Hatena::ブログ(Diary)

macroscope

2015-04-21

SPEEDIに期待された機能、それをどうやって実現するか

【[おことわり] わたしは気象学の専門家ではあるが、とくに原子力防災を専門とするわけではないし、その関連の政策に対してとくに発言力があるわけでもない。ここに書くのは、個人としての意見を表明し、できれば政策決定にかかわる人にも読んでいただきたいと思うからだ。】

【[おことわり] いつものことだが、わたしはブログ記事を書いたあと修正することがあり、その際に、いつどこを修正したかの表示は省略することがある。】

- - -

原子力規制委員会が、今後の原子力施設事故の際の住民の避難計画に、SPEEDIを使わないことにしようとしているという報道があった。これは決定ではなく検討中の案であるとわたしは理解している。それに対して、「SPEEDIを使わないのは安全軽視だ、けしからん」という声と、「SPEEDIはどうせ役にたたないのであり、捨てるのが正しいのだ」という声が聞かれた。どちらの意見も、原子力発電所の再稼動への賛否のいずれの立場の人のうちにもあるようだ。わたしは、どちらの意見も、SPEEDIというものを、「機能が箱づめされて固定され、そのまま何年も使わずに保存することができ、いざというとき取り出せばすぐ使える装置」のようにとらえたために、極端になってしまったのだと思う。SPEEDIに期待されるのはどんな機能であり、それをこれからはどのように実現していったらよいか、という考えかたをするべきだと思う。

- - -

SPEEDIとはどんなものかについては、中島ほか(2014)の本のなかに解説がある。

- - -

わたしの理解では、SPEEDIは次のような働きをする部分からなっている。

  • (0) 放射性汚染物質発生源となりうる施設の周辺での放射線量を計測する。
  • (1) 汚染物質発生量を推定する。
  • (2) 風などの気象場を予測する。
  • (3) 風による汚染物質の輸送を計算する。
  • (4) 汚染物質の地表への沈着を計算する。
  • (5) 空気および地表から人体におよぶ実効線量を計算する。

このうち(0)のための観測網(中島ほかの本では「モニタリング設備」という表現になっている)の少なくとも一部分は、国の予算の枠組み上、SPEEDIに含まれていた。(SPEEDIに膨大な費用がかかったという批判があるが、それには、この観測機器とその観測値をリアルタイムで集めるための通信機器が含まれていたのだ。) これはSPEEDIの立場から見れば(1)のために必要なのだが、(1)からさきのSPEEDIがなくても原子力防災のために有用なものだ。おそらく、この観測網は、規制委員会議論で「SPEEDIを使わない」とした案でも、動作する限りは使うことを想定していると思う。

東日本大震災では、この(0)の観測網が使えなかった。(地震のせいで、停電で機器が止まったり、観測機器は動いていても通信ができなくなったりした。原子力事故で人が立ち入れなくなって機器の確認ができなくなったところもある。) したがって(1)の発生量の推定がすぐにできず、当時の計画に含まれていたような形では、SPEEDIを避難に役だてることができなかったのだった。

しかし、原子力事故はいつも東日本大震災のように起こるとは限らない。おそらく、地震や津波に伴ったものでない事故ならば、観測網は使える可能性が高いだろう。

また、(0)の観測値が得られなくても、発生量として、単位量(たとえば1ベクレル毎秒)を与えて、そこからさきの計算をすることはできる。これでは人体への危険性を定量的に見積もることはできないが、汚染物質が集中的に発生した場所・時刻がわかっていれば、それがどの方向に多く動いていくかが推定できるので、避難の助けになったはずだ、と言う人がいる。わたしもそれはもっともだと思う。ただしその場合、SPEEDIの全機能ではなくて一部分の機能があればよいことになる。

(2)は、気象庁の数値予報が、かつてSPEEDIが設計されたころよりも細かくなっているので、その結果を受け取って使えばよいだろう。(もちろん、気象庁の計算機システムあるいはそこから(3)の計算をするところへの通信がこわれる可能性も、まったくなくはないが。)

(4)のところが、気象学の知識から見て、たとえ計算はできても有用でないかもしれないのだ。風によって運ばれた放射性物質の地上への沈着は、雨や雪に伴うものが多い。雨や雪の数値予報は、空間規模100km程度の地域のどこかに降るだろうという意味では、かなり確かになってきた。しかし、その地域の中を空間規模1kmで見たときにどこにどれだけ降るかは、おそらく将来とも、精度よく予測はできない。数値予報で得られた空間分解能1kmの雨や雪の分布は、雨や雪がどの程度不均一に降るかの例にはなるが、それをもとに細かい場所ごとの汚染物質の沈着を予想して警戒しても意味はない。空間分解能の細かい情報がほしければ、実際に降った雨や雪の分布、あるいは実際に計測した線量を知る必要がある。

雨や雪が降らず、沈着が空気が直接地面に接することによるものだけである場合に限れば、上記の(1)から(5)を通した計算が有用なのかもしれない。しかし、多くの場合に有用なのは、雨や雪のことは考慮せずに(3)を計算したうえで、雨や雪についてさまざまな仮定をおいて(4)(5)を概算することだと思う。

- - -

なお、緊急時の避難の支援という目的を離れれば、あらかじめ避難計画をたてる際の基礎情報として、単位量発生源による計算を多数の日時について計算しておくことは有用である。

また、もし事故がおきてしまって発生源の観測ができなかった場合には、東日本大震災の後にされたように、単位量発生源による計算と遠方の観測を組みあわせて発生源を推定する、という使いかたもされるだろう。

- - -

さて、もしSPEEDIを緊急時の避難の支援に使いたいのであれば、常にそれを動かせる態勢を整えておかなければならない。それには、機械の問題と、人の問題がある。

計算機ソフトウェアは、それが設計された当時に存在した計算機で動くように作られる。そのままでは新しい計算機では動かないかもしれない。それだからといって、古い計算機を維持するのはだんだんむずかしくなる。いつかは更新が必要だ。その際に、古いソフトウェアを部分改訂して移植するのか、新たに設計しなおすのか、という問題がある。SPEEDIは設計しなおしたほうがよいと思う。(WSPEEDIをもとに改造で行く可能性はあるかもしれない。)

次に述べる人の問題をあわせて考えてみると、使う計算機は、古い設計のものでも、今の最先端のものでもなく、今の理工系の高等教育の場に普及しているものに近いものがよいと思う。ただし、防災に使われるものなので、個人用・学習用とは違って、故障しにくいといった意味で信頼性が高いものを選ぶ必要がある。

このシステムが役にたつためには、各地域ごとに、必要に応じていつでも計算ソフトウェアを起動できるように人を配置しておく必要がある。ふだんは、単位量発生源での計算を定期的にするのがよいと思うが、比較的ひまであり、緊急事態にだけ忙しくなるので、この人は別の業務を兼ねる形で雇われることになるだろう。どういう組織で雇うのがよいかという制度設計もあわせて考える必要がある。

- - -

なお、有志の個人や大学の研究室などが、このような計算をすることがあってもよいと思う。((3)だけになることが多いと思うが。) ただし、必要が生じたときに有志が必ず作業できるとは限らないので、これは公的な防災業務を担当する機関の仕事の代わりになるのではなく、それと並列に追加されるものになるだろう。情報発信の際には、その内容が何であり、それはどんな根拠に基づいて得られたものかを、まぎれなく示す必要がある。平常時に、発信の内容と説明がうまくできているかを認証する態勢もあったほうがよいかもしれない。

文献

2015-04-18

ジオエンジニアリング、気候工学、意図的気候改変 (3)

[2013-11-03の記事][2014-01-19の記事]の続き。

アメリカ合衆国科学アカデミー(NAS)の関連機関であるNational Research Council (略称はNRCだが原子力規制委員会でないことに注意。日本語表現は決まっていないようだが「全国研究評議会」とされていることがある)の委員会の報告書(2冊)が出た。まだ正式出版に至っていないが、印刷用割りつけ前で内容は完成らしいPDF版が、2015年2月10日からNational Academies Pressのウェブサイトに置かれている。わたしは別ブログ[読書メモ]を書いた。

ここでは、そこで使われた用語の件に限って、要点とわたしの考えをまとめておく。

この報告書を出した委員会の名まえには、"geoengineering climate" という表現がはいっている。これは、geoengineerという動詞動名詞の形で使われており、その目的語がclimate、つまり「気候をgeoengineerすること」という表現にちがいない。これはイギリスの科学アカデミーに相当する組織であるRoyal Societyが2009年に出した報告書の題名の表現を(climateに定冠詞をつけるかどうかの違いはあるが)引き継いだものにちがいない。

しかし、この委員会で議論した結果、geoengineering (あるいはclimate engineering) という表現は、ここで問題となっている技術群にはふさわしくないということになった。"Engineer" という動詞は、対象となるものの性質がよくわかっていて、人がそれを制御できる能力をもっている状況で使うのがふさわしいのだ。ところが人の気候という対象に関する(科学的)理解はまだ不確かさが大きく、人が今から見通せる限りの将来にはそれを制御しきれそうもない。そこで、報告書の表題にはclimate intervention (気候への介入)という表現が使われている。

わたしは、自分でことばを選べる場合は「意図的気候改変」と言うことにしようと思う。しかしこれはひとつの熟語というよりも複数の語の連鎖でありつづけるだろう。ひとつのものごととして扱いたいときは、便宜上 (NRCと同様な疑問のほかに、[2013-11-03の記事]の終わり近くに書いた不満もあるのだが)、日本語では「気候工学」、英語でもclimate engineeringという表現を使うことにしようと思う。

しかし、NRCの報告書でもうひとつ強調されているのは、大気中の二酸化炭素を吸収することと、地球による太陽光の反射をふやすことは、性質が大きく違う技術だということだ。そこで、報告書は2冊に分けられた。今後は別々に議論する機会がふえることを期待しての判断にちがいない。

Royal Society (2009)の報告書で、geoengineeringを大別して、carbon dioxide removal (CDR二酸化炭素除去)と、solar radiation management (SRM太陽放射管理)とした。それ以来、この用語が事実上の標準として使われてきた。

CDRについては、[2014-01-19の記事]で紹介したBoucherほか(2014)は、二酸化炭素以外の温室効果気体を減らす技術的対策もありうることを指摘して、greenhouse gas removal (温室効果気体除去)のほうがよい、と論じた。しかし、今回のNRC報告書ではCDRという表現を引き継いでいる。二酸化炭素以外の温室効果気体を人工的に減らす技術はありうるのだが、見通せる限りの将来に温暖化対策のなかで量的に重要になる可能性はなさそうだという判断があるのだろう。

温暖化の「緩和策」のうちにも、排出削減策に加えて、二酸化炭素を吸収する技術的対策が含まれている。いわゆるジオエンジニアリングに含まれるCDRと、緩和策に含まれる吸収策との間に、原理的な境目はない。技術を重複なく分類したければ、むりやり境界線をひくしかない。今回のNRC報告書では、大気から吸収する場合はCDR、そのほか(燃料や燃焼排気など)から吸収する場合は緩和策、と分けた。しかしこの原則を認めても、具体的技術をどう分類するかは自明でなく、この報告書の分類でよいのか、わたしには必ずしも納得がいかない。おそらくこの状況は過渡的なもので、今後は、Boucherほかの言うように、緩和策に含まれてきたものも入れてCDR (Bucherほかの表現では「温室効果気体除去」だが)としてまとめることに変わっていくと思う。

SRMのほうについては、まず、内容として「太陽放射の反射をふやすこと」でないものの扱いが問題になる。「巻雲(対流圏の上層にできる雲)を減らす」という技術の提案があるのだが、これは、地球放射(熱赤外線)の収支を変えることをねらったものなのだ。温室効果を弱めること、と言ってもよいのだが、雲は「温室効果気体」ではないし、雲をつかまえてとじこめるわけでもないので、CDRの同類とみなすのも無理がある。どちらかといえばSRMに近い。幸か不幸か、巻雲に関する科学的知見の不確かさが大きく、この技術は太陽光を反射する提案よりもさらに実現に遠いと思われるので、報告書ではごく軽く扱われるだけだ。そこで、報告書のうち1冊の主題は太陽放射の反射をふやす技術とし、巻雲改変はそのついでに扱うことにした。

SRMということばの management (日本語ではふつう「管理」とされている)にも、engineeringと同様なことが言える。われわれは、地球が吸収する太陽放射の量を、期待どおりに制御する能力をもてそうもない。(全世界平均の量だけならば制御できるかもしれないが、緯度別、海陸別、季節別には、望ましくない変化が起こるだろう。) そこで、今回のNRC報告書では、本文中ではalbedo modification (アルベド改変)という表現を使っている。アルベドとは物体(この場合は地球)が受け取った太陽放射のうち反射される割合のことだ。また、報告書の表題ではreflecting sunlight (太陽光を反射する)という表現を使っている。なおLenton and Vaughan (2013)はsunlight reflectionという表現を使っている(ただし、同じ本の他の章にはSRMという表現が見られる。)

これを受けて、今後どういう表現を使ったらよいか、わたしは迷う。短縮表現がほしいのだが、AMは「午前」やラジオの「振幅変調」などを思ってしまうし、SRは「太陽放射」あるいは「短波放射」そのものだ。頭文字略語は3文字か4文字がよいと思う。当面わたしは、Mmodification (改変)の略である、と解釈しなおして、SRMを使い続けることにしようと思う。日本語では「太陽放射改変」となる。地球が太陽放射のうちどれだけを吸収してどれだけを反射するかを変えることをさす。太陽から地球にはいってくる放射の量が変わるわけではないので不適切な気がしないでもない。しかし、地表面の反射率を変える技術(大規模化は困難だとしてNRC報告書では簡単にかたづけられている)を例外とすれば、大気中のエーロゾルや雲を変える技術に関しては、地上に達する下向き太陽放射の量やそのうちの直達日射と散乱日射の割合が変わるので、この表現はふさわしいと思う。

文献

2015-04-14

システム

-- 0 --

現代、「システム」ということばはそこらじゅうに出てくる。その意味はまちまちだと思う。いろいろな文脈で使われる「システム」ということばから共通の意味をとりだそうとしても、「複数の部分からなり、しかし単なる部分のよせあつめではなく、全体としての特徴をもつもの」というくらいしか言えないと思う。そしてこんな漠然とした意味ならば「システム」ということばを積極的に使う意義はないだろう。「システム」ということばは、文脈によって違った意味で使われているのだ。

大学の科目名や専攻名に「〇〇システム学」があるが、「〇〇学」との違いがよくわからないことが多い。違うとしても、ある事例での違いかたから他の事例への類推はできない。

自分の授業の教材に(大学が設定した科目名ではないのだが)「気候システム論」という題目をつけているわたしとしては、そこでの「システム」の意味を説明しなければいけないと思ったが、なかなかできなかった。ようやく、[ここでのシステムの意味]というウェブページを書いた。このブログ記事には、そこに書いたことの周辺で考えたことを書きとめておく。

-- 1 --

科学のうちでの「システム」ということばの使われかたのうちで、わたしの使いかたから遠いものとして、生物体系学(systematics)での使いかたがある。

生物の系統を知ることと、生物を分類することは別々の動機であり、その答えは一致するとは限らない。しかし、生物がDarwin型の進化をしていて、種(しゅ)は分化するが合流はしないとすれば、系統はtree型になる。分類を人間の勝手なつごうでなく自然物がもつ構造をすなおに反映したものにしようとすれば、系統を反映したものがよい分類になりうる。(ただし、形質の類似性に基づくという分類原理もあり、それは系統によるものと一致するとは限らない。)

ただし、わたしはまだ生物体系学でsystemということばがどう使われているか、それと日本語の「系統」、「分類体系」それぞれがどう関連しているかをよく知らない。

人間の知識やそれに基づく人工物についても、系統を考えることはできるのだが、合流が頻繁にあってきれいなtree型にならないと思う。そして、系統を知ることと分類することとの関係は、生物の場合ほど強くならないと思う。

-- 2 --

「システム」ということばが使われる頻度がいちばん高い分野は計算機関係だと思う。そしてそこでの「システム」という用語の意味はあきらかに多様だ。もっとも、これに限らず、計算機関係、とくにソフトウェア関係では、まったく違った場面でも、多少似た構造があると、同じ用語を使ってしまうことがよくある。今わたしは、その多様な意味に踏みこんで考える元気が出ない。

-- 3 --

熱力学では基礎概念のひとつとして「系」がある。英語ではsystemだが日本語で「システム」とは言わないようだ。わたしの授業でも熱力学の概念を使うのだが、わたしはあまり自信をもった説明ができず、定義は熱力学の教科書を見てください、ということになってしまう。

実際に出てくるところでは、中に物質を含む「箱のようなもの」と考えることにしている。[2012-06-07の記事]で述べた「孤立した系、閉じた系、開いた系」の問題は、箱の(仮想的に考えた)壁を、エネルギーや物質が出入りするかに関する区別だ。

-- 4 --

熱力学での「系」は、システム論の全部ではないとしても多くの場合に共通する、「実際には連続体である世界を、仮想的に境界を設定して部分に分け、ある部分と他の部分との間の相互作用を考える」という考えかたの一例だと思う。

Georgescu-Roegen (1971)は、経済について、そのようなとらえかたを説明している。執筆当時、新しい考えかただったようだ。

Blilie (2007)は(対象物としては自然物も人工物も社会も含めて)計算機によるシミュレーションをするためのモデルを組む話をしているのだが、モデルを組むにあたって対象を境界が明確なシステムとして認識する必要があることを強調している。

-- 5 --

「気候システム」については、物理法則に基づく気候モデルが成り立っている。実際の計算機プログラムとしてのモデルを組む背景として、次のようなシステムの理解がある。対象が従う主要な法則は、質量保存、エネルギー保存などの保存則の形をしている。運動方程式も、運動量あるいは角運動量という量に関する保存則として扱うことができる。対象は複数の「箱」からなると考える。それぞれの箱について、ある量(たとえばエネルギー)が保存則を満たすとすれば、箱の中のその量のたまりは、箱に(他の箱またはシステム外から)出入りするその量の流れによってだけ変わり、その他の生成消滅はない。保存則が近似的に成り立つならば生成消滅項を補助的に考えればよい。

もう少し一般的に、地球環境に関するシステムは、物質やエネルギーの「たまり」と「流れ」から構成される「物質・エネルギー循環系」としてとらえることができる、と思う。

-- 6 --

気候システムを考えるうえでもうひとつ重要な理屈として、フィードバックがある。これは、計測・制御工学のほうで発達した概念だ。(「サイバネティックス」ということばとも結びついているが、これは現代の専門分科名というよりも20世紀なかばの思想潮流のひとつと見たほうがよいのだと思う。)

この場合、系は複数の部分からなっていて、部分間で信号が送られ、信号を受けた部分の状態が変わる。信号が伝わる経路がループになっていると、状態の変化が増幅することや減衰することが起こる。

現実の系を動かすためには物理的エネルギー源(むしろ低エントロピー源というべきか)も必要だが、それは系の状態をきめるうえで重要な信号の源と一致している必要はない。フィードバックシステムという枠組みで考える限りでは、後者だけが重要なのだ。

-- 7 --

しかし、気候システムをフィードバックシステムとしてとらえる場合には、各部分の主要な状態量は、エネルギー(あるいは質量、運動量)のたまりであり、各部分から他の部分に送られる信号は、エネルギー(など)の流れに関連する量であることが多い。つまり、物質・エネルギー循環系がフィードバックシステムを兼ねているのだ。(具体的に数式を書く際には、部分の温度などの状態量を信号とみなすことも多い。その状況を含む説明はもうひとくふうする必要がありそうだ。)

-- 8 --

現実の地球環境をとらえようとすると、生物の働きが無視できないことがある。

生物からなるシステムである生態系も、物質・エネルギー循環系としてとらえることができる。食物連鎖による有機物物質収支あるいはそれに伴うエネルギー収支は、生態系というシステムにとって、重要な特徴のひとつだと思う。しかし、それと、生態系をフィードバックシステムとしてみたときの重要な要素とは、対応しないかもしれない。さらに、生態系の働きをつかむためには、このどちらとも違う観点も必要だろう。

「気候システム」に生物の働きをもやや具体的に含めて考える場合は、「地球システム」または「地球環境システム」という表現をすることが多い。地球システムを考えていくうえで、7節で述べたような考えかたは今後も重要だと思うのだが、それだけではすまなくなるかもしれない。

文献 ([教材ページ]にあげた参考文献はここでは省略した)

  • Charles Blilie, 2007: The Promise and Limits of Computer Modeling. Singapore: World Scientific. [読書ノート]
  • Nicholas Georgescu-Roegen, 1971: The Entropy Law and the Economic Process. Cambridge MA USA: Harvard Univ. Press. [読書ノート]
  • [同、日本語版] ニコラス・ジョージェスク=レーゲン 著, 高橋 正立 ほか訳 (1993): エントロピー法則と経済過程みすず書房

時計の身になってみたら時計の針は時計まわりなのか

回転の軸の方向をひとまず固定したとすると、その軸のまわりの回転運動の向きには、ある向きとその逆向きとがある。その向きを、どうやって伝えるか、という問題がある。

「右まわり」「左まわり」という表現がよく使われる。「右まわり」は、前に進むにつれて右にそれていくことを続けた結果としてできる回転運動の向き、ということができる。また、軸に垂直の面に向かって、上から右にまわる向き、ということもできる。しかし、だれかが、下から右にまわる向きのことだと思って使っていたら、聞き手がその違いに気づいて訂正することは、なかなかむずかしいと思う。また、「右」「左」ということばがすぐに空間の感覚とむすびつかない人にとっては、不便な表現だ。(わたしは、人に言われてすぐにはどちらかわからないことがある。字をかくことを右手だけでしているので、それとつなげればわかるのだが、それは他人のことばから自分の感覚へつながったのであって、自分が思ったことを他人に伝えるための用語を選ぶには、また別の連想をたどることになる。)

わたしは「時計まわり」「反時計まわり」という表現をよく使う。しかし、これは、世の中の時計(のうちで針の回転という形で時刻をしめすもの)のほとんどが同じ向きに針を動かしていることを前提としている。反対向きのものが、たとえば1割程度でもまざっている世の中だったら、この用語は成り立たないだろう。そうならなかったのは、この用語にとっての幸運だったのだ。(数学との関係では、極座標偏角がふえる向きが時計まわりである、という不幸もあるが。)

ここで、ふと、ややこしいことに気づいた。「時計まわり」というのは、(人が)時計の文字盤に向かって見たときに針がまわる向きであって、文字盤の裏側から見たときに針がまわる向きではないのだ。たとえ世の中の時計の針がみんな同じ向きにまわっていても、時計の身になって考えたくなる人にとっては、「時計まわり」は、誤解を招きやすい表現なのだ。

「時計の身になる」はとっぴかもしれないが、気象の話題では前から同様な問題がある。

気象の初歩的知識として「低気圧では、反時計まわり(あるいは「左まわり」)に風がふく」のような表現がよく使われる。これは北半球の場合であって、南半球では逆だ、ということまでは、わりあいよく知られている。

しかし、あるとき、低気圧の構造と地上から見た雲の動きの関係の話をしようとしていて、思いあたった。

「北半球では反時計まわり」というのは、天気図という地図の上で見える渦の回転の向き、つまり上から(あるいは地球の外から)見たときの回転の向きなのだ。地上にいて空を見上げたとき、その回転は、時計まわりに見えるはずなのだ。(わたしは、気象学を教えているというのに、空の観察は苦手で、まだ自分でこれを確かめてはいないのだが。)

それ以来わたしは、「北半球で、低気圧は上から見て反時計まわりの渦となる」のような表現をすることにしている。

気象衛星が撮影した雲画像で見える台風の渦は時計まわりなのか反時計まわりなのか、という話題にはもうひとつ別の問題がある(ここでは説明不足を承知で要点だけ述べておく)。台風は地表に近い高さでは(水平2次元的に見た意味で)低気圧だが、対流圏のいちばん上あたりでは高気圧なのだ。上から見える雲はおもに対流圏の上のほうのものなので、たぶん、対流圏上部の高気圧から(北半球ならば)上から見て時計まわりに渦巻きながら吹き出している風に伴うものが見えているのだと思う。しかし、対流圏下部の低気圧に上からみて反時計まわりに渦巻きながら吹き込んでいるものと見わけることはむずかしい。】

2015-04-13

グラフの軸をゼロから始めないのはうそつきか / そろばんグラフのすすめ

数量をあらわすグラフの「うそ」が、たびたび問題になる。対象となる数量と画面上の長さなどの数量との対応がまちがっている場合もある。しかし、対応は正しくてもまずいとされる場合がある。

そのうちで、たびたびむしかえされる議論に、「軸の原点がゼロから始まっていないグラフはうそつきだ」というものがある。これは、英語圏でも日本語圏でも、Huff (1954)の本を根拠としていることが多いようだ。

例を作ってみる。ある人の年俸が去年は580万円、今年は520万円だったとする。横軸に年、縦軸に金額をとって、縦軸の範囲を500万から600万として、棒グラフをつくると、今年の年俸を示す棒の長さは去年のものの4分の1になるだろう。見た人は、年俸が4分の1になったような印象をもつかもしれないが、実際は去年の値に相対的には約10%減ったのだ。

縦軸の原点は数量ゼロにとらなければならない、という態度をとると、2本の棒の長さが1割だけ違うグラフができる。年俸が減ったことを訴えたい人にとっては、むしろこちらのほうが「うそ」に思えるかもしれない。

この難問からの出口は、原点をゼロにするべきだという理屈は棒グラフという方法についてのものであって、軸の数値範囲にゼロを含めなくてもよい他のグラフ表現方法がある、ということだ。

わたしのこの問題に関する理解は、Cleveland (1985)の本に基づいている。(この本の日本語版には不満があったが、日本語版が売られなくなってしまったことにはもっと不満がある。この本の認知科学的な理屈には今から見ると修正が必要なところがあるかもしれないが、基本はもっと知られてほしいと思う。)

棒グラフを人が読み取る際には、人は、棒の頂点の位置を知覚することもあるが、棒の長さを知覚することもある。棒が数値ゼロから始まっていないと、人が棒の長さ(の棒どうしの比率)を読みとった際に、棒が示す対象の数量の比率についてまちがった印象を与えるので、まずいのだ。

棒に切れめを入れることは、長さを読み取ることに対する警告になるが、あまり強い信号ではない。どうしても軸の原点をゼロにしない棒グラフを使うことが避けられないときの便宜的対策にはなるが、根本的対策ではない。なお便宜的対策としても、軸にだけ切れめを入れたのではだめで、対象となる全部の棒に入れなければならない。

比率にすると小さい数量の差を見たいときは、棒グラフを避けるべきなのだ。

Huffの主張は、折れ線グラフの場合も軸はゼロから始めるべきだ、ということだったようだが、Clevelandに従ってわたしは、折れ線グラフではその必要はない、と主張したい。さきほどの年俸の例でも、折れ線グラフならば、数量の範囲を500万から600万までにすることは正当だ。

ただし、折れ線グラフは、数量のつながりを意識させる。つなげることが不適切なものには向かない。

また、折れ線グラフに関する人の知覚としては、線のとおる点の位置よりもむしろ、線の傾きが重要になる。折れ線グラフという方法は、傾きが、対象とする数量にとっても、適切な意味をもっている場合に限って有効なのだ。

少し理屈っぽく考えてみると、折れ線グラフが有効なのは、横軸(横と縦が逆でもよいのだが、さきほどの例の「年」のような軸を仮に横とする)が時間または空間などの座標をあらわす軸で、横軸上の順序に意味があり、横軸上の間隔にも意味があることが前提となる。また、データ点間の数値を線で内挿することが(必ずしも最適な推定ではないとしても)大きなまちがいでないことも期待される。(内挿してはまずいことが起こっているかもしれない区間が少しだけある場合は、その区間だけ折れ線を切断するという対策がとれるが。)

しかも、傾きといっても、対象となる数量にとって意味があるのは、横軸の増分に対する縦軸の増分の割合、つまり角度のタンジェントであることが多いのだが、人は角度を読み取りがちだ。折れ線グラフは、折れ線の傾きが非常に大きくなる場合には、向かないのだ。

棒グラフも折れ線グラフも向かない場合はどうするか。とくに、横軸が連続的座標ではないが、縦軸の数量の範囲をゼロを含まないようにしたいばあいはどうするか。

Cleveland (1985)はdot plotという方法を紹介している。

【この本には、dot plotとpoint graphが出てきて、日本語ではどちらも「点グラフ」になりうるので、まぎらわしい。どうやら、pointは原理的には大きさのない点(実際には小さい記号)だが、dotはかなり大きい記号でその中心位置の点を示すもののようだ。】

まず、棒グラフならば棒をかく方向(Clevelandの例では横なのだが)に、軸から軸までにわたる細い線をひく。Clevelandの本ではこの線を点線にしている。そして、この線の上で、棒グラフならば棒の先端に相当する位置にdotを置く。このようにして、読み手にdotの位置を知覚させながら、軸からそこまでの長さを知覚させることを避けるのだ。

この本のClevelandは、どんな場合にも、棒グラフを積極的には勧めない。Dot plotというよりよい方法があるのだから、棒グラフという技法は不要なのだ。ただし、数量のゼロが明確で軸をゼロから始められる場合は、dot plotの細線をdotの位置までで止める形を使うことがある。これは、棒グラフと同様な長さの知覚を副次的に使っていると見ることもできる。

さて、このdot plotを思い出しながら、ふと思いついた。

このdot plotはそろばんに似ている。(わたしは子どものころに、もっとdot plotに似た形のおもちゃがあった記憶があるのだが、それも、そろばんを模したものだったかもしれない。) 日本ならば、もはやそろばんを使う人は少なくなったが、そろばんに関する記憶はあちこちに残っているだろう。「そろばんグラフ」として普及できるのではないか。

ここではClevelandの本の例とは違って、縦に棒を立てるような棒グラフが使われていた状況を考えよう。棒グラフの棒のかわりに串をかいて、串にのった「たま」の位置で数量をしめす。誤差の大きい数量については、Clevelandのdot plotと同様に、まんまるの「たま」がよいが、誤差の小さい数量の場合は、横線だけでは弱くなってしまうので、やや横長で横の端がとがった「たま」をかく。まさに近世日本で使われていたそろばんのたま(の断面)の形がよいと思うのだ。

文献

死亡率と致死率

「rate、率」について[2014-11-01の記事]に書いたことに関連する話。

人口統計などでいう「死亡率」は、時間軸上の単位期間あたりの死亡数の全人口に対する比率だ。時間については「年あたり」、全人口については「千人あたり」「十万人あたり」のような単位がよく使われる。

ublftboさんのブログ「Interdisciplinary」の[2015-04-07の記事]を見て、保健学などの分野で「〇〇病による死亡率」というときも、「死亡率」は同様に全人口あたりで定義されていることを知った。

しろうとはうっかり、「〇〇病にかかった人のうちで、それが原因で死ぬ人の割合」を「〇〇病による死亡率」と言ってしまいがちだ。わたしもそういう表現をしてしまったことがあるかもしれない。しかしそれをさすことばは、「死亡率」ではなく「致死率」または「致命率」なのだ。

上の記事に関連してNATROMさんがtweetで紹介していた、横浜市衛生研究所の「死亡率・致死率(致命率)・死亡割合について」のウェブページ http://www.city.yokohama.lg.jp/kenko/eiken/health-inf/info/deathrate.html に説明がある。

ただし、わたしの立場で気になるのは、「死亡率」は単位時間あたりの量だが、「致死率」も単位時間あたりの量なのか、ということだ。

横浜市衛生研究所の上記ページには

「ある病気Cの致死率」=「一定期間におけるある病気Cによる死亡者数」/「一定期間におけるある病気Cの患者数」

という表現があり、分子・分母の両方に「一定期間における」がはいっているけれども、「死亡者数」は変化の量であり、「患者数」は状態量なので、これは量の次元の立場では「単位時間あたりの量」になるのだと思う。しかし実際には単位時間あたりとは明示されないだろう。そして

一定期間とは、流行期間に留まらず、ある病気Cによるすべての死亡を見届けるのに十分な期間です。

と説明されている。期間の長さは病気の種類によって違うようだ。そして、多くの場合、適切な長い期間で累積した死亡数が重要で、「単位時間あたり」という観点は重視されていないようだ。

【話が気象にとぶ。降水量は、時間軸上の期間を指定してはじめて有用な量になるが、期間として1日とか1時間とかいう一定間隔をとる場合のほかに、ひとつの事件として雨がふりつづいた期間についてまとめた「ひとあめ降水量」というとらえかたがある。ひとあめ降水量は、単位時間あたりの量ではない。一定間隔の場合は、わたしは単位時間あたりの量としてとらえることにしているけれども([2012-04-27の記事]参照)、日本語圏の用語の習慣としては、ひとあめ降水量と同様なとらえかたが基本なのかもしれない。】

(「致死率」の件ではないが)「〇〇病による死亡率」については、ublftboさんがブログ記事のコメント欄で紹介していた、大阪府立成人病センター がん予防情報センターの「がんを知る手がかり: 罹患率(りかんりつ)と死亡率」http://www.mc.pref.osaka.jp/ocr/c_measures/c_measures2-2.html もわかりやすい説明だ。

2015-04-12

高層

-- 0 --

現代日本語圏で「高層」と言ったらいちばん多い使われかたは高層建築に関するものだろう。高層建築がどのくらいの高さのものをさすかは時代や地域によってまちまちだと思うが、数十メートルから百メートル程度だろう。地上このくらいの高さは、気象学では明らかに「高層」ではなく、大気のうち地表に近い部分である「境界層」に属する。【ここで「接地境界層」と書きかけたのだが、都市のようなでこぼこの激しい地表面の上の大気境界層のうちでどこが接地境界層かはややこしい問題であることに気づいたので、その件には深入りしないことにする。】

気象学でいう「高層」も高層建築の場合と語源は同じであることは明らかだが、別の意味だと言ったほうがよいだろう。ややこしいことに、気象学のうちでも「高層」は少なくとも二つ(分ければもっとたくさん)の別々の意味がある。わたしはその全貌をつかんでいる自信はないが、ともかく知っている範囲のことを説明してみたい。

-- 1 --

気象学の「高層」のうちで歴史の長い使いかたは、「地上気象」対「高層気象」という形で現われる。これは、観測の手段の違いに基づく区分だったにちがいない。地上(タワー上を含む)に足を置いた人が直接さわれるところにある機器ではかれるものが「地上気象」で、気球にのせた機器ではかるものは「高層気象」なのだ。1920年設立された日本の「高層気象台」(現在は気象庁の部署)の「高層」はこの意味だ。廣田ほか(2013)の本の表題もこの意味を引き継いでいる。

この「高層気象」の対象を「高層大気」とは(昔はともかく今は)けっして言わない。大気を地上からの高さによって層として分けていうときに使う用語で、これに対応するものは「自由大気」だ。これは大気の力学の立場からの用語で、大気の各部分に働く力のうちに地表面の摩擦を考慮に入れることが必要なところが「境界層」で、それを省略できるところが「自由大気」なのだ。

英語で、この意味の「高層」に対応することばは upper-air だ (upper atmosphereではない。) これに対する「地上」は surface だが、地表面(地面・海面)そのものをさすのか、地表面のすぐ上(接地境界層)の大気をさすのか、区別がつけにくいことがある。

また、aerology ということばがある。かつては気象学内の専門分野(日本語ならば「高層気象学」)として認識されていたようだが、今は専門分野名ではないと思う。「高層気象」を観測に基づいて記述したものをさすことが多いようだ。日本の気象庁はながらく、国内のラジオゾンデ(気球に温度計などをつけて観測値を電波で地上に送る観測機器)などによる観測値のデータ集を「Aerological Data of Japan」という英語の表題で出版してきた(最近は紙での出版は続いていない)。また高層気象台の英語名はthe Aerological Observatoryだ。

【ついでながら、ベトナムの気象庁(および河川局)にあたる水文気象局の、高層気象台にあたる部門は、英語名をAero-Meteorological Observatoryというのだが、ベトナム語名は(ひとまずローマ字の補助記号を省略して転写すると) Dai Khi Tuong Cao Khong で、それぞれの要素は漢語系で「台 気象 高空」にあたり、日本語の語順にすれば「高空気象台」なのだ。近代科学用語の多くは西洋起源だが、東アジアでは漢語による訳語が共有されていることがある。この場合「気象」は共通だが「高空」と「高層」は少し違う。ただし日本語では「高空」は「航空」と同音なのでこの文脈で使うわけにはいかない。】

-- 2 --

次の意味は、わたしは大学の学部学生のとき(1979年)の気象学の講義の初めのほうで習ったので、気象学の常識かと思ったのだが、どうやら、その授業をした当時の松野太郎先生(著書 松野・島崎 1981)を含む(次に述べる意味の)「中層大気」研究者にとっての標準で、気象学者全体の共通語ではなかったらしい。

大気を高さによって大きく、「下層大気」「中層大気」「高層大気」と分けるのだ。英語の lower atmosphere, middle atmosphere, upper atmosphereが先で日本語は訳語だと思う。ただし、日本語表現は対称性がくずれていて、「低層大気」とか「上層大気」という表現はこの文脈では聞かれない。

大気の標準的な鉛直区分は、「対流圏」「成層圏」「中間圏」「熱圏」だ。下層大気は対流圏、中層大気は成層圏と中間圏、高層大気は熱圏にだいたい対応する。ただし、とくに大気の大規模な循環とその動力源に注目すると、中層大気の熱源はオゾンによる太陽紫外線吸収で、その中心は成層圏中部にある。成層圏下部の循環は、むしろ、地表面からの(または地表面から蒸発した水蒸気の凝結による)加熱を主な熱源とする対流圏の循環につながっている。そこで、成層圏下部を下層大気に含めることがある。

-- 3 --

日本語では「高層大気」よりもむしろ「超高層大気」のほうがよく聞かれる。この用語がさす対象は熱圏とそれよりも上(外圏)を含む。「超高層大気」と「高層大気」とを併用して使いわける人は少ないようだ。そして、超高層大気に対してそうでない大気を呼ぶ用語は決まっていないようだ。「超高層大気」の代表的特徴は、分子の多くが電離してイオンになっていることか、あるいは、大気を構成する分子の種類によって鉛直密度分布の形が同じでないことだ。電離のほうに注目した場合は、超高層大気は電離大気であり、それよりも低いところの大気は中性大気であるということができる。

-- 4 --

ややこしいことには、「高層」を上の「1」とも「2」とも違う意味で使う人もいる。木田(1983)の本の題名は「高層の大気」だが、対象は「2」でいう中層大気なのだ。

-- 5 --

また、aerologyとは別に、aeronomyということばもある。わたしの知る限りでのその意味は、大気の成分に関する専門知識だ。その分野は大気化学と重なるが、大気化学は化学の分科でaeronomyは(地球)物理の分科と考える人もいるようだ。原理的にはどの高さの大気を扱ってもよいはずだが、「2」でいう中層大気のオゾンをはじめとする成分を扱うことが多い。

Aerologyとaeronomyとの関係は、「-logy」と「-nomy」との関係から想像できるものではない。おそらく、両者は別々に他方を意識せずに発明された語で、同じ要素を含んでしまったのは偶然にすぎないのだろう。

文献