庭を眺める 梅、井戸、紅葉

母は庭を眺めるのが好きだった。
2015年9月、国体の出張前に庭を眺めている母の隣に座ってたわいもない話をした事を覚えている。
その年の5-6月には精神安定剤の過剰摂取からもうダメかと思ったが、なんとか持ち直して少し落ち着いていた。
母の心臓は疲れ、すでに庭の草取りもままならぬほどではあった。

3ヶ月後に亡くなる原因だった心不全の兆候はあった様な気がする。
すでに病院に行きたいとは言わなくなっていた。
あれだけ、病院が好きだった母が、もう行きたいとは言わなくなっていた。

少し話してはケラケラ笑い、また少し話しては思いだす事を話していた。
みなたわいもない話であった。

中毒からの回復期は、諍いとなる事が多かった母との会話であったが、ようやく落ち着き、穏やかであった。

「もう行くよ」と言って立ち上がろうとすると、「もうすこしいいがね」と言われ、庭の鯉を眺めていた。


納骨の朝の庭である。あの時と同じ穏やかな晴天であった。

10月にもう一回嵐が来るのだが、この時は穏やかな午後であった。






庭をいじる事は楽しいものだ。
様々な思い出が思い出され、草を取り、鉢の植木を地に下ろす。
古くなった枝を見ては昔を懐かしみ、新しく伸びる枝に驚く。

 
この梅は家ができた時からある、3本の実生の親である。3つ又になっているのだが、すでに腐り、触るとゆさゆさと揺れるのだが、梅はたくさん実をつけている。

 

夕食の時に、この梅の話を父とした。あんなに折れそうなのに、「実がなるんだからなあ」と感慨深げである。
そのあとに、「俺の葬式の費用は年金から積み立てておいてくれよ」という。





昨日の日記に書いた紅葉の跡に実生の椿を植えた。庭にはたくさんの実生の椿があるのだが、親の椿はすでにない。そういうものだ。

 

井戸と言っているが実際は、セメントで固めて、水道の水を溢れる様に流す仕掛けであった。
底のセメントをハツって土を入れて、離れたところにある紅葉を持ってこようかと思っている。

なんとも、感慨である。





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