「繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史」マット・リドレー(著) 柴田 裕之, 大田 直子, 鍛原 多惠子(訳)★★★★☆

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(上)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(下)

繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史(下)

おもしろかったよ。俺にとっては、だけど。心配性の人にとっては、どうだろうねえ。本当はそういう人にこそ読んでほしいような本だと思うけど。
読みはじめたらすぐに、「おおこれだ!(これこそまさに俺が言いたかったこと)」と思ったんだ。だから、もう、それからあとは読む必要なかったのかもね。
そして、考えてみれば、この本を読もうと思ったのは、そういう内容であるということをある程度ふまえてのことだろうから、「おおこれだ」と思うのも当然といえば当然だ。
どこでこの本を知ったのかまるで思い出せない。グレゴリー・クラークがよく引用されているので、このまえ読んだ「10万年の世界経済史」(「10万年の世界経済史」グレゴリー・クラーク(著)久保恵美子(訳)★★☆☆☆ - 主夫の生活)の参考文献で見たのかな?とも思ったが、まさにそちらの本がこちらの参考文献にあげられているので、それはないだろう。出版年もそちらのほうが古い(原書2007年、訳本2009年)から、やはりありえない。そちらの本のうしろの方の出版社の広告ページに「近日発売。乞うご期待!」とか宣伝がでてた可能性はないとは言えないけど。
まあ、そんなことはいいや。
むかしむかし、たぶん高校生のころ、リーダーズ・ダイジェスト(懐かしい…)でアイザック・アシモフの、たしか「もはや自然には帰れない」と題された文章を読んだことがある。俺は、ずいぶんそれに影響されてきたようだ。いったいどんな本のダイジェストだったのか、ちょっと検索してみたがまるでわからない。ひょっとして、書き下ろしだったのかもしれない(リーダーズ・ダイジェストに書き下ろしがあったのかどうかも知らないが)。
今まで世界はどんどんよくなってきた、とは思っていたが、今もよくなっている、とか、これからもよくなっていくだろう、ということに関しては、自信が持てないでいた。でも、この本を読んで、少しはそう思えるようになってきたような気がする。
でも、「今」に関しては自分自身、その当事者なんで、「よくなっている」とか「悪くなっている」とか、そんな傍観者みたいなこと言っとらずに(よくなっている/悪くなっているにかかわらず)、よくしていくためにできるだけのことはしていくべきだろう。「これから」については、われわれムスリムといたしましては、インシャ・アッラーなんでとやかく言ってはいけないのだ。ということは、「悪くなっていく」と考えることも、当然!すべきではないのだ。
著者は原発にかなりの信頼をおいているようだが、今回のような事故をどうとらえるのだろう。考え方をかえるのだろうか?放射能で50万人死んでも、電力不足で100万人死ぬよりはいい、ということなのかな?数字で差し引きするのは簡単だけど、50万の死があれば50万の悲しみがあるわけで(喜ぶ人もいるとは思う)、100万人死ねばやはり100万の悲しみがるわけで(やはり喜ぶ人はいると思う)、それならやっぱり悲しみの少ないほうがいいということなのだろうか。
いままで、芽が出たものの花の咲かなかった技術なんて星の数ほどあるだろう。PDとか、Lカセットとか、ドクター中松ジャンピングシューズとか。原発も、そういう技術の仲間なのかもしれない。どんなに頑張ってもものにならない技術。負け続けるギャンブラー。いままで注ぎ込んだコストが大きすぎて、もうやめられない。
一世を風靡したのに消えていった技術だって数えきれない。フロッピーディスクとか、蒸気機関車とか、ハンドアックスとか。技術なんて、いつかは消えていくものだ。原発ももうそろそろ潮時か?まあ、でも、それはよりよい技術が出てきたら自然とそうなる、ということで、原発に関しては、まだその時期ではないかもね。後継がまだ育ってないから。CO2固定の技術が出てきたら、また火力も復活ってことになるのかもしれないけど。
いずれにせよ、革命的にやめちゃうってのは避けたほうがいいだろうね。きっとたくさんの人が死ぬことになるから。総発電量を減らすにしても、少しずつ少しずつわからんくらいに少しずつやってかんと。余談だけど、煙草だってそうやって少しずつ値上げしてったら、気づいたときには1箱3000円になっとったわ、なんてことにならんかしら。
「交換と専門化」が、この本のキーワードのようだ。血族間での交換は人間以外の哺乳類にも見られる。アリのような社会的昆虫なんかでは、大規模な「交換と専門化」がおこなわれているが、ありはほとんど家族みたいなもんなんで、それはそれで納得できる。人間の場合、非血族間でも交換がおこなわれる(そしてそれが繁栄のもととなった)。だが、それがなぜかは謎らしい。
そこで、ふと思いついた。エクソダス(出アフリカ)の際、ほんの数百人だったとすれば、そりゃまあ、ほとんど親戚みたいなもんだった(というのは大げさでも遺伝的には近かっただろう)。なので、その集団内では頻繁に交換がおこなわれ、人数が増えていってもその習慣がそのまま引き継がれていった。どお?