証明できない証明

そもそも言葉は、その意味が相手に通じれば、その用途を果たす。つまり、ここには「アナーキー」がある。極論をすれば、その言明が「間違って」いたとしても、相手が「間違って、そう表現したんだな」と通じればいい、とも言える。つまり、その通じるというのが、二人の間「だけ」でいい、ということである。
たとえば、クトゥルフ神話というのがあるが、ああいった、名状しがたい、だれも見たことがなく、だれも想像すらできないものを「名指す」という場合を考えても、言葉というのは「共通体験」を実は

  • 前提

にしている、ということが分かるわけである。
ここで、一つの問題がある。形式論理である。
あらゆる日常言語は、形式論理に還元できるのか?
私は上記で、それは「できない」と書いているつもりなのだが、しかしこの場合の「できない」というのはどういう意味なのか、と考えてみると、よく分からなくなってくる所もある。
形式論理というのは、「形式化」と言っても、「モデル化」と言っても、「公理化」と言っても、なんでもいいんだけど、ようするに、全ての「正しい」規則を

  • 書き出してしまう

ということになる。まあ、全てという表現は微妙だが、その推論規則で「全て」を導けるのであれば、それで「全て」と解釈する、というわけである。
この場合、ちょっと「おもしろい」ことになる。つまり、この「十全」な書き下しを行うことが「それ」が

  • なんなのか

を説明しているのだろうか、ということである。上記のクトゥルフ神話の場合を考えても、そもそもにおいて、人々の共通体験がないのだから、この場合の相手を記述する「通じる」ということが、なんなのかが、さっぱり分からない、というわけである。
しかし、よく考えてみると、別にこのことは、クトゥルフ神話なんていう極端なものに限らない。お金持ちが貧乏人の生活における、さまざまな「困難」を

  • 想像できない

のは、「想像力がない」からではなく、お金持ちにとっての貧乏人の生活が、実質的に「クトゥルフ神話」と同型だから、ということなのであって、そういう意味では、まったく「同じ」問題に直面している、と言うこともできるわけである。
しかし、である。
今度は逆に考えてみよう。貧乏人がお金持ちに、自らの生活の「苦しさ」を理解させるには、どうしたらいいのか、と考えてみると、むしろ「形式論理」は有効なのだ。これは、そう考えてみると、完全に

と同じだ、ということが分かってくる。いくらお金持ちが、貧乏人の生活を「想像」できなくても、ソクラテスのように、その前提条件の一つ一つを、お金持ちに「認めさせる」ことによって、必然的に(つまり、論理的に、推論規則の変換によって)、

  • お金持ちが認めたくない「現実」を認めさせることができる

というわけである。
さて。この関係はどこか「ヘーゲル」を思わせないだろうか?
つまり、ゲーゲルの言う「絶対精神」である。
形式論理は確かに、日常会話を十全に表現しない。しかし、

を「想定」したとき、そこから振り返った「過去」においては、それらは「解釈」され「意味」づけられ、もはや凡庸な「概念」となる。つまり、上記のクトゥルフ神話も、それがだれにとってもの「共通体験」となった後においては、

  • 日常

に変わり、形式論理で十全に記述可能というわけである(マゼランがアメリカ大陸を発見する前は、アメリカを想像することは無意味であったが、発見した後では、むしろ、アメリカを想像しないことが無意味になったのと同じように)。
ヘーゲルの言う「絶対精神」とは、こういった「無限遠点」からの

  • 近似

であり、それを彼は「神の視点」と考えたわけだが(プラトンイデアと言ってもいい)、例えば、数学において、多くの「性質のいい」関数が、無限遠点で「収束」することを示せるように、この世界の多くの事象は、こういった「神の性質」を示している、と考えるわけである。
ここでは、こういった態度を「神への信頼」と言っておきましょう。この世界を私たちが「観察」するとき、その観察によって私たちに示されているものが、比較的に性質のいいものであるなら、私たちは「無限遠点の真実」に到達することができる、ということになります。つまり、プラトンの言う「イデア」です。しかし、そうでなかったらとしたらどうでしょう? ある時期まで、この性質は、非常に分かりやすい、線型性を保存していたとしましょう。おそらく、間違いなく、未来永劫この性質は変わらない、と思ったある時、世界は、だれも想像していなかった様相を示し始めます。その性質は、非線型性を示し始め、世界は完全な「キメラ」を示し始めました。
しかし、です。
ヘーゲルはなんと言ったでしょうか? 彼は「絶対精神」をその「無限遠点の未来」を基準にする、と言ったに過ぎません。つまり、こういった事態でさえ、ヘーゲル

  • 想定内

だと言うしかありません。私たちはこの事象(関数)を、今まで観察してきた範囲において、十分に性質のいい「線形性」だと考えてきました。ところが、未来のある時点で、様相が一変する。どうも、この事象(関数)は私たちの想定をくつがえして、まったく想定もしていなかった幾つかの性質によって、予想が外れることが分かりました。つまり、

  • 今まで言っていたことは全部「嘘」だった

というわけです。しかし、ヘーゲルの「絶対精神」、「無限遠点の未来」にとって、こんなことは「ノイズ」の一つに過ぎません。伊藤計劃の『ハーモニー』において、人類が「意識」をなくした後も、人類は「日常」を生き続けます。つまり、全部「嘘」だった、ということが分かった時点から、過去の全てを

  • 再解釈

を行い、結局のところ「整合的」な今を再度、人類は記述し始める、というわけです。
こういった意味で、ヘーゲルの理論は「絶対負けない理論」とも言われますが、果たして、こんなものがなんの役に立つのか、と言われるとよく分からないところがあるw
英雄時代の「昔の学問」においては、「正しい」と言うことは、そもそも、「人間の行為」でした。つまり、この二つは完全に一致していた。人間のどこかのだれかが、ある日、「これは正しい」と言ったことと、実際に正しいとされることは、必要十分な関係にあった。
ところが、である。
「新しい学問」において、つまり、形式論理においては、正しいということが、なんだかよく分からなくなってくるわけです。
IT系の仕事で、プログラミング言語で、なにかのプログラムを書きます。このプログラムが「バグがない」ことを示す一般的な方法は、

  • テスト

をする、ということになります。実際に、多くのパターンを動かせば、想定した動きをすることが分かり、基本的にこれで大丈夫ということになるのでしょう。
しかし、少し複雑なプログラムになるだけで、こういった「証明」は次第に難しくなります。そこで、次の段階で想定されるのが、

  • 証明支援

です。その定理が「正しい」のかどうかは、そこで記述されている「証明」が正しいのかどうかに依存すると考えるなら、より複雑なプログラムになればなるほど、こっちの方で、その「担保」をしなければやってられない、ということになります。
ようするにこの事態が何を意味しているのかというと、

  • 人間が<読めない>証明

をどうしたらいいのか、ということになります。形式論理においては、あらゆる「定理」は、すべて「公理系」から演繹的に(パズルゲームの規則によって)、導かれるのですから、極論を言ってしまえば、

  • コンピュータが人間には一生かかっても読めない長い証明を「証明」してしまう

わけです。しかし、これは本当に「正しい」のでしょうか? 確かに、証明支援系という「証明の正しさ」を確認するコンピュータに確認させると「正しい」と返ってはきますが、だれもこの証明を最後まで読んだわけではないんだけど...。
先ほどの話に戻りましょう。
「新しい学問」が「古い学問」にとってかわったのは、「古い学問」には多くの欠点があったから、ということになります。つまり、英雄には限界があった。まあ、しょせん人間ですから。そのことは、例えば、出版され印字され、本屋に並ぶ本には物理的な限界があって、印字される活字の数には限りがあることと同値だと言ってもいいでしょう。そんな分厚い本は出版できないのだから、英雄たちの

  • 英雄的行為(=間違いを含んだ詩的表現)

が許容されてきた。ところが、IT系の発達によって、あらゆる情報は、世界中の巨大なハードディスクに入りさえすればいい、という時代になり、そういった「作法」を守る倫理もなくなった。
そのことは、例えば、数学の教科書を見てもらえば分かるかもしれない。しょせん、二次元方程式、三次元方程式、といったように、こういった少ない次元の間は、証明を教科書に書くことができる。しかし、百次元方程式、一億次元方程式。はて。これはなんでしょう? しかし、これこそが「ヘーゲル」の言う「絶対精神」ではないのか?
百次元方程式の解を、おそらく人間はその証明を全部読むことはできないかもしれない。しかし、

  • コンピュータは解いてしまう

かもしれない。さて。これが「正しい」とは、何を言っているのだろうか...。