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ASSASSIN'S CREED

Assassin’s Creed

終わった。楽しいけどそんなものすごくおもしろいわけではない…とかいいつつ、のめりこむように遊び続けてしまったあたり、やはりどうにも手触りがよいとしかいえない。それは間違いなくこのゲームの美点だ。ずっと触っていたいという気にさせる。

  • ゲーム内容の単調さ問題。基本「師匠からミッション受領→指定都市に移動→「高所にのぼって視界確保→周辺の雑多イベント消化」× n 回(市民救助 / 盗聴 / 尋問 / 教団メンバーおつかい(フラッグ集め / 暗殺))→教団支部に行って牙指令ゲット→ターゲット暗殺→教団支部へ戻ってクリア→本部へもどる」の繰り返しだけで終わる。それでいいのか、というあたり。
  • で、個人的にはその繰り返しで十分楽しかったのでまあいいんじゃね、というかんじだ。けど物足りないという気持ちもまあわかる。とはいえ、じゃあどういうのが余計にあればよかったんだというと、ちょっと考えるところだな。ようはそれ自由度問題だからだ。いろいろできたほうが楽しいはずという考え方は自体間違っているとはいえないが正しいともいえず、程度問題にすぎないという。
  • それ以外が全然ないのかというと、一応サブクエスト的に「各エリアのあちこちに置いてある教団や騎士団の旗をコレクションする」とか「マップ全域に点在しているテンプル騎士団員を全員暗殺する」とかそういう要素もある。が、これめんどいんだよね。ふつうにやってても道中でポツポツと取得できるんだけど、全部集めないと意味はなくて、でも全部となるといきなり面倒くささが跳ね上がる。一応初回特典付録のブックレットに旗やテンペラーの位置が全部載ってんだけど、場所わかっててすら集める気力が湧いてこない。最初のマップのアサシン教団旗くらいは集めるかと思ってがんばってみたけど 20 本くらい集めたあたりでどれ取り逃したかわかんなくなって諦めた。レーダー上に未取得の旗や未殺害のテンペラーの位置が表示されるチートとかが 200 MSP くらいでダウンロード販売されたら、やってみようという気にもなるかもだ。
  • ていうかこのコレクション面倒度の高いサブクエストの存在は、ひまつぶし可能性材として入れてあるんだろうけど、それがあるということ自体がこのゲームの単純作業感の不当な引き上げに作用しているような気がして微妙。ないと寂しいんだろうけど、あったら気になるけど面倒だしー、みたいな気分を道すがら度々意識させられる。
  • 実質的なゲームプレイ感において、本作はライオットアクトと似ているといわれる。一方で GTA ベースで考えると、ゲーム中にできることが少ないと指摘もされる。ただまあ自由度最強伝説でコントラストを指摘するとすれば、適当なのは GTA でなく TES4 Oblivion ではないかなーという気はしている(おれは GTA をそれほど自由なゲームだとは思っていない)。AC はそういったゲーム幅は切り捨ててシンプルにまとめてあり、それはそうした企画判断だと思える。RPG から出発したゲームではない。面クリア型のアクションから出発していて、思うに、それほど余裕のある状態というわけでもなかったのだ。
  • 可能性を保留するシステムとして「はい / いいえ」のあるゲームと、そうでないゲームの違いは重要だと、漠然と思っている。AC ははいといいえがないゲームだ。PC はプレイヤのゲーム世界におけるエージェントでなく、アサシン教団の暗殺者・アルタイルだからだ。町中の誰にでも斬りかかることができ、どこにでも登ることができる。行くところに行けばアルタイルとしてのイベントがはじまる。一人の暗殺者としての行動はプレイヤの制御下にあるが、アルタイルのアルタイルとしての行動をプレイヤは選択しない。それがどうしたというと、まだなんともいえないのだが。ロールプレイなのか、アクションなのか、というあたりかなー。前提をどこにもってくるかで、問題意識がガラリと変わってくるという…。

で、クリアしたのでじゃあ次のゲーム、といくところですぐ二周目をはじめてしまった。やっぱこれいいゲームだよほんと。足りないと思うところはいろいろあるんだけど楽しさには代え難い。より洗練され進歩した次回作が待たれる。

脱オタ関連

先日はてなーのひとのネットラジオがあっていたらしく、あいにく用事があったので聞けなかったが、テーマが脱オタだったとのことで、じゃあおれには関係ないからスルーで正解だったかなと処理していたが、後日そのまとめログ(インターネット便利)を軽く読んでみると、内容が旧来的な脱オタ話じゃなくて脱優越感ゲームとしての脱オタ話みたいなかんじだったようで、じゃあおれにも無関係ってわけではなかったのかもなと思いなおした。

  • 用語「脱オタ」で救済されなきゃいけないひとの像って、ほっといたらどんどん悲惨な方向へむかっていくね。脱オタにおいては、ほとんど「オタ=悲惨なひと」という定義になってるんじゃないか。でもべつに悲惨じゃないオタクは実際結構いるわけなので、脱オタがやろうとしているのは悲惨なひとによる脱悲惨ってことでいいんじゃないかなー。でもなー、オタク関係ないんだよねーそれ。なんかもうちょっとべつの言い方にしたほうがよくないか、自己啓発とかオーラとかライフハックとか。
  • それとあんま関係ないのだが、あるところに「薄オタは(オタクシーンにとって有害だから)濃オタへアップグレードせよ」と言ってるひとがいれば、別のところでは「薄オタは(そこにいても病気が悪くなるだけだから)脱オタせよ」と言っているひとも居て、でもどちらの場合にでも「薄オタは屑」と言っているのも同然で、薄オタの立場がないよなどうも。まあモラトリアムがそうであるように、立場がないほうが、大抵居心地はいいのだけど。

とか思った。