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2016-07-08

「ケッペンの気候区分」を引退させてそれに代わるものを考えよう (気象学会予稿)

[2015-01-17の記事「『気候区分』をたなあげにして、気候を連続量の集まりでとらえよう」]と基本的に同じ趣旨なのだが、日本気象学会の2016年秋の大会のセッション気候形成の統合的理解 --気候科学における基礎研究の推進と地学地理教育との連携--」での発表を申しこんだので(そこで実際に発表することになるかは学会の決定待ちだが)、その予稿の内容をここにも置く。ただしHTMLリンクは予稿にはなくここだけのものである。結論はひとつにしぼられず、4, 5, 6節に分散している。

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- 1. 確かにある需要 -

地球上の地域によって、気候が、そのおもな要素をあげれば、寒暖、乾湿、それらの季節的配分が違う。それを、数量で表示するだけでなく、たとえば「熱帯・温帯・寒帯」「乾燥地帯」などの類型としてつかみ、伝える必要がある。

- 2. ケッペンの気候区分 -

日本では、中学や高校の地理で「ケッペンの気候区分」が教えられており、気候の類型としてこれが持ち出されることが多い。Wladimir Köppen (1894-1940)によるものだが、Rudolf Geiger (1894-1981)やGlenn Trewartha (1896-1984)による修正を受けたバージョンもある。日本語による紹介としては矢沢(1989)のものがよいだろう。

各地点について、月平均気温と月降水量の平年値という24個の数値を与えれば、一定のアルゴリズムによって気候型が定まるので、地理に関する情報処理の例題ともなるが、気候の理解につながっているかは疑問に思う。

- 3. 「ケッペンの気候区分は気候区分ではない」-

1970年代ごろ以後、気候学の専門家はケッペンの気候区分を重視しないことが多い。その極端な例は鈴木(1975)である。ケッペンの気候型の境界は、植生の型(その主要構成種の生活形)の分布の境界を気候変数で近似したものだ。鈴木は気候と植生との(また人間社会現象との)関係を論じかったのだが、それには、気候に内在する(植生と独立な)特徴による気候区分を求めることが必要だと考えたのだ。 鈴木が有効な気候区分として考えたのは、世界の規模ではAllisow Alisov (Alissow)による前線帯(気団の境界)の位置とその季節的移動に基づくもの、日本の規模では鈴木自身による冬の季節風時の降水の有無に基づくものだった。

- 4. 地域区分は必要ではない -

しかし、気候に内在する特徴は、必ずしも地域区分に使えるような不連続性をもっていない。そして、気候と植生や人間社会現象との関係を考えるには、気候を、区分でなく、気温や降水量などの連続量のまま扱うことも可能だ。

- 5. 気候に内在する要因による区分の候補 -

  • (a) 大気大循環の観点からは、地球を、ハドレー循環に支配される領域と温帯低気圧(傾圧不安定波)に支配される領域に大別できる。中村ほか(1986)は、その境界が季節とともに移動するという観点による地域区分を示している。
  • (b) 無降水の状況がどのくらい長く続くかによる地域区分が可能かもしれない。ただしどのような期間で無降水を認定すべきかの問題が残る。 Eguchiほか(1986)は世界のある1年間の旬単位の無降水域の分布を記載した。
  • (c) 陸面の雪氷の有無とその季節変化による地域区分が可能かもしれない。

- 6. 植生分布を制約する気候条件 -

植生分布を制約する気候条件については、ケッペン以後多くの研究がある。Masuda (2000)はその時点で知られているものの整理を試みた。研究者によって指標とする変数が違うが、「利用可能なエネルギー(正味放射または生育期の積算温度)」「利用可能な水分」「冬の温度」とまとめられるだろう。光も重要なはずだが野外ではエネルギー要因と区別困難である。「冬の温度」は生物体内の水の凍結と低温による反応速度低下とを区別すべきかもしれない。

ケッペンについては、科学史的な観点で、この問題に挑んだ先駆者としてとりあげるのが適切だと思う。

文献

2016-07-04

道に迷っていた人

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

(比喩的にいえばわたしは今も道に迷っている人だが) 近ごろ、実際に道に迷っている人を助ける経験をした。

ある晩、職場を出て近くの交差点のところを歩いていると、別の方向から歩いてきた人がいた。軽くあいさつすると、道をきかれたようだったが、よく聞きとれなかった。ききかえしてみると、S というところに行こうとしているそうだ。S に行くのならば、Q駅から電車に乗って、R駅で乗りかえるのがよい、と説明した。S に向かうのに、どの駅からどの線の電車に乗ったらよいかをあらかじめ確認していないことがちょっと不審ではあったものの、遠くから引っ越してきた人などの場合にはありうるかとも思った。わたしはちょうどQ駅のあたりで(ひとりで)食事をしようと思っていたところだったので、Q駅までいっしょに行くことを申し出た。

その人はおそらくわたしよりは年上だがわたしの親よりは明らかに若く、70歳代の(変なことばだが役所用語でいう)前期高齢者らしかった。歩く能力はじゅうぶんあり、わたしが加減しないで歩いても遅れなかった。ことば(日本語)を話す能力も不自由はないようだった。(外国語話者のようでもなかった。) ただし、話の内容を聞いてみると、朝から(昼からだったかもしれない)予想以上に長いあいだ歩き続けていたらしかった。道に迷いつづけていたのかもしれない。これでは、Q駅まで送り届けても、ひとりでR駅での乗りかえができるか、またS駅に着いてもそこから目的地に行けるのか、だんだん心配になってきた。

Q駅の前まで来て、その人は手さげ袋の中から財布か何かを出そうとして見つからないようだった。わたしが手さげ袋をちょっとのぞきこんでみると、高齢者デイサービスの連絡帳らしいものがあって、氏名、住所、電話番号が書いてあった (ただし住所や電話番号が自宅のものかデイサービス施設のものかは確かめていない)。その住所の細かい地名はわたしが知らないものだったが、大きい地名は、Qから見てRやSとはちがう方向のものだった。

そうすると、その人は、自分がどこに向かっているかを忘れてしまうような症状をもつ認知症をかかえた人にちがいない。デイサービス施設から抜け出した可能性もなくはないが、ありそうなのは、自宅からちょっと出かけて短時間でもどる予定だったのだが、途中で頭の中の予定が「Sに行く」に変わってしまった、ということだろう。

書かれていた電話番号に電話をかけてみようかと思わないでもなかったが、家族が電話に出たとしても会話が成り立つかどうか不安があった。さらに、その連絡帳が本人のものでない可能性さえあると思った。これは、こういう問題の本職にまかせようと思った。それは警察だろうと思った。

幸い、わたしは交番がQ駅の近くにあることを知っていた。わたしはその人をつれて交番に行った。交番には人がいなかったが、警察署へ直通の電話機があったので、電話をかけて事情を説明し、そこで待つことにした。10分くらいして複数の警察官が到着した。警察官たちは、まず、捜索願いが出ている人の情報と照合しようとしているようだった。わたしは、(わたしの)名まえ、住所、電話番号をたずねられたあと、帰ってよいと言われた。わたしが厚意ですでに数十分の時間をさいたことは明らかだったので、それ以上ひきとめるべきでないと考えられただろう。わたしは予定していた外食に向かった。

そういうわけで、結局どうなったのかは知らない。たぶん、電話で家族または介護専門職の人と連絡がついて、迎えに来てもらうか、警察の人が送り届けることになっただろうと思う。しかし、もう少し複雑なことが起きたかもしれない。

2016-07-02

Eoceneは暁新世ではない

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

地球の歴史の時代は、大きいほうから順に「代」「紀」「世」という階層構造のある名まえをもった期間に分割されている。地球科学に関心のある人ならば「古生代」「中生代」「新生代」は知っているだろう。地球科学のうちの地質学について、専門家でなくても関心のある人ならば、「紀」の名まえは知っていることが多いと思う。(「第三紀」ではなくそれが分割された「古第三紀」と「新第三紀」が標準になったことはじゅうぶん広まっていないと思うが。) しかし、「世」のレベルになると、新生代に限っては地質学のあまり専門的でない文献でも出てくるのだが、地球科学に関心があってもその時期に関心のある人でないと記憶していない人が多いと思う。

わたしは、1970年代から第四紀に関心を持っていたので、新しいほうから、第四紀の「完新世」「更新世」(関心を持ちはじめたころは「沖積世」「洪積世」に代わって新しい標準となる見こみの用語としてだったが)、新第三紀の「鮮新世」「中新世」は忘れないものの、古第三紀の「世」の名まえの記憶はおぼろげになっていた。気象学を基礎とする気候の専門家となって、第四紀よりも温暖な気候の参考例として、「新生代初期」を話題にすることはあったが、その時代を詳しく分けて考えることはないまま来たのだった。

ところが、21世紀になって、「人間が化石燃料を燃やすことによる大気中の二酸化炭素濃度の増加と、それによる温室効果で生じるだろう気温上昇が、これまでに知られた地質時代の気候変化のうちで、異常に速いのだろうか」という話題に関連して、もしかすると同じくらい速い温暖化が起きたかもしれない時期として「Paleocene-Eocene Thermal Maximum (PETM)」が話題になるようになった。Thermal maximum は「温度極大期」あるいは「高温期」でよいだろう。そしてPaleoceneとEoceneは古第三紀のうちの「世」の名まえなのだ。この2つの「世」の全体ではなくて、Paleoceneの末からEoceneの初めにかけての短い時期に激しい気候変化(温暖化とそれの解消)が起きたというのだ。

さて、わたしは、興味をとくに地球科学に向けたのは高校生のときなのだが、その前の中学生のころに、英語の学術用語などの単語の語源に関心を持っていろいろな本を読み、ギリシャ語ラテン語に由来する語の要素について学んでいた。ギリシャ語に「Eos」ということばがあって、明け方の光、あるいはそれの女神をさしていることを知った。【わたしが今つきあいのあるAGU(アメリカ地球科学連合)という学会機関誌の題名にこのEosが採用されている。】日本語ではどちらかというと「あけぼの」(曙)が近いようだが、「あかつき」(暁)と重なるところもあるようだった。この要素は「eo-」という形で複合語になることがあることも知った。

そして、わたしは日本語の地質時代名として「暁新世」と「始新世」というものがあることをなんとなく知っていた。「暁新世」は当然Eoceneの訳語だと思った。そして「始新世」のほうがPaleoceneにあたるのだろうと思った。

しかし、PETMを日本語で紹介するとなると、うろ覚えではまずいので、調べてみた。それで驚いた。古第三紀の「世」は、古いほうから、次のようになっているのだ(左が英語、右が日本語)。

  • Paleocene = 暁新世
  • Eocene = 始新世
  • Oligocene = 漸新世

【なぜこうなってしまったかは知らないが、たとえば次のようななりゆきを想像した。「世」の区分が今のようにかたまる前、PaleoceneとEoceneの区別はなく、どちらの用語も同じ時代をさしていた。そのときEoceneが「暁新世」と訳された。日本で「暁新世」を代表するとされた地層が、その後、「世」が二つに分割されたとき、Paleoceneのほうにはいっていた。... これはわたしの想像にすぎない。】

ともかく、学術用語としてそう決まっているのだから、個人がその意味を勝手に変えるわけにはいかない。

それにしても、わたしと同じようにまちがえる人は多いだろうと思う。

英語の名まえは、国際的な学会のとりきめなので、変えることはとてもむずかしいだろう。

しかし、日本語の名まえは、日本の地球科学者が合意すれば、変えられるのではないだろうか。もちろん、これまでに使われている用語がこれまでさしていたものと違うものをさすように変えてしまうのはまずい。それでも、もし日本の地球科学者がその気になれば、今後「暁新世」ということばを使わないようにすることはできると思う。(過去にそう書かれたものを変える必要はない)。Paleoceneに対応する日本語の用語を変えるのだ。たとえば直訳による「古新世」はどうだろうか。形容矛盾のようだが、その点ではPaleoceneも同様だ。そして、「地球の生物の歴史のうち新しい時代である『新生代』のうちではいちばん古い時期」をさすのだから、実は形容矛盾ではなく階層構造の正しい形容なのだ。

わたしは(まだ)実際に「暁新世」の用語変更を提案はしていない。しかし、提案したいと思いはじめている。

2016-07-01

太陽放射改変を制御することを考えた計算 (Kravitz, MacMartinほか 2016)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

意図的気候改変(geoengineering、気候工学)に関する論文の紹介とコメントの2件め。

Kravitz, MacMartin, Wang, Rasch (2016)の論文を読んだ。Kravitz氏は、気候モデル実験の研究者で、geoengineeringに関する数値実験を多数の気候モデルで同じ条件でおこなう共同研究プロジェクト「GeoMIP」の幹事役として知られる。Kravitz et al. の論文はたくさんあってほとんどはGeoMIPの成果だが、今度のはそうではない。

この論文では、太陽放射改変(SRM、この論文の表現ではsolar geoengineering)をシステム制御の問題と考える。目標変数を観測し、観測値と目標値の差に応じて、強制変数の値を調節することを続けていく。線形制御理論を応用している。(理屈の説明にはラプラス変換が出てくる。わたしはそのあたりを詳しく追いかけていない。)

【GeoMIPを含む他の多くのモデル実験では、強制の与えかたはあらかじめ決めており、目標変数からのフィードバックはかかっていない。】

この研究では、ひとまずSRMの実現方法の問題をたなあげして、地球に正味で入射する太陽放射の量(以下これを「日射量」と表現する)を強制と考え、それを自由に変えられると仮定している。先に出たMacMartinほか(2014)の論文では、強制は全球平均日射量、目標は全球平均地上気温のそれぞれ1変数を扱った。今度の論文でも基本的発想は同じなのだが、多変数にする。具体的には次のとおり。

  • 2×2問題: 強制は北極圏の日射量と南極圏の日射量、目標は、北極圏の地上気温と、全球の降水の緯度分布を表現する1つの係数。
  • 3×3問題: 強制は日射量、目標は地上気温。それぞれ緯度のsineの直交多項式で、0次、1次、2次の項。

気候モデルとして、まず、ESM(地球システムモデル)のひとつであるCESM (Community ESM、NCARが中心となって作ったもののはずだがこの論文ではNCARの名まえを出していない)を使っている。このモデルでは、工業化前のCO2濃度を維持したコントロール実験と、CO2濃度を毎年1%の複利で漸増させた実験がすでに行なわれている。そのCO2漸増の条件のもとで、2×2問題の1変数制御・2変数制御、3×3問題の1変数制御・2変数制御・3変数制御の実験を行なった。目標変数の目標値として、コントロール実験の長期平均値をとったようだ。

このCESMによる実験では、CESMの計算値を真の気候システムの観測値とみなしている。それでは、結果は制御しやすいほうに偏ってしまうだろう。そのことは著者たちも考えていて、CESMによる気候の表現が完全でないことからくる不確かさを評価するための試みとして、CESMによる制御実験で決めたフィードバックパラメータを、別のESM (GISSのもの)に適用した実験も行なった。(わたしには、これで不確かさの評価として充分とは思えないが、それに向かう最初の試みとしては理解できる。)

結果として、制御はうまくいったように見える。

  • 2×2問題では、北極圏の日射量だけを制御するのでは、気温は目標に近いところにとどまるけれども、熱帯の降水帯(ITCZ)の緯度がずれる。しかし、南極圏の日射量も制御すれば、降水の緯度分布も、コントロール実験に近い状態を維持する。
  • 3×3問題では、強制変数と同じ次数までの目標変数を制御することができた。つまり、0次で全球平均の気温の上昇、1次までで気温の応答の南北非対称性(その結果として降水帯の緯度のずれ)、2次までで低緯度で冷やしすぎ・高緯度で冷やし不足という形の偏差を、それぞれ小さくすることができた。

ただし、GISSモデルでの実験とCESMでの実験とでは違ったふるまいをした。2×2問題で2変数を制御した場合、南極圏の日射量はCESMでは増加、GISSでは減少させる必要があった。3×3問題で2変数または3変数を制御した場合、日射量の1次(南北非対称)の項は、CESMでは10年ほど負のほうに拡大してそれから縮小するのだが、GISSでは変化が小さい。わたしは、このことが、現実の気候システムで温度や降水の南北非対称成分を日射量の強制によって制御することがむずかしいことを示唆していると思う。それに比べると、南北対称な低緯度と高緯度のコントラストを示す2次の項のほうが制御しやすいように思われる。3×3問題で、0次と2次の2項だけを制御した実験をしていないのが残念だ。

残された課題として、まず、自由度(実質的な目標変数の数)をどこまでふやせるか、という問題がある。(著者も地域ごとの気候の制御については楽観していないが、わたしの主観的印象では、3変数止まりか、季節依存性を少し追加できるところまでかと思う。)

また、当然ながら、SRMを実現する方法に関する問題も残っている。成層圏エーロゾル注入ならば、ここで考えた気候システムと、注入するエーロゾルの(緯度・高さ・季節ごとの)量から放射強制への連関とが複合したシステムを制御する問題になる。

わたしの感想として、SRMの技術アセスメントをするならば、気候がどのくらい詳しく制御可能かをさぐる研究はもっと必要だと思う。ただし、SRMに関する数値モデリング研究が「気候を望ましい状態に向かって制御する」という発想のものばかりになってしまうとまずいとも思う。

文献

  • Ben Kravitz, Douglas G. MacMartin, Hailong Wang, and Philip J. Rasch, 2016: Geoengineering as a design problem. Earth System Dynamics, 7: 469-497. http://doi.org/10.5194/esd-7-469-2016 (無料公開)
  • Douglas G. MacMartin, Ben Kravitz, David W. Keith and Andrew Jarvis, 2014: Dynamics of the coupled human–climate system resulting from closed-loop control of solar geoengineering. Climate Dynamics, 43: 243-258. http://doi.org/10.1007/s00382-013-1822-9 (本文は有料)

2016-06-30

大学教育を自国語でやるか、英語でやるか

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

- 1 -

日本の大学の授業を、英語でやるべきか、日本語でやるべきか、という論争がある。政府(文部科学省)が英語でやることを奨励しているようだ。それに対して、大学教員をはじめとする学者の意見は、比較的少数の賛成と、多数の反対が見られるようだ。

反対意見の中には、教育は「母語」あるいは「自国語」でやるべきだ、というものがある。その理屈はもっともなところもあるのだが、まず「母語」と「自国語」は同じではない。また、世界のみんなが母語あるいは自国語で高等教育を受けられるわけではない。母語に近い言語あるいは自国語で高等教育を受けられる人は幸運なのだ。その幸運をつぶすことは、もしかすると世界平等にいくらか近づくのかもしれないが、この国で生きていく人を教育するうえでは、もったいないことだ、と考えるべきなのだと思う。

わたしの結論としては、日本の大学は、「英語圏の大学になる」「日本語圏の大学として生き続ける」「英語・日本語を併用してがんばる」のどれかを明確に選択するべきだと思う。そして、国の学術政策として、その多様性を認めることと、大学の目標と自分の目標が合わない教員が異動できるようにすることが必要だと思う。

- 2 -

人間の言語を、どこからどこまでが1つの言語で、どこからが別の言語、というふうに切り分けるのはむずかしい。区別していけば、個人ごとに言語が違うとも言えるし、同じ人でも時期によって言語が違うかもしれない。しかし、お互いに会話が成り立つならば、同じ言語を使っているとも考えられる。(例外的状況はある。たとえば一方が日本語、他方が英語を話しても、おたがいに相手の言語を聞きとれて理解できれば、会話は成り立つかもしれない。) 言語の切り分けは、各国の政治の歴史を背負っていると思う。たぶん、これから述べる公用語がつくられる過程で、それとの差が小さい言語が「同じ言語」とみなされてきたのだと思う。

人は生まれつき言語を扱う潜在能力を持っているようだが、特定の言語(英語とか日本語とか)を使うように生まれついているわけではない。しかし、各人が最初に言語を身につけるときには、言語を身につけようという自覚はなく、身近な人となんとか意思疎通をしようとする、あるいは身近な人の行動をまねることによって、何かの言語を使えるようになるわけだ。その各人にとっての最初の言語を native languageということもあるし、この「身近な人」が母親であることが多いから mother tongue、「母語」ということもあるわけだ。

他方、それぞれの国は、行政や、民主主義国ならば参政権行使のために、公用語を必要とする。それは、ひとつの国にひとつであるとは限らないが、1桁程度の数であることが多い。国の公用語がひとつの場合は「国語」と呼ばれることもある。

母語と公用語との距離は、個人によってさまざまだ。まったく違う言語のこともあるだろう。「同じ言語」とみなされているけれども「方言」と「共通語」の関係にあって、意識的な使い分けが必要な場合もあるだろう。【わたしは、日本語の共通語とほぼ同じ言語を母語としているが、それは、たまたまのことである。】

初等・中等教育で使われる言語は、この公用語と同じであることが多いだろう。公用語と母語が大きく違う人が多いところでは、初等教育(日本でいえば小学校)では、多数の人の母語に近い言語が使われることもあるだろう。しかし、中等教育(中学校・高校)になると、国の公用語または世界の主要言語のひとつが使われることが多いと思う。

大学などの高等教育で使われる言語を考えるうえでは、この、中等教育で使われる言語との関係を、おもに考えるべきだと思う。

- 3 -

学術的知識の言語表現は、「地の文」を基礎として、その上に「専門用語体系」が乗ったものと考えることができる。

ひとまず「学術」として自然科学を念頭においてみると、その専門用語体系は、地の文の言語が違っても、同じ概念体系の表現であり、単語を機械的に置きかえることによって翻訳可能だろう。もし個別の用語が欠けていれば、外来語として借用すればすむだろう。(地の文を構成する日常言語の概念体系はそれぞれ違うので、学術的知識を記述した文章を翻訳することは簡単ではないのだが。)

人文学のうちには、専門の概念体系が文化圏に依存していて、別の言語に翻訳することが困難なものもあるだろう。しかし、「人文科学」という表現が適切な専門分野や、社会科学の場合は、素材は文化圏に依存するところが大きいが、学者が構築した概念体系は別の言語にのせかえることが可能なことが多いのではないだろうか。

学術的知識の地の文を表現する言語は、ある種類の機能が整っている必要がある。その機能を網羅的に述べることはむずかしいが、たとえば、論理を表現できること、仮定を置いての話と現実の記述とを明確に区別して表現できること、などが含まれる。学術を記述したい言語にその機能が不足していれば、それを構築しなければならない。学術を記述するのに必要な機能と、法律を記述するのに必要な機能は、同じではないとしても似ているから、国の公用語となっている言語ならば、潜在的には、学術を記述する言語になることもできるだろう。

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しかし、その言語が実際に学術を記述する言語になるためには、その言語で、教科書、事典類、学術論文などを書く人が、ある程度まとまった人数いなければならない。

商業出版にせよ、公共部門が費用を負担するにせよ、本を出版することは、まとまった数の読者がいないと成り立たない。

言語圏ごとに各専門分野に進む人の比率の違いもあることはあるが、大まかに見て、高度な専門の教材を出版することができるのは、使用人口の多い言語に限られてくるだろう。

日本語は、世界のうちで比較的使用人口が多い言語だから、多くの専門分野で、大学学部レベルの教科書は出版できるけれども、それでも、大学院レベルの教科書は必ずしも出版できず、英語による教科書を使う必要があることもあるだろう。(大学院生専門家にとっても学部レベルの教科書は有用なものではあるが。)

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高等教育の授業で教員が話す言語も、学術的知識の地の文を表現できる言語である必要があるけれども、必ずしも教科書の言語と同じでなくてもよい。

たとえば、教科書が英語であっても、講義を日本語ですることはできる。(その場合、英語の単語が多くまじることにはなるだろうが。) 日本には、日本語で中等教育を受けてきた人が多く、彼らにとっては、高等教育を同じ言語で受けられることは、学術的内容を身につけるうえでつごうがよいだろう。

しかし、日本の大学であっても、広く世界から学生や教員を受け入れようとするならば、必ずしも日本語が最善ではないかもしれない。

専門分野の対象となる地域・文化圏の言語が必要な場合をひとまず別にすると、可能性のあるのは、国連公用語、つまり、英語、フランス語スペイン語ロシア語中国語アラビア語だろうと思う。自然科学の場合は、ほぼ英語にしぼられるだろう(Montgomery, 2013; Gordin, 2015)。ただし、今後、「東アジアの大学」として生きていこうとすれば、中国語を使う可能性も考えておいたほうがよいかもしれない。

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近ごろ、日本の大学の多くが、英語でおこなう授業をふやしてきた。

そのうちには、すべての授業を英語と日本語の両方で用意するという方針のところ(たぶん大学全体の規模ではまだなく「学科」・「専攻」の規模で)もあることはある。しかし、それができるところは少ない。授業の材料を2つの言語で用意するには、1つの言語で用意する場合の、2倍とは言わないまでも、1.5倍くらいの労力を必要とする。両者の内容が同等の効果をあげられることを確認する必要があるとすれば、2倍かかると言ってよいのではないだろうか。教員の人数をふやすか、教育内容をしぼりこめばよいが、同じ人数・待遇のまま、教員の努力で二言語化せよというのはむちゃだ。

英語を優先して、日本語話者でない(そのほとんどは外国人でもある)教員を採用するところもある。その教員が授業を担当できるほどの日本語能力を身につけない限り、その大学のその教員が担当する科目の授業は英語だけになるだろう。その大学が、教育のうえではそれでよいと判断したとして、組織運営をどの言語でやるか、という問題が残る。事務文書はがんばって二言語どちらでも提供するとしても、組織運営にかかわる会議を二言語でやることは困難だ。多くの場合、会議は日本語でやることになり、日本語話者でない教員はそれに深くかかわれないことになりそうだ。その教員が組織運営にかかわる権利を奪われていると感じるかもしれないし、日本語話者の教員が組織運営の負担が自分たちに重くかかりすぎていると感じるかもしれない。(大学でなく研究機関だが、わたしのまわりではそのようなことが起きていると感じる。)

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対策としては、日本の大学は、それぞれ次の類型のうちひとつに特化すべきだと思う。

そして、教員が、使いたい言語に応じて、それに合った大学に異動することを促進するべきだろう。ときには、2大学をまとめて2つに分けるような再編成をするべきかもしれない。

第1の類型は、日本にあっても、英語圏の大学になってしまうことだ。授業の地の文の言語は英語、大学内の会議や事務書類の言語も英語とする。そうすれば、教員や学生の行き来という点では、同様に英語を使っている外国の大学との間のほうが、日本語を使っている日本の大学との間よりも、活発になるだろう。

大学の学長や管理職も、世界から有能な人に来てもらうとよいと思うが、そのためには、監督官庁が、英語で書かれ、内容も形式も、これまでの日本の行政指導に従わず英語圏の事実上の標準に沿った報告書を受け取る覚悟をする必要があるだろう。

また、外国から来た人、とくに教員が、長期にわたってつとめてくれるためには、入国管理行政や社会保険行政も、任期つき雇用でもわりあい早く永住権を認めるとか、社会保険のかけ捨てが最小限になるとかいう配慮が必要だと思う。

第2の類型は、日本語圏の大学にとどまり、地の文の言語として日本語を使うこと、日本語によって学術的知識を記述することを特徴とすることだ。組織運営の会議も日本語でやることになるだろう。この類型の大学も、外国人教員や留学生を積極的に迎えるべきだと思うが、彼らにはまず日本語使用能力を高めてもらうことになる。

第3の類型として、英語・日本語の両方で教育を提供することを特徴とするものもありうるだろう。6節で述べた負担を覚悟する必要がある。また、組織運営をどちらの言語でやるかもよく考えて決める必要がある。

文献

  • Michael D. Gordin, 2015: Scientific Babel — The Language of Science from the Fall of Latin to the Rise of English. Chicago: University of Chicago Press / London: Profile Books. [読書メモ]

  • Scott L. Montgomery, 2013: Does Science Need a Global Language? University of Chicago Press. [読書メモ]