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2016-06-16

ソ連空母建造前史3〜グラーフ・ツェッペリン

| 18:16 | ソ連空母建造前史3〜グラーフ・ツェッペリンを含むブックマーク

ソ連空母建造前史2

 前回でもソ連ドイツ視察を行った際に建造中の空母グラーフ・ツェッペリンを見学するなど一定の興味を抱いていたことが伺えるエピソードを紹介したが、このグラーフ・ツェッペリンソ連空母研究に少なからず影響を及ぼしているので独立した項目で取り扱うことにした。

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(↑進水式を迎えるグラーフ・ツェッペリン)


 ソ連1930年代に第3次五カ年計画に基づく大規模外洋艦隊整備計画を策定したことは既述であるが、空母グラーフ・ツェッペリンもまたこれとほぼ同時期に建造が行われていた。同艦は1935年11月16日に発注され1936年12月18日に起工されている。当然ソ連も一定の情報は得ていたはずであり、艦隊整備計画を考える上でその存在が何かしらの影響を与えていてもおかしくはない。セルゲイ・ゴルシコフによれば、1930年代スターリン海軍拡張を決意したのはシベリア出兵の様な資本主義諸国のロシア革命への介入の際にソ連海軍が有効な行動を起こせなかったということやスペイン内戦時にも海上戦力の不足で人民戦線支援が思うように出来なかったという出来事が遠因になっていると言う。北方艦隊近くの空母を擁する海軍と言えば当時はイギリス海軍フランス海軍があったがグラーフ・ツェッペリン建造によってドイツ海軍もこれに加わる事になり、資本主義諸国に対抗できる海軍力を整備するという目的を達成するためにソ連空母保有を検討するのは自然なことだと言えるだろう。ドイツ空母建造は英独海軍協定によって可能になったものだが、協定締結後に実際にグラーフ・ツェッペリン建造を開始したことでフランスはこれに対抗するために同国初の改造空母ベアルンから10年ぶりにジョッフル級正規空母を建造することになった。ソ連にせよフランスにせよグラーフ・ツェッペリンがすべての理由では無いにしても、この時点で既に空母建造の決定に影響を与えているのは間違いない。(しかしソ連空母は勿論ジョッフル級も完成には至らなかった。そして当のグラーフ・ツェッペリンも未成に終わったのだからなんとも言えない虚しさがある)

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(↑空母グラーフ・ツェッペリン)


 さて、ソ連グラーフ・ツェッペリンないしその同型艦購入をドイツに打診したという1939年1940年大祖国戦争勃発前であり、独ソ不可侵条約締結が締結されていることもあってソ連ドイツ間の関係は表面上は悪いものではなかった。ドイツ連合軍の上陸を阻止するために大西洋の壁と呼ばれる防衛網構築を開始し、それらの資材確保や優先順位の問題から1940年6月にグラーフ・ツェッペリン建造は完成率90%前後に達しながらも中断される。ソ連の購入打診もおそらくはこういう情勢をある程度踏まえて行われたと考えられるが、ドイツはこれを拒否し高射砲の射撃指揮装置の売却のみ認めたに過ぎなかった。最終的にグラーフ・ツェッペリンソ連軍の接収を避けるため1945年4月25日に自沈するが、戦後に浮揚されソ連海軍の管理下に置かれることになる。

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(↑ソ連軍に鹵獲されたグラーフ・ツェッペリン)


 ここからの事実説明だけではあまりにあっさりしすぎているので、ドイツ国防海軍解体の経緯を織り交ぜて少し解説する。1946年1月23日付けのプラウダ紙が「イギリスアメリカソ連は三ヶ国海軍委員会を組織してドイツ国防海軍艦艇の分割を行うという公式声明を発した」と報じているが、ソ連からは軍事造船中央研究所の長だったアレクセーエフ・ニコライ・ヴァシーリエヴィチ技術少将が代表として参加したこの委員会ドイツ国防海軍の物質的な解体と戦勝国への山分けが行われることになる。

 実際にこの作業を行う前にまず現存する艦艇のリストアップとカテゴライズが成された。余談になるが艦艇がリストアップされた結果、ドイツ国防海軍は大戦中に戦闘艦艇の50%を喪失しさらに13%が降伏期間中に沈没しており、当時連合国が管理していたのは30%程度だったという。リストの内訳は戦艦1隻(グナイゼナウ?)、重巡洋艦1隻(プリンツ・オイゲン?)、軽巡洋艦1隻(ニュルンベルク?)、駆逐艦30隻、潜水艦30隻、掃海艇132隻、護衛艦17隻、防空砲艦8隻、魚雷艇89隻とのこと。ちなみに議論が最も紛糾したのは2100隻以上にも及ぶ支援艦艇の行き先を決定する時だったとか。数が多いことに加えて、戦闘艦よりは転用もし易いだろうからそれだけ価値があるということだろうか。

 リストアップが終われば次はカテゴライズである。艦艇のコンディションに従って分類され、最も状態がよく直ちに戦力化可能なカテゴリーA、6ヶ月以下の修復で戦力化できると見積もられたカテゴリーB、浸水・損傷しているか未成艦であるなどの理由で戦力化に6ヶ月以上必要なカテゴリーCという風になった。この3つのカテゴリーから戦勝国艦船を割り当てる事になるが、三ヶ国海軍委員会カテゴリーCについては速やかに解体するか大深度に自沈させるよう勧告していたようだ。このカテゴリーCに含まれそうな船を思い浮かべると上述したリストの内訳の数を明らかに上回りそうなものだが、そのあたりの事情は時間もかかるので傍論ということで調べていない。

 そして肝心のグラーフ・ツェッペリンソ連に割り当てられたがカテゴリーCに分類されていた(グラーフ・ツェッペリンは上のリストの内訳に入っていないと思われるが...)。ソ連グラーフ・ツェッペリンを自らの手で完成させることを真剣に検討したが、先程も述べた「カテゴリーCの船は解体しましょう」という勧告(当事者が当事者に向かって勧告しているのだからもはや約束と言っても過言ではない)とドイツが用意していた艤装の多くが西側占領地域に保管されており西側はそれらの移動を一切認めなかったという事情のため計画は断念されることになった。後者の理由の詳細は分かりかねるが、グラーフ・ツェッペリンキールにあるドイチェヴェルケの造船所で起工されており後に未完成のままポーランドのシュチェチンへ移動してそこで自沈している。キールは西側が占領することになるが、恐らくグラーフ・ツェッペリンに取り付けられていない艤装はキールかその近くに留められたままだったためにそういう事情が生じたのだと思われる。ただしニコライ・クズネツォフはグラーフ・ツェッペリンをあくまでも国産空母のテストベッドとして考えていたようなので、同艦を完成させようとした意図は当時ソ連で設計が行われていたプロジェクト72の代艦というわけでは無い。空母として運用する見込みが無くなったためか1947年2月3日には洋上基地PB-101という扱いに変更されたがここではグラーフ・ツェッペリンのまま通すことにする。


 ソ連は完成を断念したグラーフ・ツェッペリンを最大限有効に活用する為に、実弾を用いて撃沈することで空母生存性を検証することを思いついた。単なる実弾演習という意味以上に、空母を撃沈する経験を積むことで来るべき米ソ戦争で高価値目標となるはずの米空母への備えという意味も有ったに違いない。1930年代頃にもイズマイルを標的に実弾を発射しているが、空母に改造されなかったイズマイルの構造は巡洋戦艦のそれであり最終的には撃沈せずにスクラップとして処理されている。そして言うまでもなくこの15年程度の間の航空機の進歩は目覚ましいものが有ったのだから、改めてグラーフ・ツェッペリンで実験を行うことは基調な経験をもたらしてくれるはずだった。

 この実験の為にイワン・ユマシェフ海軍大将は1947年5月17日に特別委員会の設置を命じ、ラール・ユーリー・ヒョードルヴィチ海軍中将の指揮のもと計画は開始された。グラーフ・ツェッペリンに前もって仕掛けておいた弾薬を起爆させ構造の弱体化を調査した後に航空爆撃と巡洋艦からの砲撃を行い最後に雷撃でとどめを刺すという手順が演習という形で定められ、また攻撃はあらゆる距離・深度に対して行うことで可能な限りデータを得ることが出来るように留意された。しかしグラーフ・ツェッペリンの状態は未成艦であることを差し引いても褒められたものではなく、トリム調整無しだと0.5度右に傾いた状態が標準で船体には人為的に作られた最大で1.5m×1mほどの穴が36もありボイラーや蒸気タービンなど動力関係の機器もドイツ人によって破壊されていたという有様で、それら破壊工作の為に水密隔壁も破られてしまっていた。水面下にも最大幅0.8mの亀裂が0.3mほど続いており、スクリュープロペラは取り外され飛行甲板に転がっていた。その飛行甲板やエレベーターも傷ついて大きな凹みが生じており、ソ連は実験を行う前にまずこれらの損傷をドイツで修理しなければならなかった。艦の排水ポンプを復旧させて穴や亀裂の封印や12ヶ所の水密隔壁の復元が行われたが、あくまで標的艦としての使用なので修理は必要最小限に抑えられ喫水線より上の部分については必要な労力と時間不足のために一部作業が省略された。1947年8月14日にはポーランドのシフィノウイシチェ港外まで曳航され、更に砕氷船ヴォーリニェツ及び曳船MB-44・MB-47・T-714・T-742・VM-902によって5マイル離れた射爆海域まで移動させられた。事前の修復にも関わらずこの時点で排水不良により左に3度傾斜していたという。また8月15日の夜から16日にかけて主錨の鎖が不良であることが判明したため副錨のみで錨泊することになったが、完全に位置を保つことは出来ずほんの僅かに漂流しておりこれが実験に大きな影響を与えることになる。

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(↑曳航されるグラーフ・ツェッペリン)


 8月16日の朝から実験は行われ、まず船体に仕掛けられた弾薬が起爆された。煙突のFAB-1000航空爆弾1発および飛行甲板下部のFAB-1000航空爆弾3発と180mm艦砲の榴弾2発が最初に炸裂し、続いて飛行甲板に設置された別のFAB-1000が爆発した。3番目の爆発は飛行甲板上のFAB-250と格納庫上部の180mm砲弾2発が同時に起爆することでもたらされ、4番目には飛行甲板直上2.7mに据え付けられたFAB-500と飛行甲板上のFAB-250そしてC甲板のFAB-100が同時に起爆された。そして最後に飛行甲板上のFAB-500とFAB-100が爆発して一連の手順が終了した。

 最初に煙突で起爆したFAB-1000はあまり効果的ではなく、煙突の破壊には成功したものの爆風は艦橋に危害を加えるに至らずまたボイラーにも致命的なダメージを与えられなかっが、その一方で飛行甲板下部の3発のFAB-1000(飛行甲板に埋め込まれたものとそうでないものが混ざっていた)は爆発の衝撃波で格納庫を破壊した。1発のFAB-1000による二番目の爆発は半径7mの範囲にわたって飛行甲板に歪みを生じさせたが、飛行甲板を破壊するまでは行かず直径3cmの穴を開けただけだった。ソ連海軍はこの”戦果”を低く評価した様だが、飛行甲板の機能を奪うという目的であれば半径7mの歪みを生じさせた時点で十分達成されており当時の海軍上層部の空母に対する認識の不足が伺える。三番目の爆発でFAB-250は直径0.8mの穴を開けることに成功し、更に爆心から半径1.3mの範囲内で飛行甲板が無力化された。これは最初の爆発で180mm艦砲が与えたダメージとほぼ同等である。四番目の爆発の結果はそれまでに蓄積していた損傷と爆発の与えた影響が小さかったという可能性のために十分に確認することが出来なかった。しかし最後の五番目の爆発の影響ははっきり確認することができた。この5番目の爆発で使用された爆弾は爆発の運動エネルギーの浸透効果を調査するために異なる深さに埋め込まれたりあるいは飛行甲板を切り欠いて設置していた。FAB-500の起爆によって飛行甲板に半径3.5m深さ0.5mの穿孔が生じさせ、FAB-100は格納庫に穴を開けてその中をめちゃくちゃにしてしまうほどだった。

 続いて航空攻撃が実施された。第12親衛戦闘機航空連隊のパイロット39名と25機のPe-2がこれに従事し、事前に訓練が行われている。事前準備としてグラーフ・ツェッペリンの飛行甲板に5m幅の白線で20m×20mの十字がペイントされ、おそらくこれを目標に攻撃したと思われる。攻撃は三波に分けて行われ、第一波は高度2070mからP-50爆弾28発を投下し第二波は同高度からP-50爆弾36発を投下し最後の第三波はP-50爆弾24発を投下した。このうち3機はトラブルにより爆弾を海面に投下せざるを得なかったがそれを抜きに考えても結果は酷いもので、ほぼ静止していて対空砲火もない巨大な目標に90発近い爆弾を投下したにも関わらず命中したのはわずか6発でしかも飛行甲板にダメージを与えられたのは5発という成績に終わった。パイロットは朝から行われた実験で既に損傷していた部分にも命中弾があったと主張したがそれを含めても11発にす過ぎない。一方で使用されたP-50爆弾は訓練用なので空母を破壊するには威力が不足しているという点が指摘されており、また経験の少ないパイロットは視界不良を訴えていたためそういった要因が働いた可能性もあるが、それでもP-50のうち1発は1m貫通し対空砲火に晒されないパイロットはストレス無く照準できたはずであるためにこの結果は優れているとはいえないと判断された。

 日が明けて8月17日になると天候が崩れ始め風速5〜6の風が吹くようになり主錨を使用できないグラーフ・ツェッペリンは浅瀬へ向けて大きく漂流し始めた。水深113mの地点で実験が開始されたが、弾薬を起爆する実験の第一段階が終了した時点で既に水深82mの地点まで流されてしまっており、浅瀬に近づき過ぎるとグラーフ・ツェッペリンを完全に沈没させることができなくなる恐れがあったためラール・ユーリー・ヒョードルヴィチ海軍中将は実験を中止して速やかに雷撃処分する決断を下した。このため黒海艦隊の巡洋艦モロトフ(マクシム・ゴーリキー級/プロジェクト26 bis)が行うはずだった180mm砲による砲撃はキャンセルされ雷撃処分を行うバルト艦隊の魚雷艇TK-248、TK-425、TK-503及び駆逐艦スラーヴヌイ、ストローギイ、ストローイヌイ(いずれもストロジェヴォイ級駆逐艦/プロジェクト7U)が現場へ向かった。最初にTK-248が雷撃を敢行したが魚雷は起爆せず艦底下を通過し失敗に終わる。続いて15分後にTK-503が雷撃し命中させたものの致命傷を与えることは出来なかった。さらに一時間後に駆逐艦スラーヴヌイが到着し魚雷を発射した。魚雷はエレベーターの喫水線下に命中し徐々に艦体が傾き始め、15分後には傾斜は25度にも達し艦首も持ち上がり始めた。その更に8分後(スラーヴヌイの魚雷命中から23分後)にはグラーフ・ツェッペリンは横倒しになり艦首は25度持ち上がった状態になり沈没した。2006年に水深87mの地点に沈没船があることが発見され、ポーランド海軍によってそれがグラーフ・ツェッペリンであることが確認されている。


 ソ連グラーフ・ツェッペリンを撃沈するのに要した火力は船体に装着された爆弾12発(FAB-1000×2・FAB-500×2・FAB-250×3・FAB-100×5)及び180mm艦砲榴弾4発(合計92kg)、爆撃で命中したP-50爆弾6発そして最後の雷撃で命中した533mm魚雷2発であった。これを評価するにあたっては当時のグラーフ・ツェッペリンが完全な状態でなかった事に留意する必要がある。上述したように水密隔壁は後から修理したもので、また喫水線より上は修理されていない部分さえ有った上に航空爆撃と雷撃の前には弾薬の起爆によって損傷が蓄積していたのだ。そして船にはダメージコントロールを行う乗組員が居なかったし、空母を護衛する船も居なければ動きさえしていなかった。確かに被害を拡大させる燃料などは積み込まれていなかったがそれでもグラーフ・ツェッペリン側が不利な条件が揃っていたと言うことができ、グラーフ・ツェッペリン空母としても脆弱であったと言うまでは至らないであろう。

 そして当時ソ連国内では国産空母としてプロジェクト72のさらに次世代の空母が研究されており、実際にグラーフ・ツェッペリンは彼らに影響を与えているのだ。これまでほぼ空母を机上の存在としてしか認知できなかったソ連が実際に触れることができた空母としてグラーフ・ツェッペリンの果たした役割は大きいといえる。次回以降でグラーフ・ツェッペリンの足跡が刻まれたソ連空母設計案を見ていきたい。


【参考】

空母グラーフ・ツェッペリン〜赤軍の戦闘のトロフィー

WarGaming.net wiki ”グラーフ・ツェッペリン”

Aircraft carrier Graf Zeppelin

2016-02-29

ソ連空母建造前史2〜航空戦艦/プロジェクト71/プロジェクト72

23:57 | ソ連空母建造前史2〜航空戦艦/プロジェクト71/プロジェクト72を含むブックマーク

ソ連空母建造前史1

 イズマイル改造案からコムソモーレツ改造案に至るまでの最初期の一連の空母建造計画の次に訪れた空母保有の機運は、1930年代海軍力増強計画の策定であった。

 1938年〜1942年の第3次五カ年計画と関連して1930年代ソ連海軍力増強のため赤色海軍参謀オルロフ・ウラジミール・ミトロファーノヴィチルディー・イワン・マルティノーヴィチの主導で大規模外洋艦隊整備計画を画策したが、その計画では赤色海軍は重点的に戦艦重巡洋艦を整備する一方で空母も導入することになっており、6隻の空母を建造して4隻を太平洋艦隊・2隻を北方艦隊へ配備することや正規空母4隻と軽空母8隻の合計12隻を建造すること等が想定された。しかし最終的に空母は2隻(北方艦隊1隻、太平洋艦隊1隻)のみ建造に修正されることになる。根本的には1940年に大規模外洋艦隊整備計画が縮小されたことが原因だが、他の理由としては赤軍(陸軍)重視のソ連において空母が”洋上劇場”とみなされまたスターリン空母より戦艦重巡洋艦を重視した事と、赤色海軍空母護衛艦艦載機を必要としており多数の空母建造はそれらの整備に支障をきたすと考えられた事が挙げられる。それでも1937年には国防人民委員部によって空母建造が承認され、第3次五カ年計画に従った1930年代中頃からの空母建造計画はこの枠組の中で実施されることになる。

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(↑航空戦艦1935年案)

 この頃のソ連航空母艦戦艦ハイブリッド型―いわゆる航空戦艦(あるいは航空巡洋艦)―を構想しており、その第一弾として1935年に航空戦艦の暫定計画が策定された。この航空戦艦は29,800トンの排水量を持ち、21万馬力の機関出力で35〜39ノット(!)を発揮するとされた。砲熕兵器として9門の305mm砲と16門の130mm砲および18門の45mm機関砲を有し、60機の艦載機を搭載できる。側面装甲は最大200mm、水平装甲は最大125mmとされた。しかしこれらの要求性能は明らかに過酷なものであり、特に装甲と速力の両立は極めて困難と言っても過言ではない。ソ連造船業界がこの様な艦船を建造することが不可能であることはすぐに明らかになった。

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(↑プロジェクト10581 C案)

 1937年からアメリカソ連のための航空戦艦が開発された。これは駐米ソ連大使の求めに応じて行われたものだとされる。アメリカで設計されたもののうち最も興味深いのがプロジェクト10581で、A・B・Cの3つの設計案が存在した。プロジェクト10581はギブス・アンド・コックス社が設計したものだが、この会社はこの種の艦船―おそらく空母―を設計した経験がなかった。このプロジェクト10581はとても贅沢な艦で、なんと排水量は7万3千トンに達し約30万馬力の機関出力で34ノットを発揮した。主砲も8門の457mm砲ないし12門の406mm砲を装備するといった具合で、副砲の類に至っては28門の127mm砲と32基の28mm機関銃を有するという壮大な計画である。艦載機は各種合計36機と水上機4機を搭載し、発艦の為に飛行甲板前方に2基のカタパルトを設置する予定だった。

 しかしこの設計は主砲塔や上部構造物が飛行甲板と空気的に干渉して大きな乱流を発生させて発着艦に支障をきたすことが明白であり、しかも最も現実的なC案でもその性能や規模は赤色海軍が導入するのに適当であるとは言いがたかった。それでもソ連技術者達はプロジェクト10581の航空力学的に最適な飛行甲板の設計を発見するために中央流体力学研究所(ツアギ・TsAGI・ЦАГИ)の風洞を使用して研究を重ねていたそうで、一見珍妙に見えるこの設計案ではあるが大真面目に空母(の代替品としての航空戦艦)保有の為に行っていた研究の産物の一つと言える。

 しかし最終的にソ連は航空戦艦の導入を断念することになった。この種の設計はそれが計画であるうちは優れているように見えるが、実際に建造することを考える段階になると上述の乱流の問題や費用の問題そして戦闘時の安定性の問題(空母と違い航空戦艦は最前線で戦わないと意味が無いがそうすると飛行甲板の機能を喪失する可能性が高くなる...発見されると高価値目標なので優先的に攻撃される...などと言った点)が存在していることが判明し、あまり賢明ではないと考えられるようになった為である。

 


 航空戦艦が芳しくない結果を残した一方で1939年4月28日に海軍人民委員就任したニコライ・クズネツォフは大いに空母導入を支持していた。また1939年1940年に行われた対外貿易人民委員によるドイツ視察では空母グラーフ・ツェッペリンの建造現場を訪問し、ドイツ側に拒否されたもののグラーフ・ツェッペリン購入もしくは同型艦ソ連売却の打診を行っており、ソ連空母保有の機運は決して衰えてはなかった。しかしスターリンはソビエツキー・ソユーズ級の様な大型戦艦の整備に意欲を燃やしておりクズネツォフは彼の方針対立しながら空母導入を目指さなければならなかった。それでも冒頭で述べたとおり1940年以降においても空母2隻(北方艦隊1隻、太平洋艦隊1隻)の建造は健在であり、クズネツォフは北方造船所にプロジェクト71と呼ばれる空母の設計を命じた。

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(↑プロジェクト71A)

 アメリカで航空戦艦の設計が行われると同時に、ソ連では航空戦艦に懐疑的であった国内の造船業界によって1935年から従来型の空母の開発が進められていた。1938年6月27日に赤色海軍は北方造船所に対して軽空母プロジェクト71Aの設計案に対する戦術的・技術的要求を出し、1939年半ばには予備設計が完了した。これは赤色海軍ソ連造船業界にとって適切な規模と性能のものだった。排水量は約11,300トンで、、KV-68式重油専焼水管缶とTV-7式ギヤード・タービンを組み合わせた機関は12万6千馬力の出力を持ち33ノットの速力を出すことが出来る。船体と機関はチャパエフ級軽巡洋艦(プロジェクト68)のものを流用することで設計の手間を省いていた。武装は8門の100mm両用砲と4連装37mm機関砲を4基そして20基の12.7mm機関銃である。艦載機として20機の戦闘機と10機の雷爆撃機の合計30機(32機説もある)を搭載し、空気式カタパルトを2基備えるがカタパルトは悪天候か最大ペイロード付近で発艦する場合などのみ使用する。航空戦艦プロジェクト10581の様な事態を招かないために外見は航空力学観点から最適化されていた。

 プロジェクト71Aはコムソモリスク・ナ・アムーレの第199造船所で1番艦が建造されることが決定し1942年には起工されるはずであったが、大祖国戦争に突入したため計画は実行されなかった。ちなみに1938年〜1939年版のジェーン海軍年鑑ではプロジェクト71Aとほぼ同諸元の艦を空母クラースナヤ・ズナーミャと紹介し、1939年1940年レニングラードで2隻が起工されると記載していたとのこと。他に北方艦隊向けは艦名クラースナヤ・ズヴィズダ、太平洋艦隊向けが艦名チカロフだとする資料もあるが、命名の規則性に疑問点があり信頼性は今ひとつな話である。

 プロジェクト71には71・71A・71Bの3つの設計案があり、プロジェクト71は1936年〜37年に設計されていた1万1千トン級の艦載機40機〜45機という案で、プロジェクト71Bは1938年〜39年設計のより大型で排水量3万トン・艦載機70機を搭載できる案であり、このうち最も適当とされたプロジェクト71Aが採用されたとも言われるが、いかんせんプロジェクト71と71Aを区別していない資料もありこの辺りの経緯を詳しく解説した資料が見当たらなかったので詳細はご容赦願いたい。あるいはプロジェクト71Bは空母建造数削減以前に想定された正規空母の設計案という考え方もできるが実態は不明である。

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(↑プロジェクト72)

 大祖国戦争中の1944年に大戦の戦訓を反映した艦艇の設計をするように政府要求を出し、1945年にはクズネツォフ主導のもと海軍人民委員部が設置した特別委員会で空母建造を盛り込んだ10ヶ年艦隊整備計画(1946年1955年)がまとめられたことで再び空母保有のチャンスが訪れた。この計画においてクズネツォフは正規空母および軽空母を合計6隻建造することを提案したが、スターリンは北方艦隊向けの軽空母2隻のみを承認した。この動きに伴い大祖国戦争中にも続けられていた空母研究の成果は1944年にЦНИИ-45で纏められたプロジェクト72という設計案に結実することになる。しかし赤色海軍空母の必要性を一応は認めていたものの(この時点に限ったことではなく戦前もそうであったが)空母に関する上層部の意思統一が図れず、最大の空母支持者であったニコライ・クズネツォフも1947年に失脚してしまい結局プロジェクト72は建造されなかった。

 プロジェクト72には2つの設計案があるとされ、1つはイギリス空母イラストリアス級とほぼ同規模の基準排水量約2万3千トン・満載2万8千トンで艦載機30機搭載というものであり、もう一方は排水量3万トン以上(満載排水量満載排水量37,390トン?)で艦載機62機搭載というより大型のものだった。最終的には前者が正式案とされたようである。特殊な航空関連艤装としてカタパルトやスタビライザーそして着艦表示灯を装備する。航空燃料の保管と航空機への燃料供給については研究が重ねられており、燃料タンクは周囲を注水区画で囲むことで他の区画から隔離しタンク内部には不燃性ガスが充填される。また燃料パイプラインも同じく不燃ガスによる対策がなされている。



【参考】

ソ連の空母〜歴史と戦闘での使用

戦前のソ連空母〜実現しなかった計画たち

ソ連の空母プロジェクト〜海のフライング・ダッチマン

ソ連の空母開発1925年〜1955年

ソ連空母プロジェクト71とプロジェクト72

2016-02-20

ソ連空母建造前史1〜イズマイル/ポルタヴァ/コムソモーレツ

| 20:08 | ソ連空母建造前史1〜イズマイル/ポルタヴァ/コムソモーレツを含むブックマーク

 ソ連空母建造についてはモスクワ級からウリヤノフスク級に至るまでの経緯は比較的知られていますが、曲がりなりにも一種の空母としてモスクワ級が結実するまでに生まれた有象無象の計画についてはあまり知られていないようです。時代的にも自分の趣味対象からはやや外れていますが、一応記事にまとめる目処が立ち始めたので一連の経緯を認めてみることにしました。そこまで大層なものではありませんが完走し切るかもわかりませんし、資料の読み間違いや事実誤認もどこかにきっとあると思いますがどうかお付き合い下さい。

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 ソ連初の具体的な空母建造計画は、1925年に発案された建造途中の巡洋戦艦イズマイル(イシュマエル・Измаил)を改造するというものであった。

 イズマイルは巡洋戦艦としてアドミラルティ造船所で建造されていたが、クロンシュタットの反乱における反乱軍と赤軍交戦でドックが損傷し、イズマイル自身も右舷中部甲板の後部にダメージを受けた。1921年9月3日にイズマイルは未完成のままドックから搬出されクロンシュタット軍港の外れの桟橋に係留され、最低限の整備は施されたものの1920年代の前半はそこで放置されることになる。1925年6月14日に軍事造船プログラムに関する会議が開催され、そこでイズマイルの空母への改造が発表された。1925年7月にソ連革命評議会が採択した”赤色海軍強化五カ年計画”ではソ連初となる空母1隻の建造が予定され、これはイズマイルを空母に改造することで達成されることになっていた。ただし1925年3月には既にイズマイルの改造について決定されていたとする資料もある。イズマイルの改装は1926年2月から1928年8月1日の間に行われることになり、総工費は14,334,000ルーブル(造船費用10,600,000ルーブルと各種兵装3,734,000ルーブル)と見積もられた予備設計プランも作成されたが、1926年3月16日にイズマイルの空母改造は資金不足を理由に中止されてしまった。これは予算配分で陸軍(赤軍)が重視されたためである。計画中止に伴い、イズマイルはスクラップにされることになった。しかし機関の据え付けや全ての水平装甲と垂直装甲の2/3の取り付けが完了している巨大な巡洋戦艦を廃棄するのはあまりに無駄であるということで、1930年代初めにイズマイルを使用して艦船の装甲や防御構造及び戦闘について実験を行う計画が立てられた。異なる距離や角度から砲弾を発射しどの様な場合に装甲を貫通することが出来るのかという実験が行われた。また120kg、250kg、500kgのTNT火薬を詰めた弾頭を持つ魚雷に近接信管を取り付けて発射する雷撃実験も行われ新たな知見を得ることに貢献した。赤色空軍はイズマイルを標的にして爆撃を繰り返し、対艦爆撃の失敗率に関する経験を得ることが出来た。これら全ての広範な実験は赤色海軍や赤色空軍あるいはその他の数多くの当事者たちと予定をすり合わせて実施しなければならないほど頻繁に行われたが、1930年秋には予算の都合で実験は終了しイズマイルは今度こそスクラップにされた。1931年から解体が始まり、1932年4月の時点でイズマイルは喫水線より上の構造物を失っていたが、興味深いことにこの時点でもなお喫水線下への攻撃を行う実験が計画されていたという。

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(↑イズマイルの進水式)

 赤色海軍科学技術委員会が行った将来空母に関する決定よれば、空母バルト海での行動が想定され、敵基地攻撃への従事や外洋での艦隊戦で制空権確保・敵艦船攻撃を行うことが求められた。艦隊に所属する艦艇としては継続的な空中哨戒・航空偵察の役割を担うことが期待された。

 空母イズマイルの排水量は22000トンと見積もられ、巡洋戦艦からの改造ではあるが、(初期のフューリアスなどとは異なり)飛行甲板は艦の全長及び全幅一杯まで切れ目なく続く全通式となっており、その艦首部分には2基のカタパルトを装備することになっていた。艦載機は50機の搭載を予定し、内訳は戦闘機27機・雷爆撃機12機・偵察機6機・観測機5機であった。これら艦載機のための格納庫は上甲板と飛行甲板の間に設けられ、艦載機の移動に必要な高さが確保されていた。敵の軽巡洋艦や航空攻撃から身を守るために、空母はそれぞれ8基の7.2mm機関銃と100mm〜127mmクラスの艦砲及び2基の40mm機関砲を搭載したが、魚雷発射管は装備されなかった。装甲については2つの案が提案され、1つ目は巡洋戦艦時代の側面装甲の代わりに喫水線部分に75mmの装甲を施すという案で、2つ目は装甲を廃止するという案であった。推進機関は巡洋戦艦時代のものをそのまま流用しており、重い艦砲を撤去したため速力は27〜30ノットに達すると考えられている。航続距離は全速で1000マイル、経済巡航速度で3000マイルとされている。

 

 同時期の未成艦の空母転用計画としては他に戦艦ポルタヴァ改造計画(あるいはミハイル・フルンゼ改造計画)があり、これがソ連で2番目の空母建造計画になる。

 戦艦ポルタワはガングート級戦艦3番艦としてアドミラルティ造船所で建造中だった1919年11月25日に第一ボイラー室から出火し12〜15時間後に消化されたものの、2基の蒸気ボイラー・中央の砲塔関連施設・電気配線や発電機を焼失してしまった。修復が試みられたものの財政面から断念され、資材は他の姉妹艦に転用された。1924年9月2日に艦砲はポルタヴァから完全に撤去され、1926年1月7日に艦名がミハイル・フルンゼに変更された。艦の処遇については単純に元の状態に復元することが考えられたが、空母に改造した上で黒海艦隊に編入する案も挙げられた。しかし1927年8月5日に結局ミハイル・フルンゼは新型の機関を搭載したガングート級戦艦として完成させることが決定され空母への改造は行われなかった。なおその後もミハイル・フルンゼの建造は資金の問題などから遅々として進まず、大祖国戦争ではドイツ空軍に対する囮として未完成のままクロンシュタットに係留されるという一応の活躍をしたが1946年に解体された。

 空母としてのポルタヴァ/ミハイル・フルンゼは2基の76mm砲と10基の対空砲を有し4基の魚雷発射管を装備することになっていた。元が戦艦であるため側面で最大250mm・水平面で最大100mmという空母イズマイルと較べても堅牢な装甲を持ちながら見積もりでは全速で30ノットを発揮できたという。航続距離は全速で1800マイル、経済巡航速度で3800マイル。艦載機を50機搭載できる。


 これらに続いて提案されたのが、3番目の改造計画になるコムソモーレツ改造案である。

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(↑練習艦コムソモーレツ)

 コムソモーレツは客船を原型とした練習艦で、1903年3月5日に就役していた。1927年共和国革命軍事会議はコムソモーレツを練習空母として改造する決定を下し、SHON(ШОН)と呼ばれる攻撃機も試作されたが技術設計及び船体の近代化の資金が不足したため計画は中止されてしまう。陸軍(赤軍)を重視する当時のソ連の”小さな海軍”コンセプトは空母と相容れないものであったのもその要因と考えられる。そしてこのコムソモーレツ改造計画以降しばらくは空母建造計画が立案されることは無く、ソ連空母保有計画は1930年代半ばの大規模な艦隊拡張まで待たなければならなかった。

 空母コムソモーレツの排水量は1万2千トンで、航空機を42機(戦闘機26機・攻撃機16機)搭載し、砲熕兵器として102mm連装両用砲と40mm対空砲を備える。速力は客船ベースの艦であるからか15ノットと低速である。ただし下の図を見ればよくわかると思うがどう見てもまともな方法ではコムソモーレツの大きさで42機も航空機が載るとは思えないので、これはおそらく最大限運搬可能な機数という程度の意味合いだと思われる。

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(↑コムソモーレツ空母改造案)

 

 コムソモーレツで艦載機として考えられたのは戦闘機И-5К(I-5K)と攻撃機ШОН(ShON)で、これらはソ連最初期の空母艦載機であり、言い換えればイズマイルあるいは同時期のミハイル・フルンゼが改造計画の俎上に上がっていた当時はロシア国内に艦載機は存在して居なかったということになる。イズマイルの時には外国機の輸入を考えていたようだが、政府は輸入を断ったという。

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(↑主翼を折りたたんだШОН)

 ШОНはЦКБが開発していた陸上襲撃機のТШ-2(TSh-2)艦載機化したもので、1930年4月末から開発が開始され1931年に初飛行した。ドイツBMW VIエンジンを単発で搭載し、680馬力の出力を有する。主翼は木製布張りで空母での運用の為に主翼は折りたためるようになっている。武装は5丁の7.62mm機関銃と爆弾である。元々が陸上襲撃機だったШОНの機関銃は自衛用で旋回式の1丁を除く4丁が斜め下向きに取り付けられており、飛行しながら地上に機銃掃射するのに便利なようになっていた。しかし運用試験を重ねるに連れてこの機銃の配置は艦載機としては不適切であることが判明したため改良が加えられることになった。また様々な作戦が予想される一方で空母に搭載できる機体の数には限界が有るため、艦載襲撃機は容易に装備転換できる多用途なものでなければならないと考えられた。

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(↑改良型ШОН。上から機体正面・機関銃コンテナ装備・爆弾装備・燃料タンク装備)

 これらを反映した改良型ШОНが1932年春に登場し、エンジンもBMW VIソ連ライセンス生産したミクーリン M-17に変更された。問題となった機関銃の配置は、コンテナに2丁の7.62mm機関銃を収めたものを両主翼下に1つずつ合計4丁装備することになった。このコンテナは簡単に取り外すことができ、機関銃の代わりに100kgまでの爆弾1つもしくは90kgの燃料タンク2つを取り付けることが可能で、つまり容易に装備転換が出来る。胴体下には250kgまでの爆弾を懸架可能で、さらにこれとは別に100kg爆弾を搭載できるハードポイントを有していた。機関銃コンテナを装備した場合は最大300kg、機関銃コンテナを撤去した場合は最大500kgまで爆弾を搭載できる。また機関銃コンテナを撤去して燃料タンクを装備した場合は航続距離は800kmであった。

 ШОНの飛行性能は優秀であったがコムソモーレツの空母改造計画が中止されたため艦載機としての道は閉ざされてしまった。一方で30機程度が生産されたようで練習攻撃機として1930年代末まで使用されていたとされる。

 И-5Кはポリカルポフの陸上戦闘機И-5(I-5)を艦載機化したものだが、詳細は不明である。オリジナルのИ-5の初飛行が1930年4月29日で赤色空軍への採用が1931年なので、ШОНと同世代の機体になる。1936年には後継機И-15К(I-15K)が用意されるが、こちらもポリカルポフの陸上戦闘機И-15(I-15)の艦載機型である。

 同じく1936年には陸上機襲撃機R-5を改設計して雷撃機化したR-5Tが登場し、これも艦載機として目されていた。R-5Tはイタリアから導入した450mm魚雷”фиумскую”を使用する。これは国産魚雷でR-5Tに搭載できる適当な性能のものが無かったためである。しかしR-5Tは単座機であり、また7.62mm機関銃を2門有しているものの単座であるため自衛も難しいことから1937年には新たな雷撃機の開発が始まることになる。

ソ連空母建造前史2

【参考】

ソ連の空母〜歴史と戦闘での使用

戦前のソ連空母〜実現しなかった計画たち

Библиотека ВМФ 「巡洋戦艦イズマイル」

istmat.info

Альтернативная История

2016-02-16

ゼレノドリスク工場は黒海艦隊向けにプロジェクト22160コルベットの3番艦を建造する

| 12:07 | ゼレノドリスク工場は黒海艦隊向けにプロジェクト22160コルベットの3番艦を建造するを含むブックマーク

(FLOTPROMより)

 プロジェクト22160は領海の防衛・排他的経済水域のパトロール・密輸や海賊の取り締まり・海難事故被害者の捜索及び支援・環境モニタリングの為に設計いる。排水量1300トンという小型の艦船であるにも関わらず、プロジェクト22160は80人の乗組員が搭乗した状態で2ヶ月の自律行動が可能になっている。動力は2機のエンジンを組み合わせたCODAG方式で、発電能力は25000kWになる。CODAG方式では、経済速度で航行する場合は1機のディーゼルエンジンのみを稼働させ長い航続距離を実現させ、30ノットでの全力航行を行う場合はディーゼルエンジンに加えてガスタービンも同時に使用する。捜索能力拡充や捜索救難任務の為に、12トン級ヘリコプターを搭載することが出来る。標準的な武装としては巡航ミサイル"カリブル"を搭載する。

 プロジェクト22160の1番艦"ワシーリー・ビコフ"は2014年2月26日に起工された。2番艦は2014年7月25日に"ドミトリー・ロガチェフ"と命名された。3番艦は、ソ連海軍で最も栄誉ある艦長でもある大祖国戦争ソビエト連邦英雄パーヴェル・イヴァノヴィッチ・デルジャーヴィンの名を冠する。彼は大祖国戦争当時にドナウ小艦隊で旅団長を務めていた。

【以上】

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(↑プロジェクト22160)

 プロジェクト22160はコルベット哨戒艦クラスの艦ですが、2ヶ月にも及ぶ長い行動期間を持ちその航続距離は約6000海里にも及びます。より大型のステレグシュチイ級の航続距離が3500海里で行動期間が15日でしかないのと比べると、長期間の作戦行動が可能であり十分に大洋ゾーン艦を名乗れることがわかります。一方でその排水量は1300トンでしかなく、搭載できる兵装やセンサーには限界が有るために決してより大型の艦船を置き換えることは出来ません。小型であるため大洋ゾーン艦と言ってもその行動には海面状況など一定の制限が掛かることも想像できます。遠距離進出して長期間に渡り哨戒を中心にした多様な任務を遂行できるコルベットというのがプロジェクト22160の本質でしょう。

 プロジェクト22160は黒海艦隊と北方艦隊向けに12隻が建造予定です。当初は6隻の予定でしたが、大洋ゾーン艦が不足しているという理由で追加が決定されています合計6隻が2020年までに建造予定です。このクラスの艦に多様な装備を搭載することはコスト高を招くという理由から艦砲とヘリコプターに限定されていましたが、ISILに対してカリブルによる攻撃を実行した頃にプロジェクト22160にもカリブルを搭載することが決定されました。プロジェクト22160はモジュール構造でありカリブルの追加搭載も可能ですが、西側諸国では往々にしてモジュール転換の手間や乗組員の慣熟の都合からモジュールは装備したままあるいは外したままになる傾向があるようなので歓迎すべき決定でしょう。これによってプロジェクト22160は哨戒艦というクラスを超えた火力を手に入れることになります。

 ヘリコプターを搭載可能なことも本艦の価値を高めていることは言うまでもありません。例示されていた密輸のパトロールや捜索救難ではヘリコプターが効率を大きく改善します。12トン級という数字とCGからKa-27シリーズの搭載を想定しているようです。ロシア国防省発表ではKa-27PS搭載とのことです。

高町紫亜高町紫亜 2016/02/17 18:30 以前には、22160を12隻建造するという話も確かに有りましたが、今回のロシア海軍広報部発表でも「2020年までに6隻」としか言っておりませんし、昨年5月に海軍造船管理部長トリャピチニコフ1佐も「6隻」と言っておりますから、現在の所、建造が決まっている(海軍から承認されている)のは6隻のようですね。

masousizukamasousizuka 2016/02/17 19:13 >>高町紫亜様
いま確認しましたが、確かに公式発表の方には2020年までに6隻建造と書かれてありますね。ご指摘ありがとうございます。

高町紫亜高町紫亜 2016/02/17 19:42 22160を12隻建造するというのは2014年4月に「軍事産業企業体の(匿名の)情報提供者」が言っただけであり、ゼレノドリスク造船工場のトップも2015年6月に「契約が締結された6隻」と言っていますからねえ。
2014年に「建造数を12隻に増やすべきだ」という意見が一部から出たのは確かでしょうが、採用には至らなかったのでしょう。

2015-11-22

 改キロ級からの巡航ミサイル攻撃の疑問

| 01:17 |  改キロ級からの巡航ミサイル攻撃の疑問を含むブックマーク

 Flot.comより

専門家ロシアの最新鋭潜水艦ロストフ・ナ・ドヌー”がISILに対して行ったカリブルミサイルの発射について疑問を抱いています。専門家によると、攻撃が行われたとされる日に” ロストフ・ナ・ドヌー”はミサイルをISILが首都と称するラッカに対して発射することは出来なかったはずだということです。

 専門家及びブログ”navy-korabel”の執筆者Александра Шишкинаは” ロストフ・ナ・ドヌー”はクロンシュタットを11月4日に出港し、それ以降は平均約7.5ノットで航行しているのでミサイル攻撃を行ったとされる11月17日にはカリブルの射程外のジブラルタル海峡にたどり着くのが精一杯だと主張しています。Александра Шишкинаは潜水艦の平均航行速度を約7.5ノットと見積り、ミサイル攻撃があったはずの時点で潜水艦地中海の西の端に居たという推測をしています。しかしこの場合でもラッカまでの距離は2300km以上であり、カリブルの射程外です。

 ” ロストフ・ナ・ドヌー”とほぼ同等の潜水艦であるB-261”ノヴォロシースク”艦長を務めるИгорь Курганов中佐は「もし” ロストフ・ナ・ドヌー”が同じ平均速度で浮上航行していたのであれば、11月17日の朝にジブラルタル海峡に差し掛かったといったところでしょう。そして事実そうであったのならミサイル発射は明らかに不可能です。また、巡航ミサイルの飛行経路の観点からしても極めて遠回りであり不便です。もし” ロストフ・ナ・ドヌー”がディーゼルエンジンではなくバッテリーを使用して潜行したのであったとしても(欧米の偵察衛星潜水艦が撮影されていないのでその可能性は高い)地中海の西部に到達するのが精々で、カリブルの射程ギリギリの場所です。」と語っています。

 専門家によれば、浮上航行する潜水艦の最高速度は12ノット以下で平均的には7.5〜8.5ノットです。どれくらい速度が出るかは、シーステートやその他の要素に大きく左右されます。潜行した潜水艦の最高速度は19ノットにもなりますが航続距離は400マイルしか無く、それ以上航行するには浮上してバッテリーを充電する必要があります。潜行と浮上を繰り返した場合の平均速度は約15ノットまで落ちます。クロンシュタットを出港した時点で燃料が満タンであっても、しかしこれでは燃料を節約することは実際にはできません。経済航行速度の3ノットを保てば潜水艦は7000マイルの航続距離を得ることが出来ます。

 メディア報道によれば、潜水艦ロストフ・ナ・ドヌー”は11月17日にISILが首都と称するラッカに対して巡航ミサイル攻撃を行ったとされていますがこれについての公式発表はありません。ただ、” ロストフ・ナ・ドヌー”が11月に補給を受けるためにクロンシュタットに立ち寄り、その際に埠頭の1つは軍によって閉鎖され道路は軍事車両で封鎖されていたというのは注目に値する興味深い出来事です。

 -以上-



 カスピ小艦隊からのカリブル発射やTu-160・Tu-95SMからの巡航ミサイル攻撃は大々的に発表されているのに対して、行われたとされる潜水艦からのカリブル発射はあくまでも国防省筋の情報としてメディアが伝えているものであり公式発表はされていません。そのため本当に攻撃が有ったのかどうか疑問視されており、簡単な検証を行っているのがこの記事です。ディーゼルエンジンで浮上航行した場合でも水中航行した場合でもカリブルの射程内に” ロストフ・ナ・ドヌー”が到達しえたという確証は得られないと結論づけています。一方でクロンシュタットで補給を受ける際に厳重な警備が敷かれていたというのは興味深いことですが、カリブル自体は平時から積載していた可能性もあるのでクロンシュタットでの補給で新たに積みこんだとは限らないないでしょうし普段の警備体制との違いもあまり良くわからないので判断材料としては微妙なところでしょうか。なお、対地攻撃型カリブルの最大射程は2500kmとされています。