2015年8月の遺言

2015年8月というと、本を書こうと思い始めていた頃だった。
間違えていた、本を書こうと思ったのは2016年5月である。

2015年8月は、生きる希望もなく、本当に今の食事が糖尿病の合併症を収めてくれるのかも分からなくて、不安で孤独だった。

その頃、未来に悩む娘に手紙を書いた。
未来に悩むことは子供の特権ではない。




ブログにアップする事にした。



娘への手紙 



妻には、まるで遺言だねと笑われた。


あくまで僕の体験や見聞なので、そのつもりで読んでもらいたい。

君の学校に現役の大学生が来て、大学の生活の話をしたそうだね。
「大学が人生の夏休みで、大いにエンジョイしている」ということを話していったそうだね。

そのことを伝聞で聞いて、とても憂鬱になった。

まるで大学に入れば、その後は夢の様な人生が待っているような話じゃないか。

高校に呼んで大学の体験を語らせるならば、失敗した人を呼ぶべきだと思わないか?
なぜ、就活で、職がなくて途方に暮れている人を呼んでで話させないのだ?
なぜ、4年間遊びほうけた結果ニートしているやつを呼ばないんだ。
なぜ、サークルで頑張ったと言って、入社したけど営業で外回りー>地方転勤の人間を呼ばないのだ。

今一般大学に入った男子生徒は、80%が営業職に就くと言われている。
また、非正規雇用も多い。
結婚しても共稼ぎで、朝から晩まで働かなければならない。
君の周りの友人を見てご覧。

学校の先生や、公務員は少しはマシだけど、10年後はそうは行かない。

それは専門学校にしても同じことだ。

2-30年前(僕の時代)は、薬剤師の国家資格がとてももてはやされた。
今は薬剤師が多すぎて国家資格をとっても60%は職がない。
学校の先生は人生を教えることは出来ない。
親たちは大学への進学か就職までの責任しか無いと思っている。

学校の先生は、卒業するまでのパートタイムなアドバイザーでしかない。
そしてそのアドバイスは大学に入れたら、終わりなのさ。
多くの親や、教師の中学校、高校の進路指導は上の学校にいくところまでと考えている。

学校の先生も、親も、君の人生についてのアドバイスは出来ない。
それは僕も同じ、教師と大きく違うことは、、関係が終わらないというところだ。
親と子は、どんなに離れていても、共に生きなければならないのだ。

確かに、先生の『思い出や恨みつらみ』は残るだろうが彼らは遠くに行ってしまう。そして自分が自分になる過程で一番大きな影響を与える。
親子は、何度も喧嘩して、否定しあう。そして、いつか自分に子供が出来た時に、同じ道を通っていることを知るのである。

そして僕は、僕の体験は僕だけのものでしかない事を知っている。






君たちの直面していく社会ってやつは、猛烈にクソッタレで、憂鬱で、不公平に満ちているものなのだということを忘れないでほしい





ずるくて、ゴマすりが上手い奴ばかり上に行く。
上司は人の手柄を横取りする。
自分より優秀な人間は潰す、飛ばす、やめさせる。
社長は分かっていると思ったら、一番馬鹿だった。
セクハラや、体が狙いの蛇のような男たち。
何とか結婚して楽な人生を送りたい女達。
騙し騙され、自分が良ければそれでいい。
親切そうに見えても、自分に都合よく新入社員を使おうとする。

憂鬱になる。

僕が人生の辛いことに直面して、心折れそうになった時に、折れなかったのは、大学時代に自分を信じて勉強し続けたからだと思っている。

大学は、人生の夏休みでも、いい子いい子してくれるサークルの先輩探す所でも、人生経験とか行ってバイトして遊ぶ金稼ぐところでもないんだ。
卒業した後の50年間をどう生きるかを考えるところなんだ。









よく言われる「自分を見つけ出す」ってどいういことなんだろう。

君たちは、机に座って、学校の先生のいうことを覚える。
そしてそれを試験で答える。
どのくらい、間違えないで答えられたかによって「褒められ」「叱られる」
これを「銀行型学習」という。
そんな勉強を続けてきた子供達は「自分は親や教師の求めるものが入っている入れ物」としか思えないのさ。

ところが、大学では、自分の問題として自分なりの解決を求められる。
正解は用意されていないんだ。(人生と同じでね)

突然そんな所に放り出されたらどうしていいかわからなくなるのが当たり前なのさ。

【少し僕の体験を書こう。】

僕は人生で16回の転職をしている。
今はソフト会社の社長だが、幾つもの会社を転々とした。

私は、いつも話しているようにサークル活動には加わらなかった。
浪人している頃に色々と考えていたので、そのためかもしれない。
色々なことを大学時代学んだ。
ゼミの先生とも出会って、とても素晴らしい体験だった。

大学では、教職課程をとって、教育実習にも行った。
結局教師にはなれなかったが......今では、良かったと思える。
教員採用試験に落ちた通知が来たのは8月位だったと思う。

もう一つの希望はジャーナリストになりたかった。
しかし、入ったが大学からはとてもじゃないけど大きな出版社には入れなかった。
大学4年の9月くらいから沢山の編集プロダクションを回って、入社試験を受けた。
結局、年を越えて1月になっても決まらなくて、周りの友人は、就職がみな決まっていった。
その頃の絶望感は筆舌に尽くしがたいものがあった。

結局、東京に住んでいた叔父さんのコネで、Sと言う出版会社に入ることができた。
しかし、半年で首になった。
今でもその時の失敗はよく分かる。

その後、Sブックスと言う出版会社で3ヶ月位バイトして、日本N新聞と言う新聞会社で3ヶ月バイトして、6帖一間の風呂のないアパート(45,000円/月)で暮らしていた。


そして、Mと言う不動産会社のグループ会社に入ることができた。
入社の面接で、「日曜は休みです」と言われたのだけど、それが、週休1日で祝祭日も出勤だったと言うことに気がついたのは入社した後だった。

編集者としての入社だったが、採用してくれた部長は営業をさせるつもりだったと、あとで知った。
編集と言っても不動産広告誌の原稿をもらってきて、雑誌を作る仕事だった。

営業もさせられた。
実は今考えると、この時代の修行が一番ためになった。

飛び込み営業は辛い仕事だ。呼ばれてもいない所に「こんにちは」と入っていって、売りたいものの説明をする。
聞いてくれることなどない。
とっとと返ってくれって、毎日言われ続けるんだよ。

売上が上がらなかったら、会社では給料泥棒と言われる。(売上がなかったら超安い給料だ、そして簡単に売上は上がらない)

17:30になっても帰れないんだ、部長が帰るまで帰っちゃいけない決まりになっている。
部長が帰るのは、大体19:30分くらいかなあ。
もちろん残業代はつかないんだよ。

朝は7時前に会社に行って、掃除をするのさ、もちろん就業は8:30の朝礼開始からだけど、7時前に会社にいないと遅刻になるのだよ。

一回遅刻すると、夏のボーナスの皆勤手当(10万円)が消える。
月一回の全社朝礼に出ないと、年末の皆勤手当(10万円)が消える。
会社休むときは、お医者さんの薬袋がないと、サボったことになるので、これまた、皆勤手当(10万円)が消える。

毎月、その月の目標を金額に換算して、達成しなかったら反省文を書くことになる。
同じことばかり書いていると「努力がたりない」といびられる。

どんどん社員は辞めていく。

所が、途中採用は結構応募がある。
何故か分かるかい。
大学で遊びほうけて、何もとりえのない連中が前の会社をやめて、ここに入ってくるのさ。
どんな仕事でも、『代わりの人のいない場所に立つ』には大変な努力と、才能が必要です。
営業も同じ、ただし、ある程度のことまでは誰にでもできるのさ。






先輩の営業と一緒に酒を飲んでいた時にふと思ったんだ。自分は15年後こんな連中のようになるのかって...........

飲み屋で集まっては上司の悪口行ったり、同じ会社の女の子との不倫を自慢したり、努力ではなく、仲間内の和を大事にする。
頑張り過ぎる奴は嫌われる。
営業グループでは、既存の顧客を課長が課員に割り振って、インセンチィブ(売上に対応したボーナス時のご褒美)が決まる。
少しでもいい顧客を割り振ってもらいたいから課長にはゴマをする。


憂鬱だった。
かといって、自分の能力で別な会社に転職しても同じことの繰り返しだということを知っていた。


田舎に帰ったらもっとひどい目に合うことを知っていた。

その会社は、当時には珍しく、コンピュータが沢山入っていた。
数千万円するホストコンピュータが入っていて、その端末に使われていたんだ。
今のコンピュータとは機能的にはまるで低く、比較にならない代物で、一台50万円以上した。

大学時代コンピュータに憧れていた僕は、一から独学を始めた。
毎朝6時に会社にきて、11時に帰り、土曜も日曜も会社に行っていた。
朝一番に会社の鍵を開け、最後に鍵を閉めて帰る、毎日だった。
炭水化物ばかり食べて、体重が100kgを超えていった。

そんな中で、コンピュータ室の人や、経理の部長さんに認められて、様々な事を勉強することになる。

いつの間にか、その会社で一番パソコンに詳しい社員になっていた。
楽しかった。

そして人生の転機が来る(何度来たことだろうか)。
ソフト会社の求人に応募して転職することになった。


一つ大事なことを覚えておくといい。
同じ業種で転職しても、給料的や待遇的に上に行けることはないと言う事。
たとえば、私が雑誌の営業の職に転職しても上にはいけなかったろうということだ。

そういう意味では、大学を卒業した時に人生の大半は決まってしまうのだ。

ソフトの会社で僕を採用した部長さんは、僕が異業種の営業での経験があったから採用したのだ。
ここでも、技術職で採用して、営業に回そうという魂胆があった。

ソフト会社に入って最初の仕事は、お客さんに謝りに行く仕事だった。
毎日呼び出されて、出来上がっているソフトのバグを指摘され、それを作った会社に行って説明して、また納品する。
辛かった。
とにかく、辛かった。

そして、大事なことを一つ学んだ。
3ヶ月位経った頃だろうか、お客さんのあまりに失礼な言い方に本気で怒ってしまったのだ。
もう、そろそろ、ソフトのバグがなくなってきたこともあるのだろうが、ピッタとクレームが来なくなった。

『止まない雨はない』どんな辛い時でも、その時はいつか去るのだということ。


この会社での3年間は多くの事を学んだ。
自分持っている営業力を交換条件に先輩たちにソフトを習ったり、自分で独学したりの毎日。

月に300時間の残業をした。
同時に体重が120kgになり、糖尿病と診断さっれたのはこの時期の生活が原因だと思う。

僕はこの2つの出来事は残念ではあるけど、表裏一体だったと感じている。
糖尿病と多くのことを学んだのは切り離すことは出来なくて、一つのものなのだ。

やがて、この会社を自分から辞める。

今考えれば、愚かだったのかもしれない。
経理のソフトを自分で独立して作る事を夢見て、辞めたのだった。
実際に作りましたが、全く売れず、3年の独立した期間を経て2つ会社を変わって、東京での生活に諦めを付けて、故郷に帰る。


33歳で故郷に帰った所で『求人がない、コネがない、やる気が無い』の三重苦
自分の今までの人生は何だったのかということも総括できず、苦しかった。

半年と少し、父方の叔父さんの紹介で大阪に就職するものの、首になる。
地元に帰ってきて、何社も地元の会社の求人に応募するも、採用なし。
やがて、新潟市内の印刷会社に半年務めるが、辞める。
ソフト関係の求人を探し、応募して、採用が決まるが、出社する前に辞める。


新潟金属への就職

父が最終的に50年務めることになる鉄工所にはいることに決めた。
しかし、この頃の私は嫌なやつだったと思う。

田舎には、自分を活かしてくれる会社がないと決めつけ、採用してくれた会社をけって、鉄工場に入れば楽な仕事だろうと思い入社することになった。
どんなに、自分を装っても自分の本音は見抜かれる。

自分が賢いと思い、他人が馬鹿に見える人間は最悪だ。
僕の入った工場は、中卒だとか、高卒の社員ばかりだった。

僕はスリッタという機械の操作をするチームに入った。
上司は高卒の21歳の若者、チームのトップはやはり高卒の45歳のおやじさん、僕は35歳で独身だった。
毎朝、油だらけの作業服に着替えてラジオ体操、機械を操作して製品を作り、1日が終わると、工場の浴場で汗をながす。

工員は皆親切だったが、話題も興味も違い、なかなか溶け込めなかった。
当たり前である。
ほんの少し前まで東京で、ソフト作っていたのである。
毎朝、自動車でこのまま、東京に走っていこうと思いながら過ごした。
父のコネでなかったらそうしていただろう。

手取り15万円で年500円のベースアップ。
20年働いても(工場長に気に入られなかったら)2万円しか給料は上がらない。親会社からの来ている連中は2倍以上貰って事務所で夏はクーラー、冬は暖房なんだ。

工場労働者の生活を続けていくと、段々自分に価値の無いように思えてくる。


この会社で、僕は労働組合の委員長として労働争議を指導して、1億3千万円の金を得ることなる。

少し前に書いた文書が有るので読んでみてほしい。

やがて、組合はバラバラに分解する。

丁度、君が生まれた頃のお話だ。

新潟金属の部長、課長の連中は皆倒産の翌日から「次の会社」に行き、現場の社員たちは1年たっても就職先のない連中がいた。
新潟金属の、ある部門に残れた連中も最低の条件で催行された。寸借詐欺を繰り返して、どこかに消えた農家の人もいた。


世の中は不公平だ。それでも、人生は続く。

自分自身が信じる物を持ち、それを守ることが出来る強さを君たちには持ってもらいたい。
16年が過ぎて、ようやく、僕には色々なことが見えてきたような気がする。

会社の社宅に入っていたのだが、4月までいてもいいという社長の言葉を信じて協定に入れなかったら、大平洋金属から300万円の損害賠償の訴訟を起こされた。
組合が解散した後の委員長などは何の力もない。

全く世の中はそんなものだ。

世の中、頼れるのは自分だけなんだ。結局、向こうの弁護士と渡り合って、3月いっぱいの退去ということで示談となった。

労働組合の委員長などやっていた人間には、就職先が無いことは分かっていた。
そこで、東京の友人から仕事をもらうことにした。

インターネットの商業利用の開始の時期と重なっていた。僕は東京の業者よりはるかに安い金額で受けることで、売上を伸ばすことが出来た。最初の年は1000万円くらいの売上があった。

ソフトの仕事のブランクは長くこの時期はほとんど不眠不休で勉強しながら仕事をつないでいた。

ソフトの仕事は楽しそうですねとよく言われる。笑って、楽しいですと答える。
公務員や事務員の方がよっぽど良い。時間にそこにいてマニュアルから外れたことをしなければ、給料もボーナスも出るのである。

ソフトの仕事は5年前の技術が全く役に立たないのである。常に学ぶことが要求される。新しいテクノロジーをマスターできなかったらそこで終わりなのだ。学ぶことによろこびを感じることが出来なかったら到底続けられない。

しかし考えてもらいたい、どんな仕事でも、それは同じなのだ。
状況も世界も変わる、そんな中で自分を、そして自分の会社を変えることが出来なかったらきっと君の人生は面白く無い。

君には、自分が世界の一部で、自分が変わり、世界を変えることが出来ると信じてもらいたい。









昨年入社した僕の相棒にこんなことを言った。
「君はこれからの一生僕の部下のままでいることはない。必ず僕と別れて自分の道を見つけなければならない。それが10年後か20年後かは分からないが、その時を思い、明日を生きろ」と。

親、教師、やがて上司、に言われたことをするだけの人生は奴隷の人生だ。
そんな奴隷は長じて自分の子供や部下、生徒が奴隷でなければ気がすまない。
僕らの社会の病は根が深い。

1960年台に「銀行型学習」と言う言葉を発見したパウロフレイレさんは奴隷の所有者こそが、開放されねばならないと語っている。
MITで組織を研究しているピーター・M・センゲさんは、組織は『上』こそが変わらなければ強くなれないと語っている。

時間が有ったら「masaya50 フレイレ」「masaya50 センゲ」で検索してもらいたい。僕の考えていることが読める。
『学び続けなければ、このクソッタレな世界をこじ開けることは出来ない。』









それを覚えていてもらいたい。平等だの人権だのという言葉があるのは、それが実際に存在しないからなんだ。けど、私達は、存在しない物を信じることが出来る事も事実なんだ。



君たちも、信じることが出来るといいなと思う。

以前、『「差別」って新発田にあるのか』と聞かれて僕はこう答えた。
『この地域のいくつかある高校には順位があると保護者は思っている。大学に進学できるかどうかで順位が付けられる。地元で就職する生徒は落ちこぼれとしてのレッテルを自分自身に張っている。』と。

僕は、そんなレッテルを子供達が自分で貼って行く姿に心を痛める。しかし、残念ながら親が子供をいい高校に入れようとするから起こることなんだ。

そして、僕もそんな親の一人なのだという事を考えるとこの問題の根は深い。
ライ麦プロジェクトと言う事を始めようと思っている。




最後に僕の大学のゼミの先生の言葉を書いておきたい。
先生の言葉は、30年近い時を経て、色あせていない。
いかに社会を変えることが難しいか、この言葉が証明している。
僕たちは変えることが出来るのだろうか。

【第1号 1986年卒業記念論文集】斎藤靖夫「どんでん返しのない社会」より

.....ところではじめに触れたコラムの最後には、「社会党の一部にさえ自民党との連合論が出るようになったのだから、企業はどんでん返しを心配しなくても」よくなったのだと書かれている。 学生生活の「最後」のために論文集を編み「どんでん返しのない社会」へ出て行く君達に、それでも君達は君達自身と他の一人一人の価値に繰り返し思いを致してくれと願うのは、幻想なのだろうか。人の良心は内にあり、従って人の価値は内にあり、たとえどんでん返しのない社会でも、その内なるものを社会構造的なものにするのは可能なのだと伝えることは、妄言なのだろうか。
「最後の論文集」を単なる記念碑にしないために。

2015/8/1 齋藤真也