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2014-04-17

授業レポートや論文での他人の著作の盗用・いわゆる「コピペ」について

ある大学のある教員が指導して博士号をとった人たちの博士論文に、他人が書いた文章がほぼそのまま出典を明示せずに含まれていた、ということが報じられ、議論のまとになった。わたしは日本語圏で話題になった件について内容に立ち入って見ていないが、英語圏で話題になった(背景はともかく現象としては)同様な件について、批判者による論評を読んで考えたことを思い出した。ここ1か月ほどの日本語圏での議論には、どういう行為がどういう規範に違反しているかについて混乱しているものもあった。混乱の背景には、各人が自分が経験した人間集団の規範を社会全体の規範であるかのように思いこみがちであることがあると思う。混乱を解消しようとする発言も見られるのだが、まだ充分とは思えないので、わたしなりに分類整理を試みたい。分類すること自体にこだわりすぎないようにも注意したいと思う。

本論にはいる前に、よく使われる用語についてのわたしの考えを述べておきたい。

コピペ」は、わたしが学生だった1970-80年代にはなかったことばだと思う。パソコン上で文書の部分を複製する操作が「copy」と「paste」の2動作として記述されることが多くなってできたことばだろう。ともかくこの用語は、他の文書から文章や図をまるうつしにすることをさしているだろう。部分的に加工しても、複製してから加工したことが明らかな場合は含まれるだろう。この用語を使うのは論じられる行為を悪いこととして指摘する場合が多いが、その場合に悪いのは複製すること自体ではなく、何かの規範に違反した複製行為であるはずだ。多くの場合は、出典を明示した「引用」(この用語は次に検討する)ならばよいのだが、出典を書かず、複製した人自身の創作であるかのような印象を与えるのが悪いとされているのだ。わたしは今後、このような行為を「出所表示をしない複製」のように表現したい。(わたしの用語感覚で「複製」よりも「コピー」のほうが先に出てくる場合はそれを使ってしまうことがあるが、両者の基本的意味は同じだ。) 「盗用」というのがふさわしい場合もあるが、こちらの表現は違法であるという含みがあるので、違法であることが明確な場合に限って使うことにしたい。

引用」ということばにはいくつかの違った意味の広がりがある。他の著作物(原則的には自分の過去の著作物も含む)を参照することは共通だ。ひとつの意味(英語ではquotation, citationの両方がありうるが)は、他の著作物の部分を自分の著作物中に複製することだ。ただし、「部分」がどの程度まで許されるかは、著作権法規定はあるものの大まかであり、これまでの争いの結果、判例によって決まってきているのだと思う。引用の範囲をはずれるものは「(部分)複製」と呼ぶのが適切だろう。また、引用では出所を明示することが規範となっている。また、原文を変えないのが原則であり、省略や加筆などの改変をする場合は改変部分を明示することが規範となっている(ただし改変をどの程度ていねいに明示することを期待されるかは出版物の性格や専門分野によって違う)。他方、引用することについて引用される著作物の著作権者あるいは原著者の了解を得ることや、引用する意思を伝えることは、義務とはされていない。「無断引用」という表現が見られることがあり、悪いことであるという含みで使われているようだが、「無断」という用語は、すなおにとらえれば「引用されるものの著作権者と連絡をとらない」という意味であると思われ、それが「引用」として正当である限りは悪いことではないので、この表現は不適切だ。わたしは「出所表示をしない」という意味で「無断」を使ってしまったことがあった。「無断」ということばはこういう意味にもなりうると思うのだが、誤解を招くので避けるべきだ。また、「出所を明示しない引用」はありえなくはないが、多くの場合、引用の規範に反する行為になるので、さきほど述べたように「出所を明示しない複製」として論じるべきだと思う。(これをもう少し短く表現したいと思うことはあるが、「コピペ」は採用したくないので、もう少し考えたい。)

「引用」のもうひとつの意味(英語ではcitation)は、他の著作物を、複製するかどうかにはかかわらず、参考文献としてあげることだ。こちらについては「参照」(reference)でも同じ意味になることもある。英語では(理科系の学術論文についての論評で見たかぎりでは)、参照される対象をreference(s)といい、それを参照する行為(本文または図表のcaptionで言及することとreference(s)のリストに入れることが組になる)をcitationということが多いようだ。ここで参照される著作物の著者名が明示されることが、学者の業績評価で「論文の著者になる」ことが重視されることにつながっている。

盗用」あるいは「盗作」は、法律の規範に違反する場合をさすべき用語だろう。まず考えるべきなのは著作権だろう。文書の文章や図を、引用として許される範囲を越えて、著作権者の許諾を得ないで複製することは違法となる。(ただし、「許諾を得ている」というのには、著作権者があらかじめ許諾条件を示していて、それにあてはまる場合も含まれる。) 出所を明示しない複製は、著作権者がそのような形でもよいとあらかじめ許諾しているか、著作権の期間が終わっている場合は合法だが、そのほか多くの場合は違法となるだろう。著作権法は基本的に表現を保護するものであり、アイディア(あまり適切な語ではないと思うがひとまず日本語圏での慣用の意味でこのことばを使っておく)を保護するものではないので、アイディアをまねしていても表現が大きく違えば著作権法違反ではないこともある。どのくらい違えばよいかは単純には言えず、判例によって決まってきたのだと思う。なお、知的財産権のうちには、特許など、アイディアを保護するのが主眼のものもある。

研究成果の論文に盗用がある場合、研究不正ともなる。一面では、たとえ内容は科学的に正当だとしても、だれが研究したかに関して正しくない記述は、学術文献の信頼性をそこなうので、学術共同体内の同僚に向けて、また出版者に対して、悪いことである。また別の面で、研究者が自分がやっていないことを自分の成果のように述べることは、(費用を自分でまかなっていない限り) 研究費の詐取にあたり、一般社会の法的規範に反し、また研究資金提供機関に対して悪いことだろう。

さて、ここから本論。「出所を明示しない複製」あるいは「盗用」に対して、さまざまな批判がされているが、それは、何に対する価値判断をしているのかによって、次のように分けて考えるべきだと思う。

  • 社会一般の規範(法律、そのほか)に従っているか。
  • 社会の中の特定の集団(学術論文ならば学者の共同体)の規範に従っているか。
  • 文書が作られる目的に合っているか。

出版物やウェブ公開物一般について論じるならば、論点はまず、著作権法などの法律に合っているかであり、条文だけでわからない場合は判例(むしろ、これまでの判例を総合した法理)によることになるだろう。法律で決まらないところは社会通念によって判断することもあるだろう。ただし、社会通念はいつも正しいわけではなく、人権や人類全体の幸福などの社会がめざすべき理念に反する場合は、通念のほうを変えていくべきだろう。

授業の学生によるレポートは、教員が読むが、ふつうは公開されるものではない。ここにも著作権法が適用されるべきことはあるが、その違反をきびしく問うかどうかは、教員の裁量によるところが大きいと思う。むしろ重要なのは、レポートの目的だ。多くの場合それは、学生が授業の到達目標である知識や能力を身につけたかを、教員が評価することだろう。そこでは、学生自身の思考や作業の成果が示されることが期待されている。出所明示であっても他の人の著作の引用ばかりでよいレポートとされることは(出題の趣旨によるが)少ないだろう。出所を明示しない複製がまざることは、まちがった評価をもたらすことになるので、ぜひ避けてほしい。そこで、そのような行為を制裁するルールがつくられることがあるし、たとえ明示されたルールがなくてもそのレポートを無効とすることは正当だと言えると思う。とくに、ある学生のレポートをその人の了解を得て他の学生がコピーすることは、著作権法違反ではないが、成績評価という目的から見て悪いことだ。(複数の学生が相談して答えることを教員が奨励する場合はその限りではないが、その場合は相談の過程も述べるように出題をくふうしたほうがよさそうだ。【授業担当教員として、軽くだが本気で考えている。】)

学術論文や学術書籍は、出版されるものなので、著作権法はきびしく適用される。それに加えて、学問は先人の仕事に基づいて新たな知見をつけ加えたり先人の知見を批判したりするものなので、先人のアイディアを尊重する意味と、先人と自分の主張の区別を明確にする意味で、先人の著作をきちんと引用・参照することを期待されることが多い。ただし「きちんと」の意味は、それぞれの専門分野や、それぞれの出版物が想定している読者層によって、大きく違う。論文の背景となる学問の状況、つけ加えや批判の対象となる先人の業績などについて、重要な著作の文章を明示的に引用して論じることを期待する専門分野(人文学・社会科学に多いようだ)もあるが、同時代の同分野の読者が主題を認識できる最小限の記述さえあればよく引用・参照なしですめばそれでよい(むしろ短いほうがよい)とする専門分野(理学・工学に多いようだ)もある。

学位論文は、教育課程のレポートと学術論文の両方の性格を兼ねている。とくに博士論文は、公開されるものなので【注1】、まず学術論文のルールがあてはまると考えてよいだろう。それに加えて、博士の資格があるかを審査する材料としての規範がある。ただし、そこで具体的にどんな条件を満たすことを求めるかは、専門分野ごとに大きな違いがある。博士号を認定する大学院の「専攻」の教員団がさまざまな専門分科で育った人で構成されている場合は、教員団で話しあって共通ルールを決め、あとは審査員各人の判断になるだろう。論文の総論や序論をとても重視する「専攻」もあれば、重視しない(各論さえよければよい)「専攻」もあるだろう【注2】。方法の記述に、独創的な表現が望ましいとする審査員も、むしろ定型に従うこと(もちろん実際に先例と違うことは書きかえるのだが)を求める審査員もいるだろう。どちらがよいといちがいには言えないのだと思う。

【[注1] ただし、日本では、博士論文は古くから公開すべきものとされていたもののそのための制度は整備されず、多くの場合は、博士論文自体ではなくそれをさらに改訂した学術論文または学術書籍が出版された(あるいはすでに出版済みのものがそれにあたるとされた)。最近になって、博士論文自体をインターネット上で公開する制度の整備が進んでいるが、いくつか問題が生じている。ひとつは博士論文に他の著作物の複製を含むが、公開を想定した著作権者の許諾を受けていない場合があること。もうひとつは、(専門分野によって事情が大きく違うが)学術論文・図書の出版者が、博士論文として公開された内容は新規性がないとして出版対象からはずすことがあること。当面は困る人が出てくるが、しだいに扱いが定まると思う。】

【[注2] わたしが博士号をもらった「専攻」は総論を軽視していたわけではないと思うが、わたしは総論のない「学術論文の束」のようなもの(言語と体裁は統一したが)を提出し、審査を通った。ただし口頭試問で総論的なことを問われたと思う。審査員のひとりから勧められてある雑誌に解説を書いた。それが実質的にはわたしの博士論文の総論だが、形になった博士論文には含まれていない。】

2014-04-10

研究者が勤務中に書いたものはだれのものか

[前の記事]で「2」として予告した件。

(自分の経験に基づくことと、経験から遠いことについて想像で述べていることや、希望を述べていることが混ざってしまっている。)

法人に雇われている研究者について、「実験ノートは法人のものであり、研究者が自由に持ち帰れるものではない」「データも法人のものだから、職場で使うパソコンも法人が用意すべきであり、個人のパソコンの持ち込みを許すべきでない」ということを、当然のように言っている人たちを見かけた。

専門分野によっては、それが当然なのだと思う。企業内の研究や、公的機関でも、研究成果が企業に応用される可能性が明確な分野で、特許をとるのが当然のようになっているところでは、研究で得られつつある成果自体が知的財産であり、しかも他者がそれを奪う可能性があるので、権利のない人にわたらないようにまもることが重要なのだろう。

わたしの勤める研究機関はそうではない(法人全体なのか、その中でも職場によって違うのかはわからない)。「センター長補佐」が配ったノートは法人のものだったに違いないが、点検されないまま、捨てようが持ち帰ろうがかまわない消耗品になった。個人のパソコンを持ちこんでもそのこと自体についてはもんくは言われない(法人備品向けのサービスは受けられないが)。【わたしが個人のパソコンを持ちこんでいるのは、法人で買ってもらったパソコンをあまりに早く再起不能なまでにこわしてしまい、買いなおしてもらうのが気がひける、という事情もあるのだが。】 違いの理由も想像がつく。わたしの勤め先の研究課題は、応用につながる道筋が明確でない基礎研究か、応用してくれるところが国や地方自治体などの公共部門になりそうなものであって、商業利用される可能性が(まったくないとは言えないが)低いのだ。

そういう法人での研究に対しては、前の記事でも述べたように、情報はすべて、だれでも見られるように公開するべきだ、という要求がされることもある。

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ところが、そういう企業秘密的なものが少ない法人でも、勤務中に作ったソフトウェア著作権は法人に属するという規定がある(これはひとつの法人の場合であり、他の法人ではどうなっているのか知らない)。これは、法人に、研究者が作ったソフトウェアを法人の知的財産として、それを使いたい他組織との交渉材料に使いたい、といった意志があるときには、もっともだと思う。しかし、法人にソフトウェアへの関心が薄い場合には、現場の自由にまかせてほしいと思うことも多い。

わたしは、3年ほど前まではほぼ毎日計算機に向かって、何か計算機プログラムを書いたり修正したりしていた。もちろん、売り物になるような汎用性の高いプログラムではない。違うデータに適用したり、結果の表現をちょっと変えたくなったりするたびにプログラムの変更が必要だから、いつも完成ではなく作成中なのだ。とくに、ある種類のデータを読み書きするための手続きは、だれかが作ったものをほかの人も使ったほうが全体としててまがはぶけるから、所属機関の境を越えて研究者間でやりとりしたくなる。これを、勤務中に作ったソフトウェアだから法人の知的財産管理部署の承認を得なくてはいけないとされると困る。その程度のものは「公知の事実」か、著作権が適用されないデータに付属する情報とみなして、プログラムの著作物とはみなさないのが現実的だと思う(実際にそのように処理されていると思う)。それでは、独創的な解析方法を実現するプログラムだったらどうか。よくわからない。法人(の知的財産管理部署)が実質的財産とみなすかどうかによるのかもしれない。

大がかりなシミュレーションモデルとなると、プログラムの著作物であることは明らかだろう。ただし、それを開発するプロジェクトの構成員は、1つの法人の中で閉じていないのがふつうだ。プロジェクトの資金提供者、請け負った各法人、その中で従事した各個人の利害が違う可能性がある。プロジェクトが動いている間はそのルールがあったが、プロジェクトの年限が終わってしまった場合もある。それでも、関与した法人のいずれかが、そのソフトウェアを知的財産として使う意志があれば、他の法人も納得できる形での知的財産管理体制が作られるかもしれない。しかし、法人にその意志がない場合は、そのソフトウェアに関心をもつ人々に管理をまかせるのがそれを生かす道だろう。やや極端な形としては、オープンソースソフトウェアにしてしまうことが考えられる。この場合、だれでもソフトウェアを手に入れ、使い、(ライセンス条件の範囲で)改変し、再配布することができる。専門的ソフトウェアでは、むしろ、作成者グループの判断で、使うことは広く認めても、改変・再配布の権限をもつ人々を限定することが多いようだ。

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知的財産権が法人に属することは法人の立場から見るともっともなのだが、雇われる個人の立場から見ると不条理な場合がある。少なくとも大学教員をはじめとするアカデミックな職種では、職場間を移動しながら地位を高めていくようなキャリアが望ましいとされていると思う。また、多くの研究プロジェクトが時限なので、プロジェクトが終わるとそれに従事していた人が他の法人に職を求めなければならないことが多い。ある法人に雇われていたとき自分が作った知的財産が、別の法人に移ると使えないということが起こる。これはその人の知的生産性を阻害するか、または異動によるキャリア形成を阻害すると思う。これを一般的に解決することはできない。(知的財産権を研究者個人に属させればよいというものではない。) しかし、せっかく知的財産をつくり出す能力をもった人にやる気をなくさせないように、なんらかのくふうをしたほうがよいのではないかと思う。

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ところで、多くの研究機関で研究成果の主要な部分とされている論文の著作権については、別の慣行がまかりとおっている。論文を書いた時点では著作権は著者である研究者個人が持っている(この点は、職務中に書いた論文の著作権を法人がもつ制度になっている法人もあるかもしれない)。しかし多くの場合、学術雑誌の出版社が、著作権を出版社に譲ることを求めてくる。論文の読者が複製や加工利用の許可を求めてきたとき出版社の判断で応じられるようにしたいからという理由だ。確かに、読者の立場で考えると、著者をさがして連絡をとらなければならないのではやっかいだ。しかしそれだけならば、著者が著作権を持ったまま、利用許諾をすることを出版社にライセンスすればよいはずだ。しかし現実には論文を出したい著者よりも出版社のほうが強い立場にあるので押し切られている。

ただし、多くの出版社が、著者あるいはその所属機関が、そのウェブサイトに論文のコピーを置くことを認める。(ところが、著者に認めるのか所属機関に認めるのか、また、出版社がレイアウトした印刷版のコピーと著者がレイアウトした最終原稿のどちらを置くことを認めるか(他方を認めないことが多い)が出版社ごとに違い、それぞれに対応するのはやっかいだ。) 結局、多くの場合、研究法人は出版社の了解を得てそのウェブサイト(多くの場合「機関リポジトリ」と呼ばれるところ)から所属研究者の論文を発信することはできるのだが、それには法人がかなり努力する必要がある。

研究過程の記録の必要性とそれについての悩み

研究不正の疑いが濃い事件が起こり、ネットメディアだけでなく(日本の)マスメディアで大きくとりあげられている。わたしはその事件について論評するつもりはない。ただ、それをめぐる人々の論評のうちに、科学研究一般の規範を論じているものがある。それは、いま始まった話ではなく、数年前からおりにふれて議論されてきたことがらだ。そのうちには、わたしの専門分野にそのまま適用されたら困ると思うものもある。また、わたしの専門分野でも適用したほうがよさそうだが、自分はそれを実践できそうもなく、わたしにはいまどきの研究職はつとまらないのかもしれないと思うことがらもある。これはわたしにとって気の重い話で、文章でうまく表現できるかどうかわからないが、ひとまず頭の中のわだかまりを押し出す意味でここに書き出してみる。

前おきとして、「研究不正」と仮に表現したことに、複数の意味があることに注意しておきたい。第1は、一般社会の規範である法制度への違反である。一般の刑法などへの違反もありうるのだが、とくに、(研究を職務として雇われている場合)雇用契約、研究請負契約知的財産権などにかかわる問題がおもになると思う。第2は、科学者共同体の規範への違反である。科学的知見の品質を確保するためには、メンバーが規範をまもっていることが前提となるのだ。とくに、成果が政策決定の材料となる場合や、国民の税金に由来する資金が使われている場合は、成果の品質は科学者共同体だけでなく社会全体の問題ともなる。実際の研究不正事件はどちらの観点でも規範違反であることが多くはあるが、2種類の規範違反は質が違う問題とみるべきだろう。ただし、現実の議論では両者の区別がわかりにくいことが多い。わたしも、両者を初めから区別して議論することはむずかしいと感じているので、ここでは区別しないで議論を始めて必要を感じたときに区別することにする。

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さて、いま問題にしたい件は、次の2つだ。ここで「研究者」とは、法人に雇われ、研究をおもな職務とする人を想定している。

1. 研究者は勤務中の作業をすべて改ざん不可能な(改訂履歴が明示される)形で記録しておかなければならないか。

2. 研究者が勤務中に書いたものはすべて法人の財産であって研究者が持ち出してはいけないのか。あるいは、あらゆる人に対して公開されるべきものであるのか。(「あるいは」の前と後の文は両立しないと思うが、研究者の自由裁量でない点が共通している。)

この記事ではまずその 1 について書いてみる。次の記事で 2 について書きたいと思う。

(もうひとつ、研究はたいてい多くの人の貢献によって成り立つものだが、そのうち研究論文の著者になるのはどういう人である(べきである)か、著者になったらどういう責任が生じるか、という問題が気にかかっている。著者になることを業績評価に直結させることがひずみを招いており、著者にならなくても、研究課題を考えた人、プロジェクトを管理した人、材料を提供した人などのそれぞれの業績を高く評価することができればよいのだと思う。この件は別の機会に考えたい。)

(また、他人の著作物からの文章の盗用(いわゆるコピペ)についての話題もあるのだが、これも別の機会にしたい。)

わたしは、地球科学者であり、専門の分野名は「気候」と書くことが多いが、教育を受けた分野を学会名で代表させて言えば「気象学」である。わたしの感覚は気象学者の文化を反映したところが多いと思う。ただしそのうちで「データ解析」屋である。自分が観測をしているわけでも、オリジナルな理論モデルを作っているわけでもない。他人の観測に基づくデータをいろいろ集めてきて、さらに計算処理して結果を出している。材料となるデータは、公開されていることもあるし、個別に頼んで提供してもらうこともある。観測あるいはモデルの研究者から頼まれてデータ解析を担当する立場になることもある。解析作業のために自分で計算機プログラムを書くことがよくあるが、売り物になるようなプログラムを書くことはめったにない。

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2007年、当時「...センター」と呼ばれていたわたしの職場に「センター長補佐」が着任した。センター長は学者だが研究管理のプロではないので、親組織がほかから研究管理のプロと目される人を呼んできたらしかった。詳しいことは知らないが、センター長補佐は実験室での実験が主な方法である研究機関を経験した人にちがいなかった。われわれ研究員にハードカバーのノートブックを配って、「毎日の仕事内容を記録しなさい、あとで書きかえてはいけません」と言った。わたしは2ページだけそのノートを使ったけれども、あとは使うのをやめてしまった。幸か不幸か、ノートをチェックされることはなく、2009年には改組になって「センター」がなくなってその件は忘れられていった。

このときわたしは、作業の記録を残すことは有意義だと思った。しかし、記録改変防止の必要性を感じなかった。そして、手書きよりは計算機上でメモをとることに慣れていた。それで、記録は計算機上でとるのが合理的だと判断したのだった。しかし、その後のわたしは計算機上に作業日誌を作る実践をしなかった。おりにふれてメモのファイルを作りはするものの、それをどこに置くかは書いたときの分類意識によるので、なん年かたつとたどりつけず、書いたかどうかさえわからなくなってしまうのだ。これは自分の利益にとってもまずいことなのだが、なおせないでいる。

ただし、作業記録をどのくらい詳しくとるべきかについて、おもに計算機上のディジタルデータを扱う仕事に、貴重な実験動物や薬品を使う仕事の流儀をあてはめないでほしいと思うことがある。自分にとって使いものになるかどうかわからないデータを、あるいは解析方法の情報を得たとき、試行錯誤的にそれをためしてみたくなることがある。もしその過程をきちんと記録しないといけないとすると、めんどうになって、データや方法の種類を広げるのをためらうことになりそうなのだ。「本番でこれを使う」と決めたところから、順を追って記録すればよい、としてほしいと思う。もっとも、試行錯誤段階についても「どこどこから何々のデータをもらって試行錯誤的に見てみた」くらいは記録したほうがよいと思っている。

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さて、2009年、イギリスのEast Anglia大学(UEA)のClimatic Research Unit (CRU)の研究者の電子メールが暴露され、(暴露行為をした人ではなく) メールを書いた研究者に捏造や改ざんなどの不正行為の疑いがかけられるという事件があった。UEAが外部専門家委嘱した調査や、イギリス国会委員会の調査で、不正の疑いは晴れたと言ってよいと思う。

CRUへの批判のうち、「CRUとイギリス気象庁(UKMO)の共同研究で作られている全球格子気温データは、気候変動に関する政策決定に使われるものなので、どのような観測データからどのような手続きに基づいて作られたかを再現可能な形で示すべきである」という、いわゆるトレーサビリティの要求は、正当なものだといえる。ただしそれを過去にさかのぼって要求するのは酷なのだ。将来に向けては、CRUとUKMOは、事件後まもなくから、トレーサビリティを高める方向に動き出していると思う。ただし、彼らが最善をつくしたとしても、批判者が期待するほどトレーサブルに、つまり公開された情報に従えばだれでも同じ結果を再現できるように、できるとは限らないと思う。

CRUの格子データ作成の場合を例に、どこにむずかしさがあるか考えてみる。

材料と手続きのうち、観測点から格子点への空間内挿の手続きは、比較的簡単に、再現可能な形で公開可能だと思う。むずかしい問題は、そこに至る前の段階にあるのだ。

むずかしい問題の第1は、気象データには無条件に公開されたものも多いのですべてそうだと思っている人もいるが、CRUが材料としたデータのうちには、いろいろな国の気象業務機関などから、データをCRUの研究に使うことはよいが再配布はしないという条件で提供されたものもあるのだ。法的状況はよく知らないが、データに著作権を適用するのは困難なのでライセンス契約の問題ととらえるべきだと思う。データの所有権は提供元に残っていてCRUは使用権だけを持っていると考えればよいのかもしれない。しかしCRUが気温の解析を始めた1980年代にはデータの知的財産権の考えかたは明確でなかったので、ライセンスの文書が作られていない場合もある。一部の批判者は、公開不可と明示されていなければ公開せよとせまった。しかし、一部の提供元のポリシーは再配布不可が原則にちがいなかった。CRUとUKMOは、提供元に再配布許可を求める努力を続けていた。その結果、最近のバージョンの格子データ作成に使われた材料データの大部分が公開に至っている。しかし全部ではない。

(2009年に批判のまとになっていたのは、全球平均気温などの空間分解能のあらい気候のとらえかたであり、その目的ならば、他の複数の機関(アメリカ合衆国のNOAA NCDCやNASA GISSなど)が、公開されたデータだけを使って格子データを作っているので、実は、再配布できない材料データに頼る必要はなかったのだ。他方、空間分解能の細かい情報を必要とする場合に、再配布できないデータを使うとよい結果が出るが、第三者が再現することが困難だ、ということが起こりうる。)

むずかしい問題の第2は、観測データに適用される品質チェックや補正の手続きだ。観測データは、観測が行なわれた現場からいろいろな伝達過程を経て解析者に届くので、さまざまな誤差やまちがいを含むことがある。

定量的バイアスには、まず観測機器自体のバイアスや、機器が置かれたローカルな状況(通風や日射など)によるものがある。また、観測点の標高の違いや、観測点を含む地区の都市化などによって、観測自体は正確でも、その地域の気候変化のデータとしては代表性がそこなわれることがある。バイアスの補正方法が決まれば、それの適用は、一定の計算機プログラムによって、いわば客観的にすることになるだろう。しかし、補正対象を認定したり補正方法を考えたりする過程では、試行錯誤が必要だろうし、最後まで客観化できず「ここは専門家判断によった」としか言えないこともあると思う。

定性的なまちがいには、違った変数・場所・日時の値がまぎれこんでしまうこと、桁や単位のまちがい、数字の書きまちがいや通信の際の化け、観測機器が故障して出力と気象変数との対応が失われていること、などがある。まちがいの検出は客観的にできるかもしれないが、そこに達するまでに人が探索的にデータを見てどんなまちがいがありうるかを判断することが必要だろう。まちがいのうちには訂正できる場合もあるが、それには原因の推測が必要であり、そこに専門家判断がはいるだろう。

そこで、研究者が材料データと解析手続きをすべて公開すると決めたとしても、それさえ受け取れば別の人が同じ結果を再現できるようにできることを要求するのは無理があると思う。ただし、解析のどの段階で専門家判断がはいってどう判断したかの記録を添えることはでき、もしそこで同じ判断をすれば結果も同じになるようにはできるかもしれない。

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なお、厳密な再現が困難な理由には、数値計算上の誤差の問題もある。平均値などの統計量の計算や、単位の換算の際に、端数をまるめる四捨五入などの処理をどの段階でするか、またそこで計算機が実際にどんな演算をするかによって、結果の数値がぴったり同じにならないことがある。

(われわれの計算は、数値を実数の近似値とみなす場合と、有限桁数の値とみなす場合がある。

実数の近似値として扱う場合は、Fortran処理系や表計算ソフトウェアの浮動小数点演算をそのまま使うことが多い。多数の時間ステップを踏むシミュレーションの場合は、計算過程で誤差が累積して結果が大きく違ってくる心配があるが、データ解析で生じる計算では、誤差はランダムに出てバイアスのもとにはならないだろうと(必ずしも根拠なしに)期待して、実際に困っていないことが多い。厳密な再現性を求めないことが前提であるが。

他方、有限桁数の値の処理では端数の処理はランダムとみなせないこともある。思いあたるのは、観測機器の精度を考慮して数値が0.5きざみで記録されている場合に、通常の四捨五入を適用して0.5をいつも切り上げるとバイアスが生じる。)

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むずかしさを述べることが続いてしまったが、わたしは、データ解析のトレーサビリティを高めることには基本的には賛成なのだ。

しかし、なさけないことに、わたし自身の仕事では、(これまたなさけないことに)政策決定に使われる成果を出していなかったから責任を問われることはなくてすんだものの、作業過程のトレーサビリティを高めるくふうがまったくできていない。バージョン管理ソフトウェアであるCVSRCSの名まえを知っているし(gitもその同類かはよく知らないのだが)、そういうものを使って自分のソースプログラムを管理している人の話を聞いたこともあるのだが、自分が慣れる機会を作れないまま来てしまった。また、そういうソフトウェアが数値データファイルについて使いものになるかどうか、試みもしていないからだが、よくわからないままだ。

このなさけない状況のうちどれだけが、わたしの努力不足や、わたしがとしをとって新しい技術を覚える能力が落ちているせいなのだろうか。どれだけが、データ解析のトレーサビリティを高めることをめざしたソフトウェアの開発や実装によって解決することなのだろうか。どれだけが、解決がなかなか見つからない構造的な困難なのだろうか。

2014-02-12

人為起源気候変化とその対策とくに気候工学の位置づけに関する根本的考察 (発表予稿)

2014年4月におこなわれる日本地球惑星科学連合(http://www.jpgu.org/)の大会の、科学論のセッション(M-ZZ45「地球科学科学史科学哲学科学技術社会論」)に、発表を申しこんだ。予稿をこの下につける。

「根本的」というほど考えは深まっていないのだけれど、根本的に考えたいという志向を示そうとしてこのような題目をつけてしまった。

予稿の内容は、地球温暖化の対策をいわゆる「気候工学 (geoengineering)」を含めて考えている人にとっては、あたりまえのことになってしまったと思う。これで研究発表とするのはとても気がひける。しかし、この内容は、世の中全体はもちろん、地球科学者のあいだでも、あたりまえになっていないと思う。研究発表という形でなくてもよいのだが、学会の場で話してみる価値はあると思うのだ。

これからさらに調べてオリジナルな研究にする方向としては、ひとつは、過去の人々の考えを確認して科学史の研究にすること、もうひとつは、気候工学に関するガバナンスについて問題になっていることをレビューして科学技術社会論の研究にすることが考えられる。どちらにしても、わたしは、たまたま気づいたいくつかの文献に目をとおしてその論点を紹介できるようにしておくことはできそうだが、その文献の選択が現在の時点でこの問題を論じる人にとって適切であるかの判断ができそうもないのが苦しいところだ。

===== 以下、予稿の内容 =====

地球温暖化あるいはanthropogenic climate change (人為起源の気候変化) と呼ばれる問題と、社会がそれに対処するのにどのような活動を必要とするかについて、考えの発達をふりかえり、根本的なところから組みたてなおしてみる。

ここでいう地球温暖化とは、人間の産業活動によって、大気中の二酸化炭素などの濃度が増加し、大気の温室効果を強化することによる、全球平均地表温度の上昇を特徴とする気候の変化である。これは海面上昇や乾湿の変化を伴い、人間社会に影響を与える。影響は、地域間や世代間で不公平に生じる。

1988 年のIPCC (気候変動に関する政府間パネル) 発足以来、地球温暖化の対策は、緩和策(mitigation) と適応策(adaptation)とに分けて論じられてきた。2013-14 年のIPCC 第5次評価報告書(AR5) では、気候工学(geoengineering、日本語表現は杉山昌広氏に従った) が加えられた。この3分類はこれまでの議論のいきさつを負ったものであり必ずしも合理的ではなく、組みかえも提案されている(たとえばBoucher ほか, 2014, WIRES Climate Change) が、ここではひとまずこれに従う。

人間社会は環境の制約を受けながら環境に適応して発達してきた。変動を含む気候も環境の部分であり、それへの適応は人間社会の基本的機能である。ただし、農業開始以来の人間社会は、第四紀の中でも変動が異常に小さい完新世の気候だけを経験しているという特殊性がある。また、近代の世界は、国境と土地所有権を明確にするようになり、しかも化石燃料利用を含む科学技術の発達によって人口がふえたので、かつてはふつうであった移住による適応が困難になっている。さらに、現代は、民族間平等や人道思想が普及し、多くの人が不慮の死をとげるような事態を避けたいという価値観が強まった。人間社会の適応は、生物の適者生存とは違った課題となっている。

20世紀なかばには、科学技術によって気候を人間社会につごうのよいように制御することへの期待もあった。しかし、気候に関する科学的知見が発達するにつれて、一方で、気候は複雑なシステムであり非線形性や観測困難による不確かさが大きいことがわかり、他方で、化石燃料燃焼による二酸化炭素排出が気候システムのエネルギー収支を偏らせる強制作用として重要であることがわかった。そこで、気候システムへの積極的介入ではなく、人間活動がすでに起こしている強制作用を弱めることによって気候変化を小さく食い止めるという消極的介入が、主要な対策として考えられるようになった。これが慣用的に地球温暖化の「緩和策」と呼ばれる。

緩和策の基本は化石燃料使用を減らすことであるが、経済発展に対してエネルギー資源があまりにも大きな役割を果たしているため、気候変動枠組条約締結(1992年) 以来20年を経ても、緩和策に関する国際的意志決定はあまり進んでいない。

そこで、技術的に気候を制御すること、つまり「気候工学」への期待がふたたび高まっている。ただし、その困難は依然として大きい。それには技術が未完成であることも含まれるが、効果と副作用および費用に関する知見の不確かさもある。

気候工学のすべてをカバーはしないが主要な分類として二酸化炭素除去(CDR) と太陽放射管理(SRM) がある。

CDR は、大気に対する強制作用を減らす効果については緩和策と同等だが、除去された二酸化炭素の行き先である地層、土壌、海などの環境を改変する。また、隔離が破れる事故の可能性もないとはいえない。どの程度の環境改変と事故を許容するかが、社会的意志決定の問題となる。ただし、陸上や領海で行なわれる場合は、国内の政策決定ですむかもしれない。

SRM は、温室効果強化を平均としては打ち消すことができても、緯度別・季節別の強制作用については、強めてしまうこともある。それが世界の各地域の気候におよぼす影響は、地域別の温暖化の予測と同等に困難である。しかも、意図的な行為であるから、損害が生じた場合の責任は重大なものになりうる。また、SRM のうちでも技術的実現可能性が高いと考えられる成層圏エーロゾル注入が継続運用された末に急に中止されたとすれば、約2年以内にSRM の効果は消え温暖化が急激に再開する。これは適応策に対してSRM を実施しない場合よりも深刻な困難をもたらしうる。したがって、SRM を政策オプションに含めるためには、技術的実現可能性のほかに、現在の気候変動枠組み条約よりもはるかに強力な国際的ガバナンス体制が必要である。

2014-02-01

初期値、初期値問題、initialization

時間の関数(あるいは時間と空間座標との関数)となる数量に関する微分方程式または差分方程式で表現される問題のうちには、ある時刻(便宜上 時間座標の原点 t = 0 とされることが多い)での条件が与えられるとそれ以後(t > 0)の値が決まるようなものがある。このとき、t = 0での条件を「初期条件」(英語ではinitial condition)といい、それを構成する数値を「初期値」(initial value(s))という。

日本語で「初期」というと、長い期間を分割したうちで初めのほうの部分をさし、時間方向に有限の広がりをもっているのがふつうだが、「初期条件」「初期値」の場合は、広がりをもたない1時刻での条件や値であるのがふつうだ。(差分方程式で t = 0 だけでなく t = Δt での値も与えるなど、複数の時刻での値を与えることもあるが。) 「初期」という用語の意味が分岐していると考えるべきだろう。

空間座標の関数である数量については、空間領域の境界での条件つまり「境界条件」(boundary condition)、それを構成する数値「境界値」(boundary values(s))を考える。時間と空間の両方の座標がある問題では、初期条件と境界条件の両方が必要であることが多い。

初期値問題」(initial value problem(s))ということばは、大きく分けて2つの違った意味で使われる。同じ専門分科に属している人の間でも違う意味で使っていて話がすれちがうことがあるので、注意が必要だ。

  • 1. 初期値が与えられれば解ける(与えられないと解けない)構造をしている(微分方程式や差分方程式の、つまり数学的な)問題をさす。
  • 2. 微分方程式や差分方程式に与えるべき初期値を知るという(その方程式に関する数学ではなく、それを応用する対象分野の)課題をさす。

考える対象となる時間区間の最後の時刻での値が問題になるとすれば、英語ではfinal value(s)というだろう。対応する日本語は決まっていないが「終端値」ということがあるようだ。わたしは「末期値」と言ってしまったことがあるが、これは通じなかった。

初期値を与える作業を英語で initialization と呼ぶことがある(initiationとは言わないようだ)。その用語が実際にどんな作業をさすかは、対象分野によってさまざまだ。

気象の数値予報では、観測値を空間内挿したものをそのまま予報モデルの初期値にすると計算結果があばれるので、ノイズとみなされるものの振幅を落とすようにあらかじめ修正してから初期値にする。この修正を initialization という習慣がある。初期値作成作業のうち、とくに初期値作成の目的のために開発された特定の部分をさしているのだ。日本語では「イニシャリゼーション」または「初期値化」だ。「初期化」と書かれることもあり、initializationからの直訳だと思えば理解できるが、実際やることから遠いと思う。(計算機プログラミングでは、そろばんの「ご破算」のように変数の値をゼロにしておく作業を「初期化」ということもあるが、それとこれとは別のことだ。)

地球温暖化をとらえる枠組みを考えなおすいくつかの論点

[まとまらない思考を書きだしたもの。とくにことわらずに修正するかもしれない。]

地球温暖化は必ずしもわたしの興味の中心ではないのだが、わたしが専門家としてコメントできる代表的話題ではある。その話題に関する「正しい議論」がひととおりにしぼれるとは思っていないが、明らかにまちがった議論はある。人が他の人にまちがった議論を広めようとしているのを見かけると、それが意図的なものであろうとなかろうと、まちがいをただすような発信をしておかなければならないと感じる。このごろはTwitterでそういう議論に出会うことが多いので、Twitter上でコメントしたくなることが多い。ところがTwitterには1記事あたり140字という制限があるので、短い文による指摘しかできない。

あいての気候に関する問題認識の枠組みがこちらのものと大筋で共通であって、個別の知識が不足している場合は、それを指摘することができる。(知識の説明が長くなるかもしれないが、たいてい文章になった解説があるので、それへの参照を示せばよい)。これは科学技術社会論でいう「欠如モデル」が有効な場合と言えるかもしれない。

しかし、あいての認識枠組みがこちらと大きく違う場合は、簡単でない。こちらが、その枠組みはその問題に対して不適切で、別の枠組みを使ってほしいと思っても、短い文ではそういう趣旨さえなかなか伝えられないのだ。別のところに長いものを書いてそれを参照する形にするしかなさそうだ。その暫定的な形が、いま書いているようなブログ記事なのだ。くりかえし出てくる話題については、本の形にし、ネット上でも見られるようにすること(両方の文章はまったく同じにはならないと思うが)をめざしたいと思う。

江守正多(2013)『異常気象と人類の選択[読書メモ]では、地球温暖化問題をとらえる枠組みとして、「2℃のフレーミング」と「経済価値のフレーミング」、そして「リスク選択のフレーミング」をあげた。ただしこれは、新書本の分量(Twitterよりはだいぶまとまったものだが)におさめるために話題を単純化したものだと思う。

世の中には、「人間社会がかかえる問題には気候と経済のほかにもいろいろあって、そのうち気候がなぜ大事なのかわからない」という人が、たぶん、気候が大事だと納得している人よりも多いだろうと思う。わたしも、環境が重要だと思ってはいるが、世の中の教材、報道、さらには政策立案の場で、環境にかかわるいろいろな問題のうちで地球温暖化が突出して重視されるのはまずいと感じている。重要なのは人間社会の持続可能性(あるいは「成長の限界」)であり、そのあらわれの一つが温暖化なのだと思う。このように説明すると、すでに環境容量や資源の有限性の視点をもった人に温暖化問題の位置づけについてのわたしの考えを伝えることはできるのだが、そうでない人にわかってもらうことはなかなかむずかしい。人間が得られる豊かさに環境に由来する限界があるということは、願望に反する認識でもあるので、人はなかなか納得しないものなのだと思う。

地球温暖化の議論は、科学による将来の見通しに基づいている。そこで、科学者が、あるいはとくに気候に関する科学者が、信頼できない、という人がいる。これについてはいろいろな問題がある。科学にできること・できないことに関する誤解もあるようなので、これは じみち に説明を続けないといけないと思う。科学者のもつ利害関係の問題(いわゆる御用学者問題を含む)もある。これも、政治体制とまったく利害関係をもたないことは不可能なので、その中で科学に基づく発言が利害関係の影響をなるべく受けないようにするのはどうするかを、それをまじめに追求する人たちでいっしょに考えるべきなのだろう。(何をしようがケチをつけることに決めている人は無視あるいは排除するしかない。ただしだれがそれにあてはまるかを判断するのはなかなかむずかしい。)

ここからは、気候に関する科学的なことがらをとらえる枠組みの問題だと思うことをいくつかあげてみる。

まず、気候の変化の原因を、CO2なのか、太陽なのか、気候自体が勝手に変わるのか、どれかひとつが正解ならば他は無視できる、と考える人がいるようだ。これは気候に限らず、因果関係に関する人間の認識の問題なのかもしれない。理屈をいえば、あるものごとの原因は、それより前に起こったすべてのことなのだ(光の速さで影響を与えることができる範囲に限定すべきかもしれないが)。そのうちで因果関係の理屈づけが可能な要因を取り出して、それぞれの重みを評価し、これが主要な原因だ、という言いかたをする。重みづけの際には数量を使うことが多い。これをわかってもらうことは、数量的思考能力(numeracy)([2000年に書いた文章]参照)の普及と同じ課題なのかもしれない。

科学の一般的知識はあっても、科学的予測として、経験した傾向あるいは相関の外挿しか考えられない人も多いようだ。これはいくつかの誤解を招く。

  • 近ごろ専門家は「温暖化はすでに起こっている」とも言うので、専門家による将来の温暖化の見通しは、すでに起こっている温暖化の直線的外挿のようなものだととらえてしまう。これまでに経験した温暖化はたいしたことがない(明確な害をおよぼしていない)と感じられるので、将来の温暖化もその延長ならばたいしたことはないだろうと感じてしまいがちだ。
  • 専門家が将来の温暖化の見通しはこれまでに経験した温暖化のなん倍もの大きさになると言っていることは認識している。他方、経験則によるモデルは、経験した数値の範囲では予測能力をもつが、その外の外挿能力は乏しいことも知っている。そうすると、将来に大きな温暖化が可能性としてありうることは認めても、人がモデルによってそれを予測する能力は低いので、専門家の言う定量的見通しは信頼にあたいしない、と思うかもしれない。
  • CO2が温暖化の原因であるという理屈は、CO2の排出量あるいは濃度と、気温との、毎年の値の時系列の形の類似性あるいは相関の高さから導かれているにちがいないと思う。そして自分でデータを表示してみるとそうなっていないので、専門家の理屈はまちがっている、と言っていることも、たびたび見られる。

このような議論に対しては、物理モデルの概念を理解してもらうことが重要だと思う。これはまさに「欠如モデル」が適した状況なのだ。しかし、物理モデルを理解してもらうためには、エネルギー保存などの物理の基礎概念の理解が必要だ。それを説明することは、中学・高校レベルの物理教育そのものにあたるのかもしれない。時間をかけてそれができればそれもよいと思う。しかし世の中には物理的概念を受けつけない人もいるようで、そういう人にはどんな理解をしてもらえばよいかは、まだ答えのない問題だ。

なお、物理法則によるモデルであることは理解しているらしい人から、「今の状態から過去にさかのぼるシミュレーションをして、過去の事実と比較することはできないのですか?」とたずねられてちょっと驚いた。しかしこれも説明が必要なのだろう。気候モデルが使っている物理法則には、拡散のような不可逆過程が含まれているので、すなおに時間逆方向に意味のある計算をすることができないのだ。簡単に説明するとき「さかのぼって」と言ってしまうことがあるが、実際には過去のある時点の状態を「初期値」として仮定して、そこから時間順方向のシミュレーションをしている。

物理モデルの理屈がかなりよくわかっている人のうちにも、シミュレーションが信頼できないので温暖化の見通しは信頼できないという考えをなかなか変えない人がいる。自分でも複雑なシステムのシミュレーションをしている人も含まれる。これに関しては、気候の研究者が、将来見通しの根拠として、3次元モデルの成果を強調しすぎていたのではないかと思う。空間3次元+時間1次元をいずれも細かく分けたシミュレーションには計算機資源がたくさん必要なので、研究予算を要求するうえではその必要性を述べなければならない。また、そういう詳しいシミュレーションでなければ言えないこともある。しかし、どちらかといえば、近い将来の地球温暖化の見通しの主要な根拠は、鉛直1次元モデルの定常解であり、3次元モデルの時間発展型計算はその詳細化なのだ、とわたしは思う。もちろん鉛直1次元モデルには大気の運動を具体的に表現できないという欠点があるので、詳細化も必要なのだが。

「地球温暖化」(ここでは社会にとっての「...問題」ではなく科学的なことがらとして)とはどんなことかの提示のしかたの問題もあると思う。2001年のIPCC第3次報告書ごろ以後、「温度が上がっている」「その原因は何か?」「主役はCO2だ」という形で語られることが多い。さらにその「温度」は全球平均地表温度(地上気温・海面水温)で代表されていることが多い。ところが、2000年以後の全球平均地表温度は停滞している(いわゆるhiatus、[別ブログ2013-10-17記事]参照)。すると、「温度が上昇している」という事実が現在起こっていないと思うのはむしろ当然なので、その原因の議論に意義が感じられない人も多いのももっともだと思う。IPCCができた1988年の時点では、全球平均地表温度がそれまでに実際に上がったかどうかは確かでなかった。それ以後に「検出と原因特定」(detection and attribution、以下便宜上まとめて「検出」として述べる)の研究が進んだ。1995年の第2次報告書の時点では検出に成功したと言えるかどうかで激しい論争になったので、第3次報告書の時点では科学者の多くが認める検出に成功したことはニュースだった。世の中には、将来の見通しだけでは動かされないが、すでに始まっていると言えば動かされる人がいるので、検出の枠組みで述べることができた意義は大きいのだ。それにしても、この枠組みが地球温暖化のすべてだと思われるのはまずい。

地球温暖化の認識は、比較的狭い専門家集団の内では1970年代のあいだに確立していたのだが、もともと「温室効果の強化によって地表温度が上がるという因果関係がある」「大気中の温室効果原因物質がふえており、人間活動がこのまま続けばふえ続けることは確実」「これは地表温度を上げるように働き、もし他に競合する原因がなければ地表温度が上がることは確実」というようなものだったと思う。

Hiatus問題を踏まえると、「地表温度が上がる」に至る因果関係の項目として「気候システムのもつエネルギーがふえる」ことを明示すべきだと思う。ここでいう気候システムは大気・海洋・雪氷・陸面を含むが、ここで重要なのは海洋のたくわえるエネルギーだ。仮に「地球温暖化」を、「温室効果の強化によって気候システムのもつエネルギーがふえること」という意味だとすれば、この意味での「地球温暖化」は今も続いている、と述べられるのだ。なお「海洋のもつエネルギーの増加」は「海洋全体の平均温度の上昇」と厳密に同じではないものの実質的に同じ現象なので、この変更は「温暖化」を「温度上昇」から切り離したわけではなく、温度上昇を考える対象を見なおしたにすぎない。

「地球温暖化」という用語が不適切だ、という議論もある。実際、英語圏では、Google N-gramで見る限り(意味を問わない文字列の頻度としてだが) climate changeのほうがglobal warmingよりも多く使われている。世界標準に合わせるならば「気候変動」とするべきなのかもしれない。影響を考える立場から、温度の上昇ばかりでなく海面上昇や豪雨が強まることを考えてもらうためには「気候変動」のほうがよい、という意見も聞く。しかし、気候変動はENSO (エルニーニョ南方振動)などの人間活動がなくても起こる年々変動も含むので、「ここでは人為起源の気候変動に限定した意味で使う」などと補足する必要がある。なお「気候変動」と「気候変化」を区別することは、ひとつの著作物や講義の中ではできても、おおぜいの人がかかわる議論の場ではむずかしい。

この件に限らず、どうやらあらゆる問題について、「用語」に関する行きちがいは起こりうるのだと思う。理屈を述べる際には、そこに出てくる概念に、その内容をなるべくよく表わす名まえをつける努力をするだろう。しかしいくら努力しても、その概念は、その理屈と無関係に用語を聞いたときに思いうかぶことがらと一致はしない。ところがその用語がおおぜいの人に使われていくうちに、その理屈を離れて、用語となっている単語が別の文脈で使われている意味で使う人がまざってくる。別の文脈での正しい使いかたならば、まちがいだとはいいきれない。ていねいな議論をするときは、お互いの意味の違いを確認し、その場での使い分けを約束して進む必要があるだろう。メンバー固定の議論か、メンバーが出入りしても「場の約束」をまもることを参加条件にできる場ならばそれが可能だが、世界に直接開いた場(Twitterはその一例)では、議論にかける労力の半分ぐらいが用語の意味の調節にとられてしまうのはやむをえないのかもしれない。

2014-01-19

ジオエンジニアリング、気候工学、意図的気候改変(2)

[2013-11-03の記事]の話題の続き。

Boucherほか(2014)のレビュー論文を読んだ。著者は、イギリスフランスドイツスイスを含むヨーロッパ研究者たちである。

地球温暖化の対策は、「緩和策」(mitigation)、「適応策」(adaptation)、「ジオエンジニアリング」(geoengineering)と分類されているが、この分類はなりゆきによるもので、必ずしも合理的なものではなく、分類に困る場合も生じる。Boucherたちは、主として地球科学の立場、副として国際的政策決定に役立てる立場から、筋のとおった分類をしなおすことを提案している。

分類をしなおす前に、今の分類で geoengineering と呼ばれていることの名まえは climate engineering のほうがよいと言っている。わたしが前回の記事で述べたように日本語の「地球工学」と同様、英語の geoengineering も岩石圏にかかわる技術(geotechnical engineeringともいう)をさすと思われる可能性がかなりある。Climate engineeringのほうは、空調(エアコン)[注]の技術をさす可能性があるものの、比較的にはまぎれが少ない。わたしの紹介でも以下「気候工学」と呼ぶことにする。

  • [注] ドイツ語でKlimatisierungというのはこれなのだ。

Boucherほかの提案する新分類はおよそ次のようなものだ (日本語訳は仮のもの)。

  • AER: 人為的排出の削減 anthropogenic emission reduction
  • GGR: 温室効果気体除去 greenhouse gas removal
    • D-GGR: 域内 domestic
    • T-GGR: 越境 transboundary
  • TCM: 意図的気候改変 targeted climate modification
  • CCAM: 気候変化への適応策 climate change adaptation measures

従来の分類にまとめなおす場合は、AERとD-GGRを「緩和策」、TCMとT-GGRを「気候工学」と考えることができる。

再編成の必要性の第1は、二酸化炭素回収隔離貯留(CCS)技術の扱いにある。従来、燃焼排気からのCCSは「緩和策」、大気からのCCSは「気候工学」のうちの二酸化炭素除去(CDR)に分類され、バイオ燃料の副産CO2および燃焼排気のCCSは「バイオエネルギーCCS (BECCS)」として「気候工学」のCDRに分類されることもあるが、バイオエネルギー利用とCCSとに分けてそれぞれ「緩和策」に分類することもできた。近ごろでは、これらをまとめて CDR としながら「緩和策」と「気候工学」にまたがるものとして扱う場合もある。

第2に、大気中の温室効果気体は二酸化炭素だけでなくメタンなどもあり、それを工学的に大気中から取り除くことはCDRと似たものだがCDRと呼ぶのは無理がある。そこで「温室効果気体除去」(GGR)とまとめるのがよい。

第3に、大気中の二酸化炭素を固定することをねらった植林の扱いの問題もある。これは「緩和策」に含まれることも「気候工学」とみなされることもある。Boucherたちは、このような「吸収源の増加」は「排出削減」とは区別すべきだと考えて、GGRのほうに含めることにした。(なお「自然のemissionを減らす策」があるとすればそれもGGRに含めようとしているようだ。)

GGRは、回収した二酸化炭素(など)のゆくえや、そのほか生態系などへの影響がおよぶ広がりがさまざまなものがある。地球科学的観点では空間スケールは連続分布するが、国際交渉の立場では影響が国内でおさまるか国外(外国・公海・南極・広域大気など)に及ぶかの違いが重要になる。Boucherたちはこのことを意識し、ただし「国」よりも大きいかもしれないし小さいかもしれないなんらかの「地域」を設定してその境を越えるかどうかで分けることを示唆する。

第4に、従来「気候工学」はCDRと「太陽放射管理」(SRM)に分けられるが、太陽放射ではなく地球放射(熱赤外線)の収支を(温室効果気体を減らす以外の方法で)変えようとするものもある。そこまで含めて(CDR以外を)「意図的気候改変」(Boucherたちの用語ではTCM)としたほうがよい。

第5に、ローカルな気候改変をどう扱うかの問題がある。たとえば都市の緑化、屋根を白くすること、ダムの建設などはローカルな気候には明らかな影響があり、ローカルな気候を変えること(都市ヒートアイランド対策など)を目的の一部に含めて実行されることもある。グローバルな気候への影響はゼロとは言えないが小さいので、成層圏エーロゾル注入などのグローバルな意図的気候改変と同様に国際的な規制をかけるのは現実的でないだろう。Boucherたちは暫定的に、空間スケール約30km四方から300km四方くらいを境にして大規模なものだけをTCMに含めることを示唆している。小規模なものについては「気候変化への適応策」(CCAM)に含めることを示唆している。小規模な気候改変の全部を適応策に含めるのは無理があると思うが、おそらく、適応に役立つものを適応策に含め、適応に役立たないものは地球温暖化対策の話題からはずせばよいと考えているのだと思う。

文献

  • Olivier Boucher, Piers M. Forster, Nicolas Gruber, Minh Ha-Duong, Mark G. Lawrence, Timothy M. Lenton, Achim Maas and Naomi E. Vaughan, 2014: Rethinking climate engineering categorization in the context of climate change mitigation and adaptation. WIREs Climate Change, 5:23-35. http://dx.doi.org/10.1002/wcc.261