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2017-01-17

Anthropocene (人類世、人新世) (3) 智生代?

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

Anthropocene (人類世、人新世) の話[第1部 2016-02-06] [第2部 2016-02-07]の続き。

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David Grinspoonという人が2016年12月18日に、NPR (アメリカの公共放送)のウェブサイトの「13.7 Cosmos & Culture」というところに「A Planet With Brains? The Peril And Potential Of Self-Aware Geological Change」という記事を出している。この中で、人間活動による世界の改変は、地質年代でいう「世」のレベルよりももっと大きく、「代」のレベルだと主張している。

(この話は、水谷 広さんから教えていただいた。)

Grinspoonが提案している時代名は Sapiozoic だそうだ。おそらく西洋の文科系知識人から、ラテン語由来とギリシャ語由来の要素をつないだ造語はまずいと言われて、何かに変えようということになりそうだと思う。「代」の名まえはギリシャ語由来の「-zoic」をふくむので全体をギリシャ語由来にそろえたいだろうから、Noozoic かと思ったが、新生代の Neozoic と1字しかちがわないのはまずいから、この案にはならないだろう。

もしその意味をとって日本語訳するならば、水谷さんが使っている「智生代」がよさそうだ。(もう少し意見を言うならば、わたしは「知」と「智」は同じ語の表記のゆれと見るべきだと思っており、字の形が簡単な「知」のほうがよいと思うが。)

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人間活動が地球表層環境を大きく変容させたということは言える。松井孝典さんがよく使う表現(たとえば松井 2012の本を参照)を使えば、地球表層環境の内から(「生物圏」とならぶものとして)「人間圏」が分化した、ということはできるだろう。地球表層環境の構造が変わったのだから、新しい時代が始まったのだ、という主張は理解できる。

Grinspoonの提案の名まえのつけかたの背景には、単に人間が環境を変えただけでなく、人間が知的能力をもっていることを重視したいという考えがあるのだろう。熊澤峰夫さんがくり返し言っている(たとえば熊澤ほか2002の本を参照)ように、自分たちが生きる世界について認識し言語などによって記述し継承することができる存在が現われた、ということが、地球史にとっても大事件である、というとらえかたなのかもしれない。

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わたしは(地球科学者のひとりでもある個人の感覚として)、人間活動の影響を、地質時代のうちの事件としてとらえるのはよいと思うが、地質時代区分の中にもうひとつの時代を定義するという形で位置づけるのは無理があると感じる。

地質時代区分は、人間が自然を認識するためにつくった概念的構築物ではあるが、それは、人間専用を意図したものではなく、将来人間とはちがった知的存在が出現したらその知的存在にも共通通用するような、という意味での客観性をめざしているものだと、わたしは思うのだ。

人間活動が地球環境を変えている度合いがたとえ大きいとしても、その時間の長さが、地質時代の「代」はもちろん「世」をたてるにしても短すぎると思う。

完新世(Holocene)の長さは例外的に約1万年だが、それよりも前の「世」は百万年から千万年の桁の時間規模をもつ。

完新世も、人間にとって最新の時代である(したがって地質情報が豊富である)という状況によって特別扱いされているけれども、純粋に自然を記述する立場で考えたら、約250万年間の更新世のうちの1時期とするのが順当だったと思う。更新世のうち最近の約100万年間には約10万年周期の氷期間氷期サイクルが見られ、完新世は、そのひとつの間氷期にすぎないのだ。(まだ次の氷期を経験していないので「後氷期」と呼ばれることもあるが。)

完新世を人間活動のある時代と考えるのならば、それは筋がとおる。農業の始まりの時期は、完新世の始まりとあまりちがわない。もっとも、地質時代の画期は、新しい種類の最初の出現ではなくて、地球の(厳密に全域というのは無理だがそれに近いと感じられるほど)広い部分で主要な生物が入れかわる時期をとらえて決めている。農業が地球を広く覆った時期となると、完新世のうちでも新しい時期に限られるだろう。他方、人間活動は、狩猟や、火を使うことによって、地球の動植物相に影響を与えており、その効果は完新世の初めごろから大きかったかもしれない(個々の生物絶滅が人間活動由来かどうかを決めるのはむずかしいのだが)。むしろそちらを重視したとき、「完新世は人間活動の影響が大きい時代」ということになるだろう。

完新世をたてたうえで、そのうちの新しい時期を別の「世」とすることは、わたしは、無理があると感じる。まして、「代」のレベルをたてることは考えられない。それは、わたしの感覚では「代」や「世」という用語にはそれぞれ時間規模が対応していて、それと桁違いの時間規模の期間をさすことばではないと感じるのだ。完新世はすでに例外であり、それが限界で、それよりもはげしい例外を作ることは許せないと感じるのだ。

この感覚は、「人間の時代」が今後どれだけ続くかの予想に依存しているかもしれない。わたしは、人間が地球環境を大きく改変している時代という意味ならば、完新世と同じ1万年よりは短い期間しか続かないと思う。一億年後の知的存在が見たとしたら、新しい時代の始まりではなくて一過性の事件(event)に見えるだろうと思う。世界を知的に認識することができる存在がいる時代という意味ならば、もっと長いこともありうるとは思うが、予想は困難だ。

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科学的概念は、なるべく普遍性をもたせたい。(ただし、科学の進展によって概念が変わるのはやむをえない。)

ただしここで、どの範囲の普遍性をもたせるかは、対象による。

(1) 人文科学(いちおう「科学」に含められるものを想定する)・社会科学の概念では、ヒトには通用するが、他の知的存在がいたとしても通用しない概念を使う必要があることもあるだろう。

(2) 生物学や、地球科学のうちでも古生物を扱う分野では、地球で進化した生物の、たとえば、核酸遺伝子とするとか、たんぱく質でできた酵素触媒とするとかいう特徴を前提とすることもあるだろう。他の天体に生物とみなせるものがいたときにそれが適用できるかどうかは、その生物を知ったうえであらためて考えなければならないだろう。(ここから先は仮定のうえの話なので合意が得にくいとは思うが)、この種類の自然科学知識は、人類滅亡後にまったくちがった生物が知性をもった場合に、その生物にも理解できるものをめざすのだろうと、わたしは思っている。

(3) 生物に関係ない物理・化学の分野では、ヒトにも地球型生物にも限定されない知識をめざそうとするだろう。実際に可能かどうかはわからないが、地球型生物とはまったくちがった知的存在にも通用することが望ましいのだ。

地質年代区分は、地球上の広い範囲をしめた生物の種類が大きく変化した時代を画期としている。(「-zoic」の名まえに見られるように、動物を重視している。植物を重視する人はちがった時代区分を主張したい場合もあるようだ。) これは上記の(2)のレベルの普遍性をめざした概念だと思う。

人文・社会科学の立場、つまり(1)のレベルの普遍性をめざす立場で、産業革命以来の地球環境改変、あるいは近代科学による自然認識の発達が、それ以前とちがう時代だと認識するのは、わたしにももっともだと感じられる。人間社会を制約する条件としての地球環境も、明らかに大きく変容していると言えると思う。

他方、地質学の、(2)のレベルの普遍性をめざす立場で、この変容が画期的だと言えるかは、将来人間以外の知性が発達することへの想像に依存するので、同じ専門の学者の間でも一致しないだろうと思う。

なお、地球物理の人(物理を基本として地球を考える人)にとっては、時間軸は、(3)のレベルの普遍性をめざした定量的な時間目盛り(単位はSI単位ならば秒だが、便宜上「年」も使う)が基本であり、地質時代区分は、地質の文化で育った人と話をあわせるために便宜上使うだけだ。だから、もし、地質の人と人文・社会の人とが、人間の産業活動の影響が大きな面積を覆った時代を特別扱いにしたいのならば、地球物理の人がとくに反対する理由はない。

人文学・社会科学と自然科学が融合した学問が望ましいのかもしれないが、それをめざすことと、人間以外の知性にも通用する科学をめざすこととは両立しがたいと思う。

そして、地質年代区分については、すべての学問に影響しうるとしても、地質学者を中心とする地球科学者の意志を尊重すべきだと思う。そして彼らのうちでもどう変更するかについて合意を得ることはむずかしいと思う。妥協としては、現在の体系を変えない、というのが最善だろうと思う。

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さらに、科学者も人間であり、それぞれ育った文化を背負っている(意識的に反発する場合もあるが)という問題が加わる。

ユダヤ教キリスト教には(おそらくイスラムにも)、天地創造から終末まで時間が一方向に流れ、そのうちで現在は終末に近づいた特別な時代だという考えがある。マルクス主義や社会進化論思想にも時代画期はちがうが同じ類型の発想が見られる。(わたしの知識は市井(1971)などによる。) そういう文化で育った人には、たとえ自然科学者になって宗教政治思想にこだわらないつもりでも、文書記録をもつ人類の時代を、宇宙的な意味で特別扱いする感覚がありがちだと思う。

他方、世界には、時間を循環的なものだととらえる思想もある。仏教を生み出したインド思想は輪廻が基本で、時間についても、循環的であるという考えもあるし、一方向に流れるとしても、何十億年にもわたって似たことが波のようにくりかえすという考えがあるようだ。(わたしの知識は入門的な本によるもので、定方(1973)だけは覚えているが、その他は出典も思い出せずあやふやなものだが。) そのような時間観にもとづけば、今の人類が起こしている環境改変や知的生産も、地球史のうちにはたびたびある事件(event)のひとつと見る考えに(必然ではなく蓋然的に)向かいやすいと思う。

近代の科学は、ユダヤ教・キリスト教文化圏で育った。科学の知見の大部分は、仏教その他の文化圏にも問題を起こさず移植できる。生物進化論の場合は、日本のほうが西洋よりも受け入れやすかったほどだ。しかし、地球史と人間の歴史をどう関係づけるかという問題になると、文化摩擦が避けられないかもしれない。学者の国際的な組織では、文化多様性を尊重する努力もみられるが、意思決定を実質的リードしているのは西洋文化圏育ちの人であることが多い (今後、中国やインドの出身の人であることもふえそうではあるが)。そして、文化圏依存の前提を、人類普遍的前提だと思いこんでいることも多いようだ。

学術の国際標準をつくる際には、文化摩擦を回避するべきだ。やはり、地質年代区分については「とうぶん変えずにがまんしよう」が妥協点だと思う。

文献

2017-01-14

情報セキュリティと学者の立場

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研究所の全職員に対して、情報セキュリティに関する「eラーニング」を受講せよという指示があった。わたしは全員が対象であることに気づかずほっておいたら、人事上の上司にあたる人からさいそくされた。上司が職務怠慢扱いされるのは気の毒なので、すぐに受講した。日本語・英語を選べるものはわざと英語のほうを選び、音声があるのだが字幕だけを見た。

職員各人が使っているコンピュータだけでなく、ネットワークでつながった他の人のコンピュータにあるものも含めて、勤務先の組織が公開したくない情報がもれること、プライバシーにかかわる個人情報がもれること、取引口座などの経済活動にかかわる個人情報が悪用されることなどのリスクがあることが指摘されている。どんな行動が危険をもたらすかの指摘ももっともだ。選択肢式のテストがあるのだが、わたしは、だいたい、出題者が想定した正解を答えることができた。(少しだけ、問題文の記述が短すぎて意味をうまくとれなかったので正解に至らなかったものがあった。)

しかし、わたしが実際に、出題者が想定した正解のような行動をとれるかどうかは別問題だ。

「eラーニング」の教材は、おそらく民間会社が従業員教育向けに使うことを想定して作られたもので、役所にも適用可能であることが確かめられているので、公的研究法人でも採用したのだと思う。

そこで奨励されている基本方針は、会社のコンピュータや携帯機器をなるべく会社から持ち出さず、もし持ち出す場合も外のネットワークにつながないことだ。そして、個人のコンピュータや携帯機器を会社のネットワークにつながないことだ。

会社の機器と個人の機器との間で情報をやりとりすることは、多少は想定されている。それにはUSBメモリーなどのハードウェアを介するべきではなく、インターネット上の信頼できる(と会社の情報管理部門が判断した)ファイル交換サイトを通すのがよい、(自分の別アカウントあての)メールで送るのもまずまずよい、とされている。

これは、会社の業務の範囲が明確で、従業員が勤務中に接する必要のある情報はすべて業務上の情報であり、勤務外では業務上の情報を扱ってはいけない、という状況ならば、もっともな方針だと思う。

しかし、勤め人であるよりもむしろ学者(科学者を含む)であると自覚しているような人は、勤務中と勤務外で、関連した情報の探索や情報プロダクト作成を続けてしまうことがある。もし業務上の情報と個人で扱う情報を厳密に区別せよと強制されたら、学者の仕事は進まない。

実際には、わたしは、1つのノートパソコンを持ち歩いて、勤務中も自宅でも使っている。かつては研究所の資産であるパソコン(わたしに割り当てられた研究費で買ったものではあるが)を持ち帰ったこともあったが、最近は、個人持ちのものを研究所に持ちこんでいる。今のところ、それを職場のネットワークにつないだりはずしたりすることが許されているので、不便なく研究ができている。もしそれが禁止されると、わたしの研究能力は地に落ちる。

わたしの勤務先の研究所の、わたしがアクセス可能なネットワークの規制があまりきびしくないのは、おそらく、そこには個人情報や法人経営上の秘密情報はあるにはあるものの、国家安全保障上にせよ産業経済上にせよ、ものすごく重大な秘密情報はない、という判断があるからだと思う。もし、同じ研究所で重大情報を扱うプロジェクトが始まるか、または、監督官庁の判断でルールを重大情報を扱う機関に合わせることが強制されると、わたしに限らず多くの研究者の仕事がとどこおるだろうと思う。

もちろん学者も情報セキュリティが破れるリスクを減らすべきだ。しかし、その対策は単純な勤め人と同じルールを課すだけではすまないと思う。わたしは、こうすればよいという答えをもっていない。とうぶんは、(いまのわたしの勤務先のように)ルールを勤め人型よりは少しゆるくしてもらって、各人個別に気をつけるしかないと思う。よい参考例があれば知りたい。

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学者は、研究論文などの定型情報プロダクトのほかにも、いろいろな形の情報を広く世界に発信できる。本人が発信したいこともあるし、まわりの人が発信してもらいたいこともある。

1990年代ごろ、大学では、大学全体・学部・学科・研究室などいろいろな規模で情報発信のためのウェブサーバーを持つことが奨励されていたと思う。しかしその後、インターネットの悪用がふえてきて、情報セキュリティを考慮したサーバー管理は教員などの かたてま では不可能になってしまった。大学でも研究機関でも、ウェブサイトはサーバー管理専任者がいる情報管理部門に置くか、信頼できる外の業者に業務委託するかがふつうになった。

それでも、大学や研究機関が、ウェブサイトの中に区画を作って、そこに職員がコンテンツを置くことを認める制度を持っていれば、学者はそれを利用することができる。わたしの現在の所属機関にも、そういう制度がある。

ただし、学者個人はいつかは退職するが、それでも学問を続けることが多い。所属機関に置いたウェブコンテンツは、退職したあと客員その他の縁(affiliation)もなくなってしまえば、所属機関のルールしだいだが、たぶん、消されるか、修正したくなってもできないまま凍結された形で公開を続けられるか、だろう。

また、ちかごろは監督官庁が組織改変をさせたがるので、大学や研究機関の内部組織はたびたび変わる。法人名さえ変わることもある。そして、役所的な組織は、ウェブサイトのURLも正式な組織名に合わせたがる。なくなってしまった旧組織やそこにいた旧職員の情報は、消されるか、旧情報であるという注釈つきで凍結されて残るか、になりがちだ。公開が継続しているコンテンツについても、URLの時間方向の継続性がそこなわれ、リンク切れがたくさん生じる。

退職しても学問的情報の発信を続けたい学者としては、継続性の点で、所属機関のウェブサイトからの発信よりも、インターネットプロバイダーのサーバーに個人で契約してつくったウェブサイトからの発信をしたくなる。しかし、もちろんこれも、学者個人がいなくなったり、プロバイダーとの契約を更新する能力がなくなったりしたら、消えてしまう。

おおぜいの個人が力をあわせて、情報セキュリティがよくわかった管理者を雇って、ウェブサイトを持てばよいのだと思うが、どのようにしたらその方向に進められるだろうか。

2016-12-27

研究所の電子メール用ソフトウェアについての意見

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2016年11月、わたしの勤務している法人の情報システム管理部門から、コンピュータセキュリティの確保のために、所内の電子メールのクライアントソフトウェアを制限したいという提案があり、それに関する職員の意見の募集があった。

わたしはちかぢか任期切れで当法人を去る予定なので、いまさら意見を言う立場ではないとも思ったが、来年度から来る人は意見を言う機会がないことを思いなおして、意見を書き送った。

ここにはその主要部分を、固有名などをやや一般的に書きかえて再録する。

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当法人の職員はさまざまなOSのパソコンを使っています。職場のメールを使うことのできるOSが限定されることは避けてほしいです。

その目的の最小限は、ウェブメールを使うことで満たされます。しかし、おそらく所内のメールサーバーの負荷分散のため、各ユーザーのマシンでメールを読むことも奨励したいでしょう。

メールソフトウェアを、セキュリティが保証できるものに限りたいという立場はよく理解できます。

しかし他方、当法人の研究職は、多様な経歴をもった人が来て、その多くは任期が終わればまた別のところに移っていく人です。そのうちには、自分が熟練した使いかたを続けたい人もいるでしょう。嫌いなメールソフトウェアを使わされることがわかっていたらこの法人には応募しなかった、と、勤めはじめてから後悔する人もいるでしょう。

コンピューターセキュリティも重要ですから、制限するなとは言いません。コンピュータ能力の高い人は、セキュリティをこわす能力も高いかもしれません。したがって、制限をかけることは妥当と思いますが、それ以外のものを使いたいという要望があれば、検討して対応する余地を残しておくべきと思います。検討の結果ダメ、あるいは(システム管理部門に)検討の能力や作業時間がないので残念ながら認められない、ということはあってよいと思います。また、当法人の(とくに任期つきの)職員公募の際には、募集要領に書くわけにもいかないと思いますが、面接の前後には、どのようなルールがあるか明示されるようにするべきだと思います。

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次に、わたし自身の経験について述べます。

わたしは、1980年代から、おもに大型計算機を使っていましたが、電子メールについては、1980年代途中からUnix上のものを使いはじめ、1990年ごろには日本語のものを含めてそちらを主にするようになり、1990年代には大学教員として学生に使いかたを教えたこともありました。

Unix上のメールソフトウェアとしては、MH を使ってきました。これは、inc, send などの複数のコマンドからなります。わたしが重視した特徴は、各メッセージがそれぞれ(Unixの)ファイルとなり、UnixのディレクトリがそのままMHのフォルダとなって、メッセージを分類管理できるようになっていたことです。また、同じUnixマシン上でsendmailなどのデーモンが動いている場合も、他のメールサーバーからPOPで取得しSMTPで送る場合も、同じユーザーインタフェースで使えることも重要でした。ただ、添付ファイルは、受信の際の切り分けは設定ファイルを書けば自動化できましたが、送信の際に添付する作業はちょっとめんどうでした。

わたしは1997年ごろから2010年ごろまでは、ノートパソコンLinuxを入れ、事務書類も(Microsoft Office必須のもののほかは)その上で作業してきました。メールはMHを使い続けてきましたが、その期間の最後のころ、添付の便宜も考えて、Unix系とMS Windowsの両方で開発されていて、MHと互換のファイル構成を使っている、という基準で選んだSylpheedというHiroyuki Yamamoto氏によるオープンソースソフトウェアに乗りかえました。

2011-2012年度、わたしは別の法人に出向しておりました。そこは事務職員主体の職場なので、原則としてWebメール専用でした。職場のネットワーク個人のパソコンをつなぐことは許されておらず、職場のパソコンにインストールするソフトウェアも制限されていました。ただし、職員の出張や外勤も多いので、所外で自分のパソコンなどから読み書きするために、公用のメールを個人が契約したプロバイダなどのサーバーに転送することは許されていました。

わたしは、自分のパソコンでは、公用・私用ともに、Windows上のSylpheedをおもに使うようになりました。2013年度に当法人にもどってきてからも、その習慣が続いています。

個人的には、Sylpheedを使い続けることを認めてほしいと思いますが、それがだめならば、残り少ない期間であれば、公用のメールはWebメールさえあればよい、と割り切ることができます。

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ここから、今後の当法人のための意見です。

事務職の人や、技術職・研究職でもソフトウェアにこだわりのない人には、法人としてメールのソフトウェアを指定するのが、よい策でしょう。

しかし、技術職・研究職のうちには、ソフトウェアにこだわる人もいるでしょう。そういう人の志向は、セキュリティ上の問題のたねにもなりうるので、無制限に認めるわけにはいかないでしょう。他方、ソフトウェアを(とくに事務職向けと思われやすいものに)限定すると、当法人という職場がいやになる人も出てくるでしょう。

システム管理部門の、能力や時間を含めた力量から、セキュリティ判断不可能なものは、あきらめてもらい、判断可能なものについて、判断の結果として、許容するべきだと思います。

わたしが許容してほしい類型は、オフィス仕事もUnix系OS (LinuxやBSD系など)でやろうとしている人びとです。原案にもLinuxで動作するメールクライアントが含まれているので、これで満足できる人もいるでしょう。しかし、彼らがメールに「もっとUnixらしい」ものを使いたいならば、システム管理者が理解できる限りは、認めてあげてほしいと思うのです。ただし、Unixらしいソフトウェアには、自由度が大きく、したがってセキュリティ上の危険も大きいものもあるでしょう。危険があると判断されたものは許容しない、また、システム管理者に判断できない(判断する時間がとれない)ものも利用をがまんしてもらう、というルールでよいと思います。

2016-12-26

大気のエネルギー、エネルギー収支 (5) (熱収支ではなくて熱機関論)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

[第1部(2016-12-09)][第2部(2016-12-10)][第3部(2016-12-11)][第4部(2016-12-13)]の続き。節の番号も続きでつけることにする。

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第1部の「- 6 -」で述べた、運動エネルギーがどのようにつくられているかに関するエネルギー収支解析について、まだ具体的に述べていなかったので、ここで紹介する。

【ただし、わたしは、この種類の計算を自分でやったことがなく、また、今も、文献の理屈や数式を充分詳しく確かめることができていない。この記事は方法の外形的な紹介にとどまる。】

大気を空間的に分けた各部分を箱のようにみなして、そのエネルギー収支を、内部エネルギー・位置エネルギー・運動エネルギーの間の変換項も含めて定式化したものは、たとえば、Peixoto & Oort (1992)の本の13.2節にある。

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運動エネルギーをおもに考えるときは、位置エネルギーと内部エネルギーをあわせたもののうちで、運動エネルギーに変わりうる部分を取り出した、available potential energy (APE, 日本語では「有効位置エネルギー」)という概念を使った議論をすることが多い。

ひとまず、内部エネルギーのうち、水蒸気による部分は除外し、温度に比例する部分だけをとりあげる。また、上下の対流に対して安定または中立な成層状態が実現しているとする。

「位置エネルギー + 内部エネルギー」のたまりは、運動エネルギーのたまりよりもずっと大きい。しかし、もし、大気の状態が水平に一様(等密度面が水平)ならば、そこにある「位置エネルギー + 内部エネルギー」から運動エネルギーをつくることができない。運動エネルギー生成に利用可能(available)なエネルギーは、空気のもつ物理量の分布の水平非一様性に関連した部分なのだ。

APEの定式化にいちばん貢献したのは、Edward N. Lorenzの1955年から1960年ごろの仕事だ。その原論文をわたしは読んでいない。模範的文献としては、[2014-06-18の「大循環」の記事]でふれた Lorenz (1967)の大気大循環論の本を読んでいる。【この例に限らず、自然科学者は、新概念が最初に提唱された学説史的に重要な文献を(文献リストにあげることはあるが)実際に読まず、実際の理解は概念の定式化が定まって教科書的に記述された文献に頼ることが多い。】

APEの考えかたは多くの教科書、たとえばPeixoto & Oort (1992)の14.1節で紹介されている。第4部の「- 16 -」で述べた「温位」(potential tempearture)、つまり、断熱的に標準の気圧に持ってきたときの温度を使う。そして次のように考える(Peixoto & Oortの図14.2参照)。

  • 大気の質量を、温位の区間ごとに分類する。
  • 各分類の質量が実際と同じで等温位面がいずれも水平であるような仮想的状態を考え、これをreference stateとする。 (日本語では「参照状態」と言ってもわかりにくいので仮に「水平状態」と呼ぶことにする。)
  • 実際の状態の「位置エネルギー+内部エネルギー」と、水平状態の「位置エネルギー+内部エネルギー」との差を有効位置エネルギーとする。

よく使われるp座標での有効位置エネルギーと運動エネルギーの収支式は、たとえばPeixoto & Oort (1992)の14.3節にある。有効位置エネルギーから運動エネルギーへの変換項は、ω α に比例する(ωは鉛直p速度、αは単位質量あたりの体積)。

Dutton & Johnson (1967)によれば、APEの定式化は温位を鉛直座標にとって(等温位面で)計算するのが正確であり、p座標の式は近似式である。【しかし、気象データはふつうp面で提供されるので、等温位面で計算しようとすると内挿が必要だ。データ解析の誤差評価には定式化の誤差と内挿誤差の両方を考える必要がある。】

Peixoto & Oort (1992)の第14章の題名にもなっているように、大気中で、まず加熱・冷却の不均一によってAPEが作られ、そこから運動エネルギーが生成する過程が、準定常的に継続していることは、熱機関と似ている。

Ozawaほか(2003)は、大気の熱力学過程をエントロピーの発生を含むエントロピー収支の枠組みでとらえたが、その8.1節では、その枠組みと、E. N. LorenzのAPE生成・散逸の枠組みとを関係づけている。

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気象学では、いろいろな量を、平均場とそれからのずれに分ける。平均としては、zonal平均 (東西全経度平均)、水平領域平均、時間平均をとる場合がある。

[2016-07-01の記事「渦、vortex、eddy」][教材ページ「渦(eddy)輸送」: 「積の平均」と「平均の積」の違い]で書いたように、平均場の状態の式に、複数の量の積の形をした項があるとき、その項は、平均量どうしの積のほかに、平均からのずれどうしの積の平均(eddy項)を考慮する必要がある。

【第4部のQ1の話で、eddyとしてデータで表現できないsub-grid scaleの運動の寄与だけを考えたのとはちがって、いま考えている状況では、データで表現できる(grid scaleの)大気の運動の多くがeddyのほうにある。sub-grid scaleは、重要でないか、粘性のように働くだけと想定している。】

有効位置エネルギー A と、運動エネルギー K を、それぞれ、平均場の項 M と、eddyの項 E に分けて、AM, AE, KM. KEの4つのエネルギーのたまりの収支を考える。Aの生成項、AからKへの変換項、Kの散逸項を、それぞれ平均場とeddyに分けて考える。また、A, Kそれぞれについて、平均場とeddyとの間のやりとりの項がある。このような枠組み(Peixoto & Oortの図14.3)で、観測データや数値モデル出力によって数量を入れた研究が多数ある(Peixoto & Oortでいえば図14.8など)。

この枠組みからの発展として、平均場からのずれを、フーリエ展開、球面調和関数展開、あるいは大気力学のノーマルモード展開して、平均場とそれぞれのモード、さらにはモードどうしのエネルギーのやりとりを調べた研究もある。

文献

  • John A. Dutton & Donald R. Johnson, 1967: The theory of available potential energy and a variational approach to atmospheric energetics. Advances in Geophysics (Academic Press), 12: 333-436.
  • Edward N. Lorenz, 1967: The Nature and Theory of the General Circulation of the Atmosphere. WMO No. 218. Geneva: World Meteorological Organization. (MITのLorenz著作ページ http://eaps4.mit.edu/research/Lorenz/publications.htm 参照)
  • Hisashi Ozawa, Atsumu Ohmura, Ralph D. Lorenz & Toni Pujol, 2003: The second law of thermodynamics and the global climate system: A review of the maximum entropy production principle. Reviews of Geophysics (American Geophysical Union), 41, 4/1018, 24 pp. http://doi.org/10.1029/2002RG000113
  • Jose P. Peixoto & Abraham H. Oort, 1992: Physics of Climate. American Institute of Physics. [読書ノート(英語)]

2016-12-23

天皇の制度について、2016年12月の時点で考えること

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この記事はわたしの社会に対する意見を含んでいます。しかし、明確に意見を主張する文章にはなっていません。】

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[2016-08-08の「天皇ビデオメッセージをきっかけに考えたこと」]を書いてから、ときどき、天皇という制度について、国民のひとりとしての意見を言いたくなることがあったが、政治家のところに持っていけるほどには考えがまとまっていない。天皇誕生日という国の祝日をきっかけに、覚え書きとして書き出しておくことにする。

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わたしは、前から述べているように、日本国憲法の背景にある理念を尊重する立場から、最善は憲法改正による天皇制廃止、次善は天皇を空位にすることだと思っている。しかし、こういったことを主張しても実現に向かう見通しはない。今の制度との飛びが少ない範囲で、だれにも無理な負荷がかからないような制度の改良を考える必要もあるだろうと思う。

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2016年10月から、首相官邸のもとに、「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」がつくられていた。

わたしはそこでの議論を追いかけなかったが、ときどき見た報道によると、いま天皇の位にある人の負担軽減を目的と考えて、その手段として天皇の退位(を可能とする法制度整備)が適切かどうかに賛否両論があったようだ。この問題枠組みは、わたしが会議の名まえを見て期待したものとちがっていた。

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わたしは、退位があろうがなかろうが、もし日本国が天皇がいる状態を継続したいのならば、本来の意味での「天皇の公務の負担軽減等」、というよりもむしろ「天皇の公務等の負担軽減」を具体的に進めることが、急務だと思う。

それは基本的には、今の天皇のためではない。今の天皇のように高齢の人を前にすれば、その人の実質的な負担は、明示的に制度を変えなくても、いわば「自然に」軽減されていくと思う。個別業務ごとに、代理をたてる必要のあるものはそうするし、天皇でなく他の皇族でもつとまるものはそうなっていくだろう。

「負担軽減」が必要なのは、に天皇(あるいは「摂政」などの業務代行者)や皇后などになる人のためだ。今の天皇が、自分では納得してふやしてしまった業務が、天皇という職種に伴う業務としてあたりまえになると、次の天皇にとって重荷になるので、負担軽減が必要なのだ。これは、労働条件を、困難な条件でも喜んで働く労働者の働きかたを標準にして決めてしまってはいけない、ということの一例なのだ。業務見なおしで第一に考慮すべきなのは国の機関としての天皇の機能だろう。今の天皇の意向を尊重しすぎてはいけないのだと思う。

横田(2016)を参考に述べると、天皇の行為は、国事行為私的行為、「公的行為」に分けられる。

国事行為は日本国憲法に規定されたものである。

現実の天皇の活動の多くを占めているらしい宮中祭祀は、法的には天皇の私的行為に含まれるものだ。日本国憲法の政教分離の原則によって、宗教行事には国が関与することはできない。

憲法の解釈としては、国事行為以外はすべて私的行為だという考えかたもある。しかし、現在の政府見解では多くの「公的行為」を公務と位置づけている。宮内庁ホームページには次のようなものが例示されている(横田 2016から引用)。

国民体育大会植樹祭などへの出席、園遊会パラオフィリピン等への外国訪問、外国元首との親書・親電交換、被災者のお見舞いなど

国事行為については、天皇の体調が職務をまったくとれないところまでおとろえなくても、おりにふれた判断で代理にまかせられるように制度を整備すればよいのだと思う。ただし、法律公布や人事に関する署名だけでも、件数が多いので、重い肉体労働といえる、とも聞くことがある。ほんとうならば、件数を減らすなり、技術的手段によって肉体的負担を減らすなりの、暫定でなく恒久的な改革をしたほうがよいと思う。

公的行為」の法的根拠は、国事行為に準じるもののはずであるが、国事行為の場合の内閣の「助言と承認」に準じることを無制限に広げると、ときの行政府が天皇を政治的に利用できることになる。現実には、あからさまな政治利用にならないような節度をもって行なわれていると思われるが、それは制度的に保証されていないので、この部類を(廃止せよというのは現実的でないものの)ふくらませるべきではないのだと思う。現実の各行為の実行には、行政機構の意志と、天皇である個人の意志とが関与しているはずだ。行政機構の意志のうちには、昔の判断が慣例となっていて、今判断するならば不要となるものもあると思う。(行事への天皇の出席の見なおしというよりもむしろ、行事自体の見なおしをすべきこともあると思う。) 天皇の意志については、今の天皇が前例をつくって次の天皇に義務としておしつけることがないように、という面にも注意すべきだろう。

宮中祭祀や皇室行事(皇室典範に規定のある「即位の礼」「大喪の礼」は別とする)は法的には「公務」ではなく私的行為なので、その内容については、国の機関(有識者会議も含まれる)が関与するべきではない。しかし、天皇である個人が私的行為の負担が重すぎて国事行為を担当するのにさしつかえる場合は、国として、私的行為の活動を減らすことをお願いするべきだろう。また、国が出している皇室費の使いみちがむやみにふくらまないように制約を課すことも、国の側の職務だろう。だから、国の側から、法的な「公務」の負担軽減について決定することとは明確に区別して、私的行為の負担軽減について天皇・皇室に勧告することを考えてよいのではないかと思う。宮中祭祀や皇室行事は古い伝統とされているものが多いが、明治時代の天皇が最高権力者である状況で、過去の天皇がやりたかったができなかったもの、神仏分離によって仏教行事が神道行事で置きかえられたもの、西洋の王室との横並びで発明されたものなどが追加されただろう。「負担軽減」が課題となる状況ではこの私的行為のほうの整理も必要だと思う。それは原理的には皇室メンバーの意志で決めればよいことだが、国としてきっかけを与えることも必要かもしれない。

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話は退位のことに移る。まず、用語の件。

2016年にマスメディアに「生前退位」という表現がたびたび現われた。これは「退位」でじゅうぶんであり「生前」とつけるのは変だ、という意見もよく聞かれた。わたしもそう思う。(ただし、わたしは冗長な表現を一般的に否定はしない。)

伝統的に使われていた表現は「譲位」「位を譲る」だったようだ。そして、2016年10月の報道によれば、2010年の宮内庁参与会議で天皇が意向表明したときの表現は「譲位」だったそうだ。

理屈を考えると、「譲位」は、「退位」とそれに伴う皇位継承をあわせたものをさすことばだと思う。

わたしのように、空位になることもありうると考えるならば、退位と皇位継承を分けて考える必要があるので、「譲位」では不適切なのだ。

しかし、日本で退位の可否を論じていた人のほとんどは、空位になることを考えていなかった。

それでも「譲位」という表現が避けられたのは、「譲」の主体は現天皇(「譲位」が行なわれる時点で天皇である人、という意味)だと感じられ、すると、退位することだけでなく、後継者をだれにするかにも、現天皇の意志が働くような感じがする、それは日本国憲法のもとの制度の原則に反する、という判断があったかもしれないと思う。

実際には、後継者がだれになるかは、現天皇の意志とは関係なく、日本国憲法のもとの法律である皇室典範のルールによってほぼ自動的に決まる。(「ほぼ」と書いたのは、後継候補者が固辞した場合に無理じいはできないと思うからだ。) 退位のほうは、これから整備されるだろう法制度では国会の議決を必要とすることになるだろうが、国会への提案の段階で現天皇の意志が反映されるだろう。だから、退位皇位継承があきらかに切り離された用語を使うのがよいという考えはもっともだと、わたしは思う。

(「譲位」という用語を、退位と皇位継承が続くことであり、だれの意志かを問題にしないと定義して、書き手・読み手みんなが了解すればそれでもいいはずだが。)

「生前退位」の「生前」はよけいなのだが、おそらくもともとは、天皇が亡くなった場合の皇位継承に対して、「生前の皇位継承」であることを明示するために持ち出されたことばが、まぎれこんだのだと思う。

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退位を決めるのに、憲法改正は不要のはずだ。皇室典範改正か特別立法が必要だろう。ただし、最小限でよい。

もし国会で退位だけを決めて、皇室典範を変えないと、(皇位継承の規定は皇室典範4条の天皇崩御にともなうものだけなので) 皇位継承は行なわれず、天皇の位は空位になる。

国の政治に必要な国事行為のためには「摂政」がいればよい。退位前に摂政を選任しておけば、その人が業務をおこなえるだろう。摂政を決めずに退位してしまうと、皇室典範17条の摂政にだれがなるかの規定が意味不明になり、皇室典範の少なくともその部分を改正しないと先に進めない。国会の会期中ならばその場で改正すればよいのだが、会期中でないと、天皇も摂政もいないので、国会を召集できない。しかし、日本国憲法のもとの日本の公権力の根源は天皇ではなく国民にあるのだから、召集を受けずに議員が自主的に集まった国会でも最小限の立法はできると考えてよいと思う。

皇室典範は法律だから、国会が(その摂政に関するところを)適切に改正すれば、(そして、もし もと天皇であった人の死去を皇位継承の原因となる「天皇崩御」と認めないとすれば)、空位をずっと続けることも可能なはずだ。

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皇室典範について、退位に伴う皇位継承を認めることに伴って、どのような改正が必要になるのか考えようとした。(皇位継承を男系男子に限るという原則は、ひとまず日本国憲法に反すると主張せず認めておくことにした。)

考え始めて、皇室典範の用語の定義があいまいだと思った。とくに、条文中の「天皇」が現天皇(条文が適用される時点で天皇の位にある人)に限定されるのか、天皇経験者をさすのか、その他の皇族に関する「皇子」などの用語も、現天皇を参照点とした場合に限定しているのか、歴代のどの天皇を参照点とした場合も含まれるのか。どうも、同じ法律のうちでも条項によってちがう意味で使われていると思われる。おそらく標準的な解釈は決まっていて、適切な専門書に書いてあると思うのだが、わたしにはよくわからない。ここでは、わたしなりに筋が通ると思った解釈で考えてみたことを述べる。

まず、もと天皇であった人の退位後の身分をどう規定するかが問題になる。皇族ではあるとするべきだろう。すると、皇室典範にある皇族の内わけのすでにある類に含まれるようにするか、新たな類をたてる必要がある。いちばん単純にすませようとすれば、「退位した天皇は「親王」にもどる」とすることが考えられる。オランダの三代の女王が「Prinses」(英語ではPrincess、日本語では「王女」と書かれることが多い)にもどっているのが参考例になる。

そして、皇位継承候補者とその順位に関する問題がある。いま個別に想定されている事態ではないのだが、制度として退位を認めれば、退位した人の復位の可能性も問題になりうるし、退位後の「もと天皇」の子が生まれた場合にその子には皇位継承の可能性があるか、あるならば順位はどうなるかが問題になりうる。(もと天皇に子が生まれる場合を考慮する必要性については、わたしは8月に気づいたのだが、さかのぼってTwitterを検索すると、7月に指摘している人がいた。ただし、どう対策するかなどに議論を進めてはいないようだった。) これも、単純に、皇位継承順位は現天皇を基準とし、もと天皇との関係はとくに考えない、と決めればよいと思う。(参考例として、今の天皇の直系の祖先をさかのぼると、霊元天皇後水尾天皇上皇になってから生まれた子なのだが、皇位は「後西天皇の弟」という立場で継承したと考えることができ、「上皇の子」という立場を持ち出す必要はないだろう。)

これだけならば、皇室典範の明示的改正は必要なく、解釈の明確化ですむのではないか?

ただし、皇室典範には「皇太后」が規定されていて、皇太后に対する敬称は「陛下」とされている。すると、前天皇は「親王殿下」だがその配偶者が「皇太后陛下」と呼ばれるというのは、どうにもバランスが悪いだろう。やはり、前天皇に対する称号を規定して、その敬称を「陛下」とすべきなのかもしれない。わたしの意見としては、称号は「上皇」で、それは「太上天皇」の略ではない、とするのがよいと思う。そうすると、皇室典範のあちこちの皇族の類別列挙に「上皇」を加えるような改正が必要になりそうだ。

【これに関連して、「皇太后」の定義が、前皇后のことなのか、天皇の母のことなのか、不明確だと思った。皇位継承が父から子へであれば両者は一致するにちがいないのだが、兄から弟、おじから甥などの場合はちがってくるのだ。皇室典範自体を見てもわからないが、解釈は決まっているのかもしれない。もし天皇の母をさすならば、天皇の母でない前皇后はどう呼ばれるべきかも問題になる。】

【世の中には、皇室典範に「皇太弟」の規定がないことを問題にする人がいる。これは退位と関係なく、皇位継承候補者が現天皇の子でないという状況に関することだ。わたしはこれは困ったことではないと思う。天皇の直系の男の子・孫がいなくて、弟がいるならば、その弟が皇室典範2条の継承順序最上位の人、3・4条でいう「皇嗣」になる。そして、親王であるにちがいないので、17条の摂政になる人の最上位にもなる。法的には「親王」で「皇嗣」であるということでじゅうぶんであり、非公式に「皇太弟」と呼んでもかまわないと思う。

しかし、この問題も皇太后に関する疑問と同様に、皇室典範が父から子への継承しか考えていないことに由来する欠陥だと考えられる。筋を通した改正をするとすれば、親子関係と関係なしに、「皇嗣」を「皇太子」と呼ぶことにしてしまったほうがよいかもしれない。】

葬儀の扱いの問題もある。皇室典範25条の「大喪の礼」は天皇の葬儀だが、過去の天皇の葬儀は含むのか含まないのか。一方に、退位の趣旨として、現役の天皇よりは葬儀を簡素にしたいということがある。他方で、天皇経験者の葬儀が他の親王と同格では軽すぎるようにも思われる。過去の天皇の葬儀を、「大喪の礼」に含むとするか、別に規定するかのいずれかが必要だ(別に規定する場は皇室典範でなくてもよい)。陵墓(典範27条)についても同様な問題がある。

- 8 - [2017-01-10 追加]

「退位は皇室典範改正によらなければならず、特別法ではいけない」という主張を見かけた。

わたしは、特別法でよいと考えている。ただし、その特別法は、内容が実質的に皇室典範への補足になるものなので、形式的にも皇室典範のしかるべき条項への参照が必要だとは思う。

皇室典範改正で退位に関する規定をもりこむならば、7節に述べたように、復位の可否や、もし退位後の もと天皇 の子が生まれた場合のその人の地位も、明示するにせよ現行法の規定の解釈によるにせよ、考えに入れておくべきだと思う。将来のいろいろな可能性まできちんと考えるのには時間がかかる。しかし、特別法ならば、考える範囲を、いまの天皇の退位にともなって起きる可能性があることに限定できるだろう。いまの状況ではそのように限定して進めるのが現実的だと思う。

文献

  • 横田 耕一, 2016: 憲法からみた天皇の「公務」そして「生前退位」。『世界』 2016年9月号 (886号), 40-43.