Hatena::ブログ(Diary)

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2016-08-23

発散・収束

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「発散」(英語ではdivergence)と「収束」(convergence)は、気象に限らず、流れやベクトル量に関するいろいろな話題に出てくる用語だが、気象での意味に限っても、いくらかの幅をもっているので、ここでは、それを整理することを試みたい。

全部というわけではないが多くの場合、発散と収束は正反対のことがらだ。数量であらわせる場合には、発散の値が負であれば収束がおきているのだ。「収束の値」と書かれていたら、たぶん、発散の値を、正負の符号だけ逆につけかえたものだろう。

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直観的には、収束とは流れが集まってくること、発散とは、その逆に、ひろがっていくことをさしている。

これは、流れがはげしく変化しているときは認識しにくいのだが、定常の流れが継続していれば(厳密に定常でなくても、そのように近似できれば)、「流線」を考えると、認識しやすい。並行している流線どうしのあいだが狭まっていく場合が収束で、広がっていく場合が発散なのだ。ただし、この意味での「収束」に対応する英語は confluence だと思う。そうするとその反対の「発散」は diffluence になるはずだが、わたしはその単語に出会った記憶がない。

流れの形をさして convergence ということばが使われることもあり、日本語ではこれも「収束」となる。これと confluence が区別して使われているのか、わたしにはよくわからない。流れが集まってくる場合には、並行した流線の間が狭まる形のほかに、はっきり違った方向からの流れがぶつかって急に向きを変える場合もあり、後者は convergence ではあるが confluenceではないのかもしれない。

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定義のはっきりしている定量的な「発散」は、ベクトル解析 (ベクトルの微分積分が出てくる応用数学の分野)での微分演算子だ。これは一般には任意の次元のベクトルに使えるのだが、物理、とくに流体力学および電磁気学への応用にともなって発達してきたので、3次元または(その単純化として) 2次元の空間のベクトル場について使われることが多い。

3次元空間に直交直線座標(x, y, z)を設定し、ベクトル量 v = (u, v, w)が座標値(x, y, z)によって連続的にちがう値をとるようなベクトル場があるとする。[太字のvをベクトル、細字のvをその成分に、区別して使っていることにご注意。] vの発散は

div v = ∂u/∂x + ∂v/∂y + ∂w/∂z

である。また、∇ [nabla] という演算子

∇ = (∂/∂x, ∂/∂y, ∂/∂z)

を使えば、div v は ∇・v (∇とvとの内積)の形に書ける。

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ここまでは v を一般のベクトル量としたが、流体力学や気象学の話で、(「なになにの発散」ではなく、単に)「発散」と言った場合は、vとして(各座標位置にある)流体がもつ速度(流速、風速)ベクトルをとった場合の div vをさす。

一般には流体の流れには発散があるが、理論や数値モデルでは、「発散なし」を仮定すると理屈が簡単になるので、それですむならば、そう仮定することがよくある。

大気中の現象のうちでは、音波は流速の発散がなければ存在できない。しかし、気象学的関心のある多くの現象は、基本方程式(運動方程式・質量保存の式・エネルギー保存の式・状態方程式の組)から音波を消去するように制限を加えたもの(「非弾性方程式系」と呼ばれることがある)でも表現できる。

非弾性系の大気にも発散はあるが、それは、圧力・温度の変化に伴う体積変化によるものに限られる。同じ質量の空気のもつ体積は大気中の高さによってあきらかに違うので、大気は発散なしの流体とはだいぶ違う。

しかし、静水圧平衡([2012-03-29の記事])がよい近似で成り立っていることを前提とすれば、鉛直座標として気圧をとった「p座標系」([2012-04-09の記事])を使うと、座標変換された空間(p空間)での基本方程式は発散なしの流体のものと同じ形になる。p空間での空気の「密度」(p空間の体積あたりの質量、実際にはこれを密度とは呼ばない)が一定である、とも言える。これによって、発散なしの流体の力学を、大気の力学に応用できることが多い。

p空間での鉛直速度 d p / d t をω (オメガ)と書く。ωは下降流で正、上昇流で負となる。p空間での発散がゼロであることは次のような形で書ける。(ここでは記号divに(x, y, p)座標で考えていることを示す添え字をつけておいたが、ふつうは単に div または「∇・」と書かれている。)

divxyp v = ∂u/∂x + ∂v/∂y + ∂ω/∂p = 0

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4節では、3次元の速度とその発散について述べた。しかし、大気にとって鉛直方向は特別な方向だ。大気の厚さ(鉛直の空間規模)は水平の空間規模に比べて桁ちがいに小さい。したがって、流速の鉛直成分の大きさは、水平成分に比べて桁ちがいに小さいことが多く、直接測定がむずかしい。大気の流れ、つまり「風」は、水平2次元のベクトルとして認識されることが多い。

水平2次元の発散(略して「水平発散」)は

divH vH = ∂u/∂x + ∂v/∂y

のように書ける。(3次元との区別のために、「水平」にあたるhorizontalの略のつもりでHを添えておいたが、2次元だけが出てくる場合はそのような配慮がされないことが多い。)

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4節のp座標での3次元の発散の式を見ればわかるように、水平2次元の発散・収束と、鉛直流とは密接な関係がある。

それは流れが自在に変化しても成り立っているはずだが、説明しにくい。説明しやすいのは、流れの場が定常である、つまり、流速が位置座標の関数だが時間によっては変わらない、とみなせる場合だ。厳密に定常である必要はない。ある構造がたもたれていれば、それがゆっくり移動したり、発達したり、減衰したりしていてもよい。

台風(一般的には熱帯低気圧だが、この表現で代表させる)はそのわかりやすい例だ。台風の中心付近を大局的に(水平規模100kmくらいをならして)見ると、地表付近から対流圏の上端付近まで、上昇流がある。そして、地表付近には、水平収束があり、対流圏の上端付近には、水平発散がある。もし地表付近の水平収束だけがあれば、中心付近に空気の質量がたまり、気圧が高くなっていくだろうが、実際には空気の質量は、上昇流によって上に移動し、上層の質量発散によって周辺に出ていくので、質量の流れが準定常的に維持されているのだ。(摩擦があるのに流れが持続することが可能になっている熱機関的なしくみ、その中では摩擦が不可欠な役割を果たしていること、などについては、台風のしくみに関する解説書を見ていただきたい。)

温帯低気圧の構造は台風とは違いがあるが、中心付近に、上昇流、下層の水平収束、上層の水平発散、の組があるという基本は同様だ。

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2次元のベクトル場は、「発散成分」と「回転成分」に分けることができる。流れの場について述べれば、流速の水平2成分の場を、水平発散 divH vHと「渦度」[うずど]([2015-07-01の「渦」の記事]にも出てきた)という2つの量(方向性をもたない量、スカラー量)の場に置きかえて考えることができるのだ。このほうが、流れの力学を考えるときには見通しがよくなることが多い。

ここでいう渦度は、次の式のζ[ゼータ]だ。

ζ = ∂v/∂x - ∂u/∂y

【これをスカラー量と言ってしまうのは乱暴かもしれない。3次元空間での渦度は、3次元の任意の方向の軸のまわりの回転を考えることができるから、本来は方向をもった量で、ベクトルと似ているが少し違うので「軸性ベクトル」と呼ばれる分類に属する。(広くはテンソルに含まれるらしいがわたしは確認していない。) 直交直線座標で表現すれば、「x軸のまわり」「y軸のまわり」「z軸のまわり」の成分があるのだ。ζは、渦度の鉛直軸(z軸)のまわりの成分なのだ。そのことを意識して「渦度の鉛直成分」、それを略して「鉛直渦度」と言われることもある。他方、「水平渦度」と言われることもあるようだ。「水平発散」と組で出てくることが多く、水平2次元の流れに見られる特徴でもあるので、まちがいとは言いきれないが、軸から考える人の誤解を招くので避けるべき表現だ。気象の話題で現実的には、単に「渦度」という表現にして、最初に出てきたときに「鉛直軸まわり」のものであることをことわるのがよいと思う。】

【なお、気象学ではふつう、地球(の固体部分)とともに回転する座標系で考える。風速は地球に相対的な速度なので、ζは地球に相対的な渦度ということになり、「相対渦度」と呼ばれることがある。地球の回転も含めた渦度を「絶対渦度」という。】

2次元の流速の場は、発散があるが渦度がゼロである「発散成分」と、渦度があるが発散がゼロである「回転成分」とのたしあわせで表現することができる。そして、発散の場がわかれば発散成分がわかり、渦度の場がわかれば回転成分がわかる。(そこでは、空間座標に関する微分方程式を積分することになるので、境界条件が必要だが。)

地球の大気や海洋では、水平規模に比べて鉛直規模が浅い層であることと、地球が自転していることのせいで、水平規模の大きな運動ほど、回転成分が主になる傾向がある。温帯の大気中について言えば、水平規模が千kmの現象では、回転成分が発散成分よりも1桁以上大きい。水平規模が1 kmの現象では、回転成分と発散成分が同程度の大きさになる。熱帯でも、温帯ほど大きな差がつかないが、水平規模の大きい運動では回転成分が優位であることが多い。

台風を地上気圧で見ると、水平規模が数百kmの同心円の構造に見える。この規模で見れば、主役は回転成分だ。実際(といっても渦度や発散は直接観測できる量ではないので物理法則の助けを借りた「データ同化」の結果を見るのだが)、渦度は気圧でみた中心の付近に円形に分布している。

気象レーダーは雨粒を見ている。台風に伴う雨の分布は、同心円状ではなく、渦巻きながら中心付近と周辺とをつなぐ複数の弧状の帯になっている。これはレインバンド(rain band)と呼ばれることがある。その長さは百kmの桁だが幅は十kmの桁だ。データ同化の結果によれば、台風に伴う水平発散の分布は、このレインバンドに対応しているように見える。たぶん現実にそうなのだと思う。

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ここまでは速度(流速、風速)の発散について見てきたが、ベクトルの演算子の div はあらゆるベクトル場に適用できる。電磁気学にはいろいろな応用例がある。

気象学では、「質量のフラックス」や「エネルギーのフラックス」([2012-04-27の記事])について、発散・収束を考えることが多い。ただし、気象学で「フラックス」は「フラックス密度」つまり単位面積あたりのフラックスをさす場合が多いのだが、「フラックスの発散・収束」というときの「フラックス」は本来の意味であることが多い。

たとえば、水平2次元の水蒸気の移流(advection、[2012-05-28の「対流」の記事]参照)を考えるならば、水蒸気の質量に水平風速をかけたものが、移流による水蒸気フラックスになる。これの水平発散を考えるのだ。移流によって水蒸気が集まってくる状況を想定して、正負の符号を変えて「水蒸気(水平移流)フラックスの収束」を論じることが多い。現実には、水蒸気量も風速も高さによって違うので、高さごとの水蒸気フラックスの収束と、鉛直積算した水蒸気フラックスの収束という、関連はあるが物理量としての次元の違う量を扱う必要がある。

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天気図(気象要素の分布を表示した地図)に見られる現象の記述として、「収束線」(convergence line)、「収束帯」(convergence zone)のような用語が使われることがある。これは「前線」([2012-06-15の記事])の同類だが、前線がおもに両側の気温の違いに注目した概念であるのに対して、収束線は風速ベクトルの違いに注目した表現だ。この「収束」は2節で述べた意味で、風が線の両側から集まってくるような状況をさしているが、5節で述べた水平発散が負であるという意味も含まれていると思う。(両側から風がぶつかっても、線にそって速く流れていけば、発散はゼロあるいは正であることもありうるのだが、そのような状況は収束線とは言わないと思う。)

気候学の用語としてIntertropical Convergence Zone (ITCZ、熱帯収束帯)というものがある。これはもともと、北半球の北東貿易風南半球の南東貿易風がぶつかるところという考えでできた用語だと思う。しかし近ごろはむしろ、(赤道から南北緯度10度くらいのうちで)雨をもたらす積雲対流が起きやすい地帯、という意味で使われることが多い。

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「収束」「発散」は数学用語にもある。数列が極限値に接近していくとき収束するといい、だんだん値が離れていくとき発散するという。

気象で使われる数値シミュレーションでは、微分方程式を差分近似することが多い。差分近似ともとの微分方程式とのくいちがいが(数列に関する意味で)収束すればシミュレーションは意味のある結果を出せるが、発散してしまうと近似として役にたたない。シミュレーションの現場で「収束」「発散」は(大気の運動についてではなく)このような技術的な意味で使われることもある。

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「蒸発散」ということばがある。これは、水の蒸発(evaporation)に関する表現のひとつだ。植物の葉の気孔からの蒸散(transpiration)を、その他の蒸発と区別して考える立場に立ちながら、蒸散と(その他の)蒸発とを合わせたものをさして、evapotranspiration、日本語では「蒸発散」ということばが使われる。(なお、わたしは、蒸散は蒸発の特殊なものだという立場に立ち、あわせたものを「蒸発」と書いている。)

「蒸発散」は「発散」を含むことばではない。ただし、transpiration に対する日本語が「蒸散」に定まるまでに「発散」と表現されたことはあるようだ。

2016-08-08

天皇ビデオメッセージをきっかけに考えたこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2016年8月8日、天皇のビデオメッセージが放送された。わたしは放送をきいていないが、NHKウェブサイトに出た文章を読んだ。

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わたしは、日本国憲法理念(だとわたしが思うもの)に基づいて、天皇制は無理のある制度であり、最善は憲法改正による天皇制廃止、次善は空位状態にすること(たとえば退位を可能にするがそれに伴う皇位継承を決めない特別法を成立させること)だと思っている。しかし、わたしのような者がそんなことを言っても実現につながる現実みはない。現実性のある案は、現在の天皇に関する制度から連続性のある形で、無理なところを減らすような変更だろうと思う。

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日本国憲法のもとで、天皇には政治にかかわる権限がない。天皇に関する制度を変えることは明らかに政治的なことである。天皇が天皇に関する制度について意見を言うことも憲法違反ではないかという疑いはもっともだ。

しかし、現憲法のもとでの天皇は、(実定法上はちがうだろうが法の理念からすれば)あきらかに労働者だ。労働者が自分の労働条件について意見を言う権利は認められるべきだ。現実の職場では、制度を決める権限は雇用主にあって、労働者にはそれを認めて雇われるか認めず雇われないかの選択しかないことが多いだろう。天皇の場合も、制度を決めるのは雇用主に相当する機関としての国、具体的には国会の権限だ。しかし労働者の意見は考慮されるべきだろう。天皇の場合、同時にその職にある人はひとりだけなので、該当する労働者を一般的に扱うことと、個人を特定して扱うこととの区別がむずかしいという問題はあるが。

労働者というとらえかたにこだわらず少し一般的に言えば、国の機関としての天皇が発言できることは限定されている。しかし、天皇という職についている個人の発言が必要なこともあり、今回のメッセージの「個人として」というのはまさにそれなのだと思う。

職務の範囲はちがうけれども、どのような職についている人にも、職務上の発言と、個人の発言がありうるだろう。大学の学長をしている教授の場合ならば、学長としての発言、ひとりの教授としての発言、個人としての発言を区別する必要があるだろう。

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人の組織の制度は、あまりうまくできていなくても、現場の労働者の努力で、なんとかまわっていることがある。日本ではとくにそういうことが起きやすい、と言われることがある(ただし外国と比べてそうなのか確認していない)。いわゆる「ブラック企業」(この用語は不適切だという考えもあるがひとまず「いわゆる」つきで使っておく)や「やりがい搾取」の問題も、そのたぐいと考えることができる。

そういう制度の不備について、その職についている労働者の経験をふまえた意見は貴重だと思う。ただしそれは、必ずしも労働者の意見どおりに制度を変更するべきだということではない。制度を変える権限のある人が、制度の欠点を検出する手がかりとして労働者の経験を尊重したうえで、制度本来の趣旨にそって改善策を考えるのだ。

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今回の天皇のメッセージには、天皇が退位できるようにしたほうがよい、という意見が含まれている、と見てよいだろう。

その理由のひとつは、現職の天皇が亡くなることの国民生活への影響が大きくなることへの心配だ。昭和天皇が危篤になってから、マスメディアの放送内容や文化・スポーツ行事などに対して、非常事態として「自粛」が当然とされることが何十日も続いた。これは、二つのちがった体制を生きた昭和天皇に関する特殊事情もあると思う。しかし、現在の憲法になってからほかの例がないので、公的なことについては先例を踏襲したがる日本のいろいろなレベルの組織が、天皇の危篤のときはこうするものだと決めてしまい、大部分の国民は自分の意志と関係なく非常事態に何十日も(いつまで続くか予想できないまま)まきこまれるおそれがある。自分の制御できないところでそのようなことの原因者になりうる当事者が、それを予防したいと思うのはもっともだ。

第二は、公務を、能力のおとろえた高齢者がいつまでも続けるよりも、能力が充分ある次の世代の人に引き継いだほうがよい、ということだ。これは、天皇の件に限らず、いろいろな職種について生じる問題だろう。事業の目的を達するための経営の観点と、労働者の観点を含めて、制度設計を考えるべき問題だろう。

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天皇のメッセージから示唆される対策は、制度を大きく変えるのではなく、皇室典範という法律改正か特別立法によって、退位とそれに伴う皇位継承について決めることになるのだろう。ただし、退位後の、もと天皇だった人の地位について、いろいろな立場から検討して、制度を設計することが必要だろう。

(わたしが案を述べるとすれば、オランダにならって、退位後は「親王」にもどる、というのがよいと思う。そうすれば法律上は新たな地位名を規定する必要はない。ただし、葬儀については、天皇経験者と他の親王とを区別する必要がありそうだ。)

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たとえ「個人として」とことわっても、日本国憲法のもとで天皇である人としては、天皇に関する現在の制度を大きく変えることは示唆できないだろう。

一方で、天皇制の廃止を示唆することがなかったのは、この事情からは当然だ。

他方で、明治憲法にもどる方向の、天皇に政治的権限をもたせるようなことを示唆することがなかったのも当然だろう。

今度のメッセージは国事行為ではないが、「内閣の助言と承認」に準ずる政権の意志がはいってはいると思う。ただし、安倍政権意志決定にかかわる人々の考えも一枚岩ではなく、明治憲法にもどる方向の憲法改正をめざす人もいるが、日本国憲法の体制でやっていくべきだと考える人もいるのだろう。今回のメッセージが出たことは、憲法改正一般に対する効果はよくわからないが、天皇に関する復古的改定を少し遠のけたように思う。

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皇室典範に規定された葬儀や即位の儀式を別として、「皇室のしきたり」による行事は、国の機関としての天皇の公務ではない私的なことだ。そのような分離によって、皇室が神道宗教行事をすることと、国の政教分離とを両立させているのだ。だから、天皇に関する国の制度を考えるうえで、「皇室のしきたり」は直接には考慮するべきではない。しかし、現行の国の制度に(わたしから見れば残念なことに)天皇の世襲制が含まれてしまっているので、労働者として天皇に働いてもらうために天皇の家庭の事情に配慮する、という意味で、間接的に考慮に入れる必要がある。

2016-07-08

「ケッペンの気候区分」を引退させてそれに代わるものを考えよう (気象学会予稿)

[2015-01-17の記事「『気候区分』をたなあげにして、気候を連続量の集まりでとらえよう」]と基本的に同じ趣旨なのだが、日本気象学会の2016年秋の大会のセッション気候形成の統合的理解 --気候科学における基礎研究の推進と地学地理教育との連携--」での発表を申しこんだので(そこで実際に発表することになるかは学会の決定待ちだが)、その予稿の内容をここにも置く。ただしHTMLリンクは予稿にはなくここだけのものである。結論はひとつにしぼられず、4, 5, 6節に分散している。

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- 1. 確かにある需要 -

地球上の地域によって、気候が、そのおもな要素をあげれば、寒暖、乾湿、それらの季節的配分が違う。それを、数量で表示するだけでなく、たとえば「熱帯・温帯・寒帯」「乾燥地帯」などの類型としてつかみ、伝える必要がある。

- 2. ケッペンの気候区分 -

日本では、中学や高校の地理で「ケッペンの気候区分」が教えられており、気候の類型としてこれが持ち出されることが多い。Wladimir Köppen (1894-1940)によるものだが、Rudolf Geiger (1894-1981)やGlenn Trewartha (1896-1984)による修正を受けたバージョンもある。日本語による紹介としては矢沢(1989)のものがよいだろう。

各地点について、月平均気温と月降水量の平年値という24個の数値を与えれば、一定のアルゴリズムによって気候型が定まるので、地理に関する情報処理の例題ともなるが、気候の理解につながっているかは疑問に思う。

- 3. 「ケッペンの気候区分は気候区分ではない」-

1970年代ごろ以後、気候学の専門家はケッペンの気候区分を重視しないことが多い。その極端な例は鈴木(1975)である。ケッペンの気候型の境界は、植生の型(その主要構成種の生活形)の分布の境界を気候変数で近似したものだ。鈴木は気候と植生との(また人間社会現象との)関係を論じかったのだが、それには、気候に内在する(植生と独立な)特徴による気候区分を求めることが必要だと考えたのだ。 鈴木が有効な気候区分として考えたのは、世界の規模ではAllisow Alisov (Alissow)による前線帯(気団の境界)の位置とその季節的移動に基づくもの、日本の規模では鈴木自身による冬の季節風時の降水の有無に基づくものだった。

- 4. 地域区分は必要ではない -

しかし、気候に内在する特徴は、必ずしも地域区分に使えるような不連続性をもっていない。そして、気候と植生や人間社会現象との関係を考えるには、気候を、区分でなく、気温や降水量などの連続量のまま扱うことも可能だ。

- 5. 気候に内在する要因による区分の候補 -

  • (a) 大気大循環の観点からは、地球を、ハドレー循環に支配される領域と温帯低気圧(傾圧不安定波)に支配される領域に大別できる。中村ほか(1986)は、その境界が季節とともに移動するという観点による地域区分を示している。
  • (b) 無降水の状況がどのくらい長く続くかによる地域区分が可能かもしれない。ただしどのような期間で無降水を認定すべきかの問題が残る。 Eguchiほか(1986)は世界のある1年間の旬単位の無降水域の分布を記載した。
  • (c) 陸面の雪氷の有無とその季節変化による地域区分が可能かもしれない。

- 6. 植生分布を制約する気候条件 -

植生分布を制約する気候条件については、ケッペン以後多くの研究がある。Masuda (2000)はその時点で知られているものの整理を試みた。研究者によって指標とする変数が違うが、「利用可能なエネルギー(正味放射または生育期の積算温度)」「利用可能な水分」「冬の温度」とまとめられるだろう。光も重要なはずだが野外ではエネルギー要因と区別困難である。「冬の温度」は生物体内の水の凍結と低温による反応速度低下とを区別すべきかもしれない。

ケッペンについては、科学史的な観点で、この問題に挑んだ先駆者としてとりあげるのが適切だと思う。

文献

2016-07-04

道に迷っていた人

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

(比喩的にいえばわたしは今も道に迷っている人だが) 近ごろ、実際に道に迷っている人を助ける経験をした。

ある晩、職場を出て近くの交差点のところを歩いていると、別の方向から歩いてきた人がいた。軽くあいさつすると、道をきかれたようだったが、よく聞きとれなかった。ききかえしてみると、S というところに行こうとしているそうだ。S に行くのならば、Q駅から電車に乗って、R駅で乗りかえるのがよい、と説明した。S に向かうのに、どの駅からどの線の電車に乗ったらよいかをあらかじめ確認していないことがちょっと不審ではあったものの、遠くから引っ越してきた人などの場合にはありうるかとも思った。わたしはちょうどQ駅のあたりで(ひとりで)食事をしようと思っていたところだったので、Q駅までいっしょに行くことを申し出た。

その人はおそらくわたしよりは年上だがわたしの親よりは明らかに若く、70歳代の(変なことばだが役所用語でいう)前期高齢者らしかった。歩く能力はじゅうぶんあり、わたしが加減しないで歩いても遅れなかった。ことば(日本語)を話す能力も不自由はないようだった。(外国語話者のようでもなかった。) ただし、話の内容を聞いてみると、朝から(昼からだったかもしれない)予想以上に長いあいだ歩き続けていたらしかった。道に迷いつづけていたのかもしれない。これでは、Q駅まで送り届けても、ひとりでR駅での乗りかえができるか、またS駅に着いてもそこから目的地に行けるのか、だんだん心配になってきた。

Q駅の前まで来て、その人は手さげ袋の中から財布か何かを出そうとして見つからないようだった。わたしが手さげ袋をちょっとのぞきこんでみると、高齢者デイサービスの連絡帳らしいものがあって、氏名、住所、電話番号が書いてあった (ただし住所や電話番号が自宅のものかデイサービス施設のものかは確かめていない)。その住所の細かい地名はわたしが知らないものだったが、大きい地名は、Qから見てRやSとはちがう方向のものだった。

そうすると、その人は、自分がどこに向かっているかを忘れてしまうような症状をもつ認知症をかかえた人にちがいない。デイサービス施設から抜け出した可能性もなくはないが、ありそうなのは、自宅からちょっと出かけて短時間でもどる予定だったのだが、途中で頭の中の予定が「Sに行く」に変わってしまった、ということだろう。

書かれていた電話番号に電話をかけてみようかと思わないでもなかったが、家族が電話に出たとしても会話が成り立つかどうか不安があった。さらに、その連絡帳が本人のものでない可能性さえあると思った。これは、こういう問題の本職にまかせようと思った。それは警察だろうと思った。

幸い、わたしは交番がQ駅の近くにあることを知っていた。わたしはその人をつれて交番に行った。交番には人がいなかったが、警察署へ直通の電話機があったので、電話をかけて事情を説明し、そこで待つことにした。10分くらいして複数の警察官が到着した。警察官たちは、まず、捜索願いが出ている人の情報と照合しようとしているようだった。わたしは、(わたしの)名まえ、住所、電話番号をたずねられたあと、帰ってよいと言われた。わたしが厚意ですでに数十分の時間をさいたことは明らかだったので、それ以上ひきとめるべきでないと考えられただろう。わたしは予定していた外食に向かった。

そういうわけで、結局どうなったのかは知らない。たぶん、電話で家族または介護専門職の人と連絡がついて、迎えに来てもらうか、警察の人が送り届けることになっただろうと思う。しかし、もう少し複雑なことが起きたかもしれない。

2016-07-02

Eoceneは暁新世ではない

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

地球の歴史の時代は、大きいほうから順に「代」「紀」「世」という階層構造のある名まえをもった期間に分割されている。地球科学に関心のある人ならば「古生代」「中生代」「新生代」は知っているだろう。地球科学のうちの地質学について、専門家でなくても関心のある人ならば、「紀」の名まえは知っていることが多いと思う。(「第三紀」ではなくそれが分割された「古第三紀」と「新第三紀」が標準になったことはじゅうぶん広まっていないと思うが。) しかし、「世」のレベルになると、新生代に限っては地質学のあまり専門的でない文献でも出てくるのだが、地球科学に関心があってもその時期に関心のある人でないと記憶していない人が多いと思う。

わたしは、1970年代から第四紀に関心を持っていたので、新しいほうから、第四紀の「完新世」「更新世」(関心を持ちはじめたころは「沖積世」「洪積世」に代わって新しい標準となる見こみの用語としてだったが)、新第三紀の「鮮新世」「中新世」は忘れないものの、古第三紀の「世」の名まえの記憶はおぼろげになっていた。気象学を基礎とする気候の専門家となって、第四紀よりも温暖な気候の参考例として、「新生代初期」を話題にすることはあったが、その時代を詳しく分けて考えることはないまま来たのだった。

ところが、21世紀になって、「人間が化石燃料を燃やすことによる大気中の二酸化炭素濃度の増加と、それによる温室効果で生じるだろう気温上昇が、これまでに知られた地質時代の気候変化のうちで、異常に速いのだろうか」という話題に関連して、もしかすると同じくらい速い温暖化が起きたかもしれない時期として「Paleocene-Eocene Thermal Maximum (PETM)」が話題になるようになった。Thermal maximum は「温度極大期」あるいは「高温期」でよいだろう。そしてPaleoceneとEoceneは古第三紀のうちの「世」の名まえなのだ。この2つの「世」の全体ではなくて、Paleoceneの末からEoceneの初めにかけての短い時期に激しい気候変化(温暖化とそれの解消)が起きたというのだ。

さて、わたしは、興味をとくに地球科学に向けたのは高校生のときなのだが、その前の中学生のころに、英語の学術用語などの単語の語源に関心を持っていろいろな本を読み、ギリシャ語ラテン語に由来する語の要素について学んでいた。ギリシャ語に「Eos」ということばがあって、明け方の光、あるいはそれの女神をさしていることを知った。【わたしが今つきあいのあるAGU(アメリカ地球物理学連合)という学会機関誌の題名にこのEosが採用されている。】日本語ではどちらかというと「あけぼの」(曙)が近いようだが、「あかつき」(暁)と重なるところもあるようだった。この要素は「eo-」という形で複合語になることがあることも知った。

そして、わたしは日本語の地質時代名として「暁新世」と「始新世」というものがあることをなんとなく知っていた。「暁新世」は当然Eoceneの訳語だと思った。そして「始新世」のほうがPaleoceneにあたるのだろうと思った。

しかし、PETMを日本語で紹介するとなると、うろ覚えではまずいので、調べてみた。それで驚いた。古第三紀の「世」は、古いほうから、次のようになっているのだ(左が英語、右が日本語)。

  • Paleocene = 暁新世
  • Eocene = 始新世
  • Oligocene = 漸新世

【なぜこうなってしまったかは知らないが、たとえば次のようななりゆきを想像した。「世」の区分が今のようにかたまる前、PaleoceneとEoceneの区別はなく、どちらの用語も同じ時代をさしていた。そのときEoceneが「暁新世」と訳された。日本で「暁新世」を代表するとされた地層が、その後、「世」が二つに分割されたとき、Paleoceneのほうにはいっていた。... これはわたしの想像にすぎない。】

ともかく、学術用語としてそう決まっているのだから、個人がその意味を勝手に変えるわけにはいかない。

それにしても、わたしと同じようにまちがえる人は多いだろうと思う。

英語の名まえは、国際的な学会のとりきめなので、変えることはとてもむずかしいだろう。

しかし、日本語の名まえは、日本の地球科学者が合意すれば、変えられるのではないだろうか。もちろん、これまでに使われている用語がこれまでさしていたものと違うものをさすように変えてしまうのはまずい。それでも、もし日本の地球科学者がその気になれば、今後「暁新世」ということばを使わないようにすることはできると思う。(過去にそう書かれたものを変える必要はない)。Paleoceneに対応する日本語の用語を変えるのだ。たとえば直訳による「古新世」はどうだろうか。形容矛盾のようだが、その点ではPaleoceneも同様だ。そして、「地球の生物の歴史のうち新しい時代である『新生代』のうちではいちばん古い時期」をさすのだから、実は形容矛盾ではなく階層構造の正しい形容なのだ。

わたしは(まだ)実際に「暁新世」の用語変更を提案はしていない。しかし、提案したいと思いはじめている。