Hatena::ブログ(Diary)

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2018-06-20

GAMEとMAHASRIのアーカイブ ウェブサイト

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

GAME (GEWEX Asian Monsoon Experiment、GEWEXアジアモンスーン観測実験、-2005年)の主のウェブサイトは名古屋大学にあり、アーカイブとして残っています。

http://www.hyarc.nagoya-u.ac.jp/game/

GAMEの中の役割分担で、筑波大学で、浅沼 順さんが中心になって維持されていたウェブサイトがありましたが、サーバーの故障で止まっていました。その内容のアーカイブが、東京大学生産技術研究所にあるサーバーに移されて再公開されました。

http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/game_tsukuba/

GAMEに続いて、MAHASRI (Monsoon Asia Hydro-Atmosphere Scientific Research and Prediction Initiative, モンスーンアジア水文気候研究計画 2006-2016年)がおこなわれました。その主のウェブサイトは千葉大学にあり、樋口 篤志さんが中心になって維持されていましたが、サーバーの故障で止まっていました。これの内容のアーカイブも、東大生産研のサーバーに移されて再公開されています。ただし千葉大のサイトではWikiソフトウェアを使っていましたが、アーカイブは単純なHTMLページにしました。

http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/mahasriwiki/

モンスーン、monsoon、季節風 (4)

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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「モンスーン、monsoon、季節風」については、[(1) 2014-07-07] [(2) 2017-10-31]の記事で、いろいろな論点をあげた。また、[(3) 2018-06-20]の記事には、「風向の逆転」という観点でデータ解析をしてみた結果を紹介した。

この記事では、わたしがちかごろこの主題について考えているいくつかの論点を列挙する。

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日本語圏のうちで、「モンスーン」や「季節風」ということばは、人によってちがう意味で使われている。次のような複数の観点でのちがいがあると思う。

  • 日本語としての「モンスーン」と「季節風」は同意語か、別か?
  • 「モンスーン」は風に注目するか、雨に注目するか
  • 風の場合、季節間で風向の逆転があることが必要か、一方の季節の風向が明確ならばよいか
  • 雨の場合、明確な雨季と乾季があることが必要か

だれかが意味の統一をよびかけたとしても、みんなを動かすことは不可能だと思う。

わたしは、2000年ごろから、「アジアモンスーン」あるいは「モンスーンアジア」を題目に含む 気候・水文の研究プロジェクト(「GAME」や「MAHASRI」) に参加してきた。そのプロジェクトはいずれも、モンスーンということばの意味を明確に定義しなかった。むしろそのことによって、おおぜいの研究者を結集することができたのだと思う。(ただし、この論点には深入りしないでおく。)

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夏と冬とで風向が逆転することを定義とした季節風(またはモンスーン)の分布については、[(3)の記事]で述べた。

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梅雨はモンスーンか、という問題もある。

GAMEやMAHASRIでは、梅雨はモンスーンに含まれることを当然の前提のようにしてきた。しかし、それはプロジェクト遂行上の方便だったかもしれない。

わたしの感覚では、大陸上(中国)の梅雨(Meiyu)ならば、陸面の昇温に続いて雨季がくるので、「モンスーン的」だと思う。(この感覚は熱帯モンスーンを基本としたものだ。) ただし陸面昇温は華北が主、雨季の降水帯が停滞するのは華中が主で、位置がずれていると思う。(GAMEやMAHASRIの中では、もっとくわしく、陸面状態と降水との関係を論じた研究がされたのだが、わたしは残念ながらそれをふまえて考えることができていない。)

日本の梅雨(Baiu)を、大陸と一連でなく別に見るならば、あまりモンスーン的ではないと思う。(大陸と海洋の境界にできるといえなくはないが、境界にそうわけでもない。)

児玉安正さんは、梅雨前線を、南太平洋収束帯(SPCZ)、南大西洋収束帯(SACZ)と同類の、亜熱帯降水帯として論じた。弘前大学のサイトにある児玉さんのページ http://www.st.hirosaki-u.ac.jp/~kodama/ に、解説があり、研究論文へのリンクもある。

その解説の中で児玉さんは、亜熱帯降水帯が「熱帯モンスーンの降雨域に隣接してその東方に存在しており,熱帯モンスーンと降水帯の密接な関わりが予想される」と述べている。【ということは、亜熱帯降水帯と熱帯モンスーンとは、関連はあるが、別ものと見たことになる。ただし、大きな「モンスーン」があって、その部分として「熱帯モンスーン」と「亜熱帯降水帯」があるという構造でとらえる可能性はあるかもしれない。児玉さんがご病気で疑問に答えていただけそうもないのが残念だ。】

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「熱帯モンスーン気候」というと、学校教育では、ケッペンの気候区分の Am をさすことが多いらしい。

わたしは、ケッペンの気候区分を、学校の授業で話題にすることはよいと思うが、生徒に操作可能になってもらうのは、[2018-05-31の記事]に書いたように、大分類(A, B, C, D, E)までにするべきだと思う。

とくに、Am の所在を問うのはうまくないと思う。一例としてWikipedia英語版の「Tropical monsoon climate」(2018-06-20現在)の地図を見ると(どんなデータにもとづいてつくられたのか、まだ確認していないが)、Am は、アマゾン川コンゴ川流域など、(陸の乾湿の季節変化はそれなりにあるのだが)わたしの主観ではモンスーン気候というよりも熱帯雨林気候と思うところに出てくる。アジアのモンスーン地帯では、インド西海岸ベトナム中部、ルソン島などはよいが、その中間で、わたしの主観ではモンスーン気候を期待するところがぬけている(Af または Awと判定されているにちがいない)。

矢澤(1989)によれば、ケッペンは、まず、熱帯は、乾季がなければ密林、乾季があれば疎林になるだろうと考えて、気候をAfとAwに分類した。ところが、乾季があるにもかかわらず、(疎林でない)森林が成立しているところがある。そこをAmと考えて、経験的に月降水量であらわす式をつくったようだ。Amの気候を形容するのに Monsun ということばを使うことはあったが、風のことは考えていない。(ケッペンが Monsunをどういう意味で使ったかは、矢澤の本を読んだかぎりではよくわからない。なお、ケッペンが風に関心がなかったわけではない。ケッペンは海上の気候を論じる際には風を主に考えていた、と読んだ(不確かな)記憶がある。陸上の気候区分という作業の方法論として風を使わなかったのだ。)

いまでも、気候と植生の関係を考えるうえで、「乾季はあるが森林がなりたちうる」気候条件を考える意義はあると思う。しかし、たぶん、ケッペンの定義はうまくないだろう。

もしケッペンのAmを話題にしたいのならば、単に「熱帯モンスーン気候」と言うのではなく、「ケッペンの」とことわってほしい。

「熱帯モンスーン気候」ということばは、ケッペンとは別に、今の研究者の感覚にあうように定義しなおして使いたい。ただし、まだ共通理解があるわけではないので、使うときごとに、どういう意味で使っているかを読者に伝える必要がある。(「ケッペンのAmではない」という注記も必要かもしれない。)

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学術研究での用語は各人の見識にまかせてもよいかもしれないが、学校教育の用語については統一したほうがよい([2018-06-06の記事]参照)。とくに、同じ語がちがう意味で使われると混乱をまねく。

しかし、「季節風」や「モンスーン」については、地理地学の教科書の執筆者にかぎっても、定義を統一して使うのはむずかしいと思う。

明確な定義ではなく、典型例によって示し、典型例からの類推のしかたも例示したうえで、典型例からはずれて類推も困難なところについては問わない(季節風であるとしてもないとしてもまちがいではない)とする、というのが現実的なところだと思う。

「季節風」と「モンスーン」は同意語で、一方があらわれてよいところには他方もあらわれてよいとするべきだと思う。英語 monsoon や 中国語「季風(jifeng)」などが両方に対応するからだ。

そういう了解のもとで、慣用として、日本の冬の話題では「季節風」、インドの雨季の話題では「モンスーン」と表現するのもよいだろう。ただし、東南アジア(ベトナムやマレーシア)の冬の話題では「北東季節風」も「北東モンスーン」も同じくらいもっともだ。

文献

モンスーン、monsoon、季節風 (3) 風向からみた世界のモンスーン地域

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

「モンスーン、monsoon、季節風」については、[(1) 2014-07-07] [(2) 2017-10-31]の記事で、いろいろな論点をあげた。その後に考えたことを書こうと思う。

そのまえに、わたしが提供できる知見を示しておきたい。

仮に「モンスーンは季節間で風向が逆転することである」としてみたとき、世界の中で、モンスーンがおきている場所はどのように分布するか、ということだ。

この観点では、ソ連(当時)のフロモフ(Khromov。Chromovともつづる)が1957年ドイツの雑誌に発表した論文が有名で、1970年代ごろにモンスーンを論じた本にはよく引用されていた。英語の論文題名で引用されていることが多いが、原文はドイツ語だったかもしれない。わたしはその論文を読んだのだがよくおぼえておらず、いますぐ取り出せるところにないので、直接その論文に関する議論は、読む機会がとれるまでたなあげにしておく。

わたしはその論文と同じことを、再解析([2016-05-18の記事]参照)のプロダクトを材料としてやりなおそうとした。2002年に結果を学会発表するところまではいったのだが、論文にしそこなってしまった。

これからでも、新しい再解析プロダクト(たとえばJRA55)で同じことをやりなおして論文にしたほうがよいと思っているのだが、わたしの計算機利用能力がおとろえてしまったので、やると約束できないでいる。

- 材料と方法 -

2002年に発表したデータ解析の材料として、当時最新の再解析プロダクトだった NCEP Reanalysis 2 (Kanamitsuほか 2002)を使った。対象期間は1979年から1993年までの15年間とした(1979年はこの再解析プロダクトの始まりだが、1993年で止めたことに深い意味はない)。時間間隔は6時間である。再解析で使われた気象モデルは、気圧を地表面気圧でわったσ[シグマ]という鉛直座標で28個のレベルをもっている。ここではこのうち最下層 σ = 0.995、つまり地上約 50 mの風の東西成分・南北成分の値を使った。水平の格子点は東西192、南北94の緯線経線の交点である。ここではその格子点をそのまま使った。

それぞれの格子点ごとに、「風向の逆転」があるかどうか判断することにした。画像処理でいえばピクセルごとの処理にあたるものであり、複数の格子点からなるパタンやテクスチャを考慮した処理ではない。(結果を図にして、人がパタンやテクスチャを見ることはしている。)

各格子点について、対象期間の12・1・2月と6・7・8月のそれぞれの平均の風ベクトルを求め、両者のなす角を計算した。その角度が120度以上であるところを「風向の逆転」があるとみなした。(120度という数値はフロモフが採用していたので合わせたと記憶しているが、記憶ちがいのおそれもある。)

なお、ベクトル平均風速が非常に小さいところまで入れると、結果にノイズが多くなるので、0.3 m/s 以上という条件をつけた。このしきい値は試行錯誤で決めた。

次に、ベクトル平均の風がその季節の風向をどれだけ代表しているかという問題がある。そこで風の「定常性」を見ることにする。定常性の尺度として、ベクトル平均風速(の絶対値)とスカラー平均風速の比をとることがよくおこなわれる。スカラー平均風速とは、各時刻の風速ベクトルの絶対値を時間平均したものである。そのとおりにやるべきだったかもしれないが、わたしは(風の運動エネルギーを見ようとして)風速ベクトルの2乗の時間平均の計算をはじめていたので、それを使って、同じではないが類似の指標をつくって定常性の大小を判断した。

- 結果 -

結果は[学会発表予稿HTML版]の図を見ていただきたい。

[低緯度] 緯度約25度から熱帯側では、熱帯モンスーン域として知られたところがきれいに出た。西アフリカ(北半球側)、インド洋から西太平洋インドネシアからオーストラリア北部にかけてだ。その大部分のところで、それぞれの半球の夏(太陽高度角が大きい時期)に西より、冬に東よりの風がふいている。

ただし、モンスーンのいわば「本家」と思われるインド西海岸の海側がぬけている。ここでは冬の風向が北風で、夏の西風とのなす角が90度ぐらいなのだ。

中央アメリカの西の東太平洋にも、狭い帯状に、風向が交代するところがある。ここはふだんは貿易風帯だが、夏には熱帯収束帯(ITCZ)が赤道から相対的に大きく離れ、それは対流圏下層の低気圧でもあるので、その赤道側では西よりの風がふきやすい、と解釈できる。

[中緯度] 南北半球とも緯度30度付近に、夏には貿易風の東風、冬には偏西風という風向の交代が生じる帯状のところがある。(これは、季節による風向の変化という意味では、まさに季節風なのだが、海陸のちがいのない東西一様の地球でもおこるだろう大気大循環の季節的シフトだから、モンスーンは海陸コントラストによっておこるものだという観点をとるならば、まったくモンスーンではない。) ただし、そのうち海上では、定常性が乏しいことが多い。

東アジアの温帯には、上記の帯よりも高緯度側の、東シナ海・日本・サハリンなどにわたって、冬には西より、夏には東よりの風がふくところがひろがっている。

ただし、日本海は、大陸側の沿岸部をのぞいて、はずれている。冬には明確な北西の季節風がふくのだが、夏の風速が弱いのだ。日本の中部の陸上は、いちおう風向の逆転が出ているが、定常性がとぼしい。南西諸島は風向の逆転も定常性もある。

北アメリカ西海岸付近と南部アフリカの西海岸付近には、冬に東より、夏に西よりの風がふくところがある。これは亜熱帯高気圧のはりだしかたの季節変化によるようだ。

[高緯度] 古典的には、夏に偏西風、冬に極域東風がふく季節風帯が想定された。しかし、実際には、北極まわりでは東風が持続してふいているわけではない。(南極まわりにはありそうだと思ったのだが、解析結果では南極まわりには風向の逆転がほとんど見られなかった。これは観測の乏しい地域での再解析の質の問題かもしれないと思う。)

そのかわり、夏に偏西風、冬に大陸上の高気圧(シベリア高気圧)の低緯度側にあたるので東風がふく地帯が、オホーツク海の北岸の北緯60度付近と、中央アジアのアルタイ山地付近の北緯45度付近に見られる。

- 結果を出したあとの考察 -

「再解析」データの質の問題が残っているが、格子点ごとに風向の逆転を評価すると、インドのすぐ西の海上や 日本海がぬけてしまった。地点ごとの風向の逆転をそのまま季節風の定義にするのはうまくない、と思う。

ひとつは、格子点ひとつずつではなく、風のつながりを考慮しながら、数百 km のひろがりの地域を評価すればよいのかもしれない。

もうひとつ、風向の逆転にこだわらず、一方の季節に風向の定常性の高い風がふき、他方の季節にそのような風がふかないときは、季節風があると認めてよいのかもしれない。

文献

  • S. P. Chromov, 1957: Die geographische Verbreitung der Monsune (The geographical distribution of the monsoon). Petermanns Geographische Mitteilungen, 101(3): 234-237.
  • 増田 耕一, 2002: 風向からみた季節風の全球分布。日本地理学会発表要旨集 No. 62 (2002年秋), p. 106 (発表番号508)。[増田によるHTML版]
  • Masao Kanamitsu, Wesley Ebisuzaki, Jack Woollen, Shi-Keng Yang, J. J. Hnilo, M. Fiorino, & G. L. Potter, 2002: NCEP-DOE AMIP-II Reanalysis (R-2). Bulletin of the American Meteorological Society, 83: 1631-1643. https://doi.org/10.1175/BAMS-83-11-1631

2018-06-16

デマ (3) 偽のメッセージ、「bogus」、「ガセ」、有害性、などを考える

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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ネット上で「それはデマだ」という発言がとびかう。(おたがいにあいてのいうことを「デマだ」と言いあっていることもある。)

「デマだ」という表現は、メッセージが偽である[注: 下の -3- 節参照] ことにくわえて、それを発信することが悪いことだという評価をふくんでいるようだ。その悪いと言う評価は、人格否定(あるいは「メディア格(?)」否定)としてひびく。言われたほうも言ったほうを敵視するようになり、話し合いによって共通理解に達する可能性はとぼしくなる。

これではまずいと思って、[(1) 2013-09-13] [(2) 2016-05-17]の記事を書いた。それとかさなる部分もあるが、もう少し論じてみることにする。断片的な覚え書きであり、結論はない。

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本来「デマ」とは、「デマゴーグ」が発信したメッセージをさしていたはずだ。デマゴーグは(その語の定義ではないが)、偽のメッセージを、偽であることを承知で、真であるようにみせかけて発信し、社会になんらかの効果をおよぼそうとしている人だ。そういう人が発信したものならば、デマと言ってよいと思う。

しかし現実には、デマを伝達する人のほとんどは、メッセージ内容が真だと思っているだろう。デマゴーグがいたとしても、隠れているかもしれない。おもてに出た事実からは、デマゴーグがいたかどうかはわからず、メッセージが(ここでいう)デマであるかどうかは、判定不可能かもしれない。

デマゴーグがいるとわかる場合は少ないのだが、それでも、わたしは、「デマ」という表現はそういう場合にかぎって使うほうがよいと思う。そうでない場合は別の表現を使おう。たとえばこのシリーズの「(2)」の記事で述べたように「流言」がよい場合があると思う。

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「メッセージが偽である」の「偽」は、論理学でいう真・偽の偽で、「ぎ」と読むことを想定している。単純に、事実と合っていないことをさす。発信者が意図的に事実とちがうことを述べているかどうかについて判断をくだしてはいない。

(「ほんもの・にせもの」「ほんと・うそ」の「にせ」や「うそ」も、ときには単に事実として真でないことを意味することもあるが、どちらかといえば、発信者が事実を知りながらそれとちがうことを述べていることを意味することが多いだろう。ここでは、そのような用語を持ち出さないでおきたい。)

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実際には、メッセージの内容が偽であるかどうかも判断が困難なことが多い。その件の真実をだれも知らないかもしれないのだ。

考えてみると、まずいのは、偽のメッセージというよりもむしろ、根拠がない(根拠があやふやな、根拠が薄弱な)メッセージが、確かな事実を伝えるメッセージであるかのように伝わることだ。

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この「根拠があやふやな」を意味することばとして、英語の bogus という形容詞に思いあたった。そういう意味に使われているのを見た記憶があるのだ。ただし、このことばの使われかたの全体像を知っているわけではなく、用例の記録ものこしていないので、主張に自信がない。

しかも、気象の分野では、bogus を、ほんものではないのだが、ほんものの代用として有用なものをさして使うことがある。気象データ同化、というよりもその前身である「客観解析」の中で、定量的観測データが不足しているが、定性的観察による情報があるとき、観測データの模造品を創作して使うことがあるのだ。たとえば、台風のまわりで、風向・風速の観測がある場所はかぎられているが、昔ならば船や飛行機にのった人からの通報、いまでは気象衛星による画像で、どこを中心にどのくらいの強さの台風があるか見当がつく場合、台風の周辺で観測されるだろう風向・風速を推定して入れてやる。実際、「JRA25」という「再解析」([2016-05-18の記事]参照)ではそういう「台風ボーガス」が使われた。この場合、bogus はほんものの観測よりは質が低いが、それなりの根拠はあるものなのだ。

また、計算機ソフトウェアのうちオペレーティングシステムLinuxに「BogoMIPS」というものがある。ソフトウェアをインストールする際の動作確認のうちで、計算機の動作速度を見積もっておきたい。ただし精密である必要はない。計算機の動作速度はmillion instructions per second という単位で示される。ここではMIPS単位の動作速度のおおまかな近似値を得る手続きを入れて、BogoMIPS と名づけたのだ。これも、ほんものの計測よりは質が低いが、それなりの根拠はあるものだ。

こういう例を知っていると、「その情報断片は根拠があやふやだから広めるべきでない」と主張したいときにそれを bogus と形容するのは気がひける。

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日本語では「ガセ」という表現に思いあたった。「ガセネタ」という形であらわれ、「ガセ」は、根拠があやふやなこと、あるいは、偽である可能性が高いこと、をさしていると思う。ただし、これは俗語的すぎるという印象がある。

しかし「ネタ」のほうは、少なくとも、すしの素材という意味の「すしネタ」は、書きことばにも出てきている。「ネタ」を「話のたね」「情報素材」という意味で使ってもよいと思う。ただし、ネット上では「冗談(のたね)」に近い意味でも使われているが、論説のような書きことばではそれはまだまずいだろうと思う。

「ガセ」の語源は「人さわがせ」であるらしい。「人さわがせ」が、結果として人がさわぐことであって、人をさわがせようと意図する人の存在を前提としていないのならば、わたしが使いたい意味にあっている。しかし、さわがせようと意図する人の存在を想定しているように聞こえるならば、「ガセ」は(「デマ」と同様に)不適切な表現だ。いまわたしは、積極的に「ガセ」を使おうとは言わないことにする。

こういうわけで、(メッセージ伝達過程に注目した「流言」とはちがって) メッセージ内容が信頼がおけないことに重点をおいた、俗にいう「デマ」の言いかえの表現がほしいのだが、まだ、よい表現に出あっていない。

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偽のメッセージ、または根拠があやふやなメッセージがみんな(俗にいう)「デマ」とみなされるわけではないようだ。

「デマ」といわれるメッセージは、ほかにどんな特性をもっているだろうか?

必ずというわけではないが、「何か(ここでは X とする)が有害だ」という情報を含んでいることが多い。

だから、Xに関連する人から見て、そのメッセージの発信者が敵に見えるのだ。Xが人の属性であれば、「Xは有害だ」は、Xという属性をもつ人びとに対する差別になる。 Xが物の属性である場合も、Xの生産者・販売者・伝達者などに対する差別になるかもしれない。メッセージが、個別の人物が起こした個別の事件の報道だったとしても、伝えかたによっては、それと同じ属性をもつ人びとが有害だというメッセージになってしまうこともある。

逆に、Yが有害である(という認識に根拠がある)状況で「Yは無害だ」と言うことも、同様に「デマ」といわれることがある。受信者がそのメッセージを信頼して Y に近づくことが害をもたらす、という判断によるのかもしれない。

大きくまとめれば、受け手のリスク判断に影響を与えるようなメッセージ、といえるかもしれない。

この節の考察は、俗にいう「デマ」を言いかえる助けにはならないが、どんなメッセージに注意が必要かを考える助けになると思う。

2018-06-15

「地球温暖化とはどんな問題か」第3回から第4回へ

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

[2018-03-04の記事]で予告した公開講座「地球温暖化とはどんな問題か」 についてです。

第3回(6月12日)に講義した内容を、不完全ですが、文章の形にしました。

また、第4回(6月19日)の講義のページをつくりました。まだ内容はそろっていませんが、ひとまず、別の授業で使った教材ページへのリンクを置きました。

次のリンク先をごらんください。

2018-06-06

シンポジウム「気候変動の影響の適応への道筋」(2018-06-09 東京・駒場4丁目)

2018年6月9日(土)、東京・駒場4丁目の東京大学 駒場リサーチキャンパスで、環境研究総合推進費 S-14 のシンポジウム「気候変動の影響の適応への道筋」が開かれます。

くわしくは、ウェブサイト http://s-14.iis.u-tokyo.ac.jp/ にある[ポスター(PDF)]をごらんください。

なお、これは東京大学 駒場リサーチキャンパス公開の中でおこなわれます。

地球科学(地学・地理)の用語をめぐって考えること (3) 山本・尾方(2018)論文を読んで

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「地球科学(地学・地理)の用語をめぐって考えること」については、このブログ[(1) 2017-05-21] [(2) 2017-07-04]の記事を書いた。

その後、月刊『地理』に、この主題の連載 (尾方, 2017a; 山本・小林, 2017; 根本, 2017; 尾方 2017b)があった。

また、2018年3月に、山本・尾方 (2018) の論文が出た。発表されたのはオンライン雑誌で、論文は無料公開されている。ここでは、わたしがそれを読んで考えたことを書く。この論文へのコメントといえる部分もあるがそうでない部分もある。論文の論点を知りたいかたは、これにたよらず、論文自体を見ていただきたい。

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この論文では、高校で、現行の学習指導要領のもとで使われている、地理地学 [注]に関する科目の教科書について、著者たちが注目するいくつかの概念が登場するか、登場するならばどのような用語で表現されているかを調べている。そして、(どんな概念をとりあげるべきかの議論もいくらかあるが、おもに) 同じ概念をあらわす用語が不統一である状況を問題にし、次期学習指導要領のもとで2022年度から使われる予定の教科書をつくる際には統一してほしいと主張している。

  • [注] 学習指導要領のもとでの「地理歴史」という教科の「地理A」「地理B」という科目をまとめてこの論文では「地理」、「理科」という教科の「地学基礎」「地学」「科学と人間生活」という科目をまとめて「地学」と呼んでいる。フォントの強調表示(多くのブラウザで斜体)はわたしがつけた。また、論文にはないがわたしの再表現では、この「地理」と「地学」は「教科」(強調表示つき)であるとする。

著者が調べた教科書は、「地理A」6件、「地理B」3件、「地学基礎」5件、「地学」2件、「科学と人間生活」5件である。

論文では、用語の不一致を次の3つの類型にわけている (わたしの再表現で示す。)

  • 1. 教科内の教科書間の不一致 ... 入試などで不利益が生じうる (採点者が正答の同義語を誤答と判断してしまう)。
  • 2. 教科間の不一致 ... 教科間の連携や総合的理解のさまたげ。
  • 3. 学術用語との不一致 ... 学術的知見の理解のさまたげ、大学との連携のさまたげ。

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著者たちもまとめの節で同様なことを述べているが、わたしは、同じ形の語で意味がちがうこと(この論文の表現で「同音異義語」[注]、わたしは仮に「多義語」とする)のほうが、同じ概念をさすのに別の語が使われていること(この論文では「異音同義語」、わたしは「同義語」とする)よりも深刻な問題だと思う。多義語による混乱をなくすためには、その語をどちらかの意味で使うのをやめるような用語の変更が必要だろう。同義語のほうは、同義語であるという認識が共有されていさえすれば混乱は起こらない。

  • [注] この現象は、国語(という教科)で出てくる同音異義語 (たとえば「意義」と「異議」があること) とはちがい、国語の観点では「同じ語の複数の意味」と認識されると思う。それが生じた状況は、別々の専門家集団が考えた概念に日本語の同じ語が使われた場合と、ひとつの専門用語の意味が大きく分岐した場合があると思う。

それにもかかわらず、この論文の議論の重点は同義語におかれている。著者たちの考えをわたしが想像してみると、教育用語の問題には長期にわたってとりくむ必要があるが、早い段階で主張と客観的証拠の提示をあわせた論文を出して同僚たちの注意を呼びおこす必要もある。教科書群から同義語を抽出するには、大きな文脈をおさえたあとは語の形に注目すればよいので、かぎられた作業時間でもできるが、多義語を抽出するには、出現箇所ごとに語の意味を考えなければならないので、作業時間がはかりしれない。そこでまず同義語を扱ったのだろうと思う。

ところで、この論文で同義語あつかいされたもののうちに、わたしならば、ひとつの語の「表記のゆれ」として扱うものが含まれている。たとえば、II節・III節それぞれの第5小節では「地すべり」と「地滑り」とが用語の不統一として扱われているが、わたしは表記のゆれだと思う。(ただし、著者も「地すべり」と「地辷り」(教科書には出てこない文字づかいだが)とは同じ語の表記の変異と見ているようだ。) もっとも、同義語と表記のゆれとの区別を客観的に決めるのはむずかしいと思う。この論文には出てこないが有名な(わたしは高校1年のときから知っている)例として「侵食」と「浸食」がある。意味のかさなりは大きいし、同じ文章中(引用句以外)で両者を区別しながら共存させることは不可能に近いから、わたしは表記のゆれと見るが、意味がちがう別々の語だという立場も理解できる。

同義語のうち、概念は共有されていて、用語だけがちがうのならば、統一もしやすいだろうし、同義語であることを明示することもしやすい。

しかし、用語の不統一として気づかれる問題は、むしろ概念の不統一であることが多いと思う。わたしなりに考えて、次の類型があると思う。

  • 概念がさすものの広がりが不明確であり、専門家のあいだでも認識の個人差が大きい。(例、下記の「氾濫原」)
  • さす対象はだいたい同じだが、概念のなりたちがちがう。(例、海洋の深層循環(所在場所にもとづく概念)と熱塩循環(メカニズムにもとづく概念)。)
  • 古い概念であり、いまの学問的知見の何にあたるのかが明確でない。(例、下記の「古期造山帯」)
  • 新しすぎる概念であり、専門家集団内でも共通理解ができていない。

また、用語問題よりも前に、そもそもその概念を教えるべきか、という問題がある。「知識体系の構成要素として教える」レベルと「教えない」レベルがあり、その中間に、「作業に使う必要上、その場かぎりで導入する」レベルがあると思う。作業用の用語は、がんばって統一する必要はないが、作業用であることを明示する必要がある。

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この論文の「II 教科書記載の比較」と「III 教科書記述の地球科学的検討」のふたつの節は、それぞれ7つの小節を、同じ構成で含んでいる。ここでは、おもに「III」節の議論を参照しながら、小節ごとに、わたしが読んで考えたことを述べていく。

- 4-1 プレートテクトニクス関係 -

論文では、プレート境界の分類を、地学では「収束・発散」、地理では「狭まる・広がる」のように表現していることを不統一としてとりあげ、統一すべきだと論じている。わたしは、両者の対応は一定しているようなので、同意語として明示しておけば統一する必要はないと思う。

論文では、統一の際には地球科学の学術用語である「収束・発散」にあわせるべきだとする。わたしは、「収束・発散」は応用数学ベクトル解析や物理の連続体力学(流体力学をふくむ)の用語でもあるので(気象学に即した説明だが[2016-08-23の記事]参照)、プレート移動速度のベクトル場の数値がわかっていて、それの球面での2次元的発散の値が正のところを「発散」、負のところを「収束」と言うのならばよいのだが、そのような数量のうらづけのない定性的認識にもとづいて使うのはあまり適切でないと感じる。地理ではベクトル場の理解を前提にできないから、むしろ「狭まる・広がる」のほうがよいと思う。ただし、わたしの意見のこの部分はわたし個人の経歴によってできた語感のあらわれにすぎない。地球科学の学術用語としてのプレートの「収束境界・発散境界」の定義がまぎれなく示されれば、それに従うことはできる。

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この節では、上の件と直接関係ない、学問内容的な問題も、短く論じられている。プレートの沈み込み帯でマグマができる(岩石が融解する)原因として、摩擦熱をあげている教科書があるが、それは、いまの学問的知見にてらして、まちがいだ、ということだ。

- 4-2 造山運動・造山帯関係 -

論文のこの節の主要な論点のひとつは、「新期造山帯」「古期造山帯」という用語が、地理の教科書にはねづよく残っているが、学問的に古い概念であり、今の地球科学の学術用語の何に対応するかが不明なので、この用語を持ち出すのはやめるべきだ、ということだ。

わたしも、これはやめてよいと思う。もし山脈ができた時代を区別したいのならば、地質年代用語の「古生代」「中生代」「新生代」を使えばよい。年代がまだ不確かならばそれを正直に述べればよい。しかし、むしろ、しろうとが知りたいのは、その山をつくった地殻内部営力は今も続いているか、終わったものか、だろうと思う。表現は仮のものだが「現在の造山帯」と「過去の造山帯」のような区別があったほうがよいかもしれない。

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関連して、「造山帯」と「変動帯」はちがうのに混同されている場合があることも指摘されている。

「変動帯」はこの論文ではひきあいに出てきただけで、それが何かしっかり述べられていない。わたしはこれが学術用語としてどう定義されているか知らないが、大まかに、 (地質時代の意味での)現在 地殻変動地震活動が活発なところだと認識している。そのような地域は、土砂災害の頻度が高い、川によって運ばれる砕屑物が多いなどの特徴ももつので、教科書で類型として扱う価値があるだろう。ただし、現在 山脈がつくられているところとは必ずしも一致しないから「造山帯」と同義語ではないだろう。

わたしは、極論と思われるかもしれないが、「変動帯」は残して、「造山帯」「造山運動」という語を使うのをやめたほうがよいと思う。過去に山脈ができた事実やプロセスについて述べる必要はあるが、その現象に特定の名まえをつけなくても「山脈ができた」と言えばよい。そのメカニズムについて、プレートテクトニクスで説明するならば、その場所は「沈み込み帯」「プレート衝突境界」などとすればよく、「造山帯」という用語は必要ないと思う。付加体の形成によって山ができるならばそう述べればよく「造山運動」という用語も必要ないと思う。(これまでの教科書執筆で、固有の専門用語の導入をふくまない項目は軽視されたのかもしれないが、もしそうならばこれからは変えるべきだ。)

- 4-3 地震関係 -

論文に「地震学では、プレート境界付近で発生する逆断層型の地震、内陸の上部地殻で発生するプレート内地震、沈み込む海洋プレートの内部で発生するスラブ内地震に分けることが基本である。」と書かれている。世界にはこれ以外の類型の地震もあると思うが、日本のようなプレート沈み込み帯に位置する弧状列島の付近で生じる地震の類型としてはこれでよいのだろう。論文での著者の論点はこの3つの類型を概念として教えるべきだということで、どんな用語がよいかに至っていないようだ。

学校教育用語としては、「プレート内」と「スラブ内」は、まぎらわしすぎて、そのままでは使えないと思う。わたしが思いつくのは「内陸プレート内」と「海洋プレート内」だが、「内陸プレート」というものがあるわけではない、という欠点もある。

また、日本付近にかぎっても、この3つの類型ですべての地震をつくせるのか、という疑問もある。わたしはその答えを知らないのだが、もし3類型以外も無視できないのならば、むしろ、地震には「プレート境界地震」「内陸地震」と「その他」があるとして、「その他」のうちで海洋プレート内に震源をもつものがあることに注意しておくような説明のほうがよいようにも思う。

- 4-4 平野関係 -

論文のこの節ではいくつもの問題が指摘されている。そのうちには、時代区分としての「洪積世」「沖積世」が「更新世」「完新世」で置きかえられたのに、地理の教科書では「洪積台地」「沖積平野」が使われている、という件がある。

「洪積台地」は使うべきでないという点ではわたしは著者に同意する。「台地」(もし形成年代を示す必要があれば「更新世に形成された台地」)でよいだろう。

「沖積平野」についての判断はむずかしいという点でも同意する。論文では「沖積には (1)地質時代としての意味(地形発達史としての意味)のほか、(2)河川による作用の意味(地形プロセスとしての意味)もある」ということが指摘されている。(「(1)(2)」はわたしが説明のつごうで追加した。)

わたしは、次の論点を指摘したい。

  • 地質時代としての観点で「沖積」を使うのは、(1a) 完新世(約1万1千年前から現在)をさす場合のほかに、(1b) 最終氷期極大期(約2万年前)から現在にいたる時期に堆積が進んだことを述べたいことがある。
  • (3) 地質時代としての意味の拡張として、仮想的に別の時代を現在とした場合にも使えるようにしたいことがある。たとえば、12万年前の人が地形を記述するならば(話を簡単にするために、海水準が今と似た時代を例にあげた)、その時点での「最近約1万年に形成された新しい地層」とそれでできた平野があるはずで、その地層は完新統ではないが、現在の時代に「沖積層」と呼ばれてきたものと似た特徴をもっているだろう。
  • (4) (言及対象はちがうが論理構造としては「造山」の件で述べたのと同じように) 堆積過程が、すでに終わったものと区別して、現在も進行中であることが言いたいことがある。しかし現実には、近代になって、治水工事や土地利用によって堆積過程が抑制されているところが多いだろう。「もし人間活動がなければ進行中だったはずだ」と言いたくなることもあるかもしれないが、それは長くなってもそのように説明するしかないだろう。

この件のひとまずの結論としては、「沖積」ということばは、意味が定まらないので、使わないほうがよいと考える。単に「平野」「低地」ですまない何かを言いたいのならばそれを説明的に述べるべきだと思う。ただし、くりかえし出てくる場合には短い表現がほしくなるだろう。そのとき、作業用の用語であることと作業用の定義を明示して「沖積」を使うことはありうると思う。

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この節のもうひとつの問題として、「氾濫原」ということばの意味の不統一がある。これは学術用語としても専門分野によってちがうようなので、統一は困難かもしれない。川がつくる平野のうちで、扇状地と三角州の中間にある、自然堤防と後背湿地をふくむ地帯に名まえがほしい。それを「氾濫原」と呼ぶことはありうると思うが、それは、本ごと、授業ごとに、ここではそのように呼ぶとことわって使うべき用語だと思う。(わたしは自然堤防と後背湿地をふくむ地帯を「自然堤防地帯」と呼びたいが、もちろんこの用語は使いはじめるときごとに「自然堤防」と関係はあるが別の概念であることをことわらないといけない。)

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この節には、学問内容的問題の指摘もある。扇状地で堆積が進む理由として「勾配がゆるくなるので流速が小さくなるから」というのは、いまの地形学の知見からみて正しい説明ではない。

- 4-5 斜面プロセス関係 -

この節では「地形プロセス学では、山地の斜面で発生する地形変化を、表層崩壊・深層崩壊・地すべりに整理することが基本であり、この分類を踏まえた用法に整理する必要があろう。」と述べられている。このような地形変化は災害のもとになる現象(ハザード)でもあるので、用語は教育・学術だけでなく防災行政とも整合したものであるべきだ。

このうち「地すべり」については、このブログ記事の2節で述べた文字づかいの問題がある。「表層崩壊」については、「土砂崩れ」は学問的には使われないので避けるべきで、「がけ崩れ」(これも文字づかいの問題がある)、 「山崩れ」、「斜面崩壊」の3つの類型が横ならびにあるのだろうと思うが、この論文の記述だけではよくわからない。尾方 (2017a)で論じられているので、そちらを見てからあらためて考えたい。

- 4-6 大気大循環関係 -

大気大循環は地学で教えるが、地理で教える気候の大規模な構造のメカニズムを説明しようとすればそこにもあらわれる。両教科にわたって概念や用語を統一することがのぞましい。ここまではわたしも賛成だ。

しかし、この論文では、「ハドレー循環・ロスビー循環・フェレル循環・極循環」をいずれも重要な用語であり両方の教科であつかうべきだと言っているようだ。わたしはそれには賛成しない。「ハドレー循環」はたしかに重要な概念であり両教科で用語も統一してあつかうべきだと思う。その他については、論述のついでに出てくることはあるかもしれないが、学習しなければならない概念ではなく、したがって用語の統一もかならずしも必要ではないと思う。

ハドレー循環は、大気大循環のうちで熱帯の部分の主役であり、地上の貿易風と呼ばれる東風とも、また雨が赤道付近で多く亜熱帯で少ないこととも関連が深いので、地学だけでなく地理でも扱うべきだと思う。

極付近で下降する南北鉛直循環である「極循環」は、北極まわりでは不明確な現象なので、地学でも地理でも積極的には扱わないほうがよいとわたしは思う。(南極まわりに限ってならば扱ってもよい。)

温帯の南北鉛直循環である「フェレル循環」は、統計をとれば出てくるが、大循環のメカニズムでは派生的なものなので、事実を示す図の中に出てくる名称としてはあってもよいが、学習すべき用語に入れるのは不適切だと思う。

「ロスビー循環」というのは不適切な用語だと思う。もし使うならば「ロスビー型の大気大循環体制」として「ハドレー型の大気大循環体制」と対比するべきだ。むしろ人名を使わずに「温帯低気圧が主となる大気大循環体制」あるいは「偏西風波動が主となる大気大循環体制」と言うべきだと思う。(なお「傾圧不安定が主となる...」はまずい。傾圧不安定は温帯低気圧の発生段階のメカニズムであり、大気大循環のエネルギー南北輸送に大きく寄与するのは発達した温帯低気圧なので。)

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この節のもうひとつの論点として、地学地理で同じものがちがう用語で呼ばれているという問題がある。

その例として「熱帯収束帯」と「赤道低圧帯」があげられている。わたしはこの例にかぎって考えてみた。学術用語として、両者はだいたい同じ対象をさすが、くわしく考えると、どちらの用語の意味も専門家のあいだで一定しておらず、両者を同意語とみなしてよいかどうか、よくわからない。

「熱帯収束帯」(ITCZ = Intertropical Convergence Zone)は、かつて(1950-70年代ごろ)は、赤道にそって地球をひとまわりしているものと考えられることが多かった。しかし最近は、衛星観測の月平均くらいで見て背の高い雲が出やすいところ(下層の風が収束しているところでもある)が明確に東西に細長い帯状になっている海上にかぎってこう呼ぶことが多い。陸上でも下層大気の収束が起こっている場所はあるのだが、帯状とはいいがたいことや、緯度が海上のITCZから大きくはずれることが多いので、ITCZとは言わないことが多くなった。熱帯モンスーンの内部構造として陸上の大気下層にできる低圧部(収束帯でもある)を「モンスーントラフ」(monsoon trough)という。かつて(1970年代ごろ)の気候学の文献ではモンスーントラフをITCZがシフトしたものとみることが多かったが、最近では少なくなった。

「赤道低圧帯」は、東西全経度平均してしまった気圧の分布の説明では使ってもよいと思うが、地理的分布として見る場合に地球をひとまわりしているものと考えるべきではないだろう。たとえばモンスーントラフが発達している季節・経度帯では、気圧の極小はそこにあって、赤道上にはない。

わたしの暫定的結論としては、固有名詞的なものではなく普通名詞として、風が収束していることに注目したならば「収束帯」、気圧が低いことに注目したならば「低圧部」というのがよいと思う。「熱帯収束帯」やITCZということばを固有名詞的に使うことは必須ではないが、使うとすれば、海上、しかも背の高い雲が東西の帯状に分布する海域に限るべきだ。

- 4-7 気候区分関係 -

論文のIII-7節で、わたしが2016年に出した日本気象学会発表予稿([2016-07-08の記事]参照)の論点をとりあげていただいている。

わたしは、その予稿および[2016-11-01の記事]で述べたように、日本の地理教育はケッペンの気候区分にこだわりすぎてきたと思う。では今後どうしたらよいかの考えはまだまとまっていないが、ひとつの案としては、[2018-05-31]の記事で述べたように、ケッペンの体系のうち大分類(A, B, C, D, E)だけを使うことが考えられる。

ケッペンの気候区分の便利なところは、各地点について、平年値の月平均気温と月降水量という12個の数値が与えられれば、機械的に(一定のアルゴリズムによって)各地点の気候型が決まることだ。その反面となる欠点は、気候区分は植生の特徴と対応することを想定してつくられているにもかかわらず、対応しないところも区分内の minority としては存在し、それが見のがされがちになることだ。

日本の地理教育にかかわる人に見のがされていない minority の例として、北陸の多くの地点が「地中海性気候」と分類される、ということがある。ケッペンの「Cs」型は本来「温暖 夏季少雨気候」であり、北陸も、降水量の季節変化のうちで極小が夏にあるので、その趣旨には合っている。ところが、別名として「地中海性」と名づけられ、オリーブ栽培されるところの分布などと関連づけられた。そこから連想される景観と北陸の景観がちがうので、奇妙な感じがするのだ。わたしはつぎのように考える。地中海沿岸でも北陸でも夏に降水が少ないことを認識するのはよいことだが、両者を同じ分類にまとめることには積極的意味がない。ケッペンのCs型の内容は、高校生がみんな学習する必要があるものではなく、発展的学習としてケッペンの気候区分に深入りした生徒だけが(奇妙な感じもこみで)経験すればよいことだと思う。

大分類だけを教えるとしても、minority に出あうことはあるだろう。学校教育では、あらかじめ minority がありうることを理解してもらったうえで、例題として示すところは majority から選び、調べ学習で minority に出あったらそのことをコメントするのがよいか、と思う。

文献

  • 根本 泰雄, 2017: 学校教育での地理・地学用語の整理を目指して。地理, 62(10): 87-93.
  • 尾方 隆幸, 2017a: 学校教育でみかける地球惑星科学用語の不思議。地理, 62(8): 91-95.
  • 尾方 隆幸, 2017b: 地球惑星科学教育の未来。地理: 62(11), 104-108.
  • 山本 政一郎, 小林 則彦, 2017: 学校現場で混乱が生じている用語。地理, 62(9): 94-99.
  • 山本 政一郎, 尾方 隆幸, 2018: 高等学校の地理教育・地学教育における教科書用語の問題点 -- 用語問題の類型化と学術的整合性。E-journal GEO (日本地理学会), 13: 68-83. https://doi.org/10.4157/ejgeo.13.68 [雑誌の名まえは英語だが、論文は日本語で書かれている。]

2018-05-31

世界の気候分布として何を教えるか? ケッペンの大分類まで?

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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先日のJpGUの地学地理教育のセッション([2018-05-14の記事]で予告した)で、わたしは[2018-02-17「地学・地理のうち大気水圏科学の部分、高校レベルで何を教えるか」]の記事と同じ趣旨の発表をした。

そこで、教えるべき項目のひとつとして、世界の気候帯の分布の概略をあげた。

しかし、そこでケッペンの気候区分にこだわるべきではない、とも言った。この件については[2016-07-08 「ケッペンの気候区分」を引退させてそれに代わるものを考えよう (気象学会予稿)][2016-11-01「「ケッペンの気候区分」をどうするか? (気象学会発表を終えて)」]で述べてきた。

それでは、何を教えるべきだろうか。わたしの考えは、まとまっていない。

そして、高校の次期学習指導要領の「地理総合」では、気候について何を教えるかは指定されていないので、それぞれの教師にまかせてよい、というのもひとつの見識だろう。

しかし、(高校教育の主目的が大学入試になってはまずいと思うけれども) 大学入試に使われることを考えると、教えられる内容についてのなんらかの事実上の共通理解がほしい。また、社会生活のうえで、たとえばマスメディアによる報道で情報が正しく伝わるためには、伝える側と受ける側で共通に理解された用語があるべきだ。

共通の基礎として、筋がとおっていて、しかも、教育現場でわかってもらえるものを考えたい。

- 2 -

「地理総合」をとる生徒が、「地学基礎」をとっていると想定できるわけではないから、気候のメカニズムにもとづく概念からはじめるのは、現実的ではないだろう。

「地理総合」が自然環境と人間社会の連関に重点をおいていることから考えて、人間社会にとって重要な気候の特徴をとりあげるべきだろう。

人間は食料を第一次産業に依存しており、そのうち農業林業は陸上生態系に依存している。また人間生活にとって目に見える景観は重要であり、植生はその重要な要素だ。だから、気候がどのように陸上生態系を制約しているかに注目するのは、ひとつの適切な案だと思う。(もうひとつの案は、地表面のエネルギー収支(熱収支)と水収支に注目することだ。こちらは、物理でエネルギーの概念を学んでいない人にわかりにくいことが欠点かもしれない。)

ケッペンの気候区分は、まさに気候がどのように陸上生態系を制約しているかを表現しようとしたものだ。ただし、のちの学問の進展からみて、その具体的な定式化(経験式)は時代おくれになった。

そこで、いまのわたしの考えとしては、ケッペンの大分類「A, B, C, D, E」を教えるのはよいと思う。ただし、その分類は厳密なものではないとことわっておく。その境界を与える数量の条件は、具体的に示された分布図を作った条件としては明確に示すべきではあるが、自然界に関する基礎知識とはしない。そして、大分類よりもくわしい中・小分類は、例として話題にしてもよいが、日本の高校教育で共通にすべき知識とはしない。

ケッペンの大分類の記号のつけかたは、de Candolle の植生分類の記号をおおすじでひきついだもので、気候についての理屈としてはあまり合理的なものではない。これを維持するか、合理的に決めなおすかは、迷うところだ。ひとまず、似ているがちがう体系を区別するのはやっかいだという理由で、引きついでおこう。

ケッペンの大分類の理屈のほうは、いくらか合理的に考えなおしてみる。

まず、乾湿によって、B (乾燥気候) と{A,C,D,E} (湿潤気候)が分岐する。この乾湿の境界は、降水量だけでは決まらない。温度が高いほど、「可能蒸発量」(これの精密な定義は提唱者によってちがうが、およそ、気温が同じで土壌水分がじゅうぶんあるときの蒸発量をさす)が多くなる。降水量が可能蒸発量よりも少ない場合が乾燥気候だといえるだろう。

それから、温度によって、{A,C,D} (木が育ちうる気候) と E (寒冷気候) が分岐する。(年平均の温度か季節に分けて考えるかはまだ検討していない。ケッペンのとおりならば最暖月気温 10℃。)

木が育ちうる気候は、もう少し細分したほうがよさそうだ。しかし、現実の森林は、常緑広葉樹、落葉広葉樹、常緑針葉樹、落葉針葉樹のさまざまな組み合わせがあって、どの分類境界が重要かは自明ではない。たまたまケッペンが注目したA, C, Dのわけかたがよいともかぎらないが、それに代わる有力な案があるわけでもない。便宜上、ケッペンのA, C, Dを引きついだうえで、その境のあたりの事例がどちらにはいるかはあまり問題にしない、というのが妥当かと、暫定的に思う。(そういう考えなので、ここでは「区分」ではなく「分類」と書いている。)

- 3 -

「地理総合」で、「A, B, C, D, Eの気候が地球上でどこに分布するか」まで学んだとして、どのようなしくみでそうなったのかを考えるときに、「地学基礎」で学ぶ「地球の熱収支」や「大気大循環」の知識が役立つだろう。

温度がだいたい緯度帯によって分布するのは、太陽からくる放射の地表面面積あたりの量が、緯度により、低緯度のほうが多いことからきている。太陽放射の季節ごとの値よりもむしろ年平均値のほうがきいてくるのは、海洋が季節をこえてエネルギーを(「熱を」)たくわえるからである。

乾燥地帯が亜熱帯に多いのは、亜熱帯が大気大循環のうち熱帯の部分を構成する「ハドレー循環」の下降域にあたり、雲・降水がおこりにくいことからきている。(温帯にある、いわゆる「ゴビ砂漠」などはこれでは説明できず、「地学基礎」の範囲をこえる気象学の知識が必要である。)