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2016-04-24

科学読みもの・科学番組のいろいろな態度

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

わたしは、本屋さんに行って、科学の本がもっとあってほしいと思う。新聞や総合雑誌の記事のうちに、科学を扱ったものがもっとあってほしいと思う。テレビに科学を扱った番組がもっとあってほしいと思う。

【わたしは実際、こういう関心をもっていて、そこでの「科学」はだいたい「理科」と同じことだ。しかし、考えてみると、ここでしようとしている議論は、対象を理科系の分野に限る必要はなく、たとえば、歴史学についても同様なことが言えそうだ。ただし、その場合は「歴史読みもの」に話題を広げずに「歴史学読みもの」について考える必要がありそうだ。「科学」というよりも「学術」と言ったほうがよいのかもしれないのだが、ひとまず、わたしが思いついたままの「科学」という表現を使って話を進める。】

科学者や、科学の成果を応用する分野の専門家に向けた、専門書も必要だ。それは、それなりに出版されていると思う。(市販されておらずネット情報になっていたり、日本語で出版されておらず英語のものを読む必要がある場合もあるが。)

ここで話題にしたいのは、科学を専門としない人に向けた、ほんものの科学の内容を伝える本や記事だ。それを書く人は、科学の専門家として認められていてもいなくてもよいが、科学の専門家たちの話題をよく理解し、それを専門外の人に伝えることに本気になっている必要がある。そういう人がまだ少ないのかもしれない。

科学読みものと言っても、いろいろな態度のものがある。本を書く人は、いろいろな動機によって動かされるし、人々のいろいろな期待にこたえているのだ。わたしが「科学の本がほしい」と思ったときのうちでも、どんな態度の本がほしいかは、ときによって違っている。

そこで、態度を分類してみようと思った。しかし、なかなか整理できないままに、なん年もたっている。ひとまず、今の段階でわたしの頭にあることを書き出しておく。

  1. 科学によって得られた知識のうち初歩的なものを伝える。読者がそれを自分の知識とすることを期待する。
  2. 科学的考えかたを伝える。読者の考えかたの訓練となることを期待する。
  3. 科学者が追求している先端の研究課題についての情報を伝える。読者が内容を理解できることは期待しない。科学はおもしろい、科学は長い目で生活に役だつ、などの好印象をもってもらうことを期待するものが多く見られるが、批判を含むものもある。
  4. 科学者である人の生きかたの例を示す。読者のうちのなん人かが科学者になろうと思うこと、そのほかの人も科学者という職種の意義を認めてくれることを期待する。本人の回顧や、偉人伝型のものが多いが、批判的なものもある。
  5. 科学と社会のかかわりについて、問題を指摘する。
  6. 科学者がやっていることの実例を「実演」「実況中継」する。それをどう受け取るかは読者しだいである。

とくに、テレビの「科学番組」が、ここで第3にあげた、番組の時間内に初歩から積み上げて理解することはできない先端的話題をとりあげ、しかも、それに好印象をもたせるものに偏っている、という印象をわたしは持っている。研究のスポンサー(企業のこともあるが、基礎科学の場合には政府であることが多い)の意向にそう傾向が強まっているのかもしれない。数十年前はもっと「教育番組」があって第1と第2の役割を果たしていたが、放送大学を別として、そういうものが減ってしまったと思うのだ。教育での第1と第2の課題の緊張関係も問題なのだが、総量が少なくてそれどころでなくなっている気がする。第4や第5の要素はドキュメンタリー番組には今もあるのだけれど、夜遅くなどに目だたない形で放送されていることが多いように思う。

環境問題災害とかかわる科学の扱いについては、もっと言いたいことがあるのだけれど、別の機会にしたい。健康や人権とかかわる科学の問題もあるのだけれど、わたしがそれを論じることはむずかしい。

2016-04-23

専門知識の需要側と供給側との「問い」の調整

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

[2013-01-29の記事「科学ネゴシエーション」]と同じ話題なのだけれど、表現を変えて述べてみることにする。前回は「科学コミュニケーション」のとなりの話だという趣旨で用語を選んだのだけれど、理科系に限った話ではないので、今回は「科学」ということばを使わず「専門知識」を使ってみる。】

専門外の人(仮に「しろうと」と呼ぶ)から専門家への問いは、専門家にとって答えにくいものであることが多い。「それについては、よくわかりません。」と答えてしまうと、専門家は専門であるはずのことについて何も知らないという印象を与えてしまうかもしれない。

専門家は、専門家どうしの議論でされるような問題のたてかたをされれば、答える材料を持っている。問いに対する直接の答えがわかっていない場合も、どこまでわかっていてどこがむずかしいのかを述べることができるだろう。

しかし、専門家の問いかたが正しくしろうとの問いかたがまちがっている、というわけではない。とくに、専門家が知識を提供することを職業としているならば、顧客であるしろうとの問いの意図を尊重しなければならない。

ここで必要なのは、商品の取引の契約にいたる前の事前の交渉と似たことだと思う。

しろうとが求める問いの答えそのものを、専門家は提供できない。逆に、専門家がすぐ提供できるものは、しろうとが求めるものそのものではない。

そこで、おたがいに問いの内容を調整して、専門家が答えられて、その答えがしろうとにとって有益であるような問いに至れば、先に進める。もちろん、その調整の過程では、専門家はしろうとの問いの動機をよく知る必要があるし、しろうとは専門家がどんな種類の問いに答えることに慣れているかを知る必要があるだろう。

専門家がすでに知っていることを構成しなおして提供すればしろうとの需要に答えられることもあるだろう。この場合は、問いの調整は、専門知識のコミュニケーションのための交渉ということになる。

それだけではすまず、あらたな研究をする必要が生じることもあるだろう。この場合は、問いの調整は、研究課題を設定するための交渉ということになる。(科学技術政策家のあいだで「研究の共同設計[co-design]」とか、「研究計画へのステークホルダー[stakeholder]参加」とか言われている話に対応するだろう。)

2016-04-16

歴史のもしも (2)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

[2015-12-12の記事]の続き。

- 1 -

歴史について、いくらか理屈っぽく考えてみる。

「歴史」ということばは、いくつか違った意味をもっていると思う。次のように分けてみることができるだろうか。

  • 1. 世界のものごとの連鎖(人間に認識されるとは限らない)
  • 2. 人による記述
  • 3. 記述を批判的に検討して得られる1についての知識

この1の意味の歴史についての、おそらく多くの現代人の感覚は、「過去の歴史は確定しているが、未来の歴史は不確定だ」というものだと思う。(ここでは、量子物理が有効な原子の規模や、宇宙全体は別として、人間個体から地球までの規模のものごとを考えている。) そして、「それは、人の自由意志によって、自由自在ではないが、ある範囲内では変えられる」と考えられているのではないかと思う。[きのうの記事]で論じたような、政策の選択肢を考えるときの背景に、そういう考えがあると思う。

まだ不確定な歴史(1の意味)は、不確定なところからさき[注]が分岐していると考えることができる。ただし、その歴史の中で生きていく存在が体験できるのは一つの枝だけだ(その存在にとって、それが確定した歴史になる)。他の枝が実在するかどうかはわからない。

  • [注] 日本語表現上、意味があいまいになる可能性に気がついた。この「さき」は未来側をさす。しかし「あと・さき」の場合の「さき」は過去側をさす。おそらく同じ語源で、時間軸上の方向を空間的方向のメタファーで表現するときの対応のさせかたが複数あってどちらも生き残ったのだろう。

不確定なことは非常にたくさんあり、したがって、枝分かれは非常にたくさんあるはずだ。枝はすべてそれぞれ違い、1の意味では同類はないのかもしれない。しかし、少なくとも歴史を論じる3の立場では、何かの尺度で似た性質をもつ枝を同類としてまとめたくなる。たとえば、ほとんど同じ初期状態からの歴史の流れに「大部分は似ているが、少数例が大きく違う」というような状況があると思う。定量的指標があるかどうかは不明だが、統計学用語のモード(mode)を借りるとすれば、モードに近い多数の枝をひとまとめに認識し、それからはずれた少数の枝を別に認識するようなことができる、と期待したくなるのだ。(歴史自体がそういう構造を持っているかどうかはわからないが。)

- 2 -

「歴史のもしも」を考えたくなる状況はどんなものだろうか。わたしの内省をことばにしてみる。

歴史(1の意味)のある時点で、現実には a だったが、それと少し違う b という事態も考えられるのではないか。(aとbとの違いはわりあい小さい。摂動(perturbation)と言える。その違いが時間が進むにつれて広がっていくだろう。)

その1。現実の歴史は、a からつながる時系列群のモードに近いだろうと考える。そして、b からつながる歴史のモードを推測したい。歴史が比較的単純な要因に支配されているならば、推測できるだろうと期待する。

その2。現実の歴史には、(今の自分の価値判断によれば) 不満なところがある。もし a のところが b だったら、もっとうまく(不満が少なく)進んだのではないか、と考える。それがどんな経過をたどるか知りたい。(ある時点でよくても、その後に悪くなる可能性もある。いわゆる歴史の皮肉だ。そうすると、b のほうがよかったとは簡単には言えなくなる。) この場合は、必ずしもモードを知りたいわけではない。しかし、可能性(蓋然性)が非常に低い枝は採用したくない。

その3。人物について考える。明らかな悪者について、その人が早く死んでいたら、とか、(わたしの)思い入れが向かう人物について、その人がもっとしあわせになる歴史、もっと活躍する歴史があってほしい、など。この場合は、1節で述べた歴史の1の意味で考えはじめても、2の意味の記述のほうにずれてしまう。そして、筋書きを考える思考が、蓋然性よりも、おもしろさを追求することになりがちだ。ここで考える人物としては、人が記述する歴史に名まえが残るような人物のこともあれば、そうでない、いわゆる「無名の」人物のこともありうる。

- 3 -

わたしは、どんな「歴史のもしも」を考えたくなるか。

[2015-12-12の記事]で述べたように、言語が今とだいぶ違うものになっていた可能性を考えたい、という動機もある。

[きのうの記事]で述べたように、現在から未来の問題として、人間社会を化石燃料消費に頼らないように変えていく必要が生じている。もし、19世紀に、化石燃料の利用拡大つまりいわゆる「産業革命」が世界に広がらなかったらどうなっていたか、を考えてみたくなる。

そして、わりあい大きい問題としては、現実には15世紀の、いわゆる「地理上の発見」から19世紀にかけて、ヨーロッパ諸国がしだいに世界の多くの地域を支配するようになったのだが、歴史がそうでない枝に進む可能性もあったのではないか、ということがある。

- 4 -

ヨーロッパ諸国による世界支配のうちで、とくに日本について考えることがある。実際の歴史の流れとしては、日本は(第二次大戦後の占領を数に入れなければ)植民地化されずにすんだのだが、そのために、(いわゆる)鎖国政策は必要だったのか、という疑問がある。

わたしは、子どものころ、江戸時代の鎖国政策について、おそらく当時読んだ本(少年少女歴史ものがたりのたぐい)の著者の論調の影響を受けたのだと思うが、国民の移動の自由を奪う悪い政策であり、それをとらないほうがもっとよい歴史(の枝)だっただろう、と感じていた。しかし、たぶん中学の授業で、鎖国は日本がヨーロッパ諸国に征服されないために必要だったのだ、という考えを(も)知った。では、17世紀当時、日本の政権が鎖国に近い政策をとらなかった歴史の枝は、日本がヨーロッパ諸国に征服されたというものになる(蓋然性が高い)のだろうか?

ややこしいことに、幕末(19世紀後半)の段階では、むしろ、鎖国政策を続けることが、ヨーロッパやアメリカ(以下「欧米」と書く)に征服されるリスクが高い、と判断する人がいた。明治以後のいわば定説からは、その判断は正しいとされ、早くからそういう判断をした人をすぐれた先覚者とみなすことが多くなっているが、それは正当だろうか。また、17世紀からのおもな事情の変化としては、欧米が産業革命を経験し工業生産力と軍事力を高めたことが考えられるが、それだけだろうか。

フィクションの記事「天下分け目」は、「17世紀に開国した日本が、イスパニア[注]・ポルトガル同君連合に征服される」という筋書きの変種として、「関が原を空間的『天下分け目』として、西日本は征服されるが独立をとりもどし、鎖国した東日本とは違う体制となる」というものを考えてみたのだった。(そのさきを考えてみたいという意欲はわく。しかし、考えを進めると、その枝についての2の意味の歴史記述を試みることになり、それは歴史記述というよりもむしろ小説かドラマのようなものになってしまう。小説や脚本を書きたいわけではないので、断片を書いて自分で見るだけにとどめている。)

  • [注] わたしは現代のこの国については「スペイン」と書くのだが、15-17世紀の話だと「イスパニア」と書きたくなってしまう。子どものころに読んだ本の表現が印象に残ったせいだ。とくにこだわっているわけではなく、統一を求められれば合わせることはできる。

「攘夷原理主義の爆縮」(implosion)」のほうは、幕末の歴史から分岐して、日本が排外的な政策をとって欧米と戦い負けて征服される、という筋書きを考えようとしたのだった。(しかし、そのさきを考える元気が出なくなってしまった。)

2016-04-15

未来を考えるとき、経済成長・破局・技術をどう扱うかのむずかしさ

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

- 1 -

今とる政策は、未来に影響をおよぼすだろう。政策を考える際には、これから数十年くらいの未来の見通しをもつべきだろう。もちろん、未来のことは確実にはわからない。しかし、知識を動員すれば、起こりうることはある程度しぼりこめる。

未来は、人間の思いどおりになるものではない。しかし、人間の意志でいくらかは変えられるだろうと思う。(すべてが必然として決まっているという考えもありうるのだが、そう考えたくないのは、わたしに限ったことはないだろう。) そこで、複数の政策選択のシナリオを想定し、それぞれの未来をシミュレートして、その違いを、政策判断の材料にしたい、と考える。

- 2 -

シミュレートされた未来どうしをどう比較するか?

ひとつの立場が、経済学評価だ。さまざまな価値を、貨幣価値というひとつの尺度に換算する。このようなやりかたには、明らかに、不満がある。しかし、「かけがえがないもの」といった定性的なとらえかただと、ふたつの政策でそれぞれ違った「かけがえのないもの」が失われる場合に、選択に進めなくなってしまう。限界があることを忘れないこと、単独の判断基準にはしないことを前提として、ひとつの評価指標にまとめ、一定の手続きで計算することには意味があるだろう。

指標としてよく使われるのは GDP (国内総生産)または(まったく同じではないが同類の) GNP (国民総生産)だ。ただし地球環境政策の場合、その世界合計に注目することが多い(地域別も見るが)。世界合計については国内(domestic)はまずい表現だが、便宜上使われている。GDPは経済flow の指標であり、stockの指標の「国富」もあるが、GDPのほうが重視されることが多い。

人の幸福はもちろんGDPだけで決まるものではないが、ひとりあたりのGDPはその複数の要因のひとつと言えるだろう。人口が変わるので、違う時点間の比較や、違うシナリオ間の比較では、合計とひとりあたりの富では大小関係が逆になることもある。(国が栄えるという観点では、ひとりあたりよりも合計のほうが重要だと考える人もいるだろう。)

貨幣価値には、インフレデフレがある。そこで、すなおに貨幣の尺度で値を求めた「名目GDP」を、物価指数によって補正した、「実質GDP」が使われる。しかし、さまざまな商品の価格は違った変化をする。物価指数はそれの、ある重みづけの平均にすぎない。何十年もたつうちには、物価指数を構成する商品群を変える必要がある。十年くらいの期間での評価ならば、実質GDPは意味がありそうだが、地球温暖化問題で典型的な百年くらいの期間について、実質GDPは意味がある変数なのだろうか、という疑問もある。

政策の選択肢の帰結どうしを比較するときには、費用便益分析(cost-benefit analysis)の考えかたが使われることが多い。次に述べるのは、典型的な費用便益分析ではないかもしれないが、地球温暖化問題の対策をするべきかどうか判断するときに使われる考えかたの例だ。温暖化が起きると、それによって災害の被害がふえることによるGDPの損失がある。温暖化対策をすると、その費用のぶんだけGDPの損失がある。どちらが正味の利益が大きいか、と考える。

ただし、損失は正味の利益だと考えている。ほんとうに、費用や被害と、利益とは、同じ軸の逆向きのもので、打ち消しあってくれるかは、確かでない。むしろ、ひとつの尺度にしないと計算が困難だ、という技術的事情でそう考えているのだと思う。【たとえば、人口という変数が、負になれないとか、1人未満の小数になれない、というふうに、変数のとりうる値に制約がある場合は、たとえ計算困難でも、考慮しなければならないこともあると思う。】

温暖化の影響は未来に現われる。対策の費用はもっと早めに必要になる。時間軸上で違う位置にある損失をどう比較するか。無限の未来まで同じ重みにすると、判断に無理が生じる。そこで、割引率という考えかたが使われる。割引率が年あたり1%ならば、来年の利益は(1-0.01)、さらいねんの利益は(1-0.01)の2乗、n年後の利益は(1-0.01)のn乗をかける。割引率は利子率(物価上昇率をひいたもの)と同じであるべきだという考えもある。わたしは、同じである必要はないと思う。割引率は、将来が不確かであること、あるいは今の人があまり遠い将来まで心配できないことの反映だと思う。

- 3 -

多くの場合、GDPは成長するものと仮定される。世界全体として、数十年の期間にわたって、高度成長を仮定することはできない。しかし、たとえば、経済成長の立場からは低成長とみなされるだろう年1.5%の成長率だとしても、100年たてば、GDPは4.4倍になる。増加分を%で表現すれば340%である。

温暖化の被害は、典型的には、GDPが10%減る、といったものと予想されることが多い。そこで、温暖化対策に反対する人による「340%の成長が、300%の成長になるのだが、どっちみち100年後の人々は今よりはだいぶ豊かではないか。その人たちのために、今の人たちが温暖化対策の費用を使う必要はない。」といった理屈も見かける。他方、温暖化対策を推進する人は、対策の費用を、それぞれの時代のGDPに対する相対比として見たうえで、数十年をとおして見ると温暖化の被害よりも安いという見積もりをして、早く投資したほうが得なのだ、という理屈を述べる。

政策家も、経済政策が大失敗すれば、数十年の時間規模でGDPが成長しない可能性もあることを認めている。わたしは、政策の大失敗がなくても、必ず成長するという期待には無理があると思う。成長率が小さくなるかもしれないし、(温暖化と関係あるにせよないにせよ) 経済規模が急に小さくなるような破局が起こるかもしれない。100年後のGDPは、今の4倍ではなく、今と大差ないかもしれない、と考えるべきなのだと思う。そうすると、「100年後のGDPが10%減る」ことは、今からまもなくGDPが今の90%になるのと同じくらいの、社会にとっての衝撃だと思えるのだ。

経済政策をうまくやっても、成長が必ずしも期待できないと考えるのは、天然資源や環境に限界があり、人間による物質やエネルギーの流れを、今よりも大きくすることはむずかしく、むしろ小さくしなければならなくなりそうだからだ。(あとで述べるように、技術の発展によっては、小さくしなくてすむ可能性もあるが、まだできてない技術はあてにならない。)

わたしは、Ayres & Warr (2009)の議論がもっともだと思っている。GDPを、資本と労働で説明しようとすると、大きな残差がある。伝統的にはそれは「技術」であると説明されてきた。しかし、アメリカ合衆国および日本の過去百年のデータで見ると、投入されたエネルギーとの対応がよい。詳しく言うと、対応がよいのは、投入された「有効な仕事」とであり、投入された一次エネルギーから有効な仕事を得る効率が上がったぶんだけは技術の貢献がある。しかし明らかに、技術による効率の改善には熱力学および材料からくる限界がある。【この本が示しているのは相関関係であって、因果関係が論証されたわけではない。20世紀の世界の驚異的な経済成長のうち、どれだけがエネルギー資源消費の成長のおかげだったかを決めるのはむずかしい。しかし、それがかなり大きな要因だったと、わたしには感じられる。】

今後は、エネルギー資源には限界がある。【もし、たとえば核融合、宇宙太陽光発電などが実用になって、事故の危険、廃物問題、廃熱問題も解決できるとすれば、この前提は破れるかもしれない。しかしそのような技術発展は確実に期待できるものではない。】 すると、経済成長は、政策に失敗しなければできて当然、というものではなくなる。たまたま成長できるかもしれないが、よい政策をとっても成長できないこともあるだろう。

エネルギー・物質の流れの少ない、情報産業や金融業では、エネルギー・物質の流れをふやさなくても、貨幣価値でみた富の成長は可能かもしれない。しかし、そうすると、情報産業や金融業がしだいに(貨幣価値で見た)経済の大きな割合をしめるようになり、人が生きるのに不可欠な衣食住の基本財を生産する産業をふりまわすことになる。それは短期的にはともかく、長期的に望ましい経済政策ではないと思う。

これからの世紀の世界では、経済規模は一進一退、近似的にゼロ成長、というのを基本に考えるべきだと思う。

- 4 -

人間社会は、ゆるやかに変化するとは限らない。「破局」もありうるだろう。

地球温暖化との関係で起こるかもしれない破局については、[2015-02-15の記事] [2015-11-29の記事] [2015-11-30の記事]で話題にした。

ここで考える「破局」とは、社会システムがこわれることだ。そうすると、餓死者が出るような、人道的に悲惨なことも起きるだろう。また、シミュレーションの立場からは、経済モデルで仮定したなめらかな関数が成り立たなくなる、という事態になるだろう。

破局をもたらしうる事件は、たとえば、核戦争とか、未知の感染症の大流行とか、いろいろ考えられる。それは、地球環境の変化によって起こることもあるし、それなしに、社会独自の変化によって起こることもある。地球環境の変化に限っても、人間活動起源の気候変化(地球温暖化)による場合もあるし、そのほかの原因の場合もあり、ほかの原因だが地球温暖化との複合効果がある場合もある。

破局が地球温暖化を原因とするものならば、地球温暖化対策を考えるシナリオ比較には、破局が起こる可能性をも組みこむべきである。しかし、破局のところでは、モデルの関数が不連続になる。不連続点を含むモデルを作ることはできるかもしれないが、いつどのような不連続点が生じるかの可能性をすべてつくすことはできず、たまたま思いついた事例になりがちだろう。

また、地球温暖化以外を原因とする破局もある。地球温暖化を考える際にも、経済がなめらかに成長あるいは定常状態を保つシナリオばかりでなく、その他の破局によって、経済規模が急に縮小してしまうようなシナリオも想定しておくべきだろう。しかし、想像できるシナリオはあまりに多様で、それを想定した計算をしつくせないことは明らかだ。【たとえば、「2060年代に、日本が核武装し、日本と中国との間に核戦争が起こる」のようなシナリオは、けっして想像したくないが、想像可能ではある。】

学者でないもの書きの人が未来を語る本では、少数のシナリオを定性的に語っていることが多い。温暖化によって破局が起こるシナリオを使って、温暖化対策の必要性を強調する人もいる。温暖化以外の原因によって破局が起こるシナリオを使って、さまざまな政策のうちで温暖化対策は重要でないと主張する人もいる。

重要性を比較しようとすると、シナリオを定量的にしてシミュレーションしてみる必要があるだろう。未来にいくつかの不連続点を想定し、木型に分岐していく複数のシナリオを考えることはできるだろう。しかし、どんなシナリオを思いつくか、また、限られた計算機資源をどんなシナリオのシミュレーションにまわすか、は客観的に決まらず、得られる知見は、研究者がたまたまどんな仮定をしてみたかに依存するだろう。

- 5 -

未来を考えるうえで、予測困難なことがらとして、技術の発達もある。発明は予定どおりにできるものではない。

技術は今と変わらないと仮定することは、あまりに保守的だが、望みどおりの技術が得られると仮定することは、あまりに楽観的だ。

技術の内容に深入りせずに、経済を中心に、未来の見通しを得ようとする人たちは、経済の発達と技術との関係についてのこれまでの経験に基づくモデルが将来とも有効として、経済発達に伴って技術が発達すると考えることがある。わたしは、これはやや楽観的に偏った態度だと思う。技術の発明や普及が成功するかどうかが不確かであることに加えて、モデルの根拠となるこれまでの経験はエネルギー資源の利用量が成長してきた時代の経験であり、今後はその条件が続くとは限らないからだ。

技術の内容に立ち入って考える人は、基本的には、すでに動作することがわかっている技術だけが利用可能と考えることが多い。ただし、習熟効果、普及効果などで単価が安くなることは期待する。(もっとも、20世紀の技術は規模を大きくすると単価を安くすることができたことが多いけれども、それは化石燃料原子力などの集中的に得られるエネルギー源のおかげだったと考えられる。再生可能エネルギーや生物資源の利用では、同様なことが続くとは限らないだろう。)

さらに、動作する技術でも、人々の価値判断によって、利用不可能になることもありうる。たとえば、地球温暖化の「緩和策」(二酸化炭素排出削減策)としての、原子力の利用、二酸化炭素回収隔離(CCS)は、それぞれ、大規模に使える手段として認められるとは限らないだろう。また、遺伝子組みかえを使う技術が、全面的に禁止されることはなさそうだが、使いみちに制約がつくだろう。このあたりは、今後の人々の価値判断に依存するところであり、長期の見通しをもつことがむずかしい。

しかし、技術の見通しの確実でないことは、悲観的なことばかりではないだろう。すでにある技術よりも飛躍的によい技術ができることも、あてにせずにだが、考えておいたほうがよいかもしれない。そのような意味で、地球温暖化対策の研究者は、たとえば「新技術によって太陽電池蓄電池の単価が飛躍的に安くなる」という将来シナリオを検討してみようと思うことがある。

さらに百年後くらいの未来を考えるとすれば、有用になるか、有害にならないか、両面でとても不確かだが、宇宙太陽光発電や核融合が実現する可能性も、それぞれ考えておいたほうがよいかもしれないと思うこともある。

基本的な将来見通しでは、このような、できるかどうかわからない技術をあてにしてはいけない。それに加えての補助的試算として、原理的には可能だがまだ「夢の技術」であるものをいくつか選び、それがもし実用になったら、見通しが基本のものからどのように変わってくるか考えておく、というのがよいと思うのだ。

文献

  • Robert U. Ayres & Benjamin Warr, 2009: The Economic Growth Engine: How Energy and Work Drive Material Prosperity. Cheltenham, Glos., UK: Edward Elgar, 411 pp. [読書ノート]

2016-04-14

準備満タン

ある人が、「準備満タン」という表現を話題にしておられた。そのかたの論旨とはつながらないかもしれないが、わたしなりに、この表現について考えた。

この表現は、「準備万端」のまちがいと考えられることが多い。まちがいとしない場合も、パロディーのようなものであり、会話はともかくきちんとした論述文では使ってはまずい、俗語表現として扱われているだろう。

そして「準備万端」自体が、日本語の表現のどれが正しくてどれはまちがいだと論じる人の材料になる。「準備万端がととのった」という表現は正しいが、「準備万端です」というのは変だ、というのだ。英語で言えば、"All items of my preparations are ready." はよいが、"All items of my preparations!" では文になっていない、ということにあたるだろうか。

「満タン」は、タンクがいっぱいになっている、という意味にちがいない。「満」の使われかたは、「満場」「満面」などと共通だ。「タン」が漢語由来の要素でないので、正式でない感じがするだけなのだ。

タンクのなかみはなんでもよいのだが、自動車(や、「原付自転車」)のガソリンタンクが想定されていることが多いだろう。仕事のために自動車を運転する必要のある人にとって、仕事の準備には実際にはさまざまな要素があっても、自動車のエネルギー源であるガソリンを入れておくことで代表したくなるのはよくあることだと思う。今から50年ぐらい前、自動車を運転する人がまだ少なかったが、原付自転車を運転する人は多かったし、自動車を持つこと、あるいは自動車産業にかかわることがが誇らしいこととされていた。そして最近は、自動車が生活の必需品になってしまった地方も多い。そういう変遷を経ながら、日本社会では、ガソリンを使う自動車に関するものごとをたとえに使う表現が、わりあい通じやすい状況が続いていると思う。

もっとも、大都市では、多くの人は自動車を運転しない。他方、大都市でもいなかでも、携帯電話が普及してきた。携帯電話に限らず、(使い捨て電池でない)電池で動く携帯機器を、外出中に使うためには、電気のコンセントがある本拠地で、充電しておかなければならない。電気は液体ではないものの、電池の充電状況を示す図解として、容器の中に液体がたまっているような形がよく使われる。そこで、外出の準備を、携帯機器をじゅうぶん充電しておくことで代表させて、しっかり準備したことを「準備満タン」と表現することも、無理がないと思う。

「万端」の場合と違って、「準備満タンです」のような形で、意味が通じる。

みなさまには、どうか、この表現を、まちがいだとか俗語だとかいう評価によって書きことばから排除しないようにお願いしたい。

- - -

ことばに関する「歴史のもしも」だが、もし、tank が漢語であるかのように、たとえば「箪庫」として受け入れられていたら、「満箪」はもっと早く、正しい日本語表現と認められていたと思う。

あるいは、もし、漢字を使うよりも、かながきのほうが標準的表記になっていたら、「じゅんび まんたん」は「じゅんび ばんたん」に劣ると感じられないだろうから、もっと早く、正しい日本語表現と認められていたと思う。