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2016-02-07

Anthropocene (人類世、人新世) (2) 意図的気候改変(気候工学)との関連

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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[2016-02-06の記事「Anthropocene (人類世、人新世) という新概念の複数のとらえかた (1)」](以下「第1部」と呼ぶ)の続き。

意図的気候改変、いわゆる「気候工学」あるいは「ジオエンジニアリング」の話題を追いかけていると、それとのからみでAnthropoceneにふれた論述に出会う。そのうちには「これからの時代はAnthropoceneであり、人類が気候を制御する時代なのだ」というような論調で、意図的気候改変の必要性を主張しているものがあるようなのだ。

【明確にそう言っている文献をつかまえてその議論の組み立てを論評するべきだと思っているが、まだできていない。もしかすると、積極的にそれを主張している人がいるわけではなくて、反対する対象としてそういう主張を想定してみた人がいるだけなのかもしれない。きょうのところはひとまず、わたしなりに、だれかがそういう主張をするならばこのような論理構成だろうと推測したうえで、それを論評する。】

「気候」は「地球環境」の部分と考えられるので、ここからはおもに「地球環境」について述べることにするが、それを「気候」に置きかえても同じ論法が使えると思う。

次の2つは明らかに違う。

  • (a) 人間は地球環境を変化させることができる。(地球環境の状態にとって、人間は重要な影響の源である。)
  • (b) 人間は地球環境を思いどおりに制御することができる。(地球環境の状態にとって、人間は決定者である。)

第1部の記事で紹介した「時代はAnthropoceneになった」という主張は、Anthropoceneの具体的定義については論者の間でも違うかもしれないが、ともかく、この(a)が実現していることをさしている。

他方、この(b)が実現していないことは、たとえば「地球環境」を「グローバルな気候」に限定して考えれば、明らかだろう。

わたしにとっては(a)と(b)とは遠い。(a)が実現したからといって、(b)が実現する可能性はとても低いと思う。

しかし、世界には、(a)と(b)とは近いと考える人もいる。そういう人のうちに、「Anthropoceneとは(b)が実現している時代であり、現在はそれに向かう過渡期である」あるいは「...であるべきだ」と考えている人がいるようなのだ。さきほども述べたように、わたしはまだ具体的文献をおさえていないのだが、仮にそのような論者がいるとすると、その人のいうAnthropoceneは、第1部で論じられたAnthropoceneとは別の概念であり、同じ文中に出てくるならば用語を区別して論じなければならないものだと思う。わたしはAnthropoceneの意味は第1部で論じたものに限り(その範囲でも多重であるが)、この段落で仮定的に述べた概念を紹介するときは、たとえば「人為制御時代」のような別の表現を使いたい。

Anthropoceneの概念を広めたCrutzen (第1部の文献を参照)が、意図的気候改変(とくに成層圏エーロゾル注入による太陽光反射強化)に関する研究を提唱した人でもある(Crutzen, 2006)ので、Anthropoceneと意図的気候改変とが一体の思想であるように認識している人もいるようだ。二つの議論の発想に共通の根はあり、それに注目して議論することも有意義ではあると思う。しかし、Crutzenの立場では、Anthropoceneはすでに起こっていることであり、意図的気候改変はできれば使わないですませたい非常手段として考えたことなので、両者が直結していないことは明らかだと思う。

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上記の(a)はさらに、環境改変を意図しない行動によるもの(「意図しない環境改変」)と、環境改変を意図した行動によるもの(「意図的環境改変」)に分けたほうがよさそうだ。ただし、この区別も、考えてみると複雑だ。

動力を得るために化石燃料を利用した結果、地球温暖化が起こることは、意図しない環境改変の例と言える。(ただし、その因果関係が明らかになった以後は、いくらか意図的であるという見かたもできるかもしれない。そのあたりの判断は倫理的価値観によって違ってくるだろう。)

川をダムでせきとめることによって環境の一部である川の状態が変わることはどうだろうか。川の水をせきとめたいという意図があったことは明らかだ。(人間社会にとってのその動機は、水資源とか電力とかであり、環境改変自体ではないだろうが。) しかし、土砂がせきとめられることや、水中の生態系が変化することは、意図しない環境改変だろう。

成層圏にエーロゾルを注入することによって地上気温を下げようとすることは、意図的環境改変だ。ただし、それは上記(b)の「環境制御」の水準に達することがあるだろうか。世界平均地上気温などの少数の指標変数を意図どおりに制御することはできるかもしれない。しかし、地域ごとの気温や降水量の変化は、おそらく制御しきれないだろう。さらに、成層圏オゾンにもなんらかの影響があるだろうが、それは(意図的環境改変の副作用として起こる)意図しない環境改変だろう。

(地球温暖化対策の議論で「緩和策」に分類される)二酸化炭素排出削減は、意図しない環境改変の原因を、意図的に弱めることである。これと意図的環境改変とは区別できるだろうか。もし、原因と環境改変との関係が比例関係から遠くて(非線形性が強くて)、原因を弱めるとかえって環境改変が強まってしまう可能性もかなりあるならば、「原因の削減も意図的環境改変の一種にすぎない」という理屈がもっともかもしれない。しかし、二酸化炭素排出の場合は、簡単な比例関係ではないものの、「原因である排出を減らせば環境改変が弱まるだろう」と考える根拠があるので、意図的環境改変とは別の行動と考えることが合理的だと思う。地球温暖化対策の議論で、排出削減を「緩和策」、成層圏エーロゾル注入を「気候工学(ジオエンジニアリング)」という別の類として扱っている根拠はこのような考えにあると思う。

二酸化炭素回収隔離貯留は、環境のうち大気の部分に注目すれば、排出削減と同様に、意図しない環境改変の原因を、意図的に弱めることである。他方、二酸化炭素を持っていくさきの地下の環境に注目すれば、その場所の二酸化炭素がふえることは(人間にとっての目的ではないが)意図的環境改変であり、地中の生態系に起こる変化などは、(意図的環境改変の副作用として起こる)意図しない環境改変だろう。

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上記の(b)のような「人間が環境を制御する」ことを、今すぐにはできないとしても将来できれば望ましいこととして考える発想には、いくつかの違った思想的背景があるようだ。

ひとつは、人間と自然を対立するものととらえるとともに、人間の技術的能力の可能性を楽観的にとらえて、人間が自然を支配することや自然から与えられた制約を克服することが望ましいとする考えかただ。わたしは、子どものころにはこの考えに賛同していた(ような記憶がある)が、今はだいぶ違う考えになっている。

もうひとつは、キリスト教にある(ユダヤ教にも共通かどうかは未確認) stewardshipという考えかただ。わたしは、なん人かの人の著述で出会ったもののよく理解できていないのだが、およそ、「人類は、他の生物のために、世界を住みよい状態に維持する責任を負っている」というような考えだと認識している。

これに対して、人間が環境を制御することは、不可能にちがいないとする考えや、倫理的に正しくないとする考えもある。それが出てきやすい思想的背景をあげることもできるだろう。しかし、技術の発展に楽観的な人でも、キリスト教の人でも、こちらの考えをする人もいるようだ。思想の系列の議論は単純にはできそうもない。

ともかく世界には価値観の違いがある。しかし、価値観の違いをうまく認識できず、世界のみんなが自分と同様に考えていると思っていたり、違う考えはまちがいだと思っていたりする人が多いようだ。政策に関する議論をかみあわせる道は、価値観の違いを理解してそれにかみあう議論を組み立てるか、価値観をたなあげにして行動提起にしぼった合意を得ることをめざすか、なのだと思う。

文献 (第1部の文献としてあげたものは省略)

2016-02-06

Anthropocene (人類世、人新世) という新概念の複数のとらえかた (1)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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Anthropocene ということばが使われる話題については、このブログでも、[2012-12-10「AGU GC51Hほか: 人類世、+4℃の世界」][2012-04-03「Planet under Pressure会議宣言文(非公式)日本語訳」]などでふれたことがある。(そこでは日本語表現を「人類世」としておいた。)

近ごろわたしは、このことばによって表現したい概念が人によってかなり違っており、その違いを意識して議論する必要があると感じている。

ただし、わたしは、この話題について継続的に情報を追いかけているわけでもなく、しっかり文献レビューしているわけでもない。わたしが認識していない重要なことがあるかもしれない。それでも、ひとまずわたしが知っている範囲のことを書き出しておくことに意義があるかもしれないと思ったので、ブログ記事の形にした。

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人類が地球環境の制約の中で生きていることは昔も今も変わらないのだが、今では、人間活動が地球環境を変化させることが、地球環境の変化の立場からも、(複数の)主要な要因のひとつになってきた。

【ここでいう「地球環境」は、大まかに次のような意味だとしておこう。

  • 地球環境: 地球表層の状態
  • 地球表層: 地表面に近いところ
  • 地表面: 大気(気体)と海(液体)または陸(固体)との境界 】

地質年代は「代」「紀」「世」と区分される。現在の標準的な時代区分では、われわれが生きている現在の時代は、新生代第四紀完新世(Holocene)とされる。完新世は約1万年前以後、詳しくは、11700年前以後(Walkerほか, 2009)である。

しかし、人間活動が大がかりになってきた結果、地球環境は完新世の典型的状態から大きくはずれている。「世」のレベルで新しい時代にはいったと言えるのではないか。もし完新世とならぶ新しい「世」だと認めるとすれば、人間活動が重要な時期だから、Anthropoceneという名まえがふさわしいだろう。

新生代の「世」の名まえはいずれも、英語で言えば「-cene」で終わるものになっていて、それに対応する日本語は「-新世」で終わるものになっている。したがって、この規則性をまもれば、Anthropoceneは日本語では「人新世」とするのが適切ということになりそうだ。しかし、次に論じるように、Anthropoceneという用語地質時代区分名をまねて作られたけれども、実際に地質時代区分の名まえとしようという意図ではなく、比喩的に使われることが多かった。わたしは比喩的な使いかたを念頭においていたので、聞いてわかりやすい「人類世」という表現を使ってきたのだった。【なお、外来語扱いでかたかな書きするならどう書くかという問題もある。英語の発音に近くすると「アンスロポシーン」になると思うが、わたしは、化学物質名の日本語表記にならった形の(フランス語の発音にも近い)「アントロポセン」がよいと思う。】

Anthropoceneということばは散発的には1960年代から使われていたらしいが、今につながる意味で使いはじめたのはアメリカの生態学者Stoermerだそうだ。そして、2000年にStoermerがオランダ出身の大気化学者Crutzenと共著でIGBP (地球圏・生物圏国際協同研究計画)のニュースレターに論説を書き(Crutzen & Stoermer 2000)、さらに2002年にCrutzenがNatureに論説を書いた(Crutzen 2000)ことによって広まった。StoermerやCrutzenにとってのこの語の意味は、人間活動が生物地球化学サイクルに大きな影響を与えている時期、ということであり、大気中の二酸化炭素濃度がそれまでの完新世の変化範囲をこえて高くなっていることがその影響の代表例となる。したがって、時代の変わりめは「産業革命」あるいは「工業化」つまり化石燃料の動力への利用ということになるだろう。

Anthropoceneを地質時代区分として定義しようという議論はZalasiewiczほか(2008)などから始まるようだ。わたしは2012年のAGU (アメリカ地球物理学連合)大会のZalasiewiczやそのほかの人の発表でその話題を聞いた([2012-12-10の記事])。2015年10月にAGUのニュースレターに出たEdwards (2015)の記事によれば、国際層序委員会(International Commission on Stratigraphy)で、Anthropoceneを地質時代区分とするかどうかはまだ決まっていないが、今後1年くらいのうちに決めることになるだろう、ということだ。このEdwardsの記事には、それを地質時代区分とすることへの賛成反対両方の議論も紹介されている。

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地質時代区分として採用しようとすると、いろいろな条件を満たさなければならない。

地質時代区分の境目は、時間軸上で幅をもたない点だと考えられる。現実世界の状態の変化は急とはいっても瞬間的ではなく連続的であり、ひとつの時点でくぎるのは約束にすぎない。しかし、区分という表現に意義があるためには、境目としては、なるべく世界規模で重要な変化がある時点を選びたい。

また、世界のどこの地層や化石をも時代区分と関連づけることができる必要がある。通常これは、世界のどこかに標識地を選び、そこの地層で境目を定義して、他の場所のものごとはなんとかして標識地と対比することによって前後関係を決められればよい、という考えかたによる。ただし、最近の時代については、標識地との対比よりもむしろ直接の年代決定のほうがしやすいので、標識地を決めなくても年代で境目を定義すればよいという考えもあるそうだ。

世界規模で重要な変化と言っても、地球のどの部分に注目するかによって内容が違ってくる。Crutzenは大気成分の変化に注目していた。しかし、地質時代区分を考える層序の専門家は、地層の堆積環境の変化か、生物(伝統的におもに動物)の種組成の変化に注目するだろう。また、対比可能性の要請から、世界の多くのところの地層で同時に起こっている変化を認めやすい年代を境目にできるとよいと思うだろう。

産業革命は西暦およそ1800年ごろに起こったと考えられるけれども、その直接の影響の環境改変は世界の内で限られた地域で起きた。世界の工業化は今も進行中だ。境目に200年くらいの幅をもたせるならば「1800年から現在」が境目でよいかもしれないが、時期をしぼっていくと、いつを代表にすべきかは自明でない。

わたしが2012年のAGUの講演で聞いた議論では、おもに世界規模の対比可能性の観点から、境目を決めるならば1950年ごろとするのがよいという考えが述べられていた。以下、その議論の記憶を頼りにわたし自身の理屈で述べる。大気中の二酸化炭素濃度の増加が急激になったのもこのころで、化石燃料起源のものの比率がふえたことは炭素同位体比にも現われる。肥料などのための空気中の窒素の固定はもっと前から始まっていたがこのころから世界規模でふえていて、環境中の硝酸イオンなどの反応性窒素の量に変化が見られる。フロンなどの合成物質、プラスチック粒子、天然になかった(新生代よりも前に消滅していた)放射性核種やその壊変結果の核種、あるいはコンクリートなどによる地面の舗装も、限られた地域での出現でなく世界規模への広がりをとらえるならば、1950-60年ごろから多くなったと言えそうだ。なお1950年は、炭素14年代の「現在」(時間目盛りの原点)とされていることからも、時代の切れ目とするのにつごうのよい年代ではある。しかし、そうすると、Anthropoceneのこれまでの経過時間はやっと66年ということになり、地質時代区分の「世」をたてるにはあまりに短い気がする。

そういうわけで、わたしは、Anthropoceneは正式な地質時代区分にならないと予想している。

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正式な時代区分にしないならば、境目をひとつの時点にしぼる必要はない。Anthropoceneへの移行は、徐々に起きた、あるいは複数の段階を踏んで起きた、としてもよい。産業革命以外に ふしめ になりそうなものを列挙しておく。

人類がいつ出現した(と認定する)かはむずかしい問題だが、ヒト属(Homo)の生きた時代ならば、およそ二百万年前以後であり、厳密ではないが大まかには、第四紀(現在の定義によれば258万8000年前以後)と一致する。そこで第四紀は「人類の時代」と言われることがあり、正式名称提案ではないが「人類紀」と言われることもあった。

Homo sapiensの出現は約20万年前らしいが今後の研究で認識があらたまるかもしれない。ともかくHomo sapiensが生きた時代を人類の時代とする考えはありうるだろう。

また、ヒトが狩猟や火の利用によって生物相に大きな影響を与えるようになったことを時代の変わりめとしてとりあげる可能性もあるだろう。

農業は約1万年前から行なわれていたことが知られており、農業のある時代は、厳密でないが大まかには、完新世と一致する。ただし、農業が世界規模に普及した時代となると、完新世のうちでも(これまでの)後半に限られるだろう。

ここで、Ruddiman [読書ノート]の説にふれておく。大気中の二酸化炭素やメタンの濃度が、農業などの人間による土地利用がおよぼす影響によって、人間活動がなかった場合に比べて高く保たれていた、という考えだ。もちろん、化石燃料利用が始まってからの増加に比べればわずかな量なので、ノイズレベルをこえて有意かどうかは研究者の間で意見が分かれる。この説がearly Anthropocene hypothesisと呼ばれることがあるようだ(出典未確認だが)。ここでAnthropoceneはCrutzenが想定したように大気成分を変化させる要因として人間活動が重要になった時代をさしている。もしAnthropoceneは農業とともに始まったと認識するならば、それは完新世とほとんど重なる時期をさすことになるので、地質時代区分として完新世と区別されるAnthropoceneをたてる必要はなくなるだろう。

人間が核エネルギーを利用する(あるいは自然にない放射性核種を生産する)ようになったことは、化石燃料を利用する(あるいは化学合成をする)ようになったことよりも重要な変化だという考えもありうる。この観点からの時代のふしめは1950-60年ごろになり、先にのべた工業化の影響が世界規模で明確になった時期と重なるだろう。

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Anthropoceneに関連して、もうひとつ論じておきたいことがあるのだが、ここまでの話と異質なので、別の記事として書くことにする。

文献

2016-01-28

ウィキペディアで専門基礎概念について書くことのむずかしさ

【公開後2016-01-31までにだいぶ書きかえました。まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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わたしWikipediaをよく見る。Wikipediaが、だれでも(ルールに違反してペナルティを課されていないかぎり)書き手になれるものなので、内容の質の保証は原理的にないことは知っている。これまで読んできた経験によって主観的に質の見当をつけて使っている。

無料でこれだけおせわになっているのだから、自分も貢献したほうがよいと思うこともある。

2010年にはいくらか編集にかかわった。ただし、これは、わたしが正しくないと思う内容をどんどん書きこむ人がいて、それを止める必要があると思い、単にもとにもどすのはつまらないので、改良になるように書きかえる努力をしたのだった。そのころ考えたことはこのブログの記事[2010-03-06「IPCC、Wikipedia、信頼できる情報源」][2010-03-07「ウィキウィキ、ポレポレ」]に書いた。どんどん書きこんでいた人が(ペナルティを課されたのか意欲を失ったのか知らないが)消えると、わたしも意欲が続かなくなってしまった。

近ごろは、(日本語版でも英語版でも)読んでいるうちにたまたま誤字・リンク切れ・単純な事実のまちがいなどを見つけるとその場で修正することはあるが、それ以外の編集はしなくなっている。

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2015年4月から北村紗衣さんが「英日翻訳ウィキペディアン養成セミナー」を始めたのを知った。大学の英語の授業のひとつとして、Wikipedia英語版の記事を翻訳して日本語版の記事をつくるという課題を出したのだった。その話題は2016年1月にウィキメディア財団の15周年記念サイトで紹介されている([Kitamura Sae - Wikipedia 15])。

北村さんのセミナーの第1学期の成果として5月末に公開された記事のうちに[[雪氷圏]]の記事(英語版「Cryosphere」からの翻訳)があった。わたしは「気候システム論」の授業をしているが、教材の雪氷圏を扱う部分にはまだ概論の文章がない。Wikipediaの記事が概論として使えるとありがたいと思った。

しかし教材として紹介しようという考えのもとに読んでみると、いろいろ不満があった。

わたしがすぐなおせる少数の件だけは、なおした。そのひとつは「短波」ということばが気象学での意味([2012-04-24の記事]参照)で使われていたところを電波についての意味と混同していたのだった。同じ記事に電波も(「マイクロ波」としてだが)出てくるので、正しい意味を選ぶには語の共存関係だけでなく内容に立ち入った理解が必要だろう。誤解は英語版に由来するものであり、英語版のほうも最近なおしておいた。

しかし、不満を感じないところまでなおすのは、ほぼこの記事と同じ範囲の話題を同じ程度の詳しさで講義することがあるわたしにとっても、簡単ではないと感じた。不満の内容はあとの3節で述べるが、翻訳に由来するのは人名の表記の件だけで、あとは英語版記事に由来する問題だった。ただし、そのうちにはWikipediaというしくみのもとでは避けがたいものもあるかもしれないと思った。不満の内容をWikipedia日本語版の「雪氷圏」の「ノート」ページに2015年6月11日-15日に書いたのだが、ここでもう一度、組み立てなおして書いてみる。

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翻訳によってできた「雪氷圏」の記事には「人名(年)」の形の表記がある。「グロイスマンら(1994a)は...」「...がカリーら(1995)によって示された」「これらの変化は...に関与する(ウォルシュ 1995)。」といったぐあいだ。地球物理学または地理学論文を読み書きした経験のある人ならば、これは文献参照にちがいないと気づくだろう。これらの分野では、参照される文献は著者名の辞書順(欧文ならばアルファベット順)の文献リストにまとめ、本文には著者名と出版年を書いてリスト中の項目と対応づけるのがふつうなのだ。(著者名も年も同じものが複数あるときはa, bなどを添える。本文にとって「著者名(年)」が、文献をさす記号として扱われるか、著者である人物をさすかは、場合によってどちらもありうる。)

「雪氷圏」の記事には、「参考文献」のリストがついていて(英語版ではその部分の表題はFurther Readingとなっているが)、本文中にある「著者名(年)」のうちいくつかの書誌情報はその中にある。残念ながら全部ではない。

Wikipediaは、出典とする情報源を明記せよという規範があるが、情報源が文献である場合の標準的な参照の形式は、「著者名(年)」ではなく、脚注であるらしい。「雪氷圏」の記事の「著者名(年)」のうちにも、脚注がついていて、その先に書誌情報があるものもある。(たとえば、Groisman et al. 1994aの書誌情報は脚注に、1994bは参考文献リストにある。)

しかし、「著者名(年)」があるのに文献リストにも脚注にも書誌情報が出てこないものもある。これは「情報を出典にさかのぼれるようにする」というWikipediaの趣旨から見て、(形式的でなく実質的に)欠陥だ。どうしてこうなったかは見当がつく。編集者Aが「著者名(年)」の形で文献参照を書きこんだ。おそらくAは対応する書誌情報も書きこんだのだが、別の編集者Bが、「人名(年)」が文献参照を示すものだと気づかず、文献リストはさらに知りたい読者に勧める文献だけあげればよいと考えて、書誌情報を削ってしまったにちがいない。【Aは、他のWikipedia編集者も「著者名(年)」が文献参照を示すと思ってくれると期待した点で、いわば世間知らずだった。しかし、この記事に限っては、Bはおそらく地球物理学・地理学の専門文献を読んだ経験がなく、この記事の内容を適切に書きかえるのに充分な基礎知識を持っていなかっただろう、とも推測される。もっとも、Aも、参照されるそれぞれの文献の内容を理解して参照を書いたとは限らず、「たね本」にあった文献参照をそのまま書き写した可能性もある。】

なお、この記事の日本語版では、本文中に現われる人名をかたかな表記にしてしまった。日本語としての音読のためにはよいことだが、文献リストや脚注での著者名はアルファベット表記のままなので対応がつきにくくなったし、リストにも脚注にもない文献を検索するためのキーがすぐには見つからなくなってしまった(英語版が変わらないうちはそちらを参照すれば見つかるが)。人名が欧文文献の著者名として使われている場合は、本文中の人名に原つづりを(も)残すべきだったと思う。

記事のうちに文献参照があるならば、それに対応する書誌情報がそろっているべきだと思う。

書誌情報を集めるところまでならば、わたしがその気になって数時間かければできそうだ。Wikipediaは編集履歴が残っている。消えた文献書誌情報は英語版の旧版のどこかにあるだろう。あと(4節)で述べる「たね本」を見たほうが早いかもしれない。「たね本」のほかから持ちこまれたものも著者名と内容キーワードGoogle Scholarか何かで検索すれば見つかるだろう。

しかし、「その気になる」に至っていない。

ひとつには、集めた書誌情報を統一された形式で記述するのには、Wikiの書式、とくにWikipediaの文献参照用に発達してきた複雑なテンプレートの書式を理解しながら、編集作業に時間をかける必要があるからだ。また、その「統一された形式」は、もしわたしが決めるならば次のような間接参照の形にしたいと思っているが、それがWikipediaで認められるか、認められたとしても続いて編集する人に引き継いでもらえるか、自信がない。

  • 著者名アルファベット順の文献リストをつくって書誌情報はそこに置く。
  • 本文中の文献参照は本文から脚注を見に行く形にする(Wikiの脚注用テンプレートを使ってリンクをつける)。本文中に文献参照のために「著者名(年)」を書くのはやめる。(著者名と年を書くのは、その主張がその著者によってその年になされたという事件を記載したい場合、またはその文献を重要文献として特筆する必要性がある場合に限る。)
  • 脚注には書誌情報を書かずに「著者名(年)」だけを書いて文献リストを見に行くようにする。(これもリンクにしたいが、わたしにはWikiでのやりかたがわからない。このブログでやっているようにHTMLタグを直接書けばリンクできるがWikipediaでそれをやってはまずいだろう。)

もうひとつ、記事の題材選択にかかわる問題がある。「著者名(年)」の形で出てきた文献のうちには、わたしから見て、百科事典の記事の情報出典としてふさわしいものもあるが、そう思えないものもある。(そう考える事情は次の4節で述べることにする。) しかし、もし全部の書誌情報の形を整えてしまうと、それ以後の編集者が削るのをためらって、不要な文献参照が固定してしまうだろうと思うのだ。

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参照されている文献には、研究論文もあれば、教科書的な本もあった。教科書的な本のうちには1970年代のものもあるが、それはおそらく学問的に変わりにくい内容についての参照であって古すぎることはないのだと思う。しかし、数量を示すものや、雪氷の変動の特徴に関する知見を示すものが、ほとんど1990年代の研究論文だというのは、今この主題で解説を書くのには時代遅れではないかと感じられた。今ならばもっと新しい適切な文献があるだろう。わたしはこの分野の研究論文を追いかけていないので、あと(5節)で述べる入門教科書的な本をあげることしかできないのだが。

英語版の編集履歴をさかのぼり、文字数が大きく変わったところを見たら、この記事の内容の大部分は、2006年7月の大幅増補を引き継いでいるようだ。そして、それに関連するTalkページ(日本語版の「ノート」に相当)を見ていくと、いわば「たね本」として「NASA (1999) EOS Science Plan」という出版物が使われていることがわかった。 Talkページからのリンクが切れていたが、その行き先のサイト中を検索すると、PDFファイルも見つかった。EOSはEarth Observing Systemで、当時NASAが推進していた人工衛星による地球観測の構想だ。この文書はその計画でどんな科学的成果を期待するかを述べたものだ。300ページ以上あるが、雪氷圏に関係するところは第6章「Cryospheric systems」にちがいない。雪氷圏に関する観測計画を論じているのだが、まずその背景として、雪氷圏はどんなもので、どんな変動があるか、それは気候システムのうちでどんな働きをしているかが述べられている。その記述は雪氷圏の概論として悪くはない。しかしそれに頼った結果、2006年に書かれたにもかかわらず、材料が「1999年現在の最新のもの」ばかりになってしまったわけだ。

おそらくこのNASAの報告書が材料として選ばれた判断には、NASAがアメリカ合衆国連邦政府役所であり、その出版物は著作権法上public domain扱いされるので、材料の再利用に法的制約がない、ということが含まれているだろう。

そこで気づいたのだが、記事本文中に「図1」(英語版ではFigure 1)とあるのだが、対応する図が見あたらない。これは英語版に由来する編集上の欠陥だ。(編集者が意図的に図を取り除いたのならば図への参照をも消すべきだった。) さかのぼって確認していないが、NASA (1999)のFigure 6.1が引用されていた可能性がある。英語版の履歴に、画像は著作権侵害の疑いがあるので消した、という趣旨のものがあった。Talkページで、出典がアメリカ連邦政府出版物なのでpublic domainであることが示唆されているが、だれも図を復活しなかった。(Figure 6.1のcaptionには図の提供者らしい人名が書かれている。Wikipedia英語版編集者に、図の提供者の承諾をもらうべきだが連絡のとりかたがわからない、という判断があったかもしれない。) ただし、わたしは、この図を復活するのがよいとは必ずしも思わない。本文に出てくるフィードバックの理屈を理解した人が自分で作図したほうがよいものができそうだと思う。

本文にも、(わたしはまだ照らし合わせて確認していないが) NASA (1999)の文章の記述をひきうつしたところが多いだろうと思う。

ところが、その後の編集者が、NASA (1999)の話の筋を知らずに、別の材料から得た情報を途中にはさみこんだので、論旨が通りにくくなっているところもあると思う。

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雪氷圏について、あらたに記事を書くとすれば、雪氷圏に関する大学レベルの教科書的な本を一冊読んで要点をまとめるのがよいと思う。幸い、Marshall (2012)の本がある。

ただし、ともかく記事ができている現状から出発してそれを実現しようとすると、そこに本の要点を加えていくだけではなく、今ある材料のかなりの部分を削ってさしかえることになる。

しかし、Wikipediaでは、記事の一部分を削ることは、まちがっているとか出典不明とかいう理由ならば決断できるが、まちがっておらず出典も明示されているが重要性が低いという理由では合意が得にくく(あるいは書きこんだ人への遠慮があって)、記事が必要以上に長くなることが起こりがちだと思う (これはわたしのささやかな経験に基づく主観的印象で、客観的証拠によって起こりがちと言えるかは未確認だが)。

雪氷圏の記事に限っては、新しい材料とのさしかえで現状の記事に含まれた材料が消されることに抵抗する人は現われないと予想しているのだが。

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そういえば、わたしが大学の専任教員だったときに、学部3年生のセミナー科目で、英語で書かれた専門入門的文献を読んで要点をまとめるという課題を出していた。英語の科目ではなく専門科目で、学生が専門分野の内容に慣れるとともにその分野で使われる英語の表現にも慣れることをねらったものだった。またそのような授業を担当する機会があれば、Wikipediaの記事をつくることを到達目標にすることも考えられるかもしれない。ただし、その場合には、まだその題目の記事がない用語を選ばなければならない。

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もう少し一般的課題として、学問の各専門の基礎概念を説明する記事がオンラインにあるとよいと思うのだが、それをWikipediaという制度を利用して作ることには悲観的になっている。理論的概念の説明には、ひとりの著者の構想のもとに、ある程度まとまった長さの記述をする必要があると思う。その分野の専門家は、とくに文献を参照しなくても基礎概念を講義できるだろう。しかしWikipediaではそれは「独自研究」という名のルール違反とされるので、細かく出典文献をあげなければならない。(記事全体に参考文献を示しておいただけでは不足とされ、段落ごと、ときには文ごとに、その情報の出典は何かを示すことが求められる。) 複数の文献から材料をとりながら、それぞれの文献に忠実な表現をするとつながりがわかりにくくなり、論旨が続くように表現を文献と変えると「独自研究」とみなされるおそれがある。

そして、せっかくA氏が筋がとおった形で記述しても、その筋のとおしかたを充分に理解していない(あるいは理解しているが別の主張をもっている) B氏が別のことを書きこんで、筋がわかりにくくなってしまうことが起こるだろう。A氏もほかのだれも、記述の一貫性を保つことができない。

Wikipediaの、だれでも執筆者(「編集者」)になれることや、頻繁に書きかえができることは、その魅力的な特徴でもある。それは、根拠があやしい情報が勢いよく書きこまれてしまうリスクを伴う。その対策として、Wikipediaの外の信頼できる情報源に基づくことを明示せよというルールができたのはもっともだと思う。たまたまそういう対策が選ばれる道をたどったのであって、違う可能性もあったと思うが、今から根本的にルールを変えるのはむずかしいだろう。Wikipediaはそういう特徴とルールをもつ世界なのだと思ってつきあっていくしかないのだろう。

そういうWikipediaにも栄えてほしいのだが、基礎概念のウェブページ群の整備は、Wikipediaとは別の体制で作る必要があるのだろうと思う。技術はWikiでもよいのだが、執筆者をある程度限定して、執筆者間で編集方針に関して了解しあう必要があると思うのだ。(それであいいれない場合は、相互干渉しない別のプロジェクトに分かれるべきだろう。) 編集体制としてはたとえば、「記事ごとに責任著者が明確になっていて、それ以外の人は改訂案を出すことができるが、それを採用するかどうかは責任著者が決める。ただし責任著者がその判断をする時間をとれなくなった場合は責任著者を交代する」という形が考えられると思う。(一例であってこれが最適という主張ではない。この例はオープンソースソフトウェアの開発体制を参考に考えた。)

基礎概念のウェブページ群が、十年の時間規模で持続して、Wikipediaから「信頼できる情報源」とみなされるような評判を確立できるとよいと思う。それは孤立した個人の努力ではむずかしく、少なくとも数人の人が共通の意志をもって活動する必要があるだろう。内容の編集の中心になる人とはおそらく別に、プラットフォームとなる計算機やそのソフトウェアの設営・維持管理をしてくれる人と、その費用をまかなうしくみが必要だ。学会などの組織の事業として企画するべきだろうか? そのサイトに意義を感じた人が寄付をするように誘導すること・抵抗を低くすることが重要だろうか?

文献

2016-01-27

「まなざす」についての議論をきっかけに、専門用語のこと、ことばつくりのこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2016年1月26日ごろ、Twitterで、「まなざす」ということばを使った議論をしている人たちと、「まなざす」ということばは日本語として変だと言う人たちとの間で、感情的な言い合いが起きているように見えた。

Twitterという場の次のような特徴が、このような状況で感情的すれちがいを起こしやすいのだと思う。

  • 字数制限がきびしい。短い表現を使いたくなる。その意味の説明は省略されることが多い。
  • なかまうち向けの発言と全世界向けの発言との区別がない。(なかまうち向けに徹するならば「鍵つきアカウント」という方法もあるが、それでは、なかまをふやすことがむずかしい。) 書いたほうはなかまうち向けのつもりでも、公共向けの発言としてふさわしくないと非難されることがある。

「まなざす」ということばは、いくつかの人文系の専門分野での専門用語(technical term)であるらしい。

わたしにとっては、「まなざし」という名詞は、自分からはほとんど使わないが、わかることばだ。しかし「まなざす」という動詞はよくわからない。とりあえず「見る」とあまり違わないと思って、それを含む議論のおよその意味を推測することはできるが、正確にわかったわけではないので、議論に参加することがむずかしい。

名詞「まなざし」から動詞「まなざす」がつくられたことについて、言語学者のdlit さんが[2016-01-26「動詞「まなざす」は“日本語として”おかしいか」]という記事を書いている。わたしは(専門的評価はできないが)その議論はもっともだと思う。

それを見ながら、わたしは、(「まなざす」という例に限らず)「専門用語を使うこと」と「用語をつくること」についていろいろ考えるところがあった。この記事ではそれを述べたい。

なお、わたしはここで、「まなざす」ということばを使って議論されていた問題を論じることはしない。(その問題についてはよくわかっていないのだ。)

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専門家の集団とその用語については、このブログ[2013-03-05「複数の専門の用語体系を使える人をふやすために」][2012-11-23「各専門は、それを副専門にする人のための研修の場を」]で論じた。各専門集団はそれぞれ用語体系を共有する。用語の意味は、ときには明示されていることがあるが、多くの場合は専門集団が共有する暗黙の知識になっていて理解するためには専門集団の人と接触して勉強する必要があることが多い。

専門は多重構造になっている。たとえば、(このブログの「気象むらの方言」のカテゴリーの記事群で述べてきたように) 気象学の用語は、広い意味の物理科学に共通なものと、気象学独特のものとがある。また、同じ人が複数の専門の用語を使いわける必要があることもある。ひとりの人が複数の分野の専門家になることはなかなかできないが、自分の専門以外の分野の専門用語を理解して使うことは努力すればできるし、そういう人(わたしは「通門家」と呼びたい)がふえるべきだと思う。

「まなざす」の意味を知ろうと思って検索をかけたら、「東大誰でも当事者研究サークル (文責:べとりん)」の[「まなざし」って何?]というページが見つかった。ただし、表題にも現われているようにこれは名詞「まなざし」に関するものだ。また、学生サークルのページであり、内容が的確であるかどうかはわからない。ともかく、「まなざし」ということばを使っている思想家(哲学者など)は複数いて、人によってその用語がさすものは違いがある、ということはたぶん確かだろう。「まなざし」が人文学の専門用語(あるいは「思想用語」というべきか?)であることを理解しても、書き手と読み手が別々の思想家の議論に基づいて意味をとらえていると、議論のすれちがいが起きそうだ。

わたしは「まなざす」のような専門用語を公共の場で使うなと主張するつもりはないが、もしそのことばを使う人がわたしのような者を議論に参加させたいならば、意味の説明を添えてほしいと思う。ネット上ならば、説明の文章があるページへのリンクを示せばよいと思う。

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専門的な議論をしようとすると、ときに、専門用語を作ることが必要になる。説明すると長くなってしまうことを、短い記号で操作したいことがあるのだ。

「仕事」のように日常用語と同じ単語に別の意味をのせるのと、1860年代に「エントロピー」ということばが作られたように新しい概念には新しい用語をあてるのとには、一長一短がある。

日本語の語を構成する要素には、大きく分けて、やまとことば[注]、漢語、西洋からの外来語の3つの層がある。

  • [注] この「やまとことば」は、漢字がはいってくる前から日本で使われていた言語をさす、苦しまぎれの表現である。「やまと」について、沖縄との関係、出雲との関係、東国との関係などを考えだすと、使ってよいか疑問を感じる。「本来の日本語」という表現を使うことも考えたのだが、漢字がはいってくる前の日本列島に単一の言語が確立していたような印象を与えるのもまずいとも思う。

日本語の専門用語には、漢語の要素から組み立てられたものが多い。明治時代、やまとことばと漢語の両方の提案があって、生物の分類の名まえ(和名)や、物理学のいくつかの概念に、やまとことばが残ったが、大部分は漢語が勝った。漢語を使うことには、東アジア共通の語彙をつくるという積極性もあった。しかし、日本語にとっては、発音が同じで文字がないと区別できない用語が大量に生じるという欠点があった。(中国語朝鮮語ベトナム語でも同音衝突はあるものの、日本語よりはよく区別できる。)

20世紀後半ごろからの新しい用語は、西洋語からの外来語が多くなっている。やまとことばだけでなく漢語から用語を組み立てる機能も、弱まっていると思う。

わたしは、新しい用語を作りたいときや、用語があっても聞いてわかりにくいときに、やまとことばの要素から組み立てたいと思う。次のような思いつきを書いてみたことがある。

  • 「不可逆性」は「もどせなさ」のほうがよいと思った。しかし「可逆性」をどうするかで詰まってしまった。(別ページ[2006-04-25「もどせなさ」])
  • Sourceが「みなもと」ならばsinkはなんだろう、と考えて「みなずえ」に至ったのだが、時間をかけて紹介できる場でないと使えそうもない。(別ページ[2006-06-06「sink ... みなずえ(?)」])

「まなざす」の場合に見られたように、やまとことばによる用語は、日常用語と似たひびきを持っているにもかかわらず、日常用語そのものでないので、気もちが悪いと感じる人が出やすいのだろう。しかし、試みがふえれば、気もち悪く感じることは減ると思う。

なお、漢語の要素から組み立てることについては、漢字二字以上の熟語を単位としてさらに複合語を作るのはよいが、単漢字から新たに組み立てることは考えないほうがよいと思っている。

2016-01-25

太陽光発電の性能と副作用について、一気象学者が知っていること

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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わたし太陽光を利用することがこれからの人間社会にとって重要だと思っている。ただし、現代の日本などの工業国の電力需要の構造を変えないまま太陽光でまかなえるというような楽観論には賛成しない。太陽光の特性を知り、それに合った利用のしかたを考えていく必要があるのだ。世の中には、太陽光発電の性能についても、副作用についても、過大評価もあれば、過小評価もあると思う。それを訂正していく必要を感じる。ただし、わたしは電力技術について専門知識をもっているわけではない。しかし、太陽光発電の性能にも副作用にも、気象にかかわる要因があり、その部分については、わたしのほうが太陽光発電専門家よりも知識があるかもしれない。そういう立場から、最近ネットや本で見かけた話題をきっかけに考えたことを述べてみる。

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自分で確認していないのだが、ある雑誌か雑誌のようなウェブ媒体の報道記事で、ある太陽光発電所の電力生産量を、kW単位で示されるその発電能力に、日照時間をかけて概算したものがあったらしい。それに対して、そこでいう発電能力はピーク性能であり、日照がある時間のうちでもピーク性能が出せる日照条件の時間はごくわずかなので、その概算は明らかに過大評価だ、という批判があった。

では、太陽光発電所の電力生産量を概算するにはどうしたらよいだろうか。(このあとに続く「(*)」印をつけた気象学用語説明[2015-07-05の記事]を見ていただきたい。)

光を電力に変える装置は「太陽電池」と呼ばれる。太陽電池の種類によってそれぞれ、電力に変えることのできる(「有効な」と言うことにする)光の波長範囲が限定されている。正確ではないがおおざっぱに言えば、太陽電池が出す電力は、有効な波長範囲の光として供給されるエネルギーの流れに比例する(つまり、エネルギー変換効率が一定)と見てよいようだ。ただし、この比例関係には限界があって、光があまり少なければ発電しないし、あまり多ければ頭打ちになるかこわれてしまうだろう。しかし、太陽光発電で普通に使われる条件では、頭打ちは考えなくてよいらしい。

そして、有効な波長範囲の光のエネルギーの流れの、太陽放射の全波長のエネルギーの流れに対する割合も、おおざっぱに一定とみなすことができる。そして、直達日射(*)と散乱日射(*)とに対する太陽電池の感度はあまり違わないようだ。そこで、ひとまず、太陽電池の面が水平に置かれる場合を考えれば、太陽電池が各瞬間に出す電力はその瞬間の全天日射量(*)にほぼ比例すると見てよさそうだ。

ただし、気象学でいう全天日射量は、水平面から上の半空間に光をさえぎるものがない条件を想定しているが、現実の太陽光発電所では山や建築物などにさえぎられることもあり、その部分は割り引いておかなければならない。

なお、太陽電池の面の向きを、太陽と自分を結ぶ線に垂直に近づけたほうが、太陽電池の面積あたりで受ける直達日射のエネルギーをふやすことができる。しかし、散乱日射はあまり変わらない。太陽電池の面を傾けることの効果は、日射が全部直達日射だと仮定して幾何学的に計算したものと、水平面と変わらないとしたものとの、中間のどこかになる。

太陽光発電が順調に働いていれば、発電される電力の時系列(たとえば東京電力http://www.tepco.co.jp/csr/renewable/megasolar/index-j.html の「データで見るメガソーラー」のリンク先にある発電所ごとのグラフ)は、ほぼ日射量の時系列を示し、比例定数さえわかれば換算できそうだ。

設置前に電力を見積もるには、その地点付近での全天日射量の情報があれば、それを使うのがよい。ただし、日射量は、日周期変化や季節変化のほかに、毎日の天気による変化もあるし、年々変動もある。長期にわたって観測が続いている地点の情報を参考にするべきだろう。見積もりたい地点と観測が続いている地点との日射の特徴がどれだけ似ているかを考えるには、気候学の知識が参考になるだろう。ひとまず、日本のうちでの場所による日射の違いをもたらす気候要因を説明ぬきで列挙しておく。

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日照時間(*)は「日照がある時間」ということができるが、ここでいう「日照がある」とは、直達日射が、あるしきい値(WMOの定義によるならば120 W/m2)をこえることだ。日照がある時間のうちでも日射量は大きく変化する。また、この意味での日照がなくても、散乱日射があれば、全天日射量は正の値をとる。だから、全天日射量(さらには太陽光発電の電力)は、近似的にも、日照時間に比例するわけではない。

しかし、1日ごとあるいはそれより長い期間でまとめると、日照時間の多い日は全天日射量も多い、という傾向はある。両方の観測値がある地点について、日照時間から全天日射量を求める経験式を作れば、気候学的にその地点と似た日射の特徴をもち、日照時間の観測がある地点の全天日射量を推定することができる。

大気上端に入射する日射量」(*)は、太陽が出す放射のエネルギーの流れを一定とすれば、地球の自転・公転に関する幾何学的計算で求めることができる。また、それぞれの1日のうちで「大気上端に入射する日射量」が0でない(正の)値をとる時間を「可照時間」と呼ぶことがある。経験式を作る際には、日照時間は可照時間に対する割合、全天日射量は「大気上端に入射する日射量」に対する割合として、規格化してやったほうがよい。

実際に日照時間から日射量を推定した研究例もあるが、ここでは基本的考えかたを述べるところまでにしておく。

火山噴煙、黄砂、スモッグなどの濃いエーロゾルがあるときを別にすれば、太陽光をさえぎるものはおもに雲だ。太陽の方向に、ある程度以上に厚い雲があれば、直達日射は届かず、「日照なし」の状態になる。散乱日射はあるが、合計の全天日射は減ることになる。ただし、全天日射がどれだけ減るかは雲の厚さや種類にもよる。そこで、日照時間から日射量を決定論的に決めることはできないが、相関はあるので統計的に推定する式をつくることはできるのだ。

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太陽光発電がもたらす環境問題がいくつか考えられる。

わたしがいちばん心配するのは、太陽光パネルを配置する土地の整地・土木工事だ。これは太陽光発電特有でなく土地開発に共通の問題だが、工場などを建設する場合に比べて安上がりにすませているために、大雨の際の土砂流出などのおそれが大きい場合がある。

使用後の太陽光パネルの廃物問題もある。これはきちんと回収し、資源リサイクルまたは隔離する必要があるだろう。

気象学者としては、とくに、地表面エネルギー収支([2012-07-05の記事]参照)を変化させることによる環境への影響を考えてみたい。

太陽光発電で得られた電力は結局は廃熱になるだろうし、発電過程の不可逆性による廃熱もある。それだけのエネルギーは、「人工廃熱」と分類されるものにつけくわわると考えるべきだろう。

それに加えて、太陽光発電の効率はおおざっぱに言って1割程度だから、パネルが受けた太陽放射の9割はすぐ廃熱になってしまうと考えられる。これは温暖化をもたらすのではないか、という議論を見かけた ([桜井邦朋(2015)の本の読書メモ])。この「温暖化」は、温度上昇という意味であって、温室効果の強化という意味ではないが。

ここでは、太陽光パネルが置かれたところにはもともと地面(あるいは植生)があった、ということを思い起こす必要がある。自然の地面も、太陽光パネルも、それぞれ太陽放射のうちある割合を反射し、残りを吸収する(電力に変わる部分も吸収に含めておく)。【太陽熱利用の場合ならば、利用できるエネルギーを多くしようとして、反射率が小さいもの(黒いもの)を置くことになりそうだ。その場合は、地表面にとってのエネルギー収入が明確にふえ、廃熱対策が必要になるるかもしれない。】太陽光発電の場合は、太陽電池はたいてい温度が上がりすぎると効率が悪くなるので、反射率をあまり小さくはしない。おおざっぱに言って、反射率は自然の地面とあまり変わらないだろう。

【ただし、人工のパネルは自然の地面や植生よりも平面に近い形をしているので、直達日射が方向性をもったまま反射する部分が多くなる。近隣に住む人に、反射光がまぶしい、あるいは、反射光があたるところが暑くなる、という迷惑がかかっていることがあるそうだ。これは、太陽光発電所がもたらす公害問題であり、立地の際の環境アセスメントとして(その法的義務がなかったとしても不法行為をもたらさないために)評価しておくべき問題だと思う。】

さて、陸の地表面のエネルギー収支は、太陽放射のほかに、地球放射(熱赤外線)と、顕熱・潜熱の乱流輸送、地中熱伝導からなる。地表面温度は、これらの項がほぼつりあうという条件で決まる。太陽光パネルが置かれることによって、各項がどう変わるかはいちがいに言えないが、ふつう、パネルは水をためないので、自然の地面や植生の場合に比べて、地表面からの水の蒸発(そしてそれによる上向き潜熱輸送)が少なくなるだろう。すると、太陽放射吸収が同じならば、地表面温度が高め、上向きの顕熱輸送と上向きの地球放射が大きめになるだろう。これが大気にどういう影響を与えるか、そして下向きの地球放射がどう変わるかは、さらに、いちがいに言えないが、そのような間接的な変化は直接的変化に比べれば小さいだろうと仮定してみる。すると、太陽光パネルが置かれることは、他の多くの人工的土地利用改変と同様に、自然植生や農地と比べれば、ローカルな気温が少し上がり、湿度が少し下がる効果をもたらしそうだ。