多数決と多数者支配

よく、民主主義とは「多数決」だ、といった議論がされることがある。つまり、数が多いさえすれば、と。しかし、そう考えるには、あまりに多くの

  • 政治システム

は煩雑なのではないのか、といった疑問がわいてくる。例えば、

  • 独裁

について考えてみよう。言うまでもなく、ナチスヒットラーは、「民主主義」制度によって選ばれた、ナチスの党首という立場から、「独裁」政治を行った。それは彼がひとたび、ナチスが政権を奪った後には、

  • 一切の法律を無視して

行動を始めた、ということを意味しているわけで、これこそが

  • 民主主義とは「多数決」だ

という人が言っている意味での「多数決」なのであって、つまりは民主主義は「独裁」だ、と言っていることと変わらないわけである。民主主義が「多数決」という意味は、民主主義が

  • 独裁への「委任状」だ

と言っているのと同じなのであって、ある種の「独裁ロマンティシズム」なわけである。
よく考えてみよう。なぜ通常の、代議員選挙と憲法改正の手続きでは、「仕組み」が違っているのだろう? 一般に、憲法改正の場合には、非常に厳しい「条件」が課せられている。日本の憲法でも、国会議員の3分の2の賛成と、国民投票での過半数といった形に。これは、「簡単には変えられないようにするため」と言うしかない制限を意味しているわけで、つまりは、

  • たんなる「多数」ではダメだ

と言っているわけである。こういった、さまざまな現代の一般的な近代国家の「仕組み」を一言で表現するものとして、「立憲主義」がある。

第四に、少数者を犠牲にしがちな多数決ルールを採用する功利主義というイメージがある。社会の幸福っであれ公益であれ、それは結局一部の人々を蔑ろにする政治的決定を容易に正当化するのではないか、と。しかしこれは多数決という集合的意志決定の方法と多数者支配という二つの問題が混同されている。多数決を支持することは多数者支配を認めることと同義でないし、まして少数者の抑圧を正当化することに直ちに繋がるわけでもない(多数決をとりつつ、少数者の権利を擁護する方途として立憲主義的制約などが論じられることもあるが、ベンサムによる制度設計を通した方途は第3節で詳論する)。
(坂井広明「第四章 古典的功利主義における多数と少数」)

功利主義の逆襲

功利主義の逆襲

このことは、今回の衆議院選挙において、民進党が前原代表の希望の党への「合流」に対抗する形で、枝野氏が新たな政党を「立憲民主党」という名前でたちあげたこととも関係している。
独裁とは、カール・シュミットの定義からも分かるように、

  • 総裁(=独裁者)が行う「一切」の手足を縛らない

という意味なのであって、それは一切の「法律」を無効化する、もっと言えば、

  • 総裁(=独裁者)だけは、一切の法から「自由」だ

という意味なのであって、ようするに

  • 総裁(=独裁者)の命令(=欲望)なら、一切の法律は無視できる(=愛国有理)

となるわけである。
近年の野党連合とは、この立憲主義が問われた流れであった。必ずしも、政策の違う、民主党(=民進党)と日本共産党が一緒に選挙を戦ったのは、安保法制の手続きなどにおいて、明らかにこの

が見られたから、それからの「対抗」という意味で、一時的な「団結」が必要だ、といった暫定政府的な色彩をもった性質だったわけで、そういった立憲主義の危機への対抗を目指した運動であり、そして今でもこの動きが続いていることが、今回の立憲民主党の結党が意味しているわけである。
対して、希望の党は、今のところ、二大政党制の一翼を作る、というくらいのことしか言っておらず、自民党との差異も分かりにくいどころか、選挙後の、自民党希望の党日本維新の会の「合併(=与党入り)」すら、ささやかれているわけで、こちらは、もう一つの、自民党と変わらないような

を作ることと変わらないのではないか、という疑いがぬぐえないわけである...。
(このことは、カントが『永遠平和のために』において、世界平和の条件として語った、各国家の「共和主義」とも関係している。カントの言う共和主義の定義は、立法府と行政府の「独立」にあるわけで、これは一種の三権分立、つまり、利益相反について考えていると言ってもいい(モリカケ問題が本当に重要なポイントはここにある)。そして、なぜカントは立法府の代議士の普通選挙、つまり、代議制民主主義で十分と考えたのかといえば、国民が「学者としての論文」を発表する、つまり、言論の自由によって、一定の「理性的(=合理的)」な論点に収斂すると考えていたからであって、国民的な議論(=熟議)が前提となっているわけである...。)