柄谷行人「Dの研究 [第6回] 社会主義の科学 その二」

私がときどき思うのは、この世界を「変えたい」として、なんらかの社会システムの変更を提案する人というのは、逆に、「なぜ」そうすべきだと言っているのかが分からなくなることがあるわけである。
なぜ、そう変えるべきなのか?
なにが問題だと思っているのか。それは、結局のところそのように変えたからといて、本質的なところで人間は変わらないのだから、また同じような問題を違った形で噴出させるだけなのではないのか。
つまり「変える」とはなんなのだろう?
そのことは、まず常識的に考えるなら、まずは、

  • 人間は変わってきた

ということの認識、つまり、「歴史法則」に対応して理解される、と解釈することが一般的なように思われる。現在の人間の問題は、なぜ今、このようにあるのかに関係している。それは、過去から今のこのような姿に「変わった」から、今このようにある、というわけで、つまりは、なぜこのように「変わった」のかに「秘密」がある。
掲題の著者によれば、太古の人間の本質は「遊動民」としてあることだった。つまり、定住社会ではなかった。定住ではないから、大量の食料を「貯蔵」することができない。だから、「みんな」で分けた。ところが、定住社会になると、半永久的な「貯蔵」ができるようになるため、それは「資産」のような扱いとなっていく。
「持てる者」と「持たざる者」の「格差」が、ここに生まれ、現代にまで繋がる「格差社会」の土壌は完成する。
それ以降の社会システムは、基本的には、この「格差社会」によって、成立していく。
遊動民は定住し、農業を始め、村社会に変質していく。そこから、そういった村の統合による国家システムにしても、貨幣による経済システムにしても、基本的にはこの「格差社会」の延長において、想定されるものに過ぎない。

モアが書いた「囲い込み」は、コモンズの私有化であった。似たようなことが別の時と所でも起こっている。中でも興味深いのは、若いマルクスが学者の道を断念して「ライン新聞」の編集者となったときに書いた論説(一八四二年)である。彼は当時ライン州で頻発した「木材窃盗」事件をとりあげた。それは従来、人々が森で木材や枯れ枝を集めていた慣習的行為が、私有財産制の発達の下で、窃盗として取り締まられるようになったために起こった。マルクスの場合、その事件が彼の視点を経済学に向ける契機となった。その意味で、この出来事が『資本論』をもたらしたといえる。日本でも明治以降、各地で「入会地」にかかわる紛争が頻発した。島崎藤村の大作『夜明け前』もそのような事件に発している。それらよりはるか前に、共有地の「囲い込み」という事件から生まれたのがモアの『ユートピア』である。

半永久的な「貯蔵」が可能であるということは、その対象に「変わらない」値札をつけることを可能にする。つまり、貨幣制度である。こうして、各時代のテクノロジーに対応して、

  • あらゆる

ものが「商品」になる。土地、水、空気。人間が生きるために、どうしてもなければならない「媒体」としての環境が、次第に

  • だれが所有者か?
  • 値段はいくらか?

という形で「分割」される。人間は生きるために、土地、水、空気を「買う」ことになる。つまりは、

  • 持つ者

  • 持たざる者

に分けられる。ノージックの言う「最小国家」とは、こういうことであるw 持つ者は自らの生涯では使いきれないほどの莫大な財産をもち、持たざる者は日々の糧を得ることさえ難しく飢えて死んでいく。次第に、持つ者と持たざる者は

  • 「生きる者」と「死ぬ者」

へと変わり、

  • 「殺す者」と「殺される者」

へと変わる。

この意味で、普遍宗教は帝国から生まれてきたといえる。もちろん普遍宗教は帝国あるいは国家を斥けるものである。が、もし帝国形成という歴史的過程がなければ、諸部族あるいは都市国家は孤立的に散在して、それぞれの神々を信じていただけだろう。したがって、世界帝国こそ普遍宗教をもたらしたのである。アウグスティヌスは、帝国は窃盗団だと言い放ったにもかかわらず、その点を認識していた。神の国を唱えながら、彼はそれを地の国、すなわち現実の国家とは別の次元に想定しなかった。つまり、神の国は、彼岸あるいは終末にあるのではなく、現にこの世に存在するのでなければならない。
彼の理論では、「地の国」が自己愛に立脚する社会であるのに対して、「神の国」は神への愛ないしは隣人愛によって成立する社会である。そして、この二つの「国」は重なり混じりあいながら、存在する。神の国は地の国に従属することもなければ、依存することもない。それは、ポリス(地の国)のような限界や境界のない、コスモポリスである。現実に諸国家が存在する一方で、神の国は、それらと重なりあいながら存在し、それらに徐々に滲透していく。それがアウグスティヌスのヴィジョンである。

トマス・モアの「ユートピア」がアウグスティヌスの「神の国」に連なるものであるということは、こういうことであり、ライプニッツでありカントの「永遠平和」が、このアウグスティヌスの構想を踏襲したものである。
それはいわば、カントの言う「純粋理性宗教」または「普遍的理性宗教」と呼ばれる構想だと言うこともできるが、「地の国」に平行してその存在は仮構される。
この現実世界は、諸国家に分割された「現実」の世界であり、そこには上記のような私的所有と貨幣によって「分割」された、「格差社会」がもたらされている。
これに対抗しうるのは、言わば、「空想」的な力学である。それを、「ヴァーチャル・リアリティ」と呼んでもいい。それは、ないのではなく、「人間が作る」ものではあるが、「空想」と言っても、存在しないわけではない。そうではないが、あることはある。まさに、「ヴァーチャル・リアリティ」的に存在しうるということであって、電脳空間につくられる「空間」が一つのアナロジーとなる。
こういったアナロジーは、例えば、アニメ「地獄少女」を連想してみるのもいいかもしれない。この「空間」は存在しないが、まったく「ない」と言うことも違う。なぜなら、事実として、このアニメは「存在」するからだ。それは「文学的」に存在している、と言ってもいい。確かに存在しないが、その「空想」は存在する。つまり、この「空想」のイメージを人々が共有しているのであれば、それが「ない」と言うことは、大きな問題ではないわけである。
この「空想」は人々を規制する。人々は文化的に「縛ら」れる。なぜなら、それを「イメージ」している時点で、それは「イメージ」として存在していることを意味するのだから、それは、少なくともそれをイメージした人々のさまざまな行動を規制するわけである。
そもそも、「倫理」とはそういうものである。大事なことは「自然」ではない。自然は、私たち人間が「制御」することを求めて戦ってきた何かではあるが、上記の「歴史法則」にあるように、人間はその自然との戦いの中から、

  • 人間が人間を「制御」する

ことを手段とすることを止められなくなる。遊動民の「分配」の倫理は、次第に私的所有という「悪」によって、うまく機能しなくなる。しかし、なぜそうなのか? それは私たちが、歴史法則の結果として今、遊動民の「分配」の倫理を見失っていることが起こしているなら、まさにアニメ「地獄少女」のように、その空間を

  • 空想的

に再構築することが必要とされていることを意味しているとも言える。おそらくそれは、たんに「空想的=文学的」な範囲に留まることを超えて、アウグスティヌスやトマス・モア、ライプニッツ、カントが構想したように、普遍的、かつ、実際的に私たちを「制御」していく実行力となっていくであろう...。
(こういった力能を、おそらく、今の「国連」において見出すことは可能なのであろう。国連はWW2を境にして、「戦争の放棄」を国連憲章に書き記している。つまり、戦後の「悩み」とは、その「戦争の放棄」がうまく実行されないことのジレンマにある。しかし、だからといって、この「戦争の放棄」の理念が機能していないと考える必要はない。事実、WW2以降、いわゆる、「侵略戦争」は国家間の関係としては起きていないわけで、つまりは全ての「戦争」は、「自衛」を名目としてしか存在しなくなっている。それは、国家が国連に留まることを選んでいる限りは「侵略戦争」を行っていると「言えない」という関係があることを意味しているわけであり、それだけでもさまざまな「規制」を諸国家に課すことになっているとも考えられるからだ...。)

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