『CRIMES OF THE HEART』






    




タイトル:『CRIMES OF THE HEART』



作:  ベス・ヘンリー 



翻訳: 浦辺千鶴



演出: 小川絵梨子


■■出演


安田成美


那須佐代子


伊勢佳世


渚 あき


斉藤直樹


岡本健一



■■スタッフ


美術:深瀬元喜
照明:原田保
音響:福澤裕之
衣装:前田文子
ヘアメイク:鎌田直樹
演出助手:長町多寿子
舞台監督:二瓶剛雄
演出部:N.E.T ON 
    梅畑千春 久保勲生
照明部:クリエイティブ・アート・スィンク
    松井義之 原田飛鳥
ムービープログラマー: 藤巻聰
音響部:フリックプロ
    櫻内憧海
衣装部:米田三枝子
ヘアメイクスタッフ:伊藤こず恵
大道具:C-COM 伊藤清
小道具:高津装飾美術 天野雄太
特殊小道具:アトリエ・カオス 白石敦久
特殊効果:インパクト 野本孝行
衣装製作:東京衣装 本多あゆみ 森田恵美子
化粧品協力:コスメ・ソフィア
楽器:三響社 岸 拓央
サックス指導:小林洋平
舞台製作:クリエイティブ・アート・スィンク
     加賀谷吉之輔
宣伝美術:藤江淳子 惠藤修平
宣伝写真:引地信彦
宣伝衣装:関けいこ
宣伝ヘア:山本リエコ
宣伝メイク:小森由貴
宣伝ヘアメイク(斉藤直樹):伊藤こず恵
協力:コッカ
   COME TRUE
   吉住モータース
   ホリプロ・ブッキング・エージェンシー
   ジャニーズ事務所
版権コーディネーター:マーチン・R・P・ネイラー
宣伝:吉田プロモーション
票券:インタースペース
制作:七字紗衣 武冨佳菜
企画:中嶋しゅう
プロデューサー:江口剛史
主催・製作:シーエイティプロデュース



■■日程・場所


2017年9月2日(土)〜9月19日(火)@東京・シアタートラム


2017年9月22日(金)@神奈川・やまと芸術文化ホール メインホール



《感想文》ABSORPTION AND THEATRICALITY



アメリカ・ミシシッピー州のとある一家の三姉妹の人生模様を描いた作品。「ミシシッピー州ってどこ?」って多くの日本人は思うことでしょう。これ、昨年も同じようなことを思ったことがあって、「オクラホマ州ってどこ?」って書いた気がする。ほらこれ!




8月の家族たち


これって、たまたまだろうか? 日本人が一番想像しづらいアメリカの南部や中西部を舞台とした作品が、最近立て続けに日本で上演されるというのは何故だ?



ただ、あれだね、『CRIMES OF THE HEART』も『8月の家族たち』もどちらともピューリッツァー賞をとっているということは、アメリカ国内において南部や中西部を舞台とした作品が一定数の評価を得るという構図があるのでしょう。



アメリカについて言えば、これもたまたまだけど、女優のエマ・ストーンが出演している『ラ・ラ・ランド』と『バードマン』を最近続けて観たのだけど、作品のタッチは全く異なるけれど、扱っているテーマは全く同じだった。




ラ・ラ・ランド




バードマン



テーマは「アメリカ東西カルチャー・価値観の齟齬」。西海岸カルチャーのあからさまな商業主義を批判するというか、鼻で笑いつつも、それと同時に東海岸カルチャーの旧態依然な有様をこちらはこちらで皮肉るという。



ただ、このテーマは紋切り型で今更感が拭えない。確かに『ラ・ラ・ランド』の結末は捻くっていたけれども、アメリカ人があの結末を肯定するまでにはまだまだ時間がかかるでしょ。 だって見返りのない美徳なんて、アメリカ人はまったく興味ないじゃん!



日本からアメリカをみると地域差というのはほとんど感じられなくて、総じて商業主義の国というふうにしか見えないけれど、先の大統領選が象徴しているように、アメリカの中身は決して一枚岩ではなく、またアメリカ国内における一方向的な価値観が崩れてきているのでしょう。



東海岸的なるもの、西海岸的なるもの、南部的なるもの、北部的なるもの、様々な環境、価値観のなかで一体なにをどうすればいいのか?



アメリカ人自身が悩んでおり、よくわからんけど、とりあえず全てを見直してみようということで、こういったアメリカの様々な地域の、その地域ならではの事情が色濃く出た作品が出てきていて、高く評価されているのでしょう。






さて、『CRIMES OF THE HEART』に話を戻すけど、ミシシッピー州のとある田舎町が舞台で、というかミシシッピー州自体が田舎なのだけど、だって、あれだよ、 Country Roads っていう ふるさと感いっぱいの名曲を知ってる?





この曲で歌われているのはウエスト・ヴァージニア州なのだけど、ここってワシントンD.Cのちょっと下くらいだよ。ミシシッピー州なんて、その先の先の先くらいだよ。ど田舎だよ。



ミシシッピー州は典型的な南部で、この作品は1970年代を舞台にしているから、ちょうど黒人公民権運動が活発化していたころで、ベトナム戦争やら、他にも色々と問題があって、アメリカ全体が揺れていた時代だね。



『CRIMES OF THE HEART』という作品が興味深いのは、ミシシッピー州のとある一家の三姉妹に、この土地に生まれた人々が生きる道の典型パターンを当てはめているという点。



(1) レニー・マグラス(長女)


祖父の世話をしながら実家で暮らす。40歳で未婚。じぶんが子どもを産めない体質であるということから、結婚に対してどんどん臆病になっている。





(2) メグ・マグラス(次女)


歌手になる夢を追い、ミシシッピーを出て、ハリウッドのお膝元・ロサンゼルスに移住しているが、音楽の仕事はすでにやめている。





(3) ベイブ・ボトレル(三女)


地元の名士と結婚する。だからといって幸せかというと...


彼女らがある意味、大多数の人々の人生の何かしらを語っている。これはミシシッピーに限ったことではなく、全ての田舎町に通じているし、都市部に住む人であっても何かしら引っかかるところがある。



例えば、長女レニー
彼女のように40歳を過ぎても結婚できない人は多々いる。彼女の事情や思いというのはすごく共感できて、次女、三女というのは自分勝手で自由奔放だから、祖父の世話なんてしない。だから私がやるしかないと実家に留まり、男性と会うチャンスに恵まれない。また婚期を逃すとだんだん弱気になってきてますます結婚に億劫になってしまう。わかるわー 汗。。。



男も女とそんなに変わらなくて、僕なんかも大学出てからずっと仕事ばかりしていて、当初は独立しようと思っていたから忙しかったし、生活が安定しないから結婚どころじゃない。そうこうしているうちに歳を重ねてしまって、独立をあきらめて就職したのはいいけれど、「大手じゃなくてベンチャー企業に勤めている奴を好んで結婚する女なんているのか? 」なんて弱気になってどんどん結婚から遠ざかってしまう.... あるある 汗。。。



それから次女のメグ
この時代はアメリカの多くの若者が西海岸に流れていったんだよね。どちらかと言えば、ロサンゼルスよりもサンフランシスコに流れた若者が多かったと思うけど、いわゆるヒッピーカルチャーって奴で、これは明らかに東海岸の旧態依然のアメリカを否定して、アメリカのなかでもさらに自由な、というか自由に感じられる西海岸へ若者が向かった。イメージ的にはジャニス・ジョプリンなんかがそうかなー




ジャニス・ジョプリン



次女のメグもそうだし、こういうメンタリティーの若者が数多く発生したというのは事実だし、誰しもこういう想いを持った時期があったと思うけど、この意志を貫くのはけっこう難しい。なぜならば、誰しもそれなりに稼いでいかねばならないし、生活という問題からは逃げられないから。



あと三女のベイブ
地元の名士と結婚して地元に残るっていうのは、親は一番喜ぶよね。でも、相手が本当にいい人だったらいいけど、そうとは限らない。名士というからには、やっぱり色々あるわけだよね。その彼の知ってはいけない一面を知ってしまったり、あるいは逆に自分の知られたくない一面を知られてしまったり...
あとネタバレになるけれども、ベイブは黒人男性と恋仲になっていたんだよね。この経緯は旦那さんがベイブを先に裏切ったからなのか、よくわからないけれども、不倫は不倫だし、しかもこの時代の名家(白人)で、黒人と恋仲になるとそりゃ、とんでもないことになってしまうよな...






そんなこんなで三姉妹各々に深刻な事情がある。それに対して彼女たちはどのように生きていこうとするのか? そして、そんな彼女たちをどのように描くのか?



この作品がもっとも優れているのがまさにここ!



このようなシチュエーションにおいて、どのように描くことを求められるのか? かなりざっくりとした議論に留めるけれども、演劇あるいは芸術においては二つのアプローチが対峙されている。



1. ABSORPTION (没入)


2. THEATRICALITY(演劇性)

これはマイケル・フリードという美術批評家が提示した問題構制なのだけど、例えば、次の2つの絵画を見比べてみる。




(1)シャルダン「トランプの城」




(2)ベラスケス「ラス・メニーナス



この2枚の作品は、実は相当考え抜かれた世界構造を提示しているのだけど、さわりだけ判別すると、(1)の絵画の少年は、我々鑑賞者なんて存在を意識することなくトランプに没入しているよね。対して(2)の絵画に出てくる人々は、絵を鑑賞している我々の方を見ているよね、簡単に言えば、彼彼女らは、我々鑑賞者のまえで演じているよね。



それで、平たく結論を言えば、(1)と(2)のどちらが評価されるかと言えば(1)で、つまり現実世界において誰かに見られている、見られていることをずっと意識して暮らしていることってある? ないでしょ。まさか自分を美術館に飾られている絵だと思って、絶えず来館者に見られていると思いながら生きている人なんていないよね。いたらヤバいよ。



絵画や演劇といっても、単なるエンターテイメントは別として、何かしらの世界を提示するわけだから、そこにはリアリティーがなければならない。リアリティーが感じられないならば、それは単なるでっち上げでしかない。



そういった訳で、(1)のほうが(2)よりもリアリティーが感じられるので良いとされる。


※ ちなみに、これはあくまでも触りであって、実際はこんな簡単な話ではないです。(1)シャルダンの絵画や(2)ラス・メニーナスについて知りたい人は次の本を自分で読んでください。


Absorption and Theatricality: Painting and Beholder in the Age of Diderot

Absorption and Theatricality: Painting and Beholder in the Age of Diderot


言葉と物―人文科学の考古学

言葉と物―人文科学の考古学






では、『CRIMES OF THE HEART』はどうか?



実はというと『CRIMES OF THE HEART』は、上記のリアリティーの定義をもう一段階ひっくり返して描いている。どういうことかと言うと、この三姉妹は各々深刻な問題を抱えている。上記の対比で考えれば、この作品にリアリティーを出すためには、この三姉妹が各々が抱えている深刻な問題を直視して、これらの問題に没入して、真っ正面からぶつかり、克服してゆく姿を描くことが求められる。



だが『CRIMES OF THE HEART』におけるこの三姉妹は、各々が抱えている深刻な問題を直視しているようには全く感じられない。終始笑いが絶えないし、まるでコメディドラマを観ているかのようなのだ。これはもう「演技」以外の何ものでもない。上記の定義からすれば、「没入」している感じがなく、全くリアリティーが感じられないということで駄作と評価されてもおかしくない。



しかし、ここが重要なポイントで、結論を言えば、彼女たちは一見、深刻な問題から目をそらしているようだけれども、そうではない。彼女たちは深刻な問題に向き合っているし、実際にそれらの問題からは逃げられない。にもかかわらず、彼女たちはあたかも深刻な問題なんてないかのように日々生きているのだ。



つまり、『CRIMES OF THE HEART』は、「没入」ではなく「演劇性」にこそリアリティーが宿るのだということを、三姉妹の振る舞いによって緻密に描いており、この主張が、非常にうまく表現できている。



そして、本作品において、兎にも角にも良かったのが女優たち。



長女を演じた那須佐代子さん


次女を演じた安田成美さん


三女を演じた伊勢佳世さん


従姉妹を演じた渚 あきさん



彼女たちが本当にすばらしかった。作者のベス・ヘンリーの意図、演出の小川絵梨子さんの意図をよく理解して、存分に演じきっていた。女性の魅力に溢れていて、すごく惹きつけられました。



このことをもっと早く皆様に声を大にして言うべきでした。。。



明日9/19@三軒茶屋シアタートラム


今週金曜日9/22@やまと芸術文化ホール



皆様もぜっひ!












阪根タイガース


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アマヤドリ『銀髪』






    




《演劇》アマヤドリ




タイトル:『銀髪』



作・演出: 広田淳一


■■出演


笠井里美 倉田大輔


渡邉圭介 小角まや


榊菜津美 沼田星麻


中野智恵梨 石本政晶


相葉るか 相葉りこ


一川幸恵 宮崎雄真


中村早香


(以上、アマヤドリ)



小菅紘史(第七劇場) 伊藤今人(ゲキバカ/梅棒)


谷畑聡(劇団AUN) 武子太郎(クロムモリブデン


秋元雄基(アナログスイッチ) 遠藤杜洋


大塚由祈子 菊池鴻良


飯野愛希子 毛利悟巳


古澤美樹 根岸はるか


飯田紘一朗 門前竣也



■■スタッフ


舞台監督:橋本慶之
舞台監督助手:市原文太郎
舞台美術:中村友美
音響:角張正雄
照明:三浦あさ子
照明オペレーター:小沢葉月
衣裳:遠藤奈津美
ヘアメイク:増田加奈(ヘアーベル)
ヘアメイク助手:北山久美
文芸助手:稲富裕介
宣伝美術:山代政一
制作:斉藤愛子
当日制作:武藤香織/北澤芙未子/豆栗未来/Lee Chi-Yuan
演出助手:木村恵美子/石田麗/吉本真里奈/大竹成美/野村春香/犬養真奈
撮影:赤坂久美/bozzo
企画製作:アマヤドリ
主催:合同会社プランプル



■■日程・場所


2017年1月26日(木)〜1月31日(火)@本多劇場

エンタステージ




本多劇場に初進出したアマヤドリが混乱と狂乱に招く『銀髪』公演レポート








《感想文》アマヤドリ的なるもの




【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想1)


アマヤドリを観るきっかけはダルカラに出ていた小角まやさん繋がりなのだけど、笠井里美さんと中村早香さんをずっと前から観てると気づいて、特に中村さんは僕の記憶からいったん消えていたのだけど、



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想2)


きょう観ていて初めは気付かなかったのだけど、その正確な動きを観ていて、「あれ、この動き、新人じゃないよな、この人、ずっと前に観たことがある!」と思い出した。たしかに出ていた。今更ながらアマヤドリは最近できた劇団ではなくずっと前からあった劇団なのだと実感した。


ハタハタ





【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想3)


ちなみに石本政晶さんもずっと前に見たことがある!と思ったのだけど、こちらはフジファブリックのキーボードの人との人違いであった 汗。。。

じゃ、『銀髪』とは関係ないけど、いい曲だから、ここでフジファブリックの『虹』をみんなで聴いてみましょう!




フジファブリックのキーボードのひと










【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想4)


『銀髪』は前回の『月の剥がれる』と同様に大きな物語であった。「だ・か・ら、これだけ大きな世界を描こうと思ったら2時間50分でもムリだって!!!」と説教したくなるような壮大な物語であった。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想5)


そんな大作を、無謀であっても演劇で描こうとする作・演出の広田淳一さんとその広田さんについてゆこうとする俳優たちの愚直さに、呆れつつもシンパシーを感じた。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想6)


演劇ではギリシア悲劇シェイクスピアがまだまだ上演されているので一概には言えないかもしれないけれど、「大文字の・・・」の不在が叫ばれて久しい。昨今では、文学も演劇も建築も扱うテーマが矮小化する傾向がつよい。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想7)


にもかかわらず、これほど壮大な物語を描こうとする広田さんは時代錯誤の愚者なのか!? 正直、どうなんだろ???



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想8)


広田淳一さんの作品を観ていて感じることは、村上春樹を読むときにも同じく感じる。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想9)


ぼくらがなんやかんや言って村上春樹をいちおう読んでいたのは、同時代の空気を感じていたいといううわべの気持ちとともに、「この人はもしかしたら何か本質的なものをつかんでいるのかもしれない」という期待があったからだろう。






村上春樹『色彩を持たない多崎ながれと、彼の巡礼の年』










【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想10)


オウム事件であったり、9.11であったり、リーマンショックであったり、3.11であったり、トランプ現象であったり、現実にあまり引きづられすぎるのは確かによくない。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想11)


なぜなら、そんな大きな問題を考えたって、無謀だし、世の中を変えられないから。そんなことを妄想せずに、じぶんにできることをコツコツやるほうがいい。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想12)


ただ、この手の大きな問題を扱った作品が単にジャーナリスティックなアプローチならば全否定されてしかるべきだけど、もしその作品がなにかしら本質をつかんでいるならば、無謀であっても挑戦する価値はあると思う。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想13)


『銀髪』でいいなと思ったのは、思考の筋道を外していないこと。ビジネスの捉え方しかり、中絶問題しかり。印象的だったのが「自由/平等」の対比で、自由と平等というのは一見同じ側にあるようだけど、劇中で語られているとおり、自由は平等の対義語なのだ。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想14)


平等を選んだのが社会主義で、自由を選んだのが民主主義だ。そして経済競争を封印した社会主義社会で起こったのが権力闘争であり、粛清(パージ)だ。対して、経済競争を促進した民主主義社会で起こったのが富の一極集中であり、リーマンショックなのだ。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想15)


こういう押さえておくべき筋道を外していないから、広田さんの戯曲は壮大で、誇大妄想的であっても信頼できる。



【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想16)


ともあれ、あまりガチで考えると息苦しくなるから、『銀髪』をトランプ現象との関連性で読み解いてみるのがいいかもしれない。主人公の種吉をトランプだというのは安易かもしれないけれど。


トランプ『金髪』





【演劇】アマヤドリ『銀髪』(感想17E)


『銀髪』を観劇したことだし、最近はジョージ・オーウェルの『1984』や『動物農場』がよく読まれているようだし、せっかくだから2月にでる村上春樹の新作も読もうかな。














阪根タイガース


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僕たちが好きだった川村紗也『ゆっくり回る菊池』






    




《演劇》僕たちが好きだった川村紗也




タイトル:『ゆっくり回る菊池』



作・演出: 青木秀樹クロムモリブデン


■■出演


川村紗也


多田直人(演劇集団キャラメルボックス


枝元萌(ハイリンド)


幸田尚子


折原アキラ(青年団


根津茂尚(あひるなんちゃら)


吉増裕士(ナイロン100℃ / リボルブ方式)



■■スタッフ


舞台監督:櫻井健太郎 藤田有紀彦
舞台美術:坂本遼
音響:星野大輔(サウンドウイーズ)
音楽:岡田太郎(悪い芝居)
音響操作:櫻内憧海
照明:床田光世(クロムモリブデン
衣装:杉浦優(ザ・ボイス)
演出助手:入倉麻美 小林弘幸(新宿公社)福名理穂(ぱぷりか)
稽古場代役:本折最強さとし
映像・小道具・おもくじフィギュア:辻朝子
記録スチール:久富健太郎
制作:会沢ナオト
広報宣伝:kei.K
宣伝美術:デザイン太陽と雲
宣伝写真:引地信彦
宣伝ヘアメイク:Sai
WEB:小林タクシー(ZOKKY)

パンフレット
構成・デザイン:樋口舞子
写真撮影:引地信彦(P.2,PP.8-14)久富健太郎(PP.15-19)
インタビュー/記事:おとむ
イラスト:望月裕実(P.20)
制作:中島順子
印刷:大洋印刷

企画・制作:僕たちが好きだった川村紗也


■■日程・場所


2016年11月22日(火)〜11月27日(日)@こまばアゴラ劇場






 《感想文》




先週観た演劇の感想文を書いたろと思っとってんけど、ゴルフの試合観に行ったら疲れて寝てもうた。



今、めっさ考えとるから、あと1週間くらい待ってなあ。






でも、ま、あれやな



たぶんやけど、



『ゆく菊』は、クロムの青木さんが「ボク川」という言葉の響きから、


青:「『アナ雪』を連想して作ったら、こんなんできましたけど!」



客:「おいおい、どこが『アナ雪』やねん!」



青:「いやいや、結婚を控えた姉妹の話ですやん、一緒ですやん」



客:「妹はまだしも、あの姉はないやろ、アナでも雪でもあらへんやん」



青:「なにいうてはりますねん、あの姉ディズニーにちゃんとおりますやろ、何って名前でしったっけ、えーと、えーと、何でしたっけ?」









客:「プーさん!」



青:「そう!それそれ!愛嬌があってかわいいヤツですやん」



客:「もう、なんでもええわ、勝手にせえやホンマに...」



青:「ま、そう怒らんと、感想文できるまでこの曲でも聴いて待っといてーな」













1週間後



客:「ありのままのー ♪」



青:「ええ歌でっしゃろ」



客:「はっ? あんたに言われんでもわかっとるわい」



青:「あっ、そうでっか。ところで、あんさん、『ゆっくり回る菊池』は観てくれはったんかいな?」



客:「観たで。ちゃんと観たで」



青:「そないでっか。おおきに!」



客:「あれ、あんたが書いたんやって?」



青:「そうですねん。よくできてまっしゃろ」



客:「ま、よくできてる、できてないっていうタイプの芝居やないけどな」



青:「ほほー、お客さん、お目が高いですなー」



客:「あれ、なんか変なやつばっかり出てきたなー」



青:「といいますと?」



客:「なんや、指から銃弾をぶっ放す小娘然り、二枚目やねんけど残念な感じの男然り、結婚結婚ばかりゆうてる若井小づえみたいな女然り、目がギラギラして「わたくし、悪いことをたくらんでおりますわよ」って顔に書いてある女然り、ちょろちょろ動く挙動不振の男然り、単刀直入にあやしいカウンセラー然り、幽霊然り....」



青:「みんな、ありのまま、でっしゃろ」



客:「おっ! 青木はん、うまいことゆうなー」



青:「『アナ雪』そのまんまでっしゃろ!」



客:「ホンマやわ〜、ってオチつけるの早すぎるやろ!」



青:「つかみはOK!」



客:「おいおい、それ、関西のノリちゃうやろ」



青:「人類みな兄弟。笑いに西も東もおまへん」



客:「えらい視点で物言うなー、あんたは神か?」



青:「はい」



客:「しばくぞ!」



青:「で、はやく感想聞かせてーな」



客:「ふむ、『ゆく菊』において、《ありのまま》っていうのはキーやねん」



青:「ほほー」



客:「『ゆく菊』に出てくる人はみんな、何かを隠しているんや」



青:「ほほー」



客:「その隠している姿がじょじょに露わになってゆく」



青:「ふむふむ」



客:「露わになった姿っていうのは、決してよいと言える姿ではないけど、ま、人間ってこんなもんだよなーって妙に納得してしもうたわ」



青:「ホンマその通りですわー」



客:「菊池の奥さんの富士子なんて、亭主が死んで悲しんでるふりしてるけど、浮気してたんだよな。しかも、菊池を殺そうとしてたんやから、とんでもないありのままの姿やで」



青:「まあ、そうですなー」



客:「そうそう、ポスターみてドキッとしたんやけど、富士子と船越ってできてんのか?」



青:「・・・・」



客:「ま、それは大したことやないから、どうでもええねんけど」





法然院(京都)




青:「おや、いきなりなんですの? これ?」



客:「これ、法然院っていうお寺さんやねんけど、毎年お盆と年末に墓参りに行ってるねん。ここの貫主(かんす)さんがええ人でな、本を出してはるねん。」



青:「ほほー」



客:「梶田真章さんっていう人なんやけど、ええこと言うてはるんで抜き出すな」





ありのまま




ありのままの自分でいい。法然さんはそうおっしゃっています。
しかし、自分のすべてを認め、受け容れることはそう簡単ではないですね。「こうありたい」という自分のすがたを思い描いて努力するわけですが、それでも「なぜこんなことをしてしまったんだろう、言ってしまったんだろう」という、「わたし」の言動に責任を持てない「わたし」も常にいて、その「わたし」は、ふだん自分が望んでいるのと違う方向に「わたし」を持っていく。だから、自分のすべての言動に責任を持てと言われても、困ってしまうところはありませんか。



でも、佛教の、阿弥陀さまの立場からすると、いろんな自分がいて当たりまえなのです。自分の思いどおりにならない自分がいるのだから、どんなふうになっても自分はおかしくない。ですから極端な話、人殺しした人と自分とは、違う種類の人間ではありません。罪を犯した人はたまたまそういう縁が整ってしまっただけで、「わたし」は今のところ殺してはいないけれど、縁が整ったら、誰かを殺すこともあるかもしれない。つまり、阿弥陀さまの前では善人も悪人もない。みな同じ人間で、人間には一種類しかないということなのです。もちろん、何か罪を犯してしまったら、社会的な責任はとらなくてはいけませんが。



一方、別の見方もあります。素晴らしい人間、ふつうの人間、ひどい人間と、あらかじめ種類が決まっているというものです。「わたし」はふつうの人間だけど、あの人はひどい人だと。あの人は素晴らしいけど、「わたし」はふつうなんだと。でも、法然さん親鸞さんはそう見ませんでした。おぎゃあと生まれてから、ずっと悪人もいなければ、ずっと善人もいないはずだと説いたのです。



夏目漱石は『こころ』という小説で、主人公の「先生」に次のように言わせています。
「然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思って居るんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくとも、みんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。」



人はそれぞれの縁によって、こんな人になったりあんな人になったり、日々変わりつづけている。明日に何をしでかすかわからない、あやふやな存在なのです。



ですから、「自分らしさ」とか、「ほんとうの自分」を見つけようと一生懸命になる必要もないのではないですか。もちろん、自分の好きなことややりたいことは考え、追求していけばよいのですが、もしそれが変わってしまったとしても、なんの珍しいこともないし、また見つからなかったとしても、そう焦ることもないのです。あなたがあなたとして生きているだけで、すでに十分な個性なのですから。個性、個性と言い過ぎる昨今の風潮は、少しおかしいように思います。



本当の自分なんて/全部本当の自分だから/いやになるほど/本当の自分だから/嘘のひとつも/つきたくなるよ



法然院の近くに住む詩人、深井ゆうじんさんの言葉をお寺の壁に飾っています。たとえいやなところがたくさんあっても、自分は自分でよいのです。かけがえのないひとりなのですから。



梶田真章『ありのまま』(リトルモア)pp.131-133.






ありのまま―ていねいに暮らす、楽に生きる。

ありのまま―ていねいに暮らす、楽に生きる。


大映映画




青:「ほほー、なんだか見透かされているっていうか、『ゆく菊』で描いた人間模様そのものでんなー」



客:「『ゆく菊』は、痴漢したり、人を殺そうと思ったりする人間を肯定しているのか否定しているのか分からへん。要するに肯定も否定もしてへんのやと思うわ」



青:「たしかにその通りですわ。痴漢や人殺しを罪というようには描かんかった。痴漢は人の性(さが)、病気というように捉えて描いたし、人殺しというのは真章さんがいう縁といいますか、いくつかの条件が重なったら、そういうこともやりかねないというように描きましたわ」



客:「ほほー」



青:「今回の作品は『アナ雪』というよりも大映映画を基調にしておるんですわ」



客:「大映映画っていうのは詳しく知らんけど、なんか独特の雰囲気というか、テイストがあるなー」



青:「そうなんですわ。あのテイストはディズニーにはおまへんやろ。かと言って、あれを日本的なるものとも言えまへんのや。あれはいったい何なんや?って」







笑い



客:「大映映画というかあの時代の映画は基本的にはマジやわな。物語自体はシリアスで、出てくる人物も必死というかマジやな。でも今見たら、笑ってしまうわ。なんでこんなことにマジになっとんねん、アホかって」



青:「そこなんですわ、大映映画のオモロいところは。笑いとシリアスって紙一重なんですわ。なんていうんですかねー、シリアスを突き詰めると笑いが生まれるっていうか...」



客:「わかるわー」



青:「『ゆく菊』もはっきり言うてどうしようもない人間ばっかり。端からみたら、あいつらアホかって思いますわ。でも、あいつらは必死なんですわ。だからオモロいんですわ」



客:「ま、今回は大映映画っていうか、ほとんど吉本新喜劇の閾に達してたけどな 笑」


関西弁




青:「吉本新喜劇というのは言い得て妙ですな。さすがに新喜劇を露骨にやったろとは思いませんでしたけど、関西弁でやるっていうのは決めてましてん。演劇でいう現代口語っていうのをこの数年ずっと考えてましてな、会話といいますか、言葉の触感をもっと掘り下げたいと思うてたんですわ。関西弁って角がとれてまっしゃろ。だから、会話が転がるってことがあるんですわ」



客:「そやな。この感想文もそうや。これ、イントロの部分を会話調にして、関西弁で走り出したら、転がり出したんや。だから、このまま会話調でいったろ思うて、青木はんにもお付き合いいただいとるんや」



青:「まあ、ワシが青木秀樹であるかどうかは怪しいですけどな」



客:「会話っていうのは、話している内容だけやなしに、音でもあるし、肌触りでもあるし、イメージも湧きますわな。それから図と地というか、言葉じゃない部分、間も生まれますわな」



青:「ほほー、そこまで言われたら、はっきり言いますけど、ホンマにそういうことなんですわ。そういうことをやりたくて、そういうことをすべてひっくるめて創り上げたんですわ、『ゆく菊』は」


輪廻




客:「なかなか興味深い話になってきたけど、あと気になるのは『ゆく菊』の世界観やな」



青:「ほう」



客:「幽霊っていうのはいろんな物語にたびたび出てくるから珍しくない。けど、幽霊がゆっくり回るっていう描写はあんまり見たことがないねんけど、青木はんの地元では幽霊っていうのはゆっくり回るもんなんかいな?」



青:「そんなアホな 笑」



客:「じゃ、なんで菊池は回ってたんや?」



青:「ええとこ気づきましたなー」



客:「なんでや?」



青:「お客さん、菊池の最後の言葉を覚えてはりますか?」



客:「はて?」



菊池:「もしもし あ はい 菊池です ええ 何とか無事です 無事ってのはええですなあ 何にも無いってことでしょ 何にも無いってのはええですなあ あ 嫁のことですか まああの女も可哀想な女でね 危なっかしいから もう少し様子をみてやろと思てます それにしてもどんよりとした天気が続きますなあ 雨降るんやったら降る 降らんやったら降らん・・・」



客:「無いがなんたらって、えらい哲学的やなー」



青:「ワシ、幽霊っていうのは神様やと思うてますねん。菊池っていうのはカープの菊池やのうて、神様ですねん。ネ申ってるっていうあれですわ」









客:「ネ申ってるのは菊池やのうて、鈴木誠也やけどな」









青:「はー、そうでしたかー」



客:「そう考えると、菊池っていうのは、あっちに近いな。菊池寛芥川賞を創ったやつ」






菊池寛




芥川龍之介





青:「そうですな。あの人のイメージですわ。文学で言えばとうぜん芥川龍之介のほうが有名で、菊池寛を知ってるっていうのは文学プロパーの人だけですわな。世間一般の人は知りまへん。でも芥川をここまで有名にさせたのは菊池によるところが大きい訳で、こういう目に見えないつながり、世の中の構図を描きたかったっていうのはありますな」



客:「よのなかの動きには不思議なつながりが潜んでるわな」



青:「『ゆく菊』でつながりっていうのは、めちゃくちゃ意識して書いたんですわ」



客:「風が吹けば桶屋が儲かる的な」



青:「クライマックスのところ、菊池が言うてましたやろ」



菊池:「(碧郎を見て)おお君かいな 痴漢してた いや みんなの前で言うことやないか (マチ子を見て)あああの時のお嬢さんやないかいやあ君ら何?あれから付き合うてんの? 僕もあの時はびっくりしたけど、もう全然気にしてないよ、うん あれから色々あってなあ 会社でも色々言われて辞めたんやけど こっちが言うこと全然信用してくれんと噂ばっかり広めよってな、あんな会社辞めてよかったよ、清々したわ 逆に君らに感謝してるくらいでね」



佐分利:「電車に飛び込んだのでは」



菊池:「ああ あれか あれはこけてん 駅のホームでこけてん ホームから落ちてん そしたら 間の悪いことに 電車が来て 慌てて ホームの下に隠れてんけど ちょっと擦り傷してなあ そしたら大げさに飛び込み自殺か とか書かれてさ 事故やちゅうてんのに また駅員が あの時の痴漢に疑われた人や、 言いやがってさ そんなことが広まってさ ただこけてん それだけやねん でも恥ずかしいから まあ新聞に載った記事通りに振る舞おう思てさ そしたら あの呑み屋で この彼がおったから おお あの時の痴漢の彼や 思て ちょっと話しかけてみよと それで声掛けたんやけど 何か 外へ出て ほらあの時の 痴漢に間違われた男や 言おうとしてたんやけど 彼が僕の手を振りほどいたか 何かの拍子に こけてん またこけてん そしたら 頭打って それから意識が無くなってもうてな 気がついて 立ち上がったら ふらふらしてな ああゆう時って意識が戻ったからって急に立ち上がらん方がええで ほんまにふらふらして 川あるやろ 橋があって そこで こけてん またこけてん ざぱあ 川ん中に落ちてさあ 上見上げてたら こいつ(富士子)の顔が浮かんでた 最後にはやっぱりこいつの顔を思い出すんかいなあ そう思たなあ そのままゆらゆらと川に流れていったんやねえ このまま川に流されていくのもええなあ そう思てん」



客:「すべてはつながりというか連鎖やな」



青:「それで運悪く菊池は死ぬんやけど、死んだら終わりやのうて、それはそれでまだ繋がってる思いますねん。幽霊になって、神様になって向こうからこっちを見てはりますねん。こっちの世界とむこうの世界はつながっていて、ぐるぐる回ってますねん」



客:「ほほー」



青:「おおげさやけど、宇宙の星の動きと同じですねん。ゆっくり回ってますねん」



客:「輪廻ってやつやな」



青:「そうなんですわ」


縁起




客:「輪廻かー、たしかに『ゆっくり回る菊池』の世界観はまさにそうやなー、巡り合いやなー」



青:「まさに、巡り合い、人と人とのつながり、ご縁ですわ」



客:「最後にもう一度、梶田真章さんの言葉を紹介させてもうてええか」



青:「はい」




「縁」あればこそ




ご縁がある、ご縁がない。



ふだんの暮らしの中で、よく使っている言葉ですね。人にしろものにしろ、「縁があった/なかった」としか考えられないような関わり合いを、誰しも経験しているのではないでしょうか。この言葉が佛教から来ていることはご存じかもしれませんが、この「縁」、正確には「縁起」こそが、佛教のもっとも大切な教えなのです。



「縁起」とは、すべてのものが関わり合っているありようのことです。人も動物も植物も、すべての存在は原因と条件という「因縁」が整うことによってあり、何ものも他のいのちと関係なく、それだけで存在することはできません。個々のいのちは、お互いに支え合い、あるいは傷つけ合いながらも、他のいのちがあってこそ、初めて「自分」となるのです。



まず第一に、私たちは、ひとりで生まれてくるのではないですね。因縁によって、生まれるべくして生まれてくるので、両親の存在もひとつの縁にすぎませんが、両親がいなければ自分もこの世にはいないわけです。



大人になって社会に出て、自立して生きているつもりでも、まったく他のいのちと関わらないということはあり得ません。いつも通る道に気持ちのいい木があったり、朝晩行き会う犬や猫はいませんか。あるいは、はからずも鉢植えの花を枯らしてしまったことはないですか。さまざまな関わり合いのなかで、個々のいのちはあるのです。



もうひとつ、何かを「見る」ということについて考えてみましょう。わたしたちは目でものを見るわけですが、そもそもそこに、見る対象があるから見えるのですね。目があるだけでは「見る」ことはできない。すべてのものは「現象」なのです。単にその時々のものごととしてあるのであって、変わらずあり続ける絶対的な「実体」などありません。「こと」は「もの」によって起こり、「もの」は「こと」によってつくられます。



ですから、「わたし」を存在させているのも「わたし」ではありません。無数のいのちの重なりが、「わたし」のいのちとして現れているのです。「わたし」の存在を決めていくのは、まわりとの関係でしかありません。「縁起」とは、この世をつかさどるものであり、「わたし」が生きているあいだ、また生まれる前も死んだ後も、変わらずあり続けている世界のありかたである。それを「真理」とも呼ぶのです。



「わたし」という実体はどこにもない。
これが二千数百年前にお釈迦さまが悟られた、佛教という宗教なのです。



他のいのちとの関わり合いの中で、まさに「わたし」は、生かされ、生きているのです。「わたし」の人生を送る中で、「わたし」の意志はほんの一部にすぎません。明日法然院に行こうと思っていても、朝起きたら雨で行きたくなくなった、ということもあるでしょう。「行きたい」という意志を成り立たせる条件が整って初めて、じっさいに「行く」となるわけです。条件が整うことは当たりまえではありません。



こう申し上げると、縁というのは偶然もたらされるものだと思われるかもしれません。しかし、縁は必然なのです。思いがけない出会いや別れも、悲しいできごとさえも。このことは、運命論などとはまったく違います。すべてあらかじめ決まっているのではなく、それぞれの、その時々の関係性において決まっていくものなのですから。



ふつうの人間の頭では、到底理解し得ないところに真理はある。
「理解できないものなど存在しない」と、片づけてしまうのは簡単です。しかし現実には、納得できない、あるいは予想もつかない不思議なことが起こります。どうしてあのタイミングであの人に会えたのか、どうしてあのときとっさにあんな行動がとれたのか。それをつきつめていくと、私たちの知恵の及ばない「何か」がある、と考えたほうがつじつまが合う。その「何か」こそを、縁起というのですね。



すべてを理解する必要などないし、またできるわけもないのです。まずはそこから出発したらどうでしょうか。



梶田真章『ありのまま』(リトルモア)pp.90-93.




あ、あと『ゆく菊』には「良心の呵責」というキーがありますけど、それについてはあえて語らないでおきましょう。観た人々がいろいろと想像力を働かせて考えるでしょうから。





さて、そろそろ感想文もお開きとしましょうか。





この流れでゆくと、最後はSMAPのこの曲ですかね。





解散は残念ですけど....





世界に一つだけの花















過去作品《感想文》



僕たちが好きだった川村紗也




山笑う













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阪根タイガース日記


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小松台東『明るい家族、楽しいプロレス!』






    




《演劇》小松台東




タイトル:『明るい家族、楽しいプロレス!』



作・演出: 松本哲也


■■出演


瓜生和成(東京タンバリン)


永山智啓(elePHANTMoon)


佐藤達(劇団桃唄309)


異儀田夏葉(KAKUTA)


今藤洋子


川村紗也


久我真希人(ヒンドゥー五千回)


吉田電話(クロムモリブデン


松本哲也



■■スタッフ


舞台監督:内山清人(サマカト)
音響:佐藤こうじ(SugarSound)
照明:南香織(LIGHT-ER)/ Nope(劇団スカブラボー)
演出助手:福名理穂(ぱぷりか)
宣伝美術:土谷朋子(citronworks)
舞台撮影:保坂萌
制作:塩田友克
企画・製作:小松台東



■■日程・場所


2016年9月6日(火)〜11日(日)@下北沢駅前劇場






 《感想文》


松本哲也と小津安二郎






観劇したのは日曜日だったけれど、その日も仕事で同僚が出社していたからサボる訳にもいかず、観劇後に会社に向かったのであった。何をやったんだったっけ? たしか在庫のカウントにけっこう時間がかかって結局夜遅くなってしまって、蔦屋に寄って観ないままのDVDを返したのだけど、昼に観た小松台東の影響で無性に小津安二郎を観たくなって、蔦屋にある小津安二郎を全部借りて観たかったけれど、どうせどうせ観られないのは分かっていたので、『秋刀魚の味』だけを借りて帰宅したのであった。



秋刀魚の味』は、老年の淋しさという明確なテーマが描かれており、観るポイントを掴みやすいからかもしれないけれど、淡々と展開してゆくストーリーに飽きることなく、ワンシーンワンシーンにぐっと見入ってしまうのであった。日曜日に観劇した小松台東もそのようであった。



小松台東の作品を観劇するのは3度目で、松本哲也の作品を観劇するのは4度目であった。初めて観た『山笑う』や次に観た『想いはブーン』では宮崎弁のインパクトが強かったので「宮崎」という視点に着目して観ていたのだけど、前回観た『勇気出してよ』くらいから、宮崎という縛りを意識せずに直に人を観ることができるようになってきて、今回観た『明るい家族、楽しいプロレス!』も人をつぶさに観ることができた。



そうやって人を観ていると出てくる人みんな一人一人のこころの奥が見え隠れしてきて、いま僕が観たい演劇というのはこういう演劇であって、「いま僕は一番いい演劇を観ている!」という実感が湧いてくるのであった。






平田オリザ小津安二郎




そもそも演劇ということで言えば、青年団平田オリザ)を観劇する際に、小津安二郎のことを想うべきかもしれない。なぜならば、平田オリザが開拓した現代口語演劇、いわゆる静かな演劇は、既存の演劇スタイルのアンチテーゼという意味合いが強いけれど、そのルーツをたどれば小津に行き着くはずだし、両者のスタイルは親和性が高いからである。



しかし、意外にも青年団を観劇して小津安二郎を想ったことがない。強いて言えば、『眠れない夜なんてない』は小津を彷彿させるけれども、平田オリザ小津安二郎はどうも違うような気がする。


《劇評》青年団「眠れない夜なんてない」



評者:泉尚子


タイトル:夢見る力に何かができるか?







撮影:青木司




何が違うのか?



平田オリザ小津安二郎とは近いようでいて、世界の見方、捉え方が違うように思う。平田オリザの作品を観ていて感じるのは、彼は社会を見ているということである。当然、人も見ているのだけれど、まず社会があって、その社会、その時代に生きる人を描いているように感じる。



対して、小津安二郎は人を観ていると感じる。もちろん、その時代背景やその人の過去が色濃く出てくるのだけど、まず人がいて、その人を見つめていると、その時代、その社会が見え隠れしてくるというように感じる。







松本哲也と小津安二郎




では、今回観劇した松本哲也(小松台東)はどうか? 彼は後者である。彼が描いているのは人である。確かに松本哲也が描く作品から、宮崎という場所は切り離せないし、宮崎弁という言葉も切り離せない。



う〜ん、どっちやろ?



宮崎という場所がああいう人々を生み、宮崎弁という言葉がああいう人々を引き付け合うのだろうか?



う〜ん、どっちやろ?



鶏が先か、卵が先か? そんなことを決める根拠はどこにもないが、「卵は鶏ではない」ということだけは確かである。


by 建築家・倉田康男

倉田先生のロジックに習えば、「社会が先か、人が先か?」、そんなことは分からんが、「人は社会ではない」ということだけは確かなのだ。人を見つつ社会を捉え、社会を見つつ人を捉える、この両方が必要なのは間違いないのだけど、描くのはどちらかだ。



ここは独断と偏見で決めさせてもらおう



エイヤー!!


作家が描くもの



平田オリザ=社会


小津安二郎=人


松本哲也=人



こう考えると面白いのは、平田オリザから松本哲也へと至る流れである。松本哲也という演劇人がどこから出てきたのかはよく知らない。ウィキペディアで調べても巨人の松本哲也しか出てこないし、おそらく松本は平田チルドレンではない。






平田オリザと平田チルドレン




いわゆる平田チルドレンと呼ばれる演劇人で言えば、岡田利規チェルフィッチュ)や前田司郎(五反田団)や多田淳之介(東京デスロック)や松井周(サンプル)という面々が思い浮かぶ。しかし、実は彼らは平田オリザ青年団)のスタイルを引き継いでいない。これは平田オリザがそういう人であるということに起因しているが、平田はじしんと異なる才能を持つ演劇人をじしんとは異なる方へ育てているし、じしんのスタイルをそのまま継承させてはいない。



だから、いわゆる平田チルドレンからは平田オリザの後継者は出てこない。





チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人であるのか?」 撮影:佐藤暢隆




五反田団『さようなら僕の小さな名声』©五反田団




東京デスロック『東京ノート』 撮影:石川夕子




サンプル「あの人の世界」2009年 Jun Ishikawa






松本哲也と平田オリザ




このような事情から、もし平田オリザの後継者が現れるとすれば、それは平田のスタイルと親和性の高い演劇人が自然発生的に生まれる場合である。松本哲也がそれにあたるかもしれない。



小松台東(松本哲也)を観劇してつくづく思うのは、「現代口語演劇」という観点から見ても面白いということである。先にも触れたように平田オリザが描いているのは《社会》であるのに対して、松本哲也が描くのは《人》である。現代口語という観点でいえば《社会》よりも《人》に着目すべきであり、松本哲也は自然とそれができている。もしかしたら平田が「現代口語演劇」でできなかったことを松本がやっているかもしれないし、今後やるかもしれない。



小松台東(松本哲也)をこういった観点でみてみると興味深い。





小松台東「想いはブーン」(photo:保坂萌)






明るい家族、楽しいプロレス!




さて、『明るい家族、楽しいプロレス!』はどうであったか? タイトルにあるとおり、この作品はプロレスがモチーフになっているのだけど、一言で言えば、「男の弱さ」について描かれた作品であった。



中島家という、宮崎のとある一家が描かれており、主人公は小学校6年生の長男。長男といってもお姉ちゃん(長女)との二人きょうだいで、弟や妹がいるわけではない末っ子。彼がプロレス好きで、プロレス雑誌を読みふけったり、プロレスのビデオを見ようとしたり、近所の友だちとプロレスごっこをしようとしたり、スタン・ハンセンの



ウィーーーー!



というかけ声のモノマネに象徴されるように、彼の鬱屈とした感情が「プロレス」を通すことによって少しばかりかもしれないけれど、解き放たれる。





確かに、



テンションあがるぅーーーー!!!!!



そんな少年ではあるが、けっして強い男の子ではない。お姉ちゃんとケンカをすればボコボコにやられるし、お母さんにもかなわない。街にプロレス雑誌を買いに行ってカツアゲに会うというエピソードが語られていたように、学校でも目立たない内気な少年だと思われる。



そんな少年がプロレスに夢中になって、強い男に憧れてつつ、その一方で、決して強い男にはなれないじぶん、現実を受け入れつつ、成長してゆくであろう姿が描かれている。しかし、この作品はこれに留まらない。



中島家にはとうぜん、お父さんもいるし、おじいちゃんもいる。さらに友だちの誠くんもいるし、お姉ちゃんがどうやら好いているらしい同級生の隼人くんもでてくる。あと土井とかいうお父さんの知り合いらしい、胡散臭いおっさんも出てくる。それからお母さんの友だちの毛利さんの息子もいて、彼は野球の強豪校に入って寮生活をしているらしいのだけど、タバコを吸っているのが見つかって退学になってしまう...



この作品で描かれている世界が重症なのは、弱っちいのが、この少年だけではないということだ。出てくる男が、あいつもこいつもどいつも、とことん弱っちいのだ。



男という生き物は、果てしなく弱い。



これは真理であり、根深い問題である。






父の不在




物語は、この少年が学校から家に帰ってきて宿題もせずにプロレス雑誌をみたり、プロレスのビデオを見ようとする様をお母さんがたしなめる、そのやり取りを軸に展開してゆく。そこにお姉ちゃんが帰ってきたり、おじいちゃんがやってきたり、毛利のおばちゃんがきたりして、だんだん中島家をとりまく世界がみえてくる。そして、この一家の異変に気付く。



お父さんがいない!



こう言い切ってしまうと語弊があるかもしれない。お父さんはちゃんと生きているし、出てくるから。でも、確かにいるのだけど、事実上いないのだ。



その事実は、まずお姉ちゃんの様子から察することができる。お姉ちゃんは、おじいちゃんっ子で、おじいちゃんとはうちとけあうのだけど、父親は完全にNGなのである。父親と距離を取ろうとするのは、思春期の女の子にありがちな行為だけれども、どうやらそれだけが理由ではなさそうだ。



対して弟はどうか? これがお姉ちゃんとは逆で、おじいちゃんとは距離を取ろうとするのだけど、父親は受け入れており、そばにいたいという気持ちでいる。



さて、少しばかり遠回しに言ったけれども、この父親はすでに別居しており、いまは家族のところにはいない。ときどき何かしら用事があって、ほんの束の間だけ家に帰ってくる。その繰り返し。



このような家族の異変にしばらく気づかなかったのは、中島家の「母」が竹を割ったような性格で、よくできた人だったからだ。子どもはまだ子どもだし、おじいちゃんはもう現役を引退しているから生活感がない。おばあちゃんは入院しているようで、その看病はそれはそれで大変そうだし、あれもこれも全てのことが、お母さんにのし掛かっていて、いつ潰れてもおかしくないのに、何もないかのように平然としている。そんなたくましい母親の勇姿に、ハンセンとタッグを組んでいたブルーザー・ブロディの姿を見たのは僕だけであろうか。






ブルーザー・ブロディ





母・和子(異儀田夏葉) photo:保坂萌



失礼しました。悪ノリが過ぎました。似ていたのは髪型だけでした.... 汗。。。



そんな母・和子もやはり女性である。夫・康史が帰ってきても、ちゃんと自分をみて話してくれない。そんな情けない夫の姿をみると怒りを覚えるし、本当にがっかりして力が抜けてしまう。頼りない夫だけど、いつか戻ってきて家族を支えてくれる。そう思うからこそ、彼女は頑張れるのであって、決して強い人ではない。



しっかりしろよ! 康史!!



オマエがぜ〜〜んぶわるいんだぞ!!!!!






男の弱さ/男は逃げる




康史は父であることに負けた。祖父・恭平から継いだ会社では、恭平と方針があわず期待に応えられなかった。恭平と一線を画すというスタンスを取ることによってなんとかやっているようだけど、決してうまくいっているようには思えないし、会社を引っ張るリーダーにのし掛かるプレッシャーに負けて、逃げているのであろう。



職場だけでなく家庭でも同じである。というか、こっちは完全に白旗を振っている。すでに別居しているし、子どもたちに「お母さんの幸せは、おまえたちにかかっているんだぞ!」なんてことを声を大にして言ってしまっている。もう、どうしようもない。



嗚呼、康史...



しかし、康史は男の象徴であり、ある意味、男の真実を物語っているのかもしれない。



先にも述べたけれども、弱いのは父・康史だけではない。息子の啓太も弱いし、祖父・恭平も弱い。恭平も康史にもっとちゃんと言えばいいのに言えない。やはり弱い。



はじめは弱いのは啓太だけだと思って観ていた。ところがその父・康史も弱い。祖父・恭平も弱い。男はみんな弱い。世代を遡ってもずっと弱い。どこまで遡っても弱さが無限後退してゆくし、啓太が将来結婚して生まれる息子も、やっぱり弱いのだろう。弱さが永遠にループする。



男はつらいよ....



男はみんながみんな寅さんじゃないけれど、悲しいかな、これもまた真実だと思う。例えば大きな会社に入って経営が左右されるような大きな問題に直面することなく、なんとなしに家族を養い、人生をまっとうするということもある。戦後の混乱期に比べれば、よのなかも随分安定してきているから、大半の人がそういう人生を送るのかもしれない。



しかし、ひとたび会社が倒産なんてことになると大変なことになるし、そのような局面で絶えず前向きでいるなんて人はほとんどいない。たとえ自身はポジティブで前を向いていると思い込んでいても、そういう場合は、たいてい自己の利益のみを露骨に求めてしまっていたり、ズルをしていたり、その歪みが周りにいる人々に及んでしまっているのである。



男は弱くて、いつも逃げている。



そうは言っても、がんばらんといけんのだよ ...



長男・啓太がプロレスを通して見ているのは、本来は強いはずの父・康史である。長女・明子が思いを寄せる隼人くんに見ているのは、不器用だけど本来は優しいはずの父・康史なのである。



家族みんながまた食卓を囲む、そんな希望もまだまだあるではないか。



がんばれ! 康史!!









さてさて、現実にもどろう。





三連休はさすがにまるまる休む訳にはいかないなー





逃げないで、がんばろう! おい! そこのじぶん!!











過去作品《感想文》



小松台東



勇気出してよ


小松台東



想いはブーン


僕たちが好きだった川村紗也




山笑う













阪根タイガース


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阪根タイガース日記


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『イヌの日』









タイトル:  『イヌの日』



作:  長塚圭史



演出: 松居大悟


■■出演


尾上寛之


玉置玲央


青柳文子


大窪人衛


目次立樹


川村紗也


菊池明明


松居大悟


本折最強さとし


村上 航


加藤 葵


一色絢巳



■■スタッフ


美術:片平圭衣子
照明:松本大
音響:加藤温
音楽:森 優太
衣裳:高木阿友子
ヘアメイク:大宝みゆき
演出助手:川名幸宏
舞台監督:川除学 浦本佳亮
演出部:松尾明日望
照明:中佐真梨香
音響操作:岡田悠
大道具製作:C-COM舞台装置
小道具:高津装飾美術
協力:至福団 松本デザイン



■■日程・場所


2016年8月10日(水)〜 8月21日(日)@下北沢 ザ・スズナリ






 《感想文:なぜ広瀬なのか?》



2016年8月14日(日)SMAP解散発表!!






月曜日から仕事が大変なことになるとわかっていたので、劇場を足早に立ち去り次の日に備えていたのだが、わかっていた通り大変なことになってしまって、怒涛の渦にかんぜんに巻き込まれてしまった。これからどうなってしまうのだろう。



えっ! あれから、もう一週間たつのか!?



あの日観た舞台はなんだか時間が止まっているようだった。小学校の初恋の女の子を15年間防空壕に監禁するという物語。阿佐ヶ谷スパイダース長塚圭史(1975年生)作の戯曲をゴジゲンの松居大悟(1985年生)が演出したという舞台。



長塚圭史とは同い年ということもあって前々から興味を持っていた。きっかけはやはり父親の長塚京三だった。テレビドラマにもよく出ているから当然知っていたのだが、長塚京三に興味を持ったのは、確か日経新聞に文章を連載していた時があって、その文章がすごくよかったからだ。今はスクラップブックを捨ててしまったから、すぐにその文章は出てこないけれど、ナチュラルな語りのなかに知性が感じられる文章で、俳優のふだん見られない一面を垣間見たようで印象に残っている。



私の老年前夜

私の老年前夜



長塚圭史(1975年生)との接点はあまりない。実は阿佐ヶ谷スパイダースを僕はまだ観たことがない。同世代で言えば、チェルフィッチュ岡田利規(1973年生)やハイバイの岩井秀人(1974年生)や五反田団の前田司郎(1977年生)はよく観たし、影響を受けた。対して、長塚圭史と言えば思い出すのは、30歳代の前半に本屋で働いていた頃、ちょうど同い年くらいの作家や研究者の単著が出版されはじめたのでフェアを打ったとき、戯曲を出版している数少ない劇作家であったということ。おそらく同世代の劇作家のなかでは最も早く評価された劇作家ではなかろうか。だから彼から感じる世代の空気というのは、岡田や前田のようにトレンドから一線を画する、時代を斜に構えて見るような感じではなく、それこそDragon Ash降谷建志m-floが持っている空気。タレントで言えば、木村拓哉武田真治内田有紀一色紗英あたりの僕らの世代をリードするというか、ちょっと粋がっていて、とんがっている、そんなかんじの空気。








小学校の初恋の女の子を15年間防空壕に監禁するという物語




この触れ込みを聞いて、さすがに横井庄一を連想することはないし、「防空壕」というところに引っかかるのはおそらく戦後世代であろう。70年代中頃生まれの僕らがひっかかるのは「小学校の初恋の女の子」というところで、すぐに思いつくのは連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤。だから、『イヌの日』もまずは異常性愛、ロリコンといった文脈で観てしまった。



ただ、これはすぐに違うと分かる。監禁されている少女が傷めつけられている訳ではなく、また死の恐怖に怯えている訳でもない。生き生きとまでは言わないが、防空壕のなかで何不自由なく暮らしている。はじめはこの状況をちょっと理解できなかったけれども、このような形で関係が安定することもあり得るとは思えた。さらに防空壕のなかでは、この菊沢という少女以外に、柴という少女、孝之と洋介という少年も暮らしている。小学校の初恋の女の子である菊沢を監禁した中津という男が、菊沢のお願いを聞くかたちで、さらに3名を監禁したということらしい。



監禁という言葉から感じられる暴力的なイメージ


防空壕のなかで健気に戯れる監禁された少年少女たち

パンフレットのなかで、長塚圭史は「誰に嫌われても構わないと腹を決めて書いた暴力性」とこの作品について述べている。しかし、この暴力性は、暴力性という文脈で言えば歪んでいないか?



確かに暴力性という意味では、「イヌの日」で描かれている地上の世界、いわゆる我々が過ごしている日常の世界、そこに出てくる人々のすさんだ生活は暴力と共振している。女の性質をうまく利用して金をせびるヒモ男(明夫)、そんな明夫にお金をあげてしまう、愛情の注ぎ方をコントロールできず、間違った方向へ間違った方向へ注いでしまうダメ女(陽子)、良識の持ち主で一見まともに思えるけれど、いったい何をしたいのかよく分からない、主体性の弱い優柔不断男(広瀬)、ちゃんと仕事についていて、もっとちゃんと自立できそうなのに、いつまでもだらだらとぐだぐだとつるんでいるその名の通りのクズ男(九頭)、そして少年少女を監禁している男(中津)、少年少女を監禁していることはもちろん隠している訳だが、日常の彼も気性が荒く、喧嘩っ早い。イージーゴーイングな質で、ヤクザ映画でいうところの典型的なチンピラである。



これは特に世代どうこうではなく全世代共通な負のイメージかもしれないけれども、90年代前半のバブル期から90年代後半までは、こういった生きることに前向きになれない若者の荒んだ姿というのは一定のリアリティーを持っていたように思う。対して2000年代初期の就職氷河期以降は、こういった悪ノリをする若者はいるにはいるけれども、若者たちの多勢がよのなかの流れに従順になったように感じられる。





地上 / 地下




『イヌの日』を観ていて感じたのは、少年少女を監禁している中津の暴力性、狂気、異常さよりも、この作品の核は「地上(我々の日常)/ 地下」との対比であるということだった。例えば、東京タワーの展望台に登ったときに感じたことだが、そこは地上の喧騒から隔離されていて、時間が漂って止まっているような、何年も前の昔の東京に来たようだった。



この作品の地下、防空壕のなかもまさにそんな感じであった。先ほどから僕は監禁されているのは少年少女と書いているけれども、監禁されているのは中津の小学校の同級生の菊沢であり、監禁されてからもう15年も経っているので、年齢的にも30歳に近い。ほかの3名も同じくらいの年齢だから、同じく少年少女ではない。



菊沢を演じたのが青柳文子(1987年生)であり、洋介を演じたのが大窪人衛(1989年生)であり、孝之を演じたのが目次立樹(1985年生)であり、柴を演じたのが川村紗也(1986年生)であった。彼彼女らは実年齢がちょうど30歳前後なのだけど、見た目が30歳には見えない。当然役作りということもあるだろうが、彼彼女らのなかでどこか時間がとまっているような不思議な感じがした。この作品で一番惹かれたのは、まさにこの止まっているはずがないのに止まっているように見える「いま、ここ」の空気だった。



『イヌの日』は先ほどあげた幼女連続誘拐殺人事件ではなく、10年近く監禁し、2000年に犯人が捕まった新潟少女監禁事件がモチーフになっているようだ。いま、ウィキペディアで調べて読んだのだが、約10年にわたって少女を監禁する状況は、動物園の飼育員が飴と鞭で動物を手なづけるプロセスとまったく同様であり、はっきり言って異常である。しかし、『イヌの日』ではこの異常さにはあえて踏み込んでいないと感じられた。確かにこういった異常さをとことん掘り下げてみるのも興味深いとは思うが、そっちへ行くのではなく、ここに立ち上がった空間を描くことに徹した長塚圭史の判断こそが最も興味深い。





デストピアユートピア




「地上/地下」の二重構造、「表層/深層」の二重構造。よのなかもこの様であり、人のこころもこの様である。このような二重構造を描いた傑作をあげるならば、この2作品だろうか。



羊たちの沈黙




ドラゴンタトゥーの女




興味深い作品に違いないが、いずれも異常性愛者を描いている。つまり監禁者であり、殺人者である人間の内面に迫るという意味での傑作である。例えば、「ドラゴンタトゥーの女」の犯人像、北欧のスタイリッシュなミニマリスト、完璧主義の潔癖性であり、自己陶酔性が強いという特徴付けには説得力がある。彼がEnyaを聴きながら自己の感情を高ぶらせるシーンは印象的である。








しかし、わざわざEnyaを流してみたけれど、『イヌの日』の中津とEnyaはまったく相容れないし、そもそも中津は音楽を聴くような趣味を持っているようにも思えない。15年にも渡って人を監禁するというこの異常な状況を引き起こしたのは中津に違いなく、そういう意味では彼はキーマンであるに違いない。ただ、やはり彼には大して興味は持てないし、彼を掘り起こしても何もでてこないとさえ思える。極論を言えば、『イヌの日』において犯罪者の中津はどうでもよく、繰り返すが重要なのは、彼によって引き起こされた世界であり、この世界を読み解く上で、非常に重要な役割を果たしているのが俳優である。





俳優 / 登場人物




今回の『イヌの日』は、公演前からインタビューや対談、稽古場レポートや役者紹介などがあり、いい感じで観劇日を迎えることができた。


レポート




《舞台》イヌの日


この作品は、俳優がどのように登場人物に入ってゆくのかがすごく難しく、しかしながら、そこが一番の見所だと感じられた。俳優同士が話している姿を普段はなかなか見られないので、対談は非常に興味深く読んだ。俳優みんなが試行錯誤して、稽古でいろいろ試したり、失敗したりして、アジャストしてゆく。俳優のこの営みは観客としてもすごくワクワクするし、ものづくりをしている僕の視点に引きつけて観ても、ぐっとくる。



台本を読んでその人物がすっと入ってきたかと思うと、しかしそれが逆に悩ましくなる。成る程、分かる気もするが、ここは俳優の感性が一番出るところだから、そういうふうに安易にわかったと思わないで、俳優の演技をつぶさに観ようと思い、観劇した。



そして、実際にかなり事細かに観たのだが、やはり分からなかったのだ。何が分からないのかと言えば、防空壕のなかで暮らす4人、菊沢、柴、洋介、孝之がしらふなのか? 演じているのか? 本心がどこにあるのか? また本心は本心なのか?



地上との対比という意味では、地上はディストピアであり、地下はユートピアと言える。しかし地下という空間だけで考えるならば、そこは純粋なユートピアではやはりない。死に限りなく近いという意味ではディストピアであり、しかしながら、逆説的に最もユートピアと言える空間でもある。いったいどっちなんだ???



この分からなさをいい意味で表現しきったのは、1975年生の長塚圭史自身が演出するのではなく、1985年生まれの松居大悟が演出したからであり、俳優陣も1985年前後生まれだったからだろうか?



世代というのは、5年間隔くらいに違いを感じる。僕の生まれた75年はベッカム世代なのだけど、5年下の80年生まれは松坂世代と呼ばれていて、やはり彼彼女らとは世代の違いを感じる。ただ最近はお互い歳をとってしまったので以前ほど違いを感じなくなった。しかし、さらに5年下の85年生まれあたりは、やはり違うし、正直分からない。年齢的には彼彼女らももう30歳だから決して若くはないしギャップを感じないけれど、何に影響を受けてきたのか?どのように時代の空気を感じながら生きてきたのか? 彼彼女らのメンタリティーはどうなのか? さっぱり分からない。



そういった文脈もあって、今回の舞台『イヌの日』は、世代の違う俳優たちを感じるという意味で貴重な機会であった。しかし、この作品だけで決め付けるのは、やっぱりやめようと思う。彼彼女らの演技を今後も観てゆくなかで、彼彼女らとの違い、あるいは同一性を感じ取れればいいように思う。



そして、今回、もっとも気になった俳優は、目次立樹(1985年生)と玉置玲央(1985年生)のふたり。目次立樹は今回初めてみた俳優だが、何が気になったかというと、この人、文章がすごくうまい。


目次立樹レポート




キャスト紹介


先にあげた長塚京三と同様、俳優は演技するのが仕事だけれども、考える力は当然必要になるし、彼くらいの文章が書けるということは、考える力、表現力のポテンシャルが高いという証だろう。それこそ目次立樹は長塚京三くらいに化けるかもしれない。注目したい。



もう一人、玉置玲央。彼の舞台は何度も観たことがあるし、おそらく、この世代の俳優のなかで一番うまい。俳優としての天性の明るさとプロとしての飽くなき探究心を兼ね備えている。彼がいったいどこまで伸びてゆくのか? 観てみたい。





中津 / 広瀬




玉置玲央に触れたところで、『イヌの日』についてもう1点加えておく。長塚圭史により描かれたこの作品は、やはりよくできている。単なる舞台作品というのではなく、世界がちゃんと表現されている。構造がしっかりしているし、簡単には解釈できない謎めいたところもある。



戯曲の構造ということで言えば、やはりシェイクスピアが頂点と言うべきであろうし、確かに『イヌの日』はシェイクスピア作品ほどの緻密さや複雑さはない。しかし、「地上/地下」、「表層/深層」の二重構造と双方の関係の仕方、それぞれの登場人物の性格付け、異なる時間の流れの交錯など、ものすごくうまく設計されている。そして、先ほど謎めいたと言ったのは、玉置玲央が演じた「広瀬」という存在である。



『イヌの日』で描かれている世界を引き起こしたのは中津である。そう言った意味では中津が主人公であり、中津を中心にこの世界は動いている。しかし中津は途中ほとんど出てこなくなるし、その間、誰が中心になっているかと言えば、広瀬なのだ。



この広瀬という人物がよく分からない。何が分からないのかと言えば、そもそも、この作品に広瀬は必要なのか?ってこと自体が分からない。こいつは一体なんなんだ? 中津は監禁している張本人だし、陽子と明夫はダメ人間の典型として、地上世界を描く上で必要だし、そのほかの人物も何かしら特徴を備えている。しかし、この広瀬っていうのは何の特徴もない。いてもいなくてもいいはずなのに、実はこの作品は広瀬の視点で描かれている。主人公は誰か? と問えば、広瀬ということになる。



これが『イヌの日』という作品の構造のなかで一番謎めいている点であって、一番興味深い点である。



うまくまとめてしまうと、これは広瀬の夢であった、あるいは広瀬の「表向き/心のなか」を「地上/防空壕」という形で描いているということになるけれども、そうであっても広瀬のポジションというのは、やはりおかしいし、謎めいている。



なぜ中津ではなく、広瀬なのか?










非常に見応えのある傑作でした !





明日が千秋楽かー!





もっと観劇をオススメすればよかった!





皆様もぜっひ!!!!!





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《舞台》イヌの日



















阪根タイガース


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MCR『逆光、影見えず』









《演劇》MCR+三鷹市芸術文化センターPresents




太宰治作品をモチーフにした演劇 第13回



タイトル:  『逆光、影見えず』



作・演出: 櫻井智也


■■出演


川島潤哉


小野ゆたか(パラドックス定数)


後藤飛鳥五反田団


川村紗也


堀靖明


日栄洋祐(キリンバズウカ)


道田里羽


北島広貴


伊達香苗


櫻井智也


おがわじゅんや



■■スタッフ


舞台監督:川田崇
美術:袴田長武
照明: 久保田つばさ
音響:平井隆史
撮影:保坂萌
演出助手:山本裕子
当日制作:田中のり子



■■日程・場所


2016年6月24日(金)〜 7月3日(日)@三鷹市芸術文化センター 星ホール






 《感想文:巡り逢い》





「櫻井さん、もう死んでもいいんじゃない?」





不謹慎な言い方だけど、「これだけの作品を作れたならば、もう死んでもいいだろ」って心底思った。





素晴らしかった!





太宰治を読んだことがない人も、演劇を観たことがない人も、MCRを観たことがない人も、出演している俳優たちを知らない人も、「観てよかった」と感じるだろう。そして、太宰治をずっと読んできた僕も、演劇をずっと観てきた僕も、MCRをずっと観てきた僕も、出演している俳優たちをずっと観てきた僕も「嗚呼、観てよかった」と、心の奥底からぶぅわぁあああーーーと湧き出る喜びの感情を噛み締めながら、そう思った。





ホントに面白くて、素晴らしい作品だった!!





どのように説明したらいいのだろうか? 「何十年も解けなかった数学の難問が解けた!」という瞬間に立ち会ったと言うべきだろうか? そんな難問を解いたことがないから分からないけれど、おそらく、そういう難問っていきなり解ける訳ではなくて、すでにもう99%は解けていて、事実上、解けているのだけど、あと一歩が分からない。その一歩が訪れるのか?訪れないのか? あした訪れるかもしれないし、何十年費やしても訪れないかもしれない。それは分からない。そういうものだと思う。その一歩が、今回訪れた、ようだ。





あるいは、こう言った方がいいかもしれない。きょうは6月26日だけど、7月7日におりひめとひこぼしが一年に一度巡り逢う。引き寄せの法則っていうのだろうか? 何か宇宙規模の星の運行というのがあって、星に限らず、人の動きも宇宙規模の運行に従っていて、でも個々人の動きだけを見ているとランダムに動いているようにしか見えないのだけど、そのバラバラな人々の運行が同期する時がある。今回の作品で、様々な人々の運行がピタッと一致した、ようだ。





奇蹟!!!









 《巡り逢い》


(1) 櫻井智也太宰治




MCRを何作品か観るうちに、「櫻井さんは太宰治を読み解けるはず!」と僕も思っていた。ふたりの間にシンパシーを感じていた。そして、ようやく巡ってきたかー、《太宰治作品をモチーフにした演劇シリーズ》、第13回目にして満を持して櫻井智也登場!!



これを機に、太宰治の『晩年』をちびちび読み進めていたのだけど、「晩年」というタイトルではあるのだけど、これは太宰の初期作品集であって、まだ青臭さはあるのだけど、太宰文学がこの時点ですでに完成されているというか、読んでいても他の作品以上に太宰を感じられて、思っていた以上にストンと僕のなかに入ってきた。



今回取り上げられたのは『晩年』のなかの「逆行」という作品なのだけど、この「逆行」自体が一つの作品というのではなくて、4つの断片から成り立っていて、そのまま読んでもよく分からない。ただ、これらが出鱈目に並べられているのではなくて、この4つの断片が太宰文学の全体像を描いている。



だから、これを作品化する際には一字一句そのまま立ち上げるのではなく、意訳が必要になるし、構成も新たに考え出さねばならない。が、『逆光、影見えず』はこれが恐ろしいほどにうまくハマっていた。おそらく、これ以上の解法はないというくらい、うまく読み解けていた。



櫻井智也さんが太宰治に迎合した感じはまったくなかった。むしろ、『逆光、影見えず』は、まんま櫻井智也であり、まんまMCRであった。さらに太宰作品をモチーフにしているというよりも、 櫻井さんの近作、劇ラヂ『あさはかな魂よ、慈悲の雨となれ』や『奴らの影踏む千葉』がモチーフになっているとさえ感じられた。にもかかわらず、これは太宰であった。




太宰治なのか? いやむしろ櫻井智也だろ!


(その2)川島潤哉と小野ゆたか




今回の『逆光、影見えず』では、主人公のオサムが、ダブルキャストで演じられていた。この意図は、太宰のなかに混在する「ニヒルな太宰」と「ダンディな、あるいはダンディたらんとする太宰」との両面を描くことであろう。現在のオサム、死期を悟ったオサムを川島潤哉さんが演じ、過去のオサム、それなりに挫折は味わっているのだが、まだまだロマンチストの毛色が濃いオサムを小野ゆたかさんが演じた。



川島潤哉さんと小野ゆたかさんとでは、同じセリフを発しても全然違う。当然と言えば、当然だけれども、俳優という生き物は、アジャスト能力が異常に高いので、何でも、いかようにでも演じられてしまう。だからすごく際どいところなのだけど、それでも「神は細部に宿る」というか、俳優の個性というのが細部に残る。俳優の俳優たる所以である。俳優はロボットではないし、ロボットは俳優ではない。



この細部の面白さに気づいたのが、実は前作、『奴らの影踏む千葉』であった。この時にも、主人公の千葉という人物を川島潤哉さんと小野ゆたかさんがダブルキャストで演じるということが行われていた。今回、このダブルキャストがたまたま成功したのではなく、布石はすでに打たれていたのだ。




たぶん左が川島潤哉さんで右が小野ゆたかさん


(その3)後藤飛鳥と妻




今回、オサムの妻を後藤飛鳥さんが演じていた。飛鳥さんと言えば、五反田団五反田団と言えば、後藤飛鳥さんにしろ、望月志津子さんにしろ、西田麻耶さんにしろ、少女性の強い女優(あっ、ごめんなさい、西田さんは少女性云々ではなく、見た感じそのまんま強いです 汗、、、)、で、名作『いやむしろわすれて草』を観た人は、あの四姉妹のイメージが脳裏に焼きついて、なかなか消えないと思う。特にスチュワーデスのお人形の腕をありえない方向に曲げられてしまう姉妹喧嘩のシーンなんかは長く語り継がれることであろう。





それで、後藤飛鳥さん=少女というイメージをずっと持ち続けていたのだけど、これも前作になるのだけど、『奴らの影踏む千葉』の時に、はっとする一瞬があった。この時も飛鳥さんは、千葉の幼い娘の役を演じていたのだけど、可愛らしい少女の表情に、一瞬なにかビックリするくらい大人の女性、それも物凄く苦労した女性の相がふぅっと湧き上がってきたので、ぞくっとした。



そして、今回、飛鳥さんが演じたのは少女ではなく、妻という大人の女性であった。これまでのイメージは、後藤飛鳥=ドロシー(「オズの魔法使い」)だったのだけど、きょうは、後藤飛鳥=田中裕子だった。




田中裕子さん


(その4)後藤飛鳥と川村紗也




オサムの妻を後藤飛鳥さんが演じ、彼女と同一人物ではないけれども、過去のオサムが恋した女性を川村紗也さんが演じた。櫻井智也太宰治川島潤哉と小野ゆたかと同様に、後藤飛鳥と川村紗也にも強いシンパシーを感じる。紗也さんは、飛鳥さんと同様にものすごく少女性が強いのだけど、一瞬で場を凍てつかせる、女性の強靭さ、恐ろしさを併せ持っている。



紗也さんは、すごく可愛らしい女性だから言ったら失礼だけど、奈良美智が描く少女のイメージ。




奈良美智が描く少女


(その5)伊達香苗と太宰治




オサムの妻を演じた後藤飛鳥さん、過去のオサムが恋した女性を演じた川村紗也さんを観ているうちに、この作品は実はオサムはどうでもよくて、オサム以上に、オサムに連なる人物、特に女性が重要なのではないかと感じ出した。太宰、太宰というけれども、太宰作品においても、重要なのは太宰ではなく、太宰と共にいると決意した女性なのだろう。太宰作品から主人公の男性を完全に消してしまって、女性の描写だけを読んでみても面白いかもしれない。



そんななか、飛鳥さんや紗也さんとは違った女性を演じたのが伊達香苗さんだった。オサムの友人であり、オサムが愛したかどうかは定かではない。どちらかと言えば、おそらく愛していない。が、彼女のあのいやらしい目線。かなり作為的に仕向けられたシーンであり、あからさまにいやらしいのだけど、あの目力は馬鹿にできない。夢に出てきそうで、ぞくぞくする...




伊達香苗さん


(その6)道田里羽とMCR




オサムが愛した女性ではない女性で、伊達香苗さんともうひとり、道田里羽さんがいる。彼女に秘められた計り知れないパワーを感じた観客は少なくないと思う。里羽さんがMCRの作品に出たのは今回が初めてということだけど、ずっと以前から出ていたような気がしてならない。MCRはハイテンションで真正面からぶつかり合うシーンが必ずあるのだけど、そんなシーンであっても全く物怖じしない。それに、『逆光、影見えず』は太宰作品をモチーフにしているから時代的には昔の作品と言えるのだけど、現代風にアレンジもされていて、その過去と現在を結びつけるキーパーソンが里羽さんだった。里羽さんの醸し出すダルな感じがすごくよかった。そして、里羽さんとシンパシーを感じるのは女優の幸田尚子さん。ふたりとも日本人というよりもラテン系。しかも、里羽さんって、まだ20歳? えっ!




幸田尚子さん


(その7)北島広貴とおがわじゅんや




言わずと知れたMCR劇団員。櫻井智也さんと北島広貴さんとおがわじゅんやさんは、もう一心同体。櫻井智也さんのことを知ろうと思ったら、櫻井さん本人よりも、北島広貴さんとおがわじゅんやさんをじっと観察していた方がわかるように思う。つまり、このふたりって、イメージがどうこうではなく、MCRそのもの。今回の作品における、このふたりのオサムとの関わり合い、関わりの濃度は薄いのだけど、そして、MCRそのものなのだけど、にもかかわらず、太宰をみごとに映しだしている。鏡のなかの太宰。




おがわじゅんやさん


(その8)日栄洋祐と三瓶大介




日栄洋祐さんと三瓶大介さんの演技を観るのは初めて。ただ櫻井智也さんとは以前から親交が深いようで、北島広貴さんやおがわじゅんやさんと同様、MCRそのもの。日栄洋祐さんと三瓶大介さんが演じたのは、オサムの高校時代の同級生で、演じているのは、太宰作品云々ではなく、やはりMCRそのもの 笑。日栄さん=どこか感覚がズレていてボケボケな男と、三瓶さん=ついてない男、競馬やパチンコや麻雀をやったらもう絶対ダメなのにハマってしまうような男。こういう奴、かわいそうだけど絶対いる! こういう人物ってMCRには毎回必ず出てくるのだけど、でも、やっぱりそれが太宰作品にすっぽりハマるし、太宰が求めていたけれどもそばにいなかった人、太宰が描きたかったけれども描けなかった人、そんな人物であり、それはまた太宰の心のなかを映しだしているように思う。




三瓶さん「えっ!嘘だろう?」


(その9)堀靖明と堀靖明




堀靖明さんはやっぱり堀靖明さんであった。



毎度毎度、ハードワーク、お疲れ様です!!



太宰治にホント見せてあげたい 笑




堀靖明さん




『逆光、影見えず』は、今日こうやって上演されて日の目を見た訳だけど、この作品は、今、ここで、できたのではなく、すでにできていたように思う。様々な巡り逢いを考察したように、すでに様々な伏線が張り巡らされていて、それぞれはこの作品のためにやっていた訳ではないのだけど、今日こうやって、この作品ができ上がったのを観てみると、もう、この作品を作り上げるためにやっていたとしか思えないのだ。何もかもが!!





人と人との巡り逢い





僕にとっても、忘れられない作品となった。





そして、誰が一番喜んでいるかって?





ズバリ太宰治だと思う。





最後のシーン、オサムが死に去ってゆくというのに、僕のこころのなかで流れたのは、この曲だった。太宰治の魂が、『逆光、影見えず』が上演されたことによって、ようやく成仏したように思う。





合掌












晩年 (新潮文庫)

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観劇をオススメします。



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『逆光、影見えず』








MCR過去公演 《感想文》



PANDAJOCKEY+ドリルチョコレート




奴らの影踏む千葉


劇ラヂ『あさはかな魂よ、慈悲の雨となれ』


MCR『我が猥褻、罪なき罪』


MCR『死んだらさすがに愛しく思え』


MCR『言うなればゲシュタルト崩壊』













阪根タイガース


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木ノ下歌舞伎『義経千本桜 ー 渡海屋・大物浦 ー』






    




《演劇》木ノ下歌舞伎




タイトル:義経千本桜』


      渡海屋・大物浦  




作: 竹田出雲 三好松洛 並木千柳


監修・補綴: 木ノ下裕一


演出: 多田淳之介


■■出演


大石将弘


大川潤子


榊原毅


佐藤誠


佐山和泉


武谷公雄


立蔵葉子


夏目慎也


山本雅幸



■■スタッフ


舞台監督:大鹿展明、鈴木康郎、熊木進
美術:カミイケタクヤ
照明:岩城保
音響:小早川保隆
衣裳:正金彩
補綴助手:稲垣貴俊
演出助手:岩澤哲野
文芸:関亜弓
宣伝美術:外山央
制作:本郷麻衣、加藤仲葉、堀朝美、三栖千陽



■■日程・場所


《名古屋公演》
2016年5月27日(金)〜30日(月)@愛知県芸術劇場 小ホール


《東京公演》
2016年6月2日(木)〜12日(日)@東京芸術劇場 シアターイース


《豊川公演》
2016年6月18日(土)@ハートフルホール[豊川市御津文化会館]






 《感想文》


えっ? マジですか?




昨日、とある本の影響で買った町田康さんの小説『ギケイキ』を読み始めて、



「えっ? マジですか?」



と思わず声に出して言ってしまったのだけど、



「これ、あした観る演目とどかぶりやん!」







タイトルもろくに見ずに買ったのだけど、



ギケイキ→義経記



あっ、そうかー 汗。。。




で、今日の演目が始まってふたたび、



「えっ? マジですか?」



観ている感触と読んでいる感触がまるで同じ....



多田淳之介と町田康シンクロニシティ

そして、



観ているうちに、



「あれ? オレこれ観てるわ」



と思い出した。



ぼくは、多田淳之介さん演出の『義経千本桜』を2012年に観ている。


「ありきたりな古典のオマージュやリメイクじゃなくて『今、古典を見せる』ということに徹底的にこだわった舞台!」(狂言師・茂山童司)


まさに!



でも、



あの時は、


関亜弓さん(静)と間野律子さん(動)の対照性



前者は大きな動きはないが、その佇まいで場を制す。後者は軽やかという軽い言葉では表現できない軽い動きで場を制す。前者の場は《海》、後者の場は《空》。

に惹きつけられて観ていたなー



そして、劇中で響く



爆音!!!



Perfume



をなんの違和感もなく聴いていたなー







そして、劇中で流れる



アメリカ国歌







それをなぜか



イギリス国歌







だと思い込んで聴いていたなー




でも、



きょうは違ったなー



君が代



だったなー



サザン



だったなー



古今東西



ニッポンの歴史!



義経かー



屋島かー



こうも目の前で



人がバッサバッサ殺られてゆく



のを見るというのは



感覚的に



理解できないなー



いまの日本がこういう幾多の人々の死の積み重ねのうえに成り立っている



そう理解するしかないなー



時の積み重なり



人の死の積み重なり



いろいろな物が



いろいろな事が



積層して



錯綜して



フラッシュバックしてくる!




平知盛は『ROMEO & JULIET』KOREA ver.のあれだ!








大石将弘


大川潤子


榊原毅


佐藤誠


佐山和泉


武谷公雄


立蔵葉子


夏目慎也


山本雅幸



あの時に観た俳優たち!



2008年5月10日


東京デスロック『WALTZ MACBETH』

2008年11月22日


東京デスロック『その人を知らず』

2009年10月16日


岡崎藝術座『ヘアカットさん』

2009年10月17日


五反田団『生きているものはいないのか』


2010年1月15日


三条会『S高原から』

2012年7月8日


ままごと『朝がある』




【観劇】@mama_goto


ままごと『朝がある』。漱石の『文学論』の失敗を地でゆく一大スペクタクル。文学を緻密に分析し、およそ文学的とは言えない言葉を羅列する。その結果、文学に着地しているのか否か、現時点では判定不能私見では俳優・大石将弘の身体が勝った感がある。それもまたよし☆


【朝がある・1】@mama_goto


今日これから連投ツイートするけど、ままごと『朝がある』の作品の感想じゃなくて、感想を述べるための準備です。異例だな。とりあえずスタート。


【朝がある・2】


ままごと『朝がある』は、太宰治「女生徒」をモチーフに創られたということは前情報として知っていた。ただ柴幸男くんの言っていることには違和感があった。(柴幸男くんのコメント


【朝がある・3】(柴くんのコメントの引用1/3)


空、雲、風、地面、水たまり、女子高生、虹。
太陽から届いた8分前の光、1 時間前の雨、
38年前に作られたアスファルトの上の水たまりの上。
2012年4月1日、8時16分32秒、緯度34.62、
経度135.47、に、表れた、小さな虹。


【朝がある・4】(柴君のコメント引用2/3)


その存在は、誰からも気付かれず、
記憶にも残らず、生まれた瞬間に消える存在。
だけど、虹は今、確かに存在しているし、同様に、
私たちも、今、ここに、存在している。


【朝がある・5】(柴君のコメント引用3/3)


やがて、すべてが死に絶え、消滅し、
その存在の記憶すらもなくなっても。
虹も、私たちも、朝も、すべて、そこに、ある。


【朝がある・6】


ままごと『朝がある』を実際に観劇すると、やはり違和感があった。「えっ、これが太宰!?」。でも、この違和感は、僕が思っている太宰に対する違和感であって、厳密に言えば、太宰に対する違和感ではない。


【朝がある・7】


ままごと『朝がある』を観劇して、はっとした。確かに僕の思っていた太宰とは全然違う。違うけど、これは認めざるを得ないんじゃないか。もしかしたら太宰ってこういうことだったのかも知れない!


【朝がある・8】


太宰を読んで思うのは、やっぱり文章がうまいってこと。ちょっとピカソみたいなところがあって、書こうと思えばいくらでも書ける。しかも家柄もいい。でも、それじゃダメなんだという… 太宰作品からは、恵まれた天才特有の屈折した文学観・人生観が感じられる。


【朝がある・9】


太宰=天才ということで太宰作品についてはこれまであまり分析的に捉えようという気がおこらなかった。でも、今たまたまピカソの名前が出てきたけど、太宰=天才=ピカソという見方ができて、太宰はピカソ同様、テクニカルなことをかなり徹底してやっていたんだなって改めて思う。


【朝がある・10】


文学でテクニカルと言えば、やはり漱石。頭いいし、語学もできて、英文も漢文も読み書きできるし、なによりよく勉強しているし。漱石は理論的バックボーンがしっかりしている。


【朝がある・11】


だから漱石作品については理論的なアプローチを仕掛けたり、テクニカルな分析をしたり、というのはごく普通に発想できる。でも太宰について分析的なアプローチを行うというのはなかなか思いつかなかった。太宰治発、柴幸男経由で初めて発想した。


【朝がある・12】


太宰治に、夏目漱石『文学論』をガチでぶつける!


【朝がある・13】


夏目漱石『文学論』について。《直観》漱石、おまえさー、よく勉強しているのはわかるけどさー、動的メカニズムを捉え損ねているから、いくら分析的に緻密にやっても無理だよ。解けるわけねぇーよ。ばーか、って思った。


【朝がある・14】@arazaru


それで俺が解いてやるよって、前に文章を書いた。『赤シャツをいかにして更生させるのか』ってやつ。《アラザル4号》に載ってる。


【朝がある・15】@ama2k46


これ、同僚の西田くんが反応してくれたくらいで、驚くほど反響がなかった。ま、文章が下手だとか、解き方が雑だとか、問題は多々あるけど、自分としては解法に間違いがないかどうかっていうチェックをけっこう密にやった。


【朝がある・16】


自分が期待していたのは、「この文章、いい線いってるけど、ここの解法間違ってるよ」とかいうコメント。けど、こなかった。ま、当たり前。みんな忙しいし、僕が考えていることを他の人が同様に考えているなんてことはまずない。そういうもんだよ。よのなかって。


【朝がある・17】


僕がやったのは、漱石の『文学論』の問題設定(F+f=文学)はOKだから使うけど、あとは使えないから、俺が考えた独自のルートで解くってこと。


【朝がある・18】


冒頭にエリオット(伝統論)を持って来て、グリーンバーグ(前衛論)へ展開する。これ要するに動的メカニズムという観点では《ヘーゲルモデル》と言っちゃっていいと思うのだけど、


【朝がある・19】


グリーンバーグの『アヴァンギャルドキッチュ』って、エリオットの『伝統と個人の才能』を一歩先に進めた、一種の変形パターンと読み解けるから、これらを繋いで、最後にヴォーリンガー『抽象と感情移入』にぶち込んで、漱石のF+fを解いた。


【朝がある・20】


ま、反省すると、ヴォーリンガーって物自体にかけるって感じがあって、《ヘーゲルモデル》というより、《カントモデル》って感じだから、この解き方ダメじゃねーってことにもなって、


【朝がある・21】


グリーンバーグだってフォーマリズムをガチで押進めて、形式の自律とか言い出したら、ほとんどカントになっちゃって「アヴァンギャルドキッチュ」で提示した動的メカニズムを自ら忘れてしまうという…


【朝がある・22】


それに、《カントモデル》ということでは、漱石の『文学論』も評価できるわけだからやっぱダメじゃねーってことになるけどさー、、、


【朝がある・23】


あと、こぼれ落ちている問題について、《ニーチェモデル》(永劫回帰システム)をぶつけて、というかポール・ド・マンがすでにやってるから、それを借用して、


【朝がある・24】


最後にトゥルーマンショー(《デカルトモデル》)を漱石にぶつけて、漱石が思考停止している、超えられない地点を暴いて、突き抜けるという解法ルートを示した。


【朝がある・25】


ま、こういうのをやったんだけど、反響がなかったし、ちょっと最後の《デカルトモデル》に引っ張られすぎたなー、という感があって、というか漱石デカルトを超えられなかったいう僕の直観は有効だと未だに思えるし、漱石論じるならデカルトだけで十分じゃないか。


【朝がある・26】


ただ一言いえば、利根川進などの科学者が、心身二元論者などとデカルトを安易に批判することには憤りを感じている。デカルトの方法論、プロセス論をもっとちゃんと読めよって言いたくなる。


【朝がある・27】@kantaro_ohashi


デカルトに関しては、大橋完太郎さんの仕事などを興味深く読んだし、今、第一線で活躍する科学者であっても、まだまだデカルトの思考レベルに達してないんじゃない?って思うことが多々ある。


【朝がある・28】


その後、國分功一郎さんが、『スピノザの方法』で《デカルトモデル》に《スピノザモデル》をぶつけるということをやっていて、ここで僕のデカルト信仰が初めて揺らいだ。


【朝がある・29】


ま、こういう経緯があって、最近では漱石の『文学論』をまともに考えようなんていう想いは消えていた。でもまさか、まさか、まっさっかだよ。太宰をモチーフにしたという作品で、僕のなかの『文学論』問題が再燃するなんて!


【朝がある・30】@mama_goto


改めて、ままごと『朝がある』。『朝がある』は極めてテクニカルな、コンセプチャルな作品だった。でも面白かった☆ ストーリーの展開が乏しいから退屈していた観客もたくさんいたけど、ギリギリOKじゃないか。


【朝がある・31】


コンセプチャルな作品が面白いか否かは、どうでもいいことかもしれないけど、この手の作品は現代美術によくあってさー、それが大概つまんなくて、退屈でさー、正直あきちゃってさー、、、


【朝がある・32】


作家がバカな場合は論外として、作家がいい線いってる場合でも、こちらが事前に思考を展開していないとその良さが感知できないし、、、


【朝がある・33】


現代美術の人とか俺とか作品の自律ってよく言うけど、美術って基本的に未だパトロン制だし、かといって市場で評価されている作品が自律してるかっていうのも微妙だし、、、


【朝がある・34】


ままごと『朝がある』に好感を持ったのは、やっぱり楽しかったんだよね☆ 現代美術でもさー、ロバート・スミッソンとかデヴィッド・バーンとかって楽しかったよねー☆☆☆


【朝がある・35】


そうそう、ままごと『朝がある』の一人芝居って、デヴィッド・バーンみたいな面白さがあったんだよねー、「なんじゃ、こいつ!?」っていう☆ ま、このライブ、後でどんどん人増えるけど(笑)



@ama2k46


西田さん、コメントありがとう。確かにご指摘通りです。気持ちとしては「赤シャツ更生2」を書いている、いや結果としてそうなることを祈っている。ただ実情は執筆に本腰をいられる状況ではなくて、執筆に関してはかなり妥協せざるを得ない。ま、それでもOK。とにかく書く☆


【朝がある・36】


ままごと『朝がある』、もう少し続ける。柴幸男くんが太宰治のテクニカルなポイントに何故これほど感度よくアプローチできたのか?について。


【朝がある・37】


柴くんは、『わが星』で岸田戯曲賞を受賞し、その才能を認められた。ただ、あの時、ワイルダーの『わが町』の影響を強く受けているという批判があり、劇作家としての才能を疑問視する声もあった。実際そうかもしれない。


【朝がある・38】


誤解を恐れずに言えば、柴くんは岸田戯曲賞を受賞した劇作家だけれども、戯曲を書ける劇作家ではないかもしれない。


【朝がある・39】


ここで戯曲とは何かという問題が発生してきて、実際に岸田賞の選考委員がどうやって柴くんの劇作家としての才能を見抜いたのかは、よく分からない。


【朝がある・40】閑話休題


今、ちょうど前田司郎さんの小説『濡れた太陽』を読んでいて、これが面白い。前田司郎さんの作品のなかで、これはけっこう重要な作品じゃないかって思う。


【朝がある・41】


前田司郎『濡れた太陽』は高校演劇の話。前田さん本人と思わしき人物も登場する。前田さんってとぼけるでしょ。演劇や劇作のテクニカルのことってほとんど言わないでしょ。それが『濡れた太陽』にけっこう書かれてるんですよ☆


【朝がある・42】


小説をいかにして書くか?(以下引用)「モヤモヤしたものを整理できるのは言葉だけど、だから、小説は言葉ではないのかも知れない。言葉を使っているけど、言葉とはもっと違うものなのかも知れない。」


【朝がある・43】


(中略)「なんか、言葉にできないような微妙なことを、言葉にしちゃったら、違っちゃうから駄目で、それをそのまま小説にすればいいんだ!」


【朝がある・44】


(中略)「太陽は大体、原稿用紙四、五枚くらいまでは書けるのだが、その先がなかなか進まないのだった。(中略)とにかくなんか書いてみよう。そう思って太陽がノートに書き始めたのは会話文だった。」


【朝がある・45】


(中略)「これは小説ではない。ただの落書きだ。そう思うとすらすら書けた。(中略)太陽の体力も尽きたようだった。特に脳みその疲れが大きい。ノートに7枚とちょっと書いた。(中略)原稿用紙にして二十枚くらいは書いたことになる。」


【朝がある・46】


(中略)「自分で読んで、ニヤニヤ笑えるところもある。多分これは面白い。しかし、これは小説ではなく、きっと戯曲だ。太陽は戯曲を読んだことはなかったが、学校で習ったのか、知っていた。俺は戯曲の方が書けるんじゃないか。」


【朝がある・47】


(中略)「つまり太陽にはもう充分に一本の作品を書ききる筋力は付いているのだ。(中略)しかし、太陽には枷があった。それは自分で自分の足にはめた枷であったが、容易に取り去れるものではなかったのだ。」


【朝がある・48】


(中略)「その枷は、簡単に言えば創作に対する畏怖のようなものだった。それが小説から戯曲に鞍替えすることで、外れたのだ。それは開けようと思って押し続けていたドアが、引いてみたら簡単に開いた、みたいにちょっとしたことかもしれない。それでも効果は大きい。」


【朝がある・49】


以上、前田司郎『濡れた太陽』上刊(朝日新聞出版)より抜粋して引用。


【朝がある・50】


前田司郎さんの『濡れた太陽』で証されている創作の秘話。小説を書こうと思ったらうまくいかなかったけど、実は書く力はすでにあって、それで書いてみたら、どうやら世間で言う戯曲というものができた、と。


【朝がある・51】


これと似たようなことを柴幸男くんの戯曲からすごく感じて、「これ戯曲じゃねーだろ、あえて言えば、詩かなー、う〜ん、なんだか、よくわかんねーけど、わかんねーけど、ま、いいんじゃね」って☆


【朝がある・52】


柴くんの戯曲って、井上ひさしとか、永井愛とかを持ち出すまでもなく、前田司郎とも、松井周とも、明らかに違う。違うけど、いいんじゃねって、この手のタイプって賞とか獲るのにすっごく苦労すると思うんだけどなー、なんで!?(笑)


【朝がある・53】


柴くんって、こういう人で、独自路線行っちゃってるから、太宰をいわゆる太宰という色眼鏡ではみなかった、だからこそ、他の人がなかなか気づかなかったポイントをぐさっと突き刺したんじゃないかなー。


【朝がある・54完】@mama_goto


以上、長々と失礼しました。ままごと『朝がある』は大変刺激的な作品でした。今後もままごと(柴幸男&大石将弘)から目が離せません。こちらも独自に思考を進めて、よい形で新作を迎え撃つことができればと思います。期待してます。ありがとうございました☆




2012年7月21日 《観劇》


木ノ下歌舞伎『義経千本桜』初演@横浜にぎわい座

2016年6月5日 《観劇》


木ノ下歌舞伎『義経千本桜   渡海屋・大物裏  』@池袋・東京芸術劇場シアターイース

ビールを飲む。



寝る。



つづく







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