「総じてもって存知せざるなり」の親鸞聖人の言葉


 先日、親鸞会のテレビ座談会で、歎異抄第2章の

「念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり」

“念仏は浄土に生まれる因なのか、地獄に堕つる業なのか、まったくもって親鸞、知るところではない”

のところについて詳しく高森先生から教えていただきました。


歎異抄をひらく』には、

「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ〝知らん〟とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」
と嘯いているのとは、知らんは知らんでも、〝知らん〟の意味が、まるっきり反対なのだ。
「念仏のみぞまことにておわします」
 有名な『歎異抄』の言葉もある。
「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念の最も簡明な表明だったと言えよう。

と書かれてあります。


「知らん」の3文字の深さを、この時、くわしく聞かせていただきました。

 参加された皆さんの声を聞いてみましょう。

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親鸞聖人が「知らん」とおっしゃったお気持ちを聞かせて頂きました。念仏を謗る日蓮に対する怒り、関東の同行に対してのお気持ち、二種深信の教えと、「知らん」には大変な意味があると知りました。


親鸞聖人の信心を深く理解しなければ、『知らん』の3文字は到底理解することができないことが、改めて知らされました。


・機法二種一具の深信がわからねば、親鸞聖人の教えは理解できないと聞かせて頂きました。阿弥陀仏に救い摂られた人は、「堕ちるに間違いなし」と「助かるに間違いなし」が、死ぬまで同時にあることを知りました。


・「信ずる」と聞けば、「疑いがないこと」と思いますが、疑いがあるから信じなければならないことを教えていただきました。二種深信の「深信」とは、「深く信ずる」ことではなくて、疑いようもなくハッキリしていること、知っていることだと知りました。親鸞聖人、蓮如上人は、真知(まことにしんぬ)、明知(あきらかにしられたり)、と書いておられることもわかりました。


・テレビ座談会に参詣しました。二種深信を知らねば、教行信証歎異抄など親鸞聖人のお言葉は理解することはできないとお聞きしました。


・機の深信で本当の自分の過去、現在、未来の三世がハッキリ分かると教えていただきました。