東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』

東先生の今回の作品は、今まで先生が言われていたことと違った何かが示されているわけではないので、反論する方も別に新しいことを言うわけではなくなるので、まあ、このブログで書いてたことを反復しているような以下の内容ではある。

学者は基本的にまじめなことしか考えない。学者とはそもそもがそういう人間である。しかし観光とは「ふまじめ」なものだ。

これは一見すると、大衆論であり、「ヤンキー」論を私が肯定するように肯定しているように聞こえるかもしれないが(そういうことであれば、例えば、吉本隆明の大衆論なども同じことを言っている)、そうではない。ようするに、

  • エリートの「ふまじめ」

と大衆の「ふまじめ」をここでは分離できない。例えば、福島第一観光地化計画は、むしろツアー企画側が

  • 悪ふざけ

で、お金儲けで人を集めて、大儲けをしようという意図が明らかだったから、さまざまなところから不信感をもたれた。そういった個別具体的な「態度」を批判されたのに、学問的な「一般論」で反論しているから、人の話を聞かない集団と扱われた。しかも、実際に、「わるふざけでやります」みたいなことが、この本でも上記のように書かれているように、不定期に発言されていた。
ようするに、東先生の主張に一貫しているのはそれを「時代的」なものと呼びたくはないが、

がないわけである。この本でとりあげられている、ネグリとハートや、ラクラウとムフや、まあ、デリダドゥルーズにしても、彼らなりに一種の「マルクス主義者」として理論的に語っているはずなのに、東浩紀先生になると、そこのところが

  • もにょもにょ、もにょもにょ

なんだか分かんないことを小さい声で言ってるだけで、そういう意味では、こういった大哲学者たちから彼の「もにょもにょ」がまともに反応してもらえないことは必然なわけだ。

グローバリズムはたしかに冨の集中を強めただろう。先進国内部で貧富の格差を拡大もしただろう。

否定的に見るか肯定的に見るかはともかく、ひとつだけ言えるのは、いまや世界は急速に均質になりつつあるということである。

素朴な疑問は、世界がフラットになるなら、「観光」をなぜするのか? どこに行っても同じショッピングモールがあって同じ、マクドナルドのハンバーグを食べる「だけ」なのだろう? なにが言いたいのだろう?
あと、観光とは「プチ・ブルジョア」がやることではないのか? 基本的に貧困層には関係ないわけであろう。そういった「上流階級」を大事にしろ、という貴族「道徳」の話(説教とも言う)をしているのだろうか? あとなぜ「観光」であって

  • 移民

であり、

  • 集団移民

であり、

  • 難民

ではないのだろう? 

けれども、本書を最後まで読んでいただければわかるように、ぼくは素朴な資本主義肯定を語りたいわけではない。観光客をめぐる思考がどのように「抵抗」の足がかりになるのか、それはこれからの議論を見てもらいたい。

いや。最後まで読んだけど、どこにも「資本主義肯定」と「対決」する議論なんてなかったと思うんですけど? どこのことを言っているんでしょうか?

しかしカントは「民主主義的でなければならない」とは述べていない。共和主義(統治方法についての概念)と民主主義(統治者の人数についての概念)は本質的に異なる概念であり、民主主義的ではない(統治者の数は少ない)が共和主義的である(行政権と立法権が分離している)社会は十分にありうる。カントが重視したのは、あくまでも共和主義のほうであり、むしろ民主主義は否定している。

ようするに、ここでカントを援用して、一般意志2.0の「反民主主義」性であったり、自らの反民主主義的な立場を代弁させているんだと思うけど、だったら、マルチチュードなんて言うのをやめたらどうなんだろう? 反民主主義とマルチチュードって、なんの関係もないでしょう?
結局、マルクスの『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』のおいて考察されていたような、「代議制において誰からも代表されない」存在としてのプロレタリアートであり、そういった存在が「革命」の主体となっていくといった議論との

  • 緊張感

はなぜここにはないんだろう? ラクラウとムフの議論にしても、明らかにそこでの主題は「階級」ですよね。それは『民主主義の革命』が、基本的に、南アメリカにおける極端な「貧富の格差」を議論の当然の前提として書かれているのだから、当たり前なんだけど。
そもそも、宮台真司さんが世紀末に言っていたことは、社会が「複雑」になるから、今までのような「人治政治」は不可能といったような話であった。つまり、複雑になったはずなのに、「フラット」とは、どういうことなのだろう? 
動物化の議論もそうで、そもそも「複雑」になるから、もはや

  • 動物を牢屋に入れて「管理」

をするようにでしか、人間を国家は管理できない、という話だったはずなのだ。「脱社会化」によって、もはや大衆と国家は会話が「成立しない」と。だから、動物的な扱いをせざるをえない、と。
つまり、上記の「反民主主義」は、観光客の「ふまじめ」と対応している。大衆が「ふまじめ」でいいという主張が、大衆を政治に関わらせない、という反民主主義と繋がっているというか、この二つはセットになっている。そして、「ふまじめ」な大衆を、エリートが「動物」を扱うように、「管理」する。
ところが、「ふまじめ」であることに境界がないというより、より本質的には

  • エリートの「ふまじめ」

こそが、本質なのだから、ようするにこれって、エリートによる大衆の「侮辱」ということでしょう。「ふまじめ」を一度肯定してしまったがために、エリートの「享楽」を止める一切の「理屈」をなくしてしまっているんだよね。だから、お金持ちによる貧乏人への

  • 侮辱(=尊厳の毀損)

を止めさせる「はどめ」が彼の哲学にはどこにもないんだよね。

リバタリアニズムアメリカで二〇世紀の半ばに生まれた新しい思想で(中略)。
リバタリアンが尊重する自由には、経済的自由も含まれている。経済的自由を最大限に尊重するということは、要は国家による冨の再分配に慎重な立場を取るということで、それゆえ必然的に福祉国家大きな政府)に対しては否定的になる。

カントたちは、個人が国民になりそこで終わりだとは考えなかった。特定の国家への所属は、それを超えた普遍的な主体への上昇の一段階にすぎないと考えられていた。一九世紀のナショナリズムは、現代の内閉的なナショナリズムとは異なり、永遠平和(カント)や世界精神(ヘーゲル)に通じていた。リベラルはまだその発展図式(弁証法)を信じている。それに対してコミュニタリアンはもう信じない。本質はそこにある。つまりそれは、ヘーゲルパラダイムが壊れたことに対応する現象にすぎない。対してリバタリアニズムの出現は、前述のように、そのパラダイムを超える理論の可能性を指している。

まず、本当にリバタリアンは新しい思想なのだろうか? サンデルの本でも、むしろ、アメリカにおける昔からあるプロテスタント的なリバタリアンが近年になって「変容」していることこそが強調されていたのではないか?
上記の引用で分かると思うが、東先生は「福祉反対」なわけで、それは「リバタリアニズム」だけが唯一の「答え」だから、と。しかし、この福祉反対とマルチチュードに、なんの関係があるのだろう?
あと本当に、カントは「特定の国家への所属」から「それを超えた普遍的な主体への上昇」なんて考えていたのだろうか? カントは各個人が自らの住む地域への「所属」の感情を

  • 滅却

して、コスモポリタン的な「透明な存在」に変わることを要求したの? カントの言う「永遠平和」は、そういった話なのかな? そもそも「超える」とか、「普遍的」とか、なんのことを言っているのだろう?

というのも、さきほどの引用にも示されているように、彼がそこで連帯の基礎にしようとしたものは、民族や宗教や文化のような大きな帰属集団が生みだす大きな共感ではなく、あくまでも個人単位での、きわめて具体的なそして偶然的な「細部」への感情移入にすぎなかったからである。

(これさ。この議論の後に「家族論」へと繋がっているんだけど、ようするに、ここで想定されている「共感」って「家族」の中の話と解釈していいのかな。だとしたら、ひどい話だよね...。まあ、こんな感じで、なにが言いたいのか、よく分かんないんだよねw)
いや、ローティの言う「共感」も上記の「動物」論につながるわけで、もはや、

  • 痛み

といったような「動物」レベルでの「共感」しか、私たちを「一緒」にさせうるようなレベルはない、という問題だったんじゃなかったのか? さまざまな文化的出自の人では、もはや文化的な「共感」は不可能といったような。
私なりに、最後に東先生の「哲学」をまとめさせてもらうなら、ニーチェ主義と言えると思っている。ニーチェキリスト教批判をしたとき、それは一種の「反語」の形式になっていた。その延長にあるという印象である。例えば、上記の「ふまじめ」を考えてみてもいい。「ふまじめ」を肯定しなければならない。それは、それだけをとりだすと確かに、私の言う

  • ヤンキー肯定論

と似ている。しかし、それは簡単にニーチェの「貴族」思想と同型になる。つまり、貴族が奴隷を「差別」することこそが

  • 楽しい

のであり、それを「無邪気」に行うわけであろう。だからこそ、貴族の暴走を牽制する、彼らの「カウンターパート」としての大衆の政治参加が必須なのであって(これこそ、民主主義の本質であり、集合知の役割でしょう)、それは貴族が大衆に「共感」してくれることを

  • あてにする

といったような「パターナリズムへの信頼」を過剰に要求する方が、どうかしている(それは3・11の御用学者がよく示していたし、そもそも、上記のリチャード・ローティの本は、「芸術家」によるエリート主義を主張している本ですよw)、ということを何度言えば分かってもらえるのか...。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学