Hatena::ブログ(Diary)

macroscope

2017-12-30

「無断引用」という表現はまずい。正当な引用ならば原著者には無断でよい。...

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

- 1 -

近ごろのニュースのうちに、ある人【便宜上、「引用」という用語の意味をたなあげにして、この人を「引用者」と呼ぶ】が著者となった学術論文(博士論文だったか、出版された論文だったか)の中に、他の人【便宜上「原著者」と呼ぶ】の論文からの「盗用」があった(と、ある組織が判断した)という事件の話題があった。

さらに別の人【便宜上「報道」と呼ぶ】が、この事件を伝える際に、引用者のしたことを「無断引用」と表現した。(記事本文には「盗用」という表現があったが、見出しで「無断引用」とされていたらしい。ただしわたしは確認していない。)

この報道者(その内を分ければ見出しをつけた人)による表現について、さらに別の人【実際には複数の人がいて、いずれも個人としての発言だったが、大学教員やその経験のある人であり、その職務を背景とした専門性のある発言と思われるので、ここでは「学者」と呼ぶ】が、「無断引用」という表現はまずい、という批判をした。報道者は、「無断引用」ということばを、「盗用」よりは主張が弱い表現ではあるが、(法あるいは道徳などの規範からみて)悪いことであるという評価をふくめて使っている(と学者は読む)。しかし、無断引用は悪いことではない。記事の見出しを読んだ人(とくに、事件の内容について詳しく読まない人)が「無断引用は悪いことだ」と思ってしまうと、とてもまずい。

わたしは、この学者の主張に、基本的に賛成する。しかし、わたし自身、「無断引用」という表現を、それは悪いことだという評価をふくめて使ったことがあったのを思い出した。そのときわたしが使った「無断引用」ということばの意味は、学者が「無断引用は悪いことではない」と言ったときの意味とはちがう。わたしの使いかたは、「無断」と「引用」という要素からの組み立てとしてはまちがっていないと思う。しかし、わたしが書いたものについて、読者が「無断引用」を学者が使った意味で解釈する可能性は、かなりある。わたしはその文脈で「無断引用」ということばを使うべきではなく、ほかの表現をえらぶべきだったのだと思う。

- 2 -

「引用」ということばの意味の広がりも、文脈によって、ちがうことがある。

【ここからは、「原著者」「引用者」などのことばを、1節に述べた事件とは関係なく、役割の表現として使う。】

「引用」の、わりあい広い意味は、次のようなものだと思う。

引用者が、原著者著作物の部分を複製し、引用者自身の著作物の部分として使うこと。

「引用」の意味のひろがりのちがいは、おもに、ここで仮に「複製」とした行為の意味のひろがりのちがいからくる。

  • a. まったく表現を変えないで複製する。
  • b. 表現は変わることがあるが、原文と対応がつく文章でとりこむ。
  • c. 文章としては対応しないことがあるが、アイディアをとりこむ。
  • d. 参考文献としてふれる。(これは性格がちがうが、学術文献に関する議論で「引用」(英語ではcitation)をこの意味に使うこともあるのでふれておく。)

引用符に関する[2017-11-28の記事]で述べたように、引用を a にかぎりたいこともあるかもしれない。しかし、言語間の翻訳が必要な場合は、a をめざしても b が必要になる。また、引用を制限したいたちばからは、a だけでなく b も制限することを考えるだろう。

著作権法については次に考えるが、著作権法の対象は表現だから、著作権法での意味ならば、「引用」は、a, b はふくむが c はふくまないはずだ。

- 3 -

日本の著作権法では、「引用」については次のような規定がある。

第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

(http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=345AC0000000048&openerCode=1 2017-12-30現在。)

この法律自体には「引用」の定義は見あたらない。しかし、担当官庁である文化庁ウェブサイトで、上記の条文にふれているところに、次のような説明がある。

ホーム > 政策について > 著作権 > 著作権制度に関する情報 > 著作権制度の概要 > 著作物が自由に使える場合

http://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/gaiyo/chosakubutsu_jiyu.html (2017-12-30現在)より

(注5)引用における注意事項

他人の著作物を自分の著作物の中に取り込む場合,すなわち引用を行う場合,一般的には,以下の事項に注意しなければなりません。

(1)他人の著作物を引用する必然性があること。

(2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。

(3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。

(4)出所の明示がなされていること。(第48条)

(参照:最判昭和55年3月28日 「パロディー事件」)

これは、引用が合法とされる条件であって、「引用」の定義ではない。

しかし、文脈によっては、合法なものだけを「引用」と呼び、違法なものは「引用」ではないとすることがある。「引用」と(たとえば)「盗用」との意味の広がりをかさなりのないものにしようとすれば、そのような用語づかいになるのも当然かもしれない。

- 4 -

引用に関する現代社会の規範には、原著者を尊重すること、とくに、原著者の著作物を引用者自身の著作物であるかのように示してはいけないということ が ふくまれているが、その意味は、大きくわけてふたつある。著作権(やその周辺)に関することと、オリジナリティの尊重に関することだ。両者にはいくらかのかさなりはあるが、基本的に別ものだ。

- 4a -

著作権法の運用上、引用と認められる範囲が、3節に紹介した判例や、そのほかの慣例によって決まっている。

引用とされる範囲をこえたものは、引用ではなく複製とみなされる。著作権のあるもの(まだ消滅していないもの)を複製するには、著作権者の許諾をもらう必要がある。著作権者は、原著者である場合もあるが、原著者から他の人(たとえば出版社)に移っていることも多い。著作権者があらかじめ許諾条件を明示していて、それにあてはまるので、引用者【むしろ「複製利用者」だがこの表現を続けておく】は著作権者と連絡をとらなくても複製利用できる、という場合もある。そうでなければ、引用者は(間接的になることが多いが)著作権者と交渉する必要があることになる。

引用の場合は、引用者が著作権者と連絡をとる必要はない。ただし「出所明示」が必要だ。つまり、原著作物が何であるかを読者にわかる形で示す必要がある。(具体的な表現は、出版物のジャンルごとの慣例によるだろう。)

- 4b -

オリジナリティの尊重に関して、まず重要なことは、引用部分が引用部分であることをまぎれなく示すこと、つまり、引用者自身のオリジナルな文章であると誤解されないようにすることだろう。この誤解を意図的に起こす場合が、「盗用」というのにふさわしい。意図的でなくても、学術の規範に反するまずいことと考えられている。とくに、博士論文など、著者の業績の評価にかかわる場合は、引用がそのように明示されていないと、他人の業績を本人の業績と誤認させることになるから、非常にまずいこととされる。

引用であることだけでなく、原著者 (著作権者ではない) がだれか、もとの出版物が何か、も、示すべきだ。ただしそれをどのくらいきびしく求められるかは、出版物のジャンルや学術の専門分野ごとにさまざまだ。(理科系の分野での経験では、すでに確立したアイディアについては、そういうものであることが明確になっていれば、引用として示す必要はないとされることも多い。)

- 5 -

1節でふれた学者は、「無断引用」という表現を、「原著者に引用することを伝えないで、引用すること」という意味に解釈したうえで、それは悪いことではないのだ、と主張していた。

著作権法(の運用慣例)で「引用」とみなされる引用ならば、引用するにあたって著作権者の許諾を受ける必要はない。また、学術論文などの慣例としても、引用するにあたって原著者と連絡をとる必要はないとされている。原著者と連絡をとらなければならないという規範を置くことは、論文で見解を自由に述べにくくなるおそれがあるので、よくないとされている。この意味で、「引用は無断でよいのだ。」

【ただし、学術出版者は、図の引用(とわたしなどが思うもの)については、著作権法の「引用」ではなく「引用でない複製」とみなして「著作権者の許諾が必要」とすることが多い。】

場合によっては、原著者が「引用するならば連絡をとってほしい」と思うことはあるだろう。引用者がそれを尊重したほうがよい場合もあるだろう。しかしそれは引用に関する一般的な規範ではない。

- 6 - [この節、2017-12-31 改訂]

ところが、わたしがだいぶまえに「無断引用」という表現を使ったときの意味は、次のようなものだった。

  • (ア) 引用であることを(読者にむけて)ことわっていない引用。
  • (イ) 引用であることはわかるが、どこから引用されたかを(読者にむけて)ことわっていない引用。著作権法の用語を部分的に借りれば「出所明示のない引用」。

このようなものも「無断」と「引用」からなる表現のすなおな解釈のひとつではあると思う。

著作権法との関連で考えると、わたしの意味の「無断引用」は、対象が著作権のあるものの場合には、合法でないとされるだろう。また、オリジナリティ尊重の立場からも、わたしの意味の「無断引用」は、学術の規範に反する悪いことだ。だから、わたしは「無断引用」ということばに否定的評価をふくめて使った。

しかし、言われてみれば、「無断引用」ということばを使うと、読者には5節のような意味にとられるおそれがある。わたしがここでの「(ア)」や「(イ)」のつもりで使っても読者がそう思ってくれるとはかぎらないので、そういう使いかたをするべきではない、という考えに至った。

これをどう呼ぶべきか。今では、(ア)は「明示されない引用」、(イ)は「出所明示のない引用」がよいと思っている。

【「無標引用」などという表現を考えてみたこともあるが、わたしは現代の日本語で漢字からあたらしいことばを組みたてることに積極的ではないので、このすじで考えるのはやめた。】

2017-12-27

持続可能な農業・環境にやさしい農業と、有機農業との距離

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

- 1 -

ある人の議論のなかで、持続可能な農業と有機農業とを混同しているらしいところがあって、ほかの人から批判されていた。

両者にはどういう共通性があり、どうちがうのか、整理しておきたいと思った。しかし、関連して思いあたることがいくつもあって、なかなか整理できない。ひとまず、思いあたることを列挙しておくことにする。

- 2. 持続可能な農業、環境負荷の低い農業 -

わたしは、人間社会が持続可能なものになる必要があると思っている。人口が大幅に減らないかぎり、人間社会が食料を得るためには農業を必要とする。農業も持続可能にならなければならない。

農業を持続可能にする課題のうちには、農業をおこなう農家や農業法人のような経営体や、それを含む農村のような地域社会を、持続可能なものにする、という課題もある。ただし、わたしの議論からは、ひとまずはずしておく。

農業が、環境を悪化させたり、再生可能でない天然資源を枯渇させたりするものであってはいけない、という課題もある。環境にかかる負荷が低いものでなければならないのだ。「環境にやさしい」というのは感覚的な表現だが、「環境にかかる負荷が低い」と同じことをさしていると思う。

農業が生態系を改変することはさけられない。しかし、農地の外の物質・エネルギー循環の乱れを、そこの生態系が健全に生存可能な範囲にとどめるべきだ。また、農地の土壌中などの生態系を、自然状態とはちがった状態ではあるが、健全に持続可能な状態にたもつべきだ。

そして、化石燃料や、再生利用できない物質を使うことを、すぐにやめることはむずかしいが、いずれはなくしていくような、技術改良をめざすべきだと思う。

- 3. 有機農業 -

「有機農業」は、英語では organic farming という。なお、ドイツ語圏、フランス語圏などでは "bio" が ほぼ有機農業の「有機」に相当する意味で使われているらしい。

「有機農業」ということばを「生態系を健全にたもつ農業」という意味でとらえることも可能もしれない。(もしそうならば、「環境負荷の低い農業」とは意味が近くなりそうだ。) しかしその用語づかいは、生態系有機体説を前提としているように思われる。今の生態学では、生態系は、生物体のあいだの相互作用で成り立っているシステムではあるが、ひとつの有機体として考えることはしないのがふつうだ。

いま、「有機農業」ということばは、「農薬化学肥料を使わない農業」という意味で使われることがふつうになっている。(わたしから見るとうまくない定義だと思うのだが、世の中の慣用にさからうのはむずかしいと思う。)

なお「有機化学」の「有機」は炭素化合物をさすが、ここでの意味はそれとは関係ないと言ってよいだろう。(合成農薬の全部ではないものの多くが有機化合物だ。)

- 4. 有機農業と持続可能性 -

持続可能性や、地球環境問題の対策を論じる文脈で、とるべき政策を列挙する際に、農業については有機農業を奨励する議論がきかれることが、たびたびある。

しかし、有機農業は環境負荷が低いのか? 人間社会の持続可能性を高めるのか?

- 4a. Yesといえる面 -

化学肥料や農薬が農地からもれ出した場合には、たいてい有害な環境汚染になるし、資源のむだでもあるから、そのぶんは減らしたほうがよいことは確かだ。ただし、農業の持続可能性のために求められることは、化学肥料や農薬を「使わない」ことではなく「量を適正範囲におさめる」ことだ。

化学肥料や農薬を作るのには化石燃料が使われることが多く、それをやめる、または減らすことが、持続性に寄与するだろう。(化石燃料を再生可能エネルギーでおきかえることができれば、この面では持続不可能ではないが、再生可能エネルギーの利用可能量は、近ごろの化石燃料利用量を全部かたがわりできるほど多くなりそうもない。)

農薬の使用については、少なくとも今の日本では、食物に含まれた場合に有害でないように、物質の種類と量が規制されている。しかし、環境への影響については、すべての農薬物質について基準がつくられているわけではなく、また基準を超過していても実効的な使用規制がされるとはかぎらない。農薬の利用を減らせば、それによる環境負荷を減らせるだろう。

土壌生態系の機能(いわゆる「地力」)の保全が必要である。化学肥料によって、農作物にとって直接に必要な栄養分は与えられるけれども、地力の保全には不充分なことが多い。全面的に有機農業に向かわないとしても、堆肥を使うなど、有機農業の要素をとりいれるべきである。

- 4b. Noといえる面 -

化学肥料や農薬を使わなければ、少なくとも短期の収穫量にとっては、生産性が下がる。

もし有機資源(ここでは堆肥や天敵などをさす)や労働力を追加投入しなければ、土地生産性が下がる。同じ量の収穫を得ようとすれば、農地面積をふやさなければならず、自然生態系の破壊はむしろ化学利用農業よりも大きくなる。

有機資源の投入をふやす場合も、その資源の供給地の生態系サービスを消費することになるので、同様な問題が生じうる。

なお、有機資源や労働力の投入をふやせば、その費用をまかなうため、作物の値段を上げないといけないだろう。産業としての有機農業は、お金を多く出せる人に向けて高級品を生産するものになり、人口の大部分のための食料生産の持続性につながらないだろう。

有機農業の定義が、合成物の農薬はいけないが、天然物はよいというものになっていると、その場の生態系にとっては異物である天然物を大量投入することもありうる。それでは、環境負荷が低いことにはならない。

- 5. 日本の農林水産省の政策に見られること -

農水省ウェブサイトの「政策情報」のページ http://www.maff.go.jp/j/lower.html の、「農業生産」という大項目のうちの「環境と調和した持続的な農業」という中項目に、次の2つの小項目がある。

- 5a -

「環境保全型農業」のリンク先のページには、まず次のように書かれている。

環境保全型農業とは「農業の持つ物質循環機能を生かし、生産性との調和などに留意しつつ、土づくり等を通じて化学肥料、農薬の使用等による環境負荷の軽減に配慮した持続的な農業」です(環境保全型農業の基本的考え方より)。

そして、「環境保全型農業の推進について(平成29年4月)」という文書http://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/hozen_type/attach/pdf/index-22.pdf がある。

- 5b -

「有機農業」のほうは、まず次のように書かれている。

平成18年12月に制定された「有機農業の推進に関する法律」に基づき、農林水産省は平成19年4月末に「有機農業の推進に関する基本的な方針」(以下「基本方針」といいます。)を策定いたしました。基本方針は、農業者が有機農業に取り組むに当たっての条件整備に重点を置いて定められました。また、平成26年4月に新たな基本方針を策定いたしました。新たな基本方針においては有機農業の拡大を図ることとしています。今後、有機農業者やその他の関係者の協力を得つつ、地方公共団体とも連携して施策を推進していくこととしています。

「有機農業の推進に関する法律(PDF:151KB)」http://www.maff.go.jp/j/seisan/kankyo/yuuki/pdf/d-1.pdf

を見ると、第二条に有機農業の定義が次のように述べられている。

この法律において「有機農業」とは、化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと並びに遺伝子組換え技術を利用しないことを基本として、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業をいう。

- 5c -

「環境保全型農業の推進について(平成29年4月)」という文書は、プレゼンテーション用ファイル(おそらくPowerPoint)をPDF出力したものらしい。農水省で推進されている政策が列挙され、その中には「有機農業の推進」もある。

これを読んで、わたしは次のように推測した。(わたしの推測であって、確かでない部分を含んでいる。)

日本国全体の政策課題として持続可能性が求められたとき、農水省はそれ以前からやっていた有機農業の推進で対応しようとした。しかしそれは産業政策としての有機農業政策であり、日本の農業全体の大きな割合を有機農業に変えようというものではなかった。(大衆化よりも高級品の生産を指向する動きを奨励していただろう。) それでは人間社会の持続可能性にあまり貢献しない。そこで、「環境保全型」の農業として、有機農業の発想を拡張し、化学肥料や農薬を「使わない」のではなくて「使う量を少なくする」ことを奨励することによって、多数の農家が参入できる活動にしようとしているのだろう。

実際、日本で、肥料(有機肥料もであるが)や農薬がもたらす環境問題の多くは、農地から流出したり、地下にたまったりすることによる。窒素肥料の場合は、富栄養化による生態系の変容や、地下水中の亜硝酸イオンによる健康被害などが問題になる。与える量を適正にすれば、環境負荷を減らすとともに、投入する資源の節約にもなるはずだ。それは、必ずしも単純に量を減らすことではなく、作物の生育や水管理と関連づけて、適切なときに適切な量を与えることだ。また肥料をどのような形で与えるかという問題もある。「環境保全型農業の推進について」の第7項目(9ページ)に出てくる「肥効調整型肥料」というのは、ふつうの窒素肥料は有効成分が水に溶けやすすぎるので、ゆっくり溶け出す形に加工して与えるのだと思う。(なお堆肥は逆に水に溶けるのが遅すぎるという問題がある。)

「環境保全型農業の推進について」の第16項目(19ページ)に「地球温暖化及び生物多様性への効果」がある。

このうち「生物多様性」の例としては、兵庫県豊岡市の「コウノトリ育む農法」があげられているが、その方法は農薬の削減と冬期湛水等の水管理だ。これはやはり、合成農薬をなくすわけではないが減らすという、有機農業の拡張のような路線に含まれるものだと言えると思う。

「地球温暖化」の例は、土壌中に炭素をたくわえることによって、二酸化炭素の正味の排出を減らし、地球温暖化の「緩和」に貢献しようというものだ。堆肥を使うところで、有機農業と共通点がある。しかし、ここでの堆肥は土壌中に閉じこめられるのであり作物の生育に使われるわけではない。(これは極論で、炭素分は閉じこめられるが窒素分などは肥料として役にたつことが期待されているのだと思うが。) こちらは有機農業の拡張とはいいがたいと思う。

わたしの理解したところでは、今のところ日本の農水省は、環境保全型農業を、有機農業そのものではないが、それと同じ方向に向いた、「化学肥料や農薬による環境負荷の低い農業」としてとらえ、推進しようとしているようだ。わたしから見ると、それで充分とは思えないが、まちがった方向に向かっているわけではないと思う。

- 6. 有機農業と食品安全・栄養 -

有機農業の背景には、消費者の「安全なものを食べたい」という動機もある。

ところが、食品安全の問題としては、今の日本のように、合成農薬が規制されていれば、食品に含まれる合成農薬は基準値未満になっているので、「有機」の農産物が特別に安全性が高いとはいいがたい。他方、天然物を農薬として使うことに関しては、有害性の評価が義務づけられていない。有機農業をする人の判断が、合成農薬はいけないが、天然物を農薬に使うのはかまわないというものになっていると、「有機」のほうがかえって危険な場合もありうる。

また、化学肥料を使った農業と有機農業では、栄養成分にちがいが生じる可能性があるが、栄養としてどちらがよいかは、「有機」であることの評価とは別に、作物や栽培条件ごとに評価する必要があるだろう。

- 7. 菜食(vegetarian)と環境負荷・持続可能性 -

(有機農業とは直接の関係のない話題になるが) 持続可能性や環境負荷に関連して、肉食よりも菜食のほうが望ましいという議論がある。

肉や魚などの動物性食品は、穀物や豆などの植物性食品よりも、食物連鎖の段階が高いので、食品の一定量をつくるのに、一次生産(光合成)の有機物量を多く使っている。そこで、肉食を菜食に変えたほうが環境負荷を減らせるはずなのだ。

ただし、食物は完全に互換ではない。栄養と嗜好の問題がある。

わたしは、今のところ肉食をやめられないが、この理由で、肉食を減らすのが望ましいと思っている。肉と似ていなくてもよいから、肉のかわりになる栄養があり、食べあきない味や舌ざわりがある植物性の食材がふえれば、世の中全体として、肉食を減らせるだろうと期待している。([2011-09-04の記事]に書いた。)

ただし、持続可能性や環境負荷は、菜食の動機としてはいわば第3のものであり、そういう考えをもつ人は、まだ多くないだろう。

菜食の動機の第1は、宗教を含む民族文化的習慣、あるいは、各人の倫理感覚だろう。

そのうちには、「動物を殺すな」という宗教的または倫理的規律に従う場合があるだろう。(動物の乳については許す場合と、それも動物の子から奪ってはいけないとする場合があるだろう。)

しかし「殺すな」とは直接関係なく、肉などを自分(の民族)にとっての食べものの内に含めるか、外に位置づけるか、という分類の問題であることもあるだろう。

動物一般ではなく、特定の種類の動物を、食べてはいけないという禁忌の対象とする文化がいろいろある。そこで、複数の宗教の人に共通に提供する食物を用意する場合は、動物性食品を避けて vegetarianのこんだてで対応することもある。

菜食の動機の第2は、自分の健康のため、だろう。栄養成分(たとえば、脂肪のうちわけ) に関する判断によって、肉食を避け、菜食に向かう人びともいる。この場合は、肉食をまったくしないという意味の菜食主義の人よりも、量を減らそうとする人が多いと思う。

パソコンをめぐるある日の七ころび八起き

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

【この記事は、単なる生活雑感で、専門的見解でもなければ、意見の主張でもありません。】

ある1日のうちに、「七ころび八起き」(実際の回数はその半分くらいか?)のような経験をした。

日本語の、「活字」(正確でないことを承知でこういう表現をしている)になった古文書がある。いまどき「活字」になっているものは、なんらかの計算機のようなもので処理された結果のはずだが、読者の手にはいるのは紙文書なのだ。テキストデータとして計算機で処理したいのだが、手作業ではてまがかかりすぎる。OCRでいけるだろうか。手持ちのソフトウェアでためしてみよう。

文字の読み取り精度はかなりいい。しかし、もともと横書き用で作られたソフトウェアだったせいか、縦書き文書のうちの順序がめちゃくちゃだ。そして、文字認識のまえにレイアウト認識を修正しようとすると、てまがかかりすぎる。

買いかえよう。店に行く。パッケージの外側の記述で選ぶのは賭けのようなものだけれど、一見よさそうなものが安く買えた。

帰ってきて、ノートパソコンインストールしようとすると、途中から進まない。これは「アップグレード用」だったので、旧版を持っていないとだめなのだ。値段が製品版の半額ぐらいだったのは、そういうわけだったのだ。買い物に失敗した。アップグレード用があることは想像の範囲内だったのに、シールを見落とすとは、わたしのパソコン関連買い物能力も、おとろえたものだ。

いや、うちのスキャナ兼用プリンタに付属していたのが、それの「旧版」に該当するようだ。ソフトウェアをまた買いかえる必要はないかもしれない。

しかし付属していたCD-ROMを、捨てはしなかったはずだが、どこにしまったのかわからなくなってしまった。家じゅうさがす時間はない。あきらめるか。

家のデスクトップパソコンに、スキャナドライバーソフトウェアを入れたとき、いっしょについていたソフトウェアも入れたかもしれない。

デスクトップパソコンを起動して見てみると、確かにOCRもインストールされていた。起動したおぼえはないのだが。このマシンにならば、アップグレード用のCDでインストールできる。

インストールできて、動作した。レイアウトの自動認識には不満があるが、修正はむずかしくないので、文書のページごとに修正する覚悟さえあれば、実用になりそうだ。

2017-12-15

テレビ番組「氷河期」(NHK BS 「地球事変」) について

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

- 0 -

この記事は、別のブログ http://macroscope.world.coocan.jp/yukukawa/ に書いている「読書メモ」の同類で、ただ、対象が本ではなくテレビ番組だ。読書メモのブログをはじめるまえに、「読書ノート」のウェブページにビデオ作品やテレビ番組についての記事を書いたことがある。ただし「教材関係の読書ノート」 http://macroscope.world.coocan.jp/ja/reading/index_edu.html の項目として、実際に授業の教材として使ったことのあるものをあげたのだった。今回のはそこにあげたものと関係がある。読書メモのブログのほうに書くかどうか迷ったが、ひとまずこのブログに書くことにした。

- 1 -

今回おもに話題にするのは、NHKの「BSプレミアム」(衛星放送の3チャンネル)で2017年12月6日 16:30--18:00 に放送された、「地球事変 GIGA MYSTERY」というシリーズの「氷河期」という番組だ。番組のウェブページは http://www4.nhk.or.jp/P3682/x/2017-12-06/10/18094/2420420/ にある。2015年9月19日に最初に放送されたものの再放送だ。

番組の最後に流れた字幕によれば「制作 NHKエンタープライズ、制作・著作 NHK、テレコムスタッフ」とあった。わかりにくいが、おそらく、NHKがNHKエンタープライズとテレコムスタッフとに下請けで作らせ、NHKエンタープライズはNHKに著作権を譲ったが、テレコムスタッフは分担部分の著作権をもちつづけている、ということなのだと思う。

- 2 -

このシリーズは、ドキュメンタリーに分類されるだろう。視聴者の日常とちがった景観のところをたずねる観光ものと、地球の歴史についての知識を伝える科学ものの、両方の性格をもったものだと言えるだろう。

そのうちこの回は、第四紀(地球史のうちでは最近の約2百万年)を扱っている。

予告のキーワードを見て、わたしが教材に使っている、1987年の「地球大紀行」シリーズの「氷河期襲来[読書ノート]とかさなる題材を含んでいることに気がついた。1987年の作品は傑作だと思うが、今から見ると、もっと精細な画像があるとよいと思うこともあるし、学術の進展で改訂すべきところもあるかと思う。教材を新しいものにさしかえることができたらよいと期待した。

見た結果、過去の氷河のあとの地形の実写画像などはすぐれていると思ったが、わたしにとってかんじんの気候の変化の周期性やメカニズムの説明にまちがいやあいまいなところが多くて、教材には使えないことがわかった。とても残念だ。

- 3 -

北アメリカ大陸のうちで、まず今は氷河がないアメリカ合衆国本土の地域で地形を観察して過去の巨大な氷河(大陸氷床)の証拠を見つける、という趣向は「氷河期襲来」と共通だ。出発点がナイアガラの滝であるところがちがうが、「氷河期襲来」に出てきたニューヨーク市のセントラルパークもちょっと出てくる。エリー湖の中の島にある岩の氷河擦痕はみごとであり氷河の侵食力を感じさせる。

それから氷河の実写が出てくるが、大部分はグリーランド氷床の風景だ。「氷河期襲来」にあったような、雪が積もって固結した氷になっていく過程の説明はなく、氷河の流動を示す こま落とし(微速度撮影)の動画はあるにはあったが短すぎて はじめて見た人にはなんだかわからないうちに次の話題に移ってしまう。これでは氷河のしくみに関する教材には使えない。しかし番組制作者がその目的に使えるとうたっているわけではないから、もんくを言うべきではないだろう。

グリーンランド氷床コアが出てくる。これは1998年の「海--知られざる世界」の「深層海流[読書ノート]に出てきたのと、同じ画像ではないと思うが、よく似た題材だ。専門家のコメントもついているので、その部分は教材に使える可能性がある。残念なのは、それに続くナレーションや図解が(あとに述べるように)学術的に不正確なことだ。

- 4 -

氷河期襲来」にはなかった、今度の番組の特徴は、「最後の氷期の終わり」が人類がすでにいた時期であり、人類が気候に適応して生きてきたことを強調していることだ。

考古学の新しい成果を取り入れている。「2014年ミシガン大学の調査隊が有力な手がかりを発見した」といい、ミシガン大学考古学研究室のアシュリー レムケさんが登場して解説している。ヒューロン湖の底 (かつての中洲)にある遺跡の石積み、石器、木の加工品(舟など)が見つかり、それは北極圏イヌイットのものに似ているのだそうだ。

国立公園学芸員による現地説明、(一般向きの著書で知られた)考古学者のブライアン フェイガンさんによる解説、寸劇アニメーションなどを組み合わせて、当時の人びとが、狩猟技術およびその背景となる動物の行動についての知識や、衣服をつくる(骨で針をつくって縫う)技術をもち、氷期の寒い気候に適応して生活していた、ということを述べている。

そして、今から約1万3千年前の氷期の終わりには急激な温度上昇が起こった。その場で温暖な気候に適応した人もいた。これはアニメトウモロコシの絵などを使って簡単に示されている。他方、後退する氷河(のふちの動物)を追いかけて北へ向かう狩猟民もいた。番組はおもにこちらを追いかけて進み、現代のラブラドルでのイヌイットの生活を見せる。

なお、アメリカ大陸にいつごろどのルートで人がやってきたかという話題(番組名を思いだせない別のドキュメンタリーでは主題になっていた)は出てこなかった。複数の説があるのでとりあげるのを避けたのかもしれない。

- 5 -

表題は「氷河期」となっているが、番組の中では「氷期」ということばも使われていた。デンバーにある「国立アイスコア研究所」のジェームズ ホワイト博士による説明の中で「80万年の間に7-8回、約10万年周期で氷期があった」という話があり、続いて「過去100万年に8回の氷期」というナレーションと、「氷期」(およそ10万年)と「間氷期」(1万年ほど)が複数回くりかえしていて、その全体をさして「氷河期」と書いてある図解があった。

番組のこの部分での「氷河期」は、おそらくわたしの[2012-04-24の記事]で説明した「氷河時代」に対応し、氷期・間氷期を含む、少なくとも約100万年前から約1万年前にわたる時期をさしていたにちがいない。いつから始まったと考えているかはわからなかった。いつまでを含めているかもはっきりしなかった。氷期・間氷期サイクルを考える専門家の多くは、現在もひとつの間氷期だと考えている。しかも番組中で、ホワイトさんもフェイガンさんも、これからまた氷期が来るにちがいない(ただし人間活動による温室効果強化のせいで、いつ来るかは不確かになった)と言っていた。したがって、用語を首尾一貫して使うならば、今も「氷河期」のうちのはずなのだ。

しかし、この番組のナレーションを聞いていて、わたしは、「氷河期」ということばが必ずしもこの意味で一貫して使われていないと感じた。「これからまた『氷河期』が来る可能性がある」と言っていた(そうだとすると今は「氷河期」ではないことになる)ような気がしたのだが、これはわたしの聞きちがいだったかもしれない。「氷期」と「氷河期」を区別して使うのはむずかしい。長いほうの期間については「氷河時代」のような表現のほうがよかったと思う。また、「氷期」より短い時間規模の寒冷期をさす用語を決めなかったので、話がわかりにくくなっていた。

「氷期」については、ホワイトさんの話で「気温が今よりも5℃から10℃低かった」(どこのどの季節の気温か説明がなかったがグリーンランドで雪の降った時期のだろう)、字幕で「海面は130m下がった」などという説明があった。これは氷期の平均ではなくそのうちの氷床の極大期のことだと思うが、その区別は明確でなかった。

- 6 -

「氷期の終わりに地球は急激な温度上昇にみまわれた」という話があり、ホワイトさんが「13000年前、毎年1℃上昇が5年、いったん停滞してまた5年続いた。人の一生の間に10℃上昇した」と話した。

そこでナレーションに移り、「原因は太陽だとわかった」と言い、さらに「地球と太陽との距離が実際にちぢまった」と言った。そして、地球の公転軌道が変動することが図解で示されたのだが、その図は、軌道短半径がかわらず、長半径がのびちぢみするように見えた。そして「公転軌道が大きくなると氷期」と言っていた。

万年のけたの時間規模の氷期サイクルの原因ならば、地球の軌道要素による、いわゆるミランコビッチ フォーシングが重要であることがわかっている。しかしそれは地球と太陽の平均距離が変化することではない。番組で使われた図解はまちがっていた。公転軌道の離心率の変動の効果はあるけれども、それも地球に達する太陽放射の年平均値への効果は小さく、季節別の値に大きくきくのだ。

ところが、それが出てくるのは1万3千年前の急激な温暖化のところだ。しかも、この番組では、アニメの登場人物に「太陽が大きくなっていく」と言わせている。次に「この暑さは異常だ」とあるから、太陽が大きくなったというのもそこにいた人の主観としては悪くないかもしれないが、科学番組としては、太陽自体あるいは太陽・地球間の距離に当時の人の目で認識できるほどの変化があったかのような誤解を招く表現はまずいと思う。また、軌道要素の変化に伴う地球に達する太陽放射の変化は、実際は数千年から万年の時間規模で起こるのだが、気温が数年とか数十年とかで変化したことの主原因であるように紹介されるので、それと同じ時間規模で変化したという誤解も招きそうだ。

軌道要素による北半球の夏の太陽放射の偏差に注目するならば、1万年前ごろが極大だから、1万3千年前ころには(数千年にわたって徐々に)増加していて氷床の融解を強めていた、とは言える。しかしそれを説明する図解としては、楕円軌道の近日点が北半球の夏にあたることを示すべきだろう。

- 7 -

番組の終わり近くでは、地球温暖化の一般的な話に続いて、「温暖化がもたらす氷河期の新しい局面とは」という話になる。

「フェイガンさんが、『温暖化が次なる氷期のひきがねとなる』と警鐘をならす」という。「海洋学の第一人者、ロバート ガゴシアン博士が2003年に発表した説」では、「深層海流」...が止まって、ヨーロッパ北アメリカが寒冷化して、一気に氷期に突入する、という。(番組で「氷期」ということばを持ち出したのはフェイガンさんではなくナレーションだったと思うのだが、わたしは区別してメモをとらなかった。)

ガゴシアンさんの説というのは (番組からはわからなかったがGoogle Scholarで検索してみたところ)、次の解説(研究論文ではない)に書かれた議論をさすらしい。

これは、大西洋の深層の南北鉛直循環が止まって、ヨーロッパや北アメリカ東部の寒冷化を含む気候変化が起きることを示唆するものだが、その類似例は新ドリアス事件(Younger Dryas event)であって、時間規模は千年程度のはずだ。また、「氷期」は英語ではふつう glacial period だが、Gagosian (2003)の文章には glacial ということばは出てこない。なお "Little Ice Age" ということばは出てくるが、これは日本語では「小氷期」で、それが示す現象の時間規模は千年よりも短い([2012-04-24の記事]参照)。「次の氷期が来る」というのは Gagosian (2003)の主張ではなく、番組の制作者がとりちがえたのだろう。

また、この因果連鎖は、ガゴシアンさんのオリジナルではなく、仮説として語る人は多いけれども、起こる可能性が高いとされているわけではない。しかしこの話題を聞く機会がほかにない視聴者には、定説と受け取られそうであり、誤解を招く番組づくりになっていると思う。

続いてナレーションは「ホワイト博士も氷期が近いと予想しています」という。しかしそこでのホワイトさんの話は、地球の軌道要素変化にともなって次の氷期がやってくるという話で、急激な気候変化の話ではない。氷期はいつか必ず来るが、何千年もかかる変化だから、人類は適応できるだろう、と言っていた。ただし、それがいつかの予測は、人間活動由来の温室効果気体のために、困難になっているとも言っていた。

番組の終わり近くで、フェイガンさんが、人間社会にとって気候変化への適応が(昔も今も)重要であることを力説している。今の人間社会にとって重要な気候変化としては、人間活動由来の地球温暖化を想定していると思う。ただし、地球温暖化が新ドリアス型の急激な寒冷化をもたらす可能性も(高くはないが無視できない確率で)あると考えて心配しているのだろう。

番組制作者は、時間規模が十年から千年くらいまでのいわゆる「急激な気候変化」(abrupt climate change, rapid climate change)に関する話題の背景知識をほとんどもたず、それと時間規模が1万年から10万年の「氷期」とを混同したまま番組をつくったにちがいないと(わたしは)思った。これではこの主題の科学番組としては失格だと思う。

「急激な気候変化」の知識は、NHKが「氷河期襲来」の番組をつくったころには、専門家のあいだでも共有されていなかったが、「深層海流」の番組では(当時なりの形で)主題のひとつになっていた。NHKが「深層海流」をつくったときの知識を今もひきついでいれば、世代交代しても、さらに下請けに発注するにしても、こんなひどいことにはならなかったはずだ。知的生産をする組織には、参照可能な形で知識を保持するしくみがあってほしいと思う。

- 8 -

地球事変 GIGA MYSTERY」というシリーズ名は、近ごろのドキュメンタリー番組にありがちなのだが、驚くべき内容であることを競い合うような用語がいわばインフレを起こして、驚きの効果がない冗長な表現になってしまっていると思う。放送局やプロダクションは考えなおしてほしいと思う。

- 9 -

このシリーズの番組は、次のように放送された。

氷河期」のほかはいずれも人類がいなかった時代の話なので、話題は景観と自然科学になり、人間社会への教訓はあるとしても間接的なものになる。

「地中海消滅」は、わたしにとっては、Hsü (1982) で知っていた話だったが、それ以後、証拠がふえたようだ。ただし、ジブラルタル海峡ができて地中海に水がみちるのに2年しかかからなかったというのは、おそらく不確かな仮説だと思う。

  • Kenneth J. Hsü, 1982: The Mediterranean Was A Desert.
  • [同 日本語版] ケネス・J.シュー 著, 岡田 博有 訳 (2003): 地中海は沙漠だった: グロマー・チャレンジャー号の航海古今書院

【他の回について、これから書くかもしれないし、書かないかもしれない。】

2017-12-12

気象データ活用アイディアコンテスト(学生の参加を募集、2018-01-19 東京)

気象庁と気象ビジネス推進コンソーシアム (http://www.wxbc.jp) は、2018年1月19日(金)に東京で「お天気データで未来を描くアイデアコンテスト」を開きます。学生の参加を募集しています。しめきりは2017年12月20日です。詳しくは http://www.jma.go.jp/jma/press/1711/28a/20171128_ideacontestpr.htmlhttps://www.wxbc.jp/idea_contest_recruitment/ をごらんください。

2017-11-28

引用符のなかまの役割分担を決めたい

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

- 1 -

最近1年間ぐらいのうちに、次のような主張を読んだ覚えがある。

「引用符は引用をあらわすものだ。それ以外の目的に使ってはいけない。」

ただし、どこで読んだか、だれの発言だったかを覚えていない。ことばも正確に覚えているわけではなく、上のかこみのかぎかっこの中の文はわたしが記憶から構成したものだ。したがって上のかこみの内容は正確には引用ではない。かぎかっこが引用符だというのはよいと思うので、上のかこみの内容を書いたわたしは、かこみの内容の指示にしたがっていないわけだ。

上のかこみのような発言をするのは、歴史学哲学文学を含む人文系研究者や編集者だろう (ただし、そのすべてではない)。

文献を論評したり、参考にしたりするとき、もとの文献の文字づかい (必ずしも著者自身の文字づかいでなく、出版あるいは写本ができたときの文字づかいだとしても)を伝え、読者がそれを確認できるようにしたい、という趣旨はわかる。

原文をそのまま書いたのでは長すぎることがあり、省略は必要になる。そのときは、「 ... 」などの記号を一定ルールで使うことになっている。欧文では、文の頭であるかどうかによって大文字と小文字が変わることがあり、原文では文の途中の「this」を文の頭として引用したい場合には「 [T]his」のような形で明示しているのを見ることがある。

わたしは、自分がふだんから上のかこみのような規則に従うのはとても無理だと感じている。しかし、そういう規則をもつ本や雑誌に文章を出すことになったら、その規則を尊重して従う努力をしたいと思う。

しかし、引用以外の場面で、引用符と区別されてもよいが、引用符と同類の記号を使えることは必要だと思う。

- 2 -

日本語を漢字かなまじり文で書くときにふつう使う引用符は、かぎかっこ(「」)、二重かぎかっこ(『』)だ。同じものの開き・閉じが対応する。かぎかっこ による まとまり のうちに かぎかっこ が含まれるときは、内側で二重かぎかっこを使う。

その第1の使いかたは、引用だと言ってよいと思う。わたしは小学校のときに、かぎかっこの使いかたを習った。そのときは、「引用」ということばは使われず、およそ「人の発言を伝えるときに使う」というような表現だったと思う。(それが引用と同じかちがうかについては、あとで議論したい。)

第2の使いかたとして、本などの題名を示す場合がある。この使いかたも、著者なり出版者[注]なりが決めた題名の文字列を忠実に伝えることになるので、「引用」の意味をやや広げればそれに含まれるとも言えそうだ。

  • [注] わざと「出版社」と書かなかった。出版者は、学会など、会社でない場合も多いからだ。

小学校で習った規則は、題名の場合も「」が基本で、「」の中にきたときだけ『』、だったと思う。しかし、近ごろ見るいくつかの学術雑誌では、本の題名は『』と決めてあることもある。

- 3 -

日本語の出版物のうちで、欧文由来の「“ ”」などの引用符を見かけることもある。それとかぎかっことの使いわけについては一般のルールはない。出版物ごとにルールを決めていることはあるだろう。そのときごとの感覚で使っている人も多いと思う (わたしの場合もそうだ)。

- 4 -

きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第1として、引用ということばを ゆるい意味[注]で使えば含まれそうなものがある。他人の言うことを伝えたいのだが、表現がもとの発言や文章のとおりでない場合だ。

  • [注] 「広い意味の引用」と書くと「それは引用ではない」としかられそうなので、別の表現を考えた。「狭い意味」「広い意味」にだいたいあたることがらを[2013-09-13の記事]では「鋭い」「鈍い」と表現してみたが、ここでは「きびしい」「ゆるい」としてみた。

わたしの小学校のときにならった「人の発言を伝える場合」でまず想定されたのは話しことばだった。話しことばは、正確に記録しておらず記憶によって再構成することが多い。わたしは、書きことばを「伝える」場合も同様に考えたので、引用符の使いかたはきびしい意味の引用に限るとは思わないまま育った。理科系[注]の専門文献でも(他の著作を細かく批評するときのほかは)、ことばを正確に伝えなくても趣旨が変わらなければよいとされることが多い。文科系の文献できびしい引用に限定することがあるのは、あとで知った。

  • [注] ここで「理科系」「文科系」ということばは、とてもおおざっぱに使っている。すべての学問を二分してしまおうなどという意図はない。

第1のものの変種として、自分の意見とちがう意見を想定してみたい場合がある。たとえば、次のかぎかっこの使いかただ。

「日本は核兵器を持つべきだ」という意見に、わたしは賛成しない。

このくらいの長さならばかぎかっこなしでも読めるが、もっと長くなると、意見の内容をかこむ記号がほしくなる。

- 5 -

きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第2として、単語を典型的でない意味で使う場合がある。次のような場合を含む。

  • 世の中の人が言う○○ (自分はそれが○○であるとは思わないが)を「○○」と書く。
  • (世の中ではふつう○○と呼ばないものを) 自分があえて「○○」と呼ぶ。

たとえば、今の日本は常識的に見て戦争中とは言えないが、ある意味で戦争中と似た状況にある。その「ある意味」を伝えるために、かぎかっこつきで「戦争中」 と表現する。

第2のものの変種として、見慣れない単語を持ち出すとき。あるいは、強調したいときがある。これは、日本語では傍点か傍線、欧文ではアンダーラインかイタリック体、HTML では <em>...</em> か <strong>...</strong> が 適切なのかもしれない。しかし、機械への文字入力で文章を書いていると、傍点などは技術的にできなかったり、できてもてまどるので、(わたしは)かぎかっこで書いてしまうことが多くなった。同様にかぎかっこを使う人が多いかどうかは確かめていないが、めずらしくはないと思う。

- 6 -

引用符には含まれないと思うが、そのなかまであるものとして、かっこ[括弧]がある。「( )」が基本で、「{ }」(波かっこ)、「[ ]」(角かっこ)も同類だ。

論文、とくに自然科学系の論文は、かっこなしでは、まず書けないだろう。かっこが多重になる場合の対策、かっこ類の使いわけなどは、一般的ルールはあまり明確ではなく、出版の場(雑誌など)ごとのローカルルールや、専門分野ごとの習慣などによっていると思う。

わたしは、文章を書くときのかっこの役割を次のように理解している。かっこは、文を補足する情報を与えるための記号だ。かっことその中身をいっしょに省略しても、文は形式的にも正しく、基本的意味も変わらない(ように書くべきだ)。

しかし、数式でのかっこの意味はちがう。そこでは、かっこは、要素をまとめるための記号だ。かっことその中身をいっしょに、ひとつの(変数をあらわす)文字で置きかえて、その置きかえを示す式を別に書けば、式は形式的にも正しく、意味も変わらない(ように書くべきだ)。

- 7 -

そこで、きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第3として、数式でのかっこと同様に、(数式でない) 文のうちでの語句のまとまりを示したい場合がある。

条件つきの議論どうしを比較するときなど、まとまりを示しておかないと、とても読みにくい。そこで、わたしは、かぎかっこを使ってしまうことが多い。

- 8 -

引用符のなかまは複数の形があるので、きびしい意味での引用と、それ以外に引用符のようなものを使いたい場合で、記号を区別することは可能だと思う。

ひとまず、日本語の中で、きびしい意味の引用にかぎかっこを使うと決めたとしよう。それ以外の場合にはどんな記号を使ったらよいだろうか。

思いあたるのは、山かっこ(ギユメguillemets)「〈 〉」、二重山かっこ「《》」だ。これは、フランス語では引用符として使われている。日本語で使われる場面は限られているが、使うならば〈単語を典型的でない意味で使う場合〉が多いと思う。

【わたしが学生のとき読んだ本のうちには、山かっこを使ったものもあったはずだが、わたしはかぎかっことの区別を気にとめなかった。本や雑誌の題名を示すところで使われていたというおぼろげな記憶があるだけだ。

ところが、わたしが共訳者になった本[読書ノート]の題名の内で使われてしまったので、わたしはのがれられなくなった。原題には discovery ということばが引用符なしで含まれているのだが、日本語版の出版社が山かっこを使った。わたしはその理由を聞いていない。この本の場合、山かっこの必要性は大きくないと思う。しかし、同じ出版社から出た別の本[読書ノート]の場合は、あきらかに文字どおりではない意味で使われている。】

ここでわたしは、〈きびしい引用には かぎかっこ を、それ以外は山かっこを使う〉という方式を提案したい。もちろん、それは、その方式を採用する著者や出版者がふえないとなりたたない。しかも、わたしは、これまでの かぎかっこ を多く使う習慣を簡単に変えられそうもない。ときたま、山かっことの使いわけを試みてみようと思うところまでだ。