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2007-06-16(Saturday) 誰がなんといおうとあの時の白田准教授はとてもカッコよかったのだ。 このエントリーを含むブックマーク

今日は感動したので法政大学の白田先生を誉める。


15日、著作権法の保護期間延長問題を考えるフォーラムの第3回トークイベントがあった*1。その席で、会場から、パネリストの一人であった白田先生に向かってこういう主旨の発言があった。


「白田説(著作権思想の出発点はイギリスの印刷業者保護にある)は異端である。仏独の思想著作権思想を著作者の人権に帰するもの。いわゆる大陸法系の思想)は日本法に根を下ろしている。白田先生の世代の学者には立法に関与している*2もいるが、白田先生に声がかからないのは極端な、異端の説を叫んでいるからだ」


 これに答えて、白田先生はこう告げた*3

「自分が唱えている内容は、博士論文としても認められた、5年間の研究成果に基づいている。自分の信ずるところを唱えるのが学者である」


 明快である。そして、僕にはとても正しいことのように思えた。

 白田先生とは知らない仲ではない。日常的に見知っているからこそ、感動したり、こうはっきり思うようなことはなかったのかもしれない。

 が、この男はカッコイイぞ。


 それにもまして、小生の頭の中では、会場の発言の方に「?」マークがついている。

 理由は二つある。

 一つめ。白田説は、著作権思想の流れとして拭いがたく産業保護制度色があることの理由を指摘しているのであり、大陸法系の思想が「存在しない」といっているわけではない。日本法が自意識としては大陸法系の思想に属していることを何ら否定しているわけではない。だから、まず、こういう発言をする理由がない。(ちなみに、小生も基本的に白田説に立つ方が現状を理解しやすいと考えている。*4

 二つめ。「正しさ」の根拠として、政府機関がその人を重用するかどうかは全く不適切である。役人だった張本人が言うのもなんだが、そうなんである。通説かどうかということには百歩譲ってなるかもしれない*5が、そもそも「絶対的正しさ(客観的正しさ)」があるとするなら、ある命題が正しいことについて賛同者がどれだけいるかは論理関係が何らないので、論拠にならない。

 なぜここにこだわるかといえば、小生は、物事を探求するということは(であれば、なおさら学者という人種は)「絶対的正しさ」を探求しているのであり、別に多数説の中に入る競争をしているわけではないと思っているからだ。そして、そもそも「通説」や「多数説」に関しては、小生にはあまりいい想い出がない。

 例えばこんなことがあった。小生が大学生の時分は、憲法学では芦部信喜氏の「憲法」が刊行されたかどうかの頃で、その代わりに「国家と法」を読んでいたような気がする。この「憲法」というのは、今やまさに日本の憲法学の通説である、と言って良いのだろう。しかし、この中にとてつもなく奇妙な部分がある。それはいわゆる「二重の基準」が説明された行で、少なくとも「国家と法」のレベルでは、そこに書かれていた説明は米国の憲法判断の事例だけであったと記憶している。若かった私はここで目がとまってしまった。一国の法の話である。国際法レベルで覊束されているのならともかく、なぜ、純粋国内問題としての法判断で外国(米国)の事例を出して説明終わりとできるのだろう?*6こんな理由で「正しさ」を唱えるのが「通説」なのである。すべての「通説」がそうだなんて言うわけではないが、「通説」の中にはこの程度のもの*7もあるんである。

 もちろん、総ての学者ではない。しかし、学者の一部には、或いは学者の理論のごく一部には、学会における「多数性」(多数説、通説)を「正しさ」と読み替えてしまい、議論が学会外の世界から見ればおかしな方向に向かっているとしてもそれを感じたり、問題にしたり、理解することができない向き存在するように思える*8


 白田先生は、多数云々という価値を超え、自ら探求した経験に強く立脚している。私にはそれが学者として正しいことのように思える。

 そして小生には、ついでにいえば、その「偏った」白田説の方が現実をよく説明しているように思える。小生にとっては、それだけで十分だ。


 ただ、休みの夜中に眠い目をこすってこれを書き記した理由は、白田説に賛意を示すというよりも、白田先生学者としての心情に賛意を示すというか、う〜ん、それ以上に、学者としての心意気をまとった白田先生がかっこよかったからなのだ。それだけだ。




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*1:小生が企画担当したのだが、いろいろ手落ちが多く、登壇者を始め関係各方面には多大なご迷惑をおかけした。しかし、それでもイベント自体が成功できたのは、その皆さんが冷静且つ寛大な判断で最後までお付き合いいただけたからだと思っている。皆さんのご厚情に再度感謝の意を表したい。

*2:これがどういう意味かは小生にもわからない。審議会の委員になっていれば関与している?文化庁にヒアリングを受けていれば関与している?役人になって法案を書いていれば関与している(そんな学者はいないか)?どういうことだろうか?

*3:まとめるとこんな感じだが、冒頭には「偏っていることなんて百も承知で言ってるんですよ!」というのがあって、ネット上ではこちらの方がウケているみたい。

*4:この考え方に立てば、大陸法系思想はイギリス型思想の自己疎外の産物であり、日本法は大陸法系をイデオロギーとして過度に受け継いだ、いわば純粋な自己疎外法制である、ということになる。まぁ観念上はそうであっても、しかし、現実には著作権の改正プロセスの中に業界間の利害調整という考え方はビルトインされているので、現実はしばしば白田説的に進む。おそらく著作権法学者の方々の中にはそのこと事態を苦々しく思っている向きもあるのかもしれないが、そもそも法というのはそうした関係者の利害調整という役割をになった社会契約(そういえば、社会契約論を唱えた大立て者の一人、ルソーフランス人だったっけ。人権存在することと、その人権のどれをどのように法的保護にかからしめるかというのは別次元ストーリーである、というのが社会契約論のエッセンスだと思う。)の一表現方法であることは、法学者の方々もわかっているのではないだろうか。ジャック・ラカンは、「イデオロギー」に対して「人々はそれを知っている。だからそれをやっている」と評した(カール・マルクスが同じ「イデオロギー」に対して「人々はそれを知らない。なのにそれをやっている」と評したことを踏まえて)そうだが、けだし名言である。本当に難しい仕事は、それが人権であると叫ぶことよりも、それをどの程度どのように守ることで全体の利益がどの程度増進されるかを説明することにある。

*5:なぜならば、政府が審議会の委員を選ぶ際には、a.特定の利益団体のしかるべき人かどうか、b.有識者として高名かどうか、c.議論を取りまとめる力があるかどうか(その変形であるc'として議論が紛糾するような少数説を大声で言わないかどうか)、d.政府として持っていきたい方向に応援演説をしてくれる人かどうか、などが基準となる。どこにも「絶対的正しさ」という意味で「正しいかどうか」というものはない。なにせ、政府=官僚自身が責任をもって「正しさ」を主張することが憚られるような時代になっているのだからしょうがない。

*6:その後、諸法制について勉強していく中で、解釈論理としてのイスラーム法解釈学や、司法運営の清朝方式など、現代の制度論としても参考になる優れた蓄積が西欧系以外の法律思想も多々あると小生は思うようになった。ま、それはよろく。

*7:部分、ということ。もちろん、芦部説の総てにかみついているわけではない。加えて言えば、これが「多数説」であることに噛みついているわけでもない。そのことは、読んでわかってもらえると思うんだけど。

*8:これまた学生時代に、とある民法のゼミの時にもこういう体験があった。テーマは土地の所有権移転はいつ起きるか、という、こりゃ民法ネタとしては古典中の古典ネタである。小生は、社会は自律的なものであり、仮に法が不自然思想を押しつけるとしても、社会は自らの自然な判断(社会通念)と整合的になるようにそのあり方をねじまげる、と考えていた。まさに土地所有権移転というテーマは、その社会的取扱がフランス流の民法典の考えとずれているからこそ問題になるのであるが、そこで小生は江戸時代の土地売買のしくみについて調べて、その中に、登記を証人に置き換えた極めて形式主義的な慣習を見いだした。ところが、学生どころか、教官まで、その話はさておいて、フランス法では、ドイツ法では云々と論ずる。いわゆる近代民法ができてから今まで、土地の売買をしている人でドイツ法のことなんて考えてる人はどこにもいないって。法は、人の信頼を保護する。信頼は常識ベースにして成立する。常識の根元にはこれまでの様々な制度=法も深く影響を及ぼす。だから誰も知らないドイツ法の話より、昨日の常識の根拠となっていた江戸時代の法制度の方が、よほど法制度の実態として守るべき信頼の実像に近い。なぜそのことに法学者は真正面から向き合わないのだろうか。