるきっかけを与えたのは、ギリシャの哲学である。彼の弁証法の母型はカントの弁証論ではなく、プラトンイデア論にある。ヘーゲルは「哲学史講義」のなかでプラトンの『パルメニデス』の「純粋なイデア論」にふれ、プラトンの「弁証法は自己自身の内で自己 - 自身を - 思惟する思惟の活動にほかならない」と言う。そして、『ソピステス』はヘーゲルに純粋学の構想と思弁命題の思想を示唆したのであろう。

ヘーゲルの考えでは、表象によって普遍性をとらえるものは宗教である。それは絶対者を「神」や「イエス」と名づけ表象する。しかし、表象によってとらえられた絶対者は対象の形式をとらえざるをえないのであり、神は世界のはるか彼方にわれわれの到達しえぬ対象として表象される。また、イエスの死と復活は遠い過去のこととして、彼とわれわれとの和解は遠い将来として、表象されるのである。ヘーゲルは、宗教(キリスト教)と哲学は同じ内容を扱うのであるが、宗教は哲学がなくても成立するが、哲学は宗教なしには成立しない、と言う。彼にとって哲学の内容はキリスト教から借りてきたものである。しかし、宗教の形式が表象であるのに対して、哲学は概念としての言葉において真理を明らかにする。純粋学としての存在論は言葉を地盤とするが、その言葉は表象の持つ対象性にとらわれることはないのである。

上記の三つの引用は、ようするに、なぜヘーゲルはカントに反発したのか、どこが彼とカントと違ってるのかを、とてもよく表しているが、一言で言ってしまうなら、動機において、ヘーゲル

だった、ということにあるように思われるわけである。つまり、ヘーゲルは最初から「キリスト教神学」をやるつもりだったから、カントの結論に満足がいかなかった。
上記の二つ目の引用でも書かれているが、カントは「霊魂・宇宙・神」を純粋理性批判の一つの題材として取り上げてはいるのだが、それは端的には

として、特殊形而上学として示すことで、逆説的に、その他の分野を「霊魂・宇宙・神」に関係させることなしに成立させうる、という方に力点を置いた。このカントの「戦略」が恐しく成功したことが分かるのではないか。
つまり、カント以降、

  • 細分化された学問

というものは「やっていい」し、「それしかない」ということになったわけである。むしろ、学問が「分野」化して、細分化していくことは、

  • それ以外の真理の形式がない

という意味で、世界のデファクト・スタンダードになった。つまり、これが「科学」なのだ。ある物理学の「法則」があったとして、なせそれが「正しい」と言えるのかに、「神」の「合理性」を関係させなくてもいい、というか、関係させちゃだめなのだ。それを合理化したのが、カントなのであって、だから、カント以降、哲学は終わった、ということなのである。
上記の引用に書かれているヘーゲルのカント哲学を乗り越えていく「戦略」は、確かに、思弁的にも興味深い印象を受ける。それは、「霊魂・宇宙・神」がアンチノミーとなることを「理論」の中で合理化してしまう、というわけである。つまり、「霊魂・宇宙・神」だけが「否定」なんじゃない。

  • この世界に存在しているもの<すべて>

が「否定」という形でしかありえない。それが、上記の一番目の引用が言っていることであり、カントが採用した「観念論」の枠組みをうまく利用したわけである。この世界には、

  • 自分しかいない

のだ。その他にあると言っているものは、本当は存在しない。それは「私」なのだ。すべて「私」なのだ。つまり、

  • 主語

を考えることは無意味だ、と言っているわけである。ヘーゲル哲学には「主語」がない。一切の主語は「私」と同じ、ということを意味するだけで、ここにあるのは

だけ、ということになる。もちろん、ヘーゲルは単純なプラトン主義者ではない。それは、ヘーゲルを踏襲して彼と同じく、アリストテレスを自らの発想の源泉として位置付けたハイデッガーにしてもそうであるが、ようするに、こういった

という、伝統的な「形而上学」がカント以降、「はやらなくなった」わけである。まったく、誰もやらなくなった。そして、たまにハイデッガーばりの「存在論」や「独我論」をやっている人がいると、非常に特殊な「哲学=トンデモ」をやっている人として忌避さっれ、敬遠されている、という感じになる。
どうして、こうなってしまったのだろう?
それは、おそらく、上記の「カントの構想」が、あまりにうまくいってしまったから、ということになるのではないか。
例えば、今でもヘーゲルを再評価しよう、という動きがあることにはある。しかし、それはむしろ、精神現象学における、さまざまな「アイデア」の断片が、それを広げれば、さまざまな興味深い「分野」の開拓に成功しそうだから、という側面があって、そもそも本気でヘーゲルを正面から、この現代において「救い上げよう」としているようには見えないわけである。
例えば、数学を考えてみよう。
現代に、一般的になっている、公理的集合論は、現代の数学のほとんどを展開できることが分かっているが、別に、無矛盾が表明されたわけでもない。しかも、どう考えても、よせ集めのパッチワークみたいな公理が並んでいるだけで、ここになにかの「思想」があるなんて、とても思えない。
しかし、である。
それで「ある分野」が成り立っているのであれば、なにが困るであろうw 困ったら、困ったときに考えればいい。これを見て「困った」と言っているのは、キリスト教徒ぐらいじゃないか。そりゃあ、ここに「神の意志」があるようには思えないw しかし、そういったフォーリズム的なアプローチを徹底的に終わらせたのが、カントであり「現代科学」なのだ...。

ヘーゲル論理学と弁証法

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