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macroscope

2013-11-03

めがねを忘れた

ある日、講演を聞こうとして、めがねを持っていないことに気づいた。前日も講演を聞いたので(講演する側でもあったのだが)そのときめがねを使ったことは確かだった。前日の帰りに落としてしまったのではないかと心配したが、(上着のときとは違って)家に忘れただけだった。

講演を聞くときにめがねが必要なのは、わたしが聞くような講演はほとんど、講演者がスクリーンに文字や図を表示しながら話をするものだからだ。今ではほとんどの分野の学術的講演(専門家どうしのものでも専門外向けのものでも)でそうなっていると思うが、地球科学の分野では1980年ごろすでにそうだった。1980年ごろはスライドが使われていた。スライドは準備に時間がかかるので、非公式なセミナーなどは黒板を使っていた。1980年代の初めごろからオーバーヘッドプロジェクターが少しずつ使われはじめ、1980年代末には大部分の場合に使われていた。講演者は見せるものを透明シートに用意する。直接手がきする場合と、紙に原稿をつくってコピー機で転写する場合があった。1990年代後半ごろから、パソコン接続のプロジェクターに置きかえられてきた。どんな技術にしても、聞き手は自分から3メートルから30メートルぐらい離れた位置に表示された文字や図形を読むことになる。

わたしは、子どもから若者のころ、幸い、めがねを必要としなかった。中年になってから、目が疲れるので診察してもらったら、乱視だと言われ、めがねを作った。近くも遠くも同じ補正でよいのは珍しいと言われた。しかし実際には手もとの本やパソコンを見るのはめがねなしでさしつかえなく、黒板やスクリーンを見るときだけ使った。その後、そのめがねをかけてもスクリーンの字がよく見えなくなり、めがねを作りなおした。乱視に加えて近視が進んだということだった。

わたしがめがねを持つのを忘れやすい理由として、人生の中でめがねを必要とした日よりも必要としなかった日のほうが多かったことがあるにちがいない。

めがねを忘れた日に聞いた講演は、わたしの専門とは違う分野のものだった。しかし、そこで使われた用語は、日本語も英語も、普通名詞に関する限り、ほとんどわたしが知っていることばだった。ただし、わたしが使っているのとは違う意味で使われているかもしれない。画面を見るだけでは読み取りに自信をもてないが、講演者の声から聞き取れた単語と対応がつけば、画面上の文字も読み取れた気がした。ところが、固有名詞、とくにアルファベットで表記された人名は、ほとんど知らないものだった。しかも講演者は文献の著者としてあげられた名まえを必ず読むとは限らなかった。同じ高さの漢字に比べてアルファベットは画数が少なくて判別しやすいはずなのだが、読み取れない名まえの文字は、わたしにはぼやけたものに見えた。

上着をなくした

10月下旬、日本のA地から、熱帯のB地、C地をへてD地まで出張した。

行きのB-C間の飛行機の中で、家を出たときには着ていたはずの上着がないことに気づいた。A-B間の飛行機の中か、A空港、B空港それぞれの出発ゲート待合室に置き忘れた可能性が高いと思った。D地についてから、航空会社のA空港事務所に問い合わせてみた。航空会社が調べてくださって、B空港の出発ゲートにそれらしい忘れものがあったが詳しく確認できないので空港で直接きいてみてほしいと言われた。

帰りにB空港のinformationカウンターできいてみると(職員は端末機からデータベースを検索しているようだった)、色など大まかな特徴が合う上着はあるのだが、わたしのものとは違うブランド名がついているということだった。待合室でだれかがわたしと同時に上着をぬいでいて、まちがえて着てしまったのだろうか。航空会社の人に言わなかった可能性としては、空港のセキュリティチェックで上着をぬぐように指示されてあとで着るのを忘れたこともありうる。なお、家に忘れた可能性もなくはないと思ったが、帰ってみたら、なかった。

幸い、上着のポケットには何も入れていなかったので、上着自体の損だけですんだ。

実はこの上着はしたててもらったばかりの新品だった。一度着ただけでなくしたのはとてももったいない気がする。しかし考えてみると、新品だからなくしやすかったのだと思う。着慣れたものならば、ぬいだものが置いてあるのを見て、自分のものだと気づくところでも、初めて着るものではその感覚が働かない。また、なくしたあと特徴を述べようとしても、記憶が薄いのであまりうまく述べられないのだ。

もちろん、熱帯にいる間は必要のないものであることも、忘れた原因の一部をなしていると思う。

2013-01-19

ノートパソコンをよくこわす人が思うこと

【世の中に訴えたいことと自分用の覚え書きとが区別されていないので、ひとまず「つぶやき」としておく。】

わたしはノートパソコンを毎日持ち歩いている。職場に持ちこむことは禁止されていないので(職場のネットワークにつなぐことはできないが)勤務中も職場のオフィスパソコンと並行して使っているし、自宅でも使っている。会合に出席したときのメモはなるべく紙ではなくパソコンのテキストファイルにしている。(わたしは紙のメモをすぐ紛失するが、パソコンのファイルは2年間くらいはハードディスクのどこに入れたか思い出せる。) 毎週7×24時間のうちノートパソコンが動いている時間は動いていない時間よりも長い。

わたしは、ある意味で最高級のノートパソコンを使っている。それは、パソコンとしてデスクトップマシンに劣らない機能を持ちながら、持ち歩くのが負担にならないくらい軽いものという要求だ。

【その内わけを書いてみたら長くなってしまった。キーボードタイプライター型の配置で指の大きさに見合ったものが必要だ。画面も、地図を見ることもあるし文書のページ全体を見たいこともあるので、本で言えば少なくともB5判、できればA4判の大きさがほしい。(2年ほど前にはA4判のものを使っていたが、その後継機種が、ディジタルテレビ用と互換性のある液晶を使ったせいだと思うが、横長の画面のものだけになってしまったのはとても残念だ。) しかし、自家用車を運転するわけではなく、歩いたり電車に乗ったりするので、重いのはつらい。2 kgくらい以下にしたい(1996年ごろから2000年ごろまでは3 kgぐらいのものを持ち歩いたこともあったが)。自宅と職場以外のところで使う際には、電池で使い続けられる時間も重要だ。今使っているマシンはおだやかな動作をさせたままで4時間もつので、予備の電池を用意しておけば、午前・午後と会議に出ている場合も電池切れでメモを紙に切りかえることをしないですむようになった。(ただし節電機能が充分働くのはパソコンにもともとインストールされているOSを使った場合に限られる。これはわたしにとっては残念なことだ。) インターネット接続もできるのはありがたい。2年前から、電話の機能を介さずに携帯電話と同様な電波通信のしくみでインターネットにつながるサービスを利用している(これも使えるOSが限定される。しかし別に携帯電話を使わないですむ点では助かっている)。ただしこのサービスは国内限定なので外国ではふつうのWifiも使う。CPU能力が最新である必要はない。画像処理は必要だが動画は必要でないのだし、本格的な科学技術計算をノートパソコンでやろうとは思わない。しかし、このごろはOSの主バージョンがあがらなくてもセキュリティ対応とかで改訂されるうちに複雑化するようで、5年以上前の新鋭マシンでは単純な入出力にも待たされることがふえてくる。パソコン業界の悪だくみのような気がするが勝てない。】

わたしの要求を満たすパソコンの値段は、わたしの月収に対しては大きい負担だが、年収に対してはたいしたことがない。しかし、人類的視野では、わたしはとてもぜいたくをしていると思う。2 kgぐらいのものだが、それをつくるのまでに動かされた物質資源の総量(いわゆるエコリュックサック)は、10 kg以上のデスクトップパソコンよりも多いだろうと思う。それは(水を別にしても)何トンにもなるだろう。

ところがそういうパソコンを、わたしはだいたい2年で使いつぶしてしまう。資源の面からみて、とてももったいないことをしている。

もう少していねいに扱うべきだったと反省することもある。しかし、製造者に、故障対策ももう少し考えてほしいと思うこともある。

このところ経験した故障を思い起こしてみると、機械としてのパソコンがcrashしたことはほとんどない。外ケースがへこんだことはあるが中身の動作にさしつかえないところだった。起動しなくなったことはあるが、ハードディスクを取り出して外づけにして読んだら起動部分以外の内容は読めた。ハードディスク読み書きの最中に大きな衝撃を受けるとヘッドがこわれて全部読めなくなることがあるのは知っているが、わたしの持ち歩きマシンでは、運よくなのか、特別仕様ではないが比較的衝撃に強い機種を選んでいるためか、助かっている。

このところ経験した故障は、次の種類のものだ。

  • 液晶が割れる。そうすると、割れたところだけでなく、画面の全部または大きな部分(最近の例では下半分)が、光っていても文字やアイコンの判読ができなくなる。外づけディスプレイなしでは、正常にシャットダウンすることさえ困難になる。外づけディスプレイがあれば使えるが持ち歩き用にはならない。修理は液晶パネル交換になるので、修理代は新品購入価格の半分くらいになり、同じ機種の中古品が出ている場合にはそれよりも高くなってしまう。
  • 本体(キーボードを含む)と液晶ディスプレイをつなぐちょうつがい部がこわれる。少し欠けたくらいでは使い続けられることが多いが、ディスプレイあるいはキーボードの故障につながりやすい。
  • キーボードのキートップがはずれる。デスクトップパソコン用のキーボードでの経験では、はずれたら自分でまたはめてやることができたことが多いのだが、軽く作られたノートパソコンでは、キートップ側のプラスチックのつめと本体側の金具とをはめ合わせる操作がしろうとではできず、しかもキーがはずれるような力がかかったときは金具がゆがんでいる。キートップがなくてもそこにあるものを押せば文字入力はなんとかできるのだが不確実になり、作業能率がぐっと落ちる。修理のプロに相談すると、運よくはめなおしてもらえたこともあるが、メーカーの工場に送ってキーボード全体を交換してもらうしかないと言われることが多い。この場合も、中古品で買いかえるかどうか迷うことになる。
  • 電源がはいらない。本体の電源部の故障ということもありうるのだが、わたしの場合はほとんどACアダプターを交換したら回復した。ACアダプターの故障でさえなく、電力を通す電線の断線か、コネクタ部分の変形による接触不良らしかった。別のときは電池を抜いて外部電源につないだら動いたこともあった。(新しい電池にとりかえても動いた。前の電池パッケージ中の何かの故障にちがいない)。ただし、だいぶ前だが、電源がはいるかどうかが不確実になったときは、ACアダプターが接続される本体側のソケットの変形らしく、けっきょく本体の利用をあきらめることになった。

まだ充分使える中古品が出まわっている「ゆたかな社会」がよいことなのか、疑問に思いながら、わたしはそれの恩恵に浴している。

【同じ型番の機種ならば、ハードディスクをすげかえれば、そのまま同じ機械であるかのように動作してくれる場合が多い。いくつかのソフトウェアやサービスはハードウェアのIDをチェックしているが、サービス提供者側で機器の交換が想定ずみならば、手続きすればすむ。似ていても型番が違う場合は、不安なままためしてみるのだが、動作することもある。一部のオプション機器が動かなくてもそれが自分にとって必要がない場合はがまんできる。最近、よく似ているのだが型番が違うものですげかえをやってみた場合は、OSやわたしがふだん使う一連のソフトウェアは動作するのだが、液晶ディスプレイの画素数を認識してくれず、1024×768か800×600のにじんだような表示になってしまう。グラフィックチップ用のデバイスドライバが動かず拡張VGAとみなされているのだ。(メーカーのサイトからドライバダウンロードしてインストールしようとしたが、インストールが止まってしまった。これは購入後にわたしが入れたウィルス対策か何かのソフトウェアとの競合にちがいないと思うが対策困難だ。) なお、横長ディスプレイのノートパソコンにメーカーがサポートしないOSをインストールした際にも同様な問題が起きる。パソコン用X Window Systemの技術情報を追いかけるひまがないのでがまんして最適でない画素数で使っている。】

貨幣の尺度ではかられた経済の活発さがよいことならば、つぎつぎに故障が起きて利用者が新製品に買いかえるのがよいことなのかもしれない。しかし天然資源の消費を考えると、動作中のエネルギー資源節約とともに、長もちする製品を作ることを、社会全体として推進してほしいと思う。その内わけとして、ノートパソコンの場合は、ちょうつがい部や液晶がこわれにくいことと、キーボードが(こわれにくいことよりはむしろ)修理しやすいことを期待したいと思う。

2012-11-16

経済が成長しないのをとがめて政治家をむだづかいするな

エネルギー資源消費を自由にふやせない条件で経済が成長するのには政策に加えて幸運が必要だ。経済が成長しなかったからといって次々に内閣を退陣させていたら政治家がなん人いてもたりない。

2012-11-09

科学的情報を伝える際のむずかしさ

環境問題に関する科学的知識を、社会的意思決定につなぐために、多くの人々に理解してもらう必要がある。ところが、そこに、なかなか説明がむずかしいことがある。(どうむずかしいかを説明することさえ簡単ではない。ひとまず自分用の覚え書きとして書き出しておく。)

  • 現実の因果関係では、ある結果に対して複数の原因が同時に働いていることは明らかなのだ。しかし、そのうちで特に原因として重要と考えられるものを選んで議論する。(さらにそのうちで、対策という観点で重要なものが選ばれる。) この選択は気まぐれではなく根拠があるはずだが、それをはっきり認識すること、そして伝えることは簡単でない。
  • 確率的因果関係としてとらえられていることがらが多い。Xが起こっても起こらなくても、Yは起こるかもしれないし起こらないかもしれない。しかし、多数回のYについて、Xと合わせて統計をとってみれば、Xが起こった状況のほうがYが起こる確率が高くなっているという意味で、関係が認められ、因果関係があると推測されることがある。ところが、個別のYについて、その原因がXであるかないかを答えることは原理的にできない。「X=地球温暖化、Y=大雨」という問題も、「X=低線量の放射線、Y=がん」という問題も同じ構造だと思う。
  • 確率的因果関係で将来起こりうる複数の事態があるとき、将来起こりうることのリスクの見積もりは一般に人によって一致しないが、仮に2種類のリスクの評価が「起きた場合の被害の大きさ × 起きる確率」という形で同じ値になるとしても、その内わけが違えば、各人がどちらを重視するかが違う。対策に至る前に、リスク情報を伝達する段階で、どちらかのリスクについて事前警戒的(precautionary)に考えた判断を入れて要約することがあり、それが伝えられる情報内容に影響を与え、情報を受けた人の意思決定に影響を与える。

2012-09-26

西進

わたしがほぼ毎日通勤で通る道ぞいに「西進」という看板がある(ということにしておく)。これは商標つまり固有名詞にちがいない。しかし、わたしは、仕事で使う用語[3月18日の記事参照]として読んでしまう。

この道はほぼ東西にのびている。朝晩の一方は、わたしは確かにここを西進している。もう一方は逆向きに歩いている。

しかし、わたしが電車に乗って勤務先に行く方向と、もより駅まで歩く方向とはほぼ反対だ。したがって、通勤全体のスケールで考えれば、西に向かっているか東に向かっているかは、歩く向きとは逆になる。つまり、注目スケールをうまく選べば、朝も晩も、わたしの行動と看板に書いている文字とは対応していることにもできる。