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2014-07-25

「拡大されたピアレビュー」「第三の波」「相互作用的専門家」

[2014-07-21の記事]で紹介したPaul Edwardsさんの話のうちの、とくに、気候変動の科学的知見に対する専門外の人による「監査」の話題について、科学技術社会論のうちで考えられてきたほかの議論とのつながりを示しておきたい。

かつては、多くの人びとが、気候変動に関する科学と政策の関係を、科学者が自律的に科学的知見をまとめ、それを政策決定者が利用するという、(わたしが使いたいことばではないのだが、科学政策用語でいう) linear model [2013-11-19の記事参照]に近い形でとらえていたと思う。IPCCという制度の場合は、IPCC自体は専門家である著者集団と政策決定者である各国政府代表とがからんで構成されているのだけれど、まず科学者がそれぞれ自律的に研究をおこない、その成果である論文などをIPCCが参照して評価(アセスメント)をする、という構造はlinear modelの延長の発想でできていると言えると思う。しかし、実際にやってみると、評価に使われることを意識するせいで、研究の進めかたが偏るのではないか、という疑いをぬぐうことはむずかしい。

気候変化とその対策に関する問題は、Ravetz (たとえば2005年の著書)のいう post-normal science の条件にあてはまる。社会にとって重要な帰結をもたらしうる決断にかかわる問題であり、科学が提供できる知見が含む不確かさが無視できない。このような状況で、社会の人びとは、科学的知見を、科学者共同体内で同僚評価(peer review)されていることだけでは信頼できない。科学的知見を評価する仕事に専門外の人も加わること、つまり拡大された同僚評価(extended peer review)が求められる(それだけで解決するというものでもないが)。

2009年末にイギリスのEast Anglia大学の気候研究者の電子メールが暴露される事件があり、それに関する話題があちこちでまきおこった。Ravetz氏は、温暖化懐疑論者が集まるブログ WattsUpWithThat にゲスト投稿し(Ravetz, 2010a)、このようなブログにextended peer reviewとして期待していると述べた。それに続いて(わたしは追いかけていないが)コメント欄などでさまざまな議論があったようだ。2回めの投稿(Ravetz, 2010b)でRavetz氏は「温暖化懐疑論者のうちには『地球温暖化人為起源説は全面的な不正(うそ、いんちき)である』という確信をもっている人がいるが、自分はそういう人とは議論をかみあわせることがむずかしい」という趣旨のことを言っている。Ravetz氏自身は、気候科学者の仕事を、悪意はなさそうだが知見の確かさを過大に示しているところがあると見ていて、したがってextended peerによる批判が必要と考え、温暖化懐疑論者のうち同様な考えをもつ部分に連帯しようとしているのだ。Ravetz (2011)の論文でも主張は変わっていないようだ。他方、Ravetz氏のpost-normal science論に賛同しながら、むしろその発想を温暖化懐疑論よりも地球温暖化は重大な問題だという認識につなげて考えようとする人もいる。そのひとりのSilvia Tognetti氏はブログ上でRavetz氏との意見交換をしたが(Tognetti 2013a,b,c)、ギャップはあまり埋まらなかったようだ。

Harry Collins氏の「科学論の三つの波」論(Collins and Evans 2002, 2007; Collins 2011, 2014)を持ち出して考えてみると、上に linear model という用語を使って述べた、科学内のことは専門家の判断にまかせればよいという考えが「第1の波」であり、専門家の言うことを信頼できない専門外の人が別個に知識を評価しようとするのが「第2の波」、専門家と専門外の人とがかかわるextended peer communityが必要だというのが「第3の波」になるのだと思う。ただし、温暖化問題に関するRavetz氏の態度は、extended peer communityと言ってはいるが、例にあげた温暖化懐疑論ブログは、専門外の人が主導し、専門家が参加する気を起こしにくい場なので、「第2の波」的になってしまっていると思う。【なお、政治的な「右・左」「保守・革新」の軸との関係は単純ではない。ここではその議論は避ける。】

温暖化懐疑論者のうちには、気候科学者による学術論文を読んで論評する人もいる。しかしその論評を気候科学者の同僚が見ると、用語を論文の著者の意図とは違う意味に解釈した結果、結論の解釈も違ってしまっていることがよくある。Collinsの用語を使えば、気候科学者は、気候科学の専門の暗黙の知識(specialist tacit knowledge)を身につけていて、それによって専門文献に書いてあることを理解する。この場合の温暖化懐疑論者たちは、専門の暗黙の知識を持たないで、専門文献を読んで知識を得るが、それは専門家のもつ知識と比較困難なものになってしまうのだ。

Extended peer communityには、議論の対象となる分野についての(Collinsのいう)相互作用的専門家(interactional expert、日本語表現は別案を考えているがひとまず直訳にしておく)がいるべきだと思う。専門教育は、専門の暗黙の知識を身につけさせることと、専門家共同体への帰属意識をもたせることの両方の働きをしていると思うが、相互作用的専門家を育てるためには、前者には従うが後者には従わなくてよいような教育の場をふやしていくべきだと思う。

文献

2014-07-21

「グローバル・リスクとしての気候変動」シンポジウム (2014-07-20)から

2014年7月20日、科学社会学会と国立環境研究所によって東京で開かれたシンポジウム「グローバル・リスクとしての気候変動」http://www.sssjp.org/news/4 に出席した。わたしにとってこの題目の行事は多すぎてきりがないのだが、A Vast Machine [読書ノート]の著者 Paul N. Edwards 氏と会う機会だったので、ぜひ行こうと思った。

わたしは討論のセッションで何か発言しようかと思ったのだが、考えがあまりまとまらず、発言せずに終わった。あとの懇親会でEdwardsさんと少し話した。

ここでは、講演中とっていたメモを参考に、講演の要点と思われたこと(わたしの表現で)と感想を述べる。

住 明正さん(国立環境研究所理事長、気象学)の話は、基本的には、地球温暖化に関する科学の紹介だったと思う。

しかしその前に、東日本大震災から(とくに科学者が)受けたショックに関する話があった。

そのひとつは、多くの人びとが専門家に対する信頼をなくした、信頼をとりもどすのはなかなかたいへんだ、ということ。

とくに、気象学者は「情報を隠した」と非難された。実際には、不確かなシミュレーション情報を出すことを抑制したのだが。情報はなんでも隠さず出すべきだという主張と、あまりに不確かでそれに従うと新たなリスクが生じるかもしれない情報はおさえるべきだという主張は、どちらももっともなところがあり、社会としての判断はむずかしい。

もうひとつは、確率が低くても甚大な被害をもたらしうるリスクをあらかじめ考えておくべきだということ。これは地震津波に限らず気候変化についてもそうなのだ。【ただし、時間との兼ね合いでしかたなかったのだと思うが、気候について、確率の高いリスクと確率は低いが重大と思われるリスクとして、それぞれどんなことが考えられているのか具体的に示されなかったので、聞き手には趣旨が伝わりにくかったと思う。】

それから、社会の中で利害が異なるステークホルダーが、情報・知識を共有することが重要である、という話になった。これはEdwardsさんのいう知識インフラストラクチャーとほぼ同じことだと思う。地球環境の観測やシミュレーションもそこへの情報・知識の提供として位置づけられる。そのさらにインフラストラクチャーとしての計算機資源も重要だ。住さんを含む日本の気候モデル研究者は、雲解像大気モデルに重点をおいている。これには大量の計算機資源が必要だが、それでも雲を表現することでよりよい知見が得られると思うからやっているのだ。【ただし、雲の表現によってシミュレーション結果の見かけが観測に近くなることは示されたものの、リスク評価への有用性がどのように上がると期待しているかの説明は、おそらく講演時間のつごうで、出てこなかった。】

Paul N. Edwardsさん(Michigan大学)は、知識インフラストラクチャーを主題とした話をした。知識インフラストラクチャーは、情報インフラストラクチャーといわれるものを含むが、むしろそれを使って働く人びとの組織・制度が重要な要素だ。1960年代に世界の気象観測データの共有を可能にしたWWW [2012-04-29の記事参照]はその重要な例だ。

いま、科学のありかたが変わりつつある。これまでは、専門ごとに、専門家の共同体が、学術雑誌などの知識インフラストラクチャーによって、知識を品質管理し、共有してきた。今では、情報インフラストラクチャーの発達によって、(全体のデータ量も多くなったが)、専門外の人も専門のデータを扱うことが可能になり、知識を共有する人びとの集団が開いたものになってきた。より多くの人の批判を受けることによって知識が改善されることもあるが、批判を含むさまざまな情報の質の判断がむずかしいという問題もある。とくに、

  • 専門家が提供する知識の意味を正しく解釈できる【賛成するという意味ではない】ようになるにはかなりの訓練が必要なのだが、そのことが必ずしも気づかれていない。
  • メタデータ(データが何をさすかの説明)を用意する仕事がだれの職務にもなっていないので、データが多くの人にとって実質的に使えるものにならないことが多い。

2000年ごろから、Steve McIntyre氏のブログ名「Climate Audit」に見られるように、専門外の人が(結果が社会的意志決定に使われるような)専門家の研究を「監査」すべきだという考えが出てきた。

McIntyre氏によるMann氏たちのいわゆる「ホッケースティック」を「監査」しようとした活動は、敵対的態度だった。Edwards氏はそれが監査として有効だったかの評価を述べなかった【が、成功とは評価していないように思われた。わたしは、McIntyre氏は、専門家の表現を理解する訓練を受けず、自己流の解釈が正しいと思いこんだ人なのだと思う。】

【Nick Barnes氏たちの】「Clear Climate Code」が、NASA GISSで世界の気温の集計に使われていたFortranプログラムを読んで計算の趣旨を理解しながら(また、細かいまちがいを指摘しながら) Pythonで書きなおし、事実上同じ結果が得られることを示した。これは対象を計算機プログラムに限ったものだが、「監査」の成功例と言えそうだ。

またRichard Muller氏たちは独立に気温集計をおこなった。【これはどちらかといえば気候研究をする「同僚 (peer)」への新規参入だと思うが、Edwards氏は「監査」の同類に含めていた。】

Anthony Watts氏たちの surfacestations.org は、気象観測機器設置場所の状況によって報告される気温の値に偏りが生じているという疑いをもち、市民参加で観測地点の写真を集めて検討した。Watts氏は報告された全国規模の温暖化が現実のものでなくこの偏りによって生じたものだという文書を書いた。それに対して【NOAA気候データセンターのMenne氏たちが】さらにデータ解析をして、設置状況によって気温の値にバイアスが生じることはあるが、気温の経年変化に対するバイアスは無視できるという結果を(査読を経た論文として)出した。(しかしWatts氏の査読を経ていない文書をネットに置いたHeartland Instituteはそれに基づく主張を続けている。) これは「監査」がさらに【この場合、気候の専門家によって】「監査」された例といえる。

Edwardsさんは、ますます公開性が高まることに期待しているようだ。

ただし、「各人は自分の意見をもつ権利はあるが、自分の事実をもつ権利はない」と言い、「trust and verify」という態度をとるべきだと言っていた。

Stewart Lockieさん (James Cook大学Cairns Institute、オーストラリア)の話は、Meesham and Lockie (2012)の第1章で論じられているという科学技術リスクの総論も少しあったが、大部分は、オーストラリアの人びとが地球温暖化をどうとらえているか(調査結果)の話だった。

オーストラリアの人びとは、大部分が気候変化がおきていると思っており、約半分がそれは人間活動起源だと思っている。ただしそう思っている人は減る傾向があるということだ。

IPCCなどが示す地球温暖化の見通しはうそだ」という「強い否定論」を支持する人はあまり多くない。しかし、(たとえば)「気候は世界にたくさんある不確かなものごとのひとつであり、たぶん心配することはないだろう」というような「弱い否定論」に共感する人が多い。【これは日本でもそうだろうと思う。】

対策について意見を聞くと、エネルギー資源節約、再生可能エネルギー技術開発、気候変化への適応などについては賛同が多い。電力や石油の値段が上がることには反対が強い。排出枠取引や炭素税などについては意見が分かれる。

温室効果気体排出削減には、なんらかの経済的インセンティヴを与える制度づくりが必要だが、いくつかの選択肢があり、どれがよいかは人びとの価値判断によって違う。これをまじめに議論する必要がある。

松本 三和夫さん(東京大学)は、まず、2012年の著書の題名にもなっている「構造災」(structural disaster)という考えかたの話を簡単にした。

話題の大部分は、再生エネルギー技術開発、とくに1980年代の日本で通産省が主導した「サンシャイン計画」の中での海洋温度差発電(OTEC)の事例で、1998年の著書で論じられている件だった。とくに、1984年、いわゆるオゾンホールの発見とみなせる忠鉢 繁氏の報告が出た年に、フロンを使う技術の特許がたくさん出願されたことを指摘していた。たとえ最大の目的が外国の石油への依存を減らすことであっても、環境を意識した事業で、別の環境破壊に思いが至らなかったのだ。【これは皮肉なことではあるが、注意深ければ防げたとは言えないだろう。松本さんも防げたはずだとは言っておらず、環境問題の複雑さの例としてあげていたのだと思う。しかし、「オゾンホール」が知られた以後について、役所の管轄や学術の専門分野の境を越えた認識があれば、もっとうまく軌道修正できたはずだ、といったことは言えるのかもしれない。】

文献 (別ページへのリンクで示したものは省略)

  • 松本 三和夫, 1998: 科学技術社会学の理論木鐸社
  • 松本 三和夫, 2012: 構造災 (岩波新書)。岩波書店
  • Thomas Measham and Stewart Lockie, eds. 2012: Risk and Social Theory in Environmental Management. CSIRO Publishing. [わたしはまだ読んでいない。]

2014-07-20

ある研究室での盗作連発(Wegman & Said)

学術雑誌論文や博士論文についての盗作 【いわゆる「コピペ」。出典を明示した引用でない、まる写し。ただし、少し変更した場合も含む。わたしは「剽窃」の「剽」の字をこの目的のために覚える気が起きないので、芸術作品でなくても「盗作」を使いたい。】の話題が出てくると、わたしは、ある事例を思い出す。

【ただし、この事例についてのわたしの知識は少数の情報源によっており、自分で原文にあたって確認していないことが多いので、偏りがあるかと思う。それで、だいぶ迷ったのだが、おそらく日本語圏ではわたしがこの件についていちばん詳しい人だろうと思うので、書いておくことにした。また、この件は、気候に関する科学への信頼の問題と複雑にからんでいるのだが、ここではなるべく研究不正あるいは学術の品質(-管理)の問題にしぼって紹介したいと思う。】

話は、Mann, Bradley, Hughes (1998, 1999)による最近千年間の気候復元推定にかかわる、いわゆる「ホッケースティック論争」[別ページ]から始まる。Mannたちの研究がまちがっているという主張をする人びとがいた。とくにカナダの元鉱山会社経営者でClimate Auditというブログを始めたSteve McIntyreの主張が激しかった。上記のわたしのページの「アメリカ合衆国国会の動き」の節で述べたように、2005年、アメリカ合衆国連邦議会下院のエネルギー・商業委員会のBarton委員長が、Mannたちに、情報提供を要求する手紙を出した。Mannたちは不満に思いながらも期限までに回答した(Mann, 2012; Bradley, 2011)。それをもとに、Barton委員長はGeorge Mason大学(GMU)の統計学者WegmanにMannたちの研究について検討させた。Wegmanは約1年後に、GMUで博士をとってまもない(他大学に移っていた) Yasmin Saidと、Rice大学の統計学者David Scottとの共著で報告書(Wegmanほか, 2006)を出した。他方、下院科学委員会のBoehlert委員長は、 科学アカデミーに検討を依頼した。 科学アカデミーはNational Research Councilの下にNorth (物理育ちの気候学者, Texas A&M 大学)を 座長とする委員会を作り、Mannたちの研究に限定せず、 最近2000年間の地上気温の復元推定についての知見をまとめさせた(NRC, 2006)。2006年7月、下院エネルギー・商業委員会は2回の聴問会(hearing)を開き、Wegman, North, McIntyre, Mannなどの証言を求めた(記録の所在は上記別ページ参照)。その結果、何か結論が出たというものではないようだ。わたしはNRC (2006)の報告書は読んでこの問題に関する知識を整理するのに有用だったと思うが、Wegmanの報告書は一見してつくりが雑だと思ったので読まなかった。しかし温暖化懐疑論者の議論のうちにはWegmanのほうを重視しているものも見かけた。

ところが、2009年、Deep Climateとなのるカナダのブロガー(ブログのサイトはhttp://deepclimate.org/ )が、Wegman報告書の記述の出典を調べはじめた。当初、Rapp (2008)の本との類似性を見つけて、RappがWegman報告書に匿名でかかわったのではないかと疑ったそうだが、Rappから違うと言われた。その類似部分は、実はBradley (1999)の文章であり、Rappは引用であることの表示が不明確であるもののこの本を参考文献としてあげてはいたが、Wegman報告書はあげていなかった。ここで、計算機科学者(常勤職からは引退しているらしい) John MasheyがDeep Climateと協力して、テキストの比較をした。その結果、Wegman報告書の文章には、Bradleyのテキストとの類似性が高く、細かい変更はあるものの写しと認められる部分があった。Bradley自身もこれを問題にし、2010年3月、GMUに調査を要請した。GMUは調査手続きにはいったものの、その進行は遅かった(Deep Climateブログ 2010年10月8日、12月23日; Bradley 2011)。そして、Deep Climateブログの2012年2月22日の記事によれば、GMUの調査委員会は、(次に述べる別件は盗作と認めたのだが)、2006年の報告書については不正はないとしてしまった。これにはDeep Climateは不満であり、Bradleyも不満にちがいない。ただし不正としない側の理屈をあげるとすれば、この報告書は学術論文や学術的著書とちがって学者のオリジナリティが問われるものではなく、そして問題の箇所は序論のうちで古気候学の基礎知識を述べた部分であり必ずしも出典を示す必要はないと考えられる。わたしも、もし文章が大幅に組みかえられていれば、出典を示さないことに道義的な批判はできても、不正とはいいがたいと思う。

しかしWegman報告書にあった盗作はこれだけではなかった。Wegman報告書では大きく分けて、Mannたちの使った統計手法不適切だという主張と、Mannたち古気候研究者が小さな閉じた集団を作っていてその研究が充分な批判的同僚評価にさらされていないという主張をしている。後者の議論をするために、社会ネットワーク解析(social network analysis)という、方法の面からは統計学、対象の面からは社会学の中に位置づけられるであろう分野の方法を使い、学者各人を節(ふし)、論文などの共著者となる関係を節をつなぐ線としたネットワーク構造を考えて、実際にいくらかのデータ処理をした結果を示している。Wegmanはその作業を学問的オリジナリティもあるものだと考えたらしく、他の大学院生による同類の作業と合わせて、Saidが第1著者となってComputational Statistics & Data Analysisという雑誌に論文を出した(Saidほか, 2008)。ところが、これに(やはり序論部分だが)、Wasserman & Faust (1994)やde Noorほか(2005)の社会ネットワーク解析の教科書およびWikipedia記事からの出典を明示しない写しがあることが指摘され、2010年、雑誌発行者はこの論文を取り消し(retracted)扱いにした(論文は今も雑誌ウェブサイトに置かれているが、大きく「RETRACTED」という字が表示される)。GMUの調査委員会も、これについては研究不正がありWegmanに研究チームリーダーとしての責任があるとした。ところが、この出典を明示しない写しは2006年のWegman報告書にもあるのだが、調査委員会はこれを問題にしなかった。

また、Wiley社が始めたWiley Interdisciplinary Reviews (WIREs)というシリーズのComputational Statisticsの雑誌は、Wegmanが編集委員長、Saidも編集委員をつとめていた(編集委員長を助けるためにその関係者が編集委員にはいること自体はまずいことではないと思う)。そこにのせた、最適化について(Said and Wegman 2009, Deep Climate 2011年10月4日)と色の利用について(Wegman and Said 2011, Deep Climate 2011年3月26日, 5月15日)のレビュー論文についても盗作箇所がある疑い(およびじゅうぶんな査読を受けていない疑い)が指摘されている。雑誌編集者も問題があることを認め、著者に書きなおしを要請したそうだ。また、編集委員長は他の人に代わり、WegmanとSaidは編集委員からはずれた。

Deep Climate (2010年9月15日の記事)は、Said (2005年)、社会ネットワーク論文の共著者であるSharabati (2008年)、もうひとり(2009年)の3人の博士論文にも、盗作と思われる箇所が多数あることを指摘している。おもに背景知識の部分なので、出典明示しなければいけないものであったか、論文を直接読んでいないわたしには判断することがむずかしい。盗作の疑いよりもむしろ、(Deep Climateの指摘によれば)写しまちがいにより意味がとおらなくなっているところがあるのに、指導教員なり審査員なりが気づかず合格にしてしまったところに、指導体制の不備があったと思う。(3人ともアラブ系かと思われる名まえをもつ(留学生移民の子孫かは知らないが)。大学院生にしては英語文献の読み書きが得意でなかったが、それを補う訓練が不足していたのかもしれないと思う。)

ここまで盗作問題に話題をしぼってきたが、学問的な質の問題もある。

社会ネットワークの論文については、盗作問題のほかに、学問的オリジナリティに関する批判もされたようだ。

わたしは取り消しになった論文を読んでいないが、Wegman報告書で、Mannをめぐる共著関係ネットワークを調べて、閉じた集団だという結果になったのは、方法が不適切だったのだろうという疑いをもっている。確かに、千年の時間規模、全球あるいは半球の空間規模での古気候の復元推定をしている人の数は少なく、たとえライバル関係にあってもときには結果をつきあわせた共著論文を書くので、彼らだけに注目すれば閉じた集団に見えるかもしれない。しかしMannの共著者には、千年規模の仕事もするがむしろ百年規模の観測データによる研究を主にするPhil Jonesなどの気象学者もいるし、地質学者もいる。Mannの共著者の共著者はたくさんの分野の研究者集団に広がっており、共著関係ネットワークを可視化すればそれが見えるはずだ。

それから、もともとBartonがWegmanに調査を依頼した主題は、Mannたちの統計手法が適切なものだったかどうかだったのだ。ところが、(わたしはまだ報告書の論旨がとおっているか確認していないのだが) Deep Climateの2010年10月25日の記事によれば、Wegman報告書のこの問題を扱った部分は、McIntyre and McKitrick (2005)の議論の受け売りであり、さらに、その議論で使われている理屈を正しく理解しないで書きまちがえているところがあるそうだ。Deep Climateの判断が正しいとすれば、Wegmanは肝腎のところで統計学の専門家としての評価能力を発揮していなかったことになる。(McIntyreは大学の数学科を出ているが学者ではなく、その理屈は自己流のところがある。)

わたしが「ホッケースティック」以外の文脈でWegmanの名まえを見たのはUnwinほか(2005)の本の分担執筆者としてだった。Wegmanは、大量データを計算機で扱うことの先駆者であったらしい(この点でわたしは一種の同業者であると感じる)。軍関係のさまざまな研究に関与してきたらしい(この点にはおそろしさを感じるが、かつて大量の計算機資源を使う研究ができる機会はほかに少なかったかもしれない)。たぶん科学アカデミーの統計学部会長に推薦されるだけの業績や見識はあった人なのだと思う。そういう人がどうしてこんな雑な仕事をしてしまったのだろう。共和党の政治的意図に協力しようとしたことは明らかだが、その目的に対しては、報告書の質が低いとわかった時点でむしろ負の貢献になってしまったはずだ。弟子のSaidたちや共和党議員のスタッフなどの協力者たちの仕事の質が高いと思いこんで、チェックしなくても自分は貢献できると考えていたのだろうか?

Wegmanは依然としてGMUの教授ではあるが(主所属がSchool of Physics, Astronomy, and Computational Sciences http://spacs.gmu.edu/profile/edward-wegman/、副所属が Department of Statistics http://statistics.gmu.edu/people_pages/wegman.html )、かつての研究室ホームページだった http://www.galaxy.gmu.edu/stats/wegman.html は読めなくなっている。単なる世代交代かもしれないが、その影響力は少なくなっているように見える。

わたしは、GMUの組織としての盗作問題への対応は鈍すぎると思う。しかし大学全体が「腐っている」とは思わない。わたしが知っている分野は限られるが、GMUの気候研究者の学問の質は高いと思う(地球温暖化よりも年々変動がおもな対象のようだが)。GMUに限らず、学術組織の運営は、経営者が強権的にやればよいというものではない。不正がはびこってはいけないが、多様な意見に配慮する結果、鈍いのはしかたがないとも思う。研究倫理に関する機動的な動きは学者の自主的な集団に期待したいと思う。

文献

  • Raymond Bradley, 1999: Paleoclimatology ― Reconstructing Climates of the Quaternary. Academic Press. [第3版が2014年に出た。なお初版は1985年に別の出版社からQuaternary Paleoclimatologyという題で出た。]
  • Raymond S. Bradley, 2011: Global Warming and Political Intimidation. Amherst MA USA: University of Massachusetts Press, 167 pp. [読書メモ].
  • [同、日本語版] レイモンド S. ブラッドレー 著、 藤倉 良、桂井 太郎 訳 (2012): 地球温暖化バッシング化学同人
  • Wouter de Nooy, Andrej Mrvar & Vladimir Batagelj, 2005: Exploratory Social Network Analysis with Pajek. Cambridge University Press.
  • Michael E. Mann, 2012: The Hockey Stick and the Climate Wars: Dispatches from the Front Lines. New York: Columbia University Press.
  • [同、日本語版] マイケル E. マン 著、藤倉 良、桂井 太郎 訳 (2014): 地球温暖化論争 ― 標的にされたホッケースティック曲線京都: 化学同人。[読書メモ].
  • M.E. Mann, R.S. Bradley & M.K. Hughes, 1998: Global-scale temperature patterns and climate forcing over the past six centuries. Nature, 392, 779 - 787. http://dx.doi.org/10.1038/33859
  • M.E. Mann, R.S. Bradley & M.K. Hughes, 1999: Northern Hemisphere temperatures during the past millennium: inferences, uncertainties, and limitations. Geophysical Research Letters, 26, 759 - 762. http://dx.doi.org/10.1029/1999GL900070
  • S. McIntyre & R. McKitrick, 2005: Hockey sticks, principal components and spurious significance. Geophysical Research Letters, 32, L03710 http://dx.doi.org/10.1029/2004GL021750
  • NRC (National Research Council), 2006: Surface Temperature Reconstructions for the Last 2,000 Years. Washington DC: National Academies Press, 180 pp. http://books.nap.edu/catalog.php?record_id=11676
  • Donald Rapp, 2008: Assessing Climate Change: Temperatures, Solar Radiation, and Heat Balance. Springer-Praxis. [読書ノート]
  • Yasmin H. Said & Edward J. Wegman, 2009: Roadmap for optimization. Wiley Interdisciplinary Reviews: Computational Statistics [WIREs Comp Stat], 1: 3-11. http://dx.doi.org/10.1002/wics.16
  • Yasmin H. Said, Edward J. Wegman, Walid K. Sharabati, John T. Rigsby, 2008: [RETRACTED] Social networks of author-coauthor relationships. Computational Statistics & Data Analysis, 52: 2177 - 2184. http://dx.doi.org/10.1016/j.csda.2007.07.021
  • Anthony Unwin, Martin Theus & Heike Hofmann 編, 2006: Graphics of Large Datasets: Visualizing a Million. New York: Springer. 271 pp. [読書ノート]
  • Stanley Wasserman & Katherine Faust, 1994: Social Network Analysis: Methods and Applications. Cambridge University Press.
  • E. Wegman & Y. Said, 2011: Color theory and design. WIREs Comp Stat, 3: 104 - 117. http://dx.doi.org/10.1002/wics.146
  • Edward J. Wegman, David W. Scott & Yasmin H. Said (2006): Ad hoc Committee Report on the‘Hockey Stick’ Global Climate Reconstruction. Internet ArchiveにあるPDF http://web.archive.org/web/20110811183617/http://archives.energycommerce.house.gov/reparchives/108/home/07142006_Wegman_Report.pdf

2014-07-19

「地球環境問題に立ち向かう『知』をどのように育てていくのか?」 (2014年9月6日)

2014年度科学技術社会論学会シンポジウム

地球環境問題に立ち向かう『知』をどのように育てていくのか?

世界の人間社会は、生物多様性・物質循環・気候など複数の局面で地球環境の限界にぶつかっています。人間社会が持続可能なものになっていくためには、環境対策にとどまらず、開発のありかたにもかかわる社会の変容を必要とするでしょう。そのために、学術研究のありかたも変わっていく必要があるでしょう。

第1に、研究活動にステークホルダー(stakeholder、利害関係者)が研究者と対等にかかわるべきだという考えがあり、特定地域の問題解決のためには、すでに実践されています。しかし、世界規模の問題解決には、このようにして得られた知を、もっと広い地域で、違った構成のステークホルダーとともに生かしていく必要があります。そこには、知を提供する側・受け取る側のそれぞれの課題があるでしょう。

第2に、研究者の社会への働きかけに、対立する立場のひとつを支持するアドボカシー(advocacy、唱道)を含むことがありえます。研究者にとっては、アドボカシーとのかかわりかたを律する規範が、社会的意思決定の側では、アドボカシーを含む知をどう使うかが課題となるでしょう。

このシンポジウムでは、この2つの主題に関連する4人のかたの講演と参加者のみなさんとの討論を通じて、地球環境問題に立ち向かう『知』をどのように育てていくのか考えていきたいと思います。

日時:2014年9月6日(土)13:00〜16:30

場所:航空会館 501・502会議室 (東京都港区新橋1-18-1, http://kokukaikan.com/about/access )

登壇予定者:

(企画担当 増田 耕一)

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以上の内容は、2014年6月に発行された科学技術社会論(STS)学会のニュースレター(会員向け)に収録された原稿です。

5月末の段階で、講演と総合討論からなる通常のシンポジウムとして構成しようと判断し、複数のかたとそれぞれ相談した結果、4人のかたに講演者になっていただくことをご了解いただきました。

その後、わたしの注意が遠のいてしまい、これまでに企画の話にかかわってくださったかたがたを含むみなさまへのご連絡が遅れ、申しわけありません。

これから準備を進めてまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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なお、科学技術社会論学会のウェブサイトhttp://www.jssts.jp/ です。

2014-07-10

世界の気温データ整備の動き (続報)

[2010-08-01の記事]で、世界の地上気温観測データを統合したデータセットを作る国際共同事業が始まったことを紹介したが、わたしはその後追いかけていなかった。

最近、参加機関のひとつであるアメリカ合衆国NOAAのNational Climatic Data Centerからデータセットの公開が始まったとのことだ。その仕事をしているJared Rennieさんによる、RealClimateブログへのゲスト投稿 Release of the International Surface Temperature Initiative’s (ISTI’s) Global Land Surface Databank, an expanded set of fundamental surface temperature records (2014-07-06)で知った。わたしはまだその内容を紹介できるほど理解していないが、関心のあるかたは上記記事をごらんいただきたい。

Mitigation、緩和(策)、軽減

地球温暖化対策の文脈で、英語で mitigation、日本語で「緩和(策)」ということばが使われる。これは、温暖化の原因を減らすことであり、ほぼ「温室効果気体排出削減(策)」と同じことだ。(「ほぼ」と書いたのは、森林育成など、排出削減という表現に合わないものもいくらか含むから。)

この用語は、たぶん、1988年にIPCC (気候変動に関する政府間パネル)が発足したころから使われていたのだと思う。

しかし、わたしが認識したのは、2001年にIPCCの第3次評価報告書が出たときだった。2001年7月のIAMAS (国際気象学・大気科学連合)の学会大会の場で、もうすぐ出版される報告書(Climate Change 2001)の紹介があった。そこで紹介されていた内容は第1作業部会の報告だったと思うが、出版案内のちらしにあった第3作業部会報告書の副題が「Mitigation」の1語だった。すぐには意味がわからず、なんだろうかと思った。

さかのぼって調べてみると、第2次(Climate Change 1995)では第2作業部会の報告書の副題が「Impacts, Adaptations and Mitigation of Climate Change: Scientific-Technical Analyses」だった。第3次報告書の準備が始まった1997年ごろに、部会の担当範囲を変える決定がされたにちがいない。なお、第1次(1990年出版)の第2部会の報告書の副題は「Impacts Assessment of Climate Change」だった。第2次報告書の準備が始まった1992年ごろに、第2部会の担当の課題にmitigationが加わったにちがいない。

わたしは、IPCCの第1次の第1部会の報告書はよく参照し、1993年・94年に出た自分の著作に参考文献としてあげたこともあるのだが、第2・第3部会の報告書があることを明確に知ったのは、2001年夏に第3次報告書の近刊案内を見たときだった。MitigationということばのIPCCの文脈での意味がわかったのはそれを副題とする本の趣旨説明文を読んだときだった。

もっとも、わたしはmitigationという英語の単語を知ってはいた。1991年に、東京大学生産技術研究所の内部組織として「国際災害軽減工学研究センター」ができた(今は別の組織に変わっている)。英語の名まえはInternational Center for Disaster Mitigation Engineeringだった。略称INCEDEにはMは含まれていなかったのだが、当時ちょっと新鮮に感じた「災害軽減」という表現が英語ではdisaster mitigation であることが印象に残った。「防災」あるいは「災害予防」、disaster preventionということばはもっと前からあった。京都大学防災研究所の英語名はDisaster Prevention Research Instituteなのだ。しかし、人々がいくらがんばっても、災害をなくすことはできそうもない。災害が起きたときの被害を減らすことのほうが現実的目標だ。

それで、地球温暖化の mitigation をわたしは「地球温暖化の軽減」と書いてきた。日本の公文書では「緩和(策)」と書かれていることを知ったあとも、それに流されまいとしてきた。わたしの感覚では、「地球温暖化の緩和」は、地球温暖化そのものを弱めることではなく、地球温暖化の人間社会へのインパクトを弱めることのような感じがするのだ。ところがそれは地球温暖化に関する公文書では「適応(策)adaptation」と呼ばれているもうひとつの柱(IPCCでは第2次以来現在まで、インパクト評価とともに第2部会の担当)をさすことになってしまう。話がくいちがうのを避けるには「緩和」を使いたくなかったのだ。近ごろは共著の文書をつくる機会がふえたので、不満に思いながら、公文書の用語にあわせて「緩和」と書くことがふえてしまった。

わたしの不満は英語の mitigation にもある。わたしが納得した災害の mitigation は、たとえば大雨による洪水について考えると、大雨の雨量を減らすことではない。同じ大雨が降っても、建築物をそれに耐えるような構造にしたり、人が早めに情報を得て避難できるようにしたりして、被害を減らすことをさしている。地球温暖化の文脈でこれに理屈のうえで対応することがらは、やはり適応策になる。

もっとも、わたしは「災害軽減」以外の、もっと日常的な文脈での mitigation ということばの意味の広がりをよく知らない。「原因を減らすこと」という意味に使うのも妥当なのかもしれない。Mitigation of emissionの略として理解されているのかもしれない。「排出削減」に直接対応する英語は reduction of emissionだと思うが、reduction は「減らす」ことのほかに「還元」と訳されるいくつもの意味があってやっかいなことばだ。だからわたしは温暖化の mitigation ということばの使いかたはよくないと主張するわけではない。ただ自分の内側にわだかまりが残る。

なお、IPCC特有の表現が必要でない文脈で、英語で abatement という表現を見ることがある。mitigation と同じ意味だとわたしは理解している。