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2018-06-29

(タイの地名の) 母音の長短を書きわけるには

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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外国語由来のことばを日本語の中で書くとき、母音の長短の書きわけの問題がある。

たとえば、英語の場合、強く発音する音節ならば長短の区別が明確なのだが、弱く発音する音節では、区別がなくなってしまうので、日本語にとりこんで かたかな 表記するときには、発音にあわせて長音記号なしにするか、もし強く発音するならばなるはずの形にあわせて長音表記するか、という選択肢が生じる。

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タイ語では、母音の長短は明確で、それはタイ文字での表記でも明確に表現されている。

【話がそれるが、タイ語とベトナム語とは、言語の系統はちがうそうだが、音の響きも母音や子音の体系も似ている(と、わたしには思える)。しかし、ベトナム語には、母音の長短の区別は(少なくとも初歩で学ぶべきものとしては)ない。日本語に移す場合、母音で終わる音節を長音あつかいすることがあるが、子音で終わる音節との長さがだいたい同じになるようにしているのだと思う。】

しかし、タイ語の母音の長短は、日本語にはあまり反映されていない。

たとえば、タイ北部のチエンラーイ(2018-06-29現在、洞窟で少年たちがゆくえ不明になっているのが、チエンラーイ県)。ラーイとのばすのが正しいのだが、日本語ではほとんど「チェンライ」になっている。

【チェンかチエンかという問題もあり、わたしはまよったすえに「チエン」と書くことにしている。この件は日本の国語学用語を借りれば「拗音」の問題で、ここでは深入りしないことにする。】

ひとつの理由は、外国語の地名を日本語かたかなにするとただでさえ長くなるうえに、長音の音節はかたかなで2文字とるので、文字数が多くなる。たとえ正しい名まえを知っていても、短縮したくなる。

もうひとつは、たとえタイの公的機関研究者がつくった資料を使っても、英語などのローマ字表記の資料に頼るかぎりでは、母音の長短がわからないことだ。

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タイの人びとによるタイ語のローマ字表記の方式は、かならずしも一定しない。

ポピュラー音楽の歌詞カードで、英語の発音で近似したらしい表記を見たこともある。

しかし、国の役所による地名の表記に関するかぎり、一定の方式で統一されている。(王立アカデミーによる標準があるそうなので、それだと思う。) それは、タイ文字からの単純な転写(transcription)ではなく、それよりはだいぶ表音的なものだ。

タイ文字はインド系の文字で、タイ語では同じ音になってしまってもサンスクリットでちがう音をあらわしていた文字の区別をひきついでいる。日本語の歴史的かなづかいと似た状況にある。

しかしローマ字表記では、タイ語の発音で区別されるものだけを区別する。

アルファベットに補助記号をつけることはない。母音の種類が5つよりも多いから、1つの母音を複数の文字をならべて示す場合がある。その部分だけ、役所による地名表記どうしでも、ゆらぎがある。たとえば、標準にしたがえば mueang となるところが、muang と書かれていることが多い。([多言語雑談「たくさんの府中」)参照)。

日本語への転写に向けて重要なことは、この標準方式では、母音の長短の区別がなくなってしまうことだ。(声調の区別もなくなってしまうが、これは日本語でも表記されない。)

なお、人名のつづりは、必ずしもこの方式にしたがっていない。わたしの知るかぎり、本や論文の著者名のローマ字表記では、サンスクリットに由来する歴史的区別を残した方式が使われている。

【長音の問題とは関係ないのだが、韓国のローマ字表記の状況もタイと似ている。国の役所による地名の表記は一定の標準にしたがっているが、人名の表記には別の事実上の標準があるようであり、その他の世間で使われるローマ字はまたちがうこともある。ただし、韓国の場合、英語で論文を書く人の著者名ローマ字表記は、英語で似た発音になるつづりをあてたもののようである。】

ローマ字表記の資料に依存するかぎり、タイの地名の母音の長短はわからない。

わたしはタイ語はごく初歩を勉強したにすぎないが([2012-03-16 カチャタナパマヤラワ]参照)、地名のタイ文字つづりをローマ字つづりとならべて示されれば、ローマ字つづりのどの母音が長音であるかを指摘することはできる。(ただし、タイ文字がいわゆる活字体のフォントで鮮明に印刷されていることが必要だ。手書きふうのフォントだったり、不鮮明だったりすると、判読できない。)

タイ文字だけでじゅうぶんかというと、そうでもないと思う。タイ文字はインド系文字で、子音字単独で子音に母音 a が続く音列をあらわす。ほかの母音が続くならば母音記号をつけてあらわす。母音がない場合は、母音がないことを示す記号をつけてあらわすのが原則なのだが、実際にはこの記号が使われていないことが多い。そこで、たとえば kra なのか kara なのか、つづりだけでは区別できない。

そこで、タイの地名をかたかな表記する際には、ローマ字資料とタイ文字資料を併用することをおすすめしたい。

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考えてみると、日本の地名を、日本語圏の外の人に伝える場合も、タイの場合とほぼ同じ状況だ。

日本語には母音の長短がある。短母音は1拍、長母音は2拍の時間をかけて発音する。

ローマ字表記では、本来は長音は補助記号をつけて区別されるのだが、英語などに引用される場合、そのまま補助記号なしとなり、長短の区別の情報が失われることが多い。

日本語の地名の母音の長短を正しく伝えるには、ローマ字資料だけに頼っていてはだめだと思ったほうがよい。(注意深く補助記号をつけたローマ字資料ならばだいじょうぶかもしれないが、かな・漢字の日本語を読まない人ではローマ字表記の品質を判断できないだろう。)

日本語の かな だけでも読めれば、ローマ字表記と かな 表記を併用すれば、母音の長短を確実につかむことができる。

かな表記だけでも、ほぼじゅうぶんなのだが、「う」が長音表記なのか独立の母音なのか、という、あいまいさが生じる場合もあるので([わたしが出会った問題な日本語「コーリ / コウリ」]参照)、ローマ字表記も併用したほうがよいと思う。

表意文字、表語文字

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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「漢字は表意文字か?」というような議論を見かけたので、考えを整理してみたくなった。

わたしは1960年代子どもとして、小学校・中学校の「国語」の参考書で、「かな や ローマ字は表音文字、漢字は表意文字だ」と ならった。

なお、漢字の文字と意味との関連について、中国の古典に出てくる「象形、指事、会意、形声、転注、仮借」という用語を使いながら、例をしめされているのをならった。

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1970-80年代の学生として、言語学の、専門書というほどではないが専門概念を紹介する本で、漢字は「表意文字」ではなく、分類して名づけるとすれば「表語文字」だ、という主張を読んだ。今では、それは専門家の主流の認識らしい。

中国語の単語は複数の音節からなる場合もあるが、1音節の要素からできていることは明確だ。漢字は、この1音節の語要素それぞれを表現したものなのだ。意味が近くても、発音が似ていなければ、別の語要素として認識されるから、同じ字では書かれない。

言われてみれば、そうだと思う。

とくに「形声」文字は、そのたてまえどおりならば、「形」のほう(「意符」、多くの場合「へん」)は、意味のおおまかな分類を示していて、「声」のほう(「音符」、多くの場合「つくり」)は、発音を示している。おもにつたえられているのが意味と発音のどちらかといえば、発音のほうだろう。ただし、「音符」とされている部分が同じ字どうしで、意味の共通性が指摘されることもある。同じ「単語家族」(藤堂 明保 氏の著書で使われていた用語)に属する語要素が、同じ「音符」で書かれて、細分のために「意符」がつけられた、とも考えられる。

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では、意味をあらわす「表意文字」はないのだろうか。

いわゆる自然言語を記述できる文字体系としては、ないのだろうと思う。

記述対象を限定すれば、ある。数学記号は表意文字だと言ってよいだろう。

数学記号の部分集合とも考えられる算用数字についてみると、「8」は、日本語で「ハチ」と読まれても、英語で「[eit]」と読まれても、同じ意味をもっていると言ってよいだろう。

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しかし、日本語での漢字は、「表語文字」だと言ってよいのか、疑問も感じる。

同じ字が、音よみ、訓よみで、日本語の複数の語に対応する。訓よみだけでも複数あることがよくある。

日本語での漢字は、鋭い意味[注]での表語文字ではない。

  • [注] 「狭い意味、広い意味」という表現がさすのとだいたい同じことなのだが、わたしは、「鋭い意味、鈍い意味」という表現がよいと思っている。

「語をあらわす」ことから、どういう方向にずれているかを考えると、意味がだいたい同じならば、別の語でも、同じ文字であらわせる、ということだ。そのことに注目すると、日本語での漢字は「表意文字」だといえるかもしれない。ただしこれは「表意文字」ということばの鈍い意味の使いかただ。2節で中国の漢字をはずし、3節で算用数字を含めた、鋭い意味での「表意文字」ではない。「表語文字」という用語を鋭い意味で使いながら、「表意文字」のほうは鈍い意味で使って、分類を考えるのは、うまくない。

わたしなりに公平な表現をしようとつとめてみると、日本語での漢字は「鈍い意味での表語文字」であり、それを鋭い意味で示す分類用語は まだない、というのが妥当だと思う。

2018-04-30

「外れ」

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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「外れ」という文字列を見かけた。

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わたしは1960年代の小学生として当用漢字音訓表に従った国語教育を受け、それを誇りに思っている。「わたしの辞書」にある「外」という字の読みかたは、音よみの「がい」と訓よみの「そと」だ。「外れ」は「そとれ」か「がいれ」に ちがいない と 思うのだが、どちらも意味が通じない。

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おとなになったわたしは、日本語を読み書きするみんなが当用漢字音訓表に従っているわけでないことを知っている。

とくに訓よみは、古代中国語の(いまの例で言えば)「外」と部分的に意味が重なる古代日本語ならば、なんでもありうる。

「外れ」は「ほかれ」だろうか? 「とれ」だろうか? ... と、いろいろ考える。「それ」というのが文脈に あいそうだ。もし「外れる」だったら、「それる」で解決としたにちがいない。

しかし、たぶん偶然、「はずれ」という文字列を見かけた。そちらのほうが、いまの文脈に あっているようだ。

だいぶ迷ったとはいっても、いまのわたしの連想能力ならば、秒単位の時間で、ここまでたどりつける。

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しかし、わたしの頭は、少しずつおとろえていることを、自分でも自覚している。もうすこしおとろえると、分単位の時間がかかるようになるだろう。そうすると、わたしは、「そとれ」などと平気でいう人になるのだろうか。あるいは、日本語の読み書きの失敗をおそれて発言をひかえる人になるのだろうか。

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わたしは、「外れ」などという文字づかいはしたくない。訓よみを完全にやめるわけではないし、当用漢字音訓表にこだわるわけでもないが、だいたい当用漢字音訓表にある程度に限定して使っている。

わたしは「はずれ」は全部ひらがなで書く。その書きかたの欠点は知っている。漢字かなまじり文では、語の はじまりが漢字であることが多い。語のはじまりが かな だと 語のはじまりであることが認識されにくい。とくに「は」は助詞「wa」だと思われやすい。

欠点をさける対策は、わかちがき だ。文章全部を わかちがき に できない場合でも、自分のウェブサイトなど、自分で割りつけを決められる場合は、「はずれ」などの ひらがなで はじまる単語のまえに 空白をいれる。(しかし、「1文字いくら」でおかねが動く場合は(はらう側でも、もらう側でも)、文字数の 水まし は悪いことと思われるので、空白をいれるのをためらってしまう。それで、ひらがな書きすべきだと思っても、徹底できないことがある。)

生徒、student、学生

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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だれかが大学生をさして「生徒」と言うと、「それはまちがいだ」という指摘がされる。確かに、公式な用語では、大学生は「学生」であって「生徒」ではない。非公式な会話でもそれにあわせたほうがよいこともあるだろう。しかし、わたしの個人的語感では、「学生」と「生徒」とは、完全に同じ意味ではないものの、意味のかさなりが大きく、気分だけで使いわけてよいことが多いものだと思う。非公式な文脈で大学生をさして「生徒」というのを(逆に高校生などをさして「学生」というのも)「まちがい」だと決めつけるのは、ことばを使う自由をせばめる、よくないことだという気がするのだ。

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日本の制度上の用語として、小学生は「児童」、中学生・高校生は「生徒」、大学生は「学生」とされている。その根拠は「学校教育法」という法律だ(と聞いているが、わたしはまだ自分でたしかめていない)。なお、高専専門学校の場合はどう言うのかも、わたしは知らない。

これを前提として、大学という組織の公式文書では「学生」とすべきというのはもっともだと思う。授業の「シラバス」などは、原稿は教員が書くだろうが、発表する責任は大学にあるから、用語は大学の公式文書にあわせるべきだろう。

他方、個人的な会話では、制度上の用語に合わせる必要はないと思う。

授業のなかで使う用語は、制度上の用語に合わせる必要があるかどうか、微妙なところだと思う。

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わたし個人の「生徒」などのことばに関する感覚は、子どものころから、次のように発達してきた。

小学生のころ、小学生は「生徒」でもある、と思っていた。逆に「生徒」ということばで思いうかべるのはおもに(学校にいるときの)小学生だった。「生徒」ということばを思いうかべるきっかけとして、童謡の「すずめの学校」や「めだかの学校」が重要だった。どちらでも、「生徒」は「先生」と対照されて出てきた。(「児童」ということばがあることを知って、自分も「児童」にふくまれるのだろうとは思ったが、日常に自分が「児童」であると意識することはなかった。)

中学生のころ、中学生は「生徒」であると思っていた。(「学生」であるとは思っていなかった。「学生服」を着てはいたのだが。) 中学1年から ならいはじめた(学校での)英語では、中学生は junior high school student であり、student のうちだった。大学生も、college student であり student のうちだった。英語の student は日本語の「生徒」と「学生」の両方にあたる、と理解した。その理解が身についたあと、わたしが使ったものよりも少し古い英語の教科書では「生徒」に対応する英語を pupil としているものがあることを知った。しかし pupil は自分が使う(ように訓練される)単語には はいらなかった。(大学生ぐらいになって、語彙がだいぶふえたときに、pupil もそのうちにふくまれたが、自分にとって student は日常語だが pupil はそうでない。)

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いまのわたし個人は、つぎのような語感をもっている。

「児童」は「子ども」と同じだ。発達段階をさすことばであって、役割をさすことばではない。(小学生でも学校の場での役割をさす場合は「生徒」が妥当だとわたしは思う。)

「生徒」は、「先生」あるいは「教師」と対になる役割だ。ただし、学校の場での役割をさす場合と、学校などの制度と関係なく師匠との関係をさす場合がある。そのうち師匠との関係のほうは、「弟子」とだいたい同じだ。

「学生」は、学問に取り組むという役割であって、原理的には教師は関係ない。(しかし、教師と対になる役割をさす場合もあり、その場合は、「生徒」とはほぼ同意語だと思う。)

わたしが実際に使う用語は、このような語感によるものと、制度上の用語とがまざったものだ。

2017-11-28

引用符のなかまの役割分担を決めたい

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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最近1年間ぐらいのうちに、次のような主張を読んだ覚えがある。

「引用符は引用をあらわすものだ。それ以外の目的に使ってはいけない。」

ただし、どこで読んだか、だれの発言だったかを覚えていない。ことばも正確に覚えているわけではなく、上のかこみのかぎかっこの中の文はわたしが記憶から構成したものだ。したがって上のかこみの内容は正確には引用ではない。かぎかっこが引用符だというのはよいと思うので、上のかこみの内容を書いたわたしは、かこみの内容の指示にしたがっていないわけだ。

上のかこみのような発言をするのは、歴史学、哲学、文学を含む人文系の研究者や編集者だろう (ただし、そのすべてではない)。

文献を論評したり、参考にしたりするとき、もとの文献の文字づかい (必ずしも著者自身の文字づかいでなく、出版あるいは写本ができたときの文字づかいだとしても)を伝え、読者がそれを確認できるようにしたい、という趣旨はわかる。

原文をそのまま書いたのでは長すぎることがあり、省略は必要になる。そのときは、「 ... 」などの記号を一定ルールで使うことになっている。欧文では、文の頭であるかどうかによって大文字と小文字が変わることがあり、原文では文の途中の「this」を文の頭として引用したい場合には「 [T]his」のような形で明示しているのを見ることがある。

わたしは、自分がふだんから上のかこみのような規則に従うのはとても無理だと感じている。しかし、そういう規則をもつ本や雑誌に文章を出すことになったら、その規則を尊重して従う努力をしたいと思う。

しかし、引用以外の場面で、引用符と区別されてもよいが、引用符と同類の記号を使えることは必要だと思う。

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日本語を漢字かなまじり文で書くときにふつう使う引用符は、かぎかっこ(「」)、二重かぎかっこ(『』)だ。同じものの開き・閉じが対応する。かぎかっこ による まとまり のうちに かぎかっこ が含まれるときは、内側で二重かぎかっこを使う。

その第1の使いかたは、引用だと言ってよいと思う。わたしは小学校のときに、かぎかっこの使いかたを習った。そのときは、「引用」ということばは使われず、およそ「人の発言を伝えるときに使う」というような表現だったと思う。(それが引用と同じかちがうかについては、あとで議論したい。)

第2の使いかたとして、本などの題名を示す場合がある。この使いかたも、著者なり出版者[注]なりが決めた題名の文字列を忠実に伝えることになるので、「引用」の意味をやや広げればそれに含まれるとも言えそうだ。

  • [注] わざと「出版社」と書かなかった。出版者は、学会など、会社でない場合も多いからだ。

小学校で習った規則は、題名の場合も「」が基本で、「」の中にきたときだけ『』、だったと思う。しかし、近ごろ見るいくつかの学術雑誌では、本の題名は『』と決めてあることもある。

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日本語の出版物のうちで、欧文由来の「“ ”」などの引用符を見かけることもある。それとかぎかっことの使いわけについては一般のルールはない。出版物ごとにルールを決めていることはあるだろう。そのときごとの感覚で使っている人も多いと思う (わたしの場合もそうだ)。

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きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第1として、引用ということばを ゆるい意味[注]で使えば含まれそうなものがある。他人の言うことを伝えたいのだが、表現がもとの発言や文章のとおりでない場合だ。

  • [注] 「広い意味の引用」と書くと「それは引用ではない」としかられそうなので、別の表現を考えた。「狭い意味」「広い意味」にだいたいあたることがらを[2013-09-13の記事]では「鋭い」「鈍い」と表現してみたが、ここでは「きびしい」「ゆるい」としてみた。

わたしの小学校のときにならった「人の発言を伝える場合」でまず想定されたのは話しことばだった。話しことばは、正確に記録しておらず記憶によって再構成することが多い。わたしは、書きことばを「伝える」場合も同様に考えたので、引用符の使いかたはきびしい意味の引用に限るとは思わないまま育った。理科系[注]の専門文献でも(他の著作を細かく批評するときのほかは)、ことばを正確に伝えなくても趣旨が変わらなければよいとされることが多い。文科系の文献できびしい引用に限定することがあるのは、あとで知った。

  • [注] ここで「理科系」「文科系」ということばは、とてもおおざっぱに使っている。すべての学問を二分してしまおうなどという意図はない。

第1のものの変種として、自分の意見とちがう意見を想定してみたい場合がある。たとえば、次のかぎかっこの使いかただ。

「日本は核兵器を持つべきだ」という意見に、わたしは賛成しない。

このくらいの長さならばかぎかっこなしでも読めるが、もっと長くなると、意見の内容をかこむ記号がほしくなる。

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きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第2として、単語を典型的でない意味で使う場合がある。次のような場合を含む。

  • 世の中の人が言う○○ (自分はそれが○○であるとは思わないが)を「○○」と書く。
  • (世の中ではふつう○○と呼ばないものを) 自分があえて「○○」と呼ぶ。

たとえば、今の日本は常識的に見て戦争中とは言えないが、ある意味で戦争中と似た状況にある。その「ある意味」を伝えるために、かぎかっこつきで「戦争中」 と表現する。

第2のものの変種として、見慣れない単語を持ち出すとき。あるいは、強調したいときがある。これは、日本語では傍点か傍線、欧文ではアンダーラインかイタリック体、HTML では <em>...</em> か <strong>...</strong> が 適切なのかもしれない。しかし、機械への文字入力で文章を書いていると、傍点などは技術的にできなかったり、できてもてまどるので、(わたしは)かぎかっこで書いてしまうことが多くなった。同様にかぎかっこを使う人が多いかどうかは確かめていないが、めずらしくはないと思う。

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引用符には含まれないと思うが、そのなかまであるものとして、かっこ[括弧]がある。「( )」が基本で、「{ }」(波かっこ)、「[ ]」(角かっこ)も同類だ。

論文、とくに自然科学系の論文は、かっこなしでは、まず書けないだろう。かっこが多重になる場合の対策、かっこ類の使いわけなどは、一般的ルールはあまり明確ではなく、出版の場(雑誌など)ごとのローカルルールや、専門分野ごとの習慣などによっていると思う。

わたしは、文章を書くときのかっこの役割を次のように理解している。かっこは、文を補足する情報を与えるための記号だ。かっことその中身をいっしょに省略しても、文は形式的にも正しく、基本的意味も変わらない(ように書くべきだ)。

しかし、数式でのかっこの意味はちがう。そこでは、かっこは、要素をまとめるための記号だ。かっことその中身をいっしょに、ひとつの(変数をあらわす)文字で置きかえて、その置きかえを示す式を別に書けば、式は形式的にも正しく、意味も変わらない(ように書くべきだ)。

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そこで、きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第3として、数式でのかっこと同様に、(数式でない) 文のうちでの語句のまとまりを示したい場合がある。

条件つきの議論どうしを比較するときなど、まとまりを示しておかないと、とても読みにくい。そこで、わたしは、かぎかっこを使ってしまうことが多い。

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引用符のなかまは複数の形があるので、きびしい意味での引用と、それ以外に引用符のようなものを使いたい場合で、記号を区別することは可能だと思う。

ひとまず、日本語の中で、きびしい意味の引用にかぎかっこを使うと決めたとしよう。それ以外の場合にはどんな記号を使ったらよいだろうか。

思いあたるのは、山かっこ(ギユメguillemets)「〈 〉」、二重山かっこ「《》」だ。これは、フランス語では引用符として使われている。日本語で使われる場面は限られているが、使うならば〈単語を典型的でない意味で使う場合〉が多いと思う。

【わたしが学生のとき読んだ本のうちには、山かっこを使ったものもあったはずだが、わたしはかぎかっことの区別を気にとめなかった。本や雑誌の題名を示すところで使われていたというおぼろげな記憶があるだけだ。

ところが、わたしが共訳者になった本[読書ノート]の題名の内で使われてしまったので、わたしはのがれられなくなった。原題には discovery ということばが引用符なしで含まれているのだが、日本語版の出版社が山かっこを使った。わたしはその理由を聞いていない。この本の場合、山かっこの必要性は大きくないと思う。しかし、同じ出版社から出た別の本[読書ノート]の場合は、あきらかに文字どおりではない意味で使われている。】

ここでわたしは、〈きびしい引用には かぎかっこ を、それ以外は山かっこを使う〉という方式を提案したい。もちろん、それは、その方式を採用する著者や出版者がふえないとなりたたない。しかも、わたしは、これまでの かぎかっこ を多く使う習慣を簡単に変えられそうもない。ときたま、山かっことの使いわけを試みてみようと思うところまでだ。

2017-11-24

なかぐろ、ハイフン、空白

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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日本語を漢字かなまじりで書くときには、わかちがきの習慣がない。わかちがきの習慣のある言語で、空白でくぎられたそれぞれの文字列を仮に word と呼ぶことにする。わかちがきの習慣のある言語では、ひとつの人名などの固有名が、複数の word からなっていることがある。それを日本語の中にもちこんで、かたかなで書こうとしたとき、わかちがきの構造をどう残すかが問題になる。

一体の固有名だという意識が強い場合は、空白なしにつめてしまうこともあるだろう。

わかちがきの構造をそのまま、空白をはさんで表現することも考えられる。わたしはこれをすすめたい。しかし、現実の日本語圏ではあまり見られない。多くの人が、空白をはさんだかはさまないかの区別を意識しないからかもしれない。

多く見られるのは、なかぐろ(「・」)を使うことだ。

ところが、なかぐろは、列挙にも使われる。なかぐろを含む人名を列挙するとき、列挙もなかぐろであらわしたのでは、人数がわからなくなる。

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アルファベットを使う言語では、ハイフンで語をつなぐ構造もある。

日本語の中で固有名をかたかなで書くとき、アルファベットのハイフンを意識的に転写する場合は、二重ハイフン(「=」)を使うことが多い。(もとのアルファベット表記で二重ハイフンを使っている場合もいっしょになってしまうが、こちらの件数は少ないだろう。)

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ところが、最近の高校の世界史の教科書では(複数の会社が出版しているが、いずれも)、ひとつの固有名の内部では、空白のところも「=」にしている、という話があった。なかぐろは固有名を列挙するときに使うので避けたかったらしい。

そのことを確認しようとして、教科書ではないが、それと共通の材料を編集したという『新 もういちど読む 山川 世界史』の本を見てみたが、言われるようになっていない。複数の word からなる人名の word間はほとんど なかぐろ だ。この本は教科書とは別の編集方針によっているか、あるいは句読点に関する編集方針がかわる前の教科書にもとづいているのかもしれない。

(なお、『新 もういちど読む』の本の索引の人名で、二重ハイフンを使っているものが少しだけある。そのうち「サン=シモン」はSaint-Simonだが、「サン=マルティン」(ラテンアメリカの独立運動家)はSan Martin、「ド=ゴール」はde Gaulleのはずで、この本の編集方針でなぜ なかぐろ にならなかったのかわからない。もしかすると、執筆者ごとの不統一が残ってしまったのだろうか。)

文献

  • 「世界の歴史」編集委員会 編, 2017: 新 もういちど読む 山川 世界史。山川出版社, 333 pp. ISBN 978-4-634-64090-0.

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なかぐろ の(広い意味の)列挙の働きには、単純な列挙のほかに、「A・B間」などの構造をつくる場合がある。

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(1970年代に得た知識だが) 中国語では(漢字で横書きの場合)、句読点の「、」と「,」を区別する。日本語の読点(「、」)と同様な働きをするのはコンマ(「,」)のほうだ。「、」は列挙に使うのだ。これは単純な列挙だ。

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これから、どうしたら、まぎらわしいことを少なく、読みやすくできるだろうか。

わたしは、日本語にも空白によるわかちがきを導入するべきだという意見だ。そうすれば、英語で空白のところは日本語でも空白でよい。ハイフンはハイフンで受ければよいと思う。なかぐろは列挙に使えばよいと思う。「A・B間」は「A--B間」のほうがよいかもしれない。ここで「--」はダッシュで、便宜上ハイフン2つで示しておいた。ダッシュとハイフンの区別は、フォントによってはむずかしいので、規則にしないほうがよいかもしれないと思う。

わかちがきを導入しない場合にどうしたらよいかは、よくわからない。

- 6 [2017-11-26 追加] -

今の日本語圏には、外来語でない日本語の単語を書くとき、ハイフンを使う習慣はない。しかし、わたしは、複合語の組み立てを明確にするために、漢字要素どうしの比較的強い結びつきは続けて書き、比較的弱い結びつきをハイフンで示すという書きかたを奨励したいと思うことがある。(なかぐろではまずいと思う。) ただしこれは、ハイフンとダッシュとが区別できることが前提だ。

- 7 [2017-12-03 追加] -

日本語での なかぐろ の使いかたのうちに、英語などでの単語を頭文字だけあるいは途中で省略するときに使うピリオド(「.」)に対応するものがある。ただし、この場合の なかぐろ は、連語の途中ではよく使われるが、連語の最後に出てくるのは例外的だ(英語からの翻訳ならば最後のピリオドは対応物なしに省略されてしまう)。わたしは、日本語でも横書きならば、ピリオド(「半角」のピリオドとそのあとに「半角」の空白)で表現するのがよいと思っているが、これは日本語圏での習慣になっていないので、妥協して なかぐろ を使うこともある。

2017-11-19

「チバニアン」でよいのか?

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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この記事は、[前の記事]に関連するが、前の記事が入門的解説を意図したものなのとはちがって、この記事は個人的感想を書いたものだ。雑談であって結論はない。

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近ごろは多くの自然科学系の国際学会の作業言語は英語になっている。IUGS [前の記事参照] の場合もそうなのだと思う。しかし、新しい学術用語をつくるときには、(英語、フランス語、ドイツ語が同等に重要だった20世紀初めごろまでの習慣のなごりだと思うが) ラテン語で構成しようとする考えも続いているようだ。

地質時代の英語名は、「紀」「世」「期」の前に、形容詞がつく。その形容詞は、昔からあるものはさまざまな形をしているが、新しくつくる場合は、地名のあとに -ian をつけたものに、だいたい統一されているようだ。

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千葉(Chiba)に -ian をつけるとすれば、すなおには、Chibaian になる。しかし、それは認められにくいらしい。母音 a と 母音 i がつながる hiatus (言語学での意味であって、地質学での意味ではない)がきらわれるのかもしれない。また、ラテン語では(わたしは正確に知らないのだが)、「ai」という音のつながりは「ae」に変えられることになっているようだ。そうすると Chibaean になる。ところが、英語では「ae」は「e」と同様に発音される。Chibaean は英語では「チビーアン」のように読まれるだろう。これでは、日本語話者にはおもしろくない(と感じる人が多い)と思う。

Chiba の最後の a を語尾とみなして取り除いて -ian をつければ Chibian になる。ラテン語や英語としてまずいことはないと思うが、日本語話者にとって「チビアン」はおかしくひびくだろう。

Chibaと -ian の間に子音をはさむことが許されるとすれば、何を入れるだろうか。わたしはラテン語の語の組み立てかたをよく知らないが、形容詞をつくるときによく出てくるのは s だと思う。(英語の「Japanese」に s があるのも、s をふくむ接尾語が使われやすいということなのだと思う。) 更新世のジェラシアン期の名まえは Gela という地名にちなんで Gelasian となっている。同様に Chiba から Chibasian という形はよさそうな気がする。ところが日本語でこれは「千葉市」を連想させてしまう。模式地の候補地があるのは千葉県ではあるが市原市なのだ。「チバシアン」はうまくない。

(わたしの推測だが)たぶんそういう考慮もあって、GSSP候補地をIUGSに提案した日本の研究者たちは n をはさんだ Chibanian という形を採用したのだと思う。(時代名もすでにIUGSへ提案したのかどうか、わたしは知らないのだが。)

しかし、Chibanian と聞くと、わたしは、Chibania という地名があることを期待してしまう。「千葉」を知らない多くの人がそう思うだろうと思う。わたしはそういう理由で「チバニアン」もうまくないと思う。ただし、逆手にとって、「ここが Chibaniaだ」として売り出すのならよいかもしれない。

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しかし、ほんとうに、母音で終わる地名のあとでも、-ian でなければならないのだろうか。

地質時代名の形容詞を見ると、-ian でない -an で終わっているものも見られる。地質学の歴史の中で古い時期に決まったものは今とちがった命名規則なのかもしれない。しかし、原生代(古生代よりもまえの時代)の「紀」の名まえは最近決まったものだろう。原生代のうちいちばん新しい(現在に近い)「紀」は Ediacaran とされている。これは Ediacara という地名にちなんだものだ。すると、-a で終わる地名に対する形容詞は -an でもよいのではないか?

もしその形が許されるとすれば、千葉にちなんだ時代名は、Chiban でよいと思う。「チバン」では「地番」などと同じ音になってしまうけれど、日本語の中では「千葉期」「千葉時代」などと呼べばすむだろう。

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ところで、Chiba という文字列は、ローマ字(ラテンアルファベット)を使う主要な言語のあいだで、読みかたがさまざまだ。[別記事「Chiba行きの電車」]に書いたように、イタリア語だと思って読めば「木場」、フランス語だと思って読めば「芝」、ドイツ語だと思って読めば「ひば」になってしまう。英語だと思って読めば、たぶん「チャイバ」だろう。ただし、別記事には書かなかったが、中国語(ピンイン)とスペイン語も含めれば、「チバ」と読むのが多数派ではあるのかもしれない。

千葉県には申しわけないが、わたしは、地名に由来するが地名を離れて使われる学術用語には、このように読みかたがまちまちに化けてしまう地名は、なるべく使わないほうがよいのではないか、と思う。

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日本語のローマ字のつづりかたを問題にすれば([2017-03-21の記事]参照)、「チバ」を Chiba とつづるのはヘボン式で、日本式や訓令式では Tiba だ。わたしは日本語のローマ字つづりは訓令式が標準だと思っているので、「チバ」ならばTiba とするべきだと言いたい。

しかし、(松山(Matuyama)基範の時代には、少なくとも物理学関連の学者のあいだでは、欧文で署名するときも日本式が多数派だったのだが)、今では、日本語の単語を欧文にまぜて書くときのつづりかたはヘボン式が圧倒的に多いだろう。訓令式にしようという意見は少数意見にしかなりそうもない。そこでむしろ、「チバ」以外の地名を使ったらどうかという意見に傾く。

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千葉県は、旧国名で言うと、上総(かずさ)、下総(しもふさ→しもうさ)、安房(あわ)の三つをあわせたものにだいたい一致する。

模式地候補地の地磁気逆転の層準は、このうちの「上総」にちなんだ「上総層群」という地層の中にある。また、模式地候補地の場所は、上総の国に含まれるらしい(わたしの確認がまだできていないがこれからする予定)。

そこで「上総」にちなんだ名まえが考えられる。Kazusa も「-a」で終わっているから、もし「-ian」でなく「-an」でよいならば、Kazusan (カズサン)とするべきだろう。「-ian」にしなければならない場合は、2節と同様のことを考えなければならないが、Kazusian (カズシアン) でも、おかしいことはない。

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地質時代の名まえを考えるときには、人間の歴史の中でなるべく古い時代の地名を使おうとする傾向もあるようだ。

そうすると、上総・下総にわかれる前の「ふさのくに」にちなむほうがよいような気もする。Fusa も -a で終わっているから、「-an」でよいならば Fusan (フサン)となるが、「-ian」にしなければならないならば、2節と同様な問題がある。

ただし、Chibanian の場合は、n の由来が不明だが、もし Fusanian (フサニアン)とする場合には、n は「ふさのくに」の「の」から来たという言いわけができるかもしれない。

なお、訓令式ならば「ふさ」は Husa だ。

しかし、わたしは、古語に関しては、ハ行は f でつづるのが順当だと思っているので(また、16世紀のポルトガル人も当時の日本語のハ行を f でつづっているので)、ここは Fusa でよいようにも思う。