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2016-05-07

歴史のもしも (3)「天下分け目」からつながる話について

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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【この記事は、フィクションではなく、「フィクションについての話」です。】

【この記事は、単にわたしの気にかかっていることを書き出したもので、読者のみなさんにも気にかけていただきたいという意図はありません。】

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現実の歴史のどこかから分岐して、現実の歴史とは違った歴史を想像することについて、[2015-12-12「歴史のもしも」] [2016-04-16「歴史のもしも(2)」]で、いくらか論じてみた。

わたしは、ときどき、そのような想像に、いわば「はまって」しまうことがある。そのうち、最近「はまって」いる話題の入り口のところを書いてみる。

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歴史の分岐の設定は、[2015-03-25「天下分け目」]の記事として書いた。

(「歴史のもしも(2)」で述べたように) わたしには、だいぶ前から、日本が鎖国していなかったらどうなっていたか、という関心があった。しかし、それだけでは、自由度(起こりうることの種類)が多すぎて、話がなかなかつくれなかった。

ところが、その流れとは別に、ふと、冗談半分に、「『天下分け目の合戦』があったら、天下は二つに分かれたままになるのではないか?」と思った。

それを、前からの関心と組み合わせると、「東日本には徳川幕府ができて鎖国するが、西日本には外国勢力が自由に出入りする」という筋書きに至った。これならば、東日本では現実の歴史とほぼ同じことが起こると仮定できるので、自由度がしぼられて、話をつくれる。

イスパニアポルトガル同君連合が一致団結して現われたとき、西日本の大きな部分を制圧できたが、1640年の同君連合解消で、体制を維持できなくなった。」という筋書きは、大きいとは言わないがいくらかの蓋然性がありそうに思えた。

次は蓋然性があるとは思っていないのだが、物語の想定として「そこで、翌1641年、西日本の政権天皇にゆだねられた。」としてみた。いわば「大政奉還」である。

実は、「天下分け目」のブログ記事を書くまで、現実の歴史で当時の天皇がどんな人だったかは考えていなかった。書いてから投稿するまでに、調べてみた。結果はちょっと意外だった。その実在の天皇と、この筋書きとで、つじつまを合わせられるか、考えてみた。蓋然性は大きくないと思ったが、可能性はあると思った。それで、記事を書きかえずにブログ投稿をした。

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それから、わたしはこの筋書きに「はまって」しまった。その(架空の)歴史の中の人物の言動を書きとめたくなってしまったのだ。

ただし、当時の言語を想像することは(それ自体おもしろいのだが内容に進めなくなるので)やめて、現代日本語で書くことにした。それでも、日本語で話したり書いたりしたという想定だと、当時使われた表現に合わせるべきかと迷って書き進められないことがある([2016-05-01「時代劇で話される言語には妥協が必要」]参照)。「当時の外国語のメモが発見されたので現代日本語に訳して示す」のような想定にしたところが、書き進めやすい。

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今のところは、書きかけている物語「を」公開することはしない。物語「について」述べるところまでにする。その理由はいくつかある。

第1に、物語は書きかけであり、まとまっていないし、すでに書いた部分も大幅に書きかえる可能性もある。

第2に、「歴史のもしも」を考えるのは、蓋然性を追うのが本筋だと思うが、わたしはこの件では自分にとってのおもしろさを追ってしまっている。歴史学者の視点でなく、フィクション作家と似た視点になっている。しかし、売り物になるようなフィクションを書けるわけでもない。

第3に、現実の歴史とかさなりのある部分では、一方で、現実の歴史に合わせることにこだわってしまっている部分もあり、他方で、歴史を調べていなかったり、対応をあまり気にかけていない部分もある。歴史に関心のある人が読むと、その不釣り合いをがまんできないことがあるだろうと思う。

第4に、物語の主要人物には(過去の)天皇が含まれている。わたしは登場する天皇に対しては敬意をもっているつもりだが、物語でのその人物のふるまいは今の多くの人から見て「天皇らしくない」だろうし、物語では天皇に関する制度が現実の歴史とはだいぶちがう発展をとげるから、今につながる天皇制の伝統を尊重する人からは不敬に見えるかもしれない。

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1641年当時の天皇は、明正天皇だ。女性で、個人名は興子(おきこ)。西暦1624年に生まれ、1629年(満6歳になる少し前)に父の後水尾天皇から位を譲られ、1643年(満19歳)に弟に位を譲り、1696年(満72歳)まで生きた。女の人が天皇の位についたのは、それまで8百年あまりなかったことだった。

当時、徳川幕府の体制が確立したところで、皇室の実質権力は小さかった。そのうちで相対的には政治力をもったのは後水尾上皇だった。明正天皇は、儀礼的な役割は果たしたが、政治にはかかわらなかったと言えるだろう。ただし、書跡が知られているなど、文化・芸術面では名まえが出てくることがある。今でいう文化行政の役割を果たしていたのかもしれないと思う。

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現実の歴史とは1600年に分岐している「天下分け目」の歴史のなかで、東西日本の両方から権威を認められた皇室があり、東日本には徳川幕府があって、われらの女帝が生まれ、天皇の位についていたと仮定する。現実の歴史では政治にほとんど影響をおよぼせなかったこの人が、大活躍する歴史が考えられると思ったのだ。

こちらの歴史の西日本では、日本の伝統よりも西洋の影響のほうが強くなっている。われらの女帝は、2世紀たらず前のイスパニアのイサベル女王や、1世紀たらず前のイギリスエリザベス(1世)女王に、role modelを求めることができる。

われらの女帝の母、和子は、徳川秀忠と江の子だ。この武家血筋は、現実の歴史の皇室の中では、明正天皇に不利に働いたように思われる。しかしこちらの歴史では、強みなのだ。日本に来た外国人たちは、信長秀吉家康を日本の「王」として記述してきた。彼らは、日本の皇室を知らないか、知っていても異教の神官とみなすだけで重視しない。われらの女帝は、家康のひ孫であり、信長の妹のひ孫であり、さらに(こちらの歴史では大坂の陣は起こらないから)秀吉の息子の妻の姪であってその「秀吉の息子」を臣下としているから、「女王」と認められるのだ。

また、われらの女帝は、子どものころから、公家と武家という二つの文化の衝突に対処してきた。日本と西洋との文化の衝突に立ち向かうのに、(ほかの人よりも)準備ができていた。

もちろん、1641年当時満17歳の女帝が、独力で政治をとりしきれるはずはない。おおぜいの人々が女帝を尊重しながら働く状況がつくられなければならない。そこで、われらの女帝には、「まわりの人に『彼女を助けよう』という気もちを起こさせる」才能というか、魅力というか、があった、としてみたい。

([2016-05-03の記事]に書いたように、「英雌」ということばを考えてみたのも、われらの女帝について考えていたときだった。)

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こちらの歴史の西日本は現実の歴史の日本よりも活発に世界と人や物や情報をやりとりしているので、それが世界におよぼす影響によって、世界の歴史も、現実の歴史とはちがってくるはずなのだ。しかしそれを考えようとしても、自由度が大きすぎて、筋書きが定まらない。

このような歴史の分岐の筋書きを詳しく考えてみるのがおもしろいのは、分岐から1世紀くらいまでに限られるのではないかと思う。

17世紀の歴史に関するものを読むごとに、この物語につなげてみようと考えてしまう。うまくつながるときも、つながらないときもある。

きょうの話はここまでにしておく。

2015-12-20

2020年8月、東京

起こる「可能性が高い」とまでは言わないが、「じゅうぶん可能性がある」と思う事態。

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東京猛暑のうえ発電所の故障があり、競技場トラック・フィールドの冷房をする電力はありますが、観客席の冷房をする電力が不足しています。したがって、オリンピックは開催しますが、無観客試合とします。」

「テレビ観戦はできますが、東京の電力需要を減らすため、オリンピック観戦を目的とする観光客には、北東北北海道のシーズンオフのスキーリゾートに移動していただきます。」

2015-12-12

攘夷原理主義の爆縮(implosion)

[Buchanan (2000)の読書ノート]に書いた(その本とは直接関係ない)「尊王攘夷原理主義者が主導権をとって客観的に勝ちめのない 戦争に突入し、日本が占領・植民地化されてしまう可能性」、[「神田原」というエッセイのページ]に書いた「原理主義者が主導権をとって、 悲惨な全面戦争の末に外国勢力に負ける」というシナリオを、少し具体的にしてみようと試みたもの。ただし、わたしの考えはこのページに書いたところまででとぎれており、続いて何が起こるかは考えておらず、近いうちに考える予定もない。

2004年に、いわゆる「イスラム原理主義過激派」(この表現に疑問があるがひとまず日本のマスメディアがそう呼んだものをさす)に対する批評を身近なものに置きかえて考えようという寓話のような趣旨で考え始めたものなので、ありえたかもしれない歴史の筋書きとしての現実みは薄いかもしれない。

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安政7年(西暦1860年)、桜田門外のクーデターが成功し、井伊大老が殺されただけでなく、5か国との修好通商条約調印にかかわった幕府重臣はすべて免職・自宅蟄居とされた。大老は空席となり、老中以下重臣はすべて攘夷論者でしめられた。将軍を徳川家茂から慶喜に交代させることもすぐ決まった。

ところが、それまでの十年の間に、攘夷論者の内わけが変わっていた。平田神道をさらに鋭くした国粋主義に基づいて、すべての外国の影響を日本列島から排除しようとする思想が、静かに広まっていた。この思想を、後世の用語で「攘夷原理主義」と呼んでおこう。攘夷原理主義を公言していたのは、水戸藩を脱藩してクーデターを画策した浪士たちなど、比較的少人数だった。しかし、もっと多くの人々が、「やまとごころのくみ」、略して「や組」という秘密結社をつくり、幕府にも、朝廷にも、各藩にも、勢力をのばしていたのだ。日本の大多数の人々の心情は、おだやかな攘夷論だったが、それを明確なことばで表現できておらず、「や組」の人々の勢いのよい発言になんとなく賛同しがちになっていた。

クーデター後、「や組」の存在は公然のものとなった。「や組」は組織として公式な政治に関与したわけではないが、そのメンバーたちが幕府の意志決定の実質的主導権をとった。慶喜は将軍になったものの、「や組」によって許された政策は「攘夷を絶対条件とする大政奉還」しかなかった。

大政奉還を受諾した朝廷の政策も、その内外の「や組」メンバーにひっぱられた。修好通商条約は朝廷の承認がなかったので無効とされ、すべての西洋人に国外退去を求めることになった。(和親条約は有効とされたのだがその運用を遭難者救援に限ろうとした。) 慶喜が返上した「征夷大将軍」の職は、主要任務を外国船打ち払いと定義しなおし、古代の朝廷の軍事を担当していた大伴氏の末裔とされる公家で、「や組」の幹部のひとりでもあった、伴 ○○が任命された。

「や組」の思想は、西洋文化と仏教を排除しようとしたが、儒教や中国の伝統との兼ねあいの原理的な整理はできておらず、共存と排除との間でゆれていた。朝廷は、東洋の国々との国交は維持し、征夷大将軍の担当ではなく朝廷の直轄とした。しかし朝廷には東洋外交についての方針がなく、東洋の国々と協力して西洋に対抗するという発想もなかった。無職になっていた徳川慶喜が清国駐在大使を買って出た。朝廷は慶喜に儀礼的な役割を果たさせながら実質的な外交交渉はしないように牽制した。

朝廷は、行政制度については律令制を復活させるのがたてまえだった。しかし、班田収受などを復活できるわけもなく、現実に即した土地所有や税などの制度を構築する能力もなく、江戸時代の藩の体制を維持しながら藩主を免職したり任命したりする権限を江戸幕府に代わって太政官が持つ形になった。

攘夷の実行のために武力が必要とされたが、軍の制度も全国統一したものはできず、藩あるいは「や組」の地方組織によって思い思いに進められた。長州藩がつくった「奇兵隊」が手本のようになり、従来の武士と農民の身分の区別をなくした軍がふつうになった。社会全体としても、武士という身分が実質的に消滅していった。技術に関する態度は地方によってまちまちだった。奇兵隊のように西洋の兵法を積極的に取り入れたところもあれば、国粋主義をつらぬいて西洋の流儀を排除したところもあった。

伴将軍は、古代・中世の軍事には詳しかったかもしれないが、現代(19世紀)の軍事の知識がまったくなかった。彼は根拠地を鎌倉に置き、「後鎌倉幕府」と呼んだ。それは鎌倉がかつて幕府が置かれた由緒あるところであるとともに「要害の地」であるという認識に基づいていた。確かに鎌倉の地形は、徒歩や馬によって攻めこむことはむずかしくできている。しかし、相模湾に停泊した黒船からの砲撃に対しては無防備なのだった。後鎌倉幕府も、大砲という武器があることは認識しており、稲村が崎などの高台に砲台をつくろうとした。しかし、後鎌倉幕府は西洋の影響を排除するという原則を徹底しようとし、江戸幕府が伊豆の韮山につくらせていた反射炉もこわしてしまった。そして日本の伝統的な金属精錬技術だけに頼って大砲や銃などの武器をつくろうとしたが、当然ながら生産能力は乏しかった。

また、千年ほどにわたって民衆の多くの信仰は神仏習合だったのにもかかわらず、十年ほどのあいだに流行した攘夷原理主義は神道を純粋化した(と自称する)ものに基づいており、「や組」が支配する地方政権は彼らが神道と認めるものを尊重する一方で彼らが仏教とみなすものにはキリスト教に対するのと同じ程度に敵対した。

鎌倉では、幕府は鶴が岡八幡宮をはじめとする神社を援助したが、建長寺をはじめとする仏教寺院に対しては、僧侶を追い出し仏像を捨てて建物を幕府の役所に転用した。そして、長谷の大仏を、大砲をつくる材料にするために鋳つぶした。鎌倉の住民は、寺院に対してこのようなしうちをする「や組」にまったく共感できなかった。イギリスとアメリカの黒船が鎌倉を砲撃したとき、幕府はほとんど応戦できず、鎌倉はイギリス・アメリカ軍に占領されてしまった。住民は占領軍のほうに協力して「や組」を鎌倉から追放した。

同様なことがあちこちで起き、日本の主要な海岸地方は、イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアに分割占領されていった。民衆のうちには、外国人に支配されることを嫌うと同時に、仏教を迫害する「や組」に支配されることも嫌う心情をもつ人々がふえていた。伴将軍の幕府は、内陸を転々とした。内陸にはほかにも「や組」の勢力が支配する地域はあったが、地域間の連絡や物資輸送ができなくなっていた。朝廷のうちにも、これではだめだという意識が広がっていたが、「や組」と対抗できるだけの勢力が結集できず、朝廷としての意志決定ができない状態におちいった。

ここに至って、清国駐在大使 徳川慶喜は、同治帝・西太后・李鴻章の支持をとりつけて、北京で日本の亡命政権の樹立を宣言した。

他方、薩摩藩は、薩摩琉球国は日本とは別の国であると主張するようになった。

2015-03-25

天下分け目

西暦1600年。関が原の戦いは、天下分け目の戦いとなった。つまり、10年前にやっと統一された日本が、今度は東西のふたつに分かれてしまったのだ。小早川勢が予定どおり西軍につけば西軍、東軍に寝返れば東軍が有利だと見積もられていたのだが、彼らは結局戦いに参加しなかった。そこで戦いは引き分けとなり、関が原はそのまま事実上の二国家の国境となったのだった。むしろ、古代の不破の関が復活したというべきだろう。愛発(あらち)の関、鈴鹿の関と合わせた三関線によって、日本は「関西」と「関東」に分かれたのだ。(ここで、「関西」は四国・九州も、「関東」は中部・東北も含む意味で使われている。) 皇室は両方から尊重され、中立地帯となった伊賀盆地に本拠を置くことになった。

関東では、徳川家康が江戸に本拠を置き、天皇から「征夷大将軍」に任命されて、「幕府」という名の平時軍事政権をうちたてた。幕府は、外国貿易を認可制とし、認可する対象をしだいにきびしくしぼりこんだ。また幕府はキリスト教を禁止した。幕府は三関線で、武器、外国人、キリスト教徒が関東にはいることをきびしくとりしまったが、出ることに関してはきびしくなかった。関東のキリスト教徒は関西に移住することができ、流血は少なかった。伊達政宗がローマに派遣した支倉[Faxecura]長経(常長ともいわれる)も、仙台に帰らず大阪に住んだ。

関東での書きことばは、漢字かなまじり縦書きの日本語であり、江戸や名古屋などで木版印刷の出版がさかんになった。

関西では、豊臣家、諸大名、堺をはじめとする都市の商人、キリスト教勢力、仏教・神道勢力などが、群雄割拠する状態となった。関東との間には関所があったが、海外との人や物の行き来には人為的制約はなかった。関東からの移住者と外国人を含めてキリスト教徒は人口の3分の1をしめた。キリスト教会は、キリシタン大名からの寄進などにより、領地を持った。ただし、イスパニアポルトガルが同君連合であったにもかかわらず不和であり、ポルトガル政権に近いイエズス会とイスパニア政権に近いドミニコ会・フランシスコ会などとは協調しなかったため、30年ほどの間は、キリスト教勢力の政治力はそれぞれの教会領地だけにおよぶものだった。

163X年、イスパニアは「日本副王」を派遣してきた。その趣旨は、たてまえとしては、日本を征服することではなく、関西じゅうにモザイク状に分布したキリスト教勢力の領地を統治することだった。彼はイスパニアの貴族だったが、ポルトガル語に近いことばを話すガリシアの出身であり、たくみにイスパニア勢力とポルトガル勢力をまとめた。副王の政権は、関西で最強の勢力となり、その他の勢力をつぎつぎに保護下に置いた。関西は、完全な植民地ではないものの、半植民地化された、と言える。

しかし1640年、ポルトガルがブラガンサ家の王をたてて独立し、同君連合が解消した。またイスパニアから事実上独立していた(承認は1648年)オランダからの船団もますます大がかりになってきた。イスパニア勢力とポルトガル勢力、カトリックとプロテスタント、西洋人と日本人との争いを、副王の政権は調停できなくなった。これを機会として、関西はイスパニアからの独立をとりもどした。副王は、イスパニア・ポルトガルのどちらに従っても他方を敵とすることをおそれ、日本の天皇に忠誠を誓った。関西の統治には引き続き彼の働きが必要だった。天皇は彼を関白に任命した。彼はVirrey del Japónと称しつづけたが、その意味は、イスパニア王の副王から、日本の天皇の代理者に変わっていた。関西には、同時代の西ヨーロッパ諸国と似た国家体制が構築された。

関西の公用語は日本語だが、書きことばは関東とは大きく違うものになった。天下分け目以前にも天草[Amacusa]にイエズス会の出版所があったが、その後、他のキリスト教会や商人も、関西のあちこちで欧文の活字印刷を始めた。日本語も、関西ではローマ字で書かれるのがあたりまえになった。ローマ字のつづりかたは、天草本で使われたものが採用された。これはポルトガル語に近いつづりだが、イスパニア語の話し手も、同じ語のつづりは統一したほうがよいと判断し、イエズス会の実績を尊重したのだ。(ただし、いわゆる「開合」の発音の区別が消滅したのに伴って、「o」の上にのる谷形と山形の記号は、山形に統一されることになる。) 日本語の文章中に、外来語も、とくに文字を区別することなくまぜられた。漢字を書かないと区別できない単語は使われなくなり、やまとことばから組み立てるか、ラテン系言語からの外来語を使うようになった。

【この文章の内容が実話である世界では、この文章は天草式ローマ字で書かれ、語彙にはラテン系言語由来の外来語がまざっているはずである。】

2015-03-17

アイウエオ、カキクケコ

唐の元和元年(日本の延暦25年)、明州(のちの寧波)の港町で、空海は迷っていた。前の年に日本に帰る遣唐使を見送って、空海は唐に残った。ところが遣唐使の船のひとつが難破して乗員が唐に遅れて来たので、彼らのための帰国船がしたてられていた。空海に、20年間の留学を2年間で切りあげて日本に帰るという選択肢が生じたのだ。

空海には、仏教を深く勉強したいという思いと、それを日本の人々に広めたいという思いがあった。深く勉強するためには、予定どおり20年間、唐に残るべきだ。しかし20年後に遣唐使の船が来る保証はない。一生を唐ですごすことになり、日本の人々には貢献できないかもしれない。ほかの船で帰る可能性はあるとはいえ、きびしく言えばそれは違法なので、処罰されて、仏教を広める立場に立てなくなるかもしれない。留学期間短縮も約束違反なのだが、自分がこれまでに得た知識の目録だけでも伝えれば、朝廷もその重要性を認めるはずだから、とがめられないですむ可能性が高そうだ。空海は、帰国の船に乗る決断を、もう少しでかためるところだった。

ところが、新羅から来た商人と話しているうちに、気が変わった。新羅の商船は唐にも日本にも出入りしている。国際関係がよほど悪くならない限り、新羅経由で帰ることはできるだろう。空海は船に乗るのをやめ、長安にもどった。

空海は、漢文に訳される前の天竺の仏教を知りたかった。梵語(サンスクリット)を学び、天竺から伝来した経典を原文で読む日々が続いた。その寺に、天竺から学識のある僧がやってきた。その天竺僧は、日常生活に関する会話は漢語でできたものの、教理を漢語で説明することはできなかった。教理の議論に使える共通言語は、梵語しかなかった。梵語は書きことばとして成立した言語であり、話すよりも書いたほうがわかりやすいこともある。空海と天竺僧は、たびたび梵字で筆談をした。

空海は、梵字の読み書きの基本を、すでに留学1年めに身につけている。梵字が、梵語の発音を母音と子音に分解してあらわしたものだということももちろんわかっていた。しかし、そのとき学んだ経典の地の文は漢文であり、梵字は仏教の教義のうえで重要なことばである「真言」をあらわすところでだけ使われていた。そこで空海は、梵字も、漢字と同様に、発音よりもむしろ意味を表わすシンボルだと思ってしまったのだった。

ところが、筆談をしてみてわかったのだが、梵字は、発音できるかぎり、なんでも書くことができるのだ。

それまで空海は、日本語で思いあたったことを書きとめるのに苦労していた。当時の日本で文字といえば漢字だったから、漢語に訳して書くか、日本語の音に漢字をあてて書くか、しか考えられなかった。ある日、ふと、日本語を梵字で書きとめてみると、漢字で書くよりもだいぶ楽だった。それ以来、空海には、梵字を使って日本語を書く習慣ができた。

日本の天長元年(唐の長慶4年)、予定どおり20年の留学をおえて、空海は日本に帰ってきた。その経路は明らかにされていない。きびしく言うと密航だったのかもしれない。のちに、法力によって空を飛んできたという伝説が広まることになる。

空海は弘法大師となり、日本に真言密教や農地灌漑など多くの知識をもたらした。しかし、弘法大師の日本文化への最大の貢献は、日本語を書くのに必要な梵字を順にならべた「অ ই উ এ ও (a i u e o), ক কি কু কে কো (ka ki ku ke ko), ...」【注】である。空海が留学している間に、漢字の省略形を表音的に使って日本語を表わす「かな」という方法をくふうしていた人たちもいたのだが、その技術が確立しないうちに、すでに完成度が高かった梵字が駆逐してしまった。

西暦21世紀のいま、日本語の文章の多くは梵字で書かれ、機械変換で、インド、スリランカ、ネパール、ブータン、チベット、バングラデシュ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアで使われている文字で読むこともできる。逆に、これらの国の言語のテキストを、日本の梵字に自動変換することもできる。もちろん、文字をおきかえたからといって、言語間の翻訳ができるわけではない。しかし、これは、日本語と南アジア・東南アジアの言語との両方を使う人々にとっての障壁を低くすることに役だっている。

【この文章の内容が実話である世界では、この文章は梵字で書かれているはずである。】

  • 【注】ここには日本で使われている梵字を示すべきなのだが、代わりにベンガル文字を入れてある。