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macroscope

2010-01-15

「景気対策」反対。ただし、「ワーク・シェアリング」を意味するのならば賛成

これはわたしが2002年4月22日にウェブ上(別のところ)に書いた意見だが、今も基本的に変わっていない。部分的修正をしてここに出す。

【わたしは、自然科学を勉強してきた者である。政治学経済学の系統的勉強は、高校卒業以来していない。最近、経済学書に属する本をときどき読んでいるが、それは経済学書の中では変わりものと思われているものらしい。経済学で主流とされている議論にはわたしはついていけない。自然科学屋が「基礎」だと思っていることが抜けているような気がするからだ。自然科学屋の専門外の直観による政治・経済の議論に意義があるか、自分でもわからないが、ともかく黙っていては始まらないから意見を書いてみることにした。】

持続可能(sustainable)であること

持続可能(sustainable)」という用語は、環境問題との関係でよく使われる用語であり、わたしもその文脈で知った。

この概念は、特に環境問題に限ることはなく、政策の目標のひとつとして重要なものだと思う。持続可能なシステムとは、物質やエネルギーの出入りがあるにもかかわらず、ほぼ一定の状態(したがって、時間あたり出入りする物質やエネルギーの量もほぼ一定)を長期間続けていけるシステムということができるだろう。「長期間」がどのくらいの時間の長さをさすかは文脈によるが、政策の議論の場合は、人間個人の寿命と同程度と想定すればよいと思う。ここでいう「ほぼ一定の」状態とは、全く変化しない状態という意味ではない。変化の幅をきびしく制限するとすれば、前の世代の人とまったく同じ生活様式・生産様式を強制されるような社会も考えられるが、少なくともわたしはそのような自由のない世界はごめんである。社会を定量的変数だけで言いつくすことはできないが、何か定量的変数に注目して見ることはできる。持続可能なシステムを代表する変数は、ほぼ一定の値のまわりを、ある幅でゆらいでいるはずである。場合によっては、ゆらぎがきっかけとなって、前とは別の平均値のまわりにゆらぐ状態に移行するかもしれない。一方、いったん起こったゆらぎが、指数関数的に増幅するとシステムは不安定となる。システムを持続可能に保つためには、ゆらぎが増幅を始めた場合、その増幅をある有限の規模までで食い止めるしくみが必要だろう。

財政赤字縮小か「景気対策」か

日本の国の政策について毎年のように問題になる争点として、国の借金を減らすことと、「景気」をよくすることのどちらを優先するか、ということがある。わたしから見ると、しいてどちらかというのならば、選択は明らかである。国というシステムを「持続可能」に保つことは、国民の安全保障(この語本来の意味)にとって最優先課題だろう。したがって、財政赤字を拡大しないことは、短期的非常事態を別にすれば、常に政府の政策の前提とすべき条件だと思う。一方、「景気」という概念はあいまいであり、それに基づく政策を立てるのは愚かである。しかし、これは、このあまりうまくない選択肢のたてかたを前提とした答えである。このあとで概念の整理を試みるが、もし「景気がよい」を「失業率が低い」という意味で使い、それに正面から取り組む政策をたてるのならば、それを(ある限度の範囲で)財政赤字問題よりも優先させるのもよいと思う。

わたしは、国の財政がときどき赤字であってもかまわないと思うし、国民(企業)の活動を誘導するために融資を行なうことも国の機能であるから、経済規模に見合った適切な規模ならば、累積赤字があってもかまわないと思う。国の経済規模が成長を続けることが確実だった間は、それに見合った率で累積赤字が拡大してもかまわなかった。しかし、いまや、経済規模が拡大する保証はなく、場合によってはいくらか縮小することも覚悟しなければならない。この状況では、累積赤字の規模を、ほぼ定常に維持するかまたは縮小させることが必要である。

財政赤字を縮小するためには、常識的には、増税か、財政支出を減らすしかない。平和な民主主義国で増税を支持する世論を作るのはむずかしいので[注: これは平和な民主主義国一般についてでなく現代の日本の状況についての印象である]、これまで政府が行なってきたサービスの一部を廃止する、あるいは縮小する以外にないのではないかと思う。何を廃止・縮小するのならばがまんできるか(あるいは、むしろ廃止・縮小したほうがよくなるのか)をまじめに考え、決めていかなければならない。一律に一定比率で減額などという愚かな政策をとってほしくはない。(しかし、単に財政規模だけに制約をつけたのでは、現在の利害関係者からの圧力のつりあいの結果、この愚かな策に落ち着くことはほぼまちがいない。)

【ちなみに、わたしの主の収入源は(中間に介在する組織はあるが)国の支出によっている。わたしは、この支出がむだだとはけっして思っていないが、廃止しても国民としてがまんできる公共サービスへの支出には含まれるだろう。国(行政)の支出縮小によって今の職がなくなる場合は、わたしは国民(個人)に知識を提供して代価を得るしか生活の道はなさそうである。それだけの価値のある知識を用意するように心がけたいと思っている。】

借金しても財政支出を多くすることによって(あるいは、税率を引き下げて国民のお金を消費や投資に向けさせることによって)国(国民全体)の経済活動の規模を大きくすれば、結果として国(行政機構)の収入がふえるので、いわゆる「景気対策」こそが財政赤字縮小の道であるという説もある。確かにときにはそういう因果連鎖も起こりうるが、それを政策の基礎とするのは、「(日本で)毎日歩いて通勤するのに傘はいらない」というのと同じくらい楽観的すぎるのではないだろうか。

【もっと精密に考えて、「この産業セクター(あるいは財産を保有する市民)にこれだけテコ入れすればこれだけ税収がふえる、しかも、外国の政策や自然災害・事故などの不確定要因も考慮して、最悪の場合でも赤字がひどく拡大することはない」、という具体的見積もりが示されるのであれば、それを評価したうえで、支持することもありうる。】

「景気」とはGNP成長率か?

「景気」の指標として、国民総生産(GNP)または国民所得の時間変化率がよく使われる。その場合、値がマイナスだけでなくゼロの場合も「不景気」(望ましくないこと)とされ、ある一定の正の値(たとえば年2%)のとき「景気がよい」とされるのがふつうである。これが正の一定値であることを望むということは、GNPが指数関数的に成長することを望むことになる。もちろん、金銭の単位ではかった名目的なGNPが指数関数的に増加するのはかまわない。しかし、経済活動に伴う物質やエネルギーの流れが指数関数的に増加することには限界がある。それを目標にすることは、持続不可能な政策、社会を破綻に向かって暴走させる政策である。

経済統計に出てくる「実質GNP」は名目GNPを物価指数(のようなもの)で割ったものである。これが指数関数的に増加しつづけながら、物質やエネルギーの流れの大きさはほぼ一定あるいはむしろ減少するようにできるのだろうか。原理的に不可能でははないと思うが、困難だと思う。

それに、実質GNPが客観的指標として使えるかに関する疑問もある。物価指数の計算に使われる消費財の選択やその重みづけには、国民経済を平均的に代表する、あるいはその不可欠な部分を代表するというねらいがあるにちがいない。しかし、その選択には担当者の主観もはいるし、経済のなかでのそれぞれの財の重みは時代とともに変わる。「実質GNP」の変化は、去年と今年を比べるには使えるかもしれないが(したがって、1年という時間スケールでの「景気」の指標にはなるのかもしれないが)、長期の経済政策の根拠にするにはあやふやすぎはしないだろうか。

仮に労働価値説に立つとすれば、実質GNPは生産に投入された労働の量ではかるべきだろう(労働時間だけでよいのか、「きつさ」も考慮するかという問題は残るが)。そうすると、この意味でのひとりあたり実質GNPの増加は、すなわち労働強化ということになる。それは、もともと暇をもてあましている状態でない限り、国民が望む政策ではないだろう。もちろん指数関数的成長がどこまでも可能なものではない。

上の議論をおかしく感じたとすれば、それはたぶん、同じ量の労働でもそれを「かしこく」使うことによって、実質価値がより大きい生産をすることができると思っているからだろう。この「かしこさ」の定量的評価は、まったく同じ製品をより少ない労働で作れるようになった場合以外は、むずかしい。したがって主観的印象になるが、「かしこさ」は、たまに急激に上昇し(いわゆる技術革新)、それ以外のときはほぼ一定値のまわりをゆらいでいるものではないだろうか。また、使っている技術が前提としていた外部条件がなくなった場合には、急激に下がるだろう。この「かしこさ」の成長率は一定値に誘導できるものではなさそうだが(発明は予定どおりにできるものではないから)、それをなるべく正にすることを努力目標にしてもよいだろう。ただし、持続可能性の配慮は常に必要だと思う。

生産には労働のほかに原料資源やエネルギー資源も投入される。資源の消費量は、必ずしも実質GNPに比例して増加するわけではない。したがって、投入可能な資源の量に上限があるという事実から、実質GNPの指数関数的成長は不可能だということは、論理的必然としては出てこない。しかし、同じ技術を使い続けるならば、たぶん、資源消費はほぼGNPに比例して増加するだろう。また、労働を「かしこく」使う方法として、化石燃料(や電力)を使う技術が開発されてきたが、それに伴う資源消費の増加率は労働生産性(労働あたりの生産量)の増加率より高いことが多かった。資源節約を進めながらGNPを増加させることも、不可能ではないだろうと思う。しかし、そのためには、資源節約を、GNP成長より上の優先順位の政策目標としていくことが必要だろう。

「景気」とは失業率の低さか?

景気の議論で登場する変数のひとつが、失業率である。失業率とは、職につきたい意志を示している人のうちで、職についていない人の割合である。これが高いと、失業者自身はもちろん、社会の多くの人が先行き不安を感じるので、「景気が悪い」という表現がふさわしい状態になる。

【ただし、マスコミの議論を聞いていると、「景気」の本質は失業率ではなく経済活動であり、経済活動が活発になると企業が雇う労働者をふやし、不活発になると解雇する傾向があるため、失業率が指標になるという位置づけをする人が多いようである。】

前の節の議論からおわかりかと思うが、わたしは経済活動を活発化させることを政策目標にすることに必ずしも賛成しない。特に、経済活動の活発化が資源消費増加を伴うとすれば、そういう政策には反対する。

一方、失業率を低くすること自体を政策目標にするのならば、わたしは賛成する。それは、財政赤字縮小よりも優先してもよい目標だと思う(財政赤字が指数関数的に増加するのでは困るが)。

失業には、大きく分けて2つの問題がある。第一は金銭的問題である。現代社会では(少なくともいわゆる先進国では)、ほとんどの人は生活するために金銭を支出する必要があるし、そのうち大部分の人は一生の支出にあたる貯蓄をもっていない。収入の道がなければ、貯蓄を減らすか、借金するか、他人の好意にすがるかしかないので、幸いすぐ生命の危機には至らないとしても、非常に不安になる。福祉の制度が整っていない社会では、不安をもつ人々が暴徒となる可能性が高く、一方、福祉の制度がある場合は、その給付を受ける人の比率があまり高くなると、その制度を支えることが困難になる。

失業の問題の第二はいわば「生きがい」の問題である。人間個人は、それぞれに、社会の中で役割を果たしていることを実感できることを望むものだと言えよう。どういう社会の中に自分を位置づけるかは、家族から世界人類まで、さまざまである。

【なお、この「役割」は職業に限らない。ボランティア活動や、芸術・スポーツ(アマチュア)に向かう人もいる。もしその人が収入を必要としないなら、失業者ではない(失業率を計算するときの分母からもはずれる)。一方、収入のための労働と生きがいのための余暇活動を両方している人も、もちろん失業者ではないが、両立に困難を感じているかもしれない。】

失業の問題の根本的対策を考えるにあたって、まず判断すべきことは、失業が生じている事実を、労働の供給が多すぎると解釈すべきか、需要が少なすぎると解釈すべきかである。「需要がなければ作れ」というふうに政策を進めるのが20世紀流だが、それは持続可能性を無視している。もし、今の社会を持続させられるだけの労働の供給は足りているのならば、収入も働きがいもない失業者を作らないようにするには、職についている人の労働時間を減らして再分配すること --いわゆるワーク・シェアリング(work sharing)-- が自然な解決策である。経済規模が変わるわけではないから、職についている人のひとりあたりの収入が減ることは必然だろう。この意味で国民は「痛みを分かち合う」必要があると思う。今の制度のもとでは、総労働時間が同じでも、のべ人数が多くなると、社会保障の負担など、雇用主の払うコストは多くなってしまう。これを逆転させるように、税制などの政策的手段を使って、雇用主にとってワーク・シェアリングを進めたほうが得という状況を作り出す必要がある。市場経済的合理性から見ると、そのような政策的手段は不合理かもしれない。しかし、国民の先行き不安を小さくすることも政治にとっては重要な目標なので、それも含めて評価すればじゅうぶん合理的だと思う。

だが、「労働の供給は足りている」という判断が正しいかも持続可能性の観点からよく考えてみる必要がある。今の日本の経済は、アメリカ合衆国ほどではないにせよ、持続可能でない石油を大量に消費することによって成り立っている。また、原子力発電所の放射性廃物の将来の管理コストも払っていない。持続可能にしていくためには、生産されるもの(製品と廃物を含む)を、生物界の循環にのせて無害なものか、人間の手で確実に回収されるものか、のいずれかにしていく必要があるだろう。いずれにしても、リサイクルには手間がかかる。その労働コストが、新しい原料のコストより高い間は、リサイクルがなかなか進まない。原料が不足する時代がくれば、もっと労働力が必要になるはずだ。新しい原料もエネルギー資源も浪費しない社会に移行していくべきことは明らかだと思うが、そのための過程では、積極的に(たとえ持続可能でなくても)原料やエネルギー資源を投入すべきか、積極的に労働を投入すべきか、その両方か、そのあたりこそ、いま政策論争すべきところだと思う。

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