現代の学校は、そもそも、
- 国家
が国民に提供しているサービスである。ということは、そこでの「成績競争」は、その学校に通う生徒たちの、この国家に対する
- 従順度
を「測定」している、と考えられる。わざわざ、テストでいい成績をとるまでに、勉強を行った生徒は、それだけ、
- 国家が生徒たちに「国家の命令に従え」と与えてくる指示内容に、どこまで従順に従ったのか
が測られているわけである。
そういう意味で、成績優秀者とは、頭がいいとか、そういった人たちではない。どこまで、国家の言うことに忠実に従うか、どこまで奴隷か、によって、その序列が決定される。
さて。国家への、究極の「従順」とはなんだろう? それは「自死」である。国家が、国民に「死んでほしい」と思ったときに、どれだけ、果断かつ迅速に、その国家の「願い」を叶えるために、自らの命を「殺せる」のかこそが、究極の
- 優等生
というわけである。
この構造は、
- 宗教
に非常に似ている。宗教の信者は神の「命令」に従おうとする。それはまさい「優等生」競争である。だれが一番に、神の「み心」に適う行動をしているのか、を競い合う。よく、新興宗教で、信者たちによる「集団自殺」が起きるのは、神または、その神の体現者である「教祖」が、信者に自殺をすることが最も神の、み心に適う行動だ、と主張したからなのであって、そうである限り、だれもがわれ先にと、自殺をすることで、「自分が最も優秀な」優等生であることを示そうとする、というわけである。
なぜ、日本会議の連中が、
に反対するのかといえば、これらは、国家による国民への「自死」の行動を妨げるからなのだ。例えば、3・11で過酷事故を起こした福島第一原子力発電所における、廃炉作業をしている人たちを考えてみよう。言うまでもなく、廃炉作業を行う限り、
- 被曝
は避けられない。しかし、そうだからといって、国民の全員が「廃炉作業をやりたくない」と言おうがないしようが、廃炉作業をやらないわけにはいかない。つまり、誰かが、たとえ被曝をしたとしても、廃炉作業をやってもらうしかない、わけである。
これは、第二次世界大戦における、帝国海軍の、
- 神風特攻隊
にも似ている。帝国海軍は、赤紙で徴兵をした兵士を、カミカゼとして、アメリカの軍艦に、突撃をさせようとする。もちろん、それをすれば、間違いなく、運転手は死ぬ。つまり、「自殺をしろ」と命令をしているわけである。
近年で、非常に問題となっている、HPVワクチンも、これらと非常に似た構造をもっている。ようするに、HPVワクチンは。ある種の「徴兵制」なのだ。すべての女性に、HPVワクチン接種を義務づけようとしているのは、このウイルスが、今以上に悪性化し、繁殖力を高めた場合に、
- 日本国民の全てを「殺す」
ことがもしも起きたら、と彼らエリートたちは「エリートパニック」を起こす。これを防ぐには、国民全員に、HPVワクチンの接種を「義務」づけるという「徴兵制」を行っていれば、たとえ、外国の軍隊が日本に攻めてきたとしても、
- 国民の全員が戦いたくない(戦って死にたくない)
と言って、日本の防衛のために、立ち上がらなければ、その外国の軍隊による「占領」を許してしまい、WW2において、日本がアメリカによって侵略され、天皇が、ある意味での、アメリカの「奴隷」とされたことの再現が起きてしまうことを防げる、と。
つまり、彼らHPVワクチン推進者たちの真意は、実際にこのワクチンの効果がどうのこうのではなく、いざとなったら、
- ワクチン義務化(=徴兵制=強制的自殺)
を国民の飲ませる「権力」を獲得したい、という方にある、ということなのだ。
この優等生競争は、多くの場合、二段階のステップを経て進む。最初は、自らが、その国家が「やってほしい」ことを、だれよりも、その国家の要望に「ふさわしい」形で、やろうとする段階である。
しかし、次第にこのプロセスは、次のステップへ移っていく。それは、
- どうやって<他の人>に、その国家の「やってほしい」ことをやらせられるか?
に重心が移っていく。つまり、
- 他者「操作」
である。なぜなら、エリートは自分一人だけが、国家の要望に答えても、それだけでは、国家の「満足」には遠い、と考えるからである。国家が求めているのは
- 動員
である。それなりの、人口の規模で、国民を「マインド・コントロール」して、新興宗教における「集団自殺」のようなことを起こさせなければならない。そうしなければ、福島第一の廃炉処理に、一定の人数を集められない。HPVワクチンの、統計的効果を期待できない。
つまり、大事なポイントは、そのエリートが、その主張を信じているのか信じていないのかは、あまり関係ない、となってきたわけである。どちらであろうが、多くの国民が、国家の要望の方に、「従順」に従ってくれさえすればいい。むしろ、そっちの方が、国家にとっての「需要」を適切に叶えている、と考えられるわけである。
このことは、逆に言えば、国家は絶対に国民を
- 平等
に扱わない、ことを意味する。なぜなら、国家にとって、どうやってそういった「国民を思うがままに操るのか」という問題を抱えているため、この問題を「解決」してくれる人には、国家は、他の人と
- 優遇
することで、その人の「動機」を与え続けなければならない。こういった他者操作において、国家の言うことに従順に従う人を、それ以外の「マインドコントロールされるだけ」の国民と比べて、上の
- 階層
にすることで、あらゆる意味での「優遇」によって、彼らの「やる気」を供給し続けなければならない。例えば、日本の原子力発電所が置かれている地域と、明治維新における、薩長に「抵抗」した地域が、非常に重なることが、さまざまに指摘される。このことは、逆に言えば、日本の原発は、まったく地理的な安全性という「合理性」で選ばれていない、ということを意味する。ここにあるのは
- 差別
の「永続」化である。君が代が「千代に八千代に」天皇家の存続を語るなら、明治維新での薩長に敵対した地域は
- 未来永劫の「地獄」を与える
という目的によって、そこに原発が置かれているのであって、むしろ、話は逆なのだ。これらは、地震や津波が起きたから、過酷事故になったのではない。こういった明治維新での薩長に敵対した地域を
- 未来永劫の「地獄」
にする「ため」に、過酷事故を「起こした」のだから、これはむしろ「国家の意志」そのものだった、というわけであるw
さて。これまでのことは、なぜ。福島第一における、低線量放射線被曝の影響を、なんとしても過少評価しようとする連中や、HPVワクチンの被害をなんとかして過少評価しようとする連中(心因性だとかなんとか)が、次から次へと、湧いて、雨後の竹の子のように、いつまでたっても終わることがないことを説明する。彼らの特徴はその
- 非理性性
にあると言えるだろう。彼らは、そもそも国民を「説得」しようという動機はない。つまり、国民はそんな口先三寸で騙されないことは分かっている。そうではなく、そうやって「非理性」の域にまで自らの行動を高めることで、
- 国民を威す(=強迫する)
ことにこそ、重点が移っている。それはもはや、なにが真実なのかどうかとは、まったく別の力学が働いている。ここにおける、
- 国家に従順であろうとする<優等生>競争
は、どうやって、国民を国家に「贈与」するのか、に関係している。国民をどうにかして「脅し」て、国民に国家に命を捧げることを誓わせたい。もっと言えば、
- 契約書にハンコを押させたい
わけである。つまり、この「能力」こそが、エリートの国家の中で生き残るための「作法」だ、ということになるであろう...。
(こういった構造は言うまでもなく、すべての国家が消滅し、世界が一つの国家に覆われた「世界共和国」になっても変わらない。こういった<優等生>は、今まで、各地域の自らの国家に従順なる誓いをたてていたが、こうやって「世界共和国」ができた後には、この世界共和国の、まず最初に、足元に「ぬかづく」、
- 最も従順な奴隷
となるわけであり、この構造は何も変わらないわけである...。)
(こういった意味において、私は、「あらゆる国家は国民の<自死>によって滅びる、と予言する...。)