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世界の水資源需給について、あるいは、世の中で数量が話題になる際の問題の一例

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世の中に広まっている話題のうちで、定性的にはもっともなのだが定量的には大まかに見ても変だと感じることがある。自分の専門に近い話題では、変な数値が広まったままになっているとまずいと思うので、訂正したくなる。しかし、変であることを指摘はできても、世の中で使うことを勧められる数量を示すことはなかなかできない。

今回は、たまたまネット上で見た情報に、数値が変だとコメントしたら、別のかたが情報の出典を調べてくださったので、変になった直接の原因はわかった。ただし、その出典の文献を見ると、その話題で何の数量を示すかは必ずしも自明ではないので、じゅうぶんな説明をしないで数値を出すと誤解されて伝わりそうだという心配も感じた。現在の学問的知見によればよりよい数値を出せそうだが、残念ながら自分がその作業にとりかかることはむずかしい。

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「科学に佇む一行読書の書斎」という、ある個人のかたが、たくさんの本を紹介しているウェブサイトがある。「科学」といっても人文・社会系の話題が多いのだが、人間と環境とのかかわりは主要な話題のひとつのようだ。そのサイト主のかたがTwitterに出した次のような紹介文を、わたしは「リツイート」(RT)した。天然資源にはflowとstockがあり、化石地下水の利用はstockを減らしてしまうので持続可能ではない、という認識は広める価値があると思ったからだった。

科学に佇む一行読書心 ‏@endBooks 2016年2月27日12:54
”人類は地球の地表を流れる真水の半分以上を、主に農業に用いている。地表面の水が利用できなくなれば人類は地下水に依存するが、これには化石水が含まれる。化石水は使ってしまうと回復しない。” http://sciencebook.blog110.fc2.com/blog-entry-950.html
『環境人類学を学ぶ人のために』P・タウンゼンド

しかし、この最初の文の「半分以上」は定量的に変で、修正が必要だと思った。とりあえずネット上で信頼できそうな情報を見たうえで、次のようにコメントした。

MASUDA Kooiti @masuda_ko_1 2016年2月27日14:46
「人類は地表を流れる真水の半分以上を主に農業に使っている」というのは、世界全体の定量的記述としては正しくない。世界の川の流量は約40兆トン/年、人が使う水は約4兆トン/年、うち灌漑用水は約3兆トン/年である。著者は何か違うことを述べたかったのかもしれないが。 @endBooks

ここで問題にしているのは、flowとしての水資源だ。世界全体の合計を考えるならば「単位時間あたりの質量の流れ」を考えればよい。(水の場合はむしろ「単位時間あたりの体積の流れ」を「立方メートル毎秒」などの単位で扱うことが多いのだが、保存則を満たす質量で考えたほうがよいと思う。) 単位は、SI単位ならばkg/s (キログラム毎秒)だが、日本語で字数が少なくてわりあい理解されやすいのは「トン/年」だろうと思った。ただし10の12乗はメートル法の接頭語「テラ」よりも日本語の「兆」を選んだ。

世界の陸から海に流れる川の流量の合計が40×1015 kg/年(つまり40兆トン/年)という数値はわたしの頭に(専門知識として)はいっている。(ただし確かな有効数字は1桁だ。Oki & Kanae (2006)は45.5という数値を示しているのだが、わたしはその論文の材料に使われた水循環の研究で与えられた降水量がやや過大だったと思うせいもあって、概算値としては40を使い続けている。)

他方、人間が使っている水のほうは、川(や地下水)からの取水量(英語ではwithdrawal)をとりあげるのがふつうだ。(使い終わった水が蒸発してしまう場合、川にもどる場合、海に行く場合を区別することもあるが、ここでは合わせて扱う。) わたしは2006年に(上記のOki & Kanae論文が出る少し前で、それ以前の沖さん・鼎さんたちの研究を参照して)教材ページ「水と人間社会」を作ったのだが、その後、じゅうぶんな知識の更新ができていない。ともかく、教材ページで参照した資料で、世界の取水量の、2000年ごろの現状集計値と、2025年の予測値を見たうえで、現在(2016年)はこのくらいになっているだろうとおおざっぱに見当をつけた値を書いたのだった。

わたしが示した数量によれば、「人類は地表を流れる真水の約1割を使っている」ことになる。しかしおそらくタウンゼンド氏は、こう書くべきところで定量的にまちがえたのではなくて、何か違う数量を示そうとしたのだろう。わたしは環境人類学には関心があるものの、すぐにその本を読む時間はとれそうもないので、ここであきらめるところだった。

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ところが、Kumicit さんがTwitterで、この部分の英語原文が次のようになっていることを教えてくださった。(ただし、Kumicitさんが参照したのは、日本語版の底本よりも新しい、2008年の第2版らしい。)

Kumicit Transact @kumicit 2016年2月27日15:56【上記の@masuda_ko_1のtweetを引用】
"Humans use more than half of the world's accessible surface fresh water, much of it in agriculture."

英語原文にあった「accessible」ということばが、日本語訳の際に落ちてしまっている。「地表を流れる真水」(surface fresh water)のうち accessible (日本語表現は仮に「手が届く」としておく)という条件で限定される部分だけを分母にするのならば、そのうち人が使っている部分の割合が半分以上になってもふしぎはない。しかし実際のデータを扱う際に「手が届く」という条件をどのように計算に入れるかは、研究者の考えによって大きく違うだろう。数量を自分の議論の根拠に使うためには、数量を示した研究者がこの条件をどのように解釈したかを追いかけないといけない。

Kumicitさんはさらにこの件の情報の出典を追いかけて、ブログ記事にまとめてくださっている。

Kumicit Transact @kumicit 2016年2月27日17:12
『メモ「消えた"accessible"を追って」』忘却からの帰還http://transact.seesaa.net/article/434339955.html

Kumicitさんによれば、問題のTownsendの記述は、Vitousekほか(1997)の論文の、「more than half of all accessible surface fresh water is put to use by humanity」という記述に由来するようだ。(わたしはこの論文を2011年ごろに読んだはずなのだが、Vitousekの専門である窒素循環に注目していたので、水の数量に関する議論は気にとめなかった。)

そして、Vitousekほか(1997)は、Postelほか(1996)の論文を参照している。この論文の中で、具体的にaccessible waterの量を見積もっているのだ。わたしはPostelという人の名まえを世界の水資源問題に関する一般向けの本(Postel, 1999; Postel & Richter, 2003)の著者として知っていた。論文を読んでみると、人間が水を使うということの多様さを忘れずにとりあげようとしていることがわかる。ところがそのために、水の使用量の定義が、上の1節で紹介したのとはだいぶ違うものになっている。また、実際の数値の求めかたは、当時としてはしかたがなかったかもしれないが、今から見るととてもおおざっぱだ。予想したとおり、人間社会と水の関係についての大づかみな議論としてはもっともなのだが、数値として使おうとするならばこの論文のいろいろな仮定も伝えないといけない。

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Postelほか(1996)の論文、とくにその図2に示された、水資源利用の定量的評価の考えかたをしばらく追いかけてみる。

水循環を考える際には、化石地下水などのstockの変化も重要ではあるのだが、第一近似として、flowだけで(季節変化などをならしてみると)定常状態になっていると見ることができる。陸にとって、水の収入は陸上の降水であり、支出は、陸からの蒸発(植物の葉からの蒸散を含む)と、海への流出である。

上の1節では、このうち流出の部分のうちどれだけを人が使っているかを論じた。Postelたちはそのほかに、蒸発の部分を人が使っていることも論じている。そのうち主要なものは、天水農業(その場にふった雨によって農作物を育てること)に使われる雨水だ。ただし、Postelたちの論文のこの蒸発の部分の利用に関する数量は、VitousekたちやTownsendが引用した話題には含まれていない。(なお、人間活動による水循環の改変によって、自然状態ならば流出するはずの水が蒸発することもあれば、その逆もある。Postelほかの図2では、蒸発と流出を分けてそれぞれのうち人が利用する割合を示しているが、それは複雑なことがらを便宜上単純化した表現だろう。)

Postelたちは、陸からの流出量を41兆トン/年としている(数値は論文にあるままでなくわたしが精度を考慮してまるめた形で示している)。この全部を人が利用するのは現実的でない。水は、単位質量あたりのそれ自体の値段は安く、ほしいところで・ほしいときに得るための輸送あるいは貯蔵の費用が高い資源なのだ。空間的不均一のほうからは、人がほとんど住んでいないところにある川の水は「手の届く」資源ではない。時間的変動のほうからは、洪水となる水は、(多くの場合)迷惑な存在であって、使える資源ではない。Postelたちは、前者を8兆トン/年、後者を20兆トン/年と見積もって、全流出量からひき去り、「手の届く」流量を13兆トン/年とした。これがTownsendのいう「半分以上」の分母になるわけだ。

これは定性的な議論としてはもっともだ。ただし、具体的な数量の導きかたはおおざっぱだ。

人がほとんど住んでいないところの流量としては、アマゾン川の流量の95%、コンゴ川の流量の半分、北極海に近いユーラシアと北アメリカの河川のうちダムなどの少ない55の川の流量の95%がそうだとした。なお、著者はこれは過小ぎみで、実際に使えない川はもっと多いだろうと考えている。

時間変動のほうは、河川流出のうち11兆トン/年が基底流出と呼ばれる定常的な流れで、残りの30兆トン/年の大部分は洪水(flood water)で、ダムによって調整されているぶん以外は利用困難だと言っている。ただし、論文では、ダムの容量の数値は出てくるものの、ダムによって調整されている流量が明示されているわけではなく、上記の20兆トン/年という数値が出てきた理屈を追うことはできなかった。ただし、ここでPostelたちは流量の季節変化も「洪水」と同様にみなしているようなのだが、わたしが思うには、月くらいの時間スケールでゆっくり変化するならば、そして毎年ほぼ同様にくりかえすならば、季節を限定して水資源として利用することはできるはずで、Postelほか(1996)の「洪水となるので使えない」流量の見積もりは過大だろうと思う。

Townsendのいう「半分以上」の分子のほうの、人間が使う水の量のほうには、取水量に加えて、川にあるままの水の利用(instream uses)がとりあげられている。これには、水運や淡水漁業も含まれるのだが、Postelたちは、汚染物質を薄めるための利用が量的に重要だろうと考えて、その考えで使用量を見積もっている。「Ecological footprint」で人が土地面積をどれだけ消費しているかを考えるのと同様に、人が水の流量をどれだけ消費しているかという考えに立てば、理屈はもっともだ。しかし、数量の見積もりはむずかしく、同じ程度に合理的な仮定の内で数値は2倍になったり半分になったりしうると思う。Postelたちの論文では、これが2兆トン/年以上になり、取水量4兆トン/年とあわせると、上に述べた「手の届く流量」の約半分になる(彼らの少し詳しい数値では半分を少しこえる)のだ。もし取水量だけならば「手の届く流量」の約3分の1ということになる。

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今ならば、「手の届く流量」の見積もりは、Postelたちがやったよりは精度よくできそうだ。(ただし、人間活動がからむ問題でもあるので、純粋自然科学よりも大きな不確かさはどうしても残るだろう。)

人がほとんど住んでいないところを抽出することは、地理情報として、世界の人口分布と、河川流量の分布とを照らしあわせればできそうだ。ただし、将来も「手が届かない」と思ってよいか考えようとすると、地域ごとのこれからの人口の変化を予想するというむずかしい問題もある。

なお、世界の(流出の部分の)水資源需要のうち大きいのは灌漑用水だが、その地域で農業が成り立ちえない場合、または、そこでの農業に必要な水を降水でまかなえる場合には、灌漑用水の需要はない。湿潤熱帯や寒帯ではそういう状況が多いだろう。そこに人が住んでいるならば、そこの川の流量を「手の届く流量」から除くのではなく、「手の届く流量」ではあるが利用されていない、と見るべきなのだろう。(水の需要をもつ地域の人の視点からは、遠い地域の川の流量は「手の届かない流量」だとも言えるが。)

流量の時間変動のほうは、川の毎日の流量のデータが得られるかどうかは各国の事情による偏りがあるが、それがなくても降水量を入力とするモデル計算でシミュレートできるようになった。流水を利用するかどうかの人の決断を他人が予測することは原理的に困難ではあるが、人が灌漑を行なうことなどを一定のルールに従って決定するとしてモデル化することはでき、データがそろった地域についてモデルを検証することもできる。わたしの知る限りで、そういう方向に仕事を進めている人として、花崎直太さん(国立環境研究所)をあげることができる。

ここで、花崎さんたちの研究成果を使って、Postelたちの議論の数値を再検討してみることができればよいのだが、残念ながら、自分で作業することはできそうもない。(作業者としてのわたしの能力が数年前よりもだいぶ落ちてしまったのだ。) それで、今回の考察はここまでになってしまう。

- 文献 -

  • Taikan Oki, Shinjiro Kanae, 2006: Global hydrologic cycle and world water resources, Science, 313: 1068-1072. doi: 10.1126/science.1128845 . 沖研究室ウェブサイト http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/indexJ.html からアクセス可能。
  • Sandra Postel, 1999: Pillar of Sand: Can the Irrigation Miracle Last? New York: W.W. Norton.
  • [同、日本語版] サンドラ・ポステル 著, 福岡 克也 監訳, (2000): 水不足が世界を脅かす家の光協会
  • Sandra Postel, Brian Richter, 2003: Rivers for Life: Managing Water for People and Nature. Washington DC: Island Press. [読書ノート]
  • [同、日本語版] サンドラ・ポステル, ブライアン・リクター 著, 山岸 哲, 辻本 哲郎 訳 (2006): 生命の川。 新樹社。
  • Sandra L. Postel, Gretchen C. Daily, Paul R. Ehrlich, 1996: Human appropriation of renewable fresh water. Science, 271: 785-788.
  • Patricia K. Townsend, 2008: Environmental Anthropology, 2nd Edition. Waveland Pr. ISBN 978-1-57766-581-6. [わたしは読んでいない。]
  • [同、初版の日本語版] パトリシア・K・タウンゼンド 著, 岸上 伸啓, 佐藤 吉文 訳 (2004): 環境人類学を学ぶ人のために世界思想社。ISBN 978-4-7907-1036-3 . 出版社による紹介ページ http://www.sekaishisosha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=display&code=1036 [わたしは読んでいない。]
  • Peter M. Vitousek, Harold A. Mooney, Jane Lubchenco, Jerry M. Melillo, 1997: Human domination of Earth's ecosystems. Science, 277: 494-499.