自殺を考える

命のSOSとか社会(行政)が「自殺」を助けようとする試みの根底に流れる考え方には違和感がある。




僕は何度も生きてはいられないと思い、人生と向き合った。
事業に失敗してどうにもならなかったことも有る、しかし、誰も気が付かなかった。

気がついてもらうということは、誰かに助けてもらうとか、大きく道を外れることのエクスキューズ(言い訳)である。
自殺して生命保険の金で信頼を買うか、自己破産して不便な人生を進むかの天秤に測り、悩むのである。


2015年糖尿病の放置から眼底網膜症を指摘され、治療を行わなければ失明すると言われた。
その時の体験が「幸運な病」と言う本を産んだが、もし、眼科医の言うとおりに失明したら自殺する決意だった。

2017年海に入って、戻らないつもりだった。自殺の予定だった。
今考えると、この時の決心は、逃避ではない。
攻撃なのである。
母と僕を傷つけた連中を殺す訳にはいかないから、自分が死んで、奴らを思い切り傷つけようと思ったのである。
しかし、ぼくが死んでも、あいつらは鼻で笑って大喜びだろうなと思い、止めた。







多くのテロリストは生きて捕まることはない。
世の中に不満があり、自分の道に未来がない時に人は命を捨てる。

子供に自殺をやめさせるのには、「お前が死んでも、あいつらは鼻で笑って、知らん顔だよ」っと教えることが一番だと思う。

連中は、神妙に頭下げても、決して本気で苦しみはしない。
マニュアル通りの対応をしているのだから、自分は悪くないと信じている。
決して殺人罪に問われることはない。
運が悪いと思うのだよ。自殺した君が、精神異常だったんんだと思っている。



「阿賀野高校生徒の自殺を考える。」の一連のブログに詳しい。
この頃、中学校でのいじめに関して色々と悩んでいた。







親に復讐するために自殺するのも止めたほうが良い。
「一生懸命勉強して、東大卒業して公務員なって、年収5000万円になりなさい」と命令するような親は自分の道具としてしか君を見ていないんだ。
「あなたの将来を心配しているのよ」などと言われるだろうが、心配なのは自分の老後なんだよ。
安心するが良い、これから長く生きれば親に復讐する機会はなんどでも有る。





世界は広い、「自分の目に入る狭い範囲での財の争奪戦」に参加しても苦しい人生を送るだけだよ。
一流会社に入社して、苦しんで自殺を選んだ人のこと考えると胸が痛い。
追い詰められて死んだと思えるかもしれないけど、僕は、ずーっと走らせられて辿り着いた所が自分お求めていた場所でない怒りだとおもう。

なんで若者は自分探しをする?
「それまでの生き方が、自分の生き方でないからだ」と思わないかい。





「勝ち組」「負け組」などというレッテルは、君を不幸にするだけだ。
「長い人生」というが、過ぎてしまえばあっという間だ、決して長くはない。



僕は最初に入った出版社を半年でクビになった。
アルバイトニュースをコンビニで立ち読みして、電話番号をメモして電話しては求職した。
東京にいる他道は無いと思っていた。
やがて、ソフトの技術を覚え、新潟に帰る。


僕はずーっと本を書きたかった。
その夢が実現するとは面白いものだ。
母に見せたかった。


幸運な病 糖尿病とおつきあい

幸運な病 糖尿病とおつきあい


今思う、死なないでよかった。
愚かでよかった。
母は、僕のあまりのできの悪さに自分の思い道理にすることを諦めたが、決して見放しはしなかった。
長く迷惑をかけた。
しかし、運命はわからない。
33歳でこの土地に帰ってきて、ともに生きることが出来た。

そして、「年老いて姿の変わった母」とまた出会えた。

それは、他人から見れば「汚いババア」であり「電話一本で金を送ってくる便利な年金ATM」なのだろう。
僕にとっては、本当に心配してくれた家族であり、これからの未来(老後)を導いてくれる菩薩様なのだ。

この航海の果てにどこに行くかはわからないけど、僕には母という目的地で微笑む菩薩様がいて、毎日一緒に食事をして「美味しい美味しい」と言ってくれる父という羅針盤が有る。

そして、僕の航海をを子供達に伝えたい。
苦しんでいる誰かと「この価値」を共有したい。

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