東浩紀先生の悪魔のレトリック

ついに、東浩紀先生が豊洲移転問題に参戦ということで、まずはその主要な論点をチェックしてみよう。

購入時に知事を務めていた石原慎太郎氏が、3月3日に会見を開いた。氏は、購入手続きは正当だった、もしそれが不当ならば都民全体の責任だと述べる。この説明はスジが通っている。行政の長は住民意思の代行者にすぎない。背任があったならともかく、手続きに則った決定について個人に結果責任を問うのは不当である。
http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20170317/asahi_2017031500065.html

豊洲に土壌汚染があり費用がかかることは以前から知られていた。移転反対を叫ぶ業者がいることも知られていた。それでも築地の老朽化があまりにひどく、ほかに案もないので豊洲移転しかないというのが、昨年の都知事選時点での都民の消極的な合意だったはずだ。以後も決定的な新事実が出てきたわけではない。
http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20170317/asahi_2017031500065.html

この問題には市場移転以外の解はない。
http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20170317/asahi_2017031500065.html

前半の石原都知事の問題は「みんな」の問題だ、というのは、よく使われる行政側のレトリックだと言えよう。今は民主主義でやっているんだから、行政のやることをチェックして文句を言わない都民が悪いんだ、と。単に行政は、

  • 手続き

に従ってやっているだけで、その行為に「違法」性がないなら、その瑕疵を責められないと(まあ、だから福島第一は爆発したんですけどねw)。
ようするに、そんなに問題なら、最初から「みんな」は戦っていろ、というわけである。
しかし、そうだろうか?
つまりそれは、なぜ今、戦ってはいけないのか、の理由になっていない。つまり、今の都民の「態度」と関係ない話をしているにすぎない。
民主主義とはそういうものであろう。過去に戦わなかったからといって、なぜ今戦わない理由になるのか。そしてなぜ、「みんな」の問題だから、結果を受け入れなければならない、となるのか?
ようするに、このエッセイの最大の問題は、

  • この問題には市場移転以外の解はない。

の理由が<どこにも>書いていないことなのだ。つまり、東浩紀先生は、なぜ豊洲移転を止めてはならないのかの理由をなぜか、この文章のどこにも書いていない。せいぜい、「お金がもったいない」くらいのことしか言っていない。しかし、お金がもったいないなら、それはそれで「利用方法」を考えればいいだけで、どっちにしろ、なにも言っていないのと変わらないのだ...。