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2015-10-18

気候変動リスク情報創生プログラムのシンポジウム(2015-10-13)

2015年10月13日、「気候変動リスク情報創生プログラム」http://www.jamstec.go.jp/sousei/ [注]の公開シンポジウム「気候変動のリスクを知る -- リスク情報の使われ方」http://www.jamstec.go.jp/sousei/jp/event/sympo/2015/index.html があった。わたしはこの研究プログラムの関係者なのだが、シンポジウムの企画には直接関与しておらず、聴衆のひとりとして出席した。ここに書くのは、講演を聞いたわたしの覚え書きであり、研究プログラムの公式のものでも、講演者の文章でもない。紹介した研究例についてのオンライン情報に気づいたら、リンクを追加することにしたい。【[2015-11-09補足] シンポジウム終了後、上記のシンポジウムのウェブサイトの「プログラム」のところに、各講演者のプレゼンテーションファイルがPDFの形で置かれた。】

  • [注] 研究プログラム名ではほぼいつものことだが、業務受託者が決まる前に委託側の役所(この場合は文部科学省)の人がつけたので、研究者から見るとどうも納得がいかない名まえだ。「創生」と略されることが多く、ウェブサイトのアドレスもそうなっているが、これは日常語でないので聞いて文字がうかびにくく、しかしいまどきの行政事業ではあちこちで使われていて固有名詞らしくもない。わたしは少しだけ詳しく「リスク創生」と言いたくなってしまうのだが、もちろんわれわれはリスクを作りたいわけではないので、「情報」も入れないとまずい。専門外の人には「気候」の話であることも言わなければならない。略しにくい名まえだ。

この研究プログラムは、いわゆる「地球温暖化」の対策に役立つような科学的知見を得ようとするものだ。従来「温暖化予測」と呼ばれてきた仕事の続きにあたる。しかし、実際には、将来の気候を予測しようとしても、不確かさはなくせない。人間社会は、リスク、つまり、困ったこと[注]が生じる可能性があること、に、そなえなければならない。そなえるためには、リスクに関する情報、つまり、どんな困ったことがどのくらいの確率で起こりそうかを知ることが、役にたつはずだ。その情報を、時間的・空間的になるべく詳しくし、また不確かさがなるべく小さいものにするために、科学的研究をしているのだ。

  • [注] この「困ったこと」とはだれにとってなのか、という問題もある。シンポジウムのはじめの住 明正 プログラムディレクター (国立環境研究所理事長) の話によれば、この研究プログラムでは、「人間社会にとって」ととらえることにしている。生態系の被害も問題にはするのだが、その価値判断は、生態系の立場になってするのではなくて、人間社会がそれを損失と認識する、という立場からすることになる。

この日は、4つの講演と、質疑・討論があった。

森 正人 (東大大気海洋研究所): 地球温暖化は異常気象のリスクを変えているのか -- 温暖化の寄与を推定する

大雨、渇水猛暑などが「異常気象」あるいは「極端現象」[注]と呼ばれるのは、まれに起こるからであって、気候のしくみがこわれているわけではない。ただし、気候が変化すると、それぞれの種類の異常気象の発生確率が変わるだろう。

  • [注] 講演では「異常気象」については気象庁が最近使っている「ある地点で30年に1回しか起きないようなまれな現象または状態」という定義を紹介し、「極端現象」とはいちおう区別していた。しかしわたしは、大まかに同じ意味、としておいたほうがよいと思う。

異常気象が生じると、「これは温暖化のせいなのか?」と問われる。個別の事件について、この問いに決定的に答えることはできない。しかし、「このような異常気象が起こる確率が温暖化[注]によってどれだけ高まっているか」という問いには答えられる可能性が出てきた。

  • [注] このような問いに答えるには、問いのうちの「温暖化」の意味を、温室効果の強化なのか、平均温度の上昇なのかも明確にしておく必要がある。

このような問いに答える研究を、event attributionと呼んでいる[注]。Event attributionは観測データの解析だけでできるものではなく、結果を観測値と定量的に比較できるような予測型シミュレーションが可能な数値モデルが必要である。

  • [注] 日本語による解説としては日本気象学会(2014)の本のコラム7(塩竃秀夫氏による)がある。

例として、2013年7-8月の西日本の猛暑(四万十市江川崎で日最高気温の日本最高値が更新された)をとりあげる。

数値モデルによる計算は、大気だけのモデルで、海面水温は外から与える形にした。海面水温以外にモデル外から与える条件として、「人為強制」(温室効果気体濃度、人為起源エーロゾル)と、「自然強制」(火山起源エーロゾル、太陽活動)がある。

まず、2013年に観測された海面水温、人為強制、自然強制を与えた「再現実験」をする。同じ外部条件のもとで、初期条件を少しずつ(観測誤差と同程度)変えて100回の実験をしたところ、実際以上の猛暑になる確率は12.4%だった。

他方、人為強制なしで、海面水温からも温暖化の寄与を取り除いた外部条件で「非温暖化実験」をする。温暖化していない世界をどう定義するかを2とおり考えて実験したところ、2013年の実際以上の猛暑になる確率は、それぞれ0.4%と1.7%だった。

したがって、人間活動起源の気候変化が、この大きさの猛暑の出現確率を、10%くらい増加させていたと考えられる。

別の例として、中央アジアの寒い冬の確率が高まっていることへの温暖化の寄与のevent attributionも紹介された。【[2015-10-30補足] この件は、大気海洋研究所ウェブサイトに、紹介記事と研究論文へのリンクがある。http://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/news/2014/20141027.html】この現象のしくみは、北極海のうちのバレンツ海・カラ海の海氷が減って偏西風の蛇行が強まったことと考えられており、温暖化がさらに進むと、たとえ偏西風の蛇行が強くても、寒い冬の頻度は減ると予想される。

塩竈 秀夫 (国立環境研究所): このままだと全世界平均気温は何度上がるのか? 気候感度の話

Event attributionにもかかわっている塩竈さんだが、この日の話題は、おもに将来(21世紀末ごろまでを想定)の温暖化の予測の不確かさにかかわるものだった。

将来の温暖化の見通しの不確かさの半分くらいは、温室効果気体排出がどうなるかという人間社会に関する不確かさだが、半分くらいは、気候モデルによる現実の気候システムのふるまいの再現の不確かさだと考えられている。後者を代表する数量として「気候感度」と呼ばれるものを使った議論がよくされる。

そこでの「気候感度」ということばは、二酸化炭素倍増に対する定常応答 (二酸化炭素濃度がある値の場合とその2倍の値の場合の定常状態どうしの温度の差)をさしている([2015-07-15の記事]参照)。この数値の範囲として、2007年のIPCC第4次評価報告書(AR4)では2〜4.5℃、2013年の同第5次報告書(AR5)では1.5〜4.5℃という幅が示されている。

実はAR5でも、複雑な気候モデル(大気海洋結合大循環モデル)によるシミュレーションに基づけば、2〜4.5℃とするのが適当だったのだが、他の推定方法もあわせて考えたので数値範囲が広がったのだ。とくに低い値を出したのは、エネルギー収支法と呼ばれる方法だった。これはできるだけ数値モデルによらず観測に基づくという考えによるものだが、非常に簡単な気候モデル(エネルギー収支モデル)を使ってはいる。塩竈さんたちは、エネルギー収支法が気候感度を正しく評価できるかを、「疑似観測法」で検証した。つまり、ある複雑な気候モデルによるシミュレーション結果を真の気候の代わりにし、その世界の中で観測データを抽出して、エネルギー収支法の計算を行ない、その結果をもとの気候モデルの気候感度と比較した。すると、エネルギー収支法は、温暖化シグナルが小さいときは、気候感度を過小評価することがわかった。さらに、エネルギー収支法で使われた観測のある時期の、人為起源のエーロゾル、太陽活動、火山活動について評価しなおすと、エネルギー収支法でも、気候感度は2℃をこえる。したがって、AR5の材料を総合した気候感度の範囲はやはり2〜4.5℃が適当だろうと塩竈さんは見積もっている。

気候モデル間の感度の違いの原因を検討するために、塩竈さんたちは、モデルの部品となった物理過程のパラメタリゼーションをさしかえ、あるいはそのパラメータ値を変えて、多数の設定で実験を行なっている。設定によっては、結果として気候感度が4.5℃よりも大きくなる場合もあるのだが、観測可能な別の量が観測値の範囲からはずれるので、その設定はうまくない、といった評価ができる。しかし残念ながら今までのところでは現実的とみられる気候感度の幅は縮まっていない。

観測が蓄積されれば、モデルが過去の気候変動をよく再現しているかを評価することによって、よいモデルを選び、現実的とみられる気候感度の幅を縮められる可能性がある。今後どれだけ観測が蓄積されたら気候感度推定の幅やバイアスがどれだけ減るかの見通しを得るため、ここでも疑似観測法による(あるモデルのシミュレーション結果を真の値の代わりに使う)数値実験をした。その結果、2050年までには、2090年代の予測の不確実性(のうちこの理由によるもの)を70%程度減らせる、という見通しを得たということだ。

高藪 出 (気象研究所): ダウンスケーリング情報をユーザーへどう伝えるか?

気候リスクは、自然現象としての気候ハザードと、生態系や人間社会の側の暴露(exposure)・脆弱性(vulnerability)が組み合わさって起こる。創生プログラムのうちの「テーマC」では、温暖化対策策定の需要に対応できる気候ハザードの情報の出しかたを研究している。そこでまず問題になるのは、温暖化予測型シミュレーションに使われるモデルの空間解像度が、生態系や人間社会の立場ではあらすぎることだ。そこで、空間的に細かい気候情報を推定する仕事が必要となる。この仕事はdownscalingと呼ばれている。高藪さんの報告では、「テーマC」でおこなわれている複数のdownscaling研究について、どういう需要に応じてどういう数量を計算したのかを中心に述べていた。

4つの研究例が紹介されたが、そのうち3つは、地域の気候がどう変わるかを、全球モデルよりは細かい領域モデルで計算したものだ。

例1 (農業への影響の例) 稲のいもち病。いもち病の発症リスクを高める気象条件は、弱い雨が継続し、晴れの日が少ないことであることが、従来の研究で知られている。将来の日本付近の夏(6-8月)について、3つの全球気候モデルからdownscalingをおこなった。その結果を要約すると、平均降水量は増加するが、降水頻度は減少し、一回の降水量は増加する。これをもとにした農業研究者の評価によれば、葉の表面のしめりけは減少し、いもち病の発症リスクは減少する。ただし、米の収量がどうなるかには、病害のほかに、高温障害なども考慮が必要である。

例2 (健康への影響の例) デング熱を媒介するヒトスジシマカの生息可能範囲。これは1998年から2012年までに東北地方で北に広がった。そのデータに基づく研究で「年平均気温11℃以上」が指標となることが知られている。将来の複数の気候シナリオについて、全球気候モデルからのdownscalingを行ない、5km格子の各地点で年平均気温が11℃をこえる確率を評価した。温暖化が激しく進む「RCP8.5」シナリオの場合には、生息域が21世紀末には北海道にも及ぶことになる。

例3 (生態系への影響の例) 竹の生育可能範囲。竹のうちマダケモウソウチクは、日本では人為的に移入されたものだが、生育可能な環境で管理放棄されると、近隣の生態系をおびやかす。創生プログラムのテーマDで、竹林生存確率が、地上気温・日射などの気候要素の関数として表現された。将来の気候シナリオについて、downscalingによって得られた気候要素を使って、竹林の生存確率を評価した。

4つめの例はdownscalingの応用としては特殊なもので、台風による高潮災害のhazardの評価に関するものだった。しかも、これまでにできているのは、2013年台風30号(国際名Haiyan)がフィリピンのTaclobanを含むSan Pedro湾にもたらした高潮の事例について、これまでに起こった温暖化によってhazardがどれだけ強まったかの評価という、event attributionそのものではないがそれと似た種類の研究だった。【[2015-10-30補足] この件は、気象研究所ウェブサイトに、紹介記事と研究論文へのリンクがある。http://www.mri-jma.go.jp/Topics/H27/270616/270616_Haiyan.html

大気モデルは、三重の入れ子で、いちばん細かい部分では1km格子とし積乱雲を直接表現する。これにHaiyanのときの広域大気場や海面水温を与えると、台風がかなり現実的に再現できた。そこで、この現在の条件と、非温暖化条件とで、それぞれ初期条件を少しずつ変えて16回のシミュレーションをした。その結果を比べることによって、これまでに起きた温暖化によって、台風の風速や中心気圧がどれだけ強くなったかを見積もった。さらに(テーマDの研究として)、湾の海水の運動のモデルに、大気モデルで計算された毎時の風速と気圧のデータを与えて、気圧、吹き寄せ、静振の効果をあわせた高潮の水位が、どれだけ高くなったかを見積もった。【高潮についてのわたしの一般的認識は[2013-11-12の記事「高潮と津波、そして気象津波なるもの」]参照。「静振」はそこで述べた「副振動」と同じである。】

これからの研究で、将来起こりそうな温暖化によってhazardがどれだけ強まるかの評価に向かうのだろう。

芳村 圭 (東京大学 大気海洋研究所): 広域陸面モデルの最前線 -- 気候変動下の渇水リスクの求め方

気候モデルに組みこまれる陸面モデルは、これまで、大気や海洋との水と熱のやりとりにかかわる機能に特化したものが多かった。気候変化の人間社会への影響を詳しく評価するためには、もっと多くの機能を扱う必要がある。

ここでは、人間が水を利用するために水循環を操作することを考慮に入れたモデルHiGW-MATによる研究を紹介する。農業のための灌漑、そのための河川あるいは地下水からの取水、ダム操作などが表現されている。

人間の水操作は、ローカルだけでなく、全地球規模の水循環にも影響をおよぼしている。世界平均の海面変化に、海水の熱膨張と陸上の氷の融解によって説明できない残差があったが、地下水くみあげ(結果として地下水から海に水の質量が移る)と、ダムによる貯水(結果として海からダム湖に水の質量が移る)を計算に入れると、残差がだいぶ小さくなった。

今回紹介する研究では、将来の温暖化した気候のもとでの渇水が、人間による水操作によってどう変わるかを、気候モデルの結果を使って水操作を含む陸面のモデルを動かす方法で調べた。(水操作を含む陸面モデルを気候モデルに組みこんだわけではないので、水操作から気候へのフィードバックは表現されていない)。ここで「渇水」は、河川の流量が連続して(それぞれの場所について決められた)しきい値を下回ることで定義されるとする。水操作の流量に対する直接の効果は次のようになる。河川からの灌漑は、河川流量を減らす。地下水からの灌漑は、河川流量をふやす。貯水池操作は、変動を緩和する。

1980-1999年の実況の気象に、気候モデルMIROCをRCP8.5という温暖化が激しく進む場合のシナリオで動かして得られた2080-2099年の温暖化を上乗せして、陸面モデルに与えた「疑似温暖化」実験を、人間による水操作ありなしでそれぞれして比較した。また、5つの気候モデルのRCP8.5シナリオでのシミュレーション結果を1980年から2099年まで連続的に与える実験も、水操作ありなしで行なった。

世界には、温暖化によって渇水リスクがふえるところが多いが、減るところもある。ただし、減るところのモデル間の一致度が低く、どこで実際に減るかはよくわからない。人間による水操作は、渇水日数を減らすとは限らない。河川から取水して灌漑すればその下流の渇水リスクが高まる。しかし、水操作は、温暖化によって渇水リスクが高まるのを緩和することができる。

ただし、ここでのモデル実験では、「土地利用は温暖化によって変わらない」「地下水は無尽蔵にくみあげ可能」という非現実的な仮定を置いた。現実の渇水リスクの評価につなげる際には、これらの要因を検討しなおす必要がある。

質疑応答についての感想

会場の出席者の質問に講演者が答えるという形の質疑応答の時間がとられた。わたしは質疑応答もメモをとろうとしたのだが、紹介できるほどよく記録できていない。

今回のシンポジウムは、研究プログラムの特徴ある新しい成果を報告することに重点がおかれたようだ。そこで講演に多くの時間を配分するという判断がされ、問答の時間は短くなったのだと思う。また、高藪さんはテーマのまとめ役であるが、他の講演者は、実際に研究を遂行する主体になっている研究者だ。とくに森さんはおそらくこのプログラムの研究費で雇われている若手研究者だ。住さんのあいさつによれば、今回は意図的にそういう講演者の起用をしたそうだ。講演はそれでよかったと思う。講演者はそれぞれ、聴衆の多くが専門外の人であることを意識して、学会発表とは違った態度で説明を準備していたと思う。質疑応答も、講演者自身の研究について講演の話を理解したうえでその先につっこむような質問ならば、これでうまくいく。

しかし、一般向けシンポジウムで質問する人の多くは、気候や地球環境の問題に関心をもっているものの、ふだんは専門家とつきあいがない人だ。シンポジウム全体の主題には合っているものの、講演との関係はぼんやりした質問が出てくることがある。あるいは、講演内容が質問者の予備知識と整合しないので理解が進まなくなり、その疑問をそのままぶつけてくることがある。講演者とは別に、そういう質問に対応する人を用意しておいたほうがよかったかもしれないと思った。もっとも、そういう役の人がいたとしても、限られた時間でかみあった問答ができるかどうかはわからない。回答は質問者がどんな予備知識のもとで質問を組み立てているかによって変わってくるのだが、それをさぐるだけで時間がたってしまうだろう。結局、講演を主として質疑・討論を添えるような形のシンポジウムの質疑応答でやれることには限りがあり、質問者にわかってもらうには別の形の場を設定しなければならないのか、と思う。

一般公開の場ではときどき、持論を一方的にぶつける人や、キーワードの意味を誤解していることを指摘されてもそれを受け入れない質問者がいるが、今回は幸いそのようなことはなかった。次に困るのは、数量の規模(桁)の違うものごとを混ぜてしまう質問だ。今回は「ミランコビッチサイクル」を持ち出した質問がそうだと思ったが、ミランコビッチサイクルは万年だが今考えている温暖化は百年という時間規模の違いを(塩竈さんが)説明したら納得してくださったようなので助かったと思った。

さきに「講演内容が質問者の予備知識と整合しないので理解が進まなくなり」と書いたのは、次のような複数の質問についての、もしかしたらそういう状況だったのではないか、というわたしの想像によるものだ。

  • 海面水温を与えた数値実験について、エネルギー収支のつじつまは合っているのか、という質問。
  • 陸上でローカルな蒸発量の増加が降水量の増加よりも大きい状況で、そこの地下の水が減るのか、その水は結局どこにいくのか、という質問。

質問者がどんな予備知識のもとで発言したかはわからないのだが、ひとつの合理的想像としては、気候システムは質量保存・エネルギー保存の法則にしたがっていること、さらに、水(固・液・気相をあわせたH2O)だけについての質量保存もよい近似で成り立っていること、気候モデルはそれらの保存則を満たすように作られていることは理解していて、発表内容がその理解とくいちがっているように思われたのではないかと思う。実際には、気候モデルによる実験、とくに(現実にありそうな状況のシミュレーションではなく)非現実的な仮定を置いた実験では、保存則を満たしていないこともあるし、保存則を形式的には満たしているもののとても非現実的な質量源・エネルギー源がはいっていることもありうる。

海面水温を与えた大気モデルの実験で、「大気」という箱は、エネルギーの出入りのある箱としてのエネルギー保存則を(計算誤差の範囲で)満たしている。しかし、「海洋」という箱はモデル化された世界の外になり、それがエネルギー保存則を満たしているかどうかは意識的に考えていない。現実の観測に基づく海面水温を与える実験ならば、エネルギー保存則を満たしているはずの現実の海洋を含む気候の近似になっているはずだ。(ただし、大気と海洋との相互作用によって海面水温が変わる効果がはいっていないという問題はあり、それは別の研究の主題になっている)。しかし海面水温をずらした(温暖化させたり温暖化を取り除いたりした)実験となると、エネルギー保存則を満たした現実の気候システムで起こることの近似になっているかどうかは確認されていない。(この日の森さんや高藪さんの話題のように)地球温暖化が進行していることを前提として、他の現象を主題としてそれと地球温暖化との関連を論じる際には、研究の目的と資源(計算機や人の労働)とを考慮して、理想的でないことを承知しながら、このような扱いをしている。【(この日の塩竈さんの話題のように)地球温暖化という現象の理解が主題ならば、モデルが現実の海洋のエネルギー収支をよく近似している必要がある。】

陸上の水の問題についていうと、芳村さんたちの研究では、気候モデル(部品として水操作のない陸面モデルが含まれている)の大気部分で計算された降水量などを与えて、水操作のある陸面モデルを動かす、という手順で計算している。気候モデル内では、気候モデルで計算された蒸発量を降水量と組み合わせれば保存則を満たしているはずだが、水操作のある陸面モデルで計算された蒸発量の値はそれと違う。つまり、気候モデルの陸面部分をさしかえたシステム全体のシミュレーションとして見れば、保存則を満たしていないのだ。ただし、保存則からのずれはどの程度かの見積もりはできている。保存則を満たしているはずの現実の地球環境システムについて研究成果を応用する際には、そのずれを認識しながら使うことが必要になる。

こういった事情をわかってもらうには、いくつもの箱や矢印のある図をかき、数量の値を入れてみたりすることが必要なのかもしれない。どういう場をつくればできるだろうか。

文献

2015-10-17

「気候区分」をたなあげにして、気候を連続量の集まりでとらえよう

【ひとまず覚え書き。地理教育に向けての呼びかけは論旨を組み立てなおす必要がありそうだ。】

ネット上の会話で「ケッペンの気候区分」が話題になっていた。

【気候の専門家どうしの話題にはあまり出てこないのでしばらく忘れていたのだが】日本語圏の多くの人にとって、「気候」ということばからまず思いうかぶのは「ケッペンの気候区分」なのかもしれない。高校で「地学」が開講されているところは少なくなってしまったが、「地理」は国として必修ではないものの学校として必修のことが多いし、中学の社会科の地理分野でも気候の話題はある。そこで「熱帯」「温帯」などの用語が導入される際に、ケッペン(W. Köppen)あるいはその流儀を引き継いだ人々による、月平均気温と月降水量の累年平均値による定式化が定義のように使われることが多いにちがいないのだ。

ところが、地理学者のうちで気候(学)を専門とする人は、ケッペンを過去に気候学に貢献した人と認めながらも、ケッペンの「気候区分」を教えてほしくない、あるいは「気候区分」という名まえでは教えてほしくない、と論じることが多い。

わたしは、1970年代後半の学生のときに、地理の鈴木秀夫教授(当時は助教授だったと思うがこの表現で統一しておく)の気候学の講義の中で、「ケッペンの『気候区分』は気候区分ではない」と言われて驚いたのだった。言われてみれば、ケッペンのやったことは、そのときまでに知られていた植生の分類 (森林・草原・砂漠、さらに森林を常緑樹林・落葉樹林など)と、気象観測で得られていた気温・降水量の数量を、世界地図上での分布として比較し、それぞれの植生型が存在する気候条件を経験的に示した、ということだ。気候の数値によるしきい値を置いて世界を区分したものではあるが、そのしきい値の根拠は気候に内在するものではない。鈴木教授は、気候と生物現象や人間社会現象との関連を論じたかったのだが、その際に、生物の分布を説明しようとしてつくられたケッペンの「区分」を使ったのでは循環論法になってしまうと考え、まず気候に内在する特徴による「気候区分」を得てから、それと生物現象や人間社会現象の分布を対比しようとしたのだ。

他方、地球物理の気象学でも「気候」は重要な話題ではあったのだが、気候の「区分」は、ケッペンのものも鈴木教授が気候区分と認めるようなものも出てこなかった。そこでも地上気温や降水量は重要な変数ではあったが、実数値をとる連続変数であって、しきい値を置いて区分する必要はなかったのだ。

【「気候」ということばの定義は一定していないので、わたしが「気候」ということばの意味をどうとらえているか述べておく必要がありそうだ。自分が書いた文章から引用しておく。説明不足で申しわけないが、説明しだすと長くなる。】

【わたしは、気候の概念には、次のような発達の過程からくる3層が重なっていると考えている。第1に、気候は、人間をとりまく環境(「風土」ともいう)のうち、寒暖・乾湿・風などの地表に近い大気に関する要素群をさしていた。第2に、近代科学の初めから大気の状態は気温・気圧・風速などの物理変数で測定・表現されてきたので、気象に関する物理変数の(季節を区別した)1年より長い期間の統計に現われるものごとを気候というようになった。代表的な数量として、気温・降水量などの「平年値」があるが、これは(たとえば1981年から2010年までの)30年累年平均値である。第3に、第2の意味の気候の変化の原因を数理物理的に考える過程で、大気・海洋・雪氷などの部分からなり部分が相互作用しながら変化しうる「気候システム」という概念が成立した。「気候」はこの気候システムの状態をさすというとらえかたもできる。】

1980年代後半になって、気候変化(とくに「地球温暖化」)が生態系や人間社会におよぼす影響に関する研究が始まった。そのとき、将来おこりうる気候の表現のしかたとして、「ケッペンの気候区分」を使った研究例を見て、わたし自身も試みたことがある(学会発表で見せたことはあったが結論的部分には使わなかった)。これはむしろ、気候の変化によって植生がどうなるかを予想するための中間作業だった。そのような研究例では、ケッペンの定式化のほかに、ホルドリッジ(Holdridge)、ヴァルター(Walter)・リート(Lieth)・ボックス(Box)、ブディコ(Budyko)・内嶋、ウッドワード(Woodward)の定式化を使ったものもあった。それらは必ずしも地理的「区分」ではなく、気候変数を連続量としてとらえたうえで、その変量空間のうちに植生の類型を位置づけたものが多かった。比較してみると、細かい定義は違うのだが、植物の生育の制約要因として、「エネルギー・(夏の)温度」、「水分」、さらに「冬の温度」を考える、とまとめられるように思われた。わたしのその件に関する思考は2000年ごろで止まっているが、そこまでは教材ページ[陸上植生分布および光合成純生産と気候要因の関係][植生を制約する気候要因の探索]などに書き出してある(文献リストは後者のページにある)。

鈴木教授の「気候に内在する区分」にこだわった議論は、講義を聞いた当時、あまりよくわからなかった。最近になって、著書を読みかえしてみた(読書メモ[風土の構造][氷河時代][気候と文明][森林の思考・砂漠の思考])。それでもよくわかったわけではないが、離れた立場から見ると、気候(それ自体)が大地の「区分」に使えるような重要な不連続性を含んでいるという考えへのこだわりのせいで、研究によって得られる知見が(まちがいとは言えないものの)豊かでないものになってしまったのではないか、という気がしてならない。科学論者ラカトシュ(Lakatos)の表現を借りれば「後退的研究プログラム」だったのだ。

気候について教えるにあたって、気温や降水量の連続変数を示すよりも、整数個の類型として説明したほうが直観的にわかりやすい、ということは確かにあるだろう。「区分」を持ち出すことのまずさは、類型を示すことではなくて、類型の境界が明確でそこに不連続があると考えることにあるのだと思う。

地理の話題で「区分」をしたがる理由には、地図上で境界線をひいて塗り分けるという表現方法が便利であるせいもある。この表現方法は、人間社会の現象を表現するには適していることが多いようだ。しかしそれは、国境や行政区画や土地所有権が明確になった近代の社会だからなのではないか? [トンチャイ・ウィニッチャクン 著 Siam Mapped (地図がつくったタイ)の読書ノート]。類型化できるものでも、類型間の境界は不明確(fuzzy)であることがふつうだと考えるべきなのだと思う。

気候のうちには、変数の空間的勾配がきつくなっているところが不連続と呼ばれることはあるものの、不連続という表現がほんとうにふさわしく、しかも地理的位置が固定されるような現象は、なかなかない。

気候に内在する不連続があるとすれば、第一に考えられるのは、水(H2O)の相変化に伴う、氷(雪を含む)が存在するかしないかの境だろう。ただしこれは気候を大気の状態ととらえたときにそれに内在するものではない。おもに地表に、積雪、凍土、海氷や湖・川の氷が存在するかどうかが重要な分かれめなのだ。なお、生物体内の水が凍るかどうかも生物の生存にとって重要な制約条件だが、その温度は、体内の水分にとけている物質や、生物の能動的な働きのために、水の凝固温度からずれている。しかしおおづかみには、環境中の水が凍るかどうかとまとめて論じることができるかもしれない。上に「冬の温度」と書いたのはこのことなのだ。【[2016-06-28補足] 生物の分布を制約する条件としての「冬の温度」には、凍結のほかに、低温による化学反応速度の遅さという要因もあり、両者は必ずしも同時に現われるとは限らないが、条件を気温で表現する場合にはまざってしまうだろう。】

第二に、(これも水の相変化によるものだが) 降水の有無の境は、大気に原因をもち、不連続とみなすことができる。ただし長期にわたって降水量ゼロのところは、世界の砂漠のうちでもわずかしかない。季節を分けたうえで、その期間に降水量ゼロである(完全な乾季である)ところとそうでないところの境は意味をもちうるかもしれない。鈴木教授は、『風土の構造[読書メモ]の本に紹介されている若いころの仕事で、日本の毎日の降水量分布図で降水の有無の境界線をひき、たくさんの日についてその線が重なるところを気候区分の境界線と考えた。この方法は、冬の季節風が降水のおもな原因となっている地域を抽出するのには確かに有効だった。しかしそれ以外のことがらに有効な分析方法かどうかは疑わしいと思う。

第三に、実は必ずしも不連続ととらえる必要はないのだが、大気大循環の観点から世界の気候を論じる際に、「熱帯」と「中高緯度」[用語解説「低緯度・中緯度・高緯度、熱帯・温帯・寒帯」]を分けて論じたいことは多い。これはそれぞれ、「ハドレー(Hadley)循環」が主役である世界と、温帯低気圧が主役である世界なのだ。(教材ページ[大気の大循環][用語解説「大循環」]参照。) ただし、その境は、時点を限っても明確な線でひけるものではないし、時とともに移動するものだ。

中村・木村・内嶋(1986, 1996)には、気候区分図のひとつとして、北半球の夏と南半球の夏のそれぞれの時期にハドレー循環がしめる領域の広がりにもとづくものが示されている。その図を含む部分の執筆分担は地理学者の中村和郎教授だが、この本は地球物理学者木村龍治教授、農業気象学者の内嶋善兵衛教授との共著であり、木村氏担当分にある大気大循環の話題との関連でこの定式化が選ばれたのだと思う。わたしは、この図をトレースして簡略化したものを町田ほか(2003)の分担部分にのせたが、その図(下書きのコピー)を[ここ]に置いた(注記が英語になっているが、斜線をかけたところは「北半球の夏にハドレー循環に覆われる領域」と「北半球の冬に...」である)。わたしはこの図の概念がもっともだと思っているが、ハドレー循環の広がりを自分で(納得できる定義を置いて)検討したわけではないので、この図の線の詳しい位置については自信がない。ともかく、わたしは、世界の気候をとらえる概念的枠組みとしてはこのようなものを使ってほしいと思っている。ただし「気候区分」という表現を使う必要はないと思う。

さて、いわゆるケッペンの気候区分は、「気候区分」と呼ぶのは適切ではないと思う。また、区分の境は数式で定義されているものの、データにあてはまるように決めた経験式にすぎないので、深い意味はない。20世紀初めという時点で、気候と植生の関係をさぐるという科学研究活動のたまたま最新の到達点だったのであり、今の時点でその結果を尊重する意義はとくに認められないのだ。しかし、この結果を得るまでの過程では、気象学と生態学(20世紀初めならばむしろ「植物学」というべきか)という別々の専門領域で知られたことを、地理的分布に注目する方法を使って関連づけ、知識体系を構築しようとする活動があったのだ。ケッペンの仕事は、完成品としてでなく、地理学研究のしかたの参考例として、意義があるのだと思う。

地理教育の中での気候の扱いについてのわたしの意見は次のようになる。

  • 気温、降水量などの数値をグラフや分布地図で定量的に見ることに慣れよう。
  • 「気候区分」という表現や概念は、初歩の段階では持ち出さないことにしよう。
  • 「熱帯」「温帯」などの表現を大まかにケッペンあるいはその流れをくむトレワーサ(Trewartha)などに従って使うのはかまわないが、その境界が明確な線あるいは数式で示されるという印象を与えないことにしよう。
  • 植生あるいは生態系を論じるところで、気候が植生を制約する要因のひとつであることを論じ、ケッペンにふれるならばその関係の解明に貢献したという科学史文脈でふれよう。

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