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macroscope

2014-11-01

rate、率

英語の rate ということばには、関連はあるが、いくつか違った意味がある。

動詞の rate は「評価する」のような意味で、評価の結果は数量のこともあるが、階級わけのことが多い。ここではこの使いかたは追いかけないことにする。

名詞の rate は「割合」に関係のある数量をあらわすことが多い。ただし、まさに「割合」ならば ratio のほうが適切なことが多い。では rate と ratio とはどうちがうのかを説明するのはむずかしいのだが、rate は「一方の量から他方の量を導く」場合に使われるという特徴があると思う。

日本語にも「レート」の形ではいっているものとしては「為替レート」exchange rateがあるが、これは、たとえば1ドルが何円ということならば、1ドルの価値と1円の価値の比率と見ることもできるし、ドル単位の数値を円単位の数値に換算するための係数と見ることもできる。これは、次に述べる「単位時間あたりの」という意味の含まれない例である。

それに対して interest rate は利子率だが、利子は元金額に比例するとともに期間によってもふえるので、利子率は1年あたりとか1日あたりの値として示される。これは物理量ではないが「単位時間あたりの」という意味が含まれる例である。

人口動態に関する birth rate (出生率)、death rate (死亡率) なども「単位時間あたりの」という意味が含まれる例である。

物理や工学で使われる物理量の場合には、rate は、単位時間あたりの数量を示すことが圧倒的に多い。対応して rate のつかない量がある場合は、rate のつく量の次元は rate のつかない量の次元を時間の次元で割ったものになる。時間のSI単位は秒だから、rate の単位は「なになに毎秒」のようなものになることが多い。

「単位時間あたりの数量」と仮にまとめたが、それには、少なくとも次の2つの類型がある。

  • 状態量(仮にSとする)の「変化率」。時間区間ΔtあたりのSの変化をΔSとしたときのΔS/Δt、あるいはそのΔtを小さくした極限 つまりSの時間に対する微分 dS/dt。
  • 流れの量の、時間区間Δtあたりの量をΔtで割ったもの、あるいはそのΔtを小さくした極限 (瞬間値)。

この両者の物理量の次元は同じであり、両者が同じ方程式の項として「+」(あるいは「-」) でつなげられてならぶことがある。

ただし、物理量であっても、単位時間あたりの数量でない rate もある。気象学用語の lapse rate (気温減率) [2012-06-06の記事]はその例で、単位量あたりの量ではあるのだが、分母は鉛直方向の空間座標(物理量としては長さ)である。

日本語では、「」ということばが英語の rateに対応することが多い。しかし、常に対応するとは限らない。

仕事率」は単位時間あたりの仕事であるが、英語では power であり、work rate とは言わない(と思う)。

Harte (1988)の本の日本語版(2010)では、用語の約束として、英語の「rate」にあたるところには徹底して「率」を使うようにした。その結果、日本語の物理や工学でふつうの用語とくいちがってしまったところがある。

たとえば「熱伝導率」ということばはふつうに使われるが、これは単位時間あたりの量ではないし、英語では thermal conductivity であって rate ではないので、Harteの本の日本語版ではこの表現は避けて、「熱伝導性係数」という見慣れない用語を使っている。

【「熱伝導率」のまわりには似た用語がある。{熱, 温度}×{伝導, 拡散}×{率, 係数}の組み合わせのどれとどれが同じ意味でどれが違うのか、わたしは文献にあたって事例を確認しないと答えられない。】

また、化学の reaction rate は日本語ではふつう「反応速度」なのだが、Harteの本の日本語版では「反応率」としている。これはこの本の約束を知っていれば理解できるが、知らないで読むと別の意味(たとえば反応済みの物質量の反応前の物質量に対する割合という無次元の量)にとる人が多いだろうと思う。

わたしはこの本と逆に、「率」を rateの意味ではなく、割合(無次元)をさすのを原則としている。 ただし rateである「出生率」や、rateでも無次元でもない「熱伝導率」などは慣例に従って使うことがある。 英語の rate に対応するもののうち、「反応速度」は、「速度」と同じ次元でないという難点は認識しているが慣例に従っている。そのほかは適当な用語がなく、いちいち「単位時間あたりの...の変化量」などと表現することになってしまう。

文献

  • John Harte, 1988: Consider a Spherical Cow: A Course in Environmental Problem Solving. Sausalito CA USA: University Science Books. [同、日本語版] J. ハート 著, 小沼 通二 (こぬま みちじ)、蛯名 邦禎 (えびな くによし) 監訳, 粟屋 かよ子, 加納 誠, 中本 正一朗, 冨塚 明 訳 (2010): 環境問題の数理科学入門シュプリンガー・ジャパン (現在は丸善出版から発売)。[読書ノート]

相変化の用語。「昇華」の逆は「凝華」とするか

多くの物質は、固体、液体、気体の3つの「相」の状態になる。相の間をうつりかわる変化には名まえがついている。

ところが、このうち、固体から気体、気体から固体への変化の標準的な名まえは、いずれも「昇華」(英語では sublimation)だ。【わたしは、1970年代前半、中学・高校生のころに読んだ教材的な本にそう書いてあり、不合理だと思いながらも約束として覚えた記憶があるが、見たのが学校の教科書だったかほかの本だったか覚えていない。】 逆向きの変化を用語で区別できないというのはとても不便だ。

最近、ネット上で、この用語が話題になった際に、細矢(2013)の論文が紹介された。この論文によれば、まず、「昇華」が両方向きを意味するようになってしまったのは、固体物質を精製する方法としての「いったん蒸気にしてふたたび固体にする」ことをさしたことから来たものだと推測されている。そして、逆向きの変化を区別する表現としては、中国語では気体から固体への変化をさす「凝華」(ninghua)ということばがあり、最近は中国でも台湾でもこれを教えるようになっているので、日本語でも「凝華」を使うことが提案されている。わたしも「凝華」が定着するのが望ましいと思う。発音の面から考えると、「ぎょうか(する)」は同じ文脈で同音衝突することばは見あたらず、「凝固」との区別に注意しさえすればよさそうだ。(なお、「しょうか(する)」のほうは消化、消火などとの同音衝突に注意が必要だ。)

ただし、「凝華」は日本語にとって新語であり、充分に説明の時間をとれるとき以外にはまだ使いにくい。わたしとしてはとうぶん、固体から気体への変化を「昇華蒸発」、気体から固体への変化を「昇華凝結」という表現を併用しようと思う。【気体から液体への変化は物理科学共通の用語では「凝縮」だが、気象学で水の相変化について述べるときには「凝結」がふつうなのだ[2013-04-28の記事]。なお、「凝結」ということばは専門分野によって違う意味に使われており、ここでいう「凝華」にあたる意味で使う分野もあるらしい。】

3相間の変化の用語について、図式でまとめてみる。ただし、このブログでは図を直接かけないので(画像ファイルを置くことはできるが)、ひとまず(あまりきれいな形にならないが)表をつくる機能を使って図を表現しておく。斜体は細矢さんの提案による用語。「[気]」は気象学のいわば方言。

気体
↓凝縮([気]凝結)凝華 (昇華凝縮) ([気]昇華凝結)
↑蒸発昇華 (昇華蒸発)
液体←融解固体
→凝固([気]凍結)

文献

2014-10-19

地球の年齢に関するKelvinの議論はどのようにまちがっていたのか?

科学者が当時としてはまじめに考えた結果が、あとの時代の科学の視点から見ると大きなまちがいだった、という話の例として、Kelvin (William Thomson, 1824 -- 1907; Lord Kelvinになったのは1892年だが便宜上一貫してこの名まえで呼ぶことにする)による地球の年齢の算定があげられる。Kelvinは、地球内部からの熱流量を熱伝導(熱伝導率は一定)だと考え、その熱源は地球ができたときの内部エネルギーであって新たな補給はないと考えた計算の結果をもとに、1862年には2千万年から4億年の間という数値を示し、のちにはそのうち小さいほうの数値を主張した。

今では地球の年齢は46億年とされているが、その数値は放射性核種の壊変(およびある種の隕石が地球とほぼ同じ時期にできたという仮定)によって、1950年代に得られたものだ。【その方法は放射性核種と安定核種の比率にもとづくものであって、放射性壊変を考慮した地球内部の熱収支とは別の話である。】放射性壊変が認識されたのは1900年ごろ(ひとまず大まかにとらえておく)以後なので、それ以前には精密な数値が得られなかったのは無理もない。

Kelvinが具体的な数値を得た理論的考察は、Pollack (2003)の第7章では、数理的モデルの前提となる概念形成が不適切だった例とされている。垂水(2014)の第1章では「パラダイムの違いがもたらす誤謬」(パラダイム交代後から見れば誤りは明らかだが、旧パラダイムの中ではそれに気づくのが困難だったこと)とされている。いずれも、放射性核種の壊変を知らなかったので、地球内部に熱源を想定できなかったことが、(以後の科学から見れば)まちがった結果を得てしまった理由だと考えている。

ところが2007年、わたしは別の記事を読もうとして手にとった雑誌American ScientistでEnglandほか(2007a)の解説記事を見て驚いた。それは、Kelvinがまちがった理由は放射性壊変ではないと主張していた。同じ文章ではないが基本的に同じ内容はアメリカ地質学会の雑誌GSA Todayにも出ている(Englandほか, 2007b)。

Englandたちによれば、Kelvinが地球の年齢を推定するのに使った数理モデルに、放射性壊変による熱を(現在の見積もりで)加えても、結果はたいして変わらないのだそうだ。モデルの概念形成に加えるべきだったのは、 地球内のエネルギー伝達には熱伝導のほかに対流(流体の質量移動)によるものがありうるということであり、それは放射性壊変による熱源の発見よりも前の1895年に、物理学者John Perry (1850--1920)によって指摘されていたのだ。Perryは、Kelvinの助手をつとめたあと、日本の東京にあった工部大学校に招かれて1875--1879年の間そこで教えた人でもある。

Perryが地球の年齢に関してKelvinと議論したのは1894--95年のことで、1895年のNature誌に複数の記事がのっている。(わたしはまだそれを直接読んでいない。論文として整ったものではなく、意味をつかむには当時の文脈をよく知る必要がありそうだ。) Smith and Wise (1989)によるKelvinの伝記では17章の604--607ページにこの件が出てくる。それによれば、Perryの議論は、Kelvinのモデルを修正して「地球内部では熱伝導率が表面付近より大きい」とすれば年齢は古くなる、というものだ。Perryは地球内部は表面よりも温度が高いので熱伝導率が大きくなるのだと考えたが、熱伝導率の温度依存性の知識は当時不確かだった。Kelvinは自分でも実験をしてその範囲では温度が高くなると熱伝導率はむしろ小さくなったので、Perryの議論は成り立たないとしてしまった。

Englandたちが強調しているのは、このときPerryは、固体のまま熱伝導率が変わることだけでなく、地球内部の物質が(部分的でもよいのだが)流動して質量とともにエネルギーを運ぶことによって、熱伝導の形で近似した場合の熱伝導率を大きくする、ということも考えていたことだ。ただし、当時、地球内部はかたい(剛性をもつ)固体と認識されていた。そこでPerryは、靴なおしのワックスを比喩として持ち出して、物体は短い時間の変動に対して固体であっても長い時間では流体としてふるまうことがあるのだと論じた。この比喩は、相対論が確立する前に光の媒体として考えられていたエーテルの性質を説明するためにKelvinが使っていたものでもあった(想定された「長い」時間のスケールは違うが)。しかしKelvinは地球潮汐の研究によって1870年代までに地球はかたいという認識をかためていて(Smith and Wise 16章 573--577ページ)、Perryの議論はそれを考えなおさせるには至らなかった。

2014年10月11日の地学史研究会での菅谷暁さんの話題提供「ダーウィンの前に立ちはだかるケルヴィン」にもこの話は出てきた。菅谷さんの話は、Darwinによる変異と自然選択による進化にかかった時間の見積もりや、地質学者による侵食・砕屑物運搬プロセスからの年代見積もりおよび斉一説の意味の変化、Kelvinの宗教的信念などにわたった。今の文脈で重要なことは、DarwinにとってKelvinが示した地球の年齢は短すぎたことだ。地質学者にとっては4億年ならばかまわなかったようだが2千万年は短すぎた。菅谷さんはPerryとKelvinの意見対立の本筋は(Smith and Wiseと同様に)固体の熱伝導率の件として扱っていた。ただし、参考文献にEnglandほか(2007a)を入れていて、講演中にもPerryが地球内部が流体である可能性を指摘したことに少しふれてはいた。

Perryは対流による熱輸送を具体的に計算することができなかった。当時の物理学にはまだそれに使える理論がなかったのだろう。Rayleighによる対流が始まる条件に関する線形論の論文が出たのが1916年である。

EnglandたちのPerryに関する記述はたぶん正しいのだと思うが、だから「Kelvinがまちがった結果を得た理由は放射性壊変を知らなかったことではない」と言いきれるか、わたしは必ずしも納得していない。まず、Englandたちの言う「Kelvinのモデルに放射性壊変をつけたしても結果はたいして変わらない」ことを確かめてみるべきだと思う(しかしわたしはまだ実際に計算するに至っていない)。また、もし放射性壊変を考えに入れることができていたら、モデルの構成として、Kelvinのモデルに単純に放射性壊変をつけたしたものとは違うものも可能だったと思うのだ(しかしこちらも具体的考察に至っていない)。

(なお、Kelvinが太陽の年令を若く推定した理由としては、 核反応(のちの知識によれば水素からヘリウムへの核融合)を考えていなかったからだというのは正しい。地球が太陽より古いことは考えにくいので、このことも地球の年齢に対する制約となる。)

文献

  • Philip C. ENGLAND, Peter MOLNAR and Frank M. RICHTER, 2007a: Kelvin, Perry and the age of the Earth. American Scientist, 95, 342 - 349.
  • Philip C. ENGLAND, Peter MOLNAR and Frank M. RICHTER, 2007b: John Perry's neglected critique of Kelvin's age for the Earth: A missed opportunity in geodynamics. GSA Today (Geological Society of America), 17 (1), 4 - 9. http://www.geosociety.org/gsatoday/archive/17/1/pdf/i1052-5173-17-1-4.pdf
  • Henry N. POLLACK, 2003: Uncertain Science ... Uncertain World. Cambridge University Press. [読書ノート]
  • Crosbie SMITH and M. Norton WISE, 1989: Energy & Empire: A biographical study of Lord Kelvin. Cambridge University Press.
  • 垂水 雄二, 2014: 科学はなぜ誤解されるのか -- わかりにくさの理由を探る (平凡社新書 734)。平凡社, 215 pp. ISBN 978-4-582-85734-4. [読書メモ]

ホイッグ(Whig)史観・「勝てば官軍」史観と「地球温暖化の発見」

【わたしは自然科学者であり、自然科学のうち自分の専門に近い分野の仕事について専門外の人に説明する役まわりになることが多い。そのなかでは専門知識が発達してきた過程を歴史的に説明することもある。そういうとき、科学史の立場から見てもまちがいのないような説明をしたいと思う。ただしこれは、歴史学の分科である科学史の専門家と同じような記述態度をとるという意味ではない。】

歴史学のほうで「Whig史観」ということばがあるそうだ。イギリスでTory党とWhig党の間で政権交代があったころ、Whigを支持する歴史家が過去の人々の行動を(当時の)現在のWhigの価値観による評価をこめて記述したことに由来するらしい。わたしは歴史学者のいう「Whig史観」の意味を正確に理解しているか自信がないが、それに近いと思われるものとして、日本語ならば「『勝てば官軍』史観」と表現できる状況があると思う。結果として成功した勢力が、過去にさかのぼって、正当だったとされる、あるいは優秀だったとされる、ということだ。

科学史の人たちの間では、1960--70年代には、Whig史観は科学史家がとってはいけない態度であるという考えが強かったが、1990年代ごろから見なおしがされているそうだ。伊勢田哲治さん(科学哲学者)の2013年の論文と、坂本邦暢さんのブログ「オシテオサレテ」の[2014-01-26の記事]で紹介されていたAlvargonzález (2013)の論文に目を通した。専門的な議論は必ずしもよくわからなかったのだが、わたしとしては、科学史を記述する際には次のような態度をとるのがよいのだろうと思った。

  • 過去の科学者が使った概念が現在の科学者が使っているものと同じだと思いこんで解釈するのはまずい。当時の科学者の概念体系を理解して記述を解釈する必要がある。
  • 過去の科学者の判断について、現在の科学から見て正しい知識につながるものをすぐれた判断、まちがった知識につながるものを劣った判断と評価するような態度はまずい。科学史家は当時の状況を前提に当時の科学者の行動を評価するべきだ。(ここまで、Whig史観の否定にあたる。)

反面、

  • 現在の科学史家が、過去の科学者のどんな仕事に意義を認めてとりあげるかは、現在の視点によって当然だ。それが過去の科学者の生きていた時点での意義と一致しなくてよい。(この態度は広い意味でのWhig史観に含められることもあるが、含めないほうがよいのだろう。)

Weart (ワート)の「地球温暖化の発見[読書ノート]の記述態度は上の箇条書きで述べたものと合っていると思う。過去のだれの仕事について論じるかは、現在の「地球温暖化」の概念が育ってきた過程の源流をさかのぼるという観点で決めている。その人の仕事の中身を解釈する際には、現在の概念をおしつけず、当時の知識を偏りなく読みとろうとする。

たとえば、1820年代のFourier (フーリエ)の仕事は「地球温暖化」の概念の源流として欠かせないものである。しかし、Fourierは「温室効果」(という表現は使わなかったものの、それにあたる)概念は持っていたが、それが大気のどの成分によるものかを特定しなかったし、温室効果の強さが変化することを議論はしなかった。だからFourierが「地球温暖化」を研究した(あるいは、発見した、主張した、警告した、など)とは言えないのだ。Weartはそう言っていないはずだが、その記述を(おそらく)急いで読んだ人がそのように受け取りそう述べてしまうことがあるようで、注意が必要だと思う。

文献

  • David Alvargonzález, 2013: Is the history of science essentially Whiggish? History of Science 51: 85 -- 99.
  • 伊勢田 哲治, 2013: ウィッグ史観は許容不可能か。Nagoya Journal of Philosophy, 10: 4 -- 24. http://hdl.handle.net/2433/179542

2014-10-14

JSTサイエンスポータルの「EM団子の水環境への投げ込みは環境を悪化させる」記事はどうなっているか

左巻 健男 (さまき たけお)さんのブログ2014年9月17日の記事[今は見えないJSTサイエンスポータルの「EM団子の水環境への投げ込みは環境を悪化させる」記事]と基本的に同じ情報だが、ここでも紹介しておくことにする。

左巻さんが編集長となって、「理科の探検(RikaTan)」という雑誌が出されている。この雑誌の2014年春号の特集ニセ科学を斬る!」の記事のひとつとして、松永 勝彦(まつなが かつひこ) 北海道大学名誉教授の「EM団子の水環境への投げ込みは環境を悪化させる」という文章がのった。

JST (科学技術振興機構)が運営している「サイエンスポータル」(http://scienceportal.jp )というウェブサイトがある。このサイトに、「理科の探検」にのった記事のうちいくつかが選ばれて無料公開されていた。上記の松永さんの記事も、2014年5月にそこに置かれた。6月ごろに見たときには、次のページから2014年春号にのった3つの記事へのリンクがあって、その中央のものが松永さんの記事だった。ところが、8月ごろに見ると、松永さんの記事だけが消えていた。

http://scienceportal.jp/magazines/rikatan/2014/

このページのソースを見ると、松永さんの記事へのリンクは次のようにコメント化されて残っている。【[2014-10-21加筆] 10月21日現在、このページを見ようとしてもサイエンスポータルのトップに行ってしまうようになった。】

<!--

<li>

<a href="/magazines/rikatan/2014/spring/20140501_01.html">

<p class="release">2014年5月1日</p>

<p class="tit">EM団子の水環境への投げ込みは 環境を悪化させる</p>

</a>

</li>

//-->

しかし、リンク先の次のページは存在しなくなっている。(リンクをたどるとサイエンスポータルのトップに行ってしまう。)

http://scienceportal.jp/magazines/rikatan/2014/spring/20140501_01.html

ただし、アメリカにあるArchive.orgにはコピーが残っていた。記事を読みたいかたは次のリンク先を見ていただきたい。

http://web.archive.org/web/20140614020813/http://scienceportal.jp/magazines/rikatan/2014/spring/20140501_01.html

サイエンスポータルのサイトは2014年9月26日に更新があった。その予告で、過去にあった記事で読めなくなっているものを復活するとあったので、松永さんの記事も復活されるだろうと期待したのだが、そうならなかった。

それどころか、サイエンスポータルのトップにある「マガジン」のメニューから「理科の探検」が消えてしまった。この雑誌の記事を収録するのをやめてしまったのだろうか?

ただし今のところ「マガジン」から「Webで読む機関誌」を開けば、右の枠の中に「理科の探検」があり、それを開けばこれまでに収録された記事(松永さんの記事を除く)を見ることはできる。【 [2014-10-21加筆] 10月21日に見たところ、右の枠の「理科の探検」という字は残っているのだが、そのリンクをたどっても記事内容には行かず、サイエンスポータルのトップに行ってしまう。おそらく残っている文字は消し残しにすぎず、サイエンスポータルは「理科の探検」とかかわるのをやめた、ということなのだろう。】【[2014-10-22加筆] 10月21日、左巻さんのTwitterでの発言に「抗議を込めてJSTサイエンスポータルに理科の探検(RikaTan)誌記事を載せるのをやめた。」とあった。】

2014-09-28

政策に関する意見に関係しそうな世界観の分類(仮の覚え書き)

[前の記事]の最初の段落から続く。

政策に関する意見の分かれかたに関係しそうな、世界観の分類を試みる。まだ「たたき台」的なものである。

第1は、人の意図的行動が世界(社会に限ってもよい)に影響を与えると思うか。

    • 人がいくらがんばっても歴史は変わらない (運命論)。
    • 人が行動することで歴史は変わりうるが、複雑な因果関係がからんで思いがけない変わりかたをする。結果が意図と逆になる可能性もかなりある。
    • 人が意図をもって行動することは、必ずではないとしても、その意図に合った結果をもたらす可能性を高める。

第2は、各人が、どういう人(やその他の存在)の利害を、拡大された自分の利害ととらえるか。

  • 民族、宗教、社会階級などが共通な人を「内」、それが違う人を「外」として区別するか。全人類を一様に扱うか。
  • 将来の世代をどう扱うか。

グリッド・グループ論に関する勉強途中の覚え書き

世の人々の間には「ものの考えかた」の違いというべきものがある。ある「ものの考えかた」の人は何かの政策課題に賛成することが多く、別の「ものの考えかた」の人は反対することが多い、といった構造のことはよく起こるだろう。さらに、政策課題についての判断の根拠となる事実に関する情報を信頼するかどうかさえ、「ものの考えかた」によって分かれてしまうことがあるようだ。ここでひとまず「ものの考えかた」という表現をしてみたが、「世界観」(world-view)と言ったほうがよいかもしれない。ただし、世界全体をどう考えるかよりも、自分の行動と世界との関係をどう考えるかが問題になる。これについて、すこし考えてみたことを[別記事]にしたい。

その前に、ひとつの枠組みについてこれまでに知ったことを整理しておく。この件に関してはわたしはまだ代表的文献を直接読んでおらず、誤解があるかもしれない。

わたしが最初にこれに出会ったのは、Maslin (2004)の本の初版(2008年の第2版からはなくなっている)で、気候というものに対する人々のとらえかたを4つに分類し、リスク論で使われている人々の世界観(この字体でかっこ内に示す)と、次のように対応すると考えられる、という話だった。

capricious (fatalist)perverse/tolerant (hierarchist)
benign (individualist)ephemeral (egalitarian)

そこで参照されていたリスク論の教科書的な本をわたしは見ていないのだが、ほかのいくつかの本を見ていくうちに、この世界観の枠組みはDouglas and Wildavsky (1982)またはThompson, Ellis & Wildavsky (1990)が基本的文献であること、grid/group論と呼ばれていることがわかった。ただし、この枠組みを援用する人ごとに、用語やその意味づけが少しずつ違っているように思われた。

基本的文献を読んでみるべきだと思ったが、本を読みとおす時間がとれそうもないので、ひとまず、その最初の提唱者であるらしいMary Douglas (1921 -- 2007, イギリス人の文化人類学者)の著作を検索し、無料でダウンロードできる評論を見てみた。

そのひとつは、Douglas (2007)で、grid/group論の初期を回顧している。この概念を最初に述べた文献はDouglas (1970)だそうだ。「Figure 1. The Grid Group Diagram」にかかれた2×2の表のような形の図式を引用しておく。ただしこのblogの表の表現能力が限られているので、横軸・縦軸のそれぞれの説明も、表の枠に入れたような形になってしまった。

↑[Grid] regulation
IsolatePositional[Group] a general boundary around a community→
IndividualistEnclave

縦軸のgridは規律がきびしいか、横軸のgroupは共同体の内外の区別がはっきりしているか、という意味だと、今のところわたしは理解している。枠の中に書かれた世界観の各タイプをあらわすキーワードが、近ごろ使われているのと共通のものはindividualistだけで、あとは違う。

もうひとつは、Douglas (2003)で、直接にはKahan and Braman (2003)のcultural theory of riskを応用して銃規制問題を論じた論文への批判的コメントとして書かれたもののようだが、むしろDouglas自身のgrid/group論の説明が主になっている。「Figure 1: The Grid-Group Diagram (p. 1354)」を同様に引用しておく。

[Grid] ↑strong regulation
←weak boundary contraints(B) Isolate(C) Hierarchical[Group] strong boundary constraints→
(A) Individualist(D) Egalitarian
↓weak regulation

これはDouglas and Wildavsky (1982) Risk and Cultureで使われたのと同じ枠組みらしい。ただし、cultural theoryをつくったThompson, Ellis, Wildavskyは(B)をFatalistとしているが、Douglasはそう表現することには不満らしく、1970年のバージョンと同じく Isolate を使っている。

さて、Kahanは近ごろ、cultural theoryの流れをくむcultural cognition theoryというものを使っていろいろな問題に関する人々の態度を論じているが、そのうちに気候変動(地球温暖化)に関するものもある。Kahanほか(2012)の論文になった研究が、2012年のAmerican Geophysical Union 大会[2012-12-14の記事]で紹介されていた。そのときはDouglasと同じ2軸4象限の枠組みを使っていると理解したのだが、論文の小さい字のところまで目を通したらそうでなく、individualist, hierarchical, egalitarianはそれぞれ軸の片側の特徴として使われているのだった。(次に示すのはKahanほかの論文のことばによる説明をわたしが図にしたもの。)

↑hierarchical
←individualist*communitarian→
*
↓egalitarian

ただし、Kahanほか(2012)の論文の主要な議論では、「egalitarian communitarian」と「hierarchical individualist」の2つの集団、つまりわたしの図で*印を入れた右下と左上の象限だけがとりあげられている。

わたしの印象としては、この図の縦軸がgrid、横軸がgroupに対応し、KahanがDouglasと同じことばを使っていても、その意味のほうがずれているのだと思う。しかしこの推測は正しくないかもしれない。

文献

  • Mary DOUGLAS, 1970: Natural Symbols. Barrie & Rockliff the Cresset Press. Penguin (Pelican Books)版もある。[わたしは読んでいない。]
  • Mary DOUGLAS, 2003: Being fair to hierarchists. University of Pennsylvania law Review, 151: 1349 -- 1370. http://scholarship.law.upenn.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=3215&context=penn_law_review
  • Mary DOUGLAS, 2007: A history of grid and group cultural theory. Toronto, Canada: University of Toronto. http://projects.chass.utoronto.ca/semiotics/cyber/douglas1.pdf .
  • Mary DOUGLAS and Aaron WILDAVSKY, 1982: Risk and Culture. University of California Press. [わたしは読んでいない。]
  • Dan M. KAHAN & Donald BRAMAN, 2003: More statisis, less persuasion: A cultural theory of gun-risk perceptions, 151 University of Pennsylvania law Review 151:1291 -- 1327. [わたしは読んでいない。]
  • Dan M. KAHAN, Ellen PETERS, Maggie WITTLIN, Paul SLOVIC, Lisa Larrimore OUELETTE, Donald BRAMAN & Gregory MANDEL, 2012: The polarizing impact of science literacy and numeracy on perceived climate change risks. Nature Climate Change, 2, 732–735. http://dx.doi.org/10.1038/nclimate1547
  • Mark MASLIN, 2004: Global Warming: A Very Short Introduction. Oxford University Press. [読書ノート]
  • Michael THOMPSON, Richard ELLIS & Aaron WILDAVSKY, 1990: Cultural Theory. Westview Press. [わたしは読んでいない。]

2014-09-04

「地球環境問題に立ち向かう『知』をどのように育てていくのか?」 (2014年9月6日) 第3報

2日前となりましたが、講演者のかたがたから講演要旨の原稿をいただきましたので、それを含めてあらためてお知らせします。講演要旨の追加と、講演プログラムの細かい修正以外は、学会ブログ7月22日記事 http://blog.jssts.jp/2014/07/2014.html と同じです。なお今後も部分修正の可能性があります。

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2014年度科学技術社会論学会シンポジウム

地球環境問題に立ち向かう『知』をどのように育てていくのか?

 世界の人間社会は、生物多様性・物質循環・気候など複数の局面で地球環境の限界にぶつかっています。人間社会が持続可能なものになっていくためには、環境対策にとどまらず、開発のありかたにもかかわる社会の変容を必要とするでしょう。そのために、学術研究のありかたも変わっていく必要があるでしょう。

 第1に、研究活動にステークホルダー(stakeholder、利害関係者)が研究者と対等にかかわるべきだという考えがあり、特定地域の問題解決のためには、すでに実践されています。しかし、世界規模の問題解決には、このようにして得られた知を、もっと広い地域で、違った構成のステークホルダーとともに生かしていく必要があります。そこには、知を提供する側・受け取る側のそれぞれの課題があるでしょう。

第2に、研究者の社会への働きかけに、対立する立場のひとつを支持するアドボカシー(advocacy、唱道)を含むことがありえます。研究者にとっては、アドボカシーとのかかわりかたを律する規範が、社会的意思決定の側では、アドボカシーを含む知をどう使うかが課題となるでしょう。

 このシンポジウムでは、この2つの主題に関連する4人のかたの講演と参加者のみなさんとの討論を通じて、地球環境問題に立ち向かう『知』をどのように育てていくのか考えていきたいと思います。

日時:2014年9月6日(土)13:00〜16:30

場所:航空会館 501・502会議室

(東京都港区新橋1-18-1, http://kokukaikan.com/about/access )

※1:当日入場が可能です。また非会員の方もご参加が可能です。

※2:会場の都合上、会場が手狭になる可能性がございます。あらかじめご了解を頂きますようお願いいたします。

当日プログラム

13:00〜13:05 開会挨拶 藤垣 裕子(東京大学

13:05〜13:15 趣旨説明 増田 耕一(海洋研究開発機構

13:15〜13:45

堀尾 正靱 (龍谷大学)

「脱温暖化に向けた地域社会変革の課題と研究者に求められる方法論および倫理規範」

この講演では、低炭素社会への移行にとってきわめて重要となる地域社会の変革に着目しつつ、地域社会の構造論やFuture Earth 構想の背景にある協働参画型のプログラム・プロジェクトマネジメント論を紹介し、理工学系の研究開発とのアナロジーに基づき、社会技術的な課題に関わるアクションリサーチのあり方について考えることとします。さらに、JST-RISTEX (科学技術振興機構 社会技術研究開発センター)の環境エネルギー領域(2008−13年)の経験も紹介します。

13:45〜14:15

佐藤 哲 (総合地球環境学研究所)

科学者とステークホルダーの相互作用による知の共創 - 地域環境知という考え方 -」

世界各地の地域社会におけるさまざまな環境問題の解決を目指す取り組みの現場で、科学者・専門家による科学的知識生産と、社会の多様なステークホルダーによる日常生活の中での知識生産のプロセスが相互作用し、従来の科学知・在来知という定式化にはなじまない知識体系が生産され、活用されている。科学者の好奇心ではなく、社会が直面する課題に駆動されて生産される問題解決指向の領域融合的知識体系を、「地域環境知」と呼ぶ。地域環境知は、多様なステークホルダーと科学者が地域の環境問題解決への取り組みで協働する中で、人々が生活の中で培ってきた知識と、予測性や因果関係の理解をもたらす科学知が融合してダイナミックに形成され、変化していく。私たちは、このような知識基盤に基づいて、日常のさまざまな場面から社会の長期的な課題への対応を検討するような場面まで、多様な時空間にまたがる意思決定を行い、アクションを起こしている。地域環境知を構成する知識の生産者は、職業的な科学者・専門家に留まらない。農業・漁業などの一次産業従事者、地域企業、地方自治体やさまざまな地域団体の人々も、従来の意味での在来知の範疇を超えた、科学的な基盤を取り込んだ領域融合的かつ問題解決指向の地域環境知の、重要な生産者である。このような地域環境知のダイナミックな生産と流通が、多様なステークホルダーの協働による地域レベルから地球規模にいたるマルチスケールのアクションを駆動するメカニズムを検討する。

14:15〜14:45

朝山 慎一郎 (国立環境研究所)

「科学者は政策にどこまで踏みこむべきか? - 気候変動をめぐる科学とアドボカシーの問題 -」

地球温暖化/気候変動問題において、科学と政策は不可分の関係にある。気候変動に関する政府間パネルIPCC)が気候変動の政治に大きな影響力を持つように、科学的知見は政策決定の重要な規定要因となっている。それゆえに、科学者が政策決定にどのように関与するのかは、科学と社会の双方にとっての重大な関心事である。ここでは、特に科学者によるアドボカシーをめぐる問題に焦点を当てる。アドボカシーは、自らの意見表明などによってある特定の政策を支持する行為として定義される。科学者によるアドボカシーは科学者個人だけでなく科学全般に対する社会の信頼を損なう行為として批判される一方で、気候変動のように複雑な問題では科学者がより深く政策に関与することが求められるというジレンマがある。とりわけ、多様な利害や価値観が混在し、衝突する気候変動問題では、科学は政策を正当化するための政治的なツールとして用いられ、「科学の政治化」という問題を招く。もし仮に科学者が政策に一切関与しないという選択をしても、その選択自体が政治的な意味を持ってしまう。では、科学者は一体どこまで、そしてどのように政策に踏み込むべきなのか。アドボカシーから逃れることができないのであれば、科学者によるアドボカシーはどうあるべきなのか。本発表では、科学者によるアドボカシーそれ自体をめぐる論争と同時に、気候変動における科学とアドボカシーという錯綜した関係について考察する。

14:45〜15:00 休憩

15:00〜15:30

松浦 正浩 (東京大学)

「ステークホルダー合意形成における科学者・専門家の役割 -共同事実確認の概念-」

意思決定の現場では、利害や価値観が対立するステークホルダーたちが、自らの利害や価値観に適合する(科学的)情報を選択的に提示するために弁護科学(advocacy science)が生じ、利害や価値観だけでなく、「根拠(evidence)の正しさ」に関する対立への対応が必要となる事態が増えている。特に、地球環境問題の議論においては、科学的な将来予測が大きな意味を持つため、政策対応の根拠に関する合意形成が重要となる。主に米国では、環境紛争解決の実践として、ほぼ全てのステークホルダーが納得できる科学的根拠を、ステークホルダーと専門家の協働で特定する「共同事実確認」の方法論が用いられてきた。ステークホルダーに対し、その議論において根拠となりうる情報を専門家集団が提供するこの方法論は、順応的管理などの概念と統合することで、地域における環境紛争解決において有効と考えられる。しかし、地球環境問題に関する議論のように、問題の存在を社会に警鐘する役割を専門家が担わざるを得ない状況、ステークホルダー(の代表者)と専門家を明確に峻別しがたい状況、科学的知見の不確実性が極めて高い状況、そして関係する利害と価値観が多岐にわたり全地球規模での調整が必要な状況においては、共同事実確認の適用は難しいだろう。本発表ではまず、地域レベルでの環境紛争の解決を念頭に置いた共同事実確認の概念を導入した後、地球環境問題に対してその概念を拡張を試みるときに現場で生じるであろう問題について議論する。

15:30〜16:30 総合討論

司会: 宗像 慎太郎

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(企画担当理事 増田 耕一)