固窮庵日乗

2017-04-10

「コンピュータと漢詩 AIは漢詩が作れるか?」

3月28日、石田勝則さんの「コンピュータと漢詩 AIは漢詩が作れるか?」というお話を伺ってきました。チーム乙訓主催の勉強会で、漢詩を作詩する方々が集まりました。

石田さんは京都コンピュータ学院教授(洛北校顧問)、京都大学工学部で計算機工学を専攻された後、65才で京都大学大学院情報学研究科入学され、西田豊明氏の下で学ばれました。研究テーマはインターネットWEBを用いた漢詩作詩支援システムから、人工知能との出会いで漢詩情報処理全般の研究へと発展しています。

私は以前から石田さんの論文を読んでその研究に興味を持っており、どのような方なのだろうと思っておりましたが、漢詩を作る方々の集まりでお目にかかったことがあるのに気付かないでおりました。石田さんの号は愚庵、日中友好漢詩協会で故棚橋篁峰氏に、その後大毎澱鷗吟社で楠野修氏に師事して作詩を学び、近畿漢詩連盟では幹事を務めておられる実作者でもあります。

インターネットWEBを用いた漢詩作詩支援システムを研究されたのは、若者を漢詩作詩の世界に導きたいということ、漢詩作詩の添削や、知識の蓄積など、優れた詩人ノウハウを残したいと言うことが動機だとおっしゃっていました。

その背景を伺った上で、御研究に基づいたサイト、「漢詩くん」(現在は公開停止中)のデモをしていただきながら、漢詩くんの目指すところや構造について説明して頂きました。

また、AIに漢詩が作れるのかということについては、コンピュータの話題でよく引用される落語「蒟蒻問答」を用いながら、実作者ならではのお話を伺うことができました。AIによる作詩はなかなかいいものができるときがあるそうです。我々は作った人が誰であるかには無関係に作品に感動するのであり、なぜ感動するのかは「漢詩の霊力」としか言いようがないという言葉が印象的でした。

勉強会は終始リラックスした雰囲気の中で行われ、多くの質問が出ました。質問の内容については加筆するかもしれません。

2017-03-02

『混沌』40号出来

2月16日発行の『混沌』40号目次を挙げておく。

同僚 水田紀久

司馬遼太郎書簡の紹介 古西義麿

大石真虎について――『百人一首一夕話』の挿絵作者―― 管宗次

雅俗文庫所蔵(仮題)『上方摺物貼込帳』について――高杉志緒

「寄瓢書画巻」翻刻紹介(四) 混沌会

多治比郁夫氏追悼寄稿集 水田紀久 肥田コウ(日へんに上が牛の告)三 中野三敏 古西義麿 仲井 平野翠 鷲原知良

混沌会例会記事 鷲原知良

私は今回は時間切れで投稿できず。「寄瓢書画巻」翻刻で佐久良東雄を担当しただけである。担当したのは1つだけだが、万葉集を2回通読して万葉仮名やこういう類いの和歌にもわりと慣れたと思う。

「寄瓢書画巻」は中之島図書館蔵、金澤卯右衛門(号秋橋)が珍蔵していた巨大な瓢箪に諸家が贈った書画をまとめたもの。往事の大阪の豊かな文化をうかがえる作品と言えるが、作品を寄せた人物伊勢の人が多いことがわかってきた。秋橋については西区の初代区長で大阪商工会議所の設立にも関わった人物だという程度しかわかっていないが、今後はその交友関係なども調査したいところだ。

瓢箪趣味については、大阪歴史博物館で特集展示「大坂の料亭主人、瓢箪を集める!」が行われ、今橋築地の料理旅館「瓢箪屋」宮里瓢遊(帯屋源兵衛)のコレクションが紹介されたことがある。

大阪歴史博物館:第44回特集展示「大坂の料亭主人、瓢箪を集める!」

ちなみに大阪歴史博物館は鴻池家旧蔵の大瓢箪を所蔵している。

瓢箪についてはこの本がおもしろかった。

2017-01-05

神格化を拒む茶神――ノーマン・ワデル『売茶翁の生涯』

ノーマン・ワデル『売茶翁の生涯』を読んだ。2008年にアメリカで出版されたBaisao, The Old Tea Seller: Life and Zen Poetry in 18th Century Kyoto を樋口章信が翻訳したものである。私は英語版を読まないままだったので、ここに来て翻訳が出たのは有り難かった。

売茶翁に関する伝記・年譜はこれまでもあったが、新しく発見された書翰などの資料を取り入れた本書はそれらを更新するものである。今後売茶翁について調べるときは、まず本書を手に取り、巻末の参考文献や論文に当たることになるだろう。

売茶翁はアメリカでは詩人として、また禅と茶の道を生きた人としてとらえられているという(4頁)。売茶翁の人気が、煎茶を愛好したり禅に興味を持ったりするアメリカ人を通じて日本にも逆輸入されるのはありそうなことだと思われる。

しかし本書そのものは、アメリカ人の目から見た新しい売茶翁像を提示したという趣向の書物ではない。日本人研究者と全く互角に、丹念に一次資料に当たった正統派の研究である。書翰の写真や印影等がふんだんに挿絵になっているのも楽しい。

特に興味を引かれたのが、「エピローグ 地方の有力な支持者たち」でとりあげられた松波(津田)治部之進と石川永庵に宛てた書翰である。これらは Baisao, The Old Tea Sellerがアメリカで出版された翌年以降の著者の研究を反映したものであり、英語版を読了した読者も改めて読むべき章である。

ただ漢文の引用に白文がないのは少々不便である。また本書の漢詩文の和訳は大槻幹郎『売茶翁偈語 訳注』による(頁)が、その解釈に疑問が残るものが多数見受けられた。これらの瑕疵は今後の研究で訂正されていくものと思う。

煎茶について学ぶには売茶翁のことを避けて通るわけにはいかないが、売茶翁の煎茶がどのようなものであったのかは詳しくはわからない。唯一の著作は「ほんの七頁(七丁のことだろうか:新稲注)の書物」(124頁)である『梅山種茶譜略』しかなく、その茶道具も処分してしまっている。しかしそのような態度こそが煎茶の持つ自由な精神の表れなのだろう。煎茶には利休のようなアイコンはいない。煎茶の世界で利休になれる者といえば売茶翁しかいないが、売茶翁自身はそのように祭り上げられるのを拒んでいるのである。

2016-11-27

「文雅の記憶―幕末・明治期文人と時代・政治・地域文化」に参加しました

11月19日に行われた「文雅の記憶―幕末明治文人と時代・政治・地域文化」についての覚え書き。

第1部「幕末明治文人の諸相」

  • 佐藤温「幕末の変革期における文人のあり方 大橋訥庵と菊池・大橋家の人々に着目して」 佐藤先生の近世文学会のご発表は聞きに行きたいと思いながら(会場が遠方になることが多く手許不如意につき)行けなかったので、非常に興味深く拝聴した。中国の文人は士大夫であるし生活を担当する者がいたと思うが、日本の文人は往々にして文雅に浸る一方で金勘定もしなくてはならないから大変である。その生活手段の型が明治にははっきりとできあがっているのだろう。明治期の引っ越しの挨拶状は他に見ていないのでわからないが、今の転居通知葉書のような型があったのだろうか。
  • 福井辰彦・中野未緒・高橋佳菜子「明治初年の菊地三渓」 福井先生の菊地三渓に関する論考はたとえば『京都大学附属図書館蔵 菊池三渓自筆稿本目録』に見られる地道でクソ丁寧(日野先生の真似です)なお仕事に裏打ちされている。そのテキストをあくまで丁寧に読む姿勢が学生さんに受け継がれているのがわかるご発表だった。中野さん・高橋さんは当然院生だと思っていたので三年生と知って驚いた。
  • 長尾直茂「太宰府に遺る吉嗣拝山関係資料について」 新幹線の中で吉嗣拝山に関する論文を読みながら骨筆について考えていた。長尾先生の仰るようにいかにも何か典拠がありそうな気がするのだがわからない。筆ではなく刀などの武器で自身の骨を一部に用いたものはないだろうか。

骨筆についてはTwitterでこんなやりとりをした。

稻本義彦@zinofrancescatt

@niina_noriko 大隈重信は明治22年に爆弾テロに遭って右足の切断を余儀なくされましたが、大隈はその右足をホルマリン漬けにして手許に保存するという、現代的な感覚ではかなり気持ち悪いことをしています。当時の感覚、あるいは当時の九州の感覚ではそれほどヘンじゃなかったのかも。

Retweeted by 新稲法子

retweeted at 12:51:30

@zinofrancescatt もしかすると身体のパーツを揃えておきたいという儒教的な感覚があるのかもしれませんね。宦官は一物を保存して一緒に埋葬していたそうです。大隈重信の脚はまだ残っていたと思いますが。

posted at 12:56:54

第2部「討議・文雅の記憶をめぐって」は第1部で話し足りなかったことに加えて現在このような研究をすることの意義についてが話題の中心となっていたと思う。私の場合は、乙訓の地元の人たちがまず地域の文化の掘り起こしにかかっておられて、それをお手伝いする形から研究が始まったので、地元の方たちが無関心ということはなかったが、こういったケースは珍しいかもしれない。私が発言しておきたかったことは、

  • 文雅の記憶を取り戻すことはその地域に住む人々にとって郷土に対する誇り(こういうのは現政権が重んじるところではないんですかね)に繋がる点で有意義である。
  • 文人の個性的な生き方にスポットライトを当てることは、生きづらいと言われる時代に多様な選択肢を提示することになる。

入谷仙介先生は漢文に関わる研究者は日本の漢詩人を一人は発掘すべきと仰っていたが、宇田栗園について研究できるように基礎工事くらいはできたかと思う。私は栗園や乙訓漢詩壇の研究について自分の縄張りにしたくないし、たくさんの研究者が取り上げることを願っているし、その価値があるテーマだとも思っている。

そのこともあって、次は別の地域・時代の漢詩を取り上げようと計画しているのだが、一度とりあげた地域との縁は一生続くと合山林太郎先生に言われたので、ここから立ち去って完全にサヨナラというわけにはいかなさそうだ。

第2部終了後も話は尽きず、会場で、また懇親会にも持ち越し、刺激的で有意義な一日だった。日本漢文学プロジェクトから予算をいただいたので、帰路の時間を気にせずこれらに参加することが出来た。感謝申し上げます。

2016-11-23

宇田栗園―乙訓漢詩壇の父―

11月19日に上智大学で行われた公開シンポジウム「文雅の記憶―幕末明治文人と時代・政治・地域文化」の第1部研究発表「宇田栗園―乙訓漢詩壇の父―」の読み原稿です。

日本漢文学プロジェクト:日本漢詩文における古典形成の研究ならびに研究環境のグローバル化に対応した日本漢文学の通史の検討: 公開シンポジウム「文雅の記憶―幕末・明治期文人と時代・政治・地域文化」終了いたしました

乙訓の文学

大阪から京都方面の電車に乗っておりますと、高槻を越えると京都の手前までしばらく非常に美しい景色が続きます。駅で言いますと、大山崎・天王山・長岡京市・向日市から桂辺りです。この辺りが乙訓と呼ばれている地域で、明治の行政区画で言いますと、現在、乙訓郡である大山崎町の他、長岡京市・向日市の全域、京都市伏見区、南区、西京区の一部に当たります。

この辺りは都に近く交通の要所であり、古くから和歌に詠まれた歌枕も多く、戦国時代には連歌師の山崎宗鑑や細川幽斎が住んだ所であり、向日市にある向日神社では六人部是香らを輩出して国学和歌のサロンが形成されていました。平安時代には嵯峨天皇離宮があり、漢詩も盛んに詠まれていますが、一般にはどちらかというと、和の文学で知られる土地柄です。

しかし、幕末から明治には、現在の長岡京市で、詩社が盛んに活動していました。その頻度や人々の熱心さから、乙訓漢詩壇というべきものが形成されていた、と言ってよいと思います。最初にその指導者の位置にあり、乙訓に漢詩の種を蒔いて育てたのが、今日お話する宇田栗園でした。

?“乙訓漢詩壇”を掘り起こす

1.史料の存在

乙訓の詩壇を知るための主な資料は、現在長岡京市教育委員会が所蔵している正木彰家文書です。

正木彰家文書はその名の通り長岡京市の正木彰家に伝わる文書で、聳山(しょうざん)と号した安左右衛門の代のものが中心になっています。正木聳山は今里村の戸長から始まって、府会議員や乙訓で初めての参議院議員を務めた政治家です。若い頃から漢詩に親しんでおり、正木彰家文書には漢詩の詩稿がかなりの分量残っています。

正木安左衛門 号聳(しょう)山(ざん)

天保11 今里村に生まれる

明治6  今里村戸長

明治9  乙訓郡第3区区長 地租改正総代

明治15 乙訓郡府会議員

明治25 衆議院選挙当選

大正2  没

正木彰家文書は『長岡京市史』の史料としても用いられ、既に目録も備わって影印にもなっています。しかし、漢詩関係、詩稿については影印はありません。そして、詩稿は数種類を紙縒りで纏めてあるのですが、目録にはこの一纏めごとに記録されています。そのため、どのような詩稿がどのくらいの数あるのか、目録にはその実態が反映されていませんでした。

私は平成24年に初めてこの詩稿の存在を知りました。そのきっかけはチーム乙訓という地元市民の団体です。

長岡京市は中国の寧波と姉妹都市なのですが、寧波を訪れた市民が、寧波詩社から『寧波竹枝詞』という本を送られるということがありました。寧波の名所や暮らしを詠んだ竹枝集です。

404 Not Found

これが刺激になり、市民の間で、長岡京、広くは乙訓で詠まれた漢詩を集めて出版しようという企画が持ち上がりました。詩吟の会に属している人たち、漢詩を作るサークルの人たちをはじめ、書道や文人画を趣味に持つ人たち、地元の観光ボランティアをしている人たち、さまざまな人たちが一体となって、チーム乙訓を名乗り、乙訓を詠んだ漢詩図書館などで探し始めました。

そのとき教育委員会が、正木彰家文書漢詩関係のものがあるとチーム乙訓に紹介したのです。私は長岡京市で漢詩の講座を持ったことがある関係で、チーム乙訓の人たちと接点があり、詩稿の存在を知りました。ですから、乙訓漢詩壇という文雅の記憶は、もともと現在そこに住む人たちの手によって掘り起こされた、これは強調しておきたいと思います。

さて、この正木彰家文書の詩稿の内容は、持ち主であった正木聳山が参加した詩会の詠草と、聳山自身の詩の原稿からなります。全部で42種類、年代は、わかっているもので、明治11年から37年までです。

写真からも数種類の詩稿が1つに綴じられているのがわかると思うのですが、こういう状態で整理されています。、

こちらは中身で、右が江馬天江、左が栗園の添削です。これは一番年下の会員が世話役を務めていたようなのですが、漢詩を集めて、一人の筆で名前を伏せて清書し、添削して貰ってから名前を記入し、回覧をするという仕組みのようです。このように順位を付けています。天江は全体的に栗園よりあっさりした添削なのですが、その天江に乙訓の人たちは順位も付けてくれと頼んでいます。かなり気合いが入っているんです。

添削に当たった人たちはこのようになっています。明治十年代、ごく初期に添削していたのが栗園と天江です。

【正木彰家文書の詩稿の添削に当たった人物

宇田栗園

江馬天江

中島静甫 淀藩の儒者

久保雅友 京都大学図書館長か。このころ旧制の北野中学の国語漢文教師(北野高校『北野百年史』)

大竹蒋逕 江馬天江の弟子

櫻井桂村 医師詩人。『熈春堂詩鈔』あり。

2.史料が伝える乙訓漢詩壇の様相

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さて、先に乙訓は和の文学で知られる土地柄だと言いましたが、宇田栗園が漢詩を広める以前の乙訓の文雅の様子を知ることが出来る史料に「向日里人物志」があります。これは『平安人物志』に倣って作られたもので、文政八年の日付が記されている写本です。

これによると、「和歌」「連歌」「俳諧」などの和文学が圧倒的に多いのですが、「儒家」や「詩」の分類もあり、「詩」の項に収められている8名のうち2名が宇田氏です。宇田家はもともと儒医の家柄でした。

宇田耕    嶌(周蔵) 宇田善継  村井秀胤

嶌(厚一郎) 僧(金林寺) 釈素峯  円(明寿院)

文政9年(1826)、この宇田家に栗園は生まれました。現在のJR長岡京駅すぐそばの神足(こうたり)にその家が残っています。――今、漢詩人として栗園と号で呼んでいますが、幕末明治期の歴史では、岩倉具視の側近として、宇田淵という名で、知られた存在です。戊辰戦争では岩倉具視の息子たちの補佐役として従軍しましたし、維新後は京都にあって留守官を務め、御所の保存などに奔走し、75歳で亡くなるまで官僚として一生を終えました。これは後で触れますが、公家華族和歌の会である向陽会の初代幹事を務め、歌集『栗廼花』があります。辞典の類には栗園は勤王家、そして文雅の面では歌人として出てきます。

【宇田栗園】

字は淵、号は栗園、静観亭。健斎とも称す。文政9年(1826)、現在の長岡京市にあたる洛西の神(こう)足(たり)村で実相院門跡家臣宇田利起の四男として生を享ける。宇田家は儒医の家柄で、栗園も始め医業に就いたが、岩倉具視の側近として活躍した。戊辰戦争では官軍東山参謀長として従軍し、維新後は桂宮家家令、京都府大参事などを歴任明治34年(1901)、主殿寮京都出張所在任中に没、享年75。公家華族和歌の会である向陽会の初代幹事を務め、歌集『栗廼花』がある。

栗園の父は和歌を嗜んでいたので最初栗園にも和歌を学ばせますが、栗園は和歌より漢詩に興味がありました。すぐ上の兄秋嶺こと退蔵が漢詩好きで、この兄の影響があったと栗園自身語っています。そして二十才を過ぎたころ、京都にやって来た梁川星巌の門下となっています。

栗園の漢詩集『静観亭遺稿』の谷鉄臣跋には、梁川星巌門下で栗園が藤井竹外と親しく、酒好きな竹外と茶が好きな栗園、いい詩を見ると「妙」と言う竹外と「好し」と言う栗園という、対称的なエピソードが記されています。

竹外の『竹外二十八字詩』には栗園は大沼枕山・森春濤・江馬天江という錚々たるメンバーと並んで圏点を施していますし、梁川星巌が亡くなったときには『星巌先生遺稿』の凡例を江馬天江と連名で記しています。

文久二十六家絶句』にも栗園は収録されていますので、星巌門下や乙訓地方だけでなく、全国的に知られていたようです。

『静観亭遺稿』谷鉄臣跋

栗園君與竹外翁友善。同學詩於梁川星巖。竹外嗜酒好奇、君好茶愛正。故其詩品各如其人。竹外看他人詩、至其好處、便叫妙。君則稱好。君之稱好與竹外叫妙、其爲詞林佳話。

栗園君と竹外翁友として善し。同じく詩を梁川星巌に学ぶ。竹外は酒を嗜みて、奇を好む。君は茶を好みて正を愛す。故に其の詩品各々其の人の如し。竹外 他人の詩を看るに、其の好き処に至れば、便ち妙と叫ぶ。君は則ち好しと称す。君の好しと称すと竹外の妙と叫ぶと、共に詞林の佳話為り。

藤井竹外『竹外二十八字詩』明治11年刊

圏点 大沼枕山・森春濤・江馬天江・宇田栗園

梁川星巌『星巌先生遺稿』

凡例 江馬天江・宇田栗園

文久二十六家絶句』

鷲津毅堂・大沼枕山・森春濤……宇田栗園

栗園が乙訓地域に漢詩を広めたのは文久年間から明治初期のことでした。梁川星巌が安政の大獄捕縛される直前に亡くなったことで、弟子であった栗園も監視の眼の下で日々を送ることになります。この時期に栗園は、地元乙訓で盛んに詩を作ったのでした。

乙訓の詩人たちの漢詩集『西岡風雅』の宇田泰による序文には、当時のことが次のように記されています。

文久元治輭家君方家居無事?授之暇與諸同輩及從游諸子以詩相唱和一時傳爲盛事及

初め文久元治の間、家君家居事無きに方(あ)たり、教授の暇、諸同輩及び従游せる諸子と詩を以て相唱和す。一時伝へて盛事と為す。

明治の世になって栗園は京都に移住し、指導者を失った乙訓の人たちは解散します。しかしいったん火の付いた漢詩熱は冷めることがなく、新たに詩社を結成します。栗園が幕末に人々と詩を詠んでいたときには、その集まりに名前があったのかどうかわかりませんが、この詩社は共研吟社と名付けられました。乙訓の人々は改めて栗園に指導を仰ぎます。

後で述べますが、このころ栗園は和歌を詠むようになり、乙訓の人たちが『西岡風雅』という詩集を出版した頃は後進に託しています。『西岡風雅』は乙訓漢詩壇の全容を窺える詩集で、宇田家からは4人も作品を収めていますが、栗園はこの頃漢詩をやめていますので、そのように作品を収めることはなく、題辞を寄せています。

『西岡風雅』

題簽・魚尾題・内題共に「西岡風雅」

縦19.4?横12.0?、銅版印刷刊本

序・跋共に明治十五年。私家版か。

明治十年代までの乙訓漢詩壇の集大成。詩体は七言絶句が多い。

【作者】

宇田振振斎 宇田秋嶺 佐藤玩龍 岡本棠陰 上羽西樵

正木聳山  宇田雪窓 宇田研谷 藤井紫山 八山碧濤

秋山強堂  樋口敬軒 森本桑泉 岡本犬川

【栗園の題辞

謬向吟壇作主盟 謬まりて吟壇に向いて主盟と作り

恍然一夢十餘春 恍然一夢十余春

故園風雅今如此 故園の風雅 今此の如し

且喜斯文有替人 且つ喜ぶ斯文に替人有るを

(「西岡風雅題辞 其の三」『西岡風雅』・『静観亭遺稿』所収)

嚶求吟社

残された詩稿によると乙訓ではこの後も詩会が開かれ続け、漢詩ブームは栗園が亡くなってからも櫻井桂村という新たな指導者を迎えて大正時代まで続きます。正木彰家文書の詩稿だけでも延べ53名にのぼる人々の名前があり、これらの人々は詩会に参加し続けるコアメンバーの他、詩稿だけを寄せているケースや、作品集の回覧に名前が見えるケースがあります。

櫻井桂村を迎えてからの詩社には、共研吟社とは別に嚶求吟社と名付けられたものがありました。嚶求唫社については正木聳山が『嚶求吟社紀事』と『嚶求吟社宿題席題録』という二つの資料に非常に詳しく記録しています。

『嚶求吟社紀事』

嚶求吟社の会毎に参加者や時間などを記録したもの

『嚶求吟社宿題席題録』

宿題と席題を記録したもの

これによると、だいたい昼頃に正木家に集まって、先生にはお膳を取り、他のみんなは弁当で、酒も飲みながら、これは量もわかっていて一人二合です、おそらく宿題の詩を批評し、席題の詩を作ったようです。会は晩まで続き、櫻井桂村はそのまま正木家に泊まり、翌日帰っています。

こういった、当時の詩会の具体的な様子がわかるのも、正木彰家文書の詩稿の特徴といえましょう。

詩人宇田栗園はいかにして忘れ去られたか

漢詩から和歌

宇田淵(栗園)の和歌

さて、これほどまで盛んだった乙訓漢詩壇、全国的に有名だった詩人宇田栗園が忘れ去られてしまったのは何故なのでしょうか。

理由は二つ考えられますが、一つには、これは栗園の個人的な事情ですが、その人生の途中で、漢詩を詠まなくなって、和歌を詠むようになったからというのが挙げられます。栗園は向陽会という華族短歌の会の初代幹事を務めているのですが、そういう業績で和歌の方面ではある程度有名で、忘れられた文雅の記憶というと、そこまで忘れられていないかもしれません。

なぜ漢詩から和歌に移ったのかと言うことを考えるためには、もちろん和歌の検討が不可欠ですが、まだそこまで研究を進めることが出来ていないというのが実情です。これについては、宇田家に和歌短冊が大量に残されており、現在調査を進めているところです。(短冊写真)

これまで宇田栗園と乙訓漢詩壇についてお話してきたことのほとんどは、既に論文になっています。今日はせっかくですので、最期に現在考えていることに触れておきたいと思います。

“向陽”の典拠

星巌門下だけでなく全国的に名の知れた漢詩人であり、乙訓の詩壇を育てた栗園がなぜ漢詩を止めてしまったか、これは、栗園は勤皇家でありますから、勤皇家の文雅としては和歌になるのは当然のことのように思われます。言うまでもなく明治天皇和歌を好まれました。ましてや、栗園は向陽会という明治天皇の発案で作られた旧華族和歌の会の初代幹事を務めています。

【向陽会】

明治天皇の発案で設立した旧華族和歌の会。

高崎正風も指導に当たった。岩倉具視が初代の幹事として宇田栗園を推薦。

この「向陽会」という名称について、高崎正風が会員に向けて行った演説の筆記によると、「宇田翁会員と協議し侍従長御歌所長へも相談の上向陽会と名を付け」と、正風と栗園が付けたとはっきり言っています。

国立国会図書館デジタルコレクション - 高崎正風演説筆記

一方、乙訓の地元では、向陽会という名称について、太陽の「陽」ではなく日月の「日」を書きますが、栗園が、向日市、向日神社の「向日」を付けたのだと言われることが多いです。しかしこれには、地元の方のお気持ちはわかりますが、はっきりとした根拠がありません。また、いかに愛郷心が強くとも、天皇の発案の歌会に自らの故郷の名前を付けるということは、勤皇家でなくても、たとえ現代でもありえないことだと思います。

私は、この「向陽」という語にいかにも勤皇家らしいものを感じます。日に向かう、太陽に向かう、の「太陽」とは、天皇を表しているのではないでしょうか。

明治の、日本の漢詩にはそのような用例が見られます。たとえば、国分青崖の詩の用例は、まさに天皇に向けた忠誠心を表しています。

国分青崖『青兒軋検抓二十

後醍醐天皇六百年祭追懷聖蹟恭賦奉奠十五首

北遷車駕趁山陰 間道崎嶇夜正深

十字白櫻人不解 君王獨識向陽心

また、太陽に向かって咲く花に「葵藿(きかく)」があり、これはアオイやヒマワリなどと訳されていますが、「葵藿の心」は臣下の君主に対する忠誠心といった意味合いで伝統的に用いられている表現です。森槐南の「向陽葵藿心」はこれに「向陽」を添えて用いています。

森槐南『槐南集』巻十七「諸相五首」

衆口居然欲鑠金 誰存葵藿向陽心

只爭依託何人重 定識猜嫌各自深

白日雷霆環殿柱 紫宸袍笏伏廊陰

御前唯諾俱流汗 虛賺蒼生望雨霖

向陽会は明治天皇維新後京都に残った公家華族の精神的な荒廃を心配して発案したものです。その気持ちに答える名称として、「向陽」と付けたのではないでしょうか。

勤王和歌

また、栗園の歌集は『栗廼花』という題名ですが、この題名にも、歌人としての栗園の立場が現れていると思います。

これはなぜ栗なのかはよくわかりません。そもそも、栗園という号の由来もわかっていません。栗園の宅の庭のシンボルツリーが栗の木だったのではないかとも思いますが、推測の域を出ません。

今、私が注目するのは栗ではなく、「某々の花」という「の花」の方です。これは、高崎正風の『埋木廼花』という歌集のタイトルを思い起こさせます。これは、明治天皇が地方を行幸された際に作られた歌集の1つです。

高崎正風『埋木廼花』 明治9年刊

宇田栗園『栗廼花』  明治37年

栗園の歌集もこの流れの中に位置づけられるものではないでしょうか。栗廼花が出版されたのは栗園の没後になりますから、その書名にどこまで栗園の意思が反映されているかは定かではありませんが、少なくとも出版に当たった人々は「某々の花」という書名の与える印象を理解していたと思われます。

漢詩文化の終焉

栗園は自らの人生において一貫して勤皇家であったわけですが、尊皇思想を持った詩人梁川星巌の下では漢詩を詠み、岩倉具視を通じて明治天皇と繋がった状況では和歌を詠むというように、その文雅は状況に合わせて選んだのだと考えています。

同様に、乙訓漢詩壇に集った人々も、自らの人生の状況に合わせて漢詩という文雅を選択していたのではないでしょうか。共研吟社や嚶求吟社に参加して漢詩を詠む人と、向日神社のサロンで和歌を詠む人は、これはまだ詳細な調査を経ていませんが、あまり重ならないように思われます。儒教の影響を避けられない漢詩と、国学と密接な関わりのある向日神社における和歌は、その性格上相容れない部分が大きいと言えますが、それ以上に、たとえば嚶求吟社の参加者の多くが参議院議員の正木聳山をはじめとする指導者層であり、漢詩というのが、ある種、そこに近付くため、立身出世のためのツールとしての役目を果たしているように見えます。

それはあたかも、現代の経営者が茶道を嗜んで茶会で交遊を広げたり、会社員がゴルフをしながら情報を集めたりするかのようです。

ツールとしての漢詩が、指導者層の世界で有効に働かなくなったころ、漢詩作者の裾野も急激に狭まっていったのだと思います。

ご清聴ありがとうございました。

2016-09-18

柏木如亭と京都

平成28年度全日本漢詩大会9月17日のパネルディスカッションで私が話した分について、時間切れで話せなかった部分を加えてupしておきます。

 本日は遠方から京都に来られた方もたくさんいらっしゃることと伺っております。旅の楽しみの1つに食事がありますが、京都の名物を既に召し上がった、またこれからという方々に、ちょっとこちらをご覧いただきたいと思います。

(版本見開き全体画像)

 祇園の田楽豆腐、加茂の閉甕菜――これは下鴨のすぐき、北山の松蕈、今でも採れるかどうかはちょっとわかりませんが。東寺の芋魁、これは棒鱈と炊き合わせた「いもぼう」というおばんざいで有名です。錦巷は錦市場ですね。桂川の香魚(アユ)、これらは子供でも知っているおいしいもの。

 鯉(コイ)・鯽(フナ)・鯇(アメ)・鯝(ワタカ)、みな淡水魚、川魚ですね、これは琵琶湖から。棘鬣(タイ)・比目(ヒラメ)・方頭(アマダイ)・大口(タラ)、海の魚は「名醃」、塩漬けにして若狭から京都にやって来る。

 水菜・蕪菁[かぶら]・腐皮(ユバ)・麪筋(フ)、昆布・糉子(チマキ)・鯧魚(マナガツホ)・海鱧(ハモ)、こういった京都のおいしいものは「僕を更へて数へ難し」、これは『礼記』の表現ですが、元々は儒者の行動規範について、召使いが交替するくらい時間をかけても数え尽くせないほどたくさんあるという孔子の言葉です。それをふざけておいしいものを数えるのに使っているのですね。

 この本が出版されたのは文政5年(1822)、200年近く前になります。今なら京都でも鯛や比目魚も新鮮なものが食べられる、といったように事情が違うところもありますが、多くは、京都のおいしいものとして、現在でも思い浮かべるのではないかと思います。

 著者は柏木如亭、本の題名は『詩本草』です。さて、この柏木如亭という人、今日ここに来られるような方は御存知だと思いますが、一般には、それほど知られておりません。しかし、如亭には昔から熱狂的なフアンが存在します。

 フアンと言いますか、如亭に「心酔」していた最初の人物として梁川星巌が挙げられます。星巌は如亭と「忘年の友」、つまり年齢関係なしの付き合いの仲だったといいます。如亭が亡くなったあと、先ほどの『詩本草』もそうですが、遺稿を出版するために奔走したのが星巌です。

 永井荷風は、父禾原が漢詩人、母も漢詩人鷲津毅堂の娘で、漢文の素養がある人ですが、如亭の『詩本草』を「江戸詩人詩話中の白眉」と絶賛しています。

 また、詩人日夏耿之介は、如亭を「江戸のボードレール」と呼んでいます。

 如亭の、洒脱で洗練された詩は西洋文学を好む人と相性がよいのかもしれません。フランス文学者の生田耕作も、晩年、日本の漢詩に親しんでおりますが、好んだ詩人の一人が如亭です。生田耕作氏の始められた日本文化研究会の方々は、あとでお話します如亭の墓を復興されました。

 このように、長らく知る人ぞ知る詩人であった如亭が比較的広く知られるようになったのは、江戸の漢詩についての書物が立て続けに出版された1970年代です。富士川英郎の『江戸後期の詩人たち』が73年、中村真一郎の『頼山陽とその時代』が76年に出版されています。

 80年代に入ると、中村真一郎が1985年に岩波の古典を読むというシリーズで『江戸漢詩』という本を出しています。江戸の詩人たちの作品を紹介している本です。

 私事になりますが、この本が出たとき私はちょうど大学生で、ドイツ文学卒論を書くつもりでした。今日こんな場所におりますが、漢文に興味はまったくありませんでした。それどころか、漢文というものは古臭く説教臭いというイメージがあり、あまり近付きたくないものでした。

 中村真一郎が書いたのなら読んでみようと、『江戸漢詩』を手に取りました。そして読んでみて、ほんとうにびっくりしたんです。なんて垢抜けていて、お洒落で、かっこいいんだ、と。日本の古いもの、ましてや漢文などダサイと思って西洋のものばかり見ていたのが、自分の足下にこういう世界があったなんて、とほんとうに驚いて、急遽、江戸の漢詩卒論を書くことに変更したんです。今考えるとものすごく無謀なんですが。

 それはさておき、如亭は江戸の人で、今から250年ほど前、1763年に小普請方大工棟梁職の家に生まれました。市河寛斎の江湖詩社という詩社に参加し、大窪詩仏や菊池五山などと並んで有名になりました。本来なら家督を継ぐところが、どういう事情があったのか、あるいは詩の神様に取り憑かれてしまったのか、家職を抛って旅に出てしまいます。

 如亭が生きた江戸後期は、漢詩人が地方に巡業と言いますか、地方に滞在して、そこの名士の世話になって、書画を書いたり、塾を開いたり、して稼ぐということがありました。如亭もそのようなライフスタイルを選び、日本のあちこちを旅しています。如亭の旅は、北は越後――如亭は新潟を気に入っていたようです――から、南は四国まで、広い範囲に及んでいます。

 頼山陽を始め、同時代の如亭を知る人によると、いつも最新流行の服を身に纏っていたとか、いつまでも少年のようだったとか、旅のあちこちで女性にもてたという人物像が記されています。如亭はお酒はほとんど飲めなかったのですが、大変なグルメでした。先ほどご覧に入れた『詩本草』など、如亭でなければ書けない本だと言えましょう。

 如亭はここ京都に2回やって来ました。1回目は40代の頃、2回目は50代になってです。如亭は故郷の江戸に帰ることはありませんでした。晩年に、一度過ごしたことのある京都に戻っているのです。

 如亭がどこに住んでいたかと言いますと、黒谷に廃寺を借りていたそうです。しばらくそこに住むのですが、先ほどの『詩本草』の京都のおいしいものの段の冒頭には、京都に再びやって来た喜びを歌った詩が記されています。

 京寓還来便当家  京寓還り来って便ち家に当つ

 嵐山鴨水旧生涯 嵐山鴨水の旧生涯

 老夫是非求官者  老夫は是れ官を求むる者にあらず

 祇愛平安城外花 祇だ愛す平安城外の花

嵐山、鴨水はもちろん嵐山、賀茂川です。昔過ごした京都での日々が蘇る、というのでしょう。老夫は自分自身のこと、官を求める、仕事を探し、出世しようという欲でここに来たのではない、京都の花を愛でにきただけなのだ、と如亭は詠っています。

 ちなみに、如亭が愛したのは桜のようなふつうの花だけでなく、もの言う花もでありまして、祇園に馴染みもいたそうです。

 ところで放浪の詩人というと聞こえはカッコいいですが、実際はなかなか厳しい面もあったようです。如亭と同じように旅をして、そこで漢詩を作り、書画を書いて(描いて)売るという生活をしていた詩人も、ある程度の年齢になると儒者としてどこかの藩に抱えられるなど、安定した生活に戻っていきます。

 しかし、如亭はどこかの藩のお抱え儒者になることもなく、定住して塾を開いて一派を為すこともなく、それどころか故郷の江戸にも帰らずに、京都で亡くなったのです。

 最晩年の作品に、「首夏山中病起」という七言律詩があります。もちろん京都で詠まれたものですが、

 山窓の風日患ひわずかに除く

 試みに清和を趁ひて寓居を出づ

 細響林間流水遠く

 残香蘚上落花余る

 人の伴と作る無し句を尋ぬるに従せ

 杖の行を扶くる有り輿を待たず

 忽ち憶ふ江城此の時節

 街を圧する新樹松魚を売るを

「山窓の風日患ひわずかに除く 試みに清和を趁ひて寓居を出づ」と、身体の調子がいいからちょっと外出してみようか、と始まるこの詩は、「忽ち憶ふ江城此の時節 街を圧する新樹松魚を売るを」で終わっています。

 江城は江戸、新樹、松魚とくれば、「目に青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂)で、二度と戻ることの出来なかった故郷に思いを馳せているのです。もちろん、当時の京都では、鰹節はあっても生の松魚は食べられません。

 このように、如亭の作品といいますのは、非常に繊細で、叙情的なんです。

 家を捨て、旅をし、おいしいものを食べて女性と親しみ、詩を作る、そういった生活の自由を手に入れるために引き受けた孤独というものが、抑制された表現で詠まれています。「故郷に帰りたい」などと野暮なことを言うのではなく、「ああ松魚の季節か」と、ぽつりと呟く、そこにかえって旅人の悲しみが凝縮されているんです。

 今で言うと何の病気に当たるのでしょう、如亭は水腫という持病を抱えていました。悪化してから、木屋町の仮座敷に移されてそこで亡くなります。1829年、56歳でした。

 如亭はわずかな文房具と本しか残さず死んでしまったので、友人たちはそれを売ってなんとか埋葬したそうです。その後、小石玄瑞が永観堂に墓地を買って正式に埋葬しました。

 このお墓は、如亭研究の第一人者である揖斐高氏の年譜には、失われて、ないとあったんです。

 またまた私事になりますが、私は大阪の人間でして、東京におられる揖斐先生より京都は行きやすいものですから、年譜を読んだあと、如亭の墓が本当になくなっているのかどうか見に行こうと思いました。無縁仏になって墓地の片隅に積み上げられているのではないか、そういう形ででも見ることができないかなあと思ったのです。

 永観堂の墓地は、少し高いところにありまして、崖の下が幼稚園になっています。如亭の墓は、墓石が崖に仰向けにひっくり返って、この崖に埋もれていたんです。

 これかなり大きい、立派な墓碑です。これがある日突然なくなったら、さすがに気がつくと思うんですよね。たぶん、誰もお参りする人もない墓なので、倒れてもお寺さんはそのまま放っておいたのではないのかと思います。

 とにかく如亭の墓があったということで、恩師の黒川洋一先生にお知らせしたら、岩波の雑誌『文学』の巻頭に「柏木如亭の墓」という文章を書いてくださいました。

 当時私は、如亭で卒論を書いたら就職するつもりでしたので、先生は私の名前を伏せて「大阪大学の女子学生」と書かれたのですが、これをきっかけにずるずると、漢詩を勉強する方に進んでしまったんです。

 何と言いますか、モノクロの書物の中の人だった如亭が、墓碑を目の前にしたことで、カラフルで、ヴィヴィッドに目の前に立ち現れたような気がしたんです。如亭が詩に取り憑かれてしまったように、私は如亭に取り憑かれてしまったんだと思います。

 墓碑は今はちゃんと修復されています。修復したのは、生田耕作が晩年に江戸の漢詩を読んでいた日本文学研究会の皆さんで、今日隣におられる坂井さんたちが、お金を出し合ってお寺とややこしい交渉をして、1998年に復興されたのでした。坂井さんたちもまた、如亭の魅力に取り憑かれているのだと思います。

 漢詩というのは、この場で言うのもアレなんですけど、一般には、あまり流行っていませんけれど、そして、流行っているところでは、道徳を説くような、教訓的なもののようなイメージがありますけれども、それだけではなく、如亭のような詩人も存在し、洒脱で、繊細で、自由と引き替えの孤独を詠むその作品のように、現代の私たちの心に響くものもたくさんございます。

 そういった魅力的な作品は、漢文に何の興味もない女子学生に、人生を踏み誤らせるほどの力があるということです。

*以下は時間が足りず話せなかった部分です。

 最後に、最初に見ていただいた『詩本草』の、京都の名品に戻りたいと思います。

 日本のあちこちを旅して、おいしいものを味わい尽くした如亭が、最期に過ごした京都の食べ物で、何を一番おいしいと思ったか。何だと思われるでしょうか。――それは、茶碗蒸しなんです。

 「酒楼の品は茶碗蒸を以て第一と為す」というのですね。茶碗蒸しにも具はいろいろありますが、「鶩を以て第一と為さば、到る処復た敵する者無し」とあります。この鵞というのは鴨のことです。濃厚な鴨肉が出汁の利いた優しい卵の中に沈んでいるのを想像しただけでおいしそうですが、如亭は江戸っ子ですから、京都の料理をただ賞めるということはしません。鴨肉の茶碗蒸しに匹敵するものとして、「惟だ江戸の蒲焼以てこれに当つるに足れり」と言うんです。

 蒲焼きも、今は鰻ばかりですが、私など予算の関係で鰯でも作ります。江戸時代の人もそうだったようで、如亭は茶碗蒸しは鶩が第一、蒲焼きは鰻が第一と言い、この2つを「東西の勁敵」、ライバルと言っています。

どちらが勝つかは本当のグルメでないとわからないだろう、江戸と京都の両方をよく知っていて、自分のような食いしん坊が決めてくれるのを待つと言うんです。

 今日ここに来られた皆さんの中で、味が分かるという自信がおありの方がいらっしゃいましたら、ぜひ茶碗蒸しを召し上がられて、如亭を偲びながら、東京風の蒲焼きと、どちらがおいしいか、判定いただけたらと思います。

 ご静聴いただき、ありがとうございました。

「京都に花開いた漢詩文化」のパネラーを務める

昨日、全日本漢詩大会が京都で行われ、パネルディスカッションのパネラーを務めた。テーマは「京都に花開いた漢詩文化」で、柏木如亭の話をしてほしいとのことであった。

如亭と自分の個人的なことに関しては、既に1998年に日本文化研究会の方々が如亭の墓碑を復興した際、招かれて話をしている。自分としてはこれで最初で最後にするつもりだった。今回、同じ話の繰り返しにしたくなかったのと、研究者が対象ではないので、できるだけ京都に関わる楽しい話にしようと思った*1

漢文は時代遅れのようなイメージがあるが、まだまだ命脈を保っており、最近では子供向けの論語がブームになっている。道徳、倫理、最近流行の自己啓発本に書かれている、いかによく生きるかようなことは、儒教書物に求めることができる(というか日本人はずっとそうしてきたのだ)。そういう面では漢文にもニーズがあるのだと思う。

しかし私はそんな漢文がずっと苦手だった。私がそうだったと同様に、一昔前のように漢文を使って年配者が自身の価値観を押しつけるようでは、若い世代を漢文嫌いにするだけだと思っている。

そういうわけで、漢詩漢文の多様な一面を知ってもらいたいと思い、江戸のボードレール、遊歴の詩人柏木如亭について話した。

生田耕作を通じての漢文との出会いについて話をされた坂井輝久さんも、『鴨東四時雑詞』各本を手にとって祇園を詠んだ漢詩について語り、二人揃って思いきり場違いな感じになっていたのでありました。

*1:読み原稿を別にアップします。

2016-09-14

パネルディスカッション「京都に花開いた漢詩文化」に出席します

この土曜日、「古典の日」記念 平成28年度全日本漢詩大会 京都大会――古都から始まる漢詩の未来――のパネルディスカッション「京都に花開いた漢詩文化」にパネラーとして出席します。

全日本漢詩大会京都大会 - 近畿漢詩連盟

漢文がお好きで、孫に論語を読ませたいなどと思っている年配の方々が大勢いらっしゃる予感がひしひしとするのですが、そういう方々を前にして同じ漢文でも美食と女と放蕩と、デカダンスな話をするつもりです。怒られるやろか……

パネルディスカッションは参加自由で無料です。私の他は豪華メンバーなので興味のある方はぜひお越し下さい。

「京都に花開いた漢詩文化」パネラー

第2回日本漢文学総合討論の覚え書き

第2回日本漢文学総合討論の内容については既にブログで報告されているので、ここでは内容は省略して自分自身の覚え書きを書いておく。

日本漢文学プロジェクト:日本漢詩文における古典形成の研究ならびに研究環境のグローバル化に対応した日本漢文学の通史の検討: 第2回日本漢文学総合討論を終了いたしました

今回のテーマは「“漢文学”は東アジアにおいてどう語られてきたか? ―中国、韓国、そして日本―」、趣旨説明論点整理・経過報告があり、中国・韓国お二方のSession、総合討論という流れである。

◆金程宇「日本漢詩在東亞文化圈中的意義(東アジア文化圏における日本漢詩の意義)」

  • 金先生は「域外漢籍」の用語を広めた方だが、日本漢文学に対して域外漢籍と切り捨てるのではなく温かい眼をお持ちだと感じた。
  • 日本ではごくふつうに見られる唐詩についての絵の資料が中国にはないということだった。唐詩選画本の他に、浮世絵レベルでも唐詩を見立てのモチーフにしたりするが、こういう遊びは中国にはないのだろうか。

『唐詩選画本』について知りたい。 | レファレンス協同データベース

  • 研究書の紹介で挙げられた程千帆氏は詩人でもあるという由、日本にはそういうタイプの研究者は珍しいと思った。

◆姜明官「朝鮮後期の漢文学における公安派受容の様相 ―韓国漢文学研究史の検討を兼ねて―」

  • 日本漢文学プロジェクトで韓国の研究者漢籍研究に注目しているのは、漢文を自分たちの国の文学史にどう位置付けるのかという問題について参考になる点があるからだと理解している。
  • 今回、姜先生の発表を伺って、日本と朝鮮の状況は似ているようで大きく違っていると思った。総合討論の時間に質問して確認したが、士族母国語と同時に漢文を身に付けるが、それは訓読ではなく現地の音で直読していたとのことだった。訓読して自分たちの言語の中に取り込んでしまう日本とは状況がまったく異なる。
  • 直読なら中国の一つの方言で読み書きする中国文学なのではないかと思った。もちろんこれは乱暴な印象で、直読した語彙や表現が自国の言語にどの程度影響を与えているかを丁寧に検討していかなければならないと思う。そのあたりを詳しくお聞きしたかった。

◆総合討論 ディスカッサント:大谷雅夫・齋藤希史

規範」と「限定」*1、「圏域」「規範」と「特殊」「普遍」というキーワードに、私たちが考えていることが鮮やかに整理されて示される希望が見える気がした。

齋藤先生とお話しできるのを楽しみにしていたが、すぐお帰りになられて残念。懇親会の沖縄料理、泡盛がおいしかった。

公開シンポジウム 第2回 日本漢文学総合討論を聞きに行きました

日本漢文学プロジェクトの一環として先日行われた第2回日本漢文学総合討論、もちろん聞きに行った。

日本漢文学プロジェクト:日本漢詩文における古典形成の研究ならびに研究環境のグローバル化に対応した日本漢文学の通史の検討: 第2回日本漢文学総合討論「“漢文学”は東アジアにおいてどう語られてきたか?」を開催します(9&#6

ちなみに第1回は2015年3月23日、もう一年経つ。このときはパネラーとしての参加だったので無我夢中だった。パワーポイントを使ったこともなく、パネル?何それ状態だった私、合山先生や福島先生にご迷惑かけたなあと今になって冷や汗をかいております*2。今日記内を検索したら第1回目は感想やら感慨やら覚え書きをガシガシ書いている。このとき考えていたことも論文にしなければ。

「日本漢文学総合討論」の検索結果 - 固窮庵日乗

*1:大谷先生のお話だと十五夜と十三夜

*2:この週末は百年前からやってますという顔をしてパネルディスカッションに参加、パワーポイントを作っているところ。

2016-08-23

宇田栗園の漢詩

山茶初華 山茶初めて華さく


雨葉鱗鱗翠色新  雨葉鱗鱗 翠色新たなり

梅花頭上別成春  梅花の頭上 別に春を成す

歲寒勁節誰相知  歳寒くして勁節 誰れか相ひ知らん

一片丹心吐向人  一片の丹心 人に向かひて吐く


雨に濡れて椿の固くつややかな葉の緑が一段と色鮮やかだ。誰もが注目する梅の花の向こうでは、椿にも春が来ている。

椿は冬の厳しい寒さの中で松や柏のように葉を落とさず、力強く枝を伸ばしている。そのみさおを誰が知り得ようか。椿は、真心を象徴する赤い色の花を、この私に向かって開いている。

論語』子罕第九「子曰、歳寒然後知松柏之後彫也。」(「歳寒くして(然る後に)松柏の凋むに後るるを知る」という諺にもなっている)を踏まえる。

栗園も訪れた岩倉具視の幽居に私も足を運んだが、赤い椿の花が咲いていた。当時のものではないだろうが、その赤にいかにも勤皇家らしい印象を受けた。『静観亭遺稿』には本文とは別に栗園自筆でこの詩が収められており、代表作と言えよう。


長岡雜詠 長岡雑詠


菅廟梅花歲歲新  菅廟の梅花 歳歳新たなり

當時此處是楓宸   当時此の処 是れ楓宸

遊人莫作黍離嘆   遊人作す莫かれ黍離の嘆

一鼎依然萬古春   一鼎依然万古の春


長岡天満宮の梅は毎年新しい花を咲かせる。かつてこの場所に都があった、そのころと同じように。旅人よ、失われた都を偲んで嘆きなさるな。都は変わっても、日本という国はずっと続いて春を言祝いでいるのだから。

「菅廟」は長岡天満宮のこと、「歲歲新」は劉希夷「代悲白頭翁」の「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」を踏まえる。

「楓宸」は朝廷のことで、承句は長岡京を指す。

「黍離の嘆」はかつての西周の都、鎬京が廃墟になり、宮殿に黍が生い茂っている様子を詠んだ「詩経」王風の「黍離」による語。「麦秋」と共に亡国の嘆きとして用いられる。


示羯 諸子に示す


小杜兵談素絶倫   小杜兵談素と絶倫

豈徒薄倖過青春  豈に徒に薄倖青春を過ごせしや

寄言詩社翡少  言を寄す詩社諸年少

莫作迷花中酒人  花に迷ひ酒に中(あた)る人と作る莫かれ


杜牧は兵談をさせたらずば抜けている。「贏(か)ち得たり青楼薄倖の名」といたずらに色男を気取っていただけの詩人であろうか、決してそんなことはないのだ。

よくお聞きなさい、詩社の諸君。誤った影響を受けて、美しい花(のような美女)に迷い、酒に浸って身を持ち崩すな。

「小杜」は杜牧(「老杜」は杜甫)。杜牧は「贏得逭樓薄倖名 贏(か)ち得たり青楼薄倖の名」(「遣懷 懐ひを遣る」)という句に表れているように揚州で浮き名を流したが、一方では孫子の註釈を著し、「題烏江亭」や「阿房宮賦」など重厚な作品も知られている。

指導者らしい一面が窺える作。


西岡春曉 西岡(にしのおか)春暁


菜圃花黃麥隴青  菜圃花は黄にして麦隴は青し

天鷚上下不停聲   天鷚(てんりゅう)上下声停めず

六十餘村春一色  六十余村春一色

人隨牛後入京城   人は牛後に随ひて京城に入る


菜の花畑は黄色、麦畑は青。雲雀は天高く昇っては囀り続けている。

この辺りの六十あまりの村は春真っ盛り。その美しい景色の中、のんびりと牛を追って京の都まで出かけるのだ。

「菜圃花」は菜種油を取るための菜の花であろう。乙訓地方の絞油商人弥兵衛家は豪商として知られ、文人たちに財政支援をするほどであり、自身も文雅を嗜んだ。幕末の岡本宣顕(弥兵衛)が詠んだ和歌が向日神社に残っている。「天鷚」はひばり。


夏日雜吟 夏日雑吟


葦簾高揭足風涼   葦簾高く掲げて風涼足る

無復塵埃侵座牀   復た塵埃の座牀を侵す無し

城裡故人應羨我   城裡の故人応に我を羨むべし

秧田?繞讀書堂   秧田の緑は繞る読書の堂


簾を高く巻き上げると涼しい風が通り、横になっているところが埃っぽくなることもない。

京都の友達は私を羨ましがるだろう。ここ乙訓の、田んぼの緑にぐるりと囲まれているのが私の書斎なのだ。

「城裡の故人」とは京都にいる友人をいうのであろう。蒸し暑く人気の多い京都から程近い乙訓の地で、夏の郊外の暮らしを満喫している様子が伝わってくる。


晏起 晏起


一幅鶉衾敵曉寒   一幅の鶉衾(じゅんきん) 暁寒に敵す

間營腹稿起來難   間に腹稿を営みて起き来ること難し

山妻不識詩情苦   山妻は識らず詩情の苦しみを

只問病襟安不安   只問ふ病襟の安きと安からざるとを


寒さに抵抗しておんぼろ布団を引っ被り、漢詩を作っていると、なかなか寝床から離れられない。

妻は詩を生み出す苦しみを知らないので、詩を考えて唸っている私に、「どこか具合でも悪いのですか」と心配している。

「鶉衾」はぼろぼろになった布団。「腹稿」は、紙筆を用いずそらで漢詩を作ること。頼春水の『在津紀事』に、混沌社では専ら腹稿で、下書きをしなかったことが記されている。

妻を詠んだ詩はこれ以外にもあり、栗園の幸せな家庭生活を垣間見ることができる。他の詩によると、栗園は梁川星巌・紅蘭の関係に憧れていたようだ。

2016-08-17

『木工集』という書名

柏木如亭が小普請方大工棟梁の職を抛って放浪の詩人となったことはよく知られている。この「小普請方大工棟梁」というのは実際どのような役職なのだろうとCiNiiArticlesを検索すると、建築の専門家の方が柏木家を取りあげている論文があった。一昔前は等というと老人臭くて嫌だが、一昔前は歴史関係の書物でちょっと調べて満足していたのである。横断的に検索して(なるほど、建築か!)と文字通りの管見をちょっと広げることができた。

その一つ、佐々木昌孝・中川武「小普請方大工棟梁柏木伊兵衛家の系譜」(日本建築学会計画系論文集 79(702), 1791-1797, 2014-08 日本建築学会)は、国立公文書館所蔵多聞櫓文書の写本「柏木長十郎由緒書抜」を紹介し、柏木家について調査したものである。揖斐高氏の如亭に関する論考も踏まえており、

「揖斐高氏は武鑑を根拠に、柏木門作が大工棟梁職に就いたのを安永九年(1780)とされているが、『由緒書抜』は門作が数え6歳の時に跡職に就いたことを伝える。柏木如亭は自ら「幼くして両親と死別」したことを書き残しているが、実際にどのような経緯で一人前の大工棟梁となったのかは定かでない。これまでは武鑑を根拠に門作の跡職は安永九年説が採用されてきたが、『由緒書抜』の確かな素性を考慮すると,門作の跡職は「明和五年」と考えるべきである。

大工棟梁となった年を修正している。

興味を引いたのは、この写本を記した八代目長十郎の他には、國名・官途名を授からなかったのは如亭だけだという指摘である。

なお、『由緒書抜』にみる歴代のうち長十郎を除けば、國名を受領しなかったのはこの門作だけである。諸職人の受領呼名や官途名は明和度以来、度々規制された経緯があるので、あるいは、その影響もあってのことかも知れない。現時点では、後に家職を放棄した門作の資質に起因するのか、受領名規制という社会背景が影響してのことなのかは断定できない。

私はずっと如亭の最初の詩集『木工集』の題名が気になっていた。工部員外郎だった杜甫詩集が『杜工部集』であるように、官職名を用いることは中国の詩集にはふつうに見られることだが、江戸時代の詩人には一般的なことではなく、違和感がある。

如亭は江戸のボードレール、遊歴の詩人などと呼ばれ、熱烈なファンを持つ。その生き方に惹かれるあまり、見えなくなっているものがありやしないか。その資質が如亭を詩人たらしめたというのは物語としては美しい。しかし、佐々木・中川両氏が淡々と「現時点では、後に家職を放棄した門作の資質に起因するのか、受領名規制という社会背景が影響してのことなのかは断定できない」と記しているように、國名・官途名を授けられなかった理由は現在の所不明であり、如亭の資質とは無関係の可能性もある。ということは、如亭はその資質故に家職を抛ったのではなく、反対に、受領名を授かることができなかったという一件の影響で、家督放棄したのかもしれないのだ。

如亭の父、三代目については次のように記されている。

「三代目が最初に受領した名は「日向」つまり國名であるが、その後「杢」という別の名を授かったとある。これは國名を狭義の受領名と呼ぶことに対する官途名に当たり「木工頭」(もくのかみ)を意味すると思われる。」

如亭だけが授かることのできなかった官職名を、如亭の父は授かっていたが、その名は「木工頭(もくのかみ)」を意味する「杢」であった。私は、如亭の第一詩集の『木工集』というタイトルには、如亭の家職への並々ならぬこだわりが込められていたのではないかと思うのである。

2016-08-02

第2回日本語の歴史的典籍国際研究集会

国文学研究資料館に第2回日本語の歴史的典籍国際研究集会を聴きに行った。29日金曜日は授業があったため30日土曜日のみの参加である。

目当ては自身も研究協力者として加えていただいている日本漢文学プロジェクトのメンバーによるパネル2「日本漢文学研究を“つなぐ”――通史的な分析・国際発信・社会連携――」であるが、他のパネルも非常に興味深く刺激的だった。以下ざっくりと感想を記しておく。

パネル1「アジアの中の日本古典籍」では、中国の漢籍と日本人による漢文著作を区別することの意味について考えさせられた。両者の間にははっきりした境界線があるのではなく、かなり曖昧だ。

日本人の手による漢籍は、中国側から見ると中国文化が周辺の地域にも広がっているに過ぎないのであろう。しかし我々東夷にとっては、漢文で記した著作が中国を中心とした漢籍の概念に飲み込まれるのは、自らの文化の主体性を失うことになる。

漢籍訓点を施しただけの和刻本、注や図を施したもの、元の漢籍からかなり変化したものなど、日本に於ける漢籍にはさまざまな形がある。日本古典籍の中でそれらの漢籍をどう位置づけるかは、最終的には一つ一つの作品を検討していくしかないのではないかと思った。気の遠くなる作業である。

パネル2「日本漢文学研究を“つなぐ”――通史的な分析・国際発信・社会連携――」は、時代毎に具体的な作品を取りあげ、他のパネルと比較するとかなり専門的な内容だった。その分、報告1〜3を“つなぐ”議論をしにくかったと思う。

私は日本漢文学プロジェクトの研究協力者なので、身内で完結する印象を与えてしまうかと質問を躊躇してしまったが、少し後悔している。

現行の中高の指導要領で漢文の教材に日本漢文を含めることになっていることが取りあげられていたが、戦前も『日本外史』の楠氏などは定番であったので、日本漢文を学ぶこと自体が新しいことではない。時間の関係だと思うが、比較して丁寧に論じる必要があると思った。

また、菅茶山など教科書によく取りあげられる詩人には地元の顕彰活動がしっかりしているという傾向があるのではないか。頼山陽と並び称された中島棕隠一般にはあまり知られていないのは、地元京都で棕隠の顕彰が全くと言っていいほど行われていないのも一因だと思う。

漢詩と社会連携については、私もいささか関わっているものがあるのでこのブログやFacebookで発信していきたい。

パネル3「中世の異界――内と外――」はテーマに沿った内容で門外漢の私にもわかりやすかった。

地獄や生きながらの地獄とも言える病について語ることは庶民を教育する役割も担っていたと思うのだが、そういったことには触れなかった(聞き逃した?)。当たり前すぎることだからか。

ケラー・キンブロー氏の「地獄とこの世――『富士の人穴草紙』に於ける異界観――」で何度も言及された『長宝寺よみがえりの草紙』の長宝寺は私が生まれ育った平野郷にあり、子供のころ極楽行きを保証されるという閻魔大王のお印を額に押してもらった馴染み深い寺院である。個人的に暮らしの中に溶け込んでいた風俗習慣であるが、学問に落とし込むとこのようになるのかと興味深かった。

パネル4「古典籍を活用する/情報を活用する」は今回一番印象に残った。大澤留次郎氏の「くずし字OCR技術の現状と展望」からはコンピュータを扱う理系の方々が古典籍を扱う研究者を相手に苦労されていることが窺えた。

私は文系の研究者、特に文学研究者はコンピュータを嘗めていると常々思っている。文学研究者はよく「人間にしかできないことがある」と言うが、人間が脳内でどのように処理しているかを明らかにしてプログラムを組めば、人間のしていることはコンピュータにもできる。できないように見えるのはプログラムとコンピュータの容量(と予算)の問題に過ぎない。

文学研究において「人間にしかできないこと」は、最終的には研究対象を見つけて必要なテキストを集め、研究の筋道を示すことくらいしか残らないと考えている。自分の死後のことになると思うが。)

「人間のしていることはコンピュータにもできる」と言うとすぐに拒絶反応を示す人が研究者にも多く、くずし字の解読一つとってもコンピュータの限界に喜んだりしているのは嘆かわしいことだ。コンピュータの限界はプログラムと容量の限界であり、言い換えるとそれを用意できない人間側の限界なのである。

2016-05-14

『混沌』第39号出来…してます

「『混沌』38号出来」にトラックバックをいただいた。OCNのブログサービスPAGE ONが終了し、中尾松泉堂が『混沌』を紹介された頁も消えてしまった現在、『混沌』を検索すると拙ブログがhitするというわけだ(いや、みなさんもっと『混沌』について書いてぇな)。

というわけで39号、もちろん出来しております。2月に。Facebookなどには書きましたが、行きがかり上といいますか、謎の使命感に突き動かされてといいますか、今更ですがこのブログにも38号同様目次を紹介致します。

  • 披露目の頃  水田紀久
  • 田中秋亭画の紹介(二) 古西義麿
  • 尾崎雅嘉の和歌  管宗次
  • 『乗込椅(大ではなく立)談』翻刻  仲井紱
  • 守口文庫所蔵「明治十八年洪水碑記念扇子」について  片山正彦・新稲法子
  • シーボルトが蒐集した大坂の「口中御吹薬」  高杉志緒
  • 「寄瓢書画巻」翻刻紹介(三)  混沌会
  • 混沌会例会記事  鷲原知良

創刊号からの目次のデータをお持ちの方がいらっしゃるので、どこかにサクッとアップしていただけないものか。このご時世、『混沌』といえどネット上になければ研究者の目にはなかなかとまりませんぜ。

2016-03-28

文学の論文を書く人工知能が現れたら

 AlphaGoが化け物のような囲碁の天才李世乭(イ・セドル)を軽々と負かしたニュースを見ていて思ったのは、私たち文学研究者が現在論文に書いているような「新知見」のほとんどは、条件さえ整えば人工知能が書くだろうということだ。近い将来、ではなく、予算さえあればそういう人工知能はとっくに作れる段階になっているのだろう。

 大量の文献にひたすら目を通す所謂「地獄引き」をしていた時代が去り、多くの用例をパソコンで簡単に検索できる時代になって久しい。三十年近く前の夏休み、私は「このような表現は漢詩にはまずない」という一行を書くために『全唐詩』を最初から読み始め、読み終わった時には夏休みが終わっていた。今の学生なら寒泉を数回クリックすれば済む作業だ。

 一昔前、優れた言語感覚の持ち主だけがその直感で切り込んでいけた地点に、今はそれほど天才でなくても立つことができる。パソコンと、適切なキーワードを選ぶ能力さえあれば。

 註釈をするにも、もはやクリックすればすぐにわかる典拠を指摘するだけでは意味がない。私はピンポイントに語彙を検索するだけでは出てこない典拠を見つけるよう心がけてきた。同じ語彙が用いられていない典拠を見つけるのは、古いスタイルの地獄引きでこそ可能である。また、当時の作者が見ていたであろう本を使うようにもした。近世詩人の作品を理解するには、現代の検索を使うより当時の人々が見た和刻本を見る方が有益なこともしばしばある。

 しかし、そのような工夫もパソコンでやろうと思えばできる時代になっている。註釈するとき私が見ている新字源・大漢和辞典・漢語大詞典・日本国語大辞典などの辞書類、詩韻頷英・佩文韻府などの作詩関係の書物に詩家推敲を始めとする助字の書物、それに加えて私のささやかな漢詩の素養――こういったデータを装備したパソコンに、漢詩の仕組みなどのフィルターを通して検索結果が出るようにすれば、私と同じ註釈をするのではないだろうか。

 それどころか、たとえば人工知能Chazanを作り、菅茶山が幼いころ学んだであろう四書五経から混沌社で出会った当時最先端の詩論詩風までの漢文和歌や俳諧や謡曲太平記平家や説教節のような俗謡など、茶山が接した可能性のある、ありとあらゆる言葉、それに加えて当時の文化や習慣、神辺の美しい自然を学ばせると、Chazanは黄葉夕陽村舎詩の漢詩に近いものを詠み始めるだろう。

 註釈だけではなく文学論も同様だ。かつての「新知見」が覆され、多くの論文がもはや過去のものとして忘れられていくのは世の習いだが、人工知能に論文を書くために集めた資料を学ばせれば、これまで何十年もかかった議論に一瞬で終止符が打たれるだろう。与えられた資料で、有り得る限りの新知見を一瞬にして提示するだろうから。

 このような時代に、人間が研究できることは何だろう。

 たとえば私は日本人と漢詩、日本人にとって漢詩とは何かということを研究のテーマとしている。このテーマを考えるための一つの軸として、漢詩から和歌に移った宇田栗園*1に注目しているが、先に述べたように、人工知能 Ritsuenを作って栗園が接した可能性のある言語表現、生きた時代の文化や習俗のデータを学ばせれば、栗園が漢詩を詠むのをやめた理由はあっさり明らかになるだろう。

 しかし、栗園に関してまだ知られていない資料を探し出し、地元を歩いて子孫の方にお目にかかってお話を伺い、関係する方にお手紙を差し上げて情報を得るなどという、人工知能が学ぶのに必要な資料を集めることは、人間にしかできない。つまり、人間の文学研究者にしかできないようなことは何かというと、最初の段階でテーマを立て、インプットするのに必要な資料を集めることしかないのである。

 我々はもう、「新知見」にこだわらなくてよい時代を迎えている。遅かれ早かれ、予算さえあればすぐにでも、人間の研究者にできることはテーマを立てることと必要なデータを集めることの二つになるだろう。この二つに関しては、文学論文を書く人工知能が現れても、研究者がその素養とセンスをかけて行うこととして残ると予測する。

*1:栗園に注目したのは我ながら目の付け所がいいと思っているのだが、日本人にとって漢詩とは何かという研究テーマを与えられた人工知能があれば、栗園という人物を見出すことに何の困難もないだろう。

2016-03-22

こんな展覧会に行った

平成27年度に観に行った展覧会などを記録しておく。

今年度は琳派400年記念ということで観ておきたい展覧会が多かった。最近は土曜日に学芸員による無料のレクチャーを実施している美術館も多いので、参加するよう心掛けた。また絵を描きたいと思いつつ何年も過ぎている……。

  • 5月2日(土)チューリヒ美術館展 印象派からシュルレアリスムまで 神戸市立博物館
  • 5月9日(土)堀文子 一所不住・旅 展 兵庫県立美術館
  • 5月9日(土)IN MY ROOM ON THE ROAD 私の部屋、あるいは路上にて 兵庫県立美術館
  • 6月27日(土)絶景 瀟湘八景図―山水画を読み解く 香雪美術館
  • 8月9日(日)淀川舟游 若冲・応挙・蕪村も愛した 大阪くらしの今昔館 →覚え書き
  • 8月22日(土)筑前・黒田家が伝えた名宝ー福岡市美術館のコレクションより 香雪美術館
  • 9月29日(火)マグリット展 京都市美術館
  • 9月23日(水)ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours 国立国際美術館
  • 9月23日(水)他人の時間 国立国際美術館
  • 10月14日(水)ユトリロとヴァラドン 母と子の物語−スュザンヌ・ヴァラドン 生誕150年−美術館「えき」KYOTO
  • 10月22日(木)レオナルド・ダ・ヴィンチと「アンギアーリの戦い」展 京都文化博物館
  • 11月12日(木)琳派誕生400年記念 琳派 京(みやこ)を彩る 京都国立博物館 平成知新館
  • 11月4日(水)琳派からの道 神坂雪佳と山本太郎の仕事 美術館「えき」KYOTO
  • 11月7日(土)パウル・クレー だれにもないしょ。 兵庫県立美術館
  • 11月15日(日)琳派イメージ展 京都国立近代美術館
  • 11月21日(土)淀川の洪水 市立枚方宿鍵屋資料館
  • 不明(10月31日(土)〜11月3日(火)のうちのいつか)竹の美 茶道具を中心に(前期) 香雪美術館
  • 12月13日(日)日本画で表現する 今という時代 堺市立東文化会館
  • 12月15日(火)フェルメールとレンブラント 世界劇場の女性 京都市美術館
  • 12月22日(火)細見コレクション名品選 麗しき日本の美 雪・月・花 細見美術館
  • 12月22日(火)竹の美 茶道具を中心に(後期) 香雪美術館
  • 平成28年1月11日(月)日本衣装絵巻 卑弥呼から篤姫の時代まで 神戸ファッション美術館
  • 1月27日(水)小川千甕 縦横無尽に生きる 京都文化博物館
  • 1月30日(土)所蔵品展2016 香雪美術館
  • 2月6日(土)ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏 兵庫県立美術館
  • 2月7日(日)江戸からたどる大マンガ史展 鳥羽絵・ポンチ・漫画 京都国際マンガミュージアム
  • 3月6日(日)俳画の楽しみ 明治・大正・昭和編 柿衛文庫
  • 3月6日(日)ドーミエどーみる? しりあがり寿の場合 伊丹市立美術館
  • 3月19日(土)島津製作所創業記念資料館

覚えているだけで29件観に行った。月1回、年に12回展覧会に行けたらと思っていたのだが、その倍以上観ていた。京都まで非常勤に行くときにせっかくだからと立ち寄ることが多い。この他に、

歌舞伎

映画

  • 8月6日(木)マッドマックス怒りのデス・ロード
  • 12月19日(土)百日紅 Miss HOKUSAI

も観に行った。歌舞伎は、これからも年に一度くらいは観たいなあ。

2016-03-15

確定申告を終えた

確定申告は年に一度自分の稼ぎ方とお金の使い方を振り返る作業だ。

毎日の支出はずっと記録しているので確定申告といっても特に慌てないのだけど、会計監査よろしく家計簿と領収書を照らし合わせてチェックしている。領収書やレシートは本代や医療費などに分類して引き出しのファイルに入れているが、領収書がないコピーや交通費は記録するのを忘れがちだ。引き落としの光熱費も。医療費だけでも10,066円も記入漏れがあった。

去年(平成26年分)の確定申告の結果を受けて、今年の生活は税金面では非常に楽だった。市民税府民税は何とゼロだったのだ。26年は国民年金を2年分前納し、貯金の一部を保険にした。親知らずを抜いたり矯正をしたりして歯を大々的に直し、日帰り手術もした。その結果、税金は納めなくてもよろしいという通知が来たのである(それだけ収入が少ないということなのだが……)。

27年はこれといって控除される要素がないので28年度の市民税が恐ろしい。年金もまた払わなければならないし……。

しかしなんといっても今年の確定申告で大きく変わったことといえば、15年仕事をした某所との契約が終了したことだ。非常勤1.5コマ分(年間)くらいの雑所得がなくなった。その代わりのように非常勤が1.5コマ増えた。非常勤講師給与所得なので、雑所得のように必要経費を自分で計上できない。同じ額の収入でも税金を計算する上では±0にはならず、マイナスになりそうだ。非常勤講師は自腹を切って本を買い、自宅でパソコンやプリンタを使って授業準備をしているのだから、給与所得にされるのは納得いかない。

税金のこともあるが、研究書以外にも書きたい本がいくつかあるので原稿の仕事を増やしていきたい。時間を捻出しているつもりだけど、そのためには今のコマ数(前期7〜12コマ、後期7コマ)を減らさないと無理のようだ。いずれにしても将来的には非常勤講師のコマ数は減っていくだろうから、依頼が来る間は有り難く受けておこうか……。

ここ数年の分を集計して見てみると、私は税金・国民年金保険料・国民健康保険料を別にすると家賃も含め月12万で暮らしている。本も買ってたまに外食して展覧会を見てという自分にとっては贅沢な暮らしでこの額である。この数字を見ていると、なんだか税金や保険料を払うために必死で働いているようにも思える。

家計簿見直してつらつらと28年度の家計のこと覚え書き】

  • 暴落したら株を買う。予算は非常勤1コマ分。
  • まとめ払いして安くなるのは貯金を崩してもまとめ払い。貯金しても利子はほとんど付かないよ。
  • エアコンを買い替えなくてはならないかも。覚悟しておく。
  • iPhone(4S)がそろそろヤバイ。新しいモデルが小さければ買うが、また大きくなったらiPadと格安携帯にする(Wifiと携帯の通信費1万円前後が4千円くらいになるのでWifiがもっと繋がりやすくなればこのほうがいい)。通信費の節約を考える。

2016-02-11

高校生、漢詩を詠む

国語の授業で漢詩を作ることを取り入れている先生がいらっしゃるという噂は聞いていたのだが、今回授業を見学することができた。神戸大学附属中等教育学校の岡本利昭先生である。授業研究会の公開授業を参観して、研究協議会にお邪魔した。

5年生(高校2年生に当たる)の国語、「森鷗外を「読み味わう」」という授業で、『航西日記』が教材だった。結句を欠いた鷗外の七絶のハンドアウトを用いて訓読や言葉の解説をし、授業の終わりには生徒が結句を作ってみるというもの。

このように一部を欠いて埋めるという形式はなかなかおもしろかった。漢文に限らず文脈を読む練習として取り入れたいと思った。

何須相見涙成行

不問人間參與商

林叟有言君記否

*○*●*○◎

転句の「林叟」は林子平のこと。ハンドアウトには資料として『海国兵談』の一節(「…江戸の日本橋より唐、阿蘭陀まで境なしの水路なり」)と鉄道唱歌、陽の韻字が記載されていた。

私も結句を考えてみた。韻は「洋」しかない、いや鷗外は洋を使いたいから陽の韻を選んだのだろう。そして「江戸の日本橋より唐、阿蘭陀まで境なしの水路なり」を翻案する、という鷗外の意図はわかるのだが、私が作った結句は当然と言えば当然だが鷗外のとは一致しなかった(しかし鷗外の句もちょっとどうかと思う力任せの感がある。興味のある方は検索してみてください)。

明治時代、海外に行く人を横浜まで同行して見送ったという説明があった。これが「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」などにある、送別の詩の「Aにて某のBへ行くを送る」というパターンにあてはまることを付け加えてもよかっただろう。

研究協議会では、短歌俳句ならわかるがなぜ漢詩を作らせるのかという意見もあった。私も講義に覆文(書き下し文を白文に直す学習法。近世にはごくふつうに行われていた)と七言絶句を詠むことを取り入れているが、自分でも作ってみることで漢文法や語彙に関する知識の定着を図ることができると思う。岡本先生の意図とは異なるかもしれないが、私の場合は情操教育のつもりはまったくなく、文学として素晴らしい作品も要求しない。ただただ漢文の仕組みを学ぶための課題である。

神戸大学附属中等教育学校はSGH(Super Global HighSchool)に指定されているということだ。『航西日記』は国際人として生きた先人の心情を追体験できる格好の教材だと思う。興味を持った生徒はぜひ森岡ゆかり『文豪の漢文日記』を読んでほしい。また、国際化の時代に身に付けなければならないものとして英語ばかり注目されるが、東アジア共通文化遺産である漢文の知識も、中国や韓国の人たちとの交流に大いに生かせるだろう。

授業の冒頭、ロンドン旅行で生徒が詠んだという七絶「何以為真国際人」が紹介された。誇りを持って自国の文化を語ることができる者こそ国際人だという内容のその詩には、大人達の要求する「グローバル」をそつなく詠んでみせた、いかにも優等生的な印象があった。しかし今どきのパワーポイントで紹介されたその七絶に、私は海外に雄飛した明治の若者の面影を見て、感激する気持ちを抑えることができなかったのである。

鷗外や漱石の漢文への橋渡し――森岡ゆかり『文豪の漢文旅日記』 - 固窮庵日乗

2016-02-06

平成の『都繁昌記』――井上章一『京都ぎらい』

 京都人は糞尿の話が好きである。もちろん、大阪人も「ババ」だとか「うんこ」だとか口にすることはある。しかしそれは、子供であったり、大人ならそういうことを言いそうなしゃーない奴に限る。京都人と比較して下品だとされている大阪人ではあるが、まともな大人は人前で糞尿の話などしない。いやこれは大阪だけでなく日本全国どこでもそうだろう。しかし京都では、上品な紳士が酒が入っているわけでもないのに糞尿の話をするのである。

 井上章一『京都ぎらい』の最初の章に、学生時代の井上氏が下京の杉本家を訪れた時のエピソードが記されている。井上氏が嵯峨出身であることを聞いた故杉本秀太郎氏は、懐かしがって「昔、あのあたりにおるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」と言うのである。杉本秀太郎のような、名家出身の教養ある人物でも、肥つまり糞尿の話をするのが京都という土地なのだ。

 本書には、洛外で生まれ育った者の冷ややかな視点で描かれた京都の暗部が時に淡々と、時に怒りをあらわにして記されている。京都で長年仕事をし、京都人の友人知人も少なくない私にとっては、本書にちりばめられている暴露ネタは耳にしたことのある話題ばかりである。しかし、京都に住んでいたり働いていたりしている人でなければ、たとえば祇園が坊さんで保っている、などという話題は衝撃なのかもしれない。けっこう売れているらしいのは、今までそのようなことが全国区で大っぴらにされたことがなかったからであろう。

 しかしこの本の本当のおもしろさは、そういった内幕の暴露ネタではなく、京都のいやらしさを歴史の流れの中で位置づけた点にある。たとえば「三 仏教のある側面」において寺をホテル経営という側面から捉えることを提唱し、「四 歴史の中から、見えること」で京都千年の歴史と思われているものの多くが江戸時代や明治時代を起源とすることを指摘する。そして終章である「五 平安京の副都心」で話題は南北朝時代の歴史から天皇制梅原猛の仕事にまで及ぶ。怒濤のように嵯峨に対する郷土愛で締めくくる、その書きぶりは圧巻である。

 私が本書を読んで真っ先に思い出したのは、幕末に出版された中島棕隠の『都繁昌記』だ。京都に代々続く儒者の家に生まれた棕隠は、若い頃江戸で暮らしたこともあって京都のいやらしさを自覚したのであろう、その作品にこれでもかと京都人の暗部を暴いている。その京都ネタは漢文で京都の裏事情を記した『都繁昌記』が最も詳しく、やはり糞尿の話が出てくる。「担尿漢(ショウベントリ)」という章に、洛中で周辺農家に糞尿を汲み取らせ、米や野菜と交換していたシステムを事細かに記しているのである。これ以外にも、棕隠とその狂詩仲間は、肥を載せた舟つまり糞船を狂詩に取り上げるのを始め、糞尿関係が大好きだ。江戸の狂詩にはそのような題材はあまりないのに。

 杉本秀太郎の「うちへ肥をくみにきてくれた」という言葉に潜むイケズは、井上章一氏を酷く苦しめるのであるが、中島棕隠は同じ肥取りを話題にするのでも逆に洛中の人たちを嘲笑う。尿はその量に応じて茄子や胡瓜などの野菜いくつかと交換するシステムになっている。棕隠は、洛中の裕福な商家の娘が、交換した野菜が少ないと言って肥取りから尿を取り戻そうとするエゲツナイ様を記している。洛中の、最高級の鼈甲を髪に挿したお嬢さまもこんなんですぜ、と。井上氏がもし近世京都で最も有名な文化人の一人である中島棕隠の『都繁昌記』を知らないとすれば非常に残念だが、「担尿漢」を読まれたなら溜飲を下げられるに違いない。

 ところで私が京都人は糞尿の話が好きだというのは、中島棕隠ら江戸時代の人の作品に親しんでいるからそう思うだけでなく、実際に京都の紳士が糞尿の話をする場に何度も居合わせているからである。それだけでなく、井上氏のように京都人に糞尿関係でイケズを言われたことさえある。

 京都人にイケズをされたことは何度もあるが、私はすべての大阪人がそうであるように清い心の持ち主なので、京都人のひねくり回したイケズにはその場で気付かない。なんとなく不快な感じが残り、帰り道で「そうか!」とイケズされたことに気付くのである。しかしさすがに糞尿ネタはその場で理解した。私が大阪に住んでいると知ったその京都人は、淀川水系で大阪が京都の下流であることから、「大阪か、気の毒やなあ大阪の人は、京都のババ流した水飲んで。」と言ったのである。なんたる無礼、なんたる傲慢。大阪市の水道水は、平成十二年に導入された高度浄水処理により全国でも有数の安全で美味しい水なのである。しかしそう言い返してもそのジジイは聞く耳を持たなかった。嵯峨ですら差別されるのである。中華意識に染まった京都人には大阪など化外の地なのだ。思い出しても腸が煮えくりかえる。

 井上氏は自分は洛外だと強調する(もちろん十分理解できる)が大阪から見るとやはり嵯峨も宇治も京都である。『京都ぎらい』と題しながら、実は愛情もない交ぜになっているのではないかと少々心配になる部分もある。しかし私はこの『京都ぎらい』を全力で推したい。もっと売れてほしいと思うのはもちろん私怨のためである。前述の糞尿ジジイのようなイケズな奴を上品な京男と勘違いしている人に勧められるのは、今のところこの本しかない。久しぶりに読書記録を書いた所以である。

2016-01-01

研究する生活

まだ年度が替わっていないので振り返るには早いのだが、2015年は研究する生活が軌道に乗ってきた年だったと思う。

30歳で子宝に恵まれてから、研究者としてはペースダウンしてしまった。子供を産むことが女性研究者にとってハンディになることはわかっていたが、周囲の例を見て大丈夫だと踏んでいた。私は母か姑をあてにしていた。また、常勤になればお金で解決するつもりだった。

しかし実家では弟が家業を継ぐことになり、母はその手伝いに必死で孫の面倒を見る余裕がなくなった。そして全く予想できなかったことに、義理の両親が乗っていた車が飲酒運転の車に追突され、舅は長らく意識不明、姑は亡くなってしまった。婚家で乳飲み子を抱えて遺品整理をしながらの病院通いがしばらく続き、研究どころではなかった。後から振り返るとこの時から自分の人生のあれこれが狂ってしまったと思う。

保育所には入所することができたが、時間外や病気の時に頼れる人がいないという状況ではまともな研究はなかなか難しかった。常勤職に就けていなかったので、シッターさんなどを頼むということもできなかった。非常勤のコマも少なく、ささやかな貯金は瞬く間にゼロになった。

そうこうしているうちに奨学金返済の猶予期間が切れ、非常勤の合間を縫って必死でアルバイトをする生活が始まった。週に一度は徹夜するような毎日で、案の定身体を壊してしまった。やっと病院通いが終了したとき、40歳は目前だった。

糸の切れた凧が風の吹くまま滅茶苦茶な飛び方をしているような30代だったが、40代はその凧が墜落していくような日々だった。収入は生活費と奨学金の返済で消えてしまい、研究に当てる分など残らない。遠方の学会に行くこともできず、研究会なども次第に欠席しがちになった。

恩師の黒川洋一先生は、お金のないときはテキストに深く深く下りていくような研究をしなさいと言っておられた。そのことを思い出して博士論文はなんとか書き上げ、もがくようにぽつぽつと論文を書いていた。先生が仰ったように、どんな環境であれ、そこでできることを研究し、論文を書き続けるのが研究者だと思う。しかし私はあの本を買って手許に置けたら、新幹線に乗ってあの資料を調査に行けたら、という気持ちも押さえきれない。

もう自分はまともな研究はできず、非常勤講師としての講義をこなすだけで一生を終えることになるかもしれない――、考えたくなくてもそういう考えが頭を過ぎった。このままでは絶対に後悔する。私は自分の生活を抜本的に変えようと思った。ちょうど非常勤のコマが増えたので、それには手を付けないことにして、ある程度貯まったところで部屋を借りた。物理的にはそれまで5畳ほどの部屋が物置のようになっていたのが、使いやすく本をレイアウトすることができたし、精神的には家にいる時間は心穏やかに研究に思考を巡らせることができるようになった。

新しい暮らしを始めてからコンスタントに論文を書けるようになった。相変わらず専業非常勤なので遠くは無理だが、近場の研究会や日帰りできる学会には積極的に参加するようにもなった。プロジェクトにも声を掛けていただき、初めて研究費で本を買い、諦めていた中国にも行くことができた。まだ誰も取り上げていない資料を読みながら自分が翻字できることを喜び、わからないことがあると調べ物の勘が失われていないことを確認して安心する。こういうとき細々とでも研究を続けていてよかったと思う。

思い起こせば、私は20代の頃から自身の近世漢文学史を構想していたのである。迷走の30代と諦めの40代を経て、このままフェイドアウトしそうだったが、なんとか50代で再び研究する生活を軌道に乗せることができた。このまま書けるだけ書きたい。私しかしないような近世漢文学史を構築したい。ガンガンいきます。皆さま方、何卒よろしくお願い致します。

2015-10-31

漢文教育のあり方について

漢文教育についてTwitterで話題になっていたので私の考えをまとめておく。前提として、これはいくつかに分けて考えると、もっと有意義なものになると思う。最低限、大学入学以前の漢文教育と、大学は分けて考えるべきだろう。

中学高校の漢文教育については、学習指導要領に基づいて、あくまでも日本の古典としてとりあげるものだと考える。漢文訓読を用いるのは当然であり、訓読の基本を身に付けることを最優先にすべきだ。その上で、余裕があれば意欲のある生徒に向けて中国語で読んで聞かせるのもいいかもしれない。

私は漢文非常勤講師を始めて16年経つが、現状では高校までに漢文をまともに学んでこなかったという学生が大半である。授業は古文だけで精一杯で、漢文はほとんど自習だったと言う学生も少なくない。センター試験を受験した学生は、基礎をしっかりマスターしている。しかし、入試に必要がなければ、漢文とまったく接点のないまま入学した学生もいるのである。高校程度の小テストをしてみると、漢字の右側に返り点を付ける学生もいる。

そういう状況であるから、中学高校の先生方には、話題になった漢文の時間に中国語を取り入れるなどという提案以前に、漢文の授業数を確保して、レ点と一二点の仕組みくらいは教えてほしいと思うのが正直なところである。

大学の漢文教育については、対象とする学生によって求められるものが異なるので、一律に論じるのは無理がある。私のように漢文訓読の基本を身に付けるというのが目的の講義なのか、入試科目に漢文があり、基礎は身に付いているので専門的なことから始められるのかによっても違ってくる。また、学生が将来何を専攻するのか、日本のものか中国のものか、古典なのか近現代なのかによっても違ってくる。もし私が、返り点の仕組みは高校でしっかりマスターしていて日本漢文を専門に学びたいという学生が対象の講義をするなら、現在とはかなり違ったものになるだろう。こういった大学ごと、学生ごとの差異を念頭に置かないと、せっかくのやりとりが不毛なものになってしまう。

私の場合のこの「差異」については次のようなものだ。まず第1に、大学側から伝えられた授業の目的は漢文訓読の基礎を身に付けるというものである。第2に、どちらの非常勤先にも中国古典文学の先生がおられ、中国語で読むことが必要な学生はそちらを受講する。最後に、私は非常勤講師なので、大学のカリキュラムに関して自身の意見を反映したり、学生を長期的に指導する立場にない。

この第1、第2の状況から、私は中国語漢文を読むことは積極的に取り入れていない。そもそも、そういうことはあまり求められていないからだ。韻や平仄の説明をする際は、大島正二氏の仕事を紹介し、youtubeにある『唐代の人は漢詩をどう詠んだか』参考資料を用いるが。基本的に、韻や平仄、句の切れ目などは、柏梁体や七言絶句を作ることで説明する。

漢詩中国語で読むことを避けているのはもう1つ理由がある。先に述べたような、漢文の基礎を身に付けておらず苦手意識だけがある学生には、中国語音で聞かせるのはマイナスに作用することが多いからだ。学生の反応がいいので理解が進んだように見えるが、漢文が読めるようになるかというと、決してならない。中国語で読んだ漢文を聞いて、多くの学生は「本当の漢文はこれなのだ、今までは訓読だからわからなかったのだ」とわかったような気になるらしい。これはたとえて言うと、英語が苦手な人が、今までの学校教育は間違っていたのだと言って英会話を学ぶようなものである。中国語で読むというパフォーマンスは、効き過ぎるからこそ注意が必要だと思う。

先に述べたように私は非常勤講師カリキュラムなどに関わることはできないが、もし今後状況が変わって大学の漢文教育に携わる機会があれば、日本文学・歴史の学生には入学前のリメディアル教育で高校漢文の復習をしておきたい。また、訓読が必須の日本文学と訓読を参考程度に取り入れる中国文学関係とでクラスを分けたい。

youtubeに復元音があることはTwitterの中国クラスタの方に教えていただいた。漢語大詞典のアプリが日本文学の某所で広まったのはTwitterのお陰である。直接御示教頂いた以外にも様々な学恩を蒙っていて感謝に堪えない。漢文教育という定期的に流れてくる話題を有益なものにするためには、中学高校と大学それぞれの現状を踏まえた方がいいと思う。私も少しでも情報を発信していきたい。

2015-09-20

来たぜ西安! 語るぜ近世漢詩! たぶんこれで終わり

専門としている江戸時代の詩人も実際の中国を見ることはなかったではないか、書物の中の彼の国で十分――長年そう言っていたのだけど、乗り継ぎの青島空港に着いて中国の空気を吸った瞬間、私の中で何かのスイッチが入った。あっさり今までのやせ我慢は覆され、来て良かったと思った。そして滞在している間はできるだけこの国に触れようと決心した。

西安には学会に参加するために行ったのであるから、移動でつぶれる2日間の他は、3日間ずっと建物の中で過ごし、観光らしきことは最終日のエクスカーションのみである。外に出たい。町の様子を見て、地元の人と話してみたい。疲れを癒やすために部屋で休んだり、発表に備えて準備をしたりする人もいる時間に、いそいそと外に出た。

西北大学に泊まった翌朝は、まとまった時間があったので城壁を歩こうと出かけた。西安の町は碁盤の目状で実にわかりやすい。阪大勢の数人*1で、京都と同じや、いや京都が真似したんやと言いながらガンガン歩いた。なかなか目的地に着く気配がないのに至って初めて京都とはスケールがまったく違うことに気付く。何もかも大きい。

交通量と自動車の運転マナーは想像を絶するものがあって、いっぺんに喉がやられてしまった。マスクを持ってきていたのだけど、地元の人は平気なのか誰も付けていない。道路を横断するのも命懸けで、なかなかタイミングがつかめないので慣れないうちは地元の人の後ろに張りつくようにして渡っていた。すいすい渡れるようになったのは、帰国前の夜に散歩をしたときだった。

エクスカーションの兵馬俑や鴻門宴の跡地ももちろん素晴らしかったが、観光地ではない場所の移動や空き時間の散歩が貴重な体験だった。空港から西北大学に向かうバスで渭水を渡り、城壁に登って碁盤の目状の町を見下ろしてみると、それまで読んでいた漢文の世界が急に3Dになったかのようだった。長い年月を経て当時のままではないとはいえ、西安は他のどこでもないかつての長安である。この道を李白杜甫も歩いたのだと感動して車にひかれそうになり、あの月を阿部仲麻呂も見たのだと感動して「月を見た場所は正確には…」と突っ込まれる(専門家ばかりですからね)。広い西安のほんの僅かな地域しか見ることができなかったけれど、土地勘というのが大切だと改めて感じた。

  欲遊唐土過幾年  唐土に遊ばんと欲して幾年を過ぐ

  今日古人在眼前  今日 古人 眼前に在り

  子美踏来地是直  子美 踏み来たりし地は是れ直く

  蒼蒼太白所吟天  蒼蒼たり太白 吟ぜし所の天

  漢詩はやっぱり難しい。うまく詠めない……。

開催校の西北大学の高先生はこれだけの規模の学会をお引き受け下さってほんとうに大変だったと思う。高先生とお世話下さったスタッフの方には感謝してもしきれない。西安を訪れることができてほんとうによかった。ありがとうございました。

*1:こういうときにはしゃぐのは阪大だ。

2015-09-11

来たぜ西安! 語るぜ近世漢詩! つづき

というわけで3月23日の初めてのシンポジウムに続き初めての海外学会。日本漢文学をテーマにしたシンポジウムの内容を、漢文の本家である中国の地で中国の研究者に語り、討論したいという趣旨のパネルディスカッションだった(と認識している)。3月の発表を叩き台にして再度発表すればええんでしょと思ったそこのアナタ、私は3月に「こういうつもりでこの研究やってます、一生かかって最終的にこういうことやります」という大きい話をしたので、今回はそのうちの1つ、竹枝詞を具体的に取り上げることにしたのでありますよ。7月には竹枝詞を題材に一般の人相手の講演で話したが、そのときの質問なども踏まえて内容を練り直した。

パネルA近世チームはシンポジウムと同じく鬼軍曹の福島理子、時代順に康盛国・新稲法子・鷲原知良。近世漢詩をエクソフォニーの1つとして捉えることで膠着状態にある近世漢詩の研究に揺さぶりをかけたいという福島さんの提案をテーマに、それぞれが取り組んだ。

海外学会につきものの予稿集を書くのも初めての経験だった。「予稿」集とはいえ、完成した形で、それを読めば発表内容がわかるように書いたつもりだ。予稿はちょっとした論文を書くくらいの労力が必要なこともわかった。

持ち時間は質疑応答も入れて4人で90分、1人当たりの発表時間は必然的に短くなる。読み原稿はかなり大胆に対象を中国人に向けて書いた。

日本人の竹枝詞にはもちろん中国の影響がある。しかし近世後期の竹枝詞には中国にない日本独自の習慣や文化を詠もうという意識が見られる。そして近世漢詩人はそういう日本の竹枝をできれば中国人に読んでもらいたいと思っていたのだ。日本人だけで楽しむなら洒落本書いてればいいんだから。

しかし近世の日本人が「こういうのは中国にはないところ、本邦独自の文化である」と詠んでいても、中国人には「域外文学」の1つなんだろうと思うと涙で和本の向こうに浮かぶ詩人たちのドヤ顔も霞んでしまいそう。それでもその詩人たちが憧れぬいた西安で日本の竹枝の話をするのだと思うと何だか感無量で、日本から携えた『北里歌』と『鴨東四時雑咏』持って臨みました。

終わってみればもっと時間が欲しかった。特に質疑応答の時間がもっと欲しかったが*1それは贅沢というものか。懇親会などでゆっくり話せたのでよかったかな。

――もうちょっと続く――

*1:私への質問は「予稿集の訓読がおかしい、平仄間違ってませんか」というものだった。他の質問も受けたかったのであっさり済ませたけど、平仄(も訓読も)間違ってなかった……

2015-09-08

来たぜ西安! 語るぜ近世漢詩!

【注】極めて個人的な感想文です。

和漢比較文学会の特別例会で発表するため、8月28日から9月2日まで西安にいた。

日帰りできない学会に参加するのも苦しい専業非常勤のワタクシ、海外の学会に参加するなど夢のまた夢だった。もちろん漢文など専攻しているからには、学会でなくても大陸は一度行ってみたいと思って久しかったこと言うまでもない。しかし金のないのも久しい(こちらは現在形)ので、行けないのではなく敢えて行かないのだと自分で自分に言い聞かせていた。高所恐怖症だから飛行機に乗るのが怖いし……、近世漢詩人だって本物の中国を知らないのだし……、あげく七絶なんか詠んでいた。

 友訪中華似送忙 友は中華を訪う忙を送るに似たり

 吾耽書見日方長 吾は書見に耽り日方に長し

 山陽外史島棕隠 山陽外史 島棕隠

 文儒当然不渡唐 文儒当然唐に渡らず

 (「当然」のところにもっと良いのを入れたい。「往昔」にしたいが平仄が合わない。)

そんな風に諦めきっていたのに人生何が起こるかわからない。日本漢文学プロジェクトの発表の1つを海外ですることになった。それにかかる費用のいくらかには研究費を充てる。――ということは、私も参加できる! 初めての海外の学会! 憧れの西安!

しかし遊びに行くわけではないので喜んでばかりもいられなかった。なおかつ私たちのパネルは少々冒険的な用語をテーマに取り上げたりしたので、ちゃんと伝わるのかという意見も頂戴していたのである。

――つづく――

2015-08-13

8月の仕事の予定

今年1月から1ヶ月ごとに自分の仕事の進捗状況を見直しているのだが、早くも5月で挫折した。

夏休み前までにしたことといえば、1週間に付き最大12コマの授業を回し、180枚の提出物(と1クラス分の漢字テスト!)を毎週チェックして返却する他は、一般向けの講座を2つだけである。

【5・6・7月にしたこと】

☆6月20日 鍵屋で講座

☆7月26日 長岡京市漢詩作詩研修会で講座

何とも情けないが、今期は春休みに用意しておいた教材が使えなかったのが影響した。今年初めて担当した学生たちが今まで経験したことのないタイプだったので、毎週教材を作り直すことになったのだった。ある程度教材に手を入れるのは予想していたのだが、根本的に作り直さねばならず、これが時間を取った。

とにかく、体調を崩さずきちんと授業をして迷惑を掛けないようにと心がけた。平日は3〜5時間くらいしか眠れず、帰宅してそのまま倒れ込むように寝てしまい夜中に授業準備という日も珍しくなかった。バスやタクシーを惜しまず利用して体力を温存するようにした。

自分の研究が滞るのに焦りと苛立ちを感じていたが、1日の行動をずっとメモしてみるとそういう時間がまったくないのは明らかだったので、とにかくできるだけ睡眠を取るようにしていた。

というわけで振り返ってもしかたがないのである。夏休みに挽回するしかない。

授業は7月最終週まで、8月4日に唐詩選を読む会。9日にすべての採点を終え、週明けに提出。現在、放心状態というのか、少々疲れが出ている。身体が疲れを感じる程度に回復しているのだと思う。昨日今日ととにかく手を動かしているのだが、ペースをつかんだら細かい予定表を作ろうと思う。

夏休みの宿題

  • 菅茶山の本脱稿
  • 西安の学会発表の準備(8月28日)
  • 某氏所蔵の扇面について資料紹介(9月16日締め切り)
  • 宇田栗園に関する論文(9月30日締め切り)
  • 文章表現の本粗稿
  • 研究会(読本)の準備(9月6日)

2015-08-10

大阪くらしの今昔館特別展「淀川舟游」について

大阪くらしの今昔館の特別展「淀川舟游」を見てきた。午前中は摂南大学国際教養セミナーに参加。午後1時からは講師の先生による解説付きで展示品を鑑賞した。これで300円である。申し訳ないくらい贅沢な時間だった。

以下、セミナーの内容と展示品を見た感想など。

岩間香氏の「絵図にみる「淀川舟游」」は伊藤若冲「乗興舟」を紹介し、今回の展示で集結した淀川絵巻についての解説。

1つめは大阪城天守閣蔵「淀川堤図屏風」。ここに描かれている天満宮はちょうど祭礼の時期らしいが、相撲取りが描かれている(展示品解説で実際大正期までは相撲を奉納したらしいことがわかった)。

2つめは大阪歴史博物館蔵「淀橋本観桜図屏風」。江戸中期のものだが、淀城天守閣は宝暦6年に焼失、水車もこの頃から一基のみになっているという。絵画では実際は失われて存在しないものを描くこともあるから、時代を決定するのは慎重にならないといけないと思った。

以上2つは8曲1双である。川のように長いものを描くには6曲では足りなかったのかもしれない(よく見ると八景にしているかも?)。それにしても名所をずいぶん端折らなければならないのであるが。

3つめ、関西大学図書館蔵、大岡春卜「浪花及澱川沿岸名勝図巻」。狩野派の絵巻物。

4つめは「淀川両岸図」。これは2010年の「水都大阪と淀川」展にも出品されているのを見たが、素晴らしい。

5つめが「乗興舟」。

6つめが大阪くらしの今昔館蔵「よと川の図」、たぶん初めて見たと思うのだが、当時の人々の風俗が細かに書き込まれていて、単眼鏡片手にゆっくり見たい折り本である。

松浦清氏「淀川をめぐる文人と大阪文化」はまず文人文人画についての解説。明治以後の文人画の不振について説明される際に日清戦争についてちらと言及されたのが、同時期の漢詩の不振について考えている自分にとっては興味深かった。後半は作品の詳細な解説で、岡田米山人を高く評価されていた。十時梅?「山水図巻」にある七絶の二句目は、

  六月遂涼傍碧流 六月遂に涼し碧流に傍る

と読んでおられるが、3字目は「遂」ではなく「逐」だと思う(草書ではあのように崩す)。「六月涼を逐(お)いて」と読むべきところだろう。

忍頂寺静村の「城北水郷」や懐徳堂一門の「淀川名所図巻」を見ることができてよかった。個人蔵の珍しい資料がたくさんあったのも見所の一つだろう。「三十石登船便覧(べんらん)」に引き船がどちらの側か記しているものなど、商売人などにとっては重要な情報なのだろうと興味深かった。

乗興舟については池澤一郎氏が4月に刊行された『芸術新潮』に書いておられるそうだが、まだ見ていない。

企画展示

2015-08-08

鷗外や漱石の漢文への橋渡し――森岡ゆかり『文豪の漢文旅日記』

漢文の授業に来る学生の中には鷗外や漱石に興味のある学生もいる。また教職を志望して、鷗外や漱石の作品を教材に取り上げる学生もいる。彼ら彼女らは鷗外や漱石を学ぶためには漢文の知識が不可欠だと云うことはよく理解しているのだが、最近は高校までに十分漢文を学んでこないケースが多い。

そういった学生たちに薦められる本はいままでなかった。鷗外も漱石も全集が出ているからテキストがないというわけではないし、たとえば『航西日記』は新日本古典文学大系に収録されているし(明治編5海外見聞集)、『木屑録』は高島俊男漱石の夏休み』がある。しかし高校時代さほど漢文の勉強もせず、漢文が好きというわけでもない学部生にはなかなかハードルが高いようだった。

森岡ゆかり氏の『文豪の漢文日記――鷗外の渡欧、漱石の房総』は、そんな学生に勧められる一冊だ。早速授業で紹介すると、かわいいですねという感想が返ってきた。今どきの学生さんには表紙のデザインも重要らしい。中身も現代語訳、書き下し文、白文という順にレイアウトされていて、これはよくある漢文の研究書とは逆でとっつきやすい印象である。授業がもとになったというだけあって、漢文の読みも懇切丁寧でわかりやすい。高校の教師なら現代語訳だけざっと読んで頭に叩き込み、必要な箇所の漢文の解説を学んでおけば、『航西日記』『木屑録』について一夜漬けで知ったかぶりができそうである。勧めるのはよくないけれど。

本書の特徴の一つとして、『Du's Handbook of Classical Chinese Grammar』などから英訳をとって漢文の説明をしているという点がある。上記のように本書を薦めたい対象には英語を用いた説明は却って混乱するのではないかと思うが、最近漢文の英訳について興味がでてきた私自身にとっては参考文献を知る上で役に立った。

一つ気になるのは、『航西日記』の「其成功在十五年前云」という表現について、「云其成功在十五年前」と書くべきで日本人にありがちな誤りだとしていることである(112頁)。ここは「爾云」くらいの意味で「云」を文末に付けているのだと思う。試みに大典の『文語解』を見ると文末に「云」を置いた例がいくつかあるが、「コレ ナリ ト訳スベシ」(「為言高祖功臣之興時若此云」「采其尤著公卿者云」という用例がある。)(巻三)が『航西日記』の用例に当てはまるのではないかと思う。

全体として森岡氏の温和な人柄そのままの授業が目に浮かぶような書きぶりで、思わずいつも学生をいかに挑発しようか考えている自らの授業を振り返ってしまったのであった。

2015-07-19

江戸・明治のご当地ソング――竹枝詞の流行――

長岡京市漢詩作詩研修会のお招きを受けて26日に「江戸・明治のご当地ソング――竹枝詞の流行――」という話をします。揖斐高氏の研究の紹介以外に明清の文人の影響について取り上げます。和漢比較文学会にて発表予定の内容の一般向きバージョンです。

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2015-06-21

漢詩で旅する淀川

20日土曜日、市立枚方宿鍵屋資料館の特別講座で「漢詩で旅する淀川」という話をしました。『淀川両岸一覧』をスライドで見ながら、中島棕隠の連作「伏見より浪華に到る船中の作」を読むという内容です。連作を読むところ以外に話したことの読み原稿をupしておきます。

――――ここから――――

役に立つ学問だけが重視されるこのごろでございます。「文学部をなくせ」などと、大学がお上に言われる時代でございます。今日は、そんな世間の風潮に逆らって、まったく役に立ちそうにもないお話をしたいと思います。

お話しますのは、文学の中でも、世間でほとんど知られていない漢詩です。漢詩と言いましても、李白杜甫など中国の詩人の作品ではなく、日本人の漢詩です。淀川を船で旅した人が詠んだ漢詩を取り上げたいと思います。

………

今日の会のポスターの絵ですが、『淀川両岸一覧』という本の「枚方駅泥町」の挿絵から作っていただきました。『淀川両岸一覧』にはこの泥町以外にも今の枚方市に当たるところでは伊加賀・枚方渡口・楠葉渡口 が載っています。

『淀川両岸一覧』は暁鐘成と松川半山によるもので、鐘成は浮世絵師戯作者としてたくさん本を書いています。松川半山も浮世絵師で名所図絵などの絵を描いています。葛飾北斎が『絵本隅田川両岸一覧』享和元年刊という本を書いておりまして、それを意識しているようです。幕末の頃の作品です。上り船(上)・上り船(下)・下り船(上)・下り船(下)の四冊ありまして、上り船は大坂から京都へ、下り船は京都から大坂へという順番に名所が描かれているわけです。この本のおもしろい所、他の本と違うところは、船に乗っている人の目線から描かれているという点です。名所の絵に川が描かれることはふつうにありますが、たいてい陸から川を見ているのであって、そこが違うんですね。

なので今日は、『淀川両岸一覧』に引用されている作品を詠んだ人が、どんな感じで淀川の旅をしていたのかを追体験しながら、漢詩を楽しみたいと思います。

というわけで江戸時代にタイムスリップして下り船に乗ったつもりで、京都から大坂まで旅します。

一緒に旅する連れは、中島棕隠という人です。何故この人かと言いますと、ポスターの「枚方駅泥町」を含めて、『淀川両岸一覧』に10首も漢詩が載っているからなんです。『淀川両岸一覧』では中島ではなく「嶋」になっていますが、これは修姓と言いまして、中国風に苗字を漢字一文字で表しているのです。

(棕隠について簡単な説明)

この中島棕隠詩集『棕隠軒集』を見ますと、「高瀬舟中の作」と「伏見より浪華に到る船中の作」という連作があります。『淀川両岸一覧』の漢詩は、御材木蔵 萩橋の詩だけはないのですが、他は全てここから取っているものです。淀川で船に乗っている漢詩は多くの詩人が詠んでいて、中には藤井竹外の「花朝下澱江」のように有名なものもあり、特に珍しくはないのですが、ピンポイントで淀川のここで詠んだと特定できるのは案外少ないです。その点、棕隠の連作はそのタイトル通り、京都から大阪へ移動する順番になっていて、『淀川両岸一覧』を見ると、どこで詠んだかもわかるのが楽しいところです。

『淀川両岸一覧』では枚方と橋本の詩は大阪から京都へという上り船の巻に掲載されていますが、「伏見より浪華に到る船中の作」というタイトルから、下り船で詠まれたことがわかります。

(『棕隠軒集』と『淀川両岸一覧』には異同あり。質疑応答で『淀川両岸一覧』の棕隠詩には韻や平仄の間違いがあることを話した。)

中島棕隠のこの詩でいう船はおそらく三十石船のことだと思われますが、三十石船がどのような船かといいますと、説明するまでもなく、鍵屋さんには模型や絵がたくさんありますので、もうご覧になった方もいらっしゃると思います。

『都名所図絵』の絵がわかりやすいと思いますが、これは読者に中を見せるために苫を開けてあるのであって、これは『和漢船用集』という日本と中国の船の百科事典みたいな本なのですが、ちゃんと苫を葺いています。

定員は、漕ぎ手四人に、乗客が二十八人と有りますから、ここにおられる皆さんギリギリ乗れるでしょうか。全長が二十メートル足らず、幅二・五メートルほど、ということですから、かなり密着してもらわないといけません。その状態で上り12時間、下り6時間の旅です。

気になる料金ですが、『江戸の旅』という本には「大坂・伏見の三十石船が約四百文(約四千円)と意外に高く」とあります。これは厳密には上り下り、季節によってなどで違っていたようですが……。

そして旅の準備ですが、八隅蘆菴『旅行用心集』と言う、当時のベストセラーがあります。道中所持すべき品のこと に「矢立 扇子 糸針 懐中鏡 日記手帳 櫛 鬢付け油 提灯 ろうそく……」とあります。詩を詠みますから筆記用具は絶対必要ですね。こういうものを持って、この浮世絵に描いてあるような格好をして旅立ったわけです。

(佐藤要人監修・藤原千恵子編『図説 浮世絵に見る江戸の旅』河出書房新社 2000年刊 から旅姿の浮世絵を引用)

持ち物としては、この他に、漢詩を詠むためには韻や平仄がスッと調べられないと困りますので、そのような本を持っていきます。こういうもの何もなしで詠めた人もいるようで、そういう読み方を「腹稿」と呼んでいます。腹の中に詩ができているということですね。しかしそういう実力ある人も確認のためにこういう本は持っていったようです。

(詩韻含英を持参した。明治の銅板なのが残念だが……)

最もよく使われたのは『詩韻含英異同辨』という本で、これは頼山陽も「而して行篋の齎らすところ、手鈔の杜韓蘇古詩三巻を除くの外、詩韻含英一部、是れ以って粗率常に倍す」と杜甫・韓愈・蘇軾の古詩とこの『詩韻含英』を持っていったと書いています。

では、こういうものを持って、こういう格好で、三十石船に乗ったつもりで、京都から大阪まで『淀川両岸一覧』のスライドを見ながら、中島棕隠漢詩を一緒に読んでいきたいと思います。

(10首ざっと、枚方の詩だけはゆっくり読みました。これがメインですが、省略。)

江戸時代は庶民の旅行 がさかんになりました。お伊勢参りのついでに京・大坂を見物するというパターンも多かったのです。そして皆実にマメに旅の記録を付け、俳諧や和歌、そして漢詩を詠んでいます。

板坂耀子さんという研究者が江戸時代の紀行文を研究されていて、『江戸の紀行文 泰平の世の旅人たち』という親しみやすい新書も書いておられます。江戸時代には楽しい旅の文学がたくさん書かれているのです。

しかしその中でも、漢文紀行文というのは俳諧や和歌と比較して後回しにされがちなんです。

こういうものは、もちろん研究者もきちんと読んでいかねばならないのですが、研究者と協力し合って、ぜひ地元の方で、ちょっと頑張って読んでみてほしいんですね。

たとえば、汲古書院から紀行日本漢詩のシリーズが出ています。こういったものを見ますと、淀川はもちろん、ピンポイントに枚方を描いたものが今日読んだ以外にまだいくつか出てきます。

江戸時代の後期からは特に、旅先で見た風物を詠んだ詩や、自分の住んでいるところの名所旧跡や当時の流行を詠んだ詩が流行しましたので、このような作品は探せばけっこう出てくるんです。

長岡京市など乙訓地方の市民グループの方たちは、乙訓を詠んだ漢詩を集める活動をされていて、乙訓地名詩という本を出されたのですが、私はこのような活動が、日本中で行われるといいなあと思っています。

………

さて、今日はご一緒に淀川を漢詩で旅しましたが、こういった古い漢詩を掘り出して読むなどということは、何の役にも立たない、一文にも成らない道楽でしょうか。

そんなことはないと思います。こういった漢詩を学ぶことを通して、それぞれの土地の伝統や文化を知ることができますが、それはそこに住む人たちの誇りになります。景気がよくなって豪華なショッピングモールやホールを今から作っても、そういうものは日本国中どこも同じようなものになるでしょう。しかし伝統はいくら景気がよくなっても今すぐには作れないのです。

日本全国どこにでもあるような町ではなく、個性があってこそ、その土地を愛せるのではないでしょうか。

それに、ちょっといやらしい話ですけど、こういった江戸時代の漢詩著作権切れています。中島棕隠漢詩をそのままお店の包装紙に印刷することもできるでしょう。また漢詩の言葉を商品名などに使うことだってできるでしょう。たとえば、くらわんか舟を詠んだ詩にある、「瓜皮(うりのかわ)」という名前のお菓子を作ることだってできます。俳諧や和歌と比較すると、漢詩の詩語はちょっと改まったのは得意です。

今日ここに来られた皆さんの中には、古文書を読む会などに参加して勉強されている方もいらっしゃると思いますが、俳諧や和歌と比較すると人気のない漢詩にも、この機会にぜひ興味を持って戴きたいと思います。

本日は、拙い話をお聞きくださり、ありがとうございました。

2015-05-09

5月の仕事の予定

【4月にしたこと】

  • ★〜10日:新年度の授業の準備 今年度から新しく担当する2コマ分の配布物が、実際に授業を初めてみると使いにくい。学生の反応を見ながら新規に作成したり修正したりの自転車操業。予想以上に負担である。
  • ☆〜10日:ワークショップに向けて幕末漢文関係の勉強
  • ☆〜10日:すかぁばてぃ連載原稿 締め切りに遅れてしまったが大丈夫だったみたい。次は遅れないようにしよう(何度目?)。
  • ☆〜22日:論文A訂正稿
  • ★〜30日:とにかく菅茶山 語釈のダブりや表記の揺れがないか見ている段階。

月ごとの計画と一週間の予定を意識するようになってから、ずいぶん気が楽になった。特に一週間の時間割は自分の持ち時間の貴重さを意識するのに効果的だ。

土日の内一日はダラダラ過ごしてしまって自己嫌悪というのがいつものパターンだったが、疲れを取るための日と決めてしまって、罪悪感からも解放された。わりと皆さん昼まで寝たりしてるみたいですね。

提出物は授業を行った学校に残って処理するようにしている(*印)が、移動の関係で4コマ分は自宅での作業になる。これがたまって執筆時間など(☆△★印)を圧迫しているのでなんとかしたい。

午後から授業の日は午前中を執筆時間に当てることにしたが、ギリギリまで書いていて駅からタクシーに乗ることになったり、集中できなかったりで今一つ。いつも通り家に出て出先で書くなどいろいろ試してみようと思う。

  • ○は授業、*は提出物チェックや配布物作成に当てる時間、→は移動。
  • ☆は執筆時間、△は図書館や展覧会、★は掃除やたまった家事。

  1 2 3 4 5

月 ○ ○ * ○ *

火 ○ ○ △ △ △

水 ○ →→○ ○

木 ☆ ☆→→ * ○

金 ○ ○ * ○ *

土   ★ ★ * *

日 ☆ ☆ ☆ ☆ *

(土日は入れ替わることもあり)



【5月の予定】

  • 〜10日:菅茶山A章完成
  • 〜24日:講演の資料作成
  • 〜17日:菅茶山B章完成
  • 〜24日:菅茶山C章完成
  • 〜31日:菅茶山D章完成
  • 〜31日:講演の読み原稿作成

茶山の註釈、表記チェックなどは全体にわたるので分割しにくいが、絶対に仕上げるためにとりあえず章ごとの締め切りを設定してみた。

とにかく今年の最大の目標は『菅茶山』の出版なのだ。これは、今までの茶山の註釈とは全く違った構成で、私にはそういう自覚はないが何人かに読んでもらったところ「斬新」で、受け入れられるかどうかは「賭け」らしい。

賭けか。私の人生、負けが込んだ博打みたいなものなので、もう一度負けても失う物は何もない。それに無難なものを出すより、賭けの方がおもしろい。

うん、おもしろい仕事をしよう!

2015-04-26 4月の仕事の計画

4月の仕事の計画

もう4月も終わりそうというのに書いてなかった。


【3月にしたこと】

  • ☆〜20日:論文A完成。査読は一応通ったがいろいろ指摘されたのでそれを反映して書き直すことに。
  • ☆〜23日:「第1回日本漢文学総合討論」の準備。
  • ☆〜30日:論文B完成。査読の結果待ち。
  • ★〜31日:菅茶山の註釈は論文と討論会の準備で手が回らなかった……。

ほとんどどこにも出かけずひたすら書いていた。3日に2回寝るような滅茶苦茶な生活になっていた。


【4月の予定】


授業が始まった。半期15回の大学と7〜8回で終了の専門学校が混在する前期は週最大12コマ。

ほとんどが文章表現関連なので提出物チェックに追われてなかなか自分の勉強時間がとれないが、愚痴っていても仕方ない。12コマない週はそこにできるだけ執筆時間を入れ、土日のうち1日は執筆に当てることにする。

  • ○は授業、*は提出物チェックや配布物作成に当てる時間、→は二校間移動。
  • ☆は執筆時間、△は図書館や展覧会、★は掃除やたまった家事。

  1 2 3 4 5

月 ○ ○ * ○ *

火 ○ ○ △ △ △

水 ○ →→○ ○

木 ☆ ☆→→ * ○

金 ○ ○ * ○ *

土   ★ ★ * *

日 ☆ ☆ ☆ ☆ *

(土日は入れ替わることもあり)

今年の仕事の大きな目標は、

  • 『菅茶山』を出版すること。夏に中国に行くときには持って行けるようにしないと。
  • 文章表現のテキストを完成させて売り込むこと。これは夏休みに集中して書く。

2015-04-11

春の阪大短歌会(風輪会)

3月24日は阪大短歌会(風輪会)だった。

島津先生の他は参加者9名、詠草のみ1名。

6票集めたのが1首、3票4首、2票3首、1票3首。

珍しく一つの歌に評が集中した。

葬儀より帰り来たれば鈍行の駅ごとに眩し夏の若者

私の歌です。先生も評を下さって、「よく整った形」「これでよろしい」ということだった。

詠草は2首提出。もう1首は2票頂いた。

子を乗せぬママチャリ軽ろし颯爽と走れ孤独が追いかけてくる

最初の歌は、高校の同級生が亡くなって葬儀に行った帰りの電車内でできたものだ。私はなんだか疲れて、各駅停車に乗ってぼんやり座っていた。

夏休みなのでクラブ活動や補習なのか、駅に着く度にぱらぱらと数人ずつ高校生が乗り降りしている。その高校生たちがとても眩しく見えた。陳腐な言葉だけど、若い命のエネルギーみたいなものを感じた。

亡くなった同級生も私も、あの高校生のようにこの電車に乗っていたのだ。あのころは自分たちが振りまいている眩しさを自覚していなかったけど、そのときは感じ取れて、自然に歌ができた。

私の場合、題詠を試してみたり、誰かになりかわって詠んだり、別の種類の感情を恋に置き換えて詠んだりすることが多いので、自然にできるのは珍しい。

できてすぐの短歌会には気持ちの整理が付かなくて、出せなかった。半年以上経って、いつもは季節が違う歌は出さないのだけど、今回は関西での最後の短歌会になるかもしれないので出した。票を集めて先生にも褒めて貰って、友達もよろこんでいることと思う。

2015-03-31

江馬天江の詩稿もあった、蓮月も。

正木彰家文書の詩稿については詩社の分は一通り見たので、あとは地元の方にお任せしたいと思っている。基本的な情報をまとめて目録付けて出せたらいいんだけど、研究費とかないし自腹切って出す甲斐性もないしでぐずぐずしてる。「さあ、これで一区切り、次行こう!」っていう風に、気分に区切りを付けられないんだよなあ。

いくつか気になることがあるので書いておく。江馬天江の詩稿があるのがちょっと気になる。

「陳曼寿寄浪華雑咏十二首求和次其韻答之」陳曼寿の「浪華雑詠」ってどこかにあるのかな。これはまだ探してない。

「陳曼寿喜獲雛姫雲児二絶索和和次其韻祝之(私のメモでは和が2つある。間違ってるかも)」これは……。

「采覃二十韻録以索同遊諸君和」江戸時代からよくある、きのこ狩りの詩。

末尾に「江馬欽初稿 庚辰十月念四 林?美妄批」とある。

どんな詩を詠む人かなと、『退享園詩鈔』を中之島図書館に読みに行った。明治34年3月5日発行。庚子とあるから前年の、谷鉄臣の序と「清国晩生王照」の跋がある。王照は王照 - ?基百科,自由的百科全?で間違いなさそうだ。「甲子」の「兵燹」で詩稿の大半を失い、三千余首残ったというのはどんどん焼けのことか。これで詩稿を失ったという人は多いだろう。天江が「詩若有可伝者数十首而足矣曷要其多哉」というので神田香厳と大竹蒋逕に三百首を選ばせたとある。図書館で読むの、これくらいの分量が私にはちょうどいいなあ。

村上仏山・小野湖山・谷如意・陳曼寿の評があった(と思う)。はい、陳曼寿さん出てきましたね。

巻一には「贈蓮月老尼四首」という七絶が。「蓮月」という署名和歌の稿本も正木彰家文書の詩稿の中には交じってて、話も終わらんうちから「蓮月は偽物多いからなあ!」って言うた人いたけど、やっぱりあれは本物だと思う。向日町の文化サロンは蓮月と繋がってたんや人の話は最後まで聞け。

巻二の「丙申新正」という七絶二首は台湾のことを詠んでいて、時代が時代だから天江さんを責められないが、現代人の私が読むのはちょっと辛かった。

江馬天江を研究している人は是非正木彰家文書を見に行ってほしいのであります。

2015-03-27

詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その6

以上、まとめますと、盛唐詩一辺倒の時代から、南宋の田園詩や、中晩唐詩、ひいては様々な時代の詩に日本人の興味が広がっていき、七言絶句が好まれたというのは、日本人が自分たちの身の丈に合った漢詩を享受するようになった、すなわち漢詩が「日本化」したということではないでしょうか。

詩風転換以降も詩人たちのほとんどは、唐詩漢詩の頂点であるという認識を変わらず持っています。ありのままの「真情」を重んじる性霊説の詩論の影響で、日本人が『唐詩選』ではなく自分たちに合った漢詩を選択して受容するようになり、その結果が南宋詩や中晩唐詩の流行だったのです。

詩体についてもまた、作詩層が拡大し、ふつうの日本人が詠みやすいというのが七言絶句流行の理由の1つでした。

これは「日本化」と同時に「大衆化」したということでもあって、漢文を十分消化できる、実力のある詩人なら、盛唐詩を祖述しても、律詩や古詩を詠んでも、いっこうにかまわないわけです。黒川洋一先生は新しい詩風で知られる六如が杜甫を祖述していることを指摘されましたが、一流の詩人たちの事情は又それぞれ異なっています。

ですので、一流の詩人たちの作品だけを見るのか、初心者も含めた詩壇全体を見るのか、視点をどこに置くかによって、近世詩文の見え方は大きく異なってきます。

卑近な例で言うと、これは芸能人、アイドルを巡る状況と似ていると思います。

かつてはアイドルというのは誰が見ても美しいと思える、完璧な美人のタイプで、手の届かない存在でしたが、いつのまにか、そういうタイプは少なくなり、今では身近にいそうなタイプが多くなっています。様々なタイプがいて、自分はどの子が好みだと言って選ぶ状況になっているのです。

近世詩壇は盛唐詩という、漢詩の歴史の中での頂点に、詩人たちが憧れていた時代から、身近に感じられる題材の多い南宋詩や中晩唐詩に注目する時代に転換しているのです。

つまり、アイドルの意味がいつの間にか変わったように、祖述する対象である漢詩の意味もまた、詩論転換と同時に転換しているのです。

よりどりみどりのアイドルから自分好みの一人を見つける今の時代でも、典型的な美人というものは存在します。同様に、さまざまな時代の漢詩が祖述される時代になっても、盛唐詩漢詩の頂点だということは変わらないわけです。

市河寛斎は、『談唐詩選』で古文辞派を批判するあまり唐詩を価値のないものだと考える風潮を批判し、次のように述べています。

  • ……然ルニ、唐詩ヲ棄ツルノ論アルハ真ニ詩ヲ知ラザル人ノ所為ナリ、然レドモ人間ニ好キ不好キアリ、唐詩ヲ好ム人アリ、宋詩ヲ好ム人アリ、漢ノ成帝ハ飛燕ノ痩タルヲ愛シ、唐ノ玄宗ハ楊妃ノ肥タルヲ愛ス、コレ好尚ハ人々異ナレバ、必シモ己レヲ以テ人ヲ律スベカラズ、タゞ偽唐詩トナリ、偽宋詩トナルハ、余ガ輩ノ深ク悪ム所ナリ、二三子ヨク心ヲ用ヒテ学ブベシ。

「偽唐詩」「偽宋詩」、つまり「型」だけ似せて詩心のない偽物の詩はだめだが、祖述の対象に唐詩を選ぶか宋詩を選ぶかは単に好みの問題だというのです。

決してなれるはずもない中国人になりきって、最も中国的な盛唐詩の「型」に無理矢理合わせていた時代から、手の届く南宋詩、日本人の実生活に即し、日本人が身近に感じられる、日本人の詩心に寄り添う詩が詠める時代へと詩風が変化した――、近世漢詩を考えるには、そういった「日本化」という視点が必要なのではないでしょうか。(了)

以上で私の発表を終わります。

詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その5

三つ目は絶句、正確に言うと七言絶句の流行です。

南宋詩の和刻本に楊万里・范成大・陸游の絶句を集めた『三大家絶句』がありますが、館柳湾が関わった中晩唐詩の和刻本もタイトルからわかりますように『中唐十家絶句』『晩唐十家絶句』などの絶句集でした。

これらは中国の詩人の作品ですが、日本人の絶句集も非常にたくさんあります。

『文政十七家絶句』『天保三十六家絶句』のように、元号+数字+家絶句というタイトルのもの、「元号絶句集」と呼ばれるものが次々と出版されています。

なぜこんなに絶句が流行したのかという理由については、既にずいぶん前に富士川英郎が、「俳句の境地に近い」からだと指摘しています。

実際、詠まれた情報量といいますか、分量の面で言いますと、俳句漢詩に翻案すると七言絶句でちょうど上手く収まります。

それも含めて、七言絶句と俳句に通じるものがあるということは、感覚としてはよくわかるのですが、通じるものが何なのか、具体的に検証するとなると非常に難しい。これは今後の課題の1つだと思います。

それはそれとして、私は、中村幸彦が絶句集は初学者向けだと指摘しているように、初心者がいちばん作りやすかったのが七言絶句だからというのが、七言絶句が流行した最も大きな理由だと考えています。

広瀬淡窓は『淡窓詩話』において七言絶句の流行について次のように述べています。

  • 当今三都に於いて流行する体、七絶より盛なるはなし。是れ貴人又は豪富の町人を、その社中に引入れんが為めの計策なり。如此の輩、纔に素読を為したる位の事にて、詩人とならんと欲す。故に絶句を外にしては、力を用ゆべき処なし。盟主たる者、其情を知りたる故に、詩の妙は絶句にありと称し、古今の詩集を抄録するにも、七絶のみを取りて世に行ふ。但相手の多くして、其書の行はれ易からんことを冀ふなり。識趣鄙陋なりと謂ふべし。

七絶を重んじるのは詩社を維持していく上での戦略であるというのですから、なかなか辛口です。

しかし、日本人が漢詩を作って楽しむためには、やはり七言律詩や古詩はなかなか困難なのは事実です。その上で、俳諧と通じる趣があるとすれば、七言絶句になびくのは仕方がないことでしょう。七言絶句の流行は、日本人が律詩や古詩など様々な詩体から自分たちの扱いやすいものを選び取った結果であり、つまりこれも漢詩の「日本化」で説明できると思います。

続き(終わり)詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その6 - 固窮庵日乗

詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その4

二つ目の中晩唐詩の流行についてですが、鷲原さんがこの後お話されます館柳湾や、巻菱湖が中晩唐詩を愛好したことがよく知られています。

汲古書院の『和刻本漢詩集成』第15輯(宋詩篇第5輯)には萬(まん)笈堂という本屋が出した和刻本、宋の高翥『菊礀遺藁』が収められていますが、この本の巻末にちょうど広告があり、館柳湾の編纂した中晩唐五冊の和刻本が出ています。

ところでその広告には、次のようなことが書かれています。

  • 凡そ近体の詩、唐を宗とせざるはなし。然れども盛唐は高妙にして、たやすく解し得べきにあらず。故に先ず中晩の詩に熟し、後に歩を進めて盛唐の妙をも悟り、且つ宋元の変遷を知り得てみづから筆を下すときは其の本源を失はず。宋を学び元に倣ひ或いは明清に擬するも各其の欲する所に従うべし。

ここでも盛唐詩の価値は認めた上で、「高妙」なので入門者は中晩唐から始めるようにと進めているのです。営利を追求する書店の戦略でもありますが、実際のところ、宋詩を祖述する前に白楽天や杜牧など、中晩唐を学ぶのはよくあることでした。

市河寛斎は白楽天に傾倒しましたが、寛斎の江湖詩社では白楽天や杜牧を学んだあと宋詩に移ったということが、門下の詩人たちの詩話などからわかります。

つまり、中晩唐詩には盛唐詩ばかりに親しんだ読者が、いきなり宋詩に移るのではなく、そのワンクッションとしての面があったのでしょう。唐詩から宋詩への中継点というわけです。

館柳湾のように優れた詩人は別にして、一般の日本人は中晩唐詩に「高妙」な唐詩とは異なった、親しみやすさを期待して中晩唐の詩を読んでいて、本屋はそこに商機を見出したのではないでしょうか。

中晩唐の詩の流行が、南宋の詩の流行に派生した現象だととらえると、これもまた漢詩を日本人が扱いやすいものにしようとした「日本化」の流れの中にあると考えられます。

続き詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その5 - 固窮庵日乗

詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その3

今回はこのうち、‘鄙廚療脹犹蹇´中晩唐詩 絶句について取り上げます。

,泙紺譴通棔何と言っても 南宋の詩、特に南宋の田園詩の流行についてです。

宋詩と一口に言っても様々な作品があります。理屈っぽい、といいますか理知的なところも唐詩とは異なる特徴ですし、非常に繊細な描写の作品もあります。激しい憂国の詩も多いです。そんな中で、日本人が好んだのが南宋の詩で、南宋の四大家(陸游・范成大・楊万里・尤袤)がよく読まれました。中でも人気を集めたのが田園詩でした。

南宋の詩人たちの詩集は、江戸の詩壇で詩風転換に大きな影響を与えた儒者山本北山江湖詩社の詩人たちが関わって和刻本も出版されています。その中には田園四時雑詩、単独の和刻本もあります。

田園の生活というのは古くから漢詩によく詠まれています。たとえば陶淵明は日本人に人気のある詩人の一人です。一般には、范石湖や楊誠斎といった南宋の詩人よりも、陶淵明の方がよく知られていることでしょう。陶淵明の作品に出てくる表現は、時代を問わず日本の漢詩人に典拠として用いられていますが、そこに描かれているのは、憧れの田園、理想的な田舎です。

これと比較すると、南宋の田園詩はとても身近なものです。まず時代がずいぶん近付いています。そして南宋の首都は臨安(現杭州)で、田園詩の舞台は地理的に日本と気候が似ています。

近世の日本人は、南宋の田園詩を読んで、まるで自分たちの田舎の暮らしを読んでいるかのように身近に感じたことと思います。陶淵明の描く田舎が素晴らしいのは認めるけれども、親しみを感じるのは南宋詩なのです。

日本人が読んで共感するということは、日本人が日本の田園詩を作ってみたいと思った際にも、南宋の田園詩は大いに参考になるということです。特に詩風転換以降の詩壇文学論では、何と言っても「ありのまま」の自分たちの田舎の暮らしを表現するのですから、参考にするのが陶淵明ではちょっと理想的に過ぎて合いません。特に力量のない詩人には難しいでしょう。

近世の日本人が日本の「ありのまま」の田舎を漢詩に作ろうとした、つまり田園詩が「日本化」したからこそ、南宋の田園詩がちょうどよかったのだと考えられるのではないでしょうか。

ちなみに、范石湖の田園四時雑興だけを集めた和刻本『石湖詩』の序には、次のようなことが書かれています。

  • 唐詩を学ぶには唐詩を読むに若くは莫し。唐詩は高遠にして、初学力を尽くし難し。宋詩は浅近にして、初学之に由って力を為し易し。

高遠」な唐詩は初心者には難しい、「浅近」な宋詩の方がよく理解でき、作詩のお手本にもちょうどいいと、身も蓋もない感じですが、はっきりそう言っているのです。

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詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その2

では、まず近世漢詩を考える上で、どうしても触れておかなければならない、この詩風の転換についてごく簡単に説明しましょう。

18世紀の終わり頃から19世紀にかけて、明の古文辞学に基づく詩論から、明清のさまざまな詩学への詩論の転換がありました。

明の前七子・後七子によって提唱された古文辞学は、日本では荻生徂徠(蘐園学派)によって広められ、一世を風靡しました。

この古文辞の詩学が衰退し、代わりに台頭してきたのが明の袁宏道や清の袁枚らの詩論です。彼らの唱えた詩論は『文心雕龍』の語を用いて性霊説と呼ばれました。とりわけ江戸の詩人に支持されたのは袁枚で、『随園詩話』は和刻本も出版されています。

古文辞学の詩論による詩と、性霊説を奉じた詩人たちの詩はその趣を全く異にしています。一言で言うならば、「型」と「詩心(しごころ)」のどちらを重視するかです。

古文辞派学の詩人たちは「型」 を重視します。詩人はまず漢詩という「型」に入って、その中で表現することになります。中国で漢詩という文学がピークだった盛唐の詩を規範として、あたかも自分が唐詩選』にその作品が収められた詩人であるかのように、なりきって詠むのです。

これに対して、性霊説の詩論は性情が自然に表れるのを尊びますから、「型」より「詩心」が優先されます。「ありのまま」の自分の姿で、身の回りにある「ありのまま」の題材を用いて作る方がよいということになります。彼らはよく「真情」「清新」などといった語を用いますが、自身の詩心を優先するため、漢詩という最も「型」を重んじる文芸でありながら独創性に対して寛容です。

古文辞の詩学ではお手本は盛唐詩以外考えられませんが、性霊説の場合は「真情」、つまり「ありのまま」の自分の気持ちにぴったり寄り添うものをお手本にすればいいわけです。ですから、唐詩風に対抗して宋詩風にする必要はなく、お手本は別にどの時代でもいいわけです。そのことを、ここで確認しておきたいと思います。

では、詩風転換以降の漢詩壇はどのような様相を呈していたのか、それまでと何が違ったのかをいくつか挙げてみます。

まず最初に、詩風は唐詩風から宋詩風へ変化したと言われるだけあって、南宋詩が流行します。特に南宋の田園詩は大流行し、その影響は漢詩だけでなく俳諧などへも及びました。

そして宋詩だけではなく、唐詩選に採録されなかった中晩唐詩も読まれるようになりました。

詩体としては絶句、七言絶句が圧倒的に作られます。

そして唐詩選を規範としていたころは詠みづらかった日本の文化風習を詠んだ竹枝詞名勝詩もたくさん作られるようになります。

福島さんが先程の発表で取り上げた蛍の漢詩では、荻生徂徠唐詩選の枠の中で蛍を秋の景物として詠んでいましたが、詩風転換以降の菅茶山は夏の景物として詠んでいます。このように日本独自の題材、ときには当然中国に例のない桜や富士山なども詠まれるようになりますし、和歌題の漢詩や俳諧の翻案もありました。

続き詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その3 - 固窮庵日乗

詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その1

23日シンポジウムの読み原稿です。時間の関係で削った部分を復活させて、資料とパワーポイントがなくてもわかるように書き直しました。

タイトルは「詩風転換以降の詩壇漢詩の『日本化』」です。

近世中期の「唐詩風」を経て、詩風が転換、後期の詩壇は「宋詩風」を含むさまざまな様相を呈した。

これは漢詩の「日本化」で説明できないか?

新稲法子です。近世チームの一人として、漢詩の「日本化」について、皆さんと考えていきたいと思い、問題提起を致します。

このような場では言うまでもないことですが、漢文は中国のものではありますが、東アジアの漢字文化圏の共通の古典でもあります。東アジアだけでなく、ある時期までの日本人にとっては、漢文というのは全世界にアクセスできる「グローバル」なツールだったわけです。

それが日本という地域で変化していく、つまり「日本化」するというのは、まさに最近よく聞くGlobalizationとlocalizationなのですが、私はこのlocalization、「日本化」ということが、近世漢詩を理解する上で鍵になる観点だと考えてきました。「日本化」というキーワードを用いて、近世後期、詩風転換以降の詩壇を眺めてみると、実にいろいろなことがスッキリしてくるのです。

近世漢文学の流れは「詩風転換」や「唐詩風から宋詩風」というキーワードで捉えられることが多いのは周知のことだと思います。そして「唐詩風から宋詩風」については、事はそんなに単純ではないというのが明らかになってきました。

「詩風転換」について、私は、唐詩から宋詩への転換ではなく、中国風から日本風への転換である、詩風転換は本質的には「日本化」の始まりだったと考えています。

続き詩風転換以降の詩壇と漢詩の「日本化」その2 - 固窮庵日乗