キンモクセイと三冊の冊子

◇買った本

*「短歌」11月号
*「俳句」11月号

◇入手

*「scriputa」2013 autumn 


◇短歌賞と俳句賞の発表の号で、妙に気になって二冊とも買ってしまった。
感想を書き留めておきたいとおもった。


◇いい歌を読みたいとかいい歌を書きたいとかは自分の中にいまもあるのだが、
風が吹かないと上がらない凧のような部分も、歌にはあると思う。
 そういう意味では、いまいい歌が作れたり、ひとのそれが読めたりする時代
ではないように基本的には思っている。もちろんこれは個人的な感覚で押し付
けるつもりはまったくない。

◇ひとつの例が、ツイッターでよくある「なんとかの歌bot」というものではない
かと思う。お前の歌集もbotになっているではないか、といわれるかも知れないが
少しだけ書かせて欲しい。短歌を引用してもらうのは確かにありがたいことだし、
無償の好意がそこにあるのも確かだろうと思う。
 しかし私にはbotとして出されると、「この歌もあの歌も歌としては『等価』だ」
という主張が前面にどうしても出てくるように感じられる。botの製作者の意識無
意識にかかわらず、である。
 こういうと、自分の短歌作品や、誰かのそれを特別扱いしてくれ、という主張の
ように聞こえるのかも知れない。
 読む人の自由、というのはそのとおりで、私もツイッターで人の作品を引用した
ことはあり、誰かがこの名前で「検索」したら出てきたら、ほっとするかも知れな
いと思って引用したものもある。
 ただ、それでも『等価』であることのマイナス面を、私は感じてしまうことがあ
るのだ。
 別なことでいえば、自然描写やひととひととの関係意識にこだわり作られている
ようなここ十年ほどの間に書かれた短歌作品をなにげなく読んでいて、「コンビニ」
という言葉を全く使用していないのに、何かありありと「ファミリーマート」や
セブン-イレブン」の看板が眼前に出現してとまどってしまうことがこのごろ私には
ある。
 それはお前が単にコンビニへよくいくからそうなるのだ(一日一回はいくかもし
れない)といわれればこれもおしまいだが。
(コンビニでの会話とかが歌の背後にあるものは、それは見えてあたりまえなので
この話に関係はない)
 そうはいうが、私にそれが見えるのは、その歌の言葉の世界あるいは世間では、
「山」も「海」も「コンビニ」もひょっとしたら『等価』なのではあるまいか。


◇「短歌の声」が聞きたい。
 いまの気持ちを簡単にいうと、そうなると自分では思う。
 くにゃりとした空間に開いたのぞきぐちのようなところから、大きくもなく小さく
もなく風の音のような人が吐き続ける息の音のような、「短歌の声」が聞きたい。
 あんまりこれ以上そういう「声」について説明出来ないが、いま短歌に自分が求め
るものはそういうものであるように思う。
 というところで角川「短歌」の話にうつる。
 受賞作は二作で吉田隼人と伊波真人という方。
 吉田隼人さん(とさんづけした方がやはり書きやすいのでつけさせてもらう)の作
品はなくなった異性を思うという私的なモチーフの強い一連。
 「コンビニ」が見える、というような言い方で言うなら、この作品には「雨」が見
える。
 歌を作りつつ在る「自分」ではない「誰か」が必ずどこかで死につつある、という
世界に振る、いくすじもの雨の小柱が見える。
 私はいまのこの世界と「短歌」との関係は、そういうものではないかと思っている
ところがある。
 極端な言い方で言えば、歌というものがひとつの振り子であるなら、「文学や表現」
を向こうに「丑の刻まいり」をこちらにおいて、より後者の方に近づいているように
思われる。
 あまり力をこめてこういうことを言い続けると、「変な人」というレッテルがはら
れることになる。それは別にかまわないが、あまり意味は無い。
 ただ「厄災」というのはいつでも、「以前よりそれ以上のことが起こる」から、
「厄災」なのである。
 そこへ向かっているわけではないが、その過程を、私達は生きていることになる。
 そういう時代の「歌の声」が、吉田さんの一連からは流れてくると私は感じた。
 多くの歌を目にするような生活を私はまったくしていないが、それでもそういう
「歌の声」を聞くことはまったくないといっていい。
 コンビニの看板が見えるばかりだ。
 私は、少し安堵をした。
 歌の技術的な側面とかは選考座談会で語られているし、驚嘆するような新しい感性
が書かれていると私も思ってるわけではない。
 ただ吉田さんの歌をかくときの「手」には、ある「誠実さ」がこもっているとは思
う。二首ほど引く。


 おもひではたましひの襞 あなたからあつき風ふきつけてはためく


 忘却はやさしきほどに酷なれば書架に『マルテの手記』が足らざり


                忘却のための試論/吉田隼人


 現在、30代より下ぐらいの世代の短歌作品には私にはあまりよくわからない「友情
論」のようなものが言葉のひとつひとつにはりついているように感じられる。そこは
肯定的に感じるべきかも知れないが、私には難しい。
 作品の何気ない依存感は、そこからくるのかも知れないし、そうでないのかも知れ
ない。
 あとはとてもバカみたいなものいいになって申し訳ないが、どう生きていくかを決
めることがどう歌っていくかを決めることになるだろう。


◇伊波さんの作品は、そういう「存在の悲劇性」みたいな側面はさほどなく、「生の
更新感」(「まっさらなシャツをはじめて着るように土曜の朝を大事に過ごす/伊波
真人)とでもいうものに重点がおかれている。ただ一連の中での「ような」の使用回
数の多さは、「近過去短歌」への内的な比重の高さが深いところにあるのではないか
と思ったりする。吉田さんと比べるわけではないが、伊波さんの歌はどちらかといえ
ば「読者」「読者層」がゆっくりとその歌のゆくえを決めていくように思う。


◇佳作は三名。廣野翔一「クロスロード」。作品のどれもに感じられる軽快感は、年
齢ではなくやはり人柄なのではないかと思ったりする。缶コーヒーのコマーシャルの
ような映像の連結の中に、にじみだす自己違和が、今の「短歌」だなあ、これ、と肯
定的に思わせてくれるところがある。でも少し源氏鶏太とかを読み返したくなるとこ
ろもある。鈴木加成太「六畳の帆船」。どちらかといえば直情の文体の作者なのでは
ないかとも思うが発想は近年の児童文学の日常描写を思わせる。年齢からいってそう
いうものを読んできた人なのかも知れない。寺本百花「補償深度」。永田和宏の、タ
イトルの座談会での解説はおもしろい。51歳の私には、ビーカーとか出てくるだけで
研究者やそれに近い人がよく歌を詠み発表していたころの空気を思わせる。「女性」
の「声調」に抵抗感を自分でさほど感じていないところも含めて。


◇長くなったので角川「俳句」は短めに。角川俳句賞。
 予選通過者の作者名は短歌賞と違った意味で豪華で、佐藤文香・山田露結・宮本佳
世乃をはじめ句集を持つか、持っていても少しもおかしくないような名前が並ぶ。
 選考座談会では正木ゆう子の発言や姿勢に興味をひかれた。
 私の興味はとりあえず上田信治作品にあるのだが、ひょっとして正木ゆう子は、上
田さんがこの賞を取るのはもう少しあとでいい、今あげたら少し以前からストレート
に苦労を重ねてきた俳人予備軍たちの行き場所がなくなると思ってるんじゃないか、
とさえ思えた。もちろんそういうことではなく、受賞作をはじめそれぞれの作品に真
摯に向き合った結果こうなったのだと思う。

◇受賞作家の清水良郎さんは丁寧に俳句を続けて来られた方という印象。
ゆがみを感じさせない新味を俳句の総体的な現在への肯定感にのせて詠まれた50句と
いってよいのではないか。

◇候補作品四編。

谷口智行「薬喰」。作品を味わうというよりも「何かいったら怒られそうな雰囲気」
を強く感じてしまう一連。


障子穴よりふたすぢの古轍    谷口智行「薬喰」


風景を切り取る、というより切り離すという感じを私が持つからかも知れない。


上田信治「いくつも」


すでに多くのファンを持っている(と私は思っている)上田作品の魅力は、「飽満化
した市民意識をその飽満化した市民意識でかぎりなくやわらかに打つ」ところにある
と思っている。あとは上の世代に対する説得力ということになるのかも知れないし、
歳月がたてばともに高評価が広がっていくということなのかも知れない。  


うみうしの浮いておよいで海の水


立葵あれは干されてゐるバケツ


ちひさな蜜柑二つ食べたのは昨日 上田信治「いくつも」


 映画のように「アクション」「恋愛」「スリラー」だとか、マンガみたいに「少年
漫画」「少女マンガ」だとかわけられることがない「俳句」の世界ではそのどれもで
はなくどれもであるような「万能性」が求められてしまう。それは神がかったもので
もあれば「万能ねぎ」のような利便性からくるものでもある。「こころざしの低さが
そのまま高さであり、高さがそのまま低さであるようなハイ・アラーキー」(「光の
行方」正岡豊より)はいま確かに上田信治にあるように思う。外山一機にも。問題は
それがどうしたの、ということなのだが、悲しいことにそれはさっぱりわからない。


◇「俳句」では小川軽船の「作り手と読み手の気迫」が秀逸。


◇「scripta」は久々の入手。
夏葉社も港の人もいい出版社だと思うけど、古いところでもこんないい広報誌を出して
いるのは、それはそれでいいことだと思う。11月に國分功一郎と対談イベントがある速
水健朗はこれの連載を読んでいたのであった。ラストのブックレビューはおすすめ。

◇本を買ったかえりは、洛南高校の門の前を妻君と二人で通ってかえった。
 「水がにおう」という荒川洋治の一節を思いつつ、花ざかりのキンモクセイに少
し酔って、家に帰った。

49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(第八回)

◇第八回目を書きました。


◇ちょっと今回も長いですね。
 あと二、三回くらいでいったんこの「入門」も終わろうかな、
 と思っています。








------------------------------------------------------------------------------------









◇本を出すってどういうこと?




 これを書いてる私の自宅あたりは、朝から大雨です。
 築25年の借家のわが家は、雨漏りなんかはしませんが雨音がいっぱいします。
 この小見出しでは、詩歌にはつきものの「本を出す」ことをめぐって少し書いてみます。
 とはいうものの、私もガンガン本を出して生きてきたわけではないので、経験値は低いです。
 ファミコン版の「ドラゴンクエスト」だと、ラリホーを一回敵に出されて延々と眠り続けて
るみたいなものですね。新しいものだとあそこはもっと進行が速くなるようにされてるのでし
ょうか。どうも新ハード用に移植されたものはやったことがないものでして。
 短歌の入門書では、古いものは、あまり「歌集」というものにページを割いてはいなかった
と思います。
 新しいものはそんなことはなくて、三年から五年で一冊出したほうがいい、と書いてあった
りします。
 詩や俳句について私はいろいろ書いてますが、本の出され方についてはそんなに詳しいわけ
ではありません。
 川柳は二十年くらい昔を見ると、生涯で一冊、という人が多かったようです。
 連句連句集という形ではそれなりに出てはいます。
 「本」の出し方、というのは、結局その作り手が、どういう形でそのあと「詩」なり「俳句」
に関わっていくのか、というのと繋がって来ます。
 詩歌の世界では、今も「自費出版」といわれる、個人の作家の本が大半です。
 もっともこれも細かく見ると、既成の出版社に依頼や相談をして、数百部を買い取るという形
だったり、印刷・製本を町の印刷所に頼んで作る場合もあり、どれも一様にそういう風にいって
いいのかどうかはよくわからないですね。
 また、誰かがお金を出して、故人なり、ある作家の作品集を出すということもあります。
 これは明確に「そういう人がいたからこういう本が出た」と明記してあるものもあれば、そう
いうことは多くの人が知っているけど、明記していいのかどうかよくわからないものもあります。
 邑書林から出た新鋭俳人のアンソロジー『新撰21』などは前者ですね。某社から出た故人の
一冊本の全歌集は後者ですが、私は完全な企画出版だと思っていたので少し驚きました。
 大雑把に金額を書きます。
 作る本の形にもよりますが、完全に自分で作る場合は30万〜50万くらいでしょうか。
 既成の出版社においても、これも形によりますが、80万〜160万くらいが相場でしょうか。
 幅が出るのは、それくらいは出版社によって差が出るからです。
 部数によっても費用は上下しますが、おおかたは400〜600部ぐらいでしょうか。
 並装とハードカバーではそんな費用はに変わらないとか、そういった話はよく聞きます。
 自宅に(なぜか職場に全部数届けられたというとんでもない話もありますが)送ってもらうの
に油紙で包んでるとか段ボールの箱にきっちり入ってるとかの差も出版社(か印刷・製本会社)
によってはあるようです。
 私は一冊をしかも20年以上前に出しただけなのですが、少し書いておきます。
 私の場合は、大橋愛由等さんという神戸の方の、「まろうど社」という出版社に出版をお願い
しました。大橋さんとは、その前から何回か句会を一緒にしての知り合いでした。元から大阪の
出版社に勤めていましたが、独立してその社をおこした直後くらいでした。
 1990年の春のことです。
 これも私の場合は特殊なのですが、その当時私は十代のころからしていた短歌を書く、あるい
はそういうグループに属するということを既にやめていました。自分の書いたものや、作品が載
っている雑誌等を、すべて処分しましたが、自分の歌の原稿をある程度まとめた紙の束だけが、
どうしても捨てられない。
 詩とも歌とも全く関係のない、年長の知人に相談してみました。
 本を出そうかとか思うけれども、そんなことにお金を使うなら、どこぞに寄付でもしたほうが
役に立つのではないか、とか。
 そうすると、その人が言うには、お金を持ってる人なんていうのは、実は世間にいっぱいいる
んだ、きみが本を出すというのはきみにしか出来ないことだろう、だったらそれをすればいいの
ではないか、という答えが帰ってきました。
 納得しました。
 「まろうど社」さん、大橋さんに頼んだのは、当時、1990年ごろの短歌の「空気」と関係があ
ります。
 80年代末の俵万智の『サラダ記念日』のベストセラー化は、とても大きな短歌の世界における
事件ではありました。
 その直後では、新人賞を受賞したいわゆる「新鋭歌人」がどの出版社から、どんな風に歌集を
出すのか、ということに対する選択への期待や関心が、かなりの圧迫感を持って若い歌人たちの
上に覆いかぶさっていた時期でした。
 とはいうものの、こうしたことはほとんど文章化されないまま、現在にたどり着いているので、
「別にそんなことはなかった」ということになるんじゃないかと私は思ってます。
 歌集の専門出版社(というような名称はいつのまにか出来た言い方ですが)から出た「歌集」
には、何か独特の「本」の感覚があります。
 センスの良い装幀や、本文のデザインも含めて、どういうわけか、とても「歌集」らしい感じ
の本に仕上がって来るのです。
 私はなんとかそういうものとは別なものを作ってみたかったのです。
 それが「まろうど社」さんに依頼した、大きな理由のひとつでした。
 当時まだ消費税はなかったですから、基本は100万で500部の買取、で定価は2000円。
 そうそう、書店で買えるような形にしてほしい、というのもひとつの希望でした。
 出版当時は、梅田の旭屋書店などで実際置いてくれていました。
 自分の手元にあるものを書店においてもらえるように自分でまわってみる、ということはしま
せんでした。
 手元の歌の原稿は、歌集の原稿に編集したものを送付したあと、やっと捨てることが出来まし
た。
 お話としてはそういうことで、出した当時はとても否定的な気持ちを自分の歌集に持ったもの
ですが、いまはあれでよかったと思っています。
 俳人筑紫磐井さんが、あるインタビューで、自分の第一句集に触れて、「第一句集を出して、
攝津幸彦と出会った、それがすべてだった」と語っています。
 現在の筑紫さんの活動や文章からは考えられないくらい、それ以前の「沖」時代では閉じられ
た世界にいたことに、そのインタビューを読んでほんとに驚かされました。
 現在私は「歌壇の人」(歌壇や俳壇については私は肯定的です)ではないですし、有名歌人
もないと自分で思っていますし、事実そうだと思います。
 ただ、今現在の生活において、ともに暮らしているひととも大きく縁があったのもその一冊の
本によるところが大きいし、2000年の再版には枡野浩一さんの無私とも思えるリスペクトはとて
も大きいものでした。現在は「短歌ヴァーサス」に収録された増補版の読者の方が多いですが、あ
れも荻原裕幸さんが荻原さんにしか出来ない形で、編集してくれたものでした。
 詩歌の創作というのは、それはそれで個人的な、「ひとりうたげ」ではありますが、ほんとに
一人で作り続けられるものなんかではないと思います。
 そのことをこの年齢で噛み締めるように思うことが出来て、私はよかったなと思っています。
 今度は自費出版物以外のもののことを、わかる範囲で書いてみましょう。
 見城徹さんの著書によると、銀色夏生さんの角川文庫で出ていたものは、出せば一時期どれも
100万部売れていたそうです。きちんとしたデータを一度見てみたいものですね。疑っているわ
けではなくて、単純に知りたいだけです。
 谷川俊太郎さんは、基本的には、依頼された仕事でずっとやってきた、というお話をされてい
たことがあります。
 手元に本がないので引用しませんが小田久郎さんの『戦後詩壇私史』の冒頭に、谷川さんが詩
を自分の仕事としていくことについてのスピーチについての記述があります。
 この本amazonでも古本がすごく安くなっていてびっくりします。
 1995年刊行とはいえ、いい本なのですけどね。
 枡野浩一さんと林あまりさんに共通しているのは、「歌集」を出すたびに(とはいっても二人
共そう多く歌集としての本を出しているわけではありませんが)「これが最後の歌集だろう」と
思って出していることでしょう。
 笹公人さんは、現在ひょっとしたら「短歌」としては最も多くの読者を持っている歌人ではな
いかと私は思っています。
 手元にある笹さんの歌集には、どれからも「屈託の無さ」が感じられて、これは今「本」とし
ては結構大事な要素なのかも知れません。
 穂村弘さんはもう少しハイペースで歌集を出してほしいものですが、これは同時代人としての
目で見るからであって、数十年たてば何かまた違ったものとして穂村短歌は見えてくるものなの
かも知れません。
 俳句はどうなのでしょう。
 わかりにくい感じがするのは、谷川俊太郎さんや吉増剛造さん、穂村さんや枡野さんのように
は現在ポピュラーな人がいない感じがするからでしょうか。
 千野帽子さんの俳句関係の仕事は、現在千野さんが推進している「マッハ句会」等と一緒に考
えないといけない、という所があるので、既成の「文芸」といろんなところで絡み合ってしまう
「俳句」と一緒に考えていいものかどうかは私はよくわからないです。
 よくわからないから端折るというわけではないのですが、坪内稔典さんが書くところの「レッ
スン・プロ」「テレビ俳人」ということ以外で、「句集」と「俳人としての自分のキャラを看板
に立てて一般の世界で糧を得ようとしている」という人が思い浮かばないのです。
 坪内さん自身は「自分の本は歌人が買ってくれるから売れている」というようなことも書いた
り話したりしていましたが。
 川柳では、いまで言うところの「ポピュラー」な形でありえたのは時実新子、というところに
なるでしょうか。
 実際には川柳の史的展開というのはこの十年くらいではたから見ていてもかなり語られたり読
まれたりするようになってきた感じがします。
 生涯句集一冊であるとか、もともと無名性にこだわるところがあるとか、川柳大会での上位入
賞の名乗りが人づてにその作者のポジションを押し上げてきたとか、そういう要素から、私の言
う「達成主義」による他の詩歌のようなジャンルの確立とは少し違った道を歩いているところが
川柳にはあります。
 多くの川柳作家が結構自分の作った句を自分の手元に残していない、というのもまだよくある
話のようです。
 ただ俳句も川柳も「セレクション俳人」「セレクション柳人」という邑書林の比較的求めやす
い価格帯での現在=近過去の作家たちのシリーズ本が出て、これはこれでとても画期的なことだ
ったと思っています。
 最後に連句ですが、ここもポピュラーな連句作家というのはいるとは言えません。
 ただその分、定型詩の他のジャンルよりも一番現実的な「ローカル性」に根ざしていますし、
そのようにしてしかこの詩型が存続しえないことについて自覚的であるように思えます。
 また主に学究的な部分で言及される「連歌」についても、門外の私から見れば開かずの扉が開
くように光田和伸さんや島津忠夫さんがほんの時折その「学究」の外側で、発言してくれること
も忘れがたいですね。
 えーっと、後半は退屈な文章になってしまいましたねえ。
 経験値が低いのに背伸びをしているところもありましてお見苦しいばかりです。
 また部数や金額にしても、聞きかじったことを明記することはなんだか変な感じもします。
 「売る」側から見れば、詩歌関係の本は、まだまだとても売りにくい本だと思います。
 そういう現実がある以上、私は自費の出版物として詩歌集が世に出ていくことは、それはそれ
でいいことではないかと思っています。
 またそういう中で、なんとかして商業的に成立するような形で、自分の本を出そうとしてゆく
ことも、いくらでも試みられていいと思います。
 「本を出すってどういうこと?」という小見出しなのですが、答えとしては「それは本を出す
ことだよ」とか私にはいうことが実はありません。
 青嶋ひろのさんが出した俳句と猫の写真集を合わせた『逢いたくなっちゃダメ』『誰かいませ
んか』という二冊の本があります。
 彼女がこの本を思いついてから、各出版社に企画を持って回って実際出るまで、二年から三年
は時間がかかっているのではないでしょうか。
 私はまだこの本が出るまでに、ラフのようなものをお酒の席で彼女に見せてもらったことがあ
るのですが、実際に刊行されたものを見て、驚き、ほんとうに感激して、そのまますぐに彼女の
携帯に電話をかけました。
 青嶋さんは俳句も書いてはいましたが、この本は、彼女がもっともっと、世に出したいと思っ
た他人や故人の俳句作家たちの書いた句のアンソロジーです。
 元の単行本は絶版ですが、しばらく前にソフトバンクから文庫本が二冊とも出ました。
 私はくまざわ書店で買いましたが、発売されてから間もないその日、文庫の新刊の平台に平積
みされていました。
 書店の棚も、コンビニの棚と同じでスペースの奪い合いです。
 「お金」のこともとってもとっても大事なのですが、それぞれの詩型にささげられた情愛と努
力が結実したような本がいいなあ、と私は思っています。
 以上でこの小見出しを終わります。



 

49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(第七回)

◇第七回目を書きました。


◇まだまだ「入門」じゃなくて、ただ好きなことをいってるだけ感が
 ありますが、もう少し書いたら、単純に「入門」みたいなことにな
 っていくと思います。








----------------------------------------------------------------------------


◇現代詩を見てみよう(2)


 安川奈緒さんの話の続きです。
 (惜しいことに安川さんは、これを書いている2012年亡くなられてしまったそ
うです。)
 「現代詩手帖」と「ユリイカ」には、巻末のほうに詩の投稿欄があります。
 私の言う「特殊詩」の世界では、この投稿欄から「詩」を仕事。または自分の
「生」の仕事としてゆく方が現在多いです。
 もちろん投稿欄がすべてではないですが。
 安川さんも「現代詩手帖」の投稿欄に詩を出していました。
 同人誌などの活動もあるかも知れませんが、そちらのほうは私は知りません。
 安川さんの詩にはまたあとで触れます。
 この文章、私は出来れば「となりのおっさん」が書いているように書きたく
思っています。
 いま「詩」について書いていて、なかなかそうなっていないことに、自分でい
らだっています。
 ひとつ思いつきました。
 「となりのおっさん」が「詩」についてあまり関心がないとしたら、それは「
詩があまりうまくいっていない」からではないか、というものです。
 そういう一文をはさんで、安川さんの詩に戻ります。
 現代詩手帖2005年5月号に掲載されている「今夜、すべてのメニューを」です。
 初期の頃の安川さんの詩は、基本的には、現代詩の「語法」を使っています。
 ある程度以上の年代には、少し懐かしい感じもすると思います。
 「現在」というものに対する感覚的なアンチテーゼ、それが完全にアンチテー
ゼとなる前に素早く身をかわすことにより、自らの誠意を読むものと自分との間
に「共有」させる、という書き方ですね。
 この詩には「 」でくくられた詩文があるのでそをこ少しひろって見ましょう。



 「おまえになにがわかる 帰ってくれ」


 「ひとつでもあたらしいことを言う前に/消えてしまえ」


 「おまえのせいで わたしは死ぬ」


 「たのむから便所を用意してくれ」



こんな風に部分引用するのは作者の意に反するとは思いますが、 こうした「露骨
」な日常語の世界を、現実から拾いつつそれを架空の「詩の世界」へ放り込むとい
うことにより、少なからぬ私の言う「特殊詩=現代詩」の人は詩を書いてきました。
 しかし、「語法」とはいってもそれは「ファッション」のようなものですから、
細かく時代に対応したほうがいいはずです。
 そういう意味での「対応」にとてもすぐれたものだと思いました。
 最後に、関口涼子さんの詩集『発光性diapositive』を見ておきましょう。
 「現代詩」を特殊詩というのはとりあえず一度読者を突き放すというところがあ
るからです。
 本屋で本を開いたら、最初のページに「こんな本買うんじゃねえ! ボケ!」と
書いてあるようなものです。
 もちろん実際には書いていません。
 ただこういう詩集の題のつけかたにはそういう意味もあると思います。
 関口さんの詩は一種の「宝塚歌劇」なのだと思います。
 宝塚歌劇が特殊な世界だというつもりはないですけれども、「歌舞伎」とかとく
らべると「伝統のないところに伝統を作り続ける」ことに成功しています。地元や
日本のほかの様々な文化や報道や資本の媒体との接続の仕様にも成功し、一度も宝
塚を見たことがない人でも、そんなに無意味な否定を口にしないのではないでしょ
うか。
 関口さんの詩集は書肆山田という詩集を多く出している出版社から出されていま
す。
 この詩集自体は変形の観音開きを多用した、「ひらく」ことと「詩を読む」こと、
「活字が印刷されている誌面と詩作品のシンクロ感」を徹底した本になっています。
 うつくしく、そしてめんどくさい本です。
 書いてある事を、日常用語に翻訳することは殆ど不可能です。
 自分が自分の詩を書こうとしたらこうなった、ということをまずは共有出来るか
どうかです。その上に読み取れるのは、私は「わたし」感ではないかな、と思いま
す。
 こういうセンテンス=セグメントがあります




それがあなたを
揺らすようなら
所持していない
方がいい。彼の
ような出入口は
どちらにせよ置
かなかったから。



四角くレイアウトされたセンテンスの群れを、また大きな四角の形においた、一種
インスタレーションみたいですけどここでそれをいうにはかすかにあほらしいよ
うな感覚もある「アーティキュレーション、通過点としての」1、と題された詩篇
のワン・セグメントです。わかるとかわからないとかは抜きにして、この人が最後
によりどころにしているのは「関口涼子」という人間の(別に架空でもそれはいい
のですが)「わたし=女性」感ではないかと思います。うつくしくしなやかな詩集
ですが、とてもめんどくさく、すごくきれいなカーテンのようなところもあります。
 ということでいくつか詩を見てきました。
 短歌や俳句も一首一句と見ていくと膨大な量があり、詩もそうです。
 現代詩と呼ばれるものには谷川俊太郎さんや荒川洋治さんがそれについてとても
否定的なものいいをしている作品や、詩人も少なくありません。
 また若い詩人もいますが、基本的には詩の世界も高齢化社会です。
 それでも私は「そんなにバカにしたものでもあるまい」、とずっと思っています。
 いったん現代詩の話を、これでおわります。


正岡

49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(第六回)

◇第六回目です。


◇ここまで書きましたが、買い物に出たりしたいので、
 一度あげておきます。
 となりのおっさんが話してるようにずっと書きたいのですが、
 このあたりの話でそれをするのは難儀ですね。



----------------------------------------------------------------------------



◇「現代詩」を見てみよう


 今から「現代詩」の話をします。
 少し長くなります。またわからないところも出てくるはずです。
 これは話の性質上仕方ないことです。お茶は先に用意しておいてください。
 岡本太郎のお母さんの岡本かの子さんは長電話で有名で、電話をかけたらまず
「椅子をもっていらっしゃい」と言ったりしたそうです。
 固定電話しかなかったころの話ですが、あんな感じ。
 今から話す現代詩の話は私の個人的なものだとも言っておきます。
 いわゆる「現代詩」の作者の方は、こんなことは言わないだろう、という意味です。
 「現代詩」をいくつかの言い方でとりあえず説明してみます。
 まずひとつめ。「現代詩」は「特殊詩」です。
 今現代で書かれてる詩はすべて「現代詩」だという人に逆らうつもりはありません。
しかしそれならば、なぜある詩はとてもわかりやすくて、ある詩はとてもわかりにくい
のか、わかりにくい詩はそれなのになぜある種の読者の胸を強烈に叩くのか説明出来な
いと思います。
 ふたつめ。その「特殊詩」の世界では「わからない」ことのほうが、「わかる」こと
よりも、価値が大きいとされることがあることです。
 日常の会話というのは、わからないとお互い険悪になります。
 言葉がひとつひとつ、「もの」や「こと」とつながっているから、会話は成り立ちます。
 伊奈かっぺいさんという人がいます。
 北の地方の方言を自分のキャラクターに合わせて、テレビに出たり、いろんな仕事をして
います。その人の話に、寒いところでは、口を開くのも大変だし何より話してる時間も身が
凍えるから、会話が短くなる、と言って次の例をひいたことがあります



ーどさ?
ーゆさ。



 わかりますか。これで。



ーどさ?(どこへいくんですか?)
ーゆさ。(湯ー外のお風呂にいってこようと思うのです)




 という意味らしいです。
 「ことば」というものは、私はこういうものではないかと思います。
 短くなったり、長くなったり、ある地域や時代でしか通用しなかったりするけれども、言って
しまえばその「本人」たちのもの、そういうものだと思います。
 「詩」もたぶん、作者と読者の「本人」たちのものだと私は思います。
 ただそれだけではすまないところもあるのですが、それはまた別の項目で言います。
 「現代詩」という「特殊詩」の中では、「わかるー『銀行の前に犬が座っています』というよ
うな言い方」よりも「わからないー『銀行の前も後ろもアルキメデスだった』というような言い
方」のほうが価値がある、あるいはそういう言い方でしか伝わらないものを伝えようとするのだ、
ということです。
 いくつか実際の「詩」を読むということをここからはじめます。
 ほんとはねえ・・・これはやりたくないんですよ。
 なぜかというといくら優れたと私が思うものをもってきても、それでひとつのジャンルを代表
させるのは無理があるからです。
 ま、しかし。しょうがありませんね。
 ここ十年ほどで一冊詩集を選ぶとしたら、私は藤井貞和の『神の子犬』を上げます。
 しかしこの詩集は今手元にありません。
 松本圭二の詩集『アストロ・ノート』に収録されている、「青猫以後」というかなり長い詩
があります。雑誌「ユリイカ」に掲載されていたとき、読んで大変感銘を受けた詩です。
 これは詩集がありますので、ひとつはこれにします。
 もうひとつは、安川奈緒という詩人の「今夜、すべてのメニューを」という詩で、詩集にも入っ
ているのですが、詩集は手元にないです。それに私は投稿された時点で発表されたもののほうが
好きなので、こちらでとりあげます。
 あとひとつ、関口涼子さんという詩人がいます。この人の詩集で今手元にあるもの、『発光性
diapostive』これをとりあげます。
 これまで「現代詩」というものを「特殊詩」「わかることよりわからないことが少し上」とい
うように説明しました。もうひとつ付け加えます。
 みっつめ。「叙述の堰き止め」。おおかたの現代詩は叙述をせき止める、言いかけた言葉が当
たり前のように次に出てくる言葉を、わざと別の言葉と入れ替えて、また叙述する、という書き
方をされています。
 これについては、橋爪大三郎さんが、瀬尾育生という詩人の詩集の解説の中でわかりやすく言
ってくれています。
 多くの人がもうこのあたりでこの文章を読む気が失せてくるのではと私は思っているので、ざ
っくりとはしょって引用します。
 コマーシャルかジングルでも入れたいんですがねえ・・・。
 橋爪さんによれば、詩人の瀬尾さんの詩というのは、「夕方ロータリーにさしかかると」と素
直に言えばよいのに、「車輪がとり囲んでいる円陣のなかでゆうぐれの道がちぢれるように湾曲
すると」と言い換えなければ気がすまないだけのものだそうです。
 時としてほんとうにうつくしい詩を書かれる方に、荒川洋治さんがいると思います。
 詩とは確かにひとつの言い換えです。
 詩は言葉ですから、混乱しがちですが、紙に「詩」と書いてもそれはただの字なので結局は「詩」
と書かずにいか詩を書くかということです。
 荒川さんは、ここ二十年〜三十年ほどの間の、本人、荒川さんの生きている世界の感覚を、
街の間を通り抜ける風や音とともに、どこからか漂ってきた何かの「匂い」が強くこころに呼び覚ます遠い
記憶に対するとまどいとそれにともなういくばくかの悲しみや、逆にその悲しみを持つことにより
生まれる喜びといったものを、詩としてひとに手渡すことの出来るひとですね。
 「見附のみどりに」は発表されてしばらくの間は、かなり引用された名作です。
 しかしこの詩で実際に起こっているとおもわれるのは、作品の中の「わたし」が埼玉銀行の新宿
支店のあたりを歩いてるということだけのように感じられます。
 それが、「江戸は改代町への/みどりをすぎる」という序盤の書き出しで、拡大されています。
 「叙述」が拡大され、引き伸ばされていると言えばよいでしょうか。
 それが荒川さんにとっての詩なのでしょうし、私もそれを詩だと思います。
 さて、では松本圭二の「青猫以降」を読んでみましょう。
 「ユリイカ」発表時のものと、詩集のものとは、かなり違う所があります。引用は、詩集の作品
からします。私は初出のもの、黒い線が活字の上から引かれてるものの方を好みます。
 この詩は明るいものではありません。暗いですが、暗さのなかで自分の内臓から発する血や肉の
なまあたたかさが実感されるような、そういう種類の優れた作品だと思います。
 おもな叙述として書かれるのは、本人の生の履歴のなかから紡ぎだされた、世界や自分のまわり
に悪態をつき、どことも知らぬ中規模都市で生活をする男性の物語です。
 それに、その男が書いたとも、「世界」という名の「悪役」が詩の中に侵入してきていきなりそ
こに書き付けたとも見える形で、別のフォントを使った基本は行変えの言葉がさしはさまれてゆき
ます。
 鮎川信夫は、吉本隆明の詩集の解説で、「反逆的モラル」という言葉を使っています。
 詩を書くことがヒロイックであったころの、今では想像もしにくいそれはひとつの態度です。
 もう何をしてもそれは反逆ではない。
 単なる自滅への道行きにすぎない。
 そのときになお詩を書こうとする作中の「男」に



 「おれはもう死ぬっちゅうのに、ろくな詩が書けん。」



 と言わせたあと、いきなり強調された別の字体で、



 「無声慟哭みたいなのを書いてみたいのう!」



 という一行が書かれます。
 言ってしまえばこの「青猫以後」という詩は「ろくな詩が書けない」ということのほんとうの意味を
読むものと書いている作者自身に呪法にも似た徹底した言葉で投げかけている詩だと思えます。
 さきに書いたように「現代詩」とは「特殊詩」です。
 しかし「特殊詩」などという名称はありえません。
 どのようにして「自分本人」の詩を書くか、ということと、自分の「生(もしくは死)」をときに危
うく、ときに堂々と探りながら実行していく、そういうひとたちの集まる所、と言えばいいのかも知れ
ないですね。
 長いですがもうしょうがない。
 私はパソコンの前にみかんを一個持って来ました。
 これを食べながら続きを書きます。
 もぐもぐ。
 もぐもぐもぐ。
 安川奈緒さんの詩へ移りましょう。



(つづく)

49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(第五回)

◇第五回目を書きました。


----------------------------------------------------------------------------



◇入門書は新しいものを買おう



 この文章は「語りかける」口調で私は書いています。
 そういう口調には、いいところも悪いところもあります。
 こういう口調が新鮮に響くとしたら、それはあなたが「一方的な言葉」というものに
どこかで疲れを感じているからかも知れません。
 短歌や俳句の棚には、必ず「作り方」「鑑賞」という種類の「入門書」が置いてあり
ます。
 歌人俳人は、長くやっている人でも、そういうものを買い求めたり、著者から送っ
ていただいたものを興味深く読んだりします。
 自分の名前や作品が引用されているか気になる、というのももちろんあるでしょう。
 しかし実際に読んでみると、おもしろいのです。
 もちろんそういうものを一冊も買わなくてもいいですよ。
 ウェブにも、詩歌関連のページは山のようにありますし、この文章(データ)もそ
のひとつです。
 入門書や解説書の中には、名作、と言われるものも多いです。
 そういうものは、長く出版社が本を出し続けてくれています。
 それでも私は一冊読むとしたら、その時点で一番新しいものがいいのではないか、と
考えます。
 それは、詩歌においては「出自」というものが、何かとても肝心なものとしてその人
のこころや続けていくことのよりどころとなる気がするからです。
 私は特に入門書マニアというわけでもないし、たくさんの本が人から送られてくると
いう種類の人間でもありません。
 たまに本屋で開いたり、さっきもいったようにおもしろいので、ときたま買って読む
くらいです。
 そうして見て来て思うのは、新しいものほど、どこかひりひりした感覚が、本や文章
のすみっこからやってくることです。
 この文の題、「49歳からはじめる」というのは、私が本屋で見た『50歳からはじめる
俳句・川柳・短歌の教科書』という本の題のパロディか、盗作のようなものです。
 ひとはどう思うかわかりませんが、私はよくつけてあるなあ、と感心しました。
 まず、一冊で「俳句」「川柳」「短歌」のことが「わかる」という感じがありますね。
 お得な感じがします。
 余計なものにお金を使いたくない。けれど贅沢も幸福のひとつではあります。
 「贅沢」という漢字もなんだか珍しく感じますね。今自分で見て思いました。
 題が説明的なところもいいと思います。
 「現実」というのは「人件費」のことだと、少し前から私は思っています。
 世界や社会の多くのものは、それを作ったり、維持したりすることにかかる人件費に
いったん置き換えられたあと、ひとの目に見えるものになっていると思うからです。
 身の回りには「説明」されないとわからないものが増えていると思います。
 それは「説明」にすごく「人件費」がかかるからではないでしょうか。
 そこで「スキル」という変な言葉が生まれました。
 「説明されないとわからないのはあなたのスキルが足らないからだ」という感じで使
われます。
 「デザイン」で説明しなくてもわかるようにしよう、という大きな流れもあります。
 すると今度は「センス」という言葉が現れます。
 「お金を入れたらこのボタンが点滅するでしょ。そしたらそれを押せばいいんですよ。
センスないなあ」という感じでしょうか。
 このごろよく売れる本というのは、一冊まるまる説明であることが多いようにも思え
ます。
 『国家の品格』というのは『国家の品格』について説明してあるし、『バカの壁』と
いうのは『バカの壁』について説明してある本です。
 ちょうどいいくらいの「説明」というのが、ちょうどいいくらいの値段で手に入ると
いうのが、気持ち良いのではないでしょうか。
 そういう意味で『50歳からはじめる俳句・川柳・短歌の教科書』という説明的な題は
とてもよいと私は思います。
 もちろん、ほかにもここ一年で出た俳句や短歌や詩の本は何冊かあります。
 さきに「出自」という言葉を出しました。
 詩歌の世界は、はやりすたりのすごくある世界だと私は思っています。
 もうちょっとおおげさにいうと「詩歌」とは「詩歌のはやりすたり」のことだ、とも
言えます。
 しかしはやらせるのもすたらせるのも、つまりは「その当時のひとびと」によります。
 どんなに古いものでも、それを引き出してきて「いま」へ向かって語るのは、その当
時の「現在」の人です。
 まだ世の中は、「現代」という言葉以外、このいまを含む、時代をあらわす言葉や基
本の手触り感を、生み出してはいません。
 (俳人有馬朗人さんは、ある俳句の講演の中で、「現代というのはだいたい2050年
くらいまでのこと」として使用する、という意味のことを話していました。こういう形
で「現代」を定めようとする使い方は珍しく思ったので、ここにあげておきます。)
 「ゼロ年代」という言葉がようやく生まれた感じもしますが、『クローズアップゼロ
年代』という番組名は、あの番組にはそぐいませんね。
 「出自」というのは、たぶんその人が「はじまり」に受けたいろんなものや、空気が、
どことはいえないけれど自分というものの中に、しっかり残ったもののことです。
 30年ほど詩歌を見てきて思うのは、ああ、この人はなんだか作品も考え方も新しいな
と思う人でも、その人の「はじまり」の空気や考え方を、よく見ると強く残しているな
あ、と感じられることです。
 新しい入門書のいいところのひとつに、詩歌を続けていくことの「具体的」な方法が
より多く書かれている気がするところです。
 私の目にした一番古い入門・教科書的なもののひとつは、大正三年十一月二十八日が
初版の『婦人文庫』というシリーズの『歌集』という巻です。
 この巻末に50ページほどを使って「和歌作法」というものが載っています。
 文章もおもしろいのですが、なんといっても「書式」の項目が一番おもしろい。
 少し引用します。


 「  一、詠草


   和歌の書式には詠草、懐紙、短冊色紙あり。
   詠草には竪詠草と折詠草との二つあり。
   竪詠草は儀式に用ひ、奉書、杉原、西の内などを
   竪二つに折りたるを正式とす。」



 ルビは省略しました。「竪詠草」は「たてえいそう」、「折詠草」は「おりえいそう」
と読みます。このあと、名はどこに書き、行はどう書くかがこと細かに記されています。
 「短冊」の書き方も、女性と男性では違い、「古(いにしえ)の法」では女性は裏に
名前を書く、男性は表というようなことも書いた上で、いまは普通に句の終わりの方に
書くようになったと書いてあります。
 たった一冊の本でその当時はこれがすべてだったとはいいませんしそういうものでも
ないでしょう。
 ただこの当時、まだ一部では「短歌ー和歌」は印刷するという前提のものでもなく、
「師」に見せるものとしてまずはあったし、現在の様々な歌会でも使用される詠草とい
う言葉はやはりここから来ていると思ったりします。
(句会の場合の「雑詠」についてはまた書きます)
 対して現在の入門書では、たぶんどの種類の詩型でもインターネット云々という項目
が必ず入るのではないでしょうか。
 それだけではなく、現在においてその著者が詩歌に関わることの意味や価値を、わか
りやすい言葉で懸命に語ろうとしていると私は思えます。
 この「いま」において。
 これが私が入門書は新しいもののほうがいい、という理由です。
 うーん、長い項目でしたねえ。ラジオでもつけますか。

mixi日記再掲載 短歌 「秋雨の中で」

◇次に何を書こうかを考えてるうちに一日が終わってしまいました・・・。


◇ということでmixiから短歌をのせておきます。
 ツイッターには更新とか書きません。




----------------------------------------------------------------------------




2010年11月23日02:24



◇ 秋雨の中で ◇

      正岡豊



(なにもないときみはいうけどこのぼくをいやすちからがきみにあるのだ)



         ☆




秋雨の中でメールを打つ指に天がたらしてくる辛子色


そのことがわからなかったぼくにさえ霧のピアノは弾くロッシーニ


きみの住む耳の都を遠ざかる列車の通りすがりの汽笛


         ☆

 列車の中で打つメールは
 それはひとつの警笛だ
 人生が踏切にかかるときの
 遠い雷鳴が呼び覚ます記憶だ
 現在は過去を変えないが
 塗り替えることはできるし
 事実きみもわたしも
 そうしてきたではないか
 今夜だって私が酒場でいった酒の名を
 シルバーの首飾りをつけた女性は
 あざやかに復唱してみせた
 世界はそんな風に少しづつ変わる
 夕暮れが夜になるのは一瞬だが
 世界が音楽になるのは遠い未来だし
 子供たちがラムレーズンになるのは
 航法が激変する先の世のことだ
 ねえ
 ぼくはそこからきて
 いまきみに
 「好きだよ」という
 言葉を言おうとしてるんだ
 不安やおののきは
 その日まで消えないが
 消えなくても消えても
 洗濯機は買いにいこう
 ラジオドラマに二人でなろう
 ぼくらのはざまの十分の一世紀は
 たとえればアメリカンズカップの双胴船みたいなものだ
 海に浮かんでは消えていく
 それぞれの国の非望のようなものだ
 むらさきの夢は疲弊しきった船体とともに
 粉々に打ち砕かれたとしても
 空はみどりに
 十字軍は遊星に
 あざやかなシロホンの音色とともに
 あのカイゼルスゥエルト学園の校舎を
 打ち立てることだろう
 今夜この惑星に降るすべての雨はきみのものだと
 シロナガスクジラは海の中で歌う
 ぼくはそれに唱和して
 きみに向け歌を歌う
 きみの背中を抱きしめた指が
 夜の中で樅の木になる

        ☆


75センチ この世のものとも思えない仕草であなたがあやまった距離


誰にでもそれはあるかも知れないが星の匂いのレールモントフ


本当だ本当だ本当なのだクチナシなのだ夕顔なのだ


ねえ、笑おう、詩学大全210頁で巻いたタバコをくわえ


ミツバチはささやいたりはしないから鎖骨の海で泳がす人魚


「愛だ」「嘘」「愛だってば」「嘘だって」「ほら」「え」「ほら」「あ」月の光が

              ☆


きみがまた夢をみているうちに書く歌の香りのキリマンジャロ


                          秋雨の中で 了

49歳からはじめる短歌・俳句・川柳・連句・現代詩入門(第三回)(

◇第四回目を書きました。


◇お前はキャントゥーズを読んだことあんのか?
 とか言われそうだなあ・・・。
 ボリビアの詩人タマーラとかみなさん知ってますか?
 ボリビアではどれくらい読まれてるんでしょうねえ。
 詩歌はわからないことだらけですねえ。


----------------------------------------------------------------------------




◇身銭を切ろう、足を使おう



 ある日テレビをつけたらニュース番組をやっていました。
 特集のコーナーみたいなものがあり、失業した青年が、次の職がなかなか見つからない
といったたぐいのものでした。もちろんやらせかどうかなどは私は知りません。
 ただ驚いたことがひとつありました。
 履歴書や面接の話を取材の人としているうちに、その青年がこういう本を買っていると
いって『わかりやすい履歴書の書き方』といった種類の本を、押入れから一抱えほど出し
て来たところです。
 二冊や三冊ではありません。山のようにというほどでもないですが、ええ、そんな本い
っぱい買ってどうするの、と脳内ツッコミをいれてしまいました。
 もちろん古本で買ったのかも知れないし、誰かからのもらいものかも知れません。
 ただハウツーものの強さ、というのを見せつけられた気にはなりました。
 この文章は、まえがきにも書いたように、ハウツー本をめざしています。
 読んだひとが、それぞれの詩のジャンルを「楽しめる」ようになったり「うまく」なっ
たりするようなことを書いていきたいのです。
 ただ、そんなことはいっても、これは精神世界の本ではありません。
 「歌がうまくなるには、在原業平を守護霊に持つことです」というようなことはいくら
なんでも書きません。
 話は飛びますが、キングズレイ・エイミスの『地獄の新地図』という本に紹介されてい
る海外SF小説に、蟻が巨大化して人を襲うというものが紹介してあります。
 どうして蟻が巨大化したかというと、蟻に馬の霊が入ったので、馬の大きさになったと
いう設定でした。
 それSFかよ!
 えーと。
 「楽しむ」にしても「うまく」なるにしても、私はあるところまでは何をするにもそん
なに変わらないのではないかと思っています。
 たとえば仕事においても「人に好かれる」ということは、いろんな場所で大変大事なこ
とです。
 小田嶋隆さんの本に『もっと地雷を踏む勇気 わが炎上の日々』という大変おもしろい
本があります。ウエブサイトで書かれたコラムをまとめたものですが、私は本を買って通
読しました。
 この本の中に、小田嶋さんが、東京の目黒の街で出会ったちょっとした事件が書かれて
います。
 目黒の住宅街のお店で待ち合わせをしている。時間がもうない。誰かにきく以外にない。
道を通っている女の人に尋ねる。
 声をかけた瞬間、逃げ出された!
 次におばさんに声をかけたら、「急ぐので・・・」と言われてやっぱり去られた!
 やっと店について、待ち合わせの相手にそれをいうと、何はともあれ当面の危険を回避
するのは当然ですよ、という答えがかえってきたというもの。
 しかし私はこれを読んで少し思いました。
 小田嶋さんはどれくらい今まで歩いていて逆に人に道をきかれたことがあるのだろうか、
と。
 うーん、また長くなりました。
 休憩しましょう。
 さて。
 短歌にしても詩にしても、私は、「500年も1000年も星の数のようなひとたちがいじくり
まわして来て、結局たいしたものは出来ていない」くらいの気持ちで関わったほうがいいと
思っています。
 えらそうにしろといっているのではありません。
 ただ、これから先の詩や歌のほうが遥かに歴史としては長くなるとそう考えたほうがいい
のではないかと思っているのです。
 なにか、過去のものを読んだり探したりしなくていいといってるのでもないですよ。
 こまかく見ていくと、詩歌の歴史というのはそれなりに残酷なものだと私は思います。
 はやりすたりもすごくありますし、同時代の目ではどうしても追い切れないものも少なく
ありません。
 自分が生きているのはいまなのだから、いまというものがどうしてもものの見方の中心に
なってしまいます。
 そこは、もう少し、こころや、からだを、たまった「現在」という乳酸を、もみほぐした
ほうがいいんじゃないでしょうか。
 「身銭を切れ、足を使え」というのは、教育や仕事のことなどでよく使われる言葉です。
 料亭などで使われる、料理に添えるきれいなもみじの葉や、花などがありますね。
 九州のどこかの村で、ああいうものを専門に、村をあげて生産流通させてうまくいってる
ところがあると、いつかの岩波の「世界」に記事が載っていました。
 その道筋を作った、役場か農協関係の男の方は、何をどう作れば自分の村がうまくいくか
を探るためにとびまわり、十年以上も給料を一銭も家に入れなかったそうです。
 私の家は・・・間違いなく・・・追い出されますね、それは。
 でも「身銭を切る」−本を買って読む、イベントにゆく、会費を払うようなグループに所
属する、自分で本を作ってみる、雑誌を作ってみる、エトセトラエトセトラ−はとても大事
なことです。
 「足を使う」−おもしろそうな人にあってみる、失礼や迷惑でない形で、話をきこうとす
る、読んでもらおうとする、同好の士を集める、いろいろさまざま−もとてもいいことです。
 ほとんど詩の話はなんにもしていませんが、こういうことも書いておきます。



----------------------------------------------------------------------------







◇第三回を書きました。



◇テンションが下がってきてる気もしますし、実際に連句の本を出したり
 やっておられる方には反感を買うかも知れませんが、こう書く以外に書けませんでした。



連句関連のネットのページはたくさんあるので、そちらをご参照のほどを。
 あと詩のほうで行われる「連詩」というものはここではあまり意識していません。
 うーん。まあそういうことです。



----------------------------------------------------------------------------


◇「連句」についてお話します


 この小見出しのもとでは「連句」について説明したいと思います。
 ここでも「連句」について、私なりの定義をしておきましょう。
 こうです。
 「五七五と七七の句を、みんなでつけあっていきながら、ある程度の長さのものを
作る、いま行われているもの以上に、ひょっとしたら何かあるんじゃないかと思う、
詩の形式」というのがそれです。
 「連句」や「連歌」には基本の三十六をつなげる「歌仙」というかたちがあり、ま
たさまざまな「定座」「式目」といったルールもあります。さらに、三十六という数
も含めて。もっと自由な形のものもいろいろ作られています。しかしそのことについ
て説明すると、なぜかとても退屈な話になります。
 連句をやってる人は、なぜやっているのかというと、それは「連句が好きだから」
です。これは実際、その連句をやっている人たちの中に入ってみるとよくわかります。
 そして、楽しそうにやっています。
 ただ私としては、「これ以上にひょっとしたら何かあるのではないか」と思えてな
らないのです。
 これが、短歌や俳句と連句を並べて説明しようとする理由です。
 ひとつの小説を複数の人で、一人の筆名で書く、というのはそれほど珍しくありま
せん。岡島二人さんがそうでしたね。属十三さんという人もいました。脚本家の木皿
泉さんも、夫婦で一人のお名前ですね。
 「連句」には独りでつけてゆく「独吟」という方法もありますが、基本は何人もの
人が「捌き手」と呼ばれるひとを取りまとめ役としながら、共にひとつのものを巻い
てゆく形式です。
 こう書いただけで、はあ、なんか優雅そうなもんだねえ、とあなたが思ったとした
ら、それはあなたが、「個人」なり「人格」なりで生活や趣味の端々まで、応対して
いることに多少疲れているからかも知れません。
 日本は「名前の国」です。
 「名前がない」と人間ではありません。
 一時的に「名前がない」ことの自由を楽しむ人々はいます。
 インターネットの一部の世界です。
 「名前」をなくさなければ単純に、本当のことや自分の気持ちを表に出せない、あ
るいはとても出しにくい世界というのをみんなで作ってきました。
 どうしてそうなったか。
 そういう世界を作るのは、楽しかったからではないでしょうか。
 ここは意見が別れるところかも知れません。
 またちょっとお茶でも入れましょうか。
 加賀棒茶というお茶、とてもおいしいですよ。
 ではもう少し。
 『日本漢詩全集』という、とても分厚い全集があります。
 私の高校の図書館にもあったぐらいですから、そう珍しくはないのかも。
 最後の巻には、現代の漢詩が載せられていて、その中に広島の原爆投下のことを書
いた漢詩が載っています。五言七言という形式を破った、長いものではないですが、
破る必要が確かに感じられる、すぐれたものだったと思います。
 しかしそういうものはなかなか「流通」するものではありません。
 「流通」するためにはまた別の「何かの力」がいるのでしょう。
 「連句」というものには、どこかにまだその「何かの力」が隠れているのではない
でしょうか。
 別所真紀子さんの筆による『古松新濤 昭和の俳諧師 清水瓢座』には、和漢連句
というこの本を読むまで私が見たこともない様式の俳諧も載っています。
 しかし私には現在のテレビでのトーク番組と言われるものに、当時の俳諧の言葉の
息遣いがひょっとしたらあるのではないか、と考えたりするのですが・・・。



            正岡