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新春オタ話メモ

野方給水塔 | 050220

一月三日の記憶がすっぽり抜け落ちている。太陽の出ている時間帯は全部寝ていたはずなのでおれにとっての一月三日というのは夜半〜早朝と、夜〜夜半までのことだが、それにしたって十時間以上はあったはずなのになにやってたのか思い出せない。ログを漁ると、とりあえずチャットをしていたことだけはわかった。実際あとで思い出せるようなことといったらそれだけしかしてないかもしれない。体の調子もよくなかったし全般的に寝て過ごしていた。

チャットを大雑把に要約しているので、どこからどこまでが誰の意見かとか区別なく混ざっている点に注意。

  • 再燃する「オタクの定義」話に関して
    • オタ定義話が web 上で盛り上がっていたのは数年前という認識。一度は既に通過している。去年・一昨年あたりだと「オタクの定義」と言われても、まったく真剣になる要素がなかった。実際、自アン界隈だとそれは一種のオタネタテンプレートと化している。「いまさら定義話なんかまじめな顔してやってられるか何年前の話してんだ」という。
    • それでもそれをあえて現在まじめにやる余地がありうるとすれば、当時は素通りしてよかったことを、現在は素通りできなくなってしまっているのかもしれないという状況認識の変化。
    • 「オタクの定義」は是か非かについての、過去の結論
      • 無意味。
      • 「オタクとはこれである」という定義=「これは定義から外れるのでオタクではない」というシチュエーションを作ること。それをする意義はない。
      • 「これオタクではない」は可能性の排斥であり老化。「これオタクである」と周辺を吸収拡大していくことこそ若さであり、オタ文化圏を強化し発展させる考え方である。コミュニティの成熟はその過程で獲得する。当然予測されるコンフリクトについては、それに勝る拡大スピードによって、問題を問題でなくす。
        • 「その考えでいくと、たとえば「今敏氏作品はかわいい女の子が出ないからサブカルアニメだ」という分け方は老化で、「あれだってオタアニメだよ」っていうのは若さか?」「なんかそんなかんじ。原則的に受け容れる。または外に出て行って取ってくる。ひきずりこむ。柵や障壁があっても時間をかけてナァナァにする。」
    • 当時否定された「これはオタクではない」が、現在は必要になってきているという感覚が、オタクの定義話再燃を支持するのだろう(当時の話は全員にとってただの遊びでひまつぶしだったが、今回はなにか危機感のようなものを持って話題を振ってるひとが居そう)。
    • 貪欲な市場拡張がなければなーというか。これってようするに SF とかラヴクラフト商法とかの反復(おもしろかったらなんでも SF だということにしてしまえ式・怪しい神はなんでもクトゥルー神話体系に組み込んじまえ式)なので、現代というよりは近代に属する考え方かもしれないが。
    • 拡散しちゃった結果、中心がなくなるのがイヤなのかもしれない。SF がそのパターンの好例(実際に SF は現在、これは立派に SF だけどそう言ったら売れないので別の言い方にしましょうみたいなことになってる)。
  • オタクの中心(のひとつ)としてのコミケ秋葉原
    • 相変わらずコミケは物質面においてダントツの首位にあるが、しかしそろそろ精神的な中心性は失いつつある気がする。勘だけど。オタオタしすぎる表現だが、聖性みたいなものはもはやないかなみたいな。
    • で、コミケがかつて負っていた役割を、次は秋葉原に負わせようという集団無意識みたいな念は感じる。実際には無意識より誘導的な意思かもしれないが、その流れに乗っていないのでわからない。
    • 質の変化に伴う比重の変化と思うので、コミケ秋葉原が同列上の継承とは思っていない。流れ上で判断したときにそのように見えるだけで、場所が変われば中身は当然違ったものになる。
    • この場合のコミケに感じる衰退は「企業ブースの比重が大きくなりすぎた」みたいな実の話とは無関係な気がする(結果は結びついているから、関係あるとも言えるんだけど)。ファンロードから絵柄が生まれなくなったと感じたときに似てるかも。
      • ファンロードは、昔絵柄がたくさんあったが、いつからか絵柄の幅が狭まっていった印象。
    • 以降のコミケは SF 大会のようになる?(←岡田斗司夫氏が以前そのようなことを言っていたとのこと)
      • SF ファンダムの世界には、ファンの中にヒエラルキーがある(←BNF などに代表される)。昔はオタクもそうだったけど、そうしたファンコミュニティ内の構造が失われていくことへの抵抗感とか。
      • BNF のような構造は web に継承されているのではないか。「○○のえらいひと」みたいな。ライトなオタ言論層にも「オタ言論のえらいひと」をマッピングして楽しんでいるようなところがあるのでは。
        • ライトなファン層はオタク言論とか知らないのでは。
  • 団塊ジュニアのちょい上とちょい下の年代の、消費者としてのオタ心理問題
    • 団塊ジュニアの年齢帯に入ってるくらいのオタからみれば、現在 20 代中盤くらいのオタは無条件で「かわいそうだなあ」という感情を抱いてしまうひとたちかもしれない。憐れみとかではないが、なにか自分たちのほうが幸せに過ごせたんじゃないかという思いがある。あまり客観的に見れない気がする。まあ当人たちにしてみれば、よその世代からみてどうかとか知ったことじゃなかろうけども。
      • 曖昧だが「ここからは自分たちが主役だ!」って思える瞬間みたいなものを経験しないまま旬を過ごしてしまったひとたちなんじゃないかなーという偏見。
    • 上や下の年代からどう見られているかとかは、考慮しないと正確なところはわからないかなとは思ったりする。自分自身を中心としてみた場合、誰でもそれなりの幸不幸のモデルを当てはめるもの。
    • 「旬を過ぎてしまった」の旬というのは?
      • オタ商品を長年みてると「あ!この一連の商品がターゲットにしてるのはまさしくジャストおれたちの年代プラスマイナス一年くらいだ!」て手触りでわかる時がある。それがこの場合の旬かと。団塊ジュニアの場合そういう瞬間がバシバシあったし、いまだにある。単純に人口多い帯だから。そのあたりの感覚が団塊ジュニアから外れている世代について、どういうふうな感じかたになっていってるのかに興味がある。
        • 話はズレるが、団塊ジュニアオタクは自分たちがメインターゲットにされることに慣れすぎ、泰然自若としたまま過ごしすぎた。自分たちは死ぬまで売り場から無視されないと思っていて、しかもおそらくそれは正しい(←ただし勝ち組と負け組とではっきりと売り場を区別されることになるだろう)。で、まあ世代として全体的にはそうでも、オタクの世界に限っていえばそんなことはなくなっていくと思うので、いずれ無視とはいわないまでも軽視されるようになるはずだから、それに備えなければならないと思っている。
    • 団塊ジュニアちょい上くらいの意見としては、大学卒業〜新社会人の頃わりあい不遇だったかもしれない。自分の価値観が市場に認められたと感じ始めるようになったのはそれより後。具体的には、いいと思って買っていた同人作家が有名になっていった過程など。
    • ウルトラジャンプやマガジン Z の主な読者層は 30 代と 10 代で、20 代がすっぽり抜けてるという話。
    • 90 年代前半を大雑把にいうと、あかほりさとる氏作品とか「スレイヤーズ」しかない。「不思議の海のナディア」が異常に評価されてる気がしていたのだが、当時は不毛地帯ド真ん中だったからだと説明をされて納得したことがある。
      • スレイヤーズあかほりさとる氏作品はメタ前提。あれを辿っても過去のコンテンツにはたどり着かなかったということかもしれない。それこそファンタジーにハマりたければ過去に遡るしかなくて、そういう意味では指輪物語のリアルタイムは戦後ということになるが、後の年代になっても遡っていくわけだから読める。でもスレイヤーズからではそこまで辿れなかったかも。
    • 上の年代でいうと、大学生ぐらいの時にナディア(91 年)を見ていたひとたちはかなり不毛期を歩んでいるのでは。平野耕太氏がそのぐらいの年代で、不毛さを語っていた。オタとして物心がようやく付いた頃にリアルロボットアニメバブルがはじけて、子供向けアニメばかりの時代に逆戻ってしまった。
    • 逆に団塊ジュニアから十年くらい上がると、団塊ジュニア世代相手の商売で成り上がって来たオタ制作者群が居ると思う。ゆうきまさみ氏とか出渕裕氏とかあの年代。あと、ゲームの場合大抵そう。
    • あのへんの年代で現役と経営の中間に居るようなひとたちは、いまだに元気がよさそうな印象。ただ世間が厳しいので、それなりに適応し続けてないと周囲の状況と噛みあわなくなるかも。
  • オタ向けと明確に意識されて作られるようになって 20 年近く経った結果、齟齬がどんどん出来てきたんだよなと思うことがある。オタクは「自分しか知らないという優越感」と「他人は知らないという孤独感」に折り合いをつけてきた訳だけど、80 年代がそういう優越感で語れるものでなくなってしまった感があって。わかりやすくいえば、マイナーであればあるほどオタクは喜びを感じる訳で。誰も知らないいいものを発見したという喜び。今はそういう喜びを発見することが難しい。
  • ちょっと反論としては弱いが、発見を作り出すことは可能だと思う。
    • ネットによって消費スピードが上がってしまった。90 年代前半ならじわじわ広まったようなものも、今は一週間で広まってしまう。村田蓮爾氏が商業の仕事をするまで同人を何年やったかという。昔は同人誌の世界は流れが速いって言われていたが、いまでは遅いと言われている。
      • あーそうか。オタネタって、最前線から最後尾の人まで情報が到達するまでがネタとしての旬なのか。
      • ひぐらしのなく頃に」は、その点をうまくコントロールできていたかも。どこまで意図的だったかはわからないが、噂の伝達速度を結果的にかなりゆるやかにすることに成功していた。
    • 差がなくなってくると「わびさび」とか言い出さないといけなくなるから、最近オタと和の親和性が高いんだろうなあと思っている。わずかな差に感情表現を込めるみたいな(←「マッハの戦い」だ)。
  • いまの若オタには適切なフロンティアが与えられていないのだろうか問題
    • 東南アジア圏では。
    • 基本的な話だけど、飢餓感はないですよね。情報はうんざりするぐらいあるわけで。とはいえ満腹感もないんでしょうねと。それが問題なわけか。
    • 一番近いところだとエヴァンゲリオンが満腹感だったのか?
    • どこを一色に染め上げれば満足できるかっていう目標が見当たらない気がする。もはや有明を 40 万人で埋めても、なにかが達成されたとは思えないというか。
    • デスノート」には高揚感を感じた。デスノートのコラージュ漫画はファンロードの「見たいもの見せましょう」と同じ方角。あれはジョジョが始まった時の感じに似ている。
      • やはり 2ch になるか。
    • 昔はいつもお腹が空いていたからちょっとしたものでも満腹感が味わえたけど、いつでも食べられると思えるようになってしまった今だと、また今度でいいやと何でも思うようになってしまうのでは。そのへんだと「おれって飢えてるかも」と思わせてくれる作品は貴重と。
    • ワラッテイイトモ、」を苦労して見たのは久しくなかった経験だった。内容云々でなく、その感覚がおもしろかった。
      • だからレアモノ商売が標準化するわけか。
    • ネットは機会を平等にしすぎたのかも。すごく見たいと思ってない人にまで届く。
      • 自衛のためにも、ある程度自分で自分のアンテナをコントロールすることが必要。
      • どうしようもなく欲しい!けどすぐには手に入らない!というジレンマを作り出すために、わざと情報ソースを削る。
        • その結果が「自分とは縁がない作品だった」と?→それを万能の定型句のように受け取られるのは心外ですな!
        • そのへんでコントロールが強すぎると、単にアンテナ抑圧するだけで終わってしまう危険も。
  • 「やばい」の説明しづらさ
    • 「ダメ」とかネガティブな表現を避けたってことでは。
    • 「これを知らないのはオタクとしてやばい」という感覚が、若者語の「ヤバイ」の普及によって変化してるかも。
    • オタ語「萌える」若者語「やばい」パチンコ語「アツい」
    • 自アンだと「○○するやつは劣等種」などのやんわりへの反動展開もみられたが、大きいコミュニティだと反動よりネガティブ駆逐が勝るか。
    • そういえば最近「逝ってよし」とか聞かない。「氏ね」も死語か。あのへんが廃れた頃合が 2ch のメジャー化ってことなのか?板やスレッドによるのかもしれないけど。

洞窟物語

2D, or not 2D(http://www.dd.iij4u.or.jp/~engawa/)で激賞されていたのでやってみたらすごいおもしろい。グラフィックよし、音楽よし、操作性よし。つくりが丁寧で細かく、実によくできている。1 チップキャラで高いアクション性と適度なパズル性。見た目 GBA っぽいかんじだけど(Tは「伝説のスタフィー」みたいなかんじと言っていた)、320x240 と画面広く取れて開放感がある(GBA は 240x160、NDS は 256x192x2)。これいいなあ。USB サターンパッドで遊ぼう。

なるべく見ずにクリアしていきたい。