靖国問題から遠く離れて

私が靖国の問題を、改めて書こうと考えて始めたのは、8月15日の「靖国神社」のことであった。いや、もっと直截に言ってみれば、あそこで「痴態」をさらしている

  • 軍服コスプレ

について、それを「本家」コスプレの、コミケで見かけるコスプレとの対比で、なにか書けないかな、と思ったということである。その意図は明らかであろうが、基本的に軍服コスプレについて批判的に書くつもりであった。その意図は、言うまでもなく、戦前における「神聖」性との、あまりにものギャップから、むしろ今の「大人」たちが、こういった連中に

  • 注意をしない

ことの、その倫理的な没落は何を意味しているのだろうか? といった形で、つまり、批判的に書くのであるが、その本質においてコミケのコスプレと、なにほどの違いがあるのだろう、といった疑問を付すような形で。
ところが、以下の記事:

靖国神社・元ナンバー3が告発した「靖国が消える日」の真意

などを読んで、『靖国神社が消える日』という本が話題になっていることを知ったのだが、むしろ、この問題をそういった方向から考えてはならないのではないか、と考えるようになった。それは、例えば、トランプ大統領がネット上の陰謀論サイト「QAnon」の連中に「答える」振る舞いを行うのと同じように、靖国神社

  • 大衆から忘れられない

ために、あえて「炎上」しなければならない。上記の本が主張しているのは、靖国神社が戦後「宗教法人」として生き残ってきたことには限界がある。なぜなら、宗教法人である限り「神主」の

  • 判断ミス

ひとつで簡単に靖国神社が「滅び」てしまいかねない(実際に今回の祭りの出店禁止で、完全に若者には「関係のない場所」となろうとしていた)。それを避けるには、戦前のように「国家管理」に戻らなければならない、と主張しているあけであろう。
(ちなみに、以下の記事を見ると:

靖国神社の「みたま祭り」に屋台復活!さっそく遊びに行ってきた。

今年から、出店が復活した、ということのようであるが、それで合っているのだろうか? ただ、記事を読むと、神社の中へのお酒の持ち込みは禁止されている、ということのようではあるが。)
これと対照的な印象を与えるのが、以下の記事であるが:

このような感覚は、国内に持ち帰っても役に立つ。遊就館の「靖国史観」だって、数多ある「そういうもの」、つまり自国中心的な歴史観のひとつにすぎない。
戦後73年だからこそ ダークツーリズム的「靖国史観」のすすめ

このような感覚は、国内に持ち帰っても役に立つ。遊就館の「靖国史観」だって、数多ある「そういうもの」、つまり自国中心的な歴史観のひとつにすぎない。それゆえ、いちいち目くじらをたてても仕方がない--。そう達観できるのだ。
戦後73年だからこそ ダークツーリズム的「靖国史観」のすすめ

さらに、遊就館が国立の施設ではない点も重要だ。たしかに、昭和館やしょうけい館、また平和祈念展示資料館などの公的な施設も都心に存在することはする。だが、世界の軍事博物館に比肩するのは、その知名度でも、規模でも、展示物の豊富さ・広範さでも、やはり遊就館でなければならない。それが宗教法人の運営である点が、日本の大きな特徴である。
戦後73年だからこそ ダークツーリズム的「靖国史観」のすすめ

靖国史観」や「感動の愛国物語」はどこの国にもある。
戦後73年だからこそ ダークツーリズム的「靖国史観」のすすめ

この記事に出てくる「ダークツーリズム」という言葉が示しているように、この記事の著者は、何度か東浩紀先生の「ゲンロン」のニコニコ動画の対談番組に登場しているようで、ようするに東浩紀一派のわけだが、私はそれなりに、この人は立派な学者なのだろうと思っていたわけであるが、完全に言ってることは

  • 御用学者

なんだね。本人も書いているように、遊就館史観とは「宗教」問題なわけであろう。つまり、この神社が「何」を主張しているのか、これが重要なのではないのか? だったらなぜそれが、

  • どこの国にもある

でかたづけられるのだろう? 小さな子供たちを遊就館に連れて行って、「遊就館」教に

される子供たちを「量産」して、彼らは何がしたいんだろうね(私はそういう意味で、原発も一種の「宗教」だと考えているし、HPVワクチン副反応否定論も「宗教」だと考える。彼ら「御用学者」は、口先で国民を「マインドコントロール」して、一体なにをやろうとしているのか? 福島第一ダークツーリズムという「恐しい」宗教儀式を考えた、東浩紀先生はどんな「体制順応」宗教を起こそうとしているんだろうね。というか、ゲンロン友の会の会員さんたちって、そうやって東浩紀先生にマインドコントロールされるために、自ら「ご布施」を続けているって、どこまで骨の隋までマインドコントロールされたがってるんだろうね、怖いね。

2013年5月、訪米した安倍氏は米国人を前に「日本人が靖国神社を参拝するのは米国人がアーリントン墓地(軍人墓地)を参拝するのと同じ」と会見した。5カ月後、米国のケリー国務長官ヘーゲル国防長官は来日し、靖国ではなく無名戦没者を弔う千鳥ヶ淵戦没者墓苑に献花し、戦死者への追悼は靖国以外でも可能なことを示した(13年10月3日)。これだけ分かりやすいメッセージを無視されれば、脱力感から「失望」となるのも当然だろう。
靖国参拝に米国が「失望」を表明した際、安倍氏の側近・衛藤晟一(せいいち)首相補佐官はネットに「米国が失望したことに失望した」と書き込み、安倍氏靖国参拝をけしかけた萩生田光一・総裁特別補佐が党本部の講演で「共和党政権の時代にこんな揚げ足を取ったことはない。オバマ大統領だから言っている」と、オバマ大統領を侮辱する発言をした。三原じゅん子議員も「共和党政権なら反応が違っていた」とツイート(実際は共和党議員からも靖国参拝を批判する声明が出ている)。
靖国神社参拝問題検証〜和解のために

このように、靖国神社問題が国際関係における、中国問題だけでも韓国問題だけでもない。というか、つまりは日本にとっては、アメリカ問題の深刻さが分かっていない。アメリカの政府の要人が

  • 御参り

をできないわけ。というか、だから「天皇」は御参りできないわけでしょう。アメリカの要人ができない限り、天皇家がやれる日が来るわけがないじゃない。だって、アメリカの要人と「一緒」に御参りできないところに、なんで一人だけで行くの? 意味が分からないでしょ?
その靖国神社に「ダークツーリズム」をするんだってさw すげーよな。

  • 福島第一ダークツーリズム
  • 遊就館ダークツーリズム

を。そして、ぜひとも、世界中に「原発肯定論」「戦前帝国日本肯定論」を秘密結社ゲンロンの力で広めてください、少なくとも、私は全力で関わりたくないけどw
例えば、以下の記事:

奥野氏の態度が子供じみたものにすぎないことは、彼が終戦時に内務官僚として大量の公文書の焼却に関わり、そのことを恥じる気配もなかったという事実によって裏書されている。
いわゆる「保守派」は、「現実派」ではなく「幼児派」である

12月12日に行なわれた「お別れ会」の実行委員長は、安倍晋三首相である。
いわゆる「保守派」は、「現実派」ではなく「幼児派」である

なんかを見ても分かるように、日本はこういう「証拠書類」を徹底して焼き払った連中が

  • 名誉回復

をした国なんだよね。だから、安倍首相が「礼賛」するわけでしょう。こういった連中が一切の書類を焼き払ってくれたおかげで、彼のおじいちゃんたちの戦中の「犯罪」は、闇に葬られたわけでしょう。日本は極東国際軍事裁判を受け入れたけれど、それとは別に、自国民によって、WW2の自国のエリートの「犯罪行為」を一人として裁いてはいないんだよね。ということは、形式としては

  • 全員間違っていなかった

と言っているのと変わらないわけでしょう。極東国際軍事裁判で裁かれた、A級戦犯は「天災」のような扱いなわけだよね。彼らは悪くはなかったけど、「勝てば官軍」のアメリカを中心とした連合軍に、「殉死」をさせられた、と。
ところで、小島毅先生の『靖国史観』という本をけっこう昔に読んでいて、私は結局のいところ、この本が何を言いたかったのかな、ということを、あまり深く考えていなかった。そのことが、今さらのように、改めて、こうやって靖国論をやっていることの理由なのかな、と考えないではない。

ところが、江戸時代に儒学大義名分思想の基に、将軍といえども天皇の臣下にすぎないとする非現実的な思想観念が発生、流行いたします。そしてこれが、教育を通じて一般的な常識となってまいります。明治維新というのは、この摩訶不思議な教説がもたらした復古的な革命運動であったというのが、私の明治維新理解です。幕末の志士たちは、この復古的な革命運動という思想にかぶれた若くて青い連中であったのです。

まあ、小島先生の言いたいことは、ここに尽きていると言っても過言じゃないと思うんですよね。つまり、靖国問題は、

  • 幕末の若者たちの「革命=テロリスト」運動

だったこと、ここ一点に見出し、そして、まずはここを批判的に日本全体が見直さなければ、なにも始まらない、っていうことなんだと思うわけである。

長州藩京都御所に向かって発砲したことを謝罪したか?
薩摩藩は江戸市内に放火したことを謝罪したか?
テロとの闘いを標榜する平成の首相たちは、吉田松陰を頌える前に、東京の板橋駅前にある近藤勇の鎮魂碑の前で頭を垂れるべきだろう。彼はテロリストを取り締まった特殊警察部隊の司令官だったのだ。
今も誰も彼もが一八六七年から六八年の「革命」を肯定的に語り、かつて西軍(いわゆる官軍)と戦った奥州盛岡藩主の末裔が「英霊」たちをお祭りする責任者になったこともある。日本人は執念深くないな、とつくづく思う。
でも、だったら一人ぐらい偏屈がいてもよいではないか。幕末のテロリスト許すまじ、という人間が。

ようするに、小島先生の言いたいことは「勝てば官軍」じゃなくて、勝とうが負けようが

  • 正しい

ことはあるんじゃないのか? と問うているわけであろう。そして、その「正しい」ことがなんなのかを分かることができなかった

  • 幕末の若くて青い連中

を、まったく批判的にとらえることなく、「礼賛」してしまっているのが靖国神社なわけで、それでいいんですか、と問い直しているわけでしょう。

だが、皇軍は昭和二十年(一九四五)に負けてしまった。あってはならぬことが起こってしまった。さて、どうするか。
われわれ(靖国の立場で)が祭っている英霊は、単に犬死にしただけなのか。連合軍から「賊軍」呼ばわりされえたままではそうなってしまう。靖国神社遊就館という付属施設を用いてさかんに鼓吹している「あれは正義の戦争だった」史観は、絶対にゆずれないものなのである。
思うても見よ。これまで正義のいくさだとされていたものが「侵略戦争」呼ばわりされ、これまでの英霊に代わっって、朝鮮独立運動の志士だの日本の社会主義者だのを英霊として顕彰するなどということがあってたまるものだろうか。あくまでも従来の価値観を死守せねばならない。----靖国神社やそれを支える人たちがそう考えたのはごく自然であり、私もそういう立場にあったらそうしたであろう。
だが、彼らはわかっていたろうか。
そもそも始まりからして、「英霊」とはゆがんだ言葉であったということを。安重根伊藤博文暗殺の実行者)や孝徳秋水(大逆事件の首謀者とされる人物)は、靖国が誇る最初期の英霊、吉田松陰の同類だということを。
彼らは現体制に叛逆し、テロ行為に走り(孝徳の場合は冤罪ともされるが)、それゆえ国家権力により処刑された。
増補 靖国史観: 日本思想を読みなおす (ちくま学芸文庫)

まあ、何度も書くけど、「テロ」を肯定していいんですか? そこは「勝てば官軍」じゃなくて、冷静に考えないと、

  • どうしようもない

んじゃないですかね、とまあ、「ちょっと冷静になって考えてみろ」と諭しているわけだよね。
(こうやって見ても思わずにいられないのは、陽明学にしてもそうなんだけれど、幕末のこういったテロリストを礼賛する日本の言論には、どこか中世キリスト教における「子供十字軍」とのアナロジーがあるんじゃないのか、と思わずにいられないんですよね。だからもう、これは「理屈」じゃないんだ、と。子供の純粋な心の発露には、それそのものに「聖性」があるのであって、みたいな。)
まず、最初に考えなければならないのは、吉田松陰「評価」ですよね。彼はそんなに「すごい」人だったのだろうか? むしろ、そういった評価は彼に失礼なんじゃないのか?

まず、少壮の兵学者であった松陰の第一の思想的転換として、水戸学との出会いがある。その水戸学との出会いは、1851年(嘉永四)暮から脱藩して出かけた東北遊学中の水戸訪問時の會澤正志斎との出会いにある。松陰は、平戸遊学の際に、會澤『新論』に出会っていたようだが、写本を入手したわけではなく、またじっくりと読むこともなかったようである。当時の松陰はあくまで兵学者であり、兵学研究に必要な部分だけ、『新論』にもふれた可能性があったものの、松陰の思想的転換を期した「國體」に関する箇所は読んでいなかったか、意識しなかったか、の可能性が高い。
吉田松陰の朝鮮論

ここにあるように、吉田松陰はそもそも、ある一定の年齢まで、ただの「兵学者」だったわけ。そこから、いろいろあって晩年に、思想書も読むようになったけれど、よく考えてみてください。そんなに簡単に、私たちは「思想家」になりますか? 晩年に集中して、多くの思想書を読んだことは確かでしょうが、その多くが基本的には

  • 先人の後追い

レベルの、(少し下品な言い方をすれば)「口パク」レベルのものだったことは、しょうがないんじゃないですか?

1824年、東湖が18才の時に、水戸の大津浜にイギリス人の捕鯨船員12名が上陸する事件が発生しました。
当時は日本は鎖国をしていた時代ですので、水戸藩も幕府も、イギリス人たちを船に戻して出港させ、うやむやにして済まそうとします。
しかし、幽谷は西洋の国々はアジアに対する領土的野心を持っているのではないかと警戒しており、イギリス人たちに厳しく対応するべきだと考えていました。
この時点で既に、武力をもって侵略者たちを打ち払う、いわゆる「攘夷」思想を有していたことになります。
幽谷は幕府と水戸藩が生ぬるい対応に終始したことを知ると、東湖に対し、上陸したイギリス人たちを襲撃し、殺害せよ、という過激な命令を出します。
剣術を身につけていた東湖は、父の意見に賛同し、イギリス人たちの殺害に一命をかけるつもりでいましたが、実行前にイギリス人たちが船に戻ってしまったため、これが果たされることはありませんでした。
もしも実行していたら、東湖は罪を問われて自害させられていたでしょうから、未遂に終わって幸いだったと言えます。
藤田東湖 尊皇攘夷を唱え、水戸藩を改革した思想家の生涯について

確かに、吉田松陰の語る「テロリズム肯定論」は一見過激に見えるけれど、基本的には、こういった彼らが基本的には継承した「水戸学」の思想の延長で考えていたレベルであることは間違いないわけでしょう。
上記の引用での藤田東湖の「テロリズム」は、確かに過激であるが、この段階ではまだ、徳川幕府に刃を向けるなどということは、毛頭考えていない。それに対して、吉田松陰の「テロリズム」は、陽明学を介することで、

  • この「攘夷」を、幕府が「不平等条約によって妨げる」のだから、むしろ「幕府」をテロしなければならない

と考え、自分の「上司」に刃を向ける思想に変わるわけだけれども、それについてもしょせんは

  • 志士なら生きている間に3回は「狂」の行動をしなければならない

みたいな、反体制運動に対する「肯定論」によって語っていたレベルの話なわけで、こんな(陽明学的と言ってもいいけど)ムチャクチャな理屈が、まともな思想として扱えるレベルのものではなかったわけだよね。
あと、どうしても考えなければならない問題として、吉田松陰の「侵略史観」と呼ばれるものがある。しかし、これにしても、彼が直接に師事した、會澤正志斎の『新論』がそもそも、「日本による世界の侵略」を想定した議論をしているし、そういった後期水戸学が佐藤信淵の「宇内混同秘策」を熟読していただろうことを考えれば、その語っている議論に、それほどの新奇さはないんですよね。

戦時中、佐藤信淵は、大東亜攻略を述べた人物として大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、その著書『宇内混同秘策』(うだいこんどうひさく)を読んだといいます。
「大東亜共栄圏」と「宇内混同秘策」

確かに、WW2での敗戦までの日本の、世界中での軍隊の「暴走」、つまり、

  • 異常に早い「現場」の自己判断

の暴走は、こういった吉田松陰などによって、提示されていた「侵略史観」が彼らに滲透していたので、この「延長」でやっていれば、上層部も文句は言えない、といったような、そういった

  • 異常さ

の原因として、吉田松陰の「世界侵略論」は重要なのかもしれないが、実際に言っていることとして言うなら、上記の延長にあるレベルのもので、新奇さはそれほど感じられないわけですよね。
そして、晩年においては、吉田松陰はそれまで言っていたこととは、少し趣きが変わってくる。

この時期から松陰の対外政策は、武力侵略論(懾服雄略)から、交易による「航海雄略」へと転換したのである。それは、それまでの水戸学経由の尊王論では、「皇国の皇国たる所以」は、武力によって周辺諸国を威服させる能動的なものであったが、国学経由の尊王論では、天皇がいるというそれだけで「皇国の皇国たる所以」が証明できる、と松陰は考えるようになり、現状で不可能な武力による「攘夷」もしくは対外侵略は必要とされなくなったのである。
吉田松陰の朝鮮論

(こうやって見ると、一見すると吉田松陰は「世界侵略史観」を放棄したのかといったような印象を受けるかもしれないが、これもWW2までの日本の方向性と矛盾しない。つまり、日本の「体力」がつくまでは、面従腹背でやった方が「賢い」と言っているにすぎなくて、だから、「体力」さえ回復したら、大手をふるって「世界侵略史観」でやって行こう、というわけだから、まあ「体力」なんてさっぱりなかったけど、太平洋戦争で戦線を拡大し続けた日本軍の振る舞いは、まったく、吉田松陰の「言ったこと」に忠実に従っただけ、とさえ言いたくなる、という感じでしょうか。)
ここで、吉田松陰を離れて、この幕末の「靖国問題」を振り返ると:

続く戊辰戦争は、新政府の権力基盤を固めるための内戦であった。戦火は京都郊外から関東、東北、北海道へと広がってゆく。江戸城に乗り込んだ新政府軍(官軍)は明治元(1868)年6月、幕府権威の象徴だった西の丸大広間で、味方の戦死者の招魂祭を行った。敗者のプライドを踏みにじる行為だったことは、言うまでもない。
では、これが日本古来の慰霊の方法だったのかというと、それは違う。たとえば「禁門の変」後、孝明天皇知恩院と黒谷で敵味方の区別なく、戦死者供養のための於施餓鬼を行わせた。わずか、数年前のことである。
明治維新150年、長州藩と靖国神社

まあ、こういう連中なわけなんだよね。大政奉還慶喜による、ある意味における「平和裡」による、契約的な行為だったわけで、だからこそ、靖国神社にその後も、徳川関係者が祀られるわけだけれど、そうであるのに、

わけでしょう。しかし、こういった(まあ、靖国神社にも通じる)「官軍」だけを祀るスタイルは朱子学なのであって、日本の今までのスタイルじゃないんだよね。それは、上記にもあるように

  • たとえば「禁門の変」後、孝明天皇知恩院と黒谷で敵味方の区別なく、戦死者供養のための於施餓鬼を行わせた。わずか、数年前のことである。

ということなわけで。

明治20年代になると土佐・長州・薩摩など、勝者側の戊辰戦争以前の「殉難者」の神霊も、続々と靖国神社に合祀されてゆく。
そこで矛盾が噴出したのが、かつて孝明天皇から「朝敵」の烙印を押された長州だった。合祀の基準は、天皇への忠誠度だ。にもかかわらず長州藩の場合、「朝敵」当時の戦没者を含む600人が、「殉難者」として合祀されてしまったのだ。
納得できないのは、「朝敵」を征伐せよと動員され、長州藩と戦って死んだ者の遺族たちだ。福山・浜田藩の関係者は陳情して、ついに合祀を実現させた。会津藩も「禁門の変」の際、御所を護って戦死した32人に限り、合祀が認められた。
こうして、攻めた側も攻められた側も祭神として祀られるという、異例の事態が生まれた。しかし、だからと言って敵味方の区別無く祀るというルールが確立されたわけではない。明治10(1877)年の西南戦争で「賊」として死んだ西郷隆盛も、「維新の功臣」と評されるが、合祀されていない。
明治維新150年、長州藩と靖国神社

そして、上記の引用にもあるように、だれがどう考えたって、会津藩など、「長州藩」と戦った、孝明天皇に嫌われていた「長州藩」と、孝明天皇の命令で「殉じ」て死んでいった人たちが、なぜ「祀ら」れないのかと考えれば、まったく説明がつかないんだよねw 言っていることとやっていることが、まったく整合性がない。それだから、少しではあれ

  • 会津藩も「禁門の変」の際、御所を護って戦死した32人に限り、合祀が認められた。

なんていうことまでやっちゃっているわけで、まあ、こういった「世論」に逆らえなかった、ということなんだろうね。
あと、どうしても最後にこの幕末の政変を考えるときに忘れてはいけないのが、イギリスを中心とした「外国」の勢力なわけであろう。
例えば、

幕末期にイギリス陸軍による日本侵攻計画が立案されていた

なんている記事があったけれど、イギリスは本気で、中国と「アヘン戦争」をしていた延長で、日本とも「アヘン戦争」を行うことを計画していたわけだ。

イギリスの謀略は確実にあった。イギリスは、日本との条約でアメリカに先を越されてしまい、しかもその条約がイギリスが望んでいたような不平等条約ではなかったことが大きな不満であったのだ。イギリスは、何とか対日戦争を起こして、南京条約なみの不平等条約に変えさせたかったのである。
江戸公儀は、ハリスからの情報もあってアロー戦争が終われば、英・仏が日本に対して戦争を仕掛けてくるであろうことを見越していた。英・仏がアロー戦争で動けないあいだに、侵略の意図のない米国とのあいだに最大限日本に有利な条約を結ぼうとしたのだ。この公儀の外交は見事であったといえる。
下関戦争は日本におけるアヘン戦争である

なぜ長州藩が「強気」になって、幕府転覆を目指すようになったのか? そこには間違いなく「イギリス」による「援助」がある。武器の供与を始めとして、その装備において、幕府軍を完全に凌駕した。
だから、長州藩徳川幕府を滅ぼしたんだよね。ようするに、イギリスの「現地傀儡政府」として、

を組織したわけでしょ? もっと言えば「イギリスの言いなり」だよね。

長州は、下関の敗戦を討幕のために最大限有効に活用した。ここには長州の深謀遠慮があった。、「薩長公英陰謀論者」さんのコメントにあるように、長州藩の講和特使であった高杉晋作は、敗戦の賠償金300万ドルの支払を「幕府」に対して行うようにイギリスに求め、イギリスは喜んでこれに応じた。
イギリスとしては、対日戦争を起こして日本に不平等条約を押し付けたかったわけであるから、もとより高杉晋作の申し出は願ったりかなったりであったのだ。
下関戦争は日本におけるアヘン戦争である

こんな「卑怯」なことをして、「勝てば官軍」でイギリスに利用されて、もしもその後に日本が

  • イギリスの植民地

になっていたら、どう責任をとってくれるつもりだったんだろうね? まあ、そこを問うてもしょうがないのだとしても、せめて、当時の幕府が行っていた「貿易条約」政策などの対外勢力との交渉が、そこまで「ひどい」ものではない、むしろ「理性的」かつ「合理的」であり、こういった徳川幕府

による、日本の「ブルジョア革命」を想定することがそこまで非現実的ではない、といったレベルには、幕末の体制の「再評価」がされなければならない(そしてこのことは、吉田松陰を始めとした幕末の長州藩の「テロ行為」への歴史的反省なしにはありえない)、といったことは常識だと思うんですけれどね...。