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郊外周辺の近郊

井の頭恩寵公園 | 060504

まだよくわからんが、そろそろ「シスタープリンセス以降」問題は、未解決のまま旧式化したということかもしれない。

  • シスタープリンセス以降」問題とは
    • おれの場合、はじめて「一次コンテンツに触れておらず、触れるつもりもなく、実際に結局触れる機会のなかった作品の、ネット上にある二次以降の反応群を眺めることをおもしろがれた」現象が、シスタープリンセスだった、ということからとりあえずそう名づけている。
    • 結果からいえば、おれはシスタープリンセスの雑誌企画や書籍や漫画等どれひとつ読んだことがなく、ゲームは雑誌でスクリーンショットくらいは見たことあるけど動いてる画面を見たことがなく、アニメは何本か見たけど通しては知らず、という程度でしか公式のコンテンツに触れていない。が、満足いくだけシスプリ現象は楽しんだ、という気分がある。原作を知ればさらにおもしろがることもできたかもしれないが、ほかに優先度の高い娯楽(ゲーム)がたくさんあったので、条件を変えて当時のおれにかなりの金と暇を与えたとしても、たぶんシスプリの本物にまで手を延ばすことはなかったろう。
    • 基本的にファンのひとの日記とかサイトのコンテンツからしか知識を得ておらず(←複数の感想日記等を照らし合わせることで原作の流れを推理するあそび)、おれのシスプリ知識は相当に曖昧。十二人の妹の名前と顔の一致とかも怪しい。当時でも全部は無理だった。それ以前にもしかしたら、あまりに自明であるという理由で誰もそのことに触れていないような設定があったりとかした場合、そのことをいまだにおれは知らずにいるかもしれない。

これには大雑把にふたつの効用があった。

  • テーマが設定されるので、ファンサイトを探して巡回し、そこで起きている現象をつぶさに眺めるというその行為自体がメタゲームとして成立する。モチベーションが生まれる。
  • ネット外にある一次コンテンツをゲームルール的に外部化できる。つまり、このあそびをやっているあいだは一次ソースに触れる必要がないというか、むしろ触れないほうがおもしろい。知ってしまうことで事実が固定され、現実と妄想(←ファンのひとたちの妄想 & その妄想から仮構したおれの中のシスプリ像、という二重構造体)の区別がついてしまい、ゲームが色褪せるからだ(ネタバレといってもいい)。だからそれこそこのあそびは地方東京問題とかを無効化する(アイテムやイベントへのリーチという地域性は排除され、ネットというイコールコンディションであそべるゲームだ)。まあシスプリ現象当時おれは東京に居たわけなので、べつにシスプリ関連グッズが入手困難な立場ではなかったのだが。むしろ逆で、シスタープリンセス問題に自覚的になって以降のおれは、明らかにシスプリの一次情報に触れることを避けた。

だからいまだに曖昧なのだ。さすがにもういまからシスプリに(すくなくとも既存設定に準拠した)新展開があるとは思われないので、そろそろ原作を知っても問題ないかなとは思うけど。完全に固定されるまではゲームを終えなくてもいい。なんとなく「まだ続けていたい」というような甘さがおれの中に残っているのかもしれない。単に「よし、ここらで終わらせよう」と決意するタイミングを逸したまま時間が過ぎただけともいえる。

で、シスプリ以降、結構たくさんの作品や現象について、この方法を適用した作品(現象)消費をおれは行ってきた。中でも印象深かったのは「イノセンス」だったろうか。感想日記を意識してかなりたくさん探して読み、見に行かなかった。DVD リリース後何度も見る機会があったのにもかかわらず、結局通しては一度も見ていない。CG アニメ的に特に見ておくべきと薦められたシーンだけセレクトして見た程度。

シスプリ以降問題について書くだけでだいぶ長くなってきてめんどくさくなってきたので端折ると、

  • シスプリ以降」で作品消費を行う場合、土地差が問題にならない。
  • シスプリ以降」は作品消費の方法であるから「自分は消費者である」との自覚が強化される。
    • 「好きな作品をなるべく消費したくない(末永く楽しみたい)」という幸福なオタ理念とはある程度距離を置かねばならない / 置いたあとに選べる選択肢のひとつである。
      • さらにいえば「消費したくないのに、消費していってしまう」という対作品関係性上の葛藤が、オタ的幽玄境への扉を開いたりするわけなのだが脱線。強いていえば「シスプリ以降」というのは、この消費に関する脳内チキンレースから脱落した位置に新たな核を形成しようという状態か。
    • なんというか「オタクの考えるサブカル」っぽい立ち位置を意識せざるをえなくなっていくかんじというか。いはゆる「正当な」オタとしての立場でいえば批判対象になりがち。
  • シスプリ以降」で作品消費を行う場合、自分が感じているおもしろさは他者と共有できない。完全に自分の妄想ワールドであることから。長い準備を経て慎重に説明していくしかない。
  • シスプリ以降」で作品消費を行う場合でも、経験上、オタ雑談をしているときでも、特に話題から取り残されるようなことはない(←完全にはわからないが、なんとなくはわかっているわけなので)。それが体験ベースの作品(≒ゲーム等)の話題でなければ他オタとのコミュニケーション上で大して困ることはない。
    • もちろん話のイニシアティブを取ることはできない / 取ろうとするべきではない。自分の認識している作品世界と、その他のひとの感じている(一次ソースに基づいた)作品世界は別モノであるから、まともに話が通じるわけがない。そのうえ説明能力が低いと、それこそガンダムの話してるとき「シャア専用」とか「三倍」とか言っとけばおもしろいだろ的な寒いひとと同列になってしまう(このへんから微妙に「自分の憧れるオタ像に鳥坂センパイを選択した人々」問題へもリンクするが、余談)。
    • 例外として、オタ話をしている全員がその作品を「シスプリ以降」的に消費していた場合、誰も正解を知らないので妄想合戦が通常の三倍(←「正当」な議論でいえば唾棄すべき用例!)以上盛り上がる場合もある(←これを「猫に鈴」スパイラルと呼びたい)。おれの場合でこれに近い最近の例でいえば「テキストサイト界隈におけるナフ周辺」談義などがあった。

金をかけない暇つぶしとして、このやり方はものすごく適用可能範囲が広いわけなのだった。じゃあその領域をどんどん拡大させていけば 21 世紀型オタモデルの一端へ到達できるんじゃないか?と思った時期もあった、のだが、あれから 5,6 年後の現在のおれがどうなっているかというと、十年来見ようと思うことのなかった TV 放送をがんばって見るようにして、それほど興味があるわけでもないアニメや漫画もパラパラと目を通すようにして、どちらかといえば原点を再発見しようとする方向に動いている気が。やっぱこれはダメかな。オタ関連の各業界の動向・オタコミュニティ・おれの生活状況等、状況が相当変わっているので一概にはいえそうもないが。むしろ「シスプリ以降」の感覚が標準化しているために、旧来的なオタ活動の手がかりを確認するというイベントが必要、ということかもしれない(←「盛り返したからではなく抵抗する必要があるから」)。わからん。

結局そのー、実況だの複合オフレポだのといった同時性(地方差のある世界)との絡みになっていくんだろうか。シーンの中心ではしゃいでこそのオタク像という(現役であることを常時問われ続ける=オタクとしての人生が輝いている?)。でも同時性が過剰に要求される作品というのは、風化の早い消費のされかたを多くのひとからされているということなので、それは蓄積になりづらく、中長期的なスパンでいえばほとんど意味がなくて、むーん。やはりこの「ほとんど意味のない現象の真ん中を目指している手ごたえ」に一部の安心感を預けたいという心理かな。おれの場合はそれでよくて、若いひとの場合には違った話になるだろうが、そこまで書き出すと大変なので今日はここまで。

最近の特撮、とプリキュア

なんかもうこの数年ものすごく疎くて現役特撮オタなどとはとても名乗れないが、スーパー戦隊のほうは毎年何回か見ることができており、だいたいおもしろい。今年のやつもよさそう。でも、おれの場合もうこの十年ばかりスーパー戦隊の「ちょうど良いやりすぎ具合」を感覚できなくなっており(たとえば「「ボウケンジャー」って名前はどうなの?」とかいった素朴な疑問を自己解決できなくなっている)、「おもしろい」と「子供に人気が出そう」を脳内で合致させることができないため、どれ見ても「よさそう」と思ってしまうのだろうなとも思う。いまだにジェットマンはおもしろかったなとかそのへんで感覚のベースが止まってるかもわからん。いちばん回数見てるからだろうな印象強いのは。トランザよりトラン派。

あと徹底的に昭和ライダー派のおれだが、今年のライダーは結構おもしろく見ることができている(http://www.tv-asahi.co.jp/kabuto/)。単にかなり初期のエピソードからわりと連続して視聴に成功している、というだけの理由だと思う。というか逆で、いままでの平成ライダーは中盤以降を飛び飛びで数話しか見ることができていないからいまひとつハマれていなかったのだたぶん。おもしろそうという話は聞いていたし、そのポテンシャルも感じていた。最近はちょっとダレ気味だったという話も聞いたが、たぶんおれの磨耗した感受性で見ればそれでも十分新鮮だったろう。とかまあそんなこんなあるが、ともかく、今度のライダーはカブトというらしい。かぶとむしかぶとむし。ようするにストロンガー。いやあんなダサくない。昭和ライダーはダサいところがかっこいいわけなので、カブトはかっこ悪くなくてダメという話にもなるけど。電波人間に相当する女キャラもいないし。今後はわからないが。なんかカブトすげえイケメンだしなー。甘いけど劇画調みたいな。地に足のつかないかっこつけ台詞と複雑に入り組んだシリアス芝居と笑いどころの微妙なギャグのハーモニーが味わいぶかい。先週は豆腐をめぐって料理勝負してた(ライダー同士で)。

あと全然関係ないけど城茂(ストロンガーのひと)って、著名ゲーム開発者でたとえると水口哲也氏に似てる気がするんだけど、城茂の顔の記憶が曖昧なのでおれの記憶違いかもしれない。

あと「ふたりはプリキュア スプラッシュスター」(http://www.toei-anim.co.jp/tv/precure_SS/)のロゴの分裂っぷりはすごいと思う。「ふたりはプリキュア」と「スプラッシュスター」が個別っていうか。タイトルロゴが二つあるみたい。二年目だから塊がふたつだよ!みたいなアレか。もし三年目があったらさらにもういっこ塊が増えてしかも全然組み合わさるつもりがないような配置になるのだろうか。トリニティとかいいだしたりとか。…あ、ちがった。いまが三年目だった。二年目はマックスハートだ。プリキュアすげえ。そういやそうだった。三人目の居たシリーズのことを。すっかり。初代(http://www.toei-anim.co.jp/tv/precure/)→MH(http://www.toei-anim.co.jp/tv/precure_MH/)→SS(今作)と、徐々にロゴの分裂が進んでるという見方か。

あと関係ないけどプリキュアは、ACT にするならシルミラを参考にすべきだろうし STG にするなら斑鳩を参考にすべきだろうし、同人で妄想するとどう考えても Treasure 社の仕事を参考にデザインされるべき題材だなとおもう。けど斑鳩同人で考える場合最もよさげなモチーフはやはり「男たちの挽歌」だよな(白スーツと黒コートの二属性を入れ替えつつ白黒の属性のある敵とものすごい銃撃戦を繰り広げろ!←「男挽の主人公が至近距離の銃撃戦で数百発撃ち込まれても大丈夫なのは、逆属性の弾に当たらないと死なないからだ理論」)。