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2017-02-11

音楽著作権使用料の問題をめぐって考えること

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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音楽の著作権については、前から慢性的に気にかかってはいたのだが、2017年2月2日の報道、たとえば朝日新聞に「音楽教室から著作権料徴収へ JASRAC方針、反発も」という見出しで出たものをきっかけとしたネット上の議論を見て、いろいろ考えることがあった。

ここでJASRACは日本音楽著作権協会だ。この報道に関連してウェブサイトなどにJASRACの公式見解はまだ示されていない。(2月5日にTwitterにJASRACのアカウントと称するものが出現したが、他人によるなりすましだったそうだ。) JASRACの立場に近いものとしては、大学教員が本業でJASRACの非常勤理事でもある玉井克哉さんのtweetがあった。ただし、玉井さんによれば、JASRACは今回新しい決定をしたわけではなく既定方針で行動しているだけだそうだ。だから公式発表がなかったのだし、玉井さんも今回の件に関する公式見解を知っているわけではなく、近ごろのJASRAC内(理事会など)での平常の議論と、法学者としての彼自身の理屈とを組み合わせてひとつの立場の主張を構成していたのだった。

JASRACと音楽教室との問題についてのわたしの主張は、いずれ、JASRACの公式見解がわかってから、それをもとに組み立てたほうがよいと思っている。しかし、ここでは、これまでに断片的情報をもとに考えたことを忘れないように書き出しておく。

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おことわり。わたしは1960年代、親の方針で、幼稚園のころに「ヤマハ音楽教室」 (足踏みまたは電気のリードオルガンの演奏を主とする集団授業)に、小学生のころにピアノ個人指導にかよったことがある。わたしの音楽に対する感覚は、学校の音楽教育の影響とともに、そのような音楽教室の影響も受けて、のちに知った音楽の多様性のうちでは、平均律にもとづく長音階短音階に偏ってしまったと思う。わたしには、自分の受けた音楽教育を全面的には否定されたくないという思いがあるが、全面的に賛同もできないと思っている。

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玉井さんの議論を、わたしは全部理解できたわけではないし、理解したうちでも賛同したところとしないところがある。

しかし、JASRACに関する世の中の誤解をとくところは、もっともだと思った。

JASRACは、一般社団法人だ。社団法人財団法人の制度が「公益」と「一般」に分かれたときに「一般」のほうになった。会員の共通利益を追求する団体であって、「音楽文化振興」のような活動はするかもしれないが中心の業務ではない。会員は作詞者・作曲者・音楽出版社であり、演奏家や演奏の産物(CDなど)をつくる会社を代表してはいない。

また、「JASRACは天下りに支配された法人だ」という悪評はまちがいだ。ここ十年ほどの役員に元官僚はいない。収入のほとんどは著作権使用料で、そのうち役員・職員報酬を含めて法人内で使われるのは1割程度で、9割は権利者に配分されている。

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「音楽教室から著作権使用料をとる」という件から、学校教育法でいう学校での授業は、はじめからはずされている。(このことも誤解している人がいるにはいたが、議論を続けている人の多くは了解していたと思う。) 学校での課外活動(部活動)の場合はどうなるのかという疑問もあるのだが、当面の話題にはなっていない。

ここで問題になっているのは、営利事業の音楽教室だ。大手の少なくともひとつの主体一般財団法人の形をとっているが、会社によるものと同様な営利事業と見られる。

音楽教室での音楽の利用のうち、公開される発表会については、たとえ聞く人からお金をとらないとしても「公衆向け演奏」にちがいないので、著作権使用料をとってもふしぎはないし、すでにとっているだろうと思う。

今回、あらたにとろうとしているという話を、わたしは当初、生徒が練習することについて使用料をとるのかと思って驚き、反発した。曲を練習するには多くの場合楽譜を使う。楽譜は正式に出版されたものを買うべきだとされており、その場合は楽譜の代金に著作権使用料が含まれている。それに加えて、練習するためにお金を払わせるのは、音楽の普及にブレーキをかけることになるのではないか?

使用料が払われることによって作曲家が練習用の曲を作るインセンティブが高まるという考えもある。しかし、もし音楽教室側がお金をとられるのを(金額よりもむしろ手続きを)いやがって古い曲だけを使うようになると、作曲家が練習用の曲をつくるインセンティブが下がり、上級向けの曲ばかり作るが、上級に達するまで講習を受ける人が減って、作曲家の収入がふえない、という因果連鎖もありうると思う。

しかし、しばらく議論を追いかけてみると、主要な対象は生徒による練習ではなくて、教師による模範演奏らしい。

たしかに、音楽教室での教師の演奏でも、多人数(たとえば20人)の生徒に向けて一曲を通してひくというような形ならば、公衆向け演奏とみなすという判断がありうるだろう。

しかし、授業の途中で(曲の由来を明示して)曲の断片をひくのは、言語の著作物の場合ならば「引用」であって「複製」ではないように思う。(音楽の著作物の場合にどのような法的概念になるのかよくわからないのだが。)

また、模範演奏を聞く生徒がひとりだけでも、JASRAC側の理屈では(仮に玉井さんのtweetがそれを代弁しているとすれば)、生徒になりうる人は不特定多数なので、公衆向け演奏とみるらしい。これは争われるところだろう。実際にそれは成り立たないと考える法律家の発言も見かけた。もしここが対立点ならば、裁判の場に持ち出したほうがよいだろうと思う。【さらに、殺人事件などよりもこのような問題こそ、ランダムに選ばれた市民が裁判に参加したほうがよいだろうと思う。そのような裁判員制度の変更は残念ながら現実に起こりそうもないが。】

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報道されたJASRACの方針(とされたもの)に対する反発のうちには、個人経営などの零細な音楽教室から使用料をとるのは弱いものいじめだ、という議論があった。

これに対して、玉井さんは、JASRACは大手を問題にしているのであって、零細な教室からとることはないだろうと言っていた。その根拠は、零細な教室からとるのはJASRAC側の手間がかかりすぎて採算がとれないということらしい。

この点は、わたしには大きな疑問が残る。著作権に関するルールは、利用目的が同様ならば、利用主体の経営規模などによらずに、一様で、予測可能であるべきだと思う。現在のJASRAC経営陣が大手だけをあいてにすると言ったとしても、その根拠が零細なところからとるのはJASRAC側のコストが高くて採算がとれない、ということだとすると、もし利用の判定・集金のてまが減るような技術的事情の変化があれば、「将来のJASRAC経営陣が、ルールの明示的変更なしに、零細教室にも適用する」可能性はあるのではないかと、零細教室関係者や広く音楽教室を奨励したい人々が事前警戒的に心配するだろう。

また、経営は零細のほうが苦しいだろうが、授業料を払う側からみると、個人指導は高級で、大手のほうが(「マスプロ」で生徒あたりの効用が低くなりがちではあるが)庶民向けなのだ。その観点からは、JASRACはとりやすいところからとるだけで庶民側に立つわけではないとも感じる。JASRACは公的機関でないし、すべての著作権者をカバーするものではないので、ライセンス上払うべきとされるところのうちどこから実際にとるかはJASRACの裁量で法的にはよいのだが、とられる側が税金のように意識するので、払うべき条件を明示してそれにあてはまるところから公平にとってくれないと不満を感じる。

もっとも実際、大手ならば、どの曲を使ったかを記録する仕事にそれに適した能力の人を専任で雇うことができるが、個人経営の教師は自分で記録しなければならなくなり、使用料自体よりも自分の人件費の損失が大きいだろう。この意味では、零細の教室からとるのは弱いものいじめになりうる。ただしこの問題の解決は、零細のところを除外することではなく、JASRACか仲介者が、てまのかからない記入方法を提供することだと思う。

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作曲・作詞者のうちには、教室では無料で使ってほしいと公言する人もいる。学校教育だけでなく営利事業のものでも音楽普及的価値を認めているのだと思う。

JASRACは、多数の著作権者に同一条件で対応している(それによって集金の費用を安くしている)ので、特定の作者の作品について演奏会では料金をとるが教室ではとらない、といった対応はできないそうだ。

しかしJASRACの意思決定は著作権者の代表によるから、もし著作権者の意志として、たとえ分配金額の総額が減っても、各著作権者の希望条件が尊重されるべきだということになれば、そういうルールになる可能性はあるかもしれない。

また、JASRACとは別の団体を使う人も出てくるかもしれない。

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音楽教室の件から離れて、JASRACについての、または音楽の著作権制度についての不満をいくつか聞いた。

現在のJASRACは個人からのとりたてに積極的ではないようだが、かつて激しかった時期があるようだ。個人が、ウェブサイトにMIDI形式のデータ(楽譜と同様の内容で、機械によって音にできる)を置いていたら、JASRACによって規制されてできなくなった、という不満を述べていた人がいた。JASRACは著作権使用料支払いを求めたのだろうが、示唆された手続きがてまがかかるものだったり、契約のために個人情報を提供する必要があったりしたので、置くことを禁止されたように受けとった人が多かったようだ。

葬式にバックグラウンド音楽をかけようとしたら、葬儀会社がJASRACと契約していないのでできないと言われたという話があるそうだ。遺族が自分でやるならば私的使用だろうが、葬儀会社の請負のうちならば、営利事業のうちに公衆向けの演奏や録音再生があるとみなされるのは無理もなく、葬儀会社がJASRACと包括契約するかどうかになるだろう。葬儀会社がそれをしたくないと思う理由のほうを解決する必要があるのかもしれない。

1970-80年代、商店街、食堂、海水浴場、スキー場などの公開の場で流行歌がかかっていることが多かった。今は少ない(その店の宣伝の歌がかかっていることはある)。「人々が流行歌を共有しない」ことを不満に思う人もいるし、「うるさくなくなった」ことを喜ぶ人もいる。わたしの場合は、流行歌のメロディーや歌詞の断片だけ(+たまに歌い手の名)が記憶に残り、曲名、作曲・作詞者名などは知らないままのことが多かった。毎年変わる最新流行の歌については、うるさくないほうがいいと思うことのほうが多かったが、「定番」「不易」の曲については、共有したいと思うこともある。

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必ずしもJASRACのせいではないのだが、日本の著作権制度でフェアユース(fair use)の領域が定められていないせいと、生活のうちでインターネットの重みが大きくなったことの組み合わせによって、個人の音楽生活が狭まっていると感じることがある。

わたしが個人としていちばん不満に思うことは、いわゆる「鼻歌」を公開しにくいことだ。

自分が思いついたメロディーが、完全に自作だという自信があれば公開できる。しかし、たとえ自分では自分の作曲だと思っていても、(ものすごく独創的というわけではないので)それまでに知った曲を無意識になぞっているかもしれないし、偶然似てしまうこともあるだろう。

また、オリジナルでなく、どこかで聞いた曲だが、題名も作曲者名も知らないので、知るために提示したいことがある。ただし、記憶から再現した形は、作曲者の意図どおりでなくゆがんでいる可能性もある。

顔を合わせる人に対してならば、自分の声で歌うなり、楽器で演奏するなり、音を出す機械をその人のところに持っていくなりして、きいてもらうことはできる。しかし、仕事や家庭の用事で顔を合わせる人が音楽への関心を共有するとは限らない。インターネット上のサイトに置けば、関心を共有できる人にきいてもらえる可能性は高まるのだが、他人の著作物である可能性があるものを著作者に無断で公開のところに置くのはまずい。

著作者がわからないままでは、使用料支払いが必要かどうか確認することもむずかしい。それで、わたしは、インターネットによる情報発信に音楽を含めることを単純に自粛してしまう。音楽に関する関心の近い人と音楽に関する会話ができないから、自分の音楽の能力がおとろえてくる。

歌詞については、翻訳を試みたり、かえ歌を思いついたりすることもあるのだが、これも同様に、見せられるあいてが限られる。(かえ歌の歌詞は、もと歌の歌詞とまったく共通点がなければさしつかえないはずだが、どこか共通点があるのがふつうだ。)

個別の曲を特定しなくてよい包括契約で、要求される使用料が自分が払える額ならば、払ってもよいかと思うこともある。ただし問題は、契約や支払いの際に、払う相手に個人情報(たとえばクレジットカード番号)を知らせる必要が生じることだ。相手を信頼できる主体に限定したい。

もし仮にJASRACが義務的組織で、日本で音楽で収入を得る人すべてをカバーするならば、JASRACと包括契約することも考えやすい。しかし、著作権者は別の団体に使用料受け取りを委託することもできるし、本人が交渉することもありうる。その自由があるのは、作る側にとってはよいことだと思うが、払う側として対応しきれないところがあって、むずかしいものだと思う。

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わたし個人の感覚から少し一般化して、わたしの認識する現代日本社会の問題点を論じてみる。

JASRACのような組織が悪者扱いされがちだと思う。これは、借金を返す義務があることはわかっていても借金取りが悪者扱いされるのと同様だろうか。

使用料がとられて困るほどの金額でなくても、また包括契約で手続きが簡単になっていても、罰金や税金のように感じて、とられたくないと思いがちなのだ。

ルールの解釈や運用によってとられる可能性があるがとられない可能性もある場合、事前警戒して自粛・萎縮してしまう(自分の側のとられる原因を最小化しようとする)ことがありがちだと思う。その結果、音楽活動が不活発になる。

JASRACが敵視されず、取引先の一つとされるように変わっていくべきだと思う。

音楽データを公開する主体は、萎縮せず、損得を見積もって、ときには払い、ときには争う覚悟をしながら払わずに活動していけばよいのだと思う。

2017-02-10

気候変動についての政策決定にとっての科学者の役割 (2)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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[2013-12-21の記事(「第1部」と呼ぶ)]の続き。最近、この話題を同僚に話す機会があり、材料をまとめる過程と、質疑の場で、もう少し考えた。【[2017-02-13補足] 有本ほか(2016)の本の[読書メモ]にも関連して考えたことを書いたが必ずしもくりかえさないので、あわせてごらんいただきたい。】

第1部でも述べたように、IPCC (気候変動に関する政府間パネル)は科学と政策の界面を構成する巧妙なしくみである。

有本ほか(2016)で論じられているように、科学的助言のためのしくみだとも言える。リスク(不確かな危険)に対する政策では、リスク評価とリスク管理の分離がよいとされることが多いが、IPCCはほぼリスク評価を担当し、リスク管理は、国際交渉の場である気候変動枠組み条約締約国会議(UNFCCC-COP)をはじめとする政治のしくみにまかせている。

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ただし、有本ほか(2016)は、IPCCは、複数の政策オプションを提示するという形で、リスク管理の役割にいくらか踏みこんでいる、という。確かにIPCCによる気候変動対策に関する知見の提示は、複数の政策オプションの得失を比較するという形をとることがあるけれども、(わたしの理解では) 政策オプションの提示としてはとても弱いと思う。IPCCは、第1部でいう「b」の位置にあって、すでに出版された文献に書かれたオプションを論評することができるだけだ。もっとも、IPCCの著者はたいてい研究者(第1部でいう「a」)の兼業だから、研究者の立場で勧めたいオプションを提示した論文を書いて出版されれば、IPCCの著者の立場でそれを引用することは可能ではある(報告書の各章に複数の編著者がいることで極端な偏りを避けている)。また、IPCCの役員などが報告書の趣旨説明をするとき、「これこれの政策をとらないとこのような大きな被害が生じる」といった表現で、実質的にある政策オプションを勧める発言をしてしまうこともあるようだ(詳しく確認していないのでそうだという自信はないが)。もしIPCCに「複数の政策オプションを提示する」という機能を明確に持たせたいならば、著者には、文献にあるものを取捨選択するだけでなく、整合性のあるオプションを設計するところまで権限を与えるべきだろうと思う。ただし、そうするとこれまでのIPCCとは性格のちがう組織になるだろう。

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IPCCは、約6年ごとに評価報告書を出していて、現在、第6次報告書に向けたサイクルの途中にある。

しかし、(わたしの理解では) IPCCの組織はもともと臨時のもので、長期持続することを考えて作られていなかったと思う。そこで、負担の重い編著者の仕事も、それを補佐する職員の仕事も、IPCCから報酬は出ていない。各国内で、IPCCへの貢献を国の事業として報酬を出していることはあるが、わたしの知る限り、補助職員の給料や著者の旅費は出ていても、著者自身の人件費は別の本務でもらっているうちでやっているのがふつうである。IPCCへの貢献が名誉だと思われているからなんとかまわっているけれども、むしろ、IPCCと同じ専門家を取りあう別の活動(たとえばローカルな環境問題アセスメント)をさまたげていないだろうか。人類社会の持続性に比べればささやかな問題だが、学者の活動も持続性のあるものにしないといけないと思う。

反面、漫然と持続するのがよくない面もあると思う。サイクルは5年から6-7年にのびているし、問題のたてかたも、組織の運営のしかたも、少しずつは従来の欠点を反省して改良されてはいるものの、基本的には同じやりかたが踏襲されている。新しい活動だったころには、明らかにちがう専門からやってきた人がぶつかりあう学際的な場だったのだが、サイクルをくりかえすにつれて、「IPCC方言」をしゃべる固定したコミュニティが支配するようになっているのではないか? これまでにかかわっていなかった専門分野の人をもとりこもうという動きはあるけれども、新入りは周辺の地位しか得られないのではないだろうか? わたしは[2011-08-15の記事]にはいささか過激に「IPCCは発展的解消を」と書いたけれども、今も、気候、生物多様性、人間開発問題をあわせて考える体制に再編成したほうがよいと思っている。

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IPCCはよくできているが、その成果は現実の政策にあまりよく反映されていない。それはIPCCとCOPを明確に分けたことの表と裏なのだと思う。

政策に科学的知見をよりよく反映させるためには、第1部でいう「c」の立場に、科学的知識をもった人がもっとはいっていく必要がある。第1部で「c」のところに含めたのは、COPに、各国政府代表団(または国際組織やNGOなど)の助言者として参加する学者だ。これ自体は、実際問題として少人数しか加われないし、国際政治交渉に関する専門知識のある人でないとつとまらないだろう。しかし、もっと広い意味で、各国の気候変動政策の現場に近いところに、気候に関する自然科学社会科学の専門知識のある人が加わっていく必要があると思う。ただし、そこに行った人には学者の行動規範とはちがった行動規範が求められるかもしれない。行動規範を含めた制度設計をしていく必要があると思う。

文献

  • 有本 建男、佐藤 靖、松尾 敬子 著、吉川 弘之 特別寄稿, 2016: 科学的助言 — 21世紀の科学技術と政策形成東京大学出版会[読書メモ]

2017-02-03

云々 (うんぬん) と「でんでん」

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2017年1月24日、総理大臣国会での答弁中に「でんでん」と言ったが、それは原稿に「云々」と書いてあったのを読みまちがえたのだった、ということが話題になった。

世間でその話題は、「このくらいの漢字を正しく読める能力がない人を総理大臣にしたのはなげかわしい」という価値判断をともなって伝えられることが多かったと思う。わたしは、これから述べるように、その判断にはあまり賛成しない。

問題にすべきなのは、総理大臣は「他の人が書いた原稿を読むが、それが発言者自身のことばとして受け取られる」立場なので、そのことを意識して発言の準備をする必要があるのだが、現実には総理大臣自身にもまわりの人にもその意識が薄かったことだと思う。

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他の人が書いた原稿を読むという構造のことはよくある。

そのうち、アナウンサーがニュースを読む場合や、ナレーター (職業としてはアナウンサーだったり俳優だったりするが)がテレビのドキュメンタリー番組の解説文を読む場合などは、原稿を書く人と声に出す人とが別であることははっきりしている。内容にもんくがあるならば、それは、声に出した人ではなく、原稿を書いた人に向けられるべきだ。

しかし、組織の責任者が組織を代表して発言する場合もある。社長が会社を代表して発言する場合などだ。小さな会社ならば、社長個人が思ったままのことを話し、そのまま会社の主張として受け取られてもかまわないかもしれない。しかし、ある程度大きな組織になると、会社に関する事実の情報は社長の頭の中におさまらなくなり、それを対外的に発表する前には会社のしかるべき部署の担当者が資料を確認して原稿を準備する必要があるだろう。社長は社員が書いた原稿を読むことになるだろう。しかし、それは、会社の外からは、会社の対外的発言であると同時に、会社の代表者である社長の発言でもあるとして受けとられるだろう。

政治家の場合も同様だ。総理大臣の場合だとかかわる組織が多様なので、ひとつの省を担当する大臣の場合を考えよう。大臣が省を代表して発言する場合、おそらく省の官僚が用意した原稿を読むことになるだろう。しかし、それは、省の意思表示であるとともに、大臣の意思表示でもあるとして受けとられるだろう。

自分のあたまにはいりきれない内容を、自分のあたまから出てきたかのように話し、その内容について責任をとらされる、というのは不条理だとも思える。しかし、現代社会は複雑になって、なん人かの人をそのような不条理な立場に置かないとまわらなくなってしまったのだと思う。その立場に置かれた人は、それを自覚して行動する必要がある。ただし、その当人にだけ責任をおしつけるのではなく、まわりの人も目くばりする必要があるのだと思う。

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自分の発言となる原稿を他人に書いてもらったならば、実際に発言するよりも前に、読みかたがわからないところがないように、文章全体に目をとおしておくべきだ。

大臣などの人たちは、たぶん、そういうことはしていると思う。(直前に原稿がさしかえられた場合は間に合わないかもしれないが。)

下読みを、実際に声を出すか、そこまで行かなくても口やのどを動かす形でしていれば、もし「云々」という字の読みかたを覚えていなければそのことに気づき、実際に発言するときまでに調べておくことができただろうと思う。そうならなかったのは、下読みが黙読だったからだろう。黙読では、専門用語や固有名詞などの見慣れない文字列については読みかたを意識するだろうが、珍しくない文字列については読みかたがわかっていなくてもわかっていると誤認するかもしれないし、自己流の読みかたをしていたら修正されないだろう。

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日本語は、60年ほど前から、「うんぬん」ということばはあるが「云」という字は使わないほうに動いてきているのだと思う。その中で育った人が原稿の「云々」を読めないのはありがちなことだ。読めないことに気づき、(辞書をひくなり人にたずねるなりして)読みかたを調べることに進めばいいのだと思う。

わたしは今の総理大臣よりも少し若いが大まかに同世代だ。1960年代の小学生として、わたしが学校の国語の時間に習った字のうちに「云」はなかった(はずだ)。しかし、そのころ読んだ、親の世代の人の書いた文には「言う」と同じくらい「云う」があった(「同じくらい」というのは頻度が桁違いでないという意味で、たとえば半分くらいの頻度だったかもしれない) 。しかし学校の国語では、両者の発音は同じで意味も重なるので同じ語とみなされ、文字での表記は「言う」がよいとされた。(ただし「...というような」などの補助的な使われかたでは全部ひらがなの「いう」がよいとされた)。日本語の文章を書くとき「云」という字を使う機会は、小・中学生のころはほとんどなかった。

「云」という字の存在は「雲」という字の部分として知った。「雲」はまず「くも」として習った。わたしは小学生のころから気象の入門書を読んでいたから、「雲」の字を音読みの「ウン」で含む語があることも知ったのだが、とくに気象に興味がない子どもはそれを覚えなかっただろうと思う。また、わたしは「雲」が形声文字であり「云」がその音をになっていることも知った。

そして中学生のころ、学校で習ったわけではないが、中国(中華人民共和国)では漢字を日本の当用漢字新字体よりももっと簡略化した「簡体字」で読み書きしていることを知った。簡体字の一覧表(たしか、日本で出された漢和辞典『新字源』の巻末にあったものだったと思う)で「雲」の簡体字が「云」であることを知った。さらに、何かの本で、古代には「雲」の意味で「云」という字が使われていたという話も読んだ。わたしにとっては、「云」は「雲」を意味する表意文字だと感じられるようになり、「いう」との連想は弱まった。(「云々」とあれば「雲がたくさんあること」、そこから意味を広げて、「見通しが悪いこと」だと思ったかもしれない。)

わたしは「うんぬん」ということばがあることも知っていた。家には1950年よりも前に出た「総ルビ」の本もあったから、「云々」に「うんぬん」とルビがふってある例にもたぶん出会っていたと思うが、ルビなしの「云々」を「うんぬん」と読めるようになったのはかなり大きくなってからだったと思う(中学卒業ごろだっただろうか?)。

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小学校で習うべき字を決めてそれには「云」を含めないとか、「いう」は「言う」と書くとかいうのは、第二次大戦後の日本の「当用漢字表」「当用漢字音訓表」などを含む国語政策と国語教育政策のあらわれだ。わたしは子どものころすでに、そのような政策に対して、漢字を使う自由を制限するものだとか、日本語の伝統を断ち切るものだとかいう、批判があることは知っていた。しかし、わたし自身は、日常に使う漢字やその読みかたの種類を限定することは、望ましい標準化だと思っていたし、(当時)新しい標準に従って書かれた本のほうが、その標準ができる前に出版された古い本よりも読みやすいと感じていた。

国語政策を民主主義と関連づけた議論も読んだ。国民各自が民主主義国家の主権者として政治的決定にかかわるために、また国内で生活する個人として国の法律をまもるために、読み書き能力が必要だ。義務教育で、国民各自がそこで必要となる読み書き能力を身につけられるようにするべきだ。国民が国民として生活するために知っておくべき読み書き能力の水準は、義務教育で教えきれるものであるべきで、それよりもむずかしくするべきではない。わたしはそのような議論がもっともだと思った。

しかしその後の国語政策は、漢字やその読みかたの制限をゆるめるほうに進んだ。学校で習う字の種類はふえ、それを覚えることの達成度の個人差は大きくなったと思う。同じ語(と考えられるもの)についての漢字の使い分けには、必ずしも明確な正解がないのだが、適不適はあるように思われて、多くの人が自信をもてないことがふえてしまったと思う。

漢字の制限をゆるめる政策は、「当用漢字表」制定以前の教育を受けた世代の人たちが、自分たちにとって自然な文字づかいを次の世代の人にもさせようとしたことによるのだろうか。あるいはそれだけではなく、戦後民主主義理念をも否定しようとした政策だったのだろうか。義務教育を終えればみんな国民として必要な読み書き能力が身についている社会よりも、同じ教育課程を終えた人のうちでも読み書きがよくできて優遇される人とあまりできなくて冷遇される人が生じる社会のほうがよいという判断による政策だったのだろうか(これはちょっと悪意を読みこみすぎの解釈だと思うのだが)。

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(ここから、ついでに思いあたった断片的なことをいくつか列挙する。)

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「云」といえば、「芸」の件もあるのだった。「当用漢字字体表」では「藝」(ゲイ)の新字体として「芸」を採用した。この新字体は略字体だった。ところが、「芸」という字は昔からあって、それは形声文字で、部首が くさかんむり であることから、ある種類の草をさすものであり、音をあらわす部分が「云」なので、音は「ウン」なのだった。

他方、「伝」は「傳」の新字体で、草書に基づく略字体だった。中国の簡体字「传」も草書に基づく略字体だが、「云」とはあまり似ていないものになっている。

漢字は発音にかかる時間のわりに画数が多くて、手で書くと時間がかかりすぎたり手が疲れたりする。手の動きが楽な字体を使いたくなるのは当然なのだ。草書もそのために発達したものだが、近代には活字が発達し、手書き文字も直線を主として構成される楷書体が読みやすいとされることが多くなった。そこで、草書体の字を楷書体の字に混ざって不自然のないように変形した字体が、日本、中国それぞれで使われるようになった。草書を経由する変形によって、もともと別々だった字の部分が似た形になってしまうことはありがちなことで、とがめていたらきりがないと思う。ただし「芸」のように同じ形になってしまう例は要注意なものとしてリストにしておくべきだろう。

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「でんでん」と聞けば、「電電公社」があったころならば、「電電」つまり「電信・電話」だと思っただろう。今は電電公社もないし、電信あるいは電報もほとんど出会わなくなったので、このことばも過去のものと言えそうだ。

「伝々」ということばはたぶんないと思うが、わたしがその表現から思いあたるのは「伝言を重ねるにつれて情報が化けること」だ。

たとえば、「X氏は『云々』を正しく読めなかった」(A)という話が伝わるうちに「X氏は字が読めない」(B)となるかもしれない。しかし、Aが事実の適切な指摘だとすれば、Bはそれを一般化しすぎでX氏に対して不適切な形容だろう。ここで、Bを、情報が化けているかもしれないという旗をあげた形で「X氏は字が読めない伝々」という形で表現したらどうだろうと思った(たまたま思いついただけで、みなさんに勧めるわけではない)。

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原稿を、声を出さないで読むとき、(たとえば「云々」を「伝々」と) 読みまちがえたままになったり、文字としては正しく読んでいても正しい読みかたをしていなかったりすることは、よくあると思う。

「いう」の関係で思いだしたのだが、わたしが子どものころ、少し古い(1950年ごろ以前に出た)本にはよく「所謂」という文字列が出てきた。わたしは声を出して読んだわけではないが、「ショイ」と読んでいた。(なお「謂う」も「いう」であることは知っていた。) 話すときに「ショイ」などと言って恥をかくことが生じなかったのはなぜか考えてみると、話しことばの手本としては1960年代当時の新しい(当用漢字音訓表にだいたい従っている)本を参照していたからだと思う。

2017-01-31

本の復刊(再版)リクエストで困ったこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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わたしは本をたくさん読みたいし、人にも勧めたい。前に出版されていた本が品切れや絶版になって売られなくなってしまったのは残念なことだ。本といえばディジタル本という時代になれば事情は変わると思うが、今はまだまだ紙の本が重要だ。紙の本としての再版や復刊はうれしいことだ。

複数の出版社が連合して、品切れになっている本の再版・復刊をすすめる事業のひとつに、「書物復権」というのがある。毎年1回で、今年(2017年)は第21回だそうだ。10の出版社が参加していて、「リクエスト」をhttps://www.kinokuniya.co.jp/c/fukken2017/ で2月28日まで受けつけている。

わたしは、「書物復権」が始まって数年間は、もし復刊されたら必ず買おうと決意したものだけ、復刊希望を出していた。今は、(自分はすでに持っていても) おおぜいの人の目にふれてほしいと思うものや、実物が店に出たら見て読む気になったら買うかもしれないもの、まで含めている。

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わたしは2017年の「書物復権」の「リクエスト」に、1月25日に書きこんだ。しかし、技術的エラーになってしまった。次のようなものだ。

Request-URI Too Long

The requested URL's length exceeds the capacity limit for this server.

Apache Server at bookweb.kinokuniya.co.jp Port 443

わたしの書きこんだ情報は、「https://bookweb.kinokuniya.co.jp/camp/mails_f.cgi?」で始まるURI (uniform resource locator)の文字列としてウェブサーバーに渡された。その文字列の長さが、そのサーバーが扱うURIとしては長すぎるというのだ。

リクエストを出しなおしたいのだが、そのときには前回よりも送信される文字数を減らさないと受けつけてもらえそうもない。そこで、リクエストの枠の内に書きこんだ意見などを、ブログ記事に書いて、リクエストへの書きこみからブログ記事のURIを参照する形で述べることにした。ブログ記事ならば枠の大きさに限定されないので、枠の内に書いたときよりは少し詳しく述べることにする。

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わたしの書きこみの長さは、ウェブフォームによる情報提供としては、長すぎるものではないと思う。140冊のリストのうちの41冊に選択のチェックを入れた。リスト外の復刊希望として1冊をあげた(この部分のフォームは1冊を想定しているようだ)。それから意見を300字ほど書いた(この部分のフォームの埋まりかたは半分くらいだったので、この倍くらいの文字数を書くことも、送信されるかどうかはともかく書くだけならばできたはずだ)。これぐらいで長すぎて受けつけられないと判断されるのは困る。

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このくらいの書きこみが「長すぎる」というエラーにならないようにするための、技術的対策としては、わたしは次のように考える。

まず、書きこみをURL文字列という形で送る方法はうまくない。別の方法をとるべきだ。

それから、リストからどの本を選択するかの情報は、現状ではリスト内の番号のあとに書名の日本語文字列もつけて送っているようだが、集計のためのデータとしては番号だけでじゅうぶんなはずだ。番号が化けないためにチェック用コードをつけたほうがよいかもしれないが、書名全体を入れる必要はない。

また、書名も、意見も、日本語文字列を、1バイトごとに16進数表記してその前に「%」をつけて3バイトの場所をとっている。日本語文字はおそらくEUCコードで扱われていて1文字2バイトと思われるので、1文字が6バイトの場所をとっている。URIとして使える文字の種類が限られているのでこのようなやりかたをとったのかもしれないが、送る方法をくふうすれば、制御文字などと区別するための余裕を見ても、日本語1文字を3バイトくらいで送れるだろうと思う。

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そのほか、この「リクエスト」受けつけのためのウェブサイトの構成には、次のような問題があると感じた。(これはエラーになって送れなかった意見でも指摘していた。)

まず、このサイトに接続すると見えるのは「プライバシーポリシー」(個人情報保護関係の約束)が書かれたページであり、それに対して「同意する」というボタンを押すと、はじめて、(リクエストのためのチェック欄つきの)候補リストが見える。これは、リクエストを送信する人に対してあらかじめ了解しておいてほしいことを伝えて確認をとるしくみとしてはよくわかる。しかし、リクエストを送るという意志はかたまっていないがリストを見たい人も多いはずだ。そういう潜在的利用者に対して、復刊候補リストを隠す理由はなく、積極的に見せたほうがよいはずだ。したがって、チェック欄つきのページのほかに、復刊候補の本を一覧表で見せるだけの単純なウェブページをつくって、公開の場所に置き、検索エンジンからも見つけられるようにしたほうがよいと思う。(著者名や書名で一般的なウェブ検索をしている人に、その本が復刊候補になっているならば、そのことが知られてほしいと思うので。)

それから、チェック欄つきのリストのページを、ウェブブラウザの「ページを保存」の機能で保存することはできるのだが、チェック後に保存しても自分がどの本をチェックしたのかの記録は手もとに残らない。また、リクエスト発信の直前にこれでよいか確認をとってくる画面が出るのだが、これをパソコン(わたしの場合はWindows 7)の機能を使って文字列コピーして別のファイルを開いて貼りつけようとしても、文字列コピーが働かない。自分が送った内容の記録が残らないのはとても不便だ。この点でも、リクエスト受けつけウェブサイトのユーザーインタフェースの改良を期待したい。

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復刊候補リストの内わけについても、例年継続した不満がある。

リストは、「哲学・思想・言語・宗教」「社会」「歴史・民俗」「心理・教育」「文学・芸術」「法律経済・政治」「自然科学医学」と分類されている。 わたしのおもな関心は、このうち自然科学の本に向いている。

復刊候補リストには、歴史、哲学、経済学政治学、芸術などの分野の、大学専門レベル(大学の入門レベルの学習をすませた人向け、ただしそのすべてが読むわけではない)の本が多く含まれていると思う。しかし、理学、工学、農学などのそのレベルの本はほとんどない。「自然科学」に分類された本は、科学史などの、自然科学を題材とした人文・社会科学的研究の成果を述べた書か、しろうと向けの読みものが多い。

わたしは、理科系の大学レベルの本にも、再版・復刊の需要はあると思う。ただし、出版社にとって、その需要の見積もりはむずかしいだろうとも思う。学問の専門家が重視する学説や方法論が変わると、代表的教科書が入れかわることがあるだろう。また、同じ本の新版が出ると、旧版は余っていても売れなくなったり、流通から消えてしまったりするだろう。需要が継続するかとぎれるか、書誌情報や過去の売れ行きでは見当がつきにくい。そして、「書物復権」の対象は大量に出る教科書でなくやや専門的な本なので、さらに判断がむずかしいだろう。

対策として考えられるのは、大学生協や学内支店をもつ小売店などから、専門分野ごとに、読者・推薦者の判断をさぐることだろうと思う。おそらく「書物復権」にかかわる出版社は、人文・社会科学についてはそのような情報網を持っているにちがいない。自然科学の分野についても同様に考えてほしいと思うのだ。

2017-01-17

Anthropocene (人類世、人新世) (3) 智生代?

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

Anthropocene (人類世、人新世) の話[第1部 2016-02-06] [第2部 2016-02-07]の続き。

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David Grinspoonという人が2016年12月18日に、NPR (アメリカの公共放送)のウェブサイトの「13.7 Cosmos & Culture」というところに「A Planet With Brains? The Peril And Potential Of Self-Aware Geological Change」という記事を出している。この中で、人間活動による世界の改変は、地質年代でいう「世」のレベルよりももっと大きく、「代」のレベルだと主張している。

(この話は、水谷 広さんから教えていただいた。)

Grinspoonが提案している時代名は Sapiozoic だそうだ。おそらく西洋の文科系知識人から、ラテン語由来とギリシャ語由来の要素をつないだ造語はまずいと言われて、何かに変えようということになりそうだと思う。「代」の名まえはギリシャ語由来の「-zoic」をふくむので全体をギリシャ語由来にそろえたいだろうから、Noozoic かと思ったが、新生代の Neozoic と1字しかちがわないのはまずいから、この案にはならないだろう。

もしその意味をとって日本語訳するならば、水谷さんが使っている「智生代」がよさそうだ。(もう少し意見を言うならば、わたしは「知」と「智」は同じ語の表記のゆれと見るべきだと思っており、字の形が簡単な「知」のほうがよいと思うが。)

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人間活動が地球表層環境を大きく変容させたということは言える。松井孝典さんがよく使う表現(たとえば松井 2012の本を参照)を使えば、地球表層環境の内から(「生物圏」とならぶものとして)「人間圏」が分化した、ということはできるだろう。地球表層環境の構造が変わったのだから、新しい時代が始まったのだ、という主張は理解できる。

Grinspoonの提案の名まえのつけかたの背景には、単に人間が環境を変えただけでなく、人間が知的能力をもっていることを重視したいという考えがあるのだろう。熊澤峰夫さんがくり返し言っている(たとえば熊澤ほか2002の本を参照)ように、自分たちが生きる世界について認識し言語などによって記述し継承することができる存在が現われた、ということが、地球史にとっても大事件である、というとらえかたなのかもしれない。

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わたしは(地球科学者のひとりでもある個人の感覚として)、人間活動の影響を、地質時代のうちの事件としてとらえるのはよいと思うが、地質時代区分の中にもうひとつの時代を定義するという形で位置づけるのは無理があると感じる。

地質時代区分は、人間が自然を認識するためにつくった概念的構築物ではあるが、それは、人間専用を意図したものではなく、将来人間とはちがった知的存在が出現したらその知的存在にも共通通用するような、という意味での客観性をめざしているものだと、わたしは思うのだ。

人間活動が地球環境を変えている度合いがたとえ大きいとしても、その時間の長さが、地質時代の「代」はもちろん「世」をたてるにしても短すぎると思う。

完新世(Holocene)の長さは例外的に約1万年だが、それよりも前の「世」は百万年から千万年の桁の時間規模をもつ。

完新世も、人間にとって最新の時代である(したがって地質情報が豊富である)という状況によって特別扱いされているけれども、純粋に自然を記述する立場で考えたら、約250万年間の更新世のうちの1時期とするのが順当だったと思う。更新世のうち最近の約100万年間には約10万年周期の氷期間氷期サイクルが見られ、完新世は、そのひとつの間氷期にすぎないのだ。(まだ次の氷期を経験していないので「後氷期」と呼ばれることもあるが。)

完新世を人間活動のある時代と考えるのならば、それは筋がとおる。農業の始まりの時期は、完新世の始まりとあまりちがわない。もっとも、地質時代の画期は、新しい種類の最初の出現ではなくて、地球の(厳密に全域というのは無理だがそれに近いと感じられるほど)広い部分で主要な生物が入れかわる時期をとらえて決めている。農業が地球を広く覆った時期となると、完新世のうちでも新しい時期に限られるだろう。他方、人間活動は、狩猟や、火を使うことによって、地球の動植物相に影響を与えており、その効果は完新世の初めごろから大きかったかもしれない(個々の生物絶滅が人間活動由来かどうかを決めるのはむずかしいのだが)。むしろそちらを重視したとき、「完新世は人間活動の影響が大きい時代」ということになるだろう。

完新世をたてたうえで、そのうちの新しい時期を別の「世」とすることは、わたしは、無理があると感じる。まして、「代」のレベルをたてることは考えられない。それは、わたしの感覚では「代」や「世」という用語にはそれぞれ時間規模が対応していて、それと桁違いの時間規模の期間をさすことばではないと感じるのだ。完新世はすでに例外であり、それが限界で、それよりもはげしい例外を作ることは許せないと感じるのだ。

この感覚は、「人間の時代」が今後どれだけ続くかの予想に依存しているかもしれない。わたしは、人間が地球環境を大きく改変している時代という意味ならば、完新世と同じ1万年よりは短い期間しか続かないと思う。一億年後の知的存在が見たとしたら、新しい時代の始まりではなくて一過性の事件(event)に見えるだろうと思う。世界を知的に認識することができる存在がいる時代という意味ならば、もっと長いこともありうるとは思うが、予想は困難だ。

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科学的概念は、なるべく普遍性をもたせたい。(ただし、科学の進展によって概念が変わるのはやむをえない。)

ただしここで、どの範囲の普遍性をもたせるかは、対象による。

(1) 人文科学(いちおう「科学」に含められるものを想定する)・社会科学の概念では、ヒトには通用するが、他の知的存在がいたとしても通用しない概念を使う必要があることもあるだろう。

(2) 生物学や、地球科学のうちでも古生物を扱う分野では、地球で進化した生物の、たとえば、核酸遺伝子とするとか、たんぱく質でできた酵素触媒とするとかいう特徴を前提とすることもあるだろう。他の天体に生物とみなせるものがいたときにそれが適用できるかどうかは、その生物を知ったうえであらためて考えなければならないだろう。(ここから先は仮定のうえの話なので合意が得にくいとは思うが)、この種類の自然科学知識は、人類滅亡後にまったくちがった生物が知性をもった場合に、その生物にも理解できるものをめざすのだろうと、わたしは思っている。

(3) 生物に関係ない物理・化学の分野では、ヒトにも地球型生物にも限定されない知識をめざそうとするだろう。実際に可能かどうかはわからないが、地球型生物とはまったくちがった知的存在にも通用することが望ましいのだ。

地質年代区分は、地球上の広い範囲をしめた生物の種類が大きく変化した時代を画期としている。(「-zoic」の名まえに見られるように、動物を重視している。植物を重視する人はちがった時代区分を主張したい場合もあるようだ。) これは上記の(2)のレベルの普遍性をめざした概念だと思う。

人文・社会科学の立場、つまり(1)のレベルの普遍性をめざす立場で、産業革命以来の地球環境改変、あるいは近代科学による自然認識の発達が、それ以前とちがう時代だと認識するのは、わたしにももっともだと感じられる。人間社会を制約する条件としての地球環境も、明らかに大きく変容していると言えると思う。

他方、地質学の、(2)のレベルの普遍性をめざす立場で、この変容が画期的だと言えるかは、将来人間以外の知性が発達することへの想像に依存するので、同じ専門の学者の間でも一致しないだろうと思う。

なお、地球物理の人(物理を基本として地球を考える人)にとっては、時間軸は、(3)のレベルの普遍性をめざした定量的な時間目盛り(単位はSI単位ならば秒だが、便宜上「年」も使う)が基本であり、地質時代区分は、地質の文化で育った人と話をあわせるために便宜上使うだけだ。だから、もし、地質の人と人文・社会の人とが、人間の産業活動の影響が大きな面積を覆った時代を特別扱いにしたいのならば、地球物理の人がとくに反対する理由はない。

人文学・社会科学と自然科学が融合した学問が望ましいのかもしれないが、それをめざすことと、人間以外の知性にも通用する科学をめざすこととは両立しがたいと思う。

そして、地質年代区分については、すべての学問に影響しうるとしても、地質学者を中心とする地球科学者の意志を尊重すべきだと思う。そして彼らのうちでもどう変更するかについて合意を得ることはむずかしいと思う。妥協としては、現在の体系を変えない、というのが最善だろうと思う。

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さらに、科学者も人間であり、それぞれ育った文化を背負っている(意識的に反発する場合もあるが)という問題が加わる。

ユダヤ教キリスト教には(おそらくイスラムにも)、天地創造から終末まで時間が一方向に流れ、そのうちで現在は終末に近づいた特別な時代だという考えがある。マルクス主義や社会進化論思想にも時代画期はちがうが同じ類型の発想が見られる。(わたしの知識は市井(1971)などによる。) そういう文化で育った人には、たとえ自然科学者になって宗教政治思想にこだわらないつもりでも、文書記録をもつ人類の時代を、宇宙的な意味で特別扱いする感覚がありがちだと思う。

他方、世界には、時間を循環的なものだととらえる思想もある。仏教を生み出したインド思想は輪廻が基本で、時間についても、循環的であるという考えもあるし、一方向に流れるとしても、何十億年にもわたって似たことが波のようにくりかえすという考えがあるようだ。(わたしの知識は入門的な本によるもので、定方(1973)だけは覚えているが、その他は出典も思い出せずあやふやなものだが。) そのような時間観にもとづけば、今の人類が起こしている環境改変や知的生産も、地球史のうちにはたびたびある事件(event)のひとつと見る考えに(必然ではなく蓋然的に)向かいやすいと思う。

近代の科学は、ユダヤ教・キリスト教文化圏で育った。科学の知見の大部分は、仏教その他の文化圏にも問題を起こさず移植できる。生物進化論の場合は、日本のほうが西洋よりも受け入れやすかったほどだ。しかし、地球史と人間の歴史をどう関係づけるかという問題になると、文化摩擦が避けられないかもしれない。学者の国際的な組織では、文化多様性を尊重する努力もみられるが、意思決定を実質的リードしているのは西洋文化圏育ちの人であることが多い (今後、中国やインドの出身の人であることもふえそうではあるが)。そして、文化圏依存の前提を、人類普遍的前提だと思いこんでいることも多いようだ。

学術の国際標準をつくる際には、文化摩擦を回避するべきだ。やはり、地質年代区分については「とうぶん変えずにがまんしよう」が妥協点だと思う。

文献