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日々の糧としての写真 A LIFE LIVED IN FEAR IS A LIFE HALF LIVED

HIRANOYA 平野屋 コンピューティング

2014-12-31

田中克彦先生の『従軍慰安婦と靖国神社』を読んだ。

僕は田中克彦先生の大ファンである。

最初に読んだのは大学の頃で、「ことばと国家」だった。

その後、「言語からみた民族と国家」「チョムスキー」「スターリン言語学精読」「言語学とはなにか」「言葉の差別」「法廷にたつ言語」他(後は本棚に見当たらない….)と読んだ。

その後、僕はスティーブン・ピンカーさんと出会い、「言語学」はその後、様々なことを考える原動力となった。



ここ数日僕は「阿賀野高校生の自殺」の事を考えていて、言語が『コミュニティを作り出す私達の本能』といかに関わっているのかということを考えていた。

言語学を通して「ヒト」と言う生き物を見たらどう見えるかということを考えていた。

言語学というものを学ぶ、出発点だった先生の最新作を読むことはスリリングな体験だった。

チョムスキーは政治的な発言をたくさんしているが、人として当たり前のことだと言っている。

偉い学者先生では無く、(社会に生きる)人として言葉を発するべきだと言っている。






この本は、「随筆」という形を取り、先生の学問を生み出したバックボーンが書かれている。

また、学問の枠を飛び出して人間としての言葉を聞くことが出来る。


この本に対しては、あまりにひどい批判がネットには散見する。

しかし、どんなに文字をコピペしても先生の言葉は薄まりはしない。



言語学は、民衆の「知」であり、権力が自分を正当化するための「歴史」の対局にあるということを書いている。

そして、「民衆が愚鈍だ」と断ずる学者を批判する。

民衆史、民俗学、文化人類学の視点と重なる。


二宮尊徳のようになりなさいと言われてい来た愛国少年は、「(二宮尊徳のように)履くものもない貧しさが戦争を生むのだ」と実感する。

日本人ではなく「日本語人」と呼ぶことが好きだと語る。

日本の地図は漢字で地名を表記するがもともと地元で呼んでいた名前が分からないと嘆く。


国家や行政の区分などより、はるか昔(論理的に)から自然(ことば)はそこに有り、私達は存在している。

僕の今の関心から言えばコミュニティと言葉の関係がもっと知りたい。







言葉のコントロールを通じて、他国を侵略し、自由を抑圧してきた歴史を研究なさってきた先生の言葉は叡智にあふれている。

言語という見方を通じて、個人と国家、地域と国家、の葛藤を研究してきた先生の言葉は懐かしく、新鮮だ。





僕の父と母は1930年生まれなので先生とほぼ同年代である。

国を挙げて戦争に進んでいた時代を行きた最後の生き残りである。

父母の言葉をいつも聞いている僕には先生の書いていることは実によくわかる。

直接に戦争を体験している世代がいなくなり、同時に一部の人間は国家による教育とマスコミの言葉に喜んでいる。

先生は、昨今の政治の風潮が戦争に向かっていることを本当に憂いているのだろう。

くだらん連中は勝手なことを書くだろうが、もう少し私達に言葉を残して下さい。

必ず引き継ぎます。



2014年最後に読んだ一冊である。



先生のまだ読んでいない本を注文した。



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