あなたは石田将也を許せるか?

映画「聲の形」を、原作を読んだ上で、もう一度見てみた印象は、正直に言うと、かなり違った。
(それにしても、とても多くの中学生、高校生の若い人たちが映画館で見ていて、私はこういう深刻な内容の作品を、若い人たちが見るんだなと思って、ずいぶん感心した。)
この映画において、私たち観衆は、石田を高校で周りを囲んでいる「ばつ印」のモブ・キャラなんだと思っている。つまり、この映画は私たちに問いかけているんじゃないか。

  • あなたは石田を許せるか?

と。この映画を決定的に印象を二分しているのは、

  • 石田が小学生の、硝子が転校するまでの彼
  • 高校三年生の、今日、石田が自殺して死のうと思った日からの彼

の二つがまったく別の感じで描かれていることであり、さらにそのポイントを整理していくと、

  • この前者は、あくまでも「石田の回想シーン」として描かれている(つまり、これは石田がいつも夢の中でうなされている、トラウマの風景なのだ)
  • この二つの間の、中学、高校はずっと石田は「いじめ」られ、孤独だった
  • 前者と後者では、完全に石田の性格が変わっている。小学校の頃は自分の「自然」な衝動に抗いがたく、暴走していたが、後者の高校三年生では、一度自殺を考えた後ということもあるのだろうが、まったく「いじめ」の加害者側になりそうもないくらいに、(弱気ではあるが)人徳をもった存在として描かれている

私は、最初の永束友宏(ながつかともひろ)が自転車をカツアゲされそうになっていたときに、代わりに、自分の自転車を渡した場面で「もう許した」ってなりましたね。
ようするに、どういうことかというと。

  • もういいんじゃないのか

と思ったわけである。もう十分に彼は苦しんだんじゃないだろうか。苦しんで、自殺をすんでのところまで、実行するところまで行って、ここまで人間的にも立派になったんなら、受け入れるもんじゃないのか。
映画版はその点、メッセージ性がはっきりしているように思われる。
この映画は、石田の小学生時代と高校三年生とでは、決定的に違って描かれている。それは、後者はほんとうに「いじめ」をしそうにない。それくらい、骨身にしみて、反省している。というか、それくらい反省しすぎて、自殺の一歩手前まで行ってしまったんで、「ひらき直っている」という感じだろうか。つまり、この3年あまりの歳月を間にはさんで、まるで、人格が変わっている。
つまり、彼は3年も反省したんだよね。
それが、今度は自分が「いじめられる」側になったことで、それを強いられた、という側面があったとしても。
なんというか、石田の小学校時代をあまりに「リアル」に描いているので、「どうしてこんな奴を許せるのか」という怒りのおしかりを受けそうな感じも分からなくはないけど、よく考えてみれば、しょせん、小学生なんだよね。しかも、彼、母子家庭なわけじゃないですか。もう少し、彼の事情を考えてやらないといけない、とは思うわけですよ。
石田は「おびえている」わけだ。学校が怖い。「いじめ」によって。そんな彼が、人生の最後と決断して、橋の手摺りの上に登って、両手を広げる(この場面は空想? 映画、オリジナルのようだったが)。その姿が、ちょうど、花火の日の、硝子が自宅のアパートのベランダの手摺りの上に登って、両手を広げる場面にシンクロする。ある意味で、石田はその時、死んでいた。だから、硝子と入れ替わることが「必然」のように受け入れた。
彼はその時、自らの死を覚悟したのだろうか?
彼はその時、硝子ではなく、自分が死ぬべきと思ったのだろうか?
いずれにしろ、私はこの、<高校三年生の彼>を許してあげたいと、この映画は私に思わせてくれましたけどね...。