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2016-05-23

(勧めたくない用語) バタフライ効果

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

5月23日はEdward Lorenzの誕生日だそうで、その業績が「バタフライ効果」ということばで代表されて話題になっていた。

いわゆる「バタフライ効果」の話をわたし[2015-12-12の記事]に書いたのだが、そこではもっと漠然とした話題のついでに書いたので、この用語の件だけ取り出して別の記事にしておくことにする。【この用語は気象学用語ではないので、記事カテゴリー「気象むらの方言」には入れない。】

Edward Lorenz (ローレンツ, 1917 - 2008)は、数学を学び、気象学に専門を移してその理論の発展に貢献した学者である(たとえば[2014-06-18の記事「大循環」]参照)。Lorenzは(応用数学用語としての)「カオス」の理論を構築した(複数の)人のひとりでもある。彼の立場からのカオスについての展望は一般向けの本『カオスのエッセンス』(Lorenz, 1993)にある。

カオスの理論とかなり重なる問題領域として、予測可能性の件がある。天気予報はなん日さきまで有用か、といった問題に対して、現実の技術が能力不足であることを別としても、理論的限界があると考えられるのだ。

大気の運動は、ある時刻(「初期時刻」と呼ぶ)にあったわずかな違いが、それから時間がたっていくにしたがって大きく拡大していくという性質をもっている。(おそらく世界の多くのものごとが、多かれ少なかれそういう性質をもっているのだろう。)

数値天気予報の場合ならば、初期時刻に与える値には観測誤差程度の不確かさがある。それが時間とともに広がっていく。注目する変数(たとえば気温)の不確かさがその地方・その季節で起こりうる最低から最高までの幅に匹敵するほどになったら、それ以上予測計算を続けても予報としての有用性はない。

Lorenzの仕事をきっかけとして、気象の話ではなく一般に、初期時点でのわずかな違いが大きく拡大することについて、「butterfly effect」と表現されるようになった。それには次のような複数の由来がある(『カオスのエッセンス』参照)。

  • Lorenzは1972年にAAAS (アメリカ科学振興協会)の会合で『Does the flap of a butterfly's wings in Brazil set off a tornado in Texas? (ブラジルの蝶のはばたきがテキサスにたつまきをひきおこすか?)』という講演をした。この表題はLorenz自身ではなく彼を講演者として招いた人がつけたのだそうだ。それまでにLorenzがたとえに使ったのはカモメだったが、これ以後、多くの人がまねをする際には、蝶を使うことが定着した。しかし地名は北京だったりニューヨークだったり、激しい現象は嵐(storm)だったりハリケーンだったり、まちまちである。
  • これとは直接の関係はないのだが、Lorenzが1963年論文以来たびたび使う図に、蝶を思わせる形のものがある。1963年の論文では、対流を起こす流体の運動方程式単純化して、空間次元をもたない3つの変数が相互作用しながら時間とともに変化するものにした。対象の状態は3つの変数の値で表現でき、これを3次元空間(状態空間という)の点とみなすことができる。対象が時間とともに変化することは状態空間中の軌道にあたる。有名な図は、軌道が漸近していく行き先にあたるアトラクタ(attractor)というものを、3次元空間の透視図のように表現したもので、形が蝶に似たところがある。(軌道をすなおに表示しただけでも蝶に似て見える。)
  • Lorenzとまったく関係なく(上記の講演依頼者も知らなかったそうだ)、SF作家 Ray Bradbury (ブラッドベリ、1920 - 2012 【同業者向け注: 名まえを古気候学者 Ray Bradley と混同しないこと】)が1952年に発表した 『A Sound of Thunder (雷のとどろくような声)』という短編がある。これはタイムマシンもので、時間旅行者が、蝶をふみつけてしまい、意図しない歴史改変を起こすのだ。改変の度合いは(タイムマシンものにしては)あまり大きくなくて、時間旅行者は出発したとき・ところにもどってくるのだが、人名などが変わっている。「Butterfly effect」という表現を、この小説を思い起こして使う人も多かったようだ。【わたしは子どものころたまたまこの話を読んでいくらか印象に残っていたが、題名も著者も忘れていて、Lorenzの本で話題になっているのを見て気づいた。言われてみれば文庫本の題名は覚えていた。R is for Rocketを「ウは宇宙船のウ」としたら、次にS is for Spaceが出てきて日本語版題名が苦しまぎれのものになったという経路依存のできごとも。】

これは日本語では「バタフライ効果」と書かれることが多いようだ。しかし、日本語の単語としての「バタフライ」は水泳のスタイルをさすのがふつうで、めったに蝶のことをささない。(「マダム・バタフライ」と「蝶蝶夫人」が同じであるといった遠まわりをしないと関連を思い出せなかったりする。) また、蝶は、上に述べたどの由来をとっても、この概念にとくに必然性のある要素ではない。だから、わたしは、「バタフライ効果」よりは「ちょうちょ効果」のほうがましかとも思うが、いずれにしても、この概念にふさわしい用語と感じられない。この概念に短い名まえがほしいという需要があることはわかるのだが。

文献

  • Ray Bradbury, 1952: A Sound of Thunder. Collier's June 28 1952 issue; (1962) In R is for Rocket, New York: Doubleday.
  • [同、日本語版] レイ・ブラッドベリ 著, 大西 尹明 訳 (1968) 雷のとどろくような声。ウは宇宙船のウ (創元SF文庫), 東京創元社 所収。
  • Edward N. Lorenz, 1963: Deterministic nonperiodic flow. Journal of the Atmospheric Sciences, 20: 130-141. DOI: 10.1175/1520-0469(1963)020<0130:DNF>2.0.CO;2
  • Edward N. Lorenz, 1993: The Essence of Chaos. Seattle: University of Washington Press.
  • [同、日本語版] ローレンツ 著, 杉山 勝, 杉山 智子 訳 (1997): カオスのエッセンス共立出版

2016-05-19

本をもつ者の悩み

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【これは、世の中の人々の悩みのうちではぜいたくな悩みかもしれないが、勤め人としての経歴の終わりに近づいている学者の多くに共通な悩みだと思う。学者をおおざっぱに文科系理科系に分ければ、文科系の学者の大部分と、理科系の学者の小部分に共通するだろうと思う。】

わたしは本をなん千冊か所有している。数えたことがない。

そのうちには、研究プロジェクトの報告書や資料集、講演会の予稿集など、単行本とも雑誌ともつかない、図書館やさんの俗語でいうgrey literatureもある。そういうもののうちに、ときどき貴重な情報があるのだが、どこの図書館でも保存されていない可能性があって、なかなか捨てられない。しかし、わたしのほうも、そういうものの目録をつくっていないし、箱詰めすると何をどの箱に入れたかは箱をまたあけない限りわからなくなってしまう。

単行本に分類されるだろう本もかなりある。(ここでの単行本は逐次刊行物でないという意味であり、文庫本や新書本も含む。)

単行本については、わたしは1999年以来、買ったときに、著者名、発行年、出版社など、その本を論文の参考文献としてあげるとしたら必要になるだろう情報のリストを、パソコン上のテキストファイルとして作っている。ただし、買った順に書いているだけで、整理していないし、1冊の本をファイルのなん行であらわすかを統一していないので、冊数を数えることも簡単ではない。検索の準備もできておらず、自分が何かの本を買ったかどうか確かめたいときは、その本を買ったかもしれない年のリストをエディタソフトウェアで開いてその中で文字検索することになる。

わたしは、運よく、職場にかなりの量の本を置く場所をもらえることが続いてきた。ただし最近は、背表紙が見える形で本棚に置ける場所は限られていて、大部分は箱詰めした状態になっている。また、自宅(賃貸アパート)や実家(両親の家)に置いてある本もある。自宅では、(遠からずまた引っ越すだろうと思って)本棚を整備してこなかった自分が悪いのだが、たくさんの平積みの山ができている。そして、自分の所有リストにある本の実物が、職場、自宅、実家のいずれにあるかはほとんど記録されていない。実物をさがそうとするとあちこちの山をさがさなければならなくなっている。図書館でさがしたほうが早いこともある。そういう本は手ばなしてしまって山を小さくしたほうが、残ったものをさがすのも楽になる、という理屈もわかるのだが....

わたしが本をためこむくせがあるのは、専門の研究者としてだけでなく、その周辺のいろいろなことを学ぶ「学者」でありたいという思いからきている。それで、読みきれない分量の本を買ってしまうのだが、いつか時間がとれれば続きを読もうという思いが残って捨てられないことがある。また、大学教員をしていたから、学生そのほかこれから学びたいことがある人たちに勧められる本をそろえておきたいという考えもある。勧められない本は捨ててよいこともあるが、勧められないことを示すためにとっておきたいこともある。

わたしは今は大学常勤ではないが、数年前までの自分の将来計画としては、また大学常勤になることを考えていた。その際に、自分が教えられることのうちならばどれを教えることを求められても対応したいと思っていた。また、自分と専門が近い人がいないところで新たに教材をそろえる立場になるだろうと予想していた。それで、自分の研究者としての専門ではないがそれに近いいくつかの分野の本を、買いたくなるし、捨てたくなくなる、ということが続いてきたのだった。

もし大学常勤になれて、そこの図書館の本を使えるようになれば (さらにできれば、その大学を退職してからも元教員という立場で利用ができる見通しが得られれば)、ぜひ手もとにおきたい少数の本以外は、その大学に寄付しようとも思った。(寄付してからあとどうなるかには口出しできないから、その大学があまり簡単に本を処分してしまうところだと困るのだが。) もちろん、大学図書館も、学者個人ほどではないとしても、収納場所にも管理能力にも限界をかかえているから、無制限に引き取ってくれるわけではないだろう。わたしが候補をあげて実物を陳列し、図書館側の人が引き取るものを判断して、残りはわたしの側で処分する、という流れになるだろうと予想する。

しかし、わたしがこれから大学常勤(あるいは常勤なみのスペースを占有できる非常勤)になる可能性はあまり高くないようだ。こうなると、わたし自身ではなく、どなたか常勤のかたが動いてくださらないと、大学への寄付も進みそうもない。行き先を複数に分ける必要があるかもしれない。行き先別にしわけるために、箱詰めや山積みになっている本をいったん棚にならべてみることができればよいのだが、まずその作業場所を確保することが課題になってきた。

話はいくらでも続けられるが、ひとまず本の内容にはたちいらないで、ここまでにしておく。

2016-05-18

再解析 (reanalysis)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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再解析(reanalysis)とは、もちろん、解析をやりなおすことである。気象の分野でも、この用語がこの基本的な意味で使われることはある。

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しかし、1996年以後、気象の分野で「再解析」はある特定の意味で使われることが多い。そして、他の分野に対して提供される気象データが、この意味での「再解析」の成果、あるいはそれをさらに加工したものであることが多くなっている。したがって、気象以外の分野の人も、気象の分野での「再解析」の意味を(暗記しておく必要はないと思うが)調べられるようにしておく必要があるかもしれない。

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気象の分野での「解析」ということばのいろいろな使われかたについては[2015-04-30の記事]で述べた。「再解析」は、このうちの「客観解析」(objective analysis)から派生したものだ。

客観解析はもともと天気図をつくるという人の知能を使う仕事を機械化することをさしていたが、数値天気予報の初期値を作ることをさすように変わっていった。数値予報の初期値は、観測値と、その前のステップからの予報値を組み合わせてつくる。数値モデルを連続運転しながら観測データをとりこんでいくようなとらえかたもできる。そこで「客観解析」と「データ同化」はほぼ同じ意味に使われるようになり、今では「データ同化」のほうがよく聞かれる。(しかし「再解析」だけは「再同化」のような言いかたは聞かれない。)

気象データの同化は、数値天気予報の初期値を作る目的でリアルタイムに行なわれている。どのくらい「すぐ」なのかはどのくらい先までの予報をねらうかにもよるが、いわゆる中期天気予報で2週間先までの予報計算をするとすれば、観測時刻の12時間後くらいに、それまでに届いた観測報告を入力として初期値をつくることになるだろう。この初期値とするために格子点気象データセットをつくること、あるいはそれでつくられたデータセットを「現業解析」(operational analysis)と呼ぶことがある。

現業解析によるデータセットは、数値予報の初期値とする以外に、現実の大気の状態の推定値として、気象学の研究の材料としても使われてきた。しかし、現業解析は、その目的に対しては、2つの大きな欠点がある。

  • 観測がおこなわれていても、リアルタイムの通報のしめきりまでに数値予報センターに届かなかったものはとりこまれない。
  • 現業の予報のためのデータ同化システム(数値予報モデルや客観解析アルゴリズムを含む)はたびたび改訂される。現業解析でつくられたデータをなん年もの期間にわたって統計処理して長期変動が見られても、それが現実の大気の変動なのか、同化システムの変更に由来するものなのかを区別できないことがある。

そこで、データ同化システムを固定して、なん年もの期間にわたる観測データをとりこんで、格子点気象データをつくるプロジェクトが行なわれるようになった。その際に、現業同化では使われなかった観測値データもとりこむ努力もされた。そのような事業、あるいはそれでつくられたデータセットが「再解析」と呼ばれるようになった。

再解析によるデータセットは、現業解析に比べれば、現実の大気の変動を見るのにじゃまが少ない。しかし、観測そのものをやりなおすわけにはいかないから、観測点分布の変化や観測技術の変化に由来する変化は含まれている。

- 2X [2016-05-19 追加] -

「再解析」という表現が成り立つのは、その対象となる期間の日時について、すでに「現業解析」がおこなわれているからだ。現業解析に対応するもののない分野で、気象でいう再解析と似た事業があっても、それは「再解析」とは呼ばれないだろう。

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再解析によってつくられた格子点気象データセットのことを「再解析データ」と呼ぶ人が多い(わたしもそう言うことがある)。

しかし、再解析の実施にかかわっている人たちはそう言わず、「再解析プロダクト」のような表現を使うそうだ。Dataは語源的には「与えられたもの」だから、再解析をやる人にとって「プロダクト」は「データ」ではないというのはもっともだ。彼らにとってのデータは、同化にとりこまれる観測値データである。

わたし自身は、再解析プロダクトの利用者なのだが、再解析を実施する人々を含む「むら」のメンバーでもあるので、再解析プロダクトを「データ」と呼ぶ感覚と呼ぶべきでないという感覚の間でゆれている。

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「再解析」という用語がこの意味で「気象むら」全体で通用するようになったのは、アメリカのNOAA(海洋大気庁)のNCEP (National Centers for Environmental Prediction、アメリカの現業の数値天気予報をやっている機関である)と、NCAR (National Center for Atmospheric Research、[2015-02-06の記事]参照)との共同プロジェクトである「NCEP/NCAR Reanalysis」のプロダクトができ、それを紹介するKalnayほか(1996)の報告文がBAMS (アメリカ気象学会機関誌)に出版されたときからだと思う。

もちろん、NCEP/NCAR Reanalysis関係者、および並行して再解析を進め1997年に15年ぶんのプロダクトと報告書を出したECMWF (ヨーロッパ中期天気予報センター、[2016-04-01の記事]参照)の関係者は、作業を始めたころ(プロダクト発表の数年前)からその用語を使っていたはずである。(ECMWFではre-analysisのようにハイフンを入れた形を使っていた。)

「再解析」と呼ばれる前にこのような仕事がどう呼ばれていたかも興味深いが、わたしは系統的に調べていない。そのひとつの表現としての「Level 3b data」についてだけはよく知っているが、それに関心のあるかたは1990年に発表した文章「地球環境研究(気候研究)のためのデータの整備に向けて」を見ていただきたい。

- 4X [2016-05-19追加] -

ECMWFとNCEP/NCARの再解析プロジェクトで実現された概念は、Bengtsson & Shukla (1988)の論文(論じる文)で示された。(BentssonはECMWFの所長だった。) この論文では、(PDFファイルが文字読み取りがされていないものなので確認できていないのだが) reanalysisまたはre-analysisということばは まだ使われていなかったようだ。【ただし要旨中に analysis ということばが出てくる。Data assimilation (データ同化)とは区別された概念で、データ同化によって作られた格子点データセットあるいはそれによって表現された気象変数の場をさすようだ。今ならば違った表現をするだろうと思うのだが、要旨の文をそのままにしてこの単語だけを何かに入れかえればすむものではないようだ。】

文献

  • L. Bengtsson and J. Shukla, 1988: Integration of space and in situ observations to study global climate change. Bulletin of the American Meteorological Society, 69: 1130-1143. DOI: 10.1175/1520-0477(1988)069<1130:IOSAIS>2.0.CO;2
  • Eugenia Kalnay, Masao Kanamitsu, R. Kistler, W. Collins, D. Deaven, L. Gandin, M. Iredell, S. Saha, G. White, J. Woollen, Y. Zhu, A. Leetmaa, R. Reynolds, M. Chelliah, W. Ebisuzaki, W. Higgins, J. Janowiak, K. C. Mo, C. Ropelewski, J. Wang, Roy Jenne and Dennis Joseph, 1996: The NCEP/NCAR 40-Year Reanalysis Project. Bulletin of the American Meteorological Society, 77: 437-471. DOI: 10.1175/1520-0477(1996)077<0437:TNYRP>2.0.CO;2

2016-05-17

デマ (2) デマゴーグがいると主張できないときは「流言」としよう

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「デマ」ということばについては[2013-09-13の記事]で論じた。このことばは、鋭い意味(狭い意味)と鈍い意味(広い意味)で使われるが、話す側と聞く側の使いかたが違うと、無用の敵対感情をもたらしてしまうことがある。

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このことばを「事実に反するうわさ」ぐらいの鈍い意味で使うのは、やめたほうがよいと思う。

鋭い意味、つまり、デマゴーグ(扇動者)と呼ばれるのにふさわしい人がいて、その人が意図的に発信している、事実に反するうわさ をさす場合に限って使うべきだと思う。

(その場合でも、「デマ」を発信している人すべてをデマゴーグとみなしているわけではない。発信している人の大部分は、デマゴーグの言うことを事実だと信じて、しかも重大だから多くの人に伝えなければいけないと思っている人々だろう。また、デマゴーグが最初にうわさを作り出すとは限らず、別の(おそらく善意の)人から出てきたうわさを増幅することもあるだろう。)

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仮に「事実に反するうわさ」と書いてみたが、必ずしも、そのうわさは偽であり、その否定が真であるという状況とは限らない。いろいろな状況があると思うが、ひとまず理屈で考えてみると、次のような場合が含まれると思う。

  • 実際は偽だが、うわさでは真だとされる場合。
  • 実際は真偽が不確かだが、うわさでは確かな事実だとされる場合。
  • 実際はささいな問題だが、うわさでは重大な問題とされる場合。

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「デマ」ということばが鈍い意味でよく使われるのは、たとえば「事実に反するうわさ」では表現が長すぎ、「うわさ」では対象が広すぎるからだと思う。

何か、代わりの表現が必要なのだ。

少し検索してみると、「流言」という表現がある。

川村(2002)は、廣井(2001)による「流言」と「デマ」という用語の使い分けを次のように説明している。

著者は、流言とは「社会に流通する、虚偽の情報ないし誇張された情報」であり、デマが「意図的に仕組まれた情報である」のに対して流言は「人々のあいだから自然発生的に生れた情報が、関心をもつ集団のなかで広がっていく現象」である点でこれと異なるとする。

わたしも、これに合わせるのがよいと思う。つまり、デマゴーグというべき人が発信源(の重要な一部)になっていることを示せない限り、「デマ」と言わずに「流言」と言うのがよいと思う。(わたしはこれまで「流言」ということばを使ってこなかったので、自分も習慣を変える必要があるのだが。)

文献

  • 川村 仁弘, 2002: (書評)「流言とデマの社会学」(廣井 脩 文春新書 文藝春秋)。21世紀社会デザイン研究 (立教大学), 1: 173-175.
  • 廣井 脩, 2001: 流言とデマの社会学 (文春新書)。文藝春秋。[わたしはまだ読んでいない。]

2016-05-16

オリンピック問題 (2) 近代オリンピックの制度に無理がきていると思う

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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オリンピックそのものについて、このまま続けてはまずいのではないかと思うことが、いろいろある。

【しかし、わたしのオリンピックや各競技に関する知識はとても断片的だ。1960年代の小学生のころに、子ども向けのオリンピックに関する本や功労者の伝記などを読んだ。また、おとな向けのスポーツのルールブックをよくわからないままながめた。あとは、ときどき、関心がなくても逃げられないほどその話題があふれたときに新聞やテレビから情報を受け取ってきた。そして、いま、ウェブ検索をして、Wikipedia記事などをながめている。だいたいそれだけだ。だから、ここで述べることがまちがっている可能性はかなりあると思う。】

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第1に思うことは、オリンピックに限らないのだが、(各時点での)世界の頂点をめざして少人数の選手を訓練することが、(見るスポーツとして多くの人の娯楽になりうることは別として) 多くの人の体育あるいはレクリエーションとして有効な自分でからだを動かすスポーツの振興につながると言われるけれども、それはほんとうか、という疑問だ。

選手用も大衆用も同じものが使えるならば、選手用をきっかけとして、競技の道具とか、競技実施のノウハウとか、競技の中での技とか、トレーニングの方法とかが発達することは、大衆のためにもなることがあるだろう。

しかし、頂点の選手に必要な技が、大衆にはまねができないものばかりになり、選手の使う道具が、大衆には値段が高すぎるものになってしまうならば、選手のスポーツと大衆のスポーツとは無縁になっていくだろう。

また、資源を奪いあうことになるかもしれない。たとえば、ひとつの運動場を、選手の訓練のために占有することによって、一般の生徒が放課後に自主トレーニングをする機会が減るかもしれない。

国の予算の配分としては、大衆のスポーツに向けるものを、選手のスポーツに向けるものよりも優先して考えるべきだと思う。

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第2に、オリンピックは国境を越えた人々の連帯感を強めるのに役立つのか。

近代オリンピックが、古代ギリシャオリンピア競技の故事にならって、1896年アテネで始められた事情を見ると、国際平和に役だつという期待があったように思われる。

19世紀、世界は国民国家に分割されていった。土地も人も原則としてひとつだけの国に属することが明確になっていった。そして、国と国のあいだで、ささいなことから戦争が起きる可能性があった。

そこで、ちがった国の人が集まって戦闘ではない何かをいっしょにやる機会をつくるべきだと考えられたのだろう。さらに、競技別の大会では顔をあわせる国が限られがちなので、多種類の競技をやることによって、多くの国の人が顔をあわせるのがよいと考えられたのだろう。

選手がそれぞれ国籍を示すことは、必要なのかもしれない。

ただ疑問なのは、チーム競技の場合に、国別にチームをつくって、国どうしの対抗に見える形にすることが、適切なのかだ。近代オリンピックの初期にはそうする必然性があったとしても、今もあるのか。慣例にとらわれずに考えてみたほうがよいと思う。

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第3に、商売との関係。

近代オリンピックの初めから1970年代までは、オリンピックはアマチュアスポーツの大会であり、プロは除外する、という原則がはっきりしていた。なぜそうなったのかは、近代オリンピックの初めごろのプロスポーツの状況をよく知らないと論じられない面もあると思う。しかし、近代オリンピックを始める中心となった人々が、お金に不自由していない貴族や有閑ブルジョアだったということはたぶん言えるだろう。そのなごりは今もある。IOC (国際オリンピック委員会)の委員には、あちこちの王族が含まれている。そのみんなではないが多くがもと馬術の選手だそうだ。

しかし、とくに1950年代以来、ソ連などの共産主義国では、国営企業労働者という形だが、競技に専念できる選手が出てきて、よい成績をおさめた。資本主義国でも、企業が(宣伝などの効果をねらって)選手を社員として雇いながら競技に専念させる場合もあった。国の代表チームの強化訓練には国が資金を出すこともある。アマチュアの意義はよくわからなくなってきた。

国の関与は強まっていくかに見えたが、1984年ロサンジェルス大会では、アメリカ国民が税金から大会運営資金を出すことを嫌ったので、資金稼ぎのための商業化が進んだ。おもなもののひとつはテレビ放映権、もうひとつは公式スポンサー制度だった。また、このころから、プロ選手をこばむ理由はないと考えられるようになった。ただし具体的なルールの変更は競技ごとに違ったペースで進んだようだ。

このごろ、(詳しい議論を追いかけきれていないが)、この商業化がもたらす弊害が現われているように思う。

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第4に、規模の拡大。

第2次大戦後、旧植民地の多くが独立国となり、オリンピックにもそれぞれ参加するようになった。

それとともに、競技の種類もふえてきた。日本も、柔道や野球を加えることを積極的に働きかけてきた。

また、男女同権の考えが高まってきたのを受けて、男子だけだった競技の多くが、男子・女子それぞれの競技をするように変わってきた。

対象とする競技の範囲についてはたびたび見なおしがある (たとえば野球は含まれたり含まれなかったりする)。

それにしても、これだけの数の競技を同じ主催都市で引き受けるやりかたが持続可能なのか、考えなおすべきだろうと思う。

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第5に、汚職の問題。

最近のニュースによれば、開催都市の決定過程が、贈収賄によって影響された疑いがあるようだ。

もっとも、IOCは政府間機関ではなく、委員や職員公務員ではないので、収賄罪は成り立たないのかもしれない。それでも、もし、個人(あるいは相対的に個人に近い側の団体)に得になるという動機で、IOCの判断を傾けたとすれば、IOCに対する背任を問われる可能性はあるだろう。

近代オリンピックの初期からかかわっていた国の人々が清廉というわけでは必ずしもないが、文化の共通性が高かったので規範がたもたれていた面はあると思う。世界の多くの国が参加するようになり、そのうちには(残念ながら)公務員の汚職が横行している国もある状況で、組織の規範を共有していくのはむずかしい課題だと思う。

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わたしのしろうと考えをまとめると、120年をこえた近代オリンピックの制度に無理がきており、いったん休んでオーバーホールするべきであり、もしかすると終わらせたほうがよいかもしれないと思う。

とくに、すべての種類の競技を含めるのが無理なことはすでにわかっているが、すべての国際的に重要な競技を含めようとするのもあきらめて、いくつかの競技群に分散してそれぞれに適した土地で開いたほうがよいと思う。