Hatena::ブログ(Diary)

macroscope

2018-08-13

粒度、分解能/解像度/粗視化、aggregation

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「サンプル数」という表現についての[2018-04-30の記事]の記事に関連して思いあたったことをその記事に「1X」節として書きたしておいたのだけれど、もう少し話題をひろげたくなったので、別の記事をたてることにする。

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「サンプルサイズ」という表現から、わたしは、統計学者のいう「サンプルサイズ」とは別のものごとを連想してしまう。

複雑なものの集まりについて記述するときに、個物ひとつひとつは記述しきれないが、全部ひとまとめに記述したのでは単純化しすぎなので、グループごとにまとめて、グループ間のちがいはシグナルとしてあつかうが、グループ内の個物のちがいはノイズであるかのようにあつかうことがおおい。このとき、グループの大きさ(サイズ)をどのくらいにするか、という問題がある。

そのうちでも、わたしがよく出あうのは、空間分布をもつものごとの場合だ。連続の空間座標の関数である数量の場合ならば、有限個の数値では完全な記述はできない。現実には有限個の数値で近似的な記述をするが、その際によくやることは、空間を升目[ますめ]に分割して、升目ごとの代表値(たとえば平均値)を考えることだ(ほかの方法もあるが)。この場合、わたしがサンプルサイズと言いたくなるものは、「升目の大きさ(サイズ)」と言ったようがよいだろう。(よく聞かれる用語は「升目」ではなく「格子」や「グリッド」なのだが、その場合は「格子の大きさ」ではまずく、たとえば「格子間隔」などを持ち出した表現が必要になるだろう。)

人口分布のように、原理的には離散的なものごとであっても、個別のものごとの位置はこまかすぎて、なんらかの空間的なまとめをしないとあつかいきれない場合もある。たとえば日本の行政からくるデータならば、それぞれの都道府県についての集計をするか、それぞれの市町村についての集計をするか、などの選択がありうる。この場合、わたしがサンプルサイズと言いたくなるものは「集計単位の大きさ(サイズ)」と言ったほうがよいだろう。

また、ここでいう「グループの大きさ(サイズ)をどのくらいにするか」について、「粒度 [りゅうど] 」ということばを使った表現があることを、わたしはわりあい最近に知った。英語では granularity らしい。しかし、どの専門分野で使われていたかも、正しい使いかたの例も、わたしはよく認識していない。

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複雑なものをグループごとにまとめるという作業をあらわす用語として、わたしは、英語ならば、動詞で aggregate、対応する名詞で aggregation ということばに思いあたる。

しかし、これを日本語で表現しようとすると、動詞ならば「まとめる」「かためる」とはいえるが、名詞にしにくい。「まとめ」は、文章の結論をさすこともあるし、空間構造を考えずに全部いっしょにしてしまうような感じもする。「かため」は「かたい(固、堅、硬)」から派生する「比較的かたい」という意味の「かため{な、の}」という形容語(学校文法用語では形容動詞)があるので、動詞「かためる」から派生した その作業をあらわす名詞とは思われにくい。

ことばのなりたちはちがうのだが、次にのべる「粗視化」が、比較的近い感じがする。

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「粗視化」というのは、「見る」という作業をする場合に、たぶん空間的に、個物よりは大きなサイズでまとめることだ。

その文脈で、まとめる「サイズ」の大きい小さいをあらわす用語としては、英語ならば resolution 、日本語では「分解能」または「解像度」がある。(わたしは「分解能」のほうがさきに出てくるが、読むもので出あうのは「解像度」のほうがおおいようだ。) これの由来は、おそらく望遠鏡で、複数の星を区別して認識できるかどうかであり、その数量は天球上の角度で表現されていただろうと思う。

気象・海洋の数値モデルや、衛星などによるリモートセンシング(遠隔観測)では、空間を有限個の升目にわけてあつかう。升目が大きい(同じ対象空間をあつかうならば升目の個数はすくない)のが低分解能、升目が小さい(升目の個数はおおい)のが高分解能なのだ。

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「粒度」ということばを、わたしは地学用語として知っている。礫[れき]、砂、泥などの岩石の砕屑物[さいせつぶつ]を、粒子の大きさで分類するときに使う。地学のうちの地質学のうちの堆積学の用語だが、それ以外の分野の人も使うだろう。対応する英語は、grain size、particle size とされている。

砂ならば、ふるい[篩]によって粒度別にわけることができる。たとえば、間隔 4 mmの ふるい はとおるが 2 mm の ふるい はとおらない粒子群と、2 mmの ふるい はとおるが 1 mmの ふるい はとおらない粒子群とは、粒度がちがうのだ。粒子の大きい礫の場合や、粒子の小さい泥の場合には、ふるい とはちがう道具が必要になるけれど、粒度の考えかたは同様だ。

ただし、粒子の大きさ(サイズ)と何か別の量との関係を定量的議論するときには、「粒度」よりもむしろ「粒径」という表現が使われる。粒径とは、粒子の形を球で近似したときの直径と言ってよいと思う。

他方、地学のうちでも気象学では、水滴、氷の結晶、エーロゾルなどの粒子の大きさ(サイズ)が問題になる。ただし、わたしの知るかぎりでは「粒度」ということばは使わない(英語の particle sizeは使うが)。大まかなあつかいのときも「粒径」を使った表現をすることがおおい。

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わたし個人の感覚として、使いたくなる表現は、対象を空間的にどのくらいくわしく見るかを考える場合は、「粗視化」と「分解能」だ。しかし、必ずしも空間でない複雑な対象をどのくらいくわしく見るかを考えるときは「粒度」のほうがよいと感じることがある。

2018-08-12

題名を思い出せない曲、「故郷の空」、「ほたるの光」

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【これはまったく個人的な覚え書きで、知識を提供する記事でも、意見を主張する記事でもありません。】

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わたしは、メロディーを思いだすが、曲の名まえも、歌詞も思いだせない、ということがよくある。そばにひまな人がいれば、はなうた か何かでメロディーを持ち出して、これはなんの曲だったか と たずねれば、わかるかもしれない。ところが、ちかごろわたしは、1人でいる時間がおおくなり、ひとと話すときはたいてい(すくなくとも、あいては)仕事中なので、たずねる機会がすくなくなってしまった。ネット上で不特定の人にたずねたいとも思うのだが、他人の著作物とくに音楽関係のものを公開の場所に置くことにはきびしいご時勢なので (著作権の期限をすぎていれば堂々と置けるのだが、それもわからないので)、はばかられる。それで、わからないままになっていることがおおい。

つぎに書くのは、自分で思いだせて、われながら おかしかった例だ。たまたま ふたつとも同じ部類の曲だった。

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道 (日本の町の街路) を歩いていて、あるメロディーを思いだした。歌ではなく、リードオルガンのようなブザーのような ねいろ の器楽の形だった。しばらく、なんの曲かわからなかった。

しばらく そのふしを口ずさんでいるうちに、どこで聞いたのかを思いだした。交差点の信号機だ。いまでも近所に、このメロディーを使っている信号機がある。

たしか1990年ごろには、十字路で、たとえば東西に横断できるときと、南北に横断できるときに、それぞれちがったメロディーをならす信号機があちこちにあった。札幌に行ったとき、どの交差点も同じメロディーをならしていたという記憶がある。

その一方は、音律は近代の平均律になっているが、日本のわらべうたの「とおりゃんせ」だった。信号がうたうわけではないが、このうたのもんくは、たしかに、人を とおしたり とめたりする交通信号の役わりに合っている。しかし、ちかごろ、このふしをつかっている信号機に出あうことはない。

もう一方のふしが生きのこっているのだ。これは西洋の長音階だが「ヨナぬき」だ。行進曲のようでもありそうでないようでもある。曲の名まえや歌詞は、まだ思いだせなかった。

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母が認知症で、記憶がおとろえてしまった。それでも、子どものころにおぼえた童謡や唱歌の記憶は残っている。わたしが童謡や唱歌のCDをかけると、母はわりあいきげんがいい。

その中に、「故郷の空」があった。信号機のメロディーは、これだった。

「故郷の空」のふしは、もともと、スコットランド民謡の Coming though the Rye だ。わたしが子どものころ母が買ってきた英語の歌のカセットテープにはいっていたのを覚えている。英語の歌詞を日本語で説明したものも読んだおぼえがある。当時のテレビの娯楽番組で、直訳にちかい「だれかさん と だれかさん が 麦畑」のような歌詞で歌っていたのも思いだせる。スコットランド民謡に特有な「スコッチ スナップ」というリズムがあって、この歌も本来はそのリズムで歌われていたのだという話も読んだ。

しかし、信号機のメロディーは、スコッチスナップではなく、3:1の時間分割のリズムがつづくもので、わたしにとっては、Coming through the Ryeではなく、「故郷の空」でしかありえなかった。

いずれの歌詞から考えても、信号機に使われる理由が見あたらない。曲が、それにあわせて人が歩くのに適していて、しかも「とおりゃんせ」とは部分的に聞いても区別できる、という条件でえらばれたのだろう。

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別のあるとき、「いろはにほへと ちりぬるを」に、ふしをつけて歌いたくなった。そのとき、この歌詞につけられた曲であるかのように思いおこされた曲があって、「ゑひもせす」まで歌ってみた。曲は4拍子で、長調だがヨナぬきだった。その曲は古くからあるもので、世のなかで通用している曲名が「いろは」であるはずがないことには気づいたが、なんという曲か思いだせなかった。七五調の四句の歌詞にあう曲というだけならば、たくさんある。

(実は、わたしの記憶のなかには、「いろは」の曲がもうひとつある。自分の創作なのか他人の創作なのかわからなくなっているので、紹介しにくい。こちらは西洋音階でなく、たぶん日本の伝統音楽に近いふしまわしなのだが、音律は平均律になってしまっている。)

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数日後に、また「いろは」を歌いながら、やっと気づいた。曲は「ほたるの光」だった。これももともとはスコットランド民謡 Auld Lang Syneだ。しかし、わたしが思いだしたリズムはスコットランドふうではなく、日本の唱歌になっていた。

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わたしが「ほたるの光」を思い出そうとすると、3拍子のワルツふうに編曲されたものが出てきてしまう。標準的な歌いかたならば 3:1 の長さになるところを、2:1 にしてしまったものだ。たぶん、わたしが若いころよく出入りしていた商店か公共施設で、閉店時間にいつも 3拍子にした「ほたるの光」をかけていたのが、わたしの記憶にしみついているのだ。

しかし、「いろはにほへと」を歌おうとしたとき出てきた曲は、3拍子ではなく4拍子だった。

2018-08-11

最近約千年間の気候変化についての勉強途中の覚え書き

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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歴史時代の気候変化とそれに対して人間社会はどう(適応を含めて)応答したかを考えたいと思っている。しかし、わたしの歴史時代の気候変化の実態に関する認識はあやふやだった。

それで、最近、中塚 武さんの講演の動画を聞いた [2018-07-03「気候適応史プロジェクトの話を聞いて考えたこと」]。また、Lieberman & Gordon (2014)、Behringer (2010 / 2013)、Hsü (2000)などの、気候変化と人間社会の関係を論じた本や、山川ほか(2017)の事典の関連箇所を読んだ。

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ヨーロッパ北アメリカ東岸で、西暦850-1200年ごろが温暖で「中世温暖期」、1250-1850年ごろが寒冷で「小氷期」と呼ばれることがある。世界を見る場合は「中世温暖期」は不適切として Medieval Climate Anomaly (MCA)という表現も使われるようになり、たとえばIPCC第5次評価報告書の第1作業部会の巻(2013年)の第5章に採用されている。

これに関連して、これまでにわたしが得た知識を、あえておおざっぱにまとめてみる。(文献参照をするべきだと思うが、ひとまず省略した。) わたしが誤解している可能性もある。

ユーラシア北大西洋の 温帯・寒帯の広域で、MCAには高温、小氷期には低温だったといえるようだ。そのうち少なくともアルプス以北のヨーロッパでは、MCAには高温・乾燥、小氷期には低温・湿潤だった。

他方、東南アジア北半球側など、北半球の熱帯・亜熱帯では、MCAには湿潤、小氷期には乾燥だった地域が多い。(夏のモンスーンで雨がふるところでは、MCAにはモンスーンが強く、小氷期には弱かった、とも言われている。)

地中海の北側から西アジア中国では、温帯の温度の傾向と亜熱帯の乾湿の傾向がかさなって、MCAには高温・湿潤、小氷期には寒冷・乾燥だったようだ。(中国の場合も夏のモンスーンの強弱で説明しようとする人もいるのだが、その理屈は再検討を必要とすると思う。)

しかし、(中塚さんの報告によれば) 日本では、MCAには高温・乾燥、小氷期には低温・湿潤だった。乾湿の傾向が、中国とちがい、ヨーロッパのほうに似ている。日本と中国の乾湿の傾向がほんとうにちがうのか、復元推定の材料や方法のせいでちがうように見えたのか、検討を必要とすると思う。

なお、南北アメリカでは、(人間社会の歴史との関連で)重視される気候要因は乾湿の変化、とくに乾燥化で、そのタイミングは地域によってちがい、かならずしもMCAと小氷期に同期していないようだ。

世界全体の気候変化を考えるうえでは、ここにあげなかった地域、たとえば熱帯太平洋も重要なのだが、わたしはまだ勉強ができていない。

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中塚さんは日本の夏の乾湿についての毎年のデータセットをつくり、社会変動との対比を試みた。それをふまえて、数十年の平均の乾湿よりも、そこからの変動のほうが、社会への影響が大きいと考えている(2018-07-03の記事の8節参照)。とくに、数十年(たとえば30年)の平均状態から一方に大きくはずれた状態が、数年間に複数回くりかえす、といった事態が、社会にインパクトをもたらすのだ。中塚さんが渡邊ほか(2014)の本で言っていたことでもあるが、わたしなりにいえば、人間社会は気候を周期成分にわけたときどのくらいの周期の気候変化に対して適応策をとるのか、という観点で考える必要があると思う。

Behringer (2010)やLieberman & Gordon (2018)も、小氷期がヨーロッパの人びとにとって困難の多い時代だったという議論の中で、それは平均的に寒冷だったからというよりも、極端な天候がたびたびあったからだ、と論じている。極端な冷夏や寒い冬が多いことが平均的に寒冷な気候をもたらしているともいえるので、平均的気候と極端な天候を分けて論じることは簡単ではないが、分けて考えられればそのほうがのぞましいと思う。

文献

  • Wolfgang Behringer, 2007; 5版 2010: Kurturgeschichte des Klimas. München: C. H. Beck. [わたしは直接見ていない。]
  • [同、英語版] Wolfgang Behringer; translated by Patrick Camiller, 2010: A Cultural History of Climate. Cambridge UK: Polity.
  • [同、日本語版] ウォルフガング ベーリンガー 著, 松岡 尚子[ひさこ], 小関[こせき] 節子, 柳沢 ゆりえ, 河辺 暁子, 杉村 園子, 後藤 久子 訳, 2014: 気候の文化史 -- 氷期から地球温暖化まで丸善プラネット。[読書メモ]
  • Edward R. Cook, Paul J. Krusic, Kevin J. Anchukaitis, Brendan M. Buckley, Takeshi Nakatsuka, Masaki Sano, PAGES Asia2k Members, 2013: Tree-ring reconstructed summer temperature anomalies for temperate East Asia since 800 C.E. Climate Dynamics, 41: 2957-2972. https://doi.org/10.1007/s00382-012-1611-x
  • Kenneth J. Hsü, 2000: Klima Macht Geschichte (気候が歴史をつくる): Menschheitsgeschichte als Abbild der Klimaentwicklung. Zürich: Orell Füssli Verlag, 334 pp. ISBN 3-280-02406-4. [読書メモ]
  • Benjamin Lieberman & Elizabeth Gordon, 2018: Climate Change in Human History — Prehistory to the Present. London: Bloomsbury Academic. [読書メモ]
  • 渡邊 誠一郎, 中塚 武, 智弘 編, 2014: 臨床環境学名古屋大学出版会[読書メモ]
  • 山川 修治, 常盤 勝美, 渡来 靖 編, 2017: 気候変動の事典朝倉書店[読書メモ]

学術データの長期保全の場の持続可能性がほしい (2) 非公式文書も視野にいれて

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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8月2日に[学術データの長期保全の場の持続可能性がほしい]という記事(ここでは「第1部」と呼ぶ)を書いたとき、わたしは、気象を含む地球物理現象に関する近代的な観測の記録を念頭においていた。機器観測にくわえて目視によるものもあるだろうし、数値にくわえてことばによる記録もあるだろうが、観測をおこなった機関がもつなんらかの標準にしたがっており、記録した個人による差は小さいと考えられるものだ。

そのような近代的観測記録のうちでも、古いものは、まだ数値や文字のディジタルデータ(以下便宜上「文字データ」と総称する)として取り出されておらず、紙やマイクロフィルム、あるいはディジタル画像データの状態であるものが多い。古い資料から文字データを取り出すこと(「文字化」と表現する)は資料を保管している機関の業務として予算がついていないのがふつうで、研究のために必要な人が研究費のうちで文字化する。第1部で書いたのは、その文字化したものを、研究プロジェクトが終わったあと、どこで保存し、利用したい人に提供するか、ということだった。

そのときは書かなかったが、文字化はもとの資料のすべての項目でなく限定的にしていることもあるし、文字化の精度は研究プロジェクトごとにまちまちでもとの資料提供者が保証するわけではない。文字データからもとの資料にさかのぼれることがのぞましい。もとの資料がすでにディジタル画像化されており、それを公開することに権利上の問題がないのならば、ちかごろ古文書などの人文情報についておこなわれているように、画像情報をウェブ上に置いたうえで、それを文字化したものと相互にひもづけするのがのぞましい。文字化の進捗を可視化すると、文字化をやってもよいと思う人たちの労力もうまく配分できるだろう。

気象庁のような地球観測機関の、公式の観測原簿のようなものならば、おそらくそのまま一般公開してもさしつかえないと思う。ただしそれにしても、そのまま国会図書館アーカイブにもっていくと、「著作権の確認ができていないので館内限定」から抜け出せないままになるのではないか、公文書館にもっていくと、行政文書一般と同じ扱いになって、「個人情報の確認ができていないので館内限定」になるのではないか、と、わたしはおそれている。公開したい人が(第1部で述べたような条件をみたす)受け皿組織をつくったうえで、気象庁が「受け皿組織の提案する方法で公開してよい」と宣言してくれる、というふうに進むとありがたいと思う。

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ところが、2018-08-10 に、気象庁のかつての富士山測候所職員が書いた、通称「カンテラ日記」という文書が、東京管区気象台にあったのだが、廃棄処分にされてしまった、ということが報道された。(2018年3月に「ゆくえ不明」という形で報道されたのだが、その後、「溶解処分」されたとわかったらしい。) これをめぐって、「けしからん」という意見がとびかった。

ここにはいくつかのむずかしい問題があると思う。

気象庁では観測の公式な原簿(のディジタル画像データ)はきちんと保存している。

「カンテラ日記」は、観測現場の記録ではあるが、職員が自主的に書いたもので、職務上の記録と認識されていなかった。

このような非公式な文書はたくさんある。その多くが、だれも保存しようとも廃棄しようとも考えないまま、なんとなく残っている。建物の建てかえや、組織の変更で、ひっこしが必要になったとき、急に判断をせまられる。行き先の建物の空間は余裕がないことが多い。機関の規定で保存対象になっていないものは、廃棄という判断に傾きやすい。

廃棄されたものは職員がかってに持ち帰ってよいとなる場合もあるが、(気象庁の場合についてわたしは知らないが) 個人情報や企業秘密などが含まれている可能性が否定できないと、だれも読めない形にまで処分しなければいけないと判断されることがある。

地球科学的な事実を知りたい立場からも、観測がおこなわれた場所の状況、異常な事件が起こった日の状況などを知るために、非公式な文書があると助かることはある。

「カンテラ日記」について、わたしは短い報道記事での紹介しか知らないが、これは、富士山測候所という特殊な場所での記録でもあるし、その内容を部分的に含む本が出版されて知られていたりもするので、歴史的価値のある文書だったにちがいない。これが失われたのは残念なことであり、同様な価値のある文書が失われないようなしくみがあることがのぞましいと思う。

しかし、非公式な文書はたくさんある。それを全部保存することは機関の能力をこえるだろう。歴史的に重要な文書を選び出す作業を、だれかが、ひっこしの日程にまにあうように、しなければならないだろう。だれが? という問題になる。(機関のなかに、機関の歴史(会社ならば「社史」)を記録する部署があれば、そこの人が担当するという形をとれるかもしれないが、機関がそういう部署をもつことも、ちかごろはへっているようだ。)

非公式な文書には、公開にさしつかえる内容が含まれることがいろいろありそうだ。網羅的ではないが思いあたることをあげてみる。

  • いまから見ると差別にあたる表現があるかもしれない。
  • 保護すべき個人情報があるかもしれない。
  • 規則違反あるいはハラスメントがあったことを示す記述があるかもしれない。もしその記述が確かだとすれば、過去の人事上の処遇などが正しくなかったことになるかもしれない。しかし非公式な文書の記述のほうが公式記録よりも正しいという保証もない。このような問題は、長期的にはあかるみに出るべきなのだろうが、不用意に部分的な形でひろまると人に迷惑をかけるかもしれない。

非公式の文書を保全して提供する組織は、それぞれの文書に、現代史資料にふさわしい利用条件を設定し、それをまもれる人には提供する、という体制を組む必要があると思う。そういう受け皿組織が手をあげてくれないならば、文書が消えていくのはやむをえないだろう。

日本の夏時間導入に反対する (2)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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いわゆる「夏時間」(国じゅうでいっせいに時刻をずらすこと)について、[2018-07-28「日本の夏時間導入に反対する」]という記事を書いた。

そのあと、8月6日ごろから、いくつかのニュースがあった。わたしは報道をくわしく追いかけていないが、次のように理解している。

  • 2020年東京オリンピック組織委員会の森 喜朗 会長が、安倍総理大臣に対して、2019年と2020年の夏に、人びとの活動を(1時間ではなく) 2時間 早めるような夏時間を採用することを提案した。
  • これが「安倍内閣が夏時間を採用の方向で検討にはいった」というふうに報道されたが、それは、森さんがそう言ったというだけのことだったらしい。菅[すが]官房長官が「政府としては考えていない」と述べた。これは内閣のたちばを代表しての発言なのだろう。
  • 「内閣が動かなくても議員立法でやろうとしている」という報道もあって、「だれが」かなのかはよくわからなかったが、森さんに近い主張をもつ自民党議員が、ということなのだろう。
  • それから安倍さんが「自民党に検討してもらう」と述べた。

安倍さんが、森さんのように積極的で議員立法をやらせようとしているか、菅さんのように否定的で自民党に森さんを説得する材料をつくらせようとしているのか、まだ判断できなくて検討結果を待って判断しようとしているのかについては、報道が錯綜していてよくわからない。(報道記事を書く人それぞれの、夏時間に肯定的か否定的か、また現政権の政策全般に対して肯定的か否定的かを反映しているのだと思う。)

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政府の「地球温暖化対策推進本部」のもとにつくられた「地球環境と夏時間を考える国民会議」が1999年に出した報告書のことが話題になった。その報告書の所在について[2018-08-08の記事]に、それを大まかに読んで考えたことを[2018-08-09の記事] に書いた。

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ネット上にはいろいろな議論があったが、わたしの印象に残ったのは、(それぞれの年の) 夏時間期間のはじまりでのギャップとおわりでの重複をどうあつかうかについて、法律的な決定にも時間がかかるし、情報処理システムは根本的につくりなおす必要があるかもしれないので、1年はもちろん2年でもまにあわない、という話だった。

情報処理システムに関する議論の例として、上原 哲太郎 さんのプレゼンテーションファイル「2020年にあわせたサマータイム実施は不可能である」(2018-08-10)がある。https://www.slideshare.net/tetsutalow/ss-109290879

また、法律関連の問題を情報処理の専門家が論じた例として、安岡孝一さんの記事「日本の法令における「一日」と「二十四時間」」(2018-08-08) がある。https://srad.jp/~yasuoka/journal/623028/

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自民党での検討がどのように進んでいるかわからないが、ともかくそこに意見を言うべきだと思ったので、自民党のウェブサイトの「ご意見・ご質問」のページ https://www.jimin.jp/voice/ のフォームに意見を書いて送った。

専門性を主張できる主題にしぼって書くべきかとも思ったが、しぼりきれず、3つの論点を並列に書いてしまった。「まずい政策」だとは書いたが、それよりも強い不快感の表現はさけた。

夏の朝の涼しさを利用できるのはよいでしょうが、つとめ人の勤務が終わって標準時の午後4時または3時という暑い時間帯に帰りの通勤になります。職場に残れというのならば不当な労働強化になります。保育や要介護者のデイサービスの帰りもこの時間帯になるでしょう。乗りものに冷房がきいているとしても、外気との温度差はストレスになります。現状の時間割りを変えないほうがましです。

世界と協調してする仕事もあります。気象業務もその一例です。世界時の0時基準で12時間、6時間、3時間間隔で観測や予測計算をします。単純に1時間や2時間ずらすわけにいきません。気象庁からテレビの天気予報などに至る仕事の流れを大幅に組みかえる必要があります。平常業務と並行して組みかえの作業で労働は過酷になりおそらく質がさがります。

仮に夏時間が有益だとしても、各年の夏時間開始・終了の日の時間の空白・重複をどう処理するか、法制度に限っても、検討、立案、制定、周知、予行に1年ではすまず2年以上かかるでしょう。オンラインシステムの改修はただでさえ人材不足です。一度の行事のためにやるのも、行事にかこつけて長期継続をもくろむのも、まずい政策です。少なくとも5年以上の展望をもってください。

2018-08-09

「地球環境と夏時間を考える国民会議」報告書(1999年)について (2)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「地球環境と夏時間を考える国民会議」が1999年に出した報告書については、[2018-08-08の記事]で紹介した。まだその全体をよく読んだわけではないが、目をとおした範囲での内容について述べる。

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ここでいう「夏時間」(報告書本文ではおもに「サマータイム」という表現が使われている)は、夏のあいだ国じゅういっせいに時刻をずらすことで、その直接の目的は太陽光を活用して照明を節約することと考えられてきた。ずらす時間として想定されているのは 1時間であり、2018年8月7日に突然出てきた「2時間ずらす」といったことは考えられていない。

【この「会議」ができる少しまえにも「夏時間」の提案についての議論があって、それはおもに、労働者の多くが昼間の定時勤務であることを前提として、勤務時間帯を朝のほうにずらすことによって、勤務時間が終わったあと余暇活動に使える明るい時間をふやしたい、という趣旨だった。余暇活動ができることが労働者やその家族にとってよいことだという立場と、それにともなって消費活動がふえて経済が拡大するのがよいことだという立場があった。】

この「会議」は、気候変動枠組み条約の締約国会議が1997年京都で開かれ「京都議定書」ができたのを背景として、地球温暖化の対策にはさまざまな手段を組み合わせることが必要だという考えに立って、そのひとつの手段として「夏時間」が使えるかを検討するものだった。ただし、ここで地球温暖化の対策というのは二酸化炭素排出削減策のことだった。気候変化への適応策は話題になっていなかった。(排出削減策を推進したい人びとは、適応策を話題にすると排出削減策は必要ないという議論が優勢になるのをおそれて、わざと話題にしなかったようだ。) また、二酸化炭素排出削減策はほぼ化石燃料の消費を減らすことと同じであり、それはほぼ「省エネ」と同じだと考えられた。(電力のすべてが火力発電ではないが、ここでは一次エネルギー源の変更を主題にしない文脈なので、電力を節約すれば一定のわりあいで化石燃料消費を減らせるという考えは妥当だと思う。)

【いまならばむしろ、ただでさえ暑い夏が、(たとえ排出削減ができても)温暖化でもっと暑くなる見通しなので、それへの適応策の文脈のほうが、重要だと思う。】

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報告書の構成は次のようになっている (indexページから写した)。

「地球環境と夏時間を考える国民会議」報告書

  • 1. 「地球環境と夏時間を考える国民会議」設置の背景
    • (1) COP3(京都会議)と我が国の地球温暖化対策
    • (2) 地球温暖化対策推進大綱と「地球環境と夏時間を考える国民会議」の設置
  • 2. サマータイム制度の概要
    • (1) サマータイム制度の概要
    • (2) 世界におけるサマータイム制度の実施状況
    • (3) 我が国において実施されたサマータイム制度
    • (4) サマータイム制度をめぐる国民の意識(世論調査の結果)の推移
  • 3. 国民会議等における検討状況
  • 4. サマータイム制度をめぐる主要論点についての考え方
    • (1) 省エネ・温室効果ガス削減効果について
    • (2) 労働に与える影響について
    • (3) ライフスタイルに与える影響について
    • (4) サマータイム制度導入に伴うコスト負担と対応すべき課題について
    • (5) その他の論点について
  • 5. サマータイム制度導入についての考え方
    • (1) 基本的な考え方
    • (2) サマータイム制度の実施期間
    • (3) サマータイム制度を導入する場合の対応策
    • (4) サマータイム制度を導入する場合の周知・準備期間
    • (5) サマータイム制度の呼称について
  • ・ 結び
  • ・「地球環境と夏時間を考える国民会議」検討経過
  • ・「地球環境と夏時間を考える国民会議」委員名簿
  • 報告書参考資料

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夏時間のおもな効用として、この報告書で考えられたのは、「省エネ」(エネルギー資源の節約)と、それにともなう二酸化炭素排出削減だ。その数値は報告書4節の(1)小節に示されている。試算によれば、おもに職場の勤務時間をずらすことによって省エネ効果はある(これを「直接効果」とする)。しかし、夕方の余暇活動が活発になることでエネルギー消費がふえる(これを「間接効果」とする)。

省エネは、原油換算で、直接効果が87万キロリットル/年、間接効果がマイナス37万キロリットル/年、あわせて50万キロリットル/年となった。

それにともなうCO2排出削減は、炭素として、直接効果が70万トン/年、間接効果がマイナス26万トン/年、あわせて44万トン/年となった。(換算に使った「原単位」は(2.16 t(炭素)/kL(原油) )であり、電力の源によって変わりうることの注意もある。)

この小節の表はHTML tableだったのでアーカイブに残っている。それを見ると、省エネのなかみは、おもに照明の需要が減ることで、家庭、ガソリンスタンド、自動車の照明などが含まれている。冷房の需要は、業務用が減り、家庭用がふえ、合計では減るのだが、照明よりは変化が小さい。【1999年といまの状況をくらべると、照明の内わけが、白熱灯や水銀灯が減り、LEDがふえ、蛍光灯はあいかわらずだろう。おそらくこれで照明への電力需要の総量が減っているので、夏時間にともなう節約効果の大きさも減っただろうと思う。定量的評価してみないとわからないが、間接効果を含めると節約にならない可能性もあると思う。】

ここで示された夏時間の省エネ効果は、日本の一次エネルギー供給量に対して 0.1 % 程度であり、政策としてとりあげるには小さすぎるという意見もあった。しかし報告書の論調は、排出削減策はこまかいものの積み上げが必要だから、やれるものはやるべきだという意見が勝った感じになっている。【わたしは「小さすぎる」という認識のほうがもっともだと思うし、照明についての上記の補足が正しいとすれば、いまはさらに効果の重みが小さくなっていると思う。】

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夏時間の実施にともなって(日本社会全体として)しはらう費用については、4節の(4)小節で、「金銭的コスト負担」とそれ以外に分けて論じている。

「金銭的コスト負担」については次のように述べている。

サマータイム制度導入に伴い直接的に金銭的コスト負担が必要となるものを、全省庁及び主要産業界からのヒアリング結果等に基づき試算を行った。ハードウェア改修費とソフトウェア改修費に大きく整理して集計すると総額で約1000億円(考え方によっては850億円)のコスト負担が見込まれる。

それに続く表が、ウェブページでは画像ファイルだったのでアーカイブに残っていない(表の注は残っているが)。しかし、須藤玲司 (@LazyWorkz) さんの2018年8月7日のツイート https://twitter.com/LazyWorkz/status/1026792588437667840 で、他の資料からの孫びきで示されたのが、それと同じもののようだ。

それによれば、ハードウェア改修費 610 億円、ソフトウェア改修費 420 億円、合計 1030 億円となっている。

ハードウェア改修費のうちわけは、電力メーター 250億円、交通信号機 350億円、農薬散布用機材 10億円となっている。

農薬散布というのが奇妙だが、農業で対応しなければならない問題として大きいのは、朝のうちに市場に出すための農産物の収穫や牛乳の搾乳などだ。それは金額見積もりが困難なので「金銭的コスト負担以外に想定される主要対応課題」の列挙のうちにあげ、付随的に出てきた農薬散布の労働力がたりない件だけ、(表の注の表現によれば)「ラジコンヘリ」(いまならば「ドローン」というところだろう)を導入すると想定して金額を見積もったらしい。

農薬散布を別とすると、ハードウェアとしては、時間帯によって運用を変える自立型の機器のとりかえだけを数に入れている。機器間のネットワークの情報処理について、夏時間のはじめ・おわりの際に調整しなければならないことは、ソフトウェア改修費のところでもちょっとだけ考慮されているようだが、大部分は「金銭的コスト負担以外に想定される主要対応課題」とされている。【これは、1999年当時としても過小評価だと思う。いまとなっては、店舗の在庫管理を本社でやるようなシステムがふえているから、対応が必要なところはけたちがいにふえていると思う。】

報告書の中でも3節「国民会議等における検討状況」の中では、情報ネットワークに関する懸念もいくつか示されている。たとえば「宅配便や貨物運送はコンピューター化されており、導入に伴いシステム変更するコストがかかる。」は「懸念意見」の中にある。しかし「産業界(特に金融機関のソフト変更)におけるコストが心配だ」という声は、「が、コストがかかっても環境を考えるきっかけとなるという点に重点を置くべき」と続いて「推進意見」になってしまっている。【この意見聴取は、夏時間はCO2排出削減策になると期待しているというふれこみは示されているが、効用と費用の数値はまだ出ていない段階のものではないだろうか?】

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労働に関しては、4節の(2)小節で論じられている。労働強化になる懸念は述べているが、そうならない可能性のほうをあとで述べている。

労働強化になる懸念としては「外が明るいと職場から離れにくい」と思う人が多いことがあげられている。

【わたしは、帰りの通勤の時間に野外が暑いことが重大な問題だと思う([2018-07-28の記事]にも書いた)。通勤で歩く人はもちろん、冷房のきいた乗りものを使うとしても野外との温度差が大きいのは人体に対する負荷になる。しかし、】この報告書では、1日の中の時刻による暑さのちがいを考慮した議論は、4節の(5)小節で、夜の蒸し暑さをとりあげ、1時間ずらしても大差ないと言っているだけである。【いま(2018年)は、明るさよりも暑さのほうが重大問題になっているので、1999年には見落とされていたことを考えなくてはいけないと思う。】

また、勤め人の余暇時間の需要にこたえるサービス業労働時間がふえる懸念が述べられているが、論点があまり明確ではない。

【保育や介護の仕事に関する問題も、いまならば忘れないと思うが、1999年当時は気づかれなかったようだ。】

2018-08-08

台風の名まえについて

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「台風」とはなにかについては、[2012-06-15の記事]を見てほしい。

西暦2000年以来、それぞれの台風に、国際的な約束で、名まえがつけられている。これについての公式な説明は、気象庁ウェブサイトの「台風の番号の付け方と命名の方法」のページ https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/typhoon/1-5.html にある。

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この約束を決めた「台風委員会」は、14の「国等」で構成されている。ここで気象庁が「国等」と言っているのは、世界気象機関(WMO)に加盟している国・地域のことで、香港マカオはそれぞれ含まれているが、台湾は含まれていない。また、アメリカ合衆国も対象地域の国としてはいっているのだが、それは、直轄領のグアムがあるとともに、パラオマーシャル諸島などの気象業務を引き受けているからでもある。

名まえをつける対象は、北西太平洋で 英語でいう Tropical Storm (TS) 以上の強さに達したもので(Typhoonも含むがそれだけではない)、日本でいう「台風」と同じとみてよい。

名まえは、あらかじめ14の「国等」が10個ずつ出し合ってつくった表から、順番につけていく。表はくりかえし使うのだが、大きな被害を出した台風の名まえは再利用せずにほかの名まえに入れかえることがある。

名まえにどんなことばを選ぶかは、それぞれの「国等」にまかされている。日本が提出したものは、いずれも「星座の名まえ」とされていて、それ以上の説明はない。2018年台風14号は「ヤギ (Yagi)」となる予定だが、その名まえの根拠は「やぎ座」であって、動物のヤギとの関連は示されていない。

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2018年の台風13号は、ローマ字では Shanshan、カタカナでは「サンサン」とされている。これは香港が出してきた名まえで、漢字では「珊珊」なのだそうだ。「珊」の字は、漢語ピンイン(北京音にもとづく)では shān だが、広東音では「サーン」のような音(zh.wiktionary.orgによれば「粵拼:saan1」) なので、そのように読んでほしいという注釈があったらしい。(ただし、わたしは注釈の存在をたしかめていない。) なお、このほかの香港から出てきた名まえのローマ字書きは、必ずしも漢語ピンインではないようだ。

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日本では、台風は、年ごとに通し番号で「1号、2号...」のように呼ぶ習慣がずっと続いている。そして、国際的にも、TS以上には通し番号がつけられている。台風委員会のつける番号と各国の気象庁などのつける番号がずれてややこしいことになることもあったのだが、そういう事態は減ってきた。

他方、アメリカ合衆国では、(いつごろからか調べていないのだが少なくとも第2次大戦前後には) 強い熱帯低気圧に女の人の名まえ(first name)をつける習慣があった。第2次大戦後、連合国が日本を占領していた時代には、日本でもアメリカ軍が決めた名まえが使われ、大きな災害をもたらした台風はその名まえで記憶されていることがある。(ただし、アメリカ合衆国が国の制度として女の人の名まえをつけるようになったのは、NOAAのサイトの次のページによれば、1953年からだそうだ。https://www.nhc.noaa.gov/aboutnames_history.shtml )

しかし、1970年代までに、熱帯低気圧を女性あつかいするのは変だという議論が強くなり、アメリカ合衆国のNOAAでは、1978年(海域によっては1979年)から、男女の名まえを交互に使うことに変えた。

北西太平洋の台風については、関係国のあいだの意見の調整に時間がかかったようだ。各国による名まえは、人名、地名、神話・伝説上の存在、動物など、さまざまだ。

そのうちで日本の気象庁の選択は、星座の名まえの一覧表から、ギリシャ神話などの固有名詞に由来するものは はずしているが、生物だろうが無生物だろうが無頓着、日本古来のことばだろうが近代に加わったものだろうが無頓着、明るい星があってみんなが知っている星座だろうが明るい星がなくて近代の天文学者が便宜上つくった星座だろうが無頓着に、抜き出したもののようだ。やる気がないがしぶしぶ、しかし失礼のないように対応したのでこうなった、と感じられる。日本の地名を使えばそこに被害をもたらした台風とまぎらわしいし、日本の神話・伝説上の存在や歴史上の人物の選択は政治思想がらみの賛否の論争になりうるので避けたいだろう。引き続き番号だけにしておきたいところだが、それが許されない状況なので、番号と同じ程度の連想しかひきおこさない名まえを出したのだと思う。(ただし、気象庁の担当者の考えをたしかめたわけではなく、これはわたしの想像にすぎない。)

この記事を「気象むらの方言」のカテゴリーに含めることにしたが、実際は、日本語圏に関する限り、台風を番号でなく名まえで呼ぶのは、気象専門家集団ではなく、その外の人がおもだと思う。

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台風に国際名と並列に国内名をつけている国もある。フィリピンがそうだ。フィリピンに大きな被害をもたらした2013年台風30号は、国際名は Haiyan (中国が出したもので「海燕」)、フィリピン名はYolandaだった。

「地球環境と夏時間を考える国民会議」報告書(1999年)について

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「夏時間(サマータイム)」つまり夏のあいだ国じゅうの時刻をずらすという政策に関する議論がおきている。

これに関連して、「地球環境と夏時間を考える国民会議」が1999年に出した報告書が話題になった。それを話題にした人は、他の出版物への引用で知ったので、もとの報告書にたどりつくことができないとのことだった。

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文字列で検索してみると、その「会議」が使っていたインターネットのドメイン名は kokuminkaigi.gr.jp であることがわかった。

Internet Archive web.archive.org の中を検索してみると、「会議」のホームページ www.kokuminkaigi.gr.jp のコピーが、1999年から2002年まで複数回とられていることがわかった。一例はつぎのものだ。http://web.archive.org/web/20020929154714/http://www.kokuminkaigi.gr.jp/

そのホームページ(1999年5月14日更新とある)によれば、この会議は、1998年6月に地球温暖化対策推進本部が決定した「地球温暖化対策推進大綱」にもとづいて、政府が設置したものだ。

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そして、報告書は、このページ(仮にindexページと呼ぶ)にある。http://web.archive.org/web/20021004093744/http://www.kokuminkaigi.gr.jp:80/genan/index.html

ただし、このページや、リンク先の(全部ではないが)いくつかを見たかぎりでは、ここにあるものが、1999年に発表された報告書と同じものであるか、確認できていない。URL文字列中の「genan」は(文脈からみてゲナンではなさそうで)「原案」だと思われるが、最終版になっても URL のほうを変えなかったのだろうか?

報告書の本文は、章ごとにわかれて、indexページからリンクされたウェブページにある。本文がHTMLファイルで、その中にはさまれた図表が別の画像ファイルの形になっており、残念なことに、Internet Archiveにあるコピーでは、そのような形の画像が残っていない。たまたまHTMLの表(table)の機能を使って記録されていた表だけが救われた。

こうなってしまったのは残念なことだが、アーカイブサイトがウェブ内容を収集するしくみは機械的なものだし、応答待ち時間にもかぎりがあるので、やむをえないだろう。1999年当時、報告書をPDF形式にしなかったのは当然だろう。(そのころPDFは特定の会社のファイル形式にすぎず、フリーのブラウザは作られはじめていたが機能が不完全だった、と記憶している。)

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また、kokuminkaigi.gr.jp というドメイン名は、2010年から2015年までは、上に述べたものとはまったく無関係の内容 (おそらく実態は営利企業の宣伝) に使われていた。Internet Archiveの検索では最新のものが優先されるので最初にこれが見えておどろいた。

近ごろ、インターネットと政治・行政とのかかわりに関する有識者(ここではわたしがこの用語にふさわしいと思う人という意味)の多くが、日本の政府機関が発信する情報は go.jp で終わるドメイン名のサイトに置くべきだと主張している。

現実には、国の事業で、ドメイン名として、その事業のキーワードを含むけれども役所の名ではないものをつけることが多い。そのような事業が終わると、ウェブサイトの維持についての予算も役所の関心もなくなって、ドメイン名の契約が切れ、サイトは消滅する。国の事業でつくられた情報に国民[注]がアクセスできなくなるのもまずいことだが、そのうえ、ドメイン名を他の人が利用することが可能になるので、(過去の)政府事業の信用を他の人が悪用するおそれや、(過去の)政府事業の内容についての誤解をまねくおそれがある。

  • [注] これは本来は国籍とは関係ない人権の問題なので「人民」と書くべきだったかもしれない。ここでは日本国の主権者を持ち出したほうがよいという判断で「国民」と書いた。

kokuminkaigi.gr.jp があったのは、そういう議論がさかんになるまえだ。また、政府がつくったものではあるが、その主張は政府の主張ではないというすじのものだったから、会議のウェブサイトを政府機関のウェブサイトに置くことを避けたかったのかもしれない。

しかし、政府の側にも報告を受けたという事実はあるのだから、すくなくとも報告書は、政府としてウェブサイトに置くべきだと思う。親組織である地球温暖化対策推進本部は今もあるのだから、そのサイトhttps://www.kantei.go.jp/jp/singi/ondanka/ か、そこからリンクされたところに置くのが適切だと思う。もし政府がその気になってくれないのならば、公共的情報として他の人びとが公開することも許されるべきだと思う。

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「政府として報告を受けた」という趣旨の記事(1999年5月13日づけ)は、環境省のサイトには残っている。http://www.env.go.jp/press/2231.html (この件は Tomoaki Masuda (@moonmile)さんのtweetのおかげで知った。) その記事ページから「会議」のサイトがリンクされていたようだが、いまはリンクがなくなっている。

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報告書の内容を読んでわたしが思ったことは、別の記事にしようと思う (ただしいつになるか未定)。