Hatena::ブログ(Diary)

macroscope

2015-03-25

天下分け目

西暦1600年。関が原の戦いは、天下分け目の戦いとなった。つまり、10年前にやっと統一された日本が、今度は東西のふたつに分かれてしまったのだ。小早川勢が予定どおり西軍につけば西軍、東軍に寝返れば東軍が有利だと見積もられていたのだが、彼らは結局戦いに参加しなかった。そこで戦いは引き分けとなり、関が原はそのまま事実上の二国家の国境となったのだった。むしろ、古代の不破の関が復活したというべきだろう。愛発(あらち)の関、鈴鹿の関と合わせた三関線によって、日本は「関西」と「関東」に分かれたのだ。(ここで、「関西」は四国九州も、「関東」は中部・東北も含む意味で使われている。) 皇室は両方から尊重され、中立地帯となった伊賀盆地に本拠を置くことになった。

関東では、徳川家康江戸に本拠を置き、天皇から「征夷大将軍」に任命されて、「幕府」という名の平時軍事政権をうちたてた。幕府は、外国貿易を認可制とし、認可する対象をしだいにきびしくしぼりこんだ。また幕府はキリスト教を禁止した。幕府は三関線で、武器、外国人、キリスト教徒が関東にはいることをきびしくとりしまったが、出ることに関してはきびしくなかった。関東のキリスト教徒は関西に移住することができ、流血は少なかった。伊達政宗ローマ派遣した支倉[Faxecura]長経(常長とも)も、仙台に帰らず大阪に住んだ。

関東での書きことばは、漢字かなまじり縦書きの日本語であり、江戸や名古屋などで木版印刷の出版がさかんになった。

関西では、豊臣家、諸大名、堺をはじめとする都市の商人、キリスト教勢力、仏教神道勢力などが、群雄割拠する状態となった。関東との間には関所があったが、海外との人や物の行き来には人為的制約はなかった。関東からの移住者と外国人を含めてキリスト教徒は人口の3分の1をしめた。キリスト教会は、キリシタン大名からの寄進などにより、領地を持った。ただし、イスパニアポルトガル同君連合であったにもかかわらず不和であり、ポルトガル政権に近いイエズス会とイスパニア政権に近いドミニコ会フランシスコ会などとは協調しなかったため、30年ほどの間は、キリスト教勢力の政治力はそれぞれの教会領地だけにおよぶものだった。

163X年、イスパニアは「日本副王」を派遣してきた。その趣旨は、たてまえとしては、日本を征服することではなく、関西じゅうにモザイク状に分布したキリスト教会の領地を統治することだった。彼はイスパニアの貴族だったが、ポルトガル語に近いことばを話すガリシアの出身であり、たくみにイスパニア勢力とポルトガル勢力をまとめた。副王の政権は、関西で最強の勢力となり、その他の勢力をつぎつぎに保護下に置いた。関西は、完全な植民地ではないものの、半植民地化された、と言える。

しかし1640年、ポルトガルがブラガンサ家の王をたてて独立し、同君連合が解消した。またイスパニアから事実上独立していた(承認は1648年)オランダからの船団もますます大がかりになってきた。イスパニア勢力とポルトガル勢力、カトリックプロテスタント、西洋人と日本人との争いを、副王の政権は調停できなくなった。これを機会として、関西はイスパニアからの独立をとりもどした。副王は、イスパニア・ポルトガルのどちらに従っても他方を敵とすることをおそれ、日本の天皇に忠誠を誓った。関西の統治には引き続き彼の働きが必要だった。天皇は彼を関白に任命した。彼はVirrey del Japonと称しつづけたが、その意味は、イスパニア王の副王から、日本の天皇の代理者に変わっていた。関西には、同時代の西ヨーロッパ諸国と似た国家体制が構築された。

関西の公用語は日本語だが、書きことばは関東とは大きく違うものになった。天下分け目以前にも天草[Amacusa]にイエズス会の出版所があったが、その後、他のキリスト教会や商人も、関西のあちこちで欧文の活字印刷を始めた。日本語も、関西ではローマ字で書かれるのがあたりまえになった。ローマ字のつづりかたは、天草本で使われたものが採用された。これはポルトガル語に近いつづりだが、イスパニア語の話し手も、同じ語のつづりは統一したほうがよいと判断し、イエズス会の実績を尊重したのだ。(ただし、のちに、いわゆる「開合」の発音の区別が消滅したのに伴って、「o」の上にのる谷形と山形記号は、山形に統一されることになる。) 日本語の文章中に、外来語も、とくに文字を区別することなくまぜられた。漢字を書かないと区別できない単語は使われなくなり、やまとことばから組み立てるか、ラテン系言語からの外来語を使うようになった。

【この文章の内容が実話である世界では、この文章は天草式ローマ字で書かれ、語彙にはラテン系言語由来の外来語がまざっているはずである。】

2015-03-17

アイウエオ、カキクケコ

唐の元和元年(日本の延暦25年)、明州(のちの寧波)の港町で、空海は迷っていた。前の年に日本に帰る遣唐使を見送って、空海は唐に残った。ところが遣唐使の船のひとつが難破して乗員が唐に遅れて来たので、彼らのための帰国船がしたてられていた。空海に、20年間の留学を2年間で切りあげて日本に帰るという選択肢が生じたのだ。

空海には、仏教を深く勉強したいという思いと、それを日本の人々に広めたいという思いがあった。深く勉強するためには、予定どおり20年間、唐に残るべきだ。しかし20年後に遣唐使の船が来る保証はない。一生を唐ですごすことになり、日本の人々には貢献できないかもしれない。ほかの船で帰る可能性はあるとはいえ、きびしく言えばそれは違法なので、処罰されて、仏教を広める立場に立てなくなるかもしれない。留学期間短縮も約束違反なのだが、自分がこれまでに得た知識の目録だけでも伝えれば、朝廷もその重要性を認めるはずだから、とがめられないですむ可能性が高そうだ。空海は、帰国の船に乗る決断を、もう少しでかためるところだった。

ところが、新羅から来た商人と話しているうちに、気が変わった。新羅の商船は唐にも日本にも出入りしている。国際関係がよほど悪くならない限り、新羅経由で帰ることはできるだろう。空海は船に乗るのをやめ、長安にもどった。

空海は、漢文に訳される前の天竺の仏教を知りたかった。梵語(サンスクリット)を学び、天竺から伝来した経典を原文で読む日々が続いた。その寺に、天竺から学識のある僧がやってきた。その天竺僧は、日常生活に関する会話は漢語でできたものの、教理を漢語で説明することはできなかった。教理の議論に使える共通言語は、梵語しかなかった。梵語は書きことばとして成立した言語であり、話すよりも書いたほうがわかりやすいこともある。空海と天竺僧は、たびたび梵字で筆談をした。

空海は、梵字の読み書きの基本を、すでに留学1年めに身につけている。梵字が、梵語の発音母音と子音に分解してあらわしたものだということももちろんわかっていた。しかし、そのとき学んだ経典の地の文は漢文であり、梵字は仏教の教義のうえで重要なことばである「真言」をあらわすところでだけ使われていた。そこで空海は、梵字も、漢字と同様に、発音よりもむしろ意味を表わすシンボルだと思ってしまったのだった。

ところが、筆談をしてみてわかったのだが、梵字は、発音できるかぎり、なんでも書くことができるのだ。

それまで空海は、日本語で思いあたったことを書きとめるのに苦労していた。当時の日本で文字といえば漢字だったから、漢語に訳して書くか、日本語の音に漢字をあてて書くか、しか考えられなかった。ある日、ふと、日本語を梵字で書きとめてみると、漢字で書くよりもだいぶ楽だった。それ以来、空海には、梵字を使って日本語を書く習慣ができた。

日本の天長元年(唐の長慶4年)、予定どおり20年の留学をおえて、空海は日本に帰ってきた。その経路は明らかにされていない。きびしく言うと密航だったのかもしれない。のちに、法力によって空を飛んできたという伝説が広まることになる。

空海は弘法大師となり、日本に真言密教や農地灌漑など多くの知識をもたらした。しかし、弘法大師の日本文化への最大の貢献は、日本語を書くのに必要な梵字を順にならべた「অ ই উ এ ও (a i u e o), ক কি কু কে কো (ka ki ku ke ko), ...」【注】である。空海が留学している間に、漢字の省略形を表音的に使って日本語を表わす「かな」という方法をくふうしていた人たちもいたのだが、その技術が確立しないうちに、すでに完成度が高かった梵字が駆逐してしまった。

西暦21世紀のいま、日本語の文章の多くは梵字で書かれ、機械変換で、インドスリランカネパールブータンチベットバングラデシュミャンマー、タイ、ラオスカンボジアで使われている文字で読むこともできる。逆に、これらの国の言語のテキストを、日本の梵字に自動変換することもできる。もちろん、文字をおきかえたからといって、言語間の翻訳ができるわけではない。しかし、これは、日本語と南アジア東南アジアの言語との両方を使う人々にとっての障壁を低くすることに役だっている。

【この文章の内容が実話である世界では、この文章は梵字で書かれているはずである。】

  • 【注】ここには日本で使われている梵字を示すべきなのだが、代わりにベンガル文字を入れてある。

2015-03-16

東海地方(Donghai Difang)にて

205X年。ここは「大東亜共栄圏」である。ただしニホンゴ読みのダイトーアキョーエーケンは共栄圏公民権停止になりかねない政治的禁句だ。大東亜語言でダードンヤーゴンロンチュアンか、英語でthe Greater East Asian Commonwealthと言わなければならない。

大東亜語言は域内言語別人口で最大勢力である漢語をもとにつくられた。しかし第2勢力であるマレー・インドネシア語話者の強い要請により、声調の区別なし、有気音・無気音でなく無声音・有声音、文字はローマ字とされ、漢語とは別ものになった。

(たとえば、言語の名まえを「なになに語」というときの「語」は漢語では「語(yǔ)」だが、声調にも漢字にも頼れない大東亜語言で「yu」ではわけがわからなくなるので、長い「yuyan (ユーイエン、語言)」という形を使うのだ。)

ここは大東亜共栄圏の東海地方(ドンハイディーファン)である。この地方には日本列島朝鮮半島遼東半島山東半島などが含まれる。ニホンゴ、ハングル、漢語の話者がほぼ同数ずつ混ざっており、いずれの母語でもない大東亜語言で会話している。

中国東海(トンハイ)は日本でいうヒガシシナカイ、韓国で東海(トンヘ)は日本でいうニホンカイ、日本で東海(トーカイ)は太平洋に面した地域の名だった。それをみな尊重して広くそのあたりを東海地方とした。海の名まえはそれぞれつけなおされた。

東海地方では、地方公用語であるニホンゴが使えれば、消費者単純労働者として生きるのにはさしつかえない。役所の窓口も週に少なくとも1日はニホンゴで応対できる人を配置している。ハングル、漢語に対しても同等の待遇がある。

しかし、事業主になったり、高等教育を受けたり、他の地方との間を行き来したりしたいならば、大東亜語言か英語の少なくともどちらかを使いこなせる能力が必要だ。

2015-03-11

日本学術会議の情報学シンポジウム(2015-03-09)、Steve Fuller氏の未来論ほか

- 1 -

2015年3月9日、日本学術会議の講堂で「情報学シンポジウム」があった。これは学術会議第3部の情報学委員会が主催するもので、この形になって第8回だそうだ。(それよりも前から学術会議の情報学シンポジウムというものはあったのだが、それは発表を公募する学会大会のようなものだった。今のものは委員会が企画してゲストを呼んでメンバーとともに議論するものだ。) この回のプログラムhttp://www-higashi.ist.osaka-u.ac.jp/scj/http://www.tkl.iis.u-tokyo.ac.jp/scj/ にあり、どちらも同じ内容らしいが、どちらも情報学委員会のホームページであって、今回のシンポジウムの話題が頭に置かれているのは暫定的にちがいない。

わたしはこのシンポジウムには途中から出席した。喜連川 優 (きつれがわ まさる)情報学委員長(国立情報学研究所所長)による委員会の報告、文部科学省の榎本 剛(えのもと つよし)参事官の講演、IBM ResearchのBrent Halpern氏の講演は聞いていない。

わたしのめあては(SRMGI = Solar Radiation Management Governance Initiativeのメンバーでもあった) Jason Blackstock氏の講演だったのだが、彼はインフルエンザにかかって日本に来ることができなかったそうで、彼がつとめるUniversity College LondonのDepartment of Science, Technology, Engineering and Public Policy (STEaPP)のメンバーでもある(本拠東京大学公共政策大学院の)鎗目 雅(やりめ まさる)氏によるBlackstock氏の材料を使った講演と、科学技術政策を専門とする有本 建男 政策大学院大学教授による補足的な講演があった。話題はおもに「科学技術イノベーション」と「公共政策」とにまたがる、世界、とくにヨーロッパで進められている活動のレビューだった。Future Earthの文脈でも話題になっているtransdiciplinary researchあるいはco-designというキーワードも出てきた。SRMGIもそれに含まれるかもしれないが、直接の言及はなかった。

- 2 -

Steve Fuller氏の講演は、当日示された題名によれば、Homo Futura – A Roadmap for the Fork on the Road for Humanity というものだった。(著者のウェブサイトhttp://www2.warwick.ac.uk/fac/soc/sociology/staff/academicstaff/sfuller/media/audio の(2015-03-11現在) 100番に、音声ファイルと、スクリーンで示された文章のファイルが置かれている。わたしは文章のファイルだけダウンロードして見なおしている。) この内容は、この日のほかの話題からは「ぶっとんで」いたと思う。

ただし、他の人の話に、Kurzweil氏の "singularity" というキーワードが、断片的に出てきた。わたしはその内容を勉強していないが、暫定的に「情報技術の進展を人間が制御できなくなること」だろうと思っている。シンポジウム主催者がFuller氏を呼んだ理由を聞いていないが、たぶんこのsingularityに関連する文脈で、Fuller氏の最近の著書 Humanity 2.0 (わたしはまだ見ていない)に注目したのだろう。(科学技術社会論者のFuller氏に知識生産の体制を論じてもらおうとしたのではないようだ。学術会議全体の企画でこの人を呼ぶならば依頼内容はそちらになっただろうと思うのだが。)

Fuller氏の話の主題は、人類はこれからどうなるか、また、人間をどう変えていくことをめざして科学技術の開発を進めたらいいだろうか、ということだった。その際に彼は、人間も生物であるという立場と、人間がもつ他の生物と違った特性を重視する立場とを区別して考える。前者ならば、病気を減らすなどの、人体の健康をよりよくすることが重要になるだろう。しかし後者ならば、生物としての人体はどうでもよく、人間の思考が(例として言っているのだと思うが)シリコンでできた情報媒体の上で続けられることのほうが望ましいかもしれないのだ。参考例として、1900年ごろ、おもな乗り物は馬であった。そこから、馬の品種改良と、乗り物という機能をもつ新しいもの(自動車)の発明という道があり、勝ったのは後者だった。そして、すでに現代人の多くが、人と顔を合わせるよりもむしろインターネット経由のコミュニケーションに時間を使っていて、ネットのむこうに人がいるか人工知能がいるかは重要なちがいでなくなっている。Fuller氏は、人類の将来についてはまだ決めかねているようではあるが、どちらかというと人体とは別の形で思考が生き続けるほうの道、あるいは両方の道の折衷であるサイボーグ的なもののほうがありそうだと思っているらしい。

今回直接には話題にならなかったし、会場にいた人の大部分は知らなかっただろうと思うが、Fuller氏はIntelligent Design説を支持する議論をしたことがある[Fuller氏の2008年の本Dissent over Descentに対するわたしの2014年のメモ]。今回の話でも、人間の他の生物との類似性よりも違いのほうを強調するところは、Darwin進化論よりもID説のほうに親しいところがあるように思う。人類の次の段階(それが生物ではないとしても)への進化のようなことを考えるところはID説とは違うだろうと思うが、Dissent over Descentに出てきた、人類が設計者の役割の一部を代行するのだという考えでつながるのかもしれない。

Dissent over Descentで(おそらく他のところでも) U.S. National Academy of SciencesやRoyal Societyなどのestablishmentが学術政策を決めているような体制は破壊すべきだと論じたFuller氏ならば、日本学術会議や総合科学技術イノベーション会議も許せないはずなのだが、講演中にはそれをにおわせるような発言はなかった。

- 3 -

あとのパネル討論は、日本国の「総合科学技術イノベーション会議(CSTI)」(「総合科学技術会議」から変更された)で原案づくりが進んでいる、2016年から5年間の「第5期科学技術基本計画」の中で、情報科学技術はどのように位置づけられようとしているか、また各パネルメンバーはそれをどのように位置づけてもらいたいか、という、行政的には「中期」だが人類文明からみればごく短期の、情報科学技術政策としてみれば総論的だが哲学的問題に比べれば即物的な話だった。

イノベーションということばはいろいろな意味がある。Blackstock氏・鎗目氏だけでなくおおぜいの講演者のプレゼンテーションの中にGrand Challengesということばでまとめられる問題群があり、そのうちにはsustainabilityもあった。わたしは、人類社会を持続可能にしていくために生産・消費を含めた社会のしくみをつくりかえていくことが、日本社会のイノベーションの重要な部分になるべきだと思う。しかし、Blackstock氏・鎗目氏は別として、パネル討論のどの講演者もそのようにとらえているとは思えなかった。(本人はそれを進めるべきだと思っているが、それは科学技術基本計画でいうイノベーションとは別だと考えている、という可能性もあるが。)

むしろ、資本主義経済をさらに成長させようとする自民党政権のもとで(民主党政権だったとしても大差ないかもしれないが)、イノベーションというのは、資本主義の大きな枠組みは変えないまま、その中で、これまでになかった種類の財・サービスを持ちこむことによって市場のscrap and buildを起こし、勝者・敗者が生じ、勝者のところに富が集積することになるが、ともかく経済規模が大きくなればよいのだ、というように認識されているのではないかと思う(この表現はそういう認識が嫌いなわたしによるひやかしを含んでいるが)。

情報技術、とくに、いわゆるビッグデータの動きは(この表現が適切とは思えないことはたなあげにすれば)、確かに財・サービスを変容させると思う。しかし、たとえ個人情報保護をしっかりやったうえでその問題のないデータをだれでもアクセスする権利をもつオープンデータとしたとしても、現実にデータを扱う能力は平等でない。それを使って得ができるのは行政と大企業であり、庶民にとっては(もし自分では活用できない自分に関するデータを行政や大企業に「活用」されることが損でないとしても)たいした得にならないのではないか、したがって情報技術は社会の格差を拡大させるのではないか、という心配をする人は、わたしに限らず、今の日本社会にはかなりいるだろうと思う。

しかし、この日はそんな話題は出なかった。パネラーの顔ぶれを見れば、CSTIの議員として出席した中西宏明氏は日立製作所の経営陣の一員である(そのことは明示されており講演でも日立の立場の発言もあった)ほか、研究資金提供機関である科学技術振興機構の理事長の中村道治氏は日立、学術会議として基本計画に対する意見をまとめた委員会を代表して出席した土井美和子氏は東芝で、それぞれ研究開発とその部門の管理職をしてきた経歴がある。おそらく大企業以外の主体に対する悪意はなく無意識でだったと思うが、大企業(と、ベンチャー企業のうち運よく成功した者)にとっていいことが社会にとっていいことであるような価値観による議論になっていなかっただろうか。

パネル討論中の具体的な問題で記憶に残ったのは、まず、科学技術基本計画の中での情報技術の位置づけだった。過去にはひとつの重点分野とされたこともあったが、現行の第4期では重点が「ライフイノベーション」と「グリーンイノベーション」にしぼられたため情報技術のかげが薄くなってしまった。第5期ではもう少し強調されることになりそうだ。ただし、単純に分野のひとつに数えるのではなく、むしろ、他の全部の分野を支える基盤として位置づけることがすでに考えられているらしく、パネラーもそれが望ましいとしているようだった。

この議論についてはわたしももっともだと思う。ただし、科学技術行政の指針として使われる場合には注意が必要と思うことがある。それは、将来(たとえば20年後)の社会基盤になる可能性がある情報技術の先端的研究と、他分野の研究を今からの5年間に進めるための基盤として使える情報技術とは一致しないということだ。どちらも情報技術ではあるが、前者は情報技術の研究として予算をつけ、後者は他分野の科学技術研究として予算をつけたうえで既存の技術による財やサービスを使う(多くの場合はすでに商品となっているものを購入する)必要があるだろう。前者の研究の過程で他分野の人に試験的利用者になってもらうことはあるだろうが、それは他分野の振興にとっては副次的なものになるだろう。この日は、情報技術を使いたい他分野の立場から発言する人はいなかったので、こういう論点は出なかった。

また、基本計画の案では、従来よりももう少し「人材育成」に重点が置かれるらしい。これもわたしも望ましい動きだと思う。しかし、わたしの見た限りでそれは「若手研究者」の問題とされていた。若手でなくなった人はどうなるのか。しかも、科学技術行政での若手人材育成の話題は、研究リーダーになる少数の人を発掘して育てることばかりに注目しがちだ。しかし、リーダーの下で働く人の数は将来のリーダー候補よりも多いだろうし、リーダー候補でも結果としてリーダーになりそこなう人もいるだろう。吉岡 斉(1987)『科学革命の政治学[読書メモ]のいうように、科学技術研究を進めるシステムには、物質・エネルギー代謝とともに人の代謝が必要だ。研究プロジェクトで働く人には、研究リーダーになれなかった場合の次の進路が必要だ。もしかすると、情報科学技術の基礎を幅広くしっかり習得した人ならば、中年で研究者あるいは研究現場の労働者としての職を失っても、応用現場の技術労働者に転ずるつもりがあれば、失業したり貧乏に苦しんだりする心配は少ないのかもしれない。しかし、情報科学技術の特定の応用局面に特化してしまう人もいるだろう。結果としてその局面の設定が社会の求めるものとずれていることがわかったり競争相手の技術に負けてしまったりした場合に、そういう人が行き場を失う心配は、かなり大きいのではないだろうか。

2015-03-06

国立・公立研究機関は「技術営業」に力をいれる必要があるだろう

公的研究機関でも、技術開発をしていて、その技術が商品化できる場合には、そうすることが求められることが多い。ただし公的研究機関自身は商業活動ができないから、民間企業に技術移転することになる。その代償をもらうのか、もらう場合は担当した機関、働いた個人、出資者の取り分はどうなるのかという問題もあるだろう。

しかし、わたしの知っている専門分野の研究機関(複数)では、そういう状況はあまり起こらない。基礎科学だけでなく応用といえる仕事もあることはあるのだが、実用までにはまだ別のところでの技術開発が必要であったり、技術が実用化されるとすれば主体は公共部門だろうと予想されるものであったりして、「商品化」に向かう展望はえがけないのだ。そうすると、研究機関内の業績評価は、基礎研究としてのものが中心となり、専門分野の学術雑誌に論文を出すことがまるで唯一の目的であるかのような言動が支配しがちになる。

【わたしは、そのような研究機関にいながら、専門の論文になるような仕事をする習慣や意欲を失ってしまった、なさけない存在であり、これから書くことも、いくらかは、自分の態度の言いわけ、という面もある。しかし、自分の処遇のことなどかまわず、わたしの所属機関を含む公的研究機関がどんな仕事をすべきか、と考えても、次のような主張をしたくなるのだ。】

基礎科学の研究機関が求められている仕事は「知識の生産」とみなすこともできる(これを唯一の定義のようなものとみなすべきだとは思わないが)。ところが、現状では、多くの基礎科学研究者は、かなり狭い専門分野の同僚にだけ理解できる専門知識を生産している。それだけでは、専門の外から見れば、知識を生産するという社会に対する約束を果たしているとは言えないのではないか。もし、世界のどこかで、その分野の基礎科学を理解できる人がその成果を応用研究、さらには技術開発に使って、その技術が実用になれば、確かに社会への貢献になるのだが、それには時間がかかるので、研究者の人事評価や研究機関の業務評価のサイクルの内には間に合わないだろう。

その専門分野の研究成果とその背景を理解できる人々のだれかが、その内容を、より広い人類共有の学術知識につながる形で提示して、はじめて、人類にとって知識生産がおこなわれたことになるのだと思う。その提示の際には、だれかに対して対話型で提示して実際に理解してもらえるか確かめながら提示のしかたを改良することや、他分野の知識の記述を参照して相互のつながりを読者にわかるように表現しなおすことなどの努力も必要となるだろう。

この提示しなおしをする人は、研究機関とは別の機関に属していてもよい。たとえば大学教員が学生に対する授業の教材を兼ねて社会に向けた提示材料をつくるのもよいかもしれない。

しかし、研究機関自体にいる研究者のうちにも、その仕事ができる人がいるはずで、そういう人には、狭い意味の研究(専門分野内の人に理解できる知識の生産)の時間を減らしてでも、社会に向けた知識の提示に時間をさいてもらったほうがよいこともあるのではないだろうか。同じ研究職として雇われている人のうちでも得意不得意があるので、時間配分は人によって違ってよいと思う。機関の業務のうちで優劣はつけず、どちらの仕事にさいた時間も同格とするのがよいと思う。機関には、国または地方自治体税金からの予算配分を維持したい(できればふやしてほしい)という意志があるはずだが、それならば、直接の監督官庁や評価委員が見るスコアだけでなく、なるべく多くの納税者に生産された知識を還元することは、本来業務の重要な部分のはずだ。

もちろん現状でも、機関には広報部門がある。しかしその運営はふつう、広報専業の職員が、研究者から聞き取りをして広報物の形を整えることに限られがちだ。広報物のうちには、その専門分野を教える大学教員が教材として使いたくなるような質のものもあることはあるが、多くのものがその質になるためには、専門研究者に本務の業績になりうるものとして時間をさいてもらうべきだろうと思う。

研究機関の利害としては、次の研究プロジェクトの予算をとってくる必要がある。その際に、研究プロジェクトが成功すれば(研究機関とは別の主体によるものを含めて)どのような応用が可能かといった展望を求められることもある。(研究は失敗することもあり、へたに安請け合いするわけにはいかないが。) 同業研究者の評価だけを考えてものを読み書きしている研究者だけでは、応用の展望に気づかないことがある。他方、研究の現場にいない企画担当者だけでは、現場の困難を理解しないまま無理な構想をたててしまう心配もある。

製造業会社で使われる用語をまねして言えば「技術営業」が必要なのだと思う。研究がうまくいって技術に結びつけば使いたいと言ってくれそうな人たちをさがして、研究の現状を提示し、このさきどのように進めれば使いものになるかを考えてもらう仕事もある。研究資金を出してくれそうな国の役所などに、研究が(既存の計画に書いたもの以外に)どんな応用にむすびつく可能性があるか、そのためには研究の進めかたにどのような変更が必要か、を説明する仕事もある。そして納税者を含む一般の人々に説明するとともにどのように提示すれば支持が得られそうかをつかむ仕事もある。

【[2015-03-11補足] そういう営業活動では、科学技術の先端のまだ不確かなところやまだ実現されていないところと、行政マスメディアで話題になっているキーワードとを表面的に結びつけた話題提供のしかたがありがちになる。とくに、目的が、いま先端とされるプロジェクトの成果を認めてもらうことや、次に先端とされるプロジェクトの提案であり、しかも時間や紙面が限られている場合には、(わたしから見ると腹立たしいことだが) その役まわりのかたはそうするしかないことも多いと思う。

しかし、先端の話題を聞き手・読み手がほんとうに理解するためには、背景知識が必要だ。それはすでに専門分野の入門者向けの教科書のようなものには書かれていることが多いだろうが、専門の勉強をしたことのない人は糸口としてまず何を見たらよいかもわからないことが多いだろう。わたしは、「技術営業」の人には、求められたときには背景知識を説明できる用意が必要だと思う。相手がどれだけ時間をかけられるか、また、相手がそれまでにどんな関連の知識をもっているかによって、説明のしかたも詳しさもさまざまになるだろう。それに応じることは、先端の研究に劣らず[「専門的な」というと変かもしれないが]プロフェッショナルな仕事といえるだろう。さらに、その背景知識を説明に使いやすい形に用意しておく仕事もある。研究機関はそういう役まわりに職員の労働を配分する必要があると思う。説明する役とその材料を用意する役を一括するか別々の役割として位置づけるかは機関ごとの判断によるだろう。】

理想的には、社会から求められる知識の提示の仕事と、研究機関の生き残りのための技術営業の仕事とは、ほぼ同じになるはずだ。しかし、機関が推進しようとする研究内容に対して、社会のかなりの部分の人たちが「研究を続けて得られるだろう技術が実施されることは社会にとってむしろ有害である」と判断するような状況もありうる。そのような場合には、両者のあいだには深刻な対立がありうる。研究機関とは独立な立場でその言動を評価する人も必要になるだろう。