自民党という磁場

日本の政治は、ずっと自民党が与党として支配していた。このことがなぜ成立していたのかは、なかなか興味深い状況だと言えるであろう。もちろん、それを成立していた時期というのは、中選挙区の時代であり、野党としての社会党共産党が一定の議席を保持していたわけであるが。
その後、小選挙区の時代が始まり、自民党は分裂を始めたわけだが、民主党政権が誕生した後、自民党が野党となった。その時、野党としての自民党がさまざまな宗教右派と懇意になることで、自民党が「極右」政党へ変貌していく。
そういう意味で、この自民党が野党に下野した時期に、自民党はそれまでの自民党とは違った、独特の個性をもった集団に変わっていた。
ところが、その事実は、その後自民党が政権に復帰した後も、マスコミも報道しなかったし、彼らも自任しなかった。つまり、その辺りの事情をごかましたわけである、
その辺りの流れとしては、民主党がその「受け皿」として理解された。自民党のそういった極右展開についていけなかった人たちが、次々と「民主党」に移っていった、と解釈された。つまり、自民党の「リベラル」派は民主党を受け皿として、解釈された。
ところがここに、小選挙区選挙という壁がたちはだかった。
今の選挙を見るに、自民党公明党の補完関係は明らかだ。お互いがお互いに助け合われて、議席を確保している。しかし、他方において公明党の主張が今の自民党の「極右」的なものと違っているのは明らかである。そうでありながら、なぜか、公明党自民党を離れて野党に下ろうとしない。この補完関係を彼らは「自民党のストッパー」を自任する。
では、自民党は「止まっている」のだろうか?
ここにおいて、自民党の「極右」的な特性は奇妙なバランスの中でフラフラしている。
自民党は、明治憲法に戻したいのではないか? 基本的人権を否定したいのではないか? 帝国日本軍を復活させたいのではないか? 宮家を復活させたいのではないのか? 女性の選挙権を認めたくないのではないのか(戦前の日本に女性の選挙権はななった)? 赤紙を復活させたいのではないのか?
自民党は何をしたいのだろうか? それは、日本会議についても言えるのだろう。日本会議は多くの宗教系の団体が集まって構成されているのであって、個々具体的な案件にまで降りていくと、あまり、まとまった主張があるわけではない。そのことが、日本のこれからの舵取りを曖昧としたものにしている、と言えるのかもしれない。
自民党が、その内部に極右を抱えているということは、彼らの「満足」を一方に意識しながら政治を行っていく、ということを意味しているが、他方において、選挙や外交を考えるなら、それなりにはバランスのとれた立ち位置にいない限り、政権中枢を掴むことはできない。それは今の安倍首相は分かりやすいのであって、彼は70年談話を見ても、最終的なところで

  • 主張のない人

なのだ。そしてそれは、おおさか維新の会の橋下元大阪市長にも言える。基本的になにか主張があるわけではない。そうではあるが、他方において、権力の「上昇志向」は強くもっている。こういった、ある意味での「ヤンキー」的な政治が日本を席巻している。つまり、

  • 天下をとる

ことが、政治の目的になり始めている。
民主党民進党となり、共産党などとの野党共闘が前の参議院選挙からの規定路線となったわけだが、それに対して、ネット上では鳥越さんへのネガティブ・キャンペーンが大きくなった。そこにおいては、自民党のネット工作員だけからではなく、野党系の市民運動で今までがんばっていた人たちからも、鳥越さんへの嫌悪感やネガティブな感情を吐き出すことをためらわない人が多くなっている、とされている。それは、宇都宮氏が選挙の後に、さまざまなメディアで、そういったバッシングを行ったことに対応しているわけで、ボスがディスっているんだから、彼の応援団が彼の意を汲まない方がおかしい、という雰囲気なのであろう。
しかし、こういった「野党内分裂」の雰囲気は、むしろ、与党系のネット工作員が得意としている戦法なのであって、むしろ次の選挙に向けて、どういった戦略で巨大与党に対抗する勢力を形勢していくのかが考えなければならない時期であるにも関わらず、相変わらず楽しそうに鳥越さん「いじめ」をしている状況を見ていると、どうしようもない「野党根性」を考えさせられる。
早い話が、自民党公明党と組んでいる限り、野党は野党共闘をやらないわけにはいかない。これは共通認識でありながら、明後日(あさって)のことを言っている人が多すぎる。ということは、そういう人にとっては、そもそもなぜ、

ではダメなのかが、あまり大義なく感じられている、ということなのであろう。今の自民党を問題だと考えているのは、その今の自民党の「極右」的側面なのであって、それに対して、恒常的な「牽制」によって、抑制が成功するなら、それでいいと思っている。
そもそも、左であり右であり、そういう人たちにとって、

  • なぜ天皇を元首にしてはいけないのか?
  • なぜ日本が軍隊をもってはいけないのか? なぜ日本の軍事力を拡大してはいけないのか? なぜ日本の軍隊を世界中に派遣して、世界中の紛争を解決して、「世界平和」を実現してはいけないのか?

といったことがよく分かっていない。彼らは「正義」を行いたいのであって、そのためなら、右とか左とか関係ない。その「正義」の実現を拒んているのが、もしも左だというなら、彼らは左とも戦う。そういう意味では、福祉の実現と軍備拡大に大きな距離はないのだ。
おそらく、今後の政治は「天皇の元首化」と「国軍の拡大&平和維持活動への無限の<参戦>」が、論争のポイントとなっていく。というのは、ここにおいて、右も左も

  • 正義の実現

という意味で、共闘が実現する可能性があるからだ。今後の日本は「軍拡」と「天皇の地位向上」がポイントとなっていく。日本を軍拡して、その軍隊で、世界中の紛争を解決しようという「正義」と、天皇を今以上に多くの「権限」を移譲し、今以上に無類の「主体」としていく。この二つは一種の

  • 正義の実現

として主張されていく。こういった思想の人たちにとって、なぜ自民党の独裁では悪いのかが、よく分からない。なぜなら、自民党の言っていることはこういうことなのだから。そして、そういった視点から言うなら、野党というのはなにか、自民党が言っている「正義」の邪魔をしているだけのように見えてくる。「正義」を実行するためには、「独裁」は必要なんじゃないのか、と思えてしょうがない。
この延長に見えてくるのが、大政翼賛会だ。日本の政治はそもそも「対立」がない。与党も野党も言っていることは同じなのに、なぜ別々になっているのかが、よく分からない。自民党が極右と組んでいるのは、その方が「選挙」に有利だからであって、結果としてそれで、お金持ちやエリートが有利な社会ができればいいと思っているに過ぎなくて、極右の「思想」に本気でコミットしているわけではない。だとするなら、与党も野党もその対立を国会で演じているのは一つの

  • パフォーマン

でしかない、ということが分かってくる。つまり、この二つは本質として違っていない。単純に彼らが、「選挙を通して国会議員になる」ための手段が違うだけなんじゃないのか、と思えてくる。
保守派は選挙に受かりたいから極右に阿るし、リベラルは選挙に受かりたいから極左に阿る。しかし、両方とも、選挙を除くなら、ほとんど違わないことを考えているし、それの何が悪い、と思っている。
結局のところ、

  • 真の対立軸

をどちらも提示できていないという意味で、日本の政治が「ゆるゆる」のお金持ち優遇であり、エリート優遇という一点で成立しているなんだか分からない状態だ、ということになるのであろう...。