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2016-12-02

地球温暖化懐疑論について、2016年12月の時点で考えること

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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地球温暖化懐疑論は、2006-2010年ごろによく聞いたのだが、少なくとも日本語圏では、最近は下火になっていると感じている。しかし、アメリカ合衆国では続いており、さらに、その大統領選挙で当選したTrump氏が当選後も温暖化懐疑論的発言をしているらしいので、政策決定にも影響をおよぼす可能性があるかもしれない。そこで、わたしとしても、温暖化懐疑論に対してどのように対応するか、考えておく必要があると思った。いくつかのちがった観点に思いあたり、それを並列に書き出しておくことにしたので、ひとつの筋のとおった論説になっていないことをおことわりしたい。

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ここでは「地球温暖化懐疑論」と「温暖化懐疑論」は同じことだとするが、そのことばの意味の広がりは、人によって、あるいは文脈によって、ちがうことがある。

いずれにしても、これは、すべてを疑ってかかる哲学的懐疑論ではない。

温暖化懐疑論の一例として、「温室効果熱力学第2法則に反する」という主張[注]がある。そのような主張をする人は、熱力学第2法則を疑ってはいないだろう。

  • [注] その具体的な議論としてよく聞かれるのは、熱が伝わる向きは高温から低温へに決まっているという認識を前提としたものだ。それは熱伝導の場合は正しいのだが、放射(電磁波)によるエネルギー輸送については正しくない。

他方、温暖化懐疑論に否定的な立場は、温暖化に関する科学的知見を無条件に信頼する立場ではない。一般に、ほとんどの科学的知見は絶対的真理だとわかっていることではなく、まちがいであるかもしれないという疑いは正当なのだ。ただし、すべてを疑ったら学術的議論を組み立てられないから、ひとまずいくつかの前提を真であると仮定して組み立てる。つじつまがあわない結果が得られたら、前提をひとつずつ疑ってみるだろう。このような疑いをもつことも「懐疑的態度」と言うことはできるが、そういう態度をとる人を「懐疑論者」とは言わないだろう。

「温暖化懐疑論」の場合の「懐疑論」は、否定論に近い意味だ。「温暖化はウソだ」と言うことは、否定論と呼ぶのがふさわしいが、「温暖化はウソである可能性がかなりある」と言う態度が、ここでいう懐疑論だ。

「温暖化はウソだ/ホントだ」という表現の意味も、人によってあるいは文脈によってちがうかもしれない。わたしの考える「地球温暖化はホントだ」という主張の意味は[2016-11-04の記事]に書いた。したがって、わたしは、温暖化懐疑論とは、「今後約百年間の気候について、『人間社会が化石燃料の利用による二酸化炭素の排出を続ける限り、気候の変化はおもにそれに支配され、世界平均気温は上昇するだろう』という見通しが偽である可能性がかなりある」という主張をさす、ということにしたい。

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2000年ごろから、地球温暖化は、「『温度上昇がすでにおきている』『その原因は人間活動由来の二酸化炭素である』(*)」という形で提示されることが多い。したがって、これへの懐疑論、つまり「『温度上昇は起きていないだろう』『温度上昇がすでに起きているとしても産業革命前にもあったゆらぎの範囲内だろう』『温度上昇の原因は人間活動由来ではないだろう』(**)」などの主張が、温暖化懐疑論と呼ばれることも多い。

しかし、(*)が正しいことは、今後約百年間の温暖化の見通しにとって、必須ではないのだ。

(*)のような議論は「detection and attribution (検出と原因特定)」と呼ばれるので、それを略して「D&A論」と呼ぶことにする。そしてそれを疑う(**)のような議論を「D&A懐疑論」と呼ぶことにする。

D&A論は、今後約百年間の温暖化の見通しよりもデータによる裏づけが少なく、不確かさが大きいのはあたりまえなのだ。

D&Aが疑わしいというだけの話ならば、「温暖化はウソだ」ということにはならない。ただし、温暖化懐疑論を主張したい人が、まずD&A懐疑論を持ち出し、それだから温暖化の見通しは疑わしいと論じることは多い。それに対応するには、D&A懐疑論に反論するか、D&Aが温暖化の見通しにとって必須でないことを理解してもらうか、どちらかが必要になる。

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温暖化の見通し(科学的知見)に対する懐疑のほかに、温暖化対策の必要性(社会的価値判断)に対する懐疑、というべきものがある。「温暖化は起こるだろうが、それは人間社会にとって困ったことではない(あるいは、もっと大問題があるのでそれに比べれば無視したほうがいい)」というような主張だ。わたしはこのような議論を「温暖化無問題」あるいは「温暖化問題懐疑論」と呼びたい。

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明日香ほか(2009)では温暖化懐疑論の幅を広くとらえた。そこで温暖化懐疑論として扱われているものには、ここでいう温暖化懐疑論、D&A懐疑論、温暖化無問題論を含む。

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藤原・喜多川(2016)は温暖化懐疑論に関する日本の出版物について調べた。対象は明日香ほか(2009)を参考にして地球温暖化の科学的知見への懐疑と対策の必要性への懐疑を含めている。

日本の新聞記事にはほとんど温暖化懐疑論は見られない。

日本での温暖化懐疑論を含む書籍の数は2006年以後に多くなった。英語圏の温暖化懐疑論の本では著者や出版者が保守系シンクタンク関係者であることが多かったが、日本では著者や出版者は多様である。

違いの理由として、日本の石油産業は石油メジャーとは利害が違うこと、日本では保守政治家の一群(「新環境族」と呼ばれた)が地球環境問題を政策課題として積極的にとりあげたことなどがあげられている。

この結果は、わたしがなんとなく感じていたことと一致し、それがデータで裏づけられたと思う。

ただし彼らが参照した英語圏の研究(Jacquesほか, 2008)は2005年までに出た温暖化に限らない環境問題への懐疑論を含む本を対象としたものであることに注意が必要だ。

また、Jacquesほか(2008)のいう「保守系」(conservative)と言うことばが、1980年代以来のアメリカが州国の政治の文脈で、政治思想を大きく「保守」と「リベラル」に二分する立場で使われていることにも注意が必要だ。「保守系シンクタンク」とは何かを述べているところの初めの部分を訳してみる(そこからの文献参照は省略した)。

保守系シンクタンクは、非営利の、公共政策に関する調査とadvocacyをする組織で、「自由企業」「私有財産権」「小さい政府」「国防」などの保守の中核的理念を推進するものである。従来のシンクタンクは適度に「客観的」な政策分析を提供したが、保守系シンクタンクは遠慮なく保守的な目的をめざす「advocacy」をする組織である。

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最近わたしは、ネット上の日本語圏で、温暖化懐疑論を見かけた。気候以外の件での政治的主張が大きくちがう複数の人が、温暖化に関しては似たような懐疑論を強く主張していた。本気でそう思って言っているのか、正しくないことを承知でウソをついているのかを判断するのはむずかしいが、アメリカの石炭・石油産業の利害関係者や小さい政府論のイデオローグとはちがって、ウソをついてまで温暖化対策を妨害する動機はなさそうなので、たぶん本気で思っているのだろうと推測する。

わたしが見た温暖化懐疑論者は、ほかの話題での論調から推測すると、自分の持論への信頼が強く、それを述べる活動によって持論が強化されるらしい。そして、信頼する情報源をしぼりこんでいるようであり、アメリカの情報を日本国内の情報よりも信頼する傾向がある。そういう人が、たまたま信頼していたアメリカの情報源から温暖化懐疑論をしいれて、自分の持論に組みこんでしまうと、いつまでも維持されてしまうようなのだ。

(日本のマスメディアは、メディア自身が温暖化懐疑論を主張することはめったになく、懐疑論者の発言を伝えたり記者個人が懐疑論をとなえたりすることはあるにはあるが散発的だ。しかしアメリカでは、両論併記の形で温暖化懐疑論をとりあげる場合が多く、共和党支持のメディアのうちには温暖化懐疑論が基調になっていることもあるようだ。)


アメリカで温暖化懐疑論を主張する人は、資本主義企業の自由を主張する人とかさなる傾向があるのだが、日本の出版物やネットで温暖化懐疑論を主張する人の政治思想は多様で、そのうちには、明らかに反体制・反大資本の人もいる。そういう人が、多くは「保守系シンクタンク」から発信された温暖化懐疑論を信頼して自分の持論に加えてしまうことがよくある。わたしはながらくふしぎに思っていた。

しばらく考えてみると、アメリカなどの自然科学者(おもに気象と関係ない物理学者)が、「保守系」の政治的主張をとりはらって、科学的知見への懐疑の形にしたものが、政治思想のギャップをとびこえて、日本の反体制的な人に受け入れられることが多いようだ。

市場への規制に反対することの一環としてCO2排出規制に反対する勢力は、宣伝戦術にたけた人を使えるので、政治傾向はだいぶ違っていてもCO2排出規制には賛同しそうな人を動かすために、意図的に政治的主張を薄めて、科学論争の形をとって広めている可能性はあると思う。

しかし、意図せずに、科学論争化によるとびこえがおきていることも多いと思う。

【「科学の政治化」(politicization of science)ということばがある。科学研究の内容が政治的動機に影響されることなどをさす。温暖化対策への賛否などの政治的論争が、温暖化の科学的知見に関する論争の形をとることも、「科学の政治化」に含める人もいたが、これはむしろ「政治の科学化」(scientization of politics)だと言われるようになった。】

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世の中に出まわっている文章やテレビ番組の中には、温暖化する見通しがあり、温暖化対策が必要である、という基本的主張はわたしから見てももっともであるものの、その内わけや論調が極端すぎてわたしには賛同できないものもある。(そのようなものをわたしは「温暖化脅威論」と呼ぶことがある。)

温暖化脅威論への批判に限っては、温暖化懐疑論者のいうことのほうが正しいと思うこともある。しかし、文字数の限られた場で、この認識を伝えることはむずかしい。(温暖化懐疑論者の文章であっても、温暖化脅威論者の文章であっても) その特定の論点に賛同を表明したことが、その文章全体の論旨に賛同したかのように伝わってしまう可能性はかなりある。論点を分解して述べるには、長い文章を書くことや、長い問答を続けることが必要であり、それができる場が必要だ。

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Trump政権で地球温暖化に関する政策がどうなるかは、予断で決めつけないほうがよいと思う。

しかし、ひとまず、わたしの主観的推測を述べてみる。

  • 地球温暖化の科学的見通しが大きくゆらぐことはないと思う。ただしその不確かさが強調されるだろう。気候の科学の研究が「不確かだからもっと研究が必要だ」という理屈で奨励されるか、削る対象になるかは、どちらもありうる。
  • 「温暖化無問題論」が聞かれやすくなり、二酸化炭素排出削減策やそれに関する技術研究は停滞してしまいそうだ。
  • 意図的気候改変(気候工学、geoengineering)の研究が推進されるかどうかも、どちらもありうる。温暖化無問題論に徹すればこれも不要なはずだが、「低い確率で危険があるので非常処置を用意しておく必要がある」という主張が勢いをもつ可能性もある。

文献

2016-11-25

パーセント・ポイント、任意の単位を数えることばがないこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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現代の日本語で「ポイント」ということばはさまざまな使われかたをする。(試験の点数は「点」であってあまり「ポイント」とは言わないと思うが、スポーツの得点については言うかもしれない。また、商業で売り手が買い手におまけを提供する際に、数量の単位になっている。)

しかし、テレビのニュースでアナウンサーが読んだ原稿に、数値に続く形で「10ポイント」のような形で出てきたら、たぶん、これから言う、比率をあらわす「パーセント」に関連した意味だと思う。

なんの比率でもよいのだが、たとえば、世論調査で、ある党の支持率が、前回(たとえば1年前)には20%で、今回には30%だったとする。ここで、「今回は前回よりも10%ふえた」と表現されることが、昔(わたしの記憶がまちがっていなければ1980年代まで)はあったと思う。しかし、今では「10ポイントふえた」という。これは、社会調査などの報道を聞きなれた人にはわかるだろうが、大部分の人にとって意味不明だろうと思う。

英語ならばどう表現するか、わたしはまだ確認していないが、たぶん「10 percent point」だろう。日本語でそれを外来語として使うならば「10パーセントポイント」というべきだが、それでは長すぎると感じられて「ポイント」になってしまったのだと思う。

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これを「10パーセントふえた」のように言うのを避けるようになった理由はわかる。

世論調査の例で、たとえば、(推定された)支持者数が 2千万人から3千万人にふえたならば、支持者数は1.5倍になったわけであり、増加割合[注]で表現すれば、50%ふえたことになる。

  • [注] これを「相対増加率」と言う人もいると思う。実はわたしはそう書こうと思ったのだが、[2015-05-07の記事]でとりあげた「相対増加率」の「率」は、英語で言えばrateで、単位時間あたりの量をさしていた。今の記事で扱っているのは、単位時間あたりでない、別の数量だ。同じ語を別の意味で使うのは避けることにする。

支持率(これは単位時間あたりの量ではない。たぶん有権者のうちの支持者の割合の推定値だろう)が 20%から30%にふえた場合も、支持率の増加割合で表現すれば、50%ふえたことになる。ただし、実際に同じ文で、支持率をパーセントで示しながら、支持率の増加割合もパーセントで示すのは、とてもわかりにくいので、避けるだろう。しかし、支持率の数字を省略して単に「支持率が50%ふえた」と述べることはあるので、「10%ふえた」は「まちがい」だと言ってよさそうだ。「パーセント単位で示した支持率の数値が10だけふえた」ことを述べるには別の表現が必要であり、苦しまぎれで導入されたのが「ポイント」だったにちがいない。

【この例で「今回の支持率は前回のよりも10%だけ多い」と言うならば、理屈としてまちがってはいないと思う。しかし、もし増加割合を述べていると思われるとまちがった数値が伝わってしまうので、この表現もやはり避けるべきだろう。】

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一般に、「いま注目している表・グラフに表示されている単位で10」のようなことの、短い表現がほしいのだが、日本語で定型として確立したものはないようだ。「10単位ぶんふえた」のような表現もなじみがないものと感じられる。何であっても「ポイント」を使って「10ポイントふえた」のように表現すると決めてしまって、しばらく使い続ければ慣れるだろうか? もっとよい語があるだろうか?

衛星測位、GNSS、GPS

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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わたしは大学で「地理情報学」という科目を担当していた2000年に、教材ページ[位置情報の取得の手段: GPS]を書いた。その後、この技術の進展を反映して改訂するべきだと思ってはいるが、実際の改訂作業はできそうもない。このような「古くなった情報のページ」を公開しつづけるべきなのか、取り下げるべきなのか、迷っている。

今では、このページの主題にふさわしい表題は「GPS」ではなく「GNSS」だろうと思う。しかし、本文中の単語を機械的に置きかえるわけにはいかない。GPSという語が出現するごとに、どちらの意味で使われているか考える必要があるのだ。

考えてみると、技術の目的を指定した「測位」、その方法をゆるく限定した「衛星測位」、細かく限定した「GNSS」、そのひとつの実装である「GPS」という階層構造があるのだ。

新しく発達した技術にはありがちなことだが、アメリカ軍による実装にGlobal Positioning Systemという非常に一般的な名まえがつけられてしまい、初期には多くの(たぶんソ連軍関係者以外すべての)人にとって潜在的に利用可能な実装はそれしかなかったから、技術の名まえと実装の名まえを区別する必要がなかったのだ。その後、ロシアGLONASSの情報が公開されるようになり、ヨーロッパGalileo中国の「北斗」などの衛星もあげられるようになって、固有名のGPSと区別される普通名詞として「GNSS」(global navigation satellite system(s))ということばが導入されたのだが、すでに書かれた多数の文書にはその書きかえがおよんでいないのだ。

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「測位」というのはあまり見かけないことばだ。英語では positioning で、このことばの意味はとても広いと思うが、ここでは、地球上で自分のいる位置を知ること、と考えてよいと思う。日本語ではむしろ「位置決め」のほうが通じると思うが、複合語をつくるときには、やまとことば漢語の混成が嫌われて、「測位」のほうが使われているのだと思う。

この文脈に限っては navigation もほとんど同じ意味で使われる。Navigationは「海軍」である navy と同じ語源で、本来は「航海」だったはずだが、「航空」にも、陸上の移動にも使われるようになった。ひとまず直訳を「航行」としておく。電子技術を含む機械技術を使った「航行システム」と言えば、航行を自動制御するシステムの場合もある(少なくともミサイルの場合はそうだ)。しかし、人が航行するのを支援する情報を与えるシステムの場合もある(「カー・ナビ」は今のところそうだ)。この支援情報の主要な部分が、航行するものの位置の情報なので、navigation systemの主要な部分は positioning systemだということになり、navigationとpositioningが同一視されてしまうことさえあるわけだ。

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陸上で、精密な測量による地図が作られているところならば、野外と地図とで地形や人工物の対応を見ることによって、自分の位置を決めることもできる。

陸が見えない海上で、かつては、天体観測で緯度を、天体観測と機械式時計とを組み合わせて経度を知るしかなかった。

電波を使う技術が発達してくると、それが位置決めに応用された。海上の位置決めのために、一群の地上局から同じ規格の電波を出す、LORANやOMEGAというシステムが構築された。LORANは、複数の地上局からの電波の干渉を観測し、位相差から地上局からの距離の差を知る、というしくみだった。

人工衛星が利用可能になると、まず人工衛星の軌道を精密に決めれば、原理的には世界のどこでも位置を決められることになる。

最初に実用(ただし軍用)になったのは、人工衛星が発信する電波のドップラー効果を利用して、人工衛星と受信機との相対速度を知り、その情報を積み重ねることによって受信機の位置を決めるものだった。

GPSは、アメリカ軍によって1970年代に開発が始まり、1983年に軍以外の一般にも(精度の低い情報だけだったが)公開された。

GPSが使った技術を、一般的に「GNSSの技術」と呼ぶことにしよう。その原理は、三辺測量に近い。衛星の軌道が精密に知られていて、電波によって受信機と3つの衛星とのそれぞれの距離を知ることができれば、原理的には、受信機の位置がわかる。しかしこの考えは時刻が合っていることが前提だ。実際には電波が伝わるのに時間がかかるし、受信局が持つ時計はあまり精密ではない。GNSSでは、衛星には非常に精密な時計をのせ、その時刻情報をディジタル信号として電波にのせて発信する。受信機が4つの衛星からの信号をとらえて計算処理すれば、4次元時空の中での受信機の位置(第4次元は時刻)がわかるのだ。

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GPSを含むGNSSを利用する技術には、大きく分けて2種類のものがある。この区別は、専門外の人にはあまり知られていないようだ。(わたしはGNSSの専門家ではないが、気象学について教えることがあるので、この区別を知る必要がある人に含まれる。)

広く普及している利用方法では、電波に乗せられたディジタル信号を読んで処理する。この方法で、今ではおよそ 1 m の水平位置精度が出せる(鉛直はもう少しあらい)。Navigationが人による運転の支援情報を意味するのならば、この精度があればじゅうぶんだろう。(自動運転制御となると、これをそのまま使うわけにいかず、移動体自体の加速度の測定などと併用して計算する必要がある。) (1995年ごろまで公開されていた情報では水平位置精度がおよそ 100 m だったのでnavigationへの応用も楽ではなかった。) 気象の観測でも、船などの移動体による観測ならば、この方法で自分の位置を決める。この目的のGNSS受信機は大量生産されており、(次に述べるものに比べれば)安い。

もっと精密な位置決めのための利用では、(大まかな情報としてディジタル信号も使うのだが)、精密な情報をもたらすのは、信号をのせている電波(搬送波)の位相差というアナログ信号なのだ。たとえて言えば、手紙の文字よりも封筒のしわに重要な情報が含まれているのだ。日本では、国土地理院が、測量の基準として使われる「電子基準点」として、精密なGNSS受信機を配置している。これは測量の基準のほかに、地殻変動モニタリングのためにも使われている。また、気象庁がこれを天気予報のための水蒸気の情報源として使っている。精密な位置決めでは、電波の速さが真空中とちがってくることが重要で、その原因を分けると、電波経路の大気の総量、電離層の状態、水蒸気量がある。このうち水蒸気量の寄与は、GNSSの電波信号だけで決めることがむずかしいが、気象庁がすでに持っている情報だけで決めることもむずかしい。GNSSの位置決め精度を高めることと、水蒸気量の観測精度を高めることは、連立方程式のような関係になっていて、いっしょにやる必要があるのだ。

(わたしは、ここまでは説明できるのだが、これ以上詳しい話になると、教科書的文献を確認する必要がある。)

偏差、anomaly、異常

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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気候に関する学術論文では、「anomaly」という語によく出会う。日本語では「偏差」と「異常」を使いわける必要がある。

Anomalyとは、「平常からの はずれ」のことだ。ただし、この語が、定性的な意味で使われる場合と、定量的な意味で使われる場合がある。

定性的な意味で、anomaly があるというのは、平常の状態から明確にはずれていることだ。日本語の「異常」に対応する。

定量的な意味の anomaly は、実際に観測(あるいは推定・予測)された値と、それに対応する平常の値との差だ。値が小さくても anomaly はある。もし値がゼロだったら、「anomalyがない」と言っても正しいとはされるが、科学者による扱いはむしろ anomaly は存在するがその数量が 0 であるというものだ (表にanomalyという欄があればそこには 0 という数値がはいるのであって「該当なし」にはならない)。この anomaly に対応する日本語は「偏差」だ。ここで「異常」と書くのは、少なくとも気候・気象の文脈では、まちがいだ。(なお「偏差」に対応する英語はいくつもあり、代表は「deviation」だろう。)

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定量的な意味での anomaly (偏差) を考えるとき、平常(normal)の値として何をとるかは、考えている課題によって、まちまちだ。

気候に関する観測値の統計では、「平年値」というものが使われる。これは一定の約束に従った30年間の平均値だ。英語では normal なのだが、normal だけだともっと広い意味になりうるので、climatological normal のような表現が使われることが多い。季節予報の実務家も、研究者も、観測値からこの平年値をひいたものに注目する。その数値が「anomaly」「偏差」と呼ばれる。

気候の話題で偏差と言えば、この、平年値からのずれの量であることが多い。しかし、いつもそうとはかぎらないし、そうだとしても平年値がどの30年間のものかは自明でないので、それぞれの文脈での意味を確認することが必要だ。

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気候・気象の専門文献では anomaly ということばが定性的な意味で出てくることはほとんどないと思うが、形容詞の anomalous を見かけることはあり、それは「平常から大きくはずれた」(「異常な」)、という意味にちがいない。これはきちんとした定義のある学術用語ではない。ただし、それぞれの著者が作業用の定義をして使うことはある。似た意味の abnormal や extreme についても、日本語の「異常」や「極端」についても、同様なことが言えると思う。

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「重力異常」ということばがある。英語では gravity anomaly で、実際の重力と、緯度と地球中心からの距離で決まる標準重力 (もし地球が均質な楕円体ならばそこで観測されるべき重力)との差だから、気象学の人ならば「偏差」と言いたくなるところだ。これは、 遠くから見ると同じ「地学」の用語ではないかと思われるだろうが、気象学とは別の測地学(geodesy)という専門分野の用語、いわば「測地むらの方言」なのだ。測地学の成果を伝えるとき、他分野の人も、よほどさしつかえがなければ測地学の用語をそのまま使う。そうしないと情報の出典にさかのぼることがむずかしくなるからだ。

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英語の anomaly という単語の語源を、わたしはながらく「a-」が否定、「nom-」が(「norm-」とはちがうことはわかっているが) normal のような意味のことば (もしかすると「法則」のような意味のギリシャ語の nomos か?) と思ってきた。

しかし、この記事を書くにあたってちょっと調べてみると、そうではなく、「an-」が否定、「omaly」はギリシャ語で「平らな」という意味の「hōmalos」から来ているそうだ。「hōmalos」は「同じ」という意味の「hōmos」の関連のことばだそうだ。(とりあえずWiktionary英語版によった。あとで出典をきちんと示した辞書にあたってみようと思う。)

漢語起源の日本語の「平常」にも、よくありがちな状態をつないだものは 極端な状態も含めたすべての状態をつないだものよりも なめらかだ、という認識が反映されているように思う。そこで、この記事の頭で anomaly という語の基本的な意味の日本語表現を、「平常からの はずれ」としてみたのだった。

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Anomalyということばは、科学論またはメタ科学(科学的知識に関する学問的考察)の文脈で使われることもある。わたしが思い出すのは、Kuhnが、科学史の文脈で、当時の科学者が自然法則だと思っていたことに合わない観測事実のことを「anomaly」と呼んでいたことだ。日本語では「変則事例」と訳されていたという記憶があり、わたしも、それがこの文脈では適切な表現だと思う。

2016-11-12

学術政策について -- 「選択と集中」の発想の転換を

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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日本の今の学術政策 (「科学技術政策」とも重なるのだが文科系の学問も含むのでこの表現にしておく)について、大部分の学者が不満をもっていると言ってよいと思う。もちろん、国の予算には限りがあり、なんでも学者の望みどおりになるはずはない。しかし、現場の不満を減らすことが、社会全体にとっての価値判断から見ても、改善になることもあるだろう。

わたしは、現在は国立研究開発法人に雇われ、国立大学非常勤講師もしているという立場にある。その立場からの判断もまざるかもしれないが、なるべく社会全体にとって適切な国費・公費の使いかたという観点に立つように努力して、意見を述べたいと思う。

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要点を述べれば、基盤的経費(国立大学や国立研究開発法人の場合は運営費交付金)と競争的資金の間の配分が、最近は競争的資金に偏りすぎており、今後は競争的資金を減らしてでも基盤的経費をふやすべきだ、ということになる。

これと重なりのあることだが、「選択と集中」がよいことだとされてきたことに見なおしが必要だ。この標語を広い意味でとらえて、国の支出のうち義務的経費以外のものは政策の観点から重要なところに多く配分するべきだ、ということならば、原則としてはもっともだ。しかし、学術研究について、国が高い価値を認める成果をあげる見こみのある少数の研究者トップダウン[注1]選んで集中的に研究費をつけるべきだ、ということならば、それではダメである[注2]と言えると思う。「選択と集中」をかかげるのをやめるか、あるいは意識してその意味をつけかえることが必要だ。

  • [注1] ここでは「専門分野を構成する多数の人による集団的評価でなく国が選んだ少数の人の目ききによって」というような意味。
  • [注2 (2016-11-13追加)] 現場で使える基盤的経費が減っているうえに研究費のつけかたが「選択と集中」だと、選択された研究者は高い研究成果を要求されるうえに事務書類や会議にも時間をとられて疲弊し、選択されなかった研究者は資源不足で疲弊する。いわば「一将功ならずして万骨枯る」になってしまっていると思う。

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学術研究には、応用との関係が明確でないものも多い。これを「基礎研究」と呼んでおこう。(「基礎研究」は多少とも応用を意識できるものであって、そうでない「純粋学術研究」もあるという考えもあるが、ひとまず区別しないでおく。)

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この記事ではおもに基礎研究を論じたいのだが、さきに応用研究について述べておく。

研究開発資金さえつければ実用化できそうな見通しがある課題については、それを選んで集中的に資金をつけることが正当化できるかもしれない。

しかし、実用化が産業化ということならば、民間企業の自発的取り組みにまかせ、国の役割は標準の制定などに限ってもよいこともあるだろう。

産業にはなりにくいが行政の現場に需要がある場合は、その行政官庁が研究開発予算を確保して、大学などの研究者に研究費をつけることも、官庁が目標設定をして民間企業に研究開発を請け負わせることもできるようにするのがよいと思う。まだそういう制度をもたない官庁に制度をつくることが必要かもしれない。また、課題によっては、複数の官庁の職掌にかかわるものもあるし、もし研究開発が成功すると官庁の役割が変わってしまうものもある。そういったものについては、内閣のレベルで調整して、複数の官庁が共同で、研究開発を進めるとともに、実用化される際の業務再編成を準備するような態勢をつくることが必要だろう。

ここで述べたような応用研究を推進する政策は、どちらかといえば応用対象の政策(産業政策とか、環境政策とか)の従属物と考えられる。ここからさき、「学術政策」から、このようなものをはずして考えることにする。

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基礎研究のうちどれが社会の役にたつ応用につながるかを予測することは、だれにとってもむずかしい。そのうちどれかを選択して集中して研究費をつけることは、選択されなかった研究が結果として役にたつ応用を生み出す可能性をせばめてしまうことになるだろう。「ばらまき」と批判されても、同僚評価によってある水準に達していると認められた多数の研究計画に、あまり大きくない額の研究費を分配するほうが、すぐれた政策だと思う。

基礎研究の課題のうちには、大きな研究費がつかないと実現できないものもある。そのような課題の提案者どうしが限られた予算をめぐって競争することもあるだろう。そこで(同僚評価で合格のもののうちで)どれを選んで推進するかは、ほぼ偶然に決まってしまうだろうが、それはしかたがないことだと思う。(基礎研究の段階でも資源・環境問題などの懸念がある場合は、それを優先的判断基準にするべきだろう。)

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「選択と集中」と関連した動きとして、競争的資金でも、政策的に推進される研究でも、5年くらいの期限つきの事業が多くなっている。事業の期間が終わったあと続きや発展があるかどうかは、期限が近づいてから決まる。

研究事業だけを見れば、成果をあげれば続きがあるが、失敗すればおしまい、という扱いも、もっともだ。

しかし、研究は人がやるものだ。研究代表者だけならば、信賞必罰型の待遇もありうるかもしれない。しかし、研究事業には、研究労働者が必要だ。労働力は予算をつければ沸いてきて期限が終わればあとくされなく消えてくれるようなものではない。研究事業が始まるまでに知識や技能を修得している人が求められる。研究事業が失敗と評価されて打ち切られた場合、研究代表者には失敗の責任があるかもしれないが、その下で働いている労働者にとっては、本人はまじめに仕事をしているのに罰を受けることになる。このような体制では、すぐれた知識や技能をもつ研究労働者が仕事を続けることがむずかしく、さらに、研究労働者の適任者がその職種を選ぶことが減ってくるだろう。

研究労働者のうちでも、技能が民間企業でも通用し、両方向の転職が簡単にできるような職種については、あまり心配はないかもしれない。

しかし、それがむずかしい職種については、研究労働者を雇う人件費を、期限つきの研究事業経費ではなく、どこかの法人の基盤的経費としてつけて、雇用の継続性を確保するべきだと思う。

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基盤的経費が削られて競争的資金がふえていることによって、とくに大学の各教員が、学生(大学院生を含む)の教育に必要なものでさえ競争的資金を頼らなければならなくなり、次年度の予算規模があらかじめ予想できない状況の中で仕事の計画をたてなければならないという、困難な研究室経営をせまられている。

この件に関する限り、競争的資金(たとえば科学研究費)の総額を減らしてでも、基盤的経費をふやして、各教員が今後数年間の展望をもった経営をできるようにすることが急務と思う。

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競争的資金をもらうためには、研究者(大学教員を含む)は、申請書類を整えなければならない。研究成果が出れば学術論文だけでなく報告書を書かなければならない。そして、申請を選考するためにも、成果を評価するためにも、同僚研究者が動員される。近ごろ、研究者が忙しくなって研究自体に使える時間が減っているが、その原因のひとつは、学術予算の中で競争的資金が大きくなりすぎているからではないか?

資金自体についてみても、文部科学省の学術研究に向けた予算は全体としては少しながらふえているそうだが、現場の感覚では減っているというのは、資金の多くが競争的であることからくる摩擦損失のようなものがふえすぎているのではないか?

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学術知識は、各専門の同僚集団が、知識の枠組みを共有しながら、おたがいの研究成果を批判しあうことによって、品質が確保される。同僚集団は、同じ専門の研究者どうしがおたがいに批判的であるとともに協力的であることによって成り立っている。

ところが、競争的研究資金は、一定の予算を研究者間で奪い合うものになり、ある研究者にとっての得が同僚研究者にとっての損になってしまう。学術予算のうちでこのようなものの重みが大きくなりすぎることは、学術知識をつくるしくみの根本をそこなうことになりかねない。

研究費のつけかたは、学者どうしの(相互批判を含みながらの)協力を促進するものであるべきだ。

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学術研究や高等教育の予算全体に限りがあり、しかも新しい分野も必要になるなかで、今ある研究室を全部存続させるのは無理で、(これまで言われているのとはだいぶちがう)ある意味での「選択と集中」が必要になるだろう。

その際には、まず、貴重な知見をもつ専門分科の専門家養成と資料保全がとぎれないように、それぞれの専門分科の全国センター的機能を引き受ける機関に、(競争的資金ではなく)基盤的経費を、(時限ではなく)長期継続して保証してほしいと思う。

ここでいう全国センター的機能には、他の機関に属してその専門分科の研究にたずさわる人を支援することや、外国に対して日本の窓口になることを含む。そこには、単なる研究者ではなく、世話役的機能を引き受ける学者を配置する必要がある。

2016-11-11

地域別の選挙結果の分布図について考えたこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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アメリカ合衆国大統領選挙があった。

【その結果としてできる政権がどんな政治をするかについては、また別に考えなければならない。(G. W. Bush大統領のときの共和党の政治が復活するのか、Trump氏の新機軸がどれだけ加わるか、そしてだれがトップにいようと時代とともに変わらざるをえないこともあるだろう。)】

ここでは、おもに、地理情報の専門家でもある立場から気になった、地域別の人々の候補者(または政党)への支持傾向の表現について書く。そして、有権者意向と選挙結果の関連という観点から、選挙制度などについても少しだけ論じる。

【立場のちがう文章がまざってしまいました。2は社会の一員としての主張、3-5は地理情報の専門にかかわる人としての知識提供や感想、6-7はしろうととしての感想です。】

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本論にはいる前に、情報源について気になるところを述べておく。わたしはここ数日テレビを見ておらず、情報源としては、ネット上、おもにTwitterを見ていた。Twitterの投稿者がリンクしているウェブサイトの記事や図を見たこともある。しかし、わりあい多かったのは、テレビの画面captureだった。

テレビで報道されたことについてネット上で議論するために、テレビの画像を引用することは可能であるべきだと思う。しかし盗用はいけない。何が引用で何が盗用かについての合意ができてほしいと思う。情報の根拠をさかのぼれること(トレーサビリティ)、著作権情報提供活動の尊重(credit)のどの面からも、出典表示が求められるだろうが、Twitterなどでは字数に限りがあるし、画像の著作権者を確認することは困難だ。「どの局のいつの放送であるかを明示すればよい」といった原則ができるとよいと思う。また、人の顔が出ている画像は、肖像権プライバシーの考慮が必要かもしれない。これも、たとえば、犯罪被害者推定無罪容疑者の顔はだめだが、報道中のアナウンサーや報道の対象となっている政治家の顔ならばかまわない、といった合意ができるとよいと思う。インターネットは世界じゅうつながっているので、どれだけの人のあいだで合意を得るかはむずかしいが、たとえば「日本語圏のTwitterユーザーのあいだの合意を、日本の法律ともTwitterサーバーの置かれているアメリカの法律とも矛盾しないようにつくる」ことが考えられると思う。

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アメリカ合衆国には、民主党と共和党の二大政党がある。そして、少なくとも2000年以後、政党支持を地域別に見るとき、民主党支持者が多い地域を青、共和党支持者が多い地域を赤で塗る習慣ができている。

今回の選挙報道では、「ほとんどまっ赤」なアメリカの地図が示された。(州ごとに塗り分けたものでも、州の下の行政区域であるcounty [「郡」と訳されることが多い]ごとに塗り分けたものでも、そうだった。) しかし、実際の得票数は、わずかながら民主党候補のほうが多かったそうだ。州ごとの選挙人を選ぶという選挙制度(そしてその選挙人定数の決めかた)のせいで、正しいとされる手続きに従って共和党候補が当選となったのだ。

投票者のほとんど半分にすぎない共和党候補支持者が、地図上で大部分に見えることには、2つの要因がからんでいる。

ひとつは、多少とも支持者の多いほうの政党の色で、その地区を代表させてしまうことだ。アメリカ大統領選挙の場合、全部ではないが大部分の州で、多数をとったほうの党が全部の選挙人を得る、いわゆる「総どり」制度なので、これは見かけでなく現実の政治のしくみで起こっているシグナルの変換だ。

もうひとつは、地図を塗り分けると、人口にも選挙人数にも比例していない、地図上の面積がかかった形で情報が伝わってしまうことだ。共和党支持者は、人口密度の低いところに比較的に多い (逆に言えば、民主党支持者は都市に多い)。これは、情報を提示する方法によって起こる見かけの問題だ。

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地図の見かけの問題については、いくつかの対策がある。

決まった選挙人の数を示すならば、選挙人ひとりごとに一定の図形を置いて、それを赤や青で塗ればよい。

テレビ報道でも、六角形あるいは四角形のタイルをならべて塗り分けたものがあった。また、地図の各州の形をのびちぢみさせて図上の面積を(どちらか確認していないが)選挙人数か人口に比例させたらしいものもあった。これは、画面上の色の比率と伝えたい数量とを対応させるという目的に対してはもっともな方法だ。しかし、当然ながら地図としてはゆがんでしまう。見る人にとって、図上のどこがどの地域に対応するかを確認することは楽ではない。

地図はゆがめないで、選挙人に対するタイルを面積が小さな州にもおさまる大きさにして、面積が大きな州にもそのタイルを置き、残りは空白にしておく形も考えられる。ただし、画面の画素数がかなり多くないと読みとれないかもしれない。

地域(たとえば州)ごとの支持者の比率を示したいならば、各地域に一定の大きさの図形を置き、その中を塗り分けることが考えられる。W. S. Cleveland (1985) Elements of Graphing Data では、長方形の柱を立ててその中の液体の水位のような形で比率を示す方法を提案している[読書ノート]。わたしはむしろ、円を置いてその中の扇形を塗ったほうがよいと思う。これはわたしが円グラフが適切な表現方法だと思う数少ない場面だ([2012-08-15の記事]参照)。

地域ごとの支持者の数を地域間でくらべられる形で示したいならば、各地域に置く図形の大きさを変えることが考えられる。ただしここで問題は、地域(たとえばcounty)ごとの人口がけた違いのことがあることだ。人口が多いところにあわせると少ないところが見えなくなってしまい、少ないところにあわせると多いところの図形が地図上の地域から大きくはみ出して他の地域の情報を示す図形と重なるだろう。(図形を、球に見えるようなものにして、球の体積が人口に比例するようにすると、いくらかは同時に表現できる数量のけたの幅を広げられるが、読み手の知覚が体積をとらえられるかは確実ではない。)

【Twitterで見た画面captureのうちで、たぶんcountyごとの人口にあわせて大きさを変えた円を置いたものを見かけた。ただし「総どり」であるかのように相対的に支持の多いほうの党の色で塗ってしまっていたようだった(もしかすると中間の色も使っていたかもしれない)。ただ、tweetに出典が示されていなかったので、これを追いかけるのはあきらめた。】

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図上の面積の知覚の問題は承知のうえで、地域ごとの塗りわけという表現方法には捨てがたいところもある。

今回の、あるいは過去の(例は2008年だったと思う)アメリカの選挙のcounty別の政党支持の色分けを見ると、大都市や大学のある町で民主党支持者が多いのは予想どおりだが、そのほかに、アパラチア山脈の南東側に青い(民主党支持者が多い)曲線のようなものが見えるのだ。

これに気づいて、「滝線都市」(工業化初期に水力を利用した工業が立地したところ)と対応するのではないか、と考えた人がいた。そうではなくて、黒人の多いところであり、それはかつてサトウキビ栽培奴隷がつれてこられたところであり、その農作物の立地は地質条件によるのだ、という説も読んだ。

アメリカならばさまざまな地理データが公開されているから、因果関係はともかく相関を確かめることはできそうだ。ただし、地図を塗り分けるという表現方法では、複数の情報を細かい位置に注意しながら同時に見るのは楽ではない。対話型で、読み手が指示して表示対象変量や場所や縮尺を切りかえながら見ることができれば検討できそうだ。GIS (地理情報システム)のソフトウェアでできそうだが、わたしは自分がそれに慣れる時間をとれそうもないのでまだ踏み切れない。

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アメリカ合衆国の大統領選挙は、選挙人を選ぶ方式であり、選挙人の定数は上下両院の議員数で、下院はほぼ人口比例だが上院は州ごとに一定人数だから、有権者あたりの重みが人口の少ない州に多めになる。

これが連邦国家として発足した事情によることはわかるのだが、今では選挙人の名まえなど気にせず大統領候補者に投票しているのだから、単純な直接選挙にしたほうがよいのではないか、と、外国のことながら、思ってしまう。

直接選挙にした場合の欠点として思いあたるのは、もし接戦で数えなおしが必要になると全部の州で作業が必要になることぐらいだ。

(これは今回の選挙の民主党側からの負け惜しみではないつもりだ。)

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1970年代前半の中学・高校生のころ、学校の授業からだったか読んだ本からだったか忘れたが、「小選挙区制だと二大政党体制になる。二大政党体制だと両政党の政策は似たりよったりになりがちだ。」と習ったおぼえがある。

しかし、2000年ごろ以後のアメリカを見ていると、二大政党体制であることは変わらないのだが、両政党の政治家のとなえる政策が、反対党とのちがいを強調することのほうが多くなっていると思う。とくにG. W. Bush政権は「保守」(そのうちに、わざと雑な表現をすると、キリスト教原理主義市場原理主義という異質なものを含むのだが)であることを、それに対抗する民主党の政治家は「リベラル」(説明しにくい現代アメリカ独特の意味)であることを強調していたと思う。(今回は、Trump候補が従来の保守とはちがう方向だが中央から離れたが、H. Clinton候補は中央に近づいた、という印象があるのだが、これが適切な認識かは自信がない。)

二大政党の政策が近くなるか遠くなるかは、偶然にすぎないのだろうか? 何か事情が変わったのだろうか? たとえば、「人口のちょうど半分を満足させるような政策を設計すること」が、昔はできなかった(ので、政党はもっと多数の人びとを満足させるような政策を考えた)が、社会的技術が発達してできるようになってしまった、ということなのだろうか?

また、日本の場合は比例代表制を併用しているからかもしれないが、そうでないイギリスでも、小選挙区制なのに二大政党体制ではなく、一強多弱になっていると思う。

むかし習ったとおりでないことはわかる。ではどう考えを変えたらよいかはよくわからない。

2016-11-06

長期大学 -- 子育てと学業を両立できる場を

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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数か月前に、ある短大(短期大学)が、学生の募集を停止するというニュースが流れた。【その短大が公開している情報にはまだその件は出ておらず、2017年4月入学の学生募集は今までどおりするようなので、報道が正しいとすれば2018年入学の学生を募集しないということなのだろう。その短大が、学生がいなくなったら単純に廃止されるのか、何かの教育機関として生き残るのかも、わからない。】 ここではその特定の短大のことではなく、それをきっかけに、日本全国の教育に関する問題を考える。

短大の廃止は、30年以上前からいくつも聞いているが、事実上4年制大学に改組される場合が多かった。しかし最近は、4年生大学の需要にも限りが見えてきて、単純に廃止ということもあるようだ。

おそらく、高卒後2年勉強して就職あるいは専業主婦になるという人生コースの希望者が減ったのだろう。教養を得たいならば4年制大学がよい、職業向きの(大学卒を要求されない)資格を得るためならば専門学校がよい、ということなのだろうか? (未確認だが)

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短大の需要が減った代わりに、どんな教育機関が求められているのかを考えてみたくなった。ふと、「短期大学の反対」ということば遊びのような発想で、「長期大学」と言ってみたら、そういうものがあってもよいような気がした。

短期大学は、標準修業年限が4年の学士課程[注](いわゆる4年制大学)に対して、標準修業年限が短いものだ。その意味ならば、医学部などの標準修業年限6年の課程を「長期大学」と言うことがありそうだが、実際にはそう言う習慣はない。学士課程と大学院で同じところにかよい続けることに関する冗談表現として「長期大学」という表現はありうる(わたし自身、使ったような気がする)が、今はそれは考えないことにしよう。

  • [注] 英語でいうundergraduate courseを、大学院の修士課程・博士課程と同様に、修了すると学士になれるという意味で、「学士課程」と呼ぶことにする。日本では「学部課程」ということが多いようだが、大学内の組織名が「学部」とは限らない。その多くは標準履修年限が4年なので「4年制大学」とも呼ばれるが、ここでは履修年数が標準とちがってくる学生を念頭に置きたいのでこの表現を避けたいのだ。

「短期大学」は「短大」と略されるが、「長大」は、「長大な」という形容語(学校文法の品詞は形容動詞)でもあるし、長崎大学などの省略形としても使われているので、「長期大学」の省略であると考える人は少ないだろう。

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【この節の話題は、このブログ記事のほかの部分の話題からははずれるのだが....】

短期大学という制度には、もしかすると、別の可能性があるかもしれないと思う。

大学の学士課程では、専門教育に進む前に、教養教育、liberal arts教育、あるいは専門共通基礎教育を受けるべきだとされることがある。(専門教育と並行して受けるべきだとされることもあるが。)

この教養教育などの部分を独立させて短期大学とすることは考えられるだろうか。もちろん、専門課程をもつ大学が、編入や単位認定を認めることが前提となる。むずかしいのは、短大は1年だけというわけにはいかないだろうし、専門課程のほうも2年間では短すぎると感じられるだろう。もし、短大に2年、専門課程に3年、合計5年かけて学士をとることが、4年一貫の学士課程よりも好まれるならば、このような「大学予科的な短大」が成り立ちうると思う。

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別の話題の発端として、日本の少子化がある。

政権政策は、女の人に、出産に積極的になってほしいと希望しているが、女性労働者キャリアパスを確立しようとしているのでもなく、夫がかせいで妻は専業主婦という形を奨励しているわけでもない。無理な要求になっている。

現政権が(有村氏が少子化対策大臣だったころ)、若いうちの出産を勧めるためにつくった資料のうちには、「妊娠しやすさ」のグラフがあって、22歳にするどいピークが示されていた。これは、産婦人科学の専門家が提供したものだが、その材料となった学術文献の代表性も適切でなく、またその解釈もまちがっていたことが指摘されている(次を参照)。

実際には、生物的な妊娠しやすさの年齢へのよりかたはもっと鈍いものだ。また、妊娠件数には、生物的要因に劣らず社会的要因が働いている。

それにしても、20歳代は身体的には妊娠に適していると考えられる。現代の日本でその世代の出産が少ないのは、社会が、子どもを育てながら生きていく人にきびしくできているからだろう。

現代社会では、十代(後半)での妊娠・出産は、身体的よりもむしろ社会的理由で、望ましくないとされる。しかし、十代の妊娠がなるべく起こらないような社会にすることと、十代で妊娠した人をあたたかく受け入れることとは、両立しうるはずだし、両立させるべきだ。高校は生徒が出産することを想定しないでつくられていてもよいのだと思うが、出産した生徒が高校教育をまっとうできるような個別対応は必要だろう。

【なお、数か月前に話題になった件は、妊娠した生徒が、退学をせまられたのではなく、体育実技を履修できていないことを理由に留年となったということだった。このような場合、標準年限で卒業を認めるのとどちらが教育機関として責任ある態度なのかの判断はむずかしいが、病気・事故で実技ができない場合に比べて不利にすべきではないと思う。】

大学生ならば、まっすぐ進学しても18-22歳であり、もっと年長の人もいる。大学生の妊娠・出産については、奨励するかどうかはともかく、通常のこととして受け入れる社会になるべきだろう。

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関連するがいちおう別の話題の発端として、女の人の、労働者として、また専門職としての、キャリアと、出産・育児との兼ね合いの問題がある。

多くの職場で、就職してすぐの時期には産休をとりにくい。あるいは産休をとる可能性のある人が採用されにくい。

また、今の日本社会には任期つき雇用が多い。任期つきの雇用条件は、育児休業がとれないことが多く、産休はとれる場合もあるが、任期が延長されず、労働期間の中断が不利益になる。

大学院を出ると学部卒よりも年齢が高くなる。博士修了ならば、標準年限でまっすぐきても27歳だ。専門を変えたりいったん就職したりしてもっと年数がかかっている人も多い。ところが、大学院修了後に最初につける職はほとんど任期つきのものだ。

学生の出産・育児も楽ではないが、就職後よりは学生のうちのほうが相対的には楽、という話を見聞きすることがある。経験談として語る人も、後悔している人もいる。個別事例の主観的報告なので、一般的にそうかどうかはわからないが。

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学生が子育てしながら勉強する場合のうちで、子どもを保育所にあずけてフルタイムで働く人と同様に、子どもを保育所にあずけてフルタイムで学生をする人に対しては、大学の制度を大きく変える必要はない。

まず、学生という身分で子どもを保育所にあずけることが、希望どおりできるようにすればよい。(保育所が不足していればつくること、保育所の制度を学生に適応させることだ)。

そのほか、大学の制度のあちこちを、出産・育児に適応させる必要はあるだろう。これは職員については必要になっているのだから、それを参考に考えていけばよいと思う。産休その他の母性保護の制度が必要かもしれない。出産などによって履修できなかったことを怠慢のような悪いこととはみなさないのだが、履修したとみなすわけにはいかないだろう。追試験や補習によって追いつけるか、留年になるかは、一律に扱うのではなく、授業の内容と、当事者の体調やタイミングを個別に配慮する必要があるだろう。大筋は病気や事故による欠席・休学と同様だと思う。

ここまでは、特別な大学だけでなく、どの大学でも考えてほしいことだ。

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子育てしながら勉強する学生のうちには、1年あたりの勉学時間数をフルタイム学生なみにすることはむずかしく、年数をふやすことによって履修したいと考える人も多いだろう。2年制短大相当の課程を3年、4年かけて、学士課程(4年制大学相当)を5年、6年、7年、8年かけて卒業したい、と考えるのだ。

そういう学生を積極的に受け入れて教育していこうとする大学があってよいと思う。それを仮称「長期大学」と呼んでみたい。子育て中の学生は、子どもの父親のこともあるので、男女共学にすべきだ。しかし、母親が多いだろうから、ここではおもにその場合を想定して考えてみたい。女子短大からの改組の行き先として、このような特徴をもつ大学があってよいのではないかと思うのだ。

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(子育ての件は考慮されていないが)パートタイムの学生を想定した学校・大学は、従来からある。(今は少なくなったので、過去形で「あった」といったほうがよいかもしれない。)

高校ならば、「定時制」と言われる。その多くは、昼に勤務している人向けに、夜に授業をする。しかし、少数ではあるが「昼間定時制」もあった。昼番夜番交代勤務の人向けに、勤務と両立するような時間割で授業をしていた。

大学にも、(「定時制」とは言わないが) 夜間コースがあった。昼に勤務している人向けで、標準履修年数がフルタイム学生向けのコースより長いことも多かった。これは(短大と同様に)減っている。

減っているひとつの要因は、1980-90年代に、多くの大学が都市の中心部から郊外に移転して、大学と勤務先の両方にかよえる場所が少なくなったことだが、この要因は、最近逆転している。

もっと大きな要因は、雇用の形の変化だ。若者のフルタイム雇用の機会は減り、もしあれば長時間勤務で、授業が夜であっても通学が困難になった。そして、若者の給料が比較的よいパートタイム雇用の機会は夜に多く、夜間コースの授業と重なってしまう。

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子育て中のパートタイム学生を積極的に受け入れる「長期大学」にはどのような態勢が必要だろうか。

まず、パートタイム学生が、授業を受ける時間だけでなく、学生どうしや図書館を利用して勉強する時間なども、子どもを保育所にあずけられることが必要だ。

また、学生が妊娠中や乳幼児をかかえている場合、本人や子どもの健康状態によって、勉学にさしつかえることもあるだろう。それは個人差が大きく、本人でも予測困難なこともあるだろう。そこで、個人ごとに、個人の事情と受けている教育課程の事情を考慮して、履修の時間配分を考え、それを随時修正することが必要になる。「長期大学」はそれを支援する職員、いわば「履修プランナー」を配置するべきだ。その仕事は、介護保険制度のケアマネジャーが要介護者の状態変化に対応してケアプランを修正するのと似たところがある。

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このような「長期大学」ができれば、子育て中ではないパートタイム学生もやってくるだろう。(平日毎日昼間勤務とはちがった形の)勤労学生、高齢者の介護をする学生、本人の健康上の理由でフルタイム出席は困難だがパートタイム出席なら可能な学生などが含まれるだろう。

長期大学は、パートタイム学生に特化するのではなく、フルタイム学生も受け入れ、彼らにとっても有意義な教育を提供する大学をめざしたほうがよいと思う。

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長期大学では、在学年数が標準履修年限よりも多くなるのは当然のことだ。監督官庁にも、それを考慮して評価してもらわないといけない。

しかし、大学の施設の利用や、交通・ソフトウェアなどの学生割引などの権利を確保するだけで、勉学が進まない学生に、長く在籍を認めるのもまずい。

従来の大学では、留年年数・休学年数それぞれに上限を決めて、それを越えると退学(除籍)とすることが多い。

【なお、「休学中でないのに履修単位数が(ルールで決められた数よりも)少なければ強制退学、ただし(1年以上後に)希望があれば審査したうえで(入学試験を受けなおさなくても)復学を認める」といった制度をもつ大学もあった。】

子育てや勤労などの事情のあるパートタイム学生に対しては、規定をもう少しくふうする必要があるが、9節に述べたように大学職員が関与して履修プランをつくるのならば、それを基準に勤勉度を評価することが可能になるだろう。

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長期大学の費用はどのようにまかなうことが可能だろうか。

他の大学と同様に、高等教育行政から、公立大学ならば運営交付金私立大学ならば補助金をもらうことができるだろう。(ここで、標準履修年限で卒業する学生が少ないことを負の評価にならないようにしてもらう必要がある。) また、子育て支援あるいは少子化対策の政策からの資金を少しもらえると思うが、それはおもに保育所に向けられるだろう。

所在地の自治体が、長期大学があることでメリットがあると認めれば、自治体が設置主体になることや補助金を出すことがあるかもしれない。しかし、学生とその子が住民登録することによって、自治体の社会福祉政策や社会インフラ政策などの支出がふえるが、税収がふえないのでは、歓迎されないだろう。

大学が地域に知識を提供することによって収入を得ることができるとよいが、それは教員集団が持っている能力と地域の需要がうまく合った場合に限られるだろう。

学生とその家族が費用の大きな部分を負担することが必要だ。子育て中の学生自身の経済的能力は小さいことが多いだろう。学生の夫や親が、妻や子が勉学できることを高く評価し、1年あたりふつうの大学と同様の授業料を、多い年数ぶんだけ払ってくれるならば、大学は成り立ちそうだ。

学生とその家族が求めるものが何かを知って、大学はそれを提供できるように努力することになる。

  • 勉学できること自体であれば、授業内容の充実、講義(のうち可能なもの)の寮などへの中継や録画利用を可能にすること、などだろう。
  • 就職可能性であれば、国家資格や、多くの職場で求められるスキルの教育などだろう。
  • 高度な専門教育に進めることであれば、多くの専門の基礎となるスキルの教育やliberal arts型教育だろう。ただし単独の大学で学士修了レベルまで教えられる分野は限られるだろうから、中途で他大学に移る学生が多くなることを覚悟する必要があるだろう。(中退者が多いと見えるとうまくないが、学生の大学間transfer (転学)が複数の大学が共同で顧客の需要にこたえる活動と認められるべきだと思う。また、学士課程と短期大学士または準学士の課程の両方をもつ大学ならば、前者から後者にtransfer (課程変更)して卒業という形をとることもできるとよいと思う。)

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学生とその家族が、学費・住居費・保育料を確実に払えればよいのだが、それがむずかしいことも起こるだろう。

仮に入学時にその条件を満たしている人に限ったとしても、家族の死亡や病気、パートナーとの別離など、条件の変化が起こりうる。(たとえば、パートナーも学生だったが、本人よりもさきに就職して遠く離れることになって、カップルとして続かなくなってしまう、ということはありがちだろう。)

また、入学時にすでに乳幼児をかかえていたり妊娠している学生は、この大学を志望する意志が強いだろうし、設立趣旨からは歓迎すべき学生なので、初年度の学費納入は要求できても、卒業までの学費負担見こみを示させるのは酷だろう。

慈善的対応には限りがある。学生自身に働いてもらわないといけない。子育てと労働をすると、勉学に向けられる時間は短くなるが、やむをえない。課程卒業までには、勉学と子育てだけの学生よりもさらに年数がかかるだろう。勉学を続けても残念ながら卒業をあきらめる場合もあるだろう。しかしそのような経歴ならではの特徴をもった卒業生を出せることもあるだろう。大学として、そのような学生への対応が必要になる。履修プランナーが継続意欲を判断し、可能なレベルで履修を続けるように相談にのるのだ。(監督官庁に、そういう学生をかかえていることで大学の評価を低くしないように配慮してもらう必要もある。)

大学自身というよりもそれを含む組織が、働きたい学生に、学業と両立しやすい労働機会を提供するのがよい。大学や保育所から移動する時間が短い職場や、大学で学んだスキルが役だって労働時間の割に給料がよい仕事が望ましい。

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学生のパートタイム労働、大学(を含む組織)が収入を得る道、大学の卒業生の進路、いずれにしても、この長期大学の特徴を出せそうな職種を、いくつか考えてみる。

まず明らかなのは保育士だ。大学に関連して保育士の需要があるし、保育について学びたい学生が多いにちがいない (そのすべてが職業保育士志望ではないが)。意欲と適性のある学生には、短大相当の課程で保育士資格をとって、保育士として働きながら学士課程に在学してほかのことを学ぶ、という履修計画を可能にできるだろう。ただし、資格をもった人がローカルな保育士の需要よりも多くなって希望者が職につけない可能性もある。

長期大学が特別に強いわけではないが、もしかしたら強くなりうる職能として、コンピュータへのデータの入力・点検があると思う。大学でパソコン操作のスキルだけでなく内容に関する基礎知識をも得ていることを生かすことでデータの品質が高くなるようなものを、大学の関連組織で引き受け、学生を雇うのだ。これは他の大学でもできることだが、長期に続ける人がいることが、長期大学の強みになりうる。しかし単価をあまり高くすることは困難なので、大学関連組織の収入の大きな部分をになうことは期待できないと思う。

履修プランナーは、新しい職種で、この大学で養成しないといけない。もし、他の大学にも類似の職種の需要があれば、この大学が人材を供給できる可能性がある。しかし、顧客個人と学問内容と大学の制度という複数の条件をにらんで履修プランをたてることは、適性のある人が限られるだろうし、実務でのトレーニングが必要だろう。この職種の人の養成は、学生への教育ではなく、職員の能力開発として考える必要があるだろう。ただし、学生として履修指導を受けた人のうちから指導者になろうという意欲をもつ人が出てきやすいという関連はあるだろう。

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長期大学の運営、働く必要のある学生の生計、いずれも、支出に見合った収入を得るのはむずかしそうだ。善意の寄付(喜捨)か、政策的な公共資金が、継続的に得られればよいのだが。