先生への要求は果てがない

 はてな匿名ダイアリー もっと学校で、テクニックを教えてくれればよかったのに
 http://anond.hatelabo.jp/20080824041507
 
 はてブの反響の大きさに驚いた。
 


 子どもに答えられない質問をぶつけられて、先生が子どもを理不尽に押さえつけるのことがあるなら(あるのだろう。)それが良いとは決して思わない。

 また公立学校教師は、努力の有無に関わらず勤続年数で給与が決まるため、民間のような競争原理が働きにくいだろう。そこに問題がないとは思わない。



 しかし。
 
 シンプルに考えるなら、「先生」は音大生並の音楽的素養を身につけ、美大生並の美術の素養を身につけ、書道にも精通しつつ、陸上、体操、水泳、野球、サッカー、バスケ、バレー、ダンスなどの基本技術・技能を習得し、かつ指導法に精通しなければいけないことになる。

 (建て前では精通していることになっているのか?)

 (主要教科を押さえた上で)これらを達成するために必要な学習時間はいかほどか。目安として音大、美大、書道教室、各競技のスポーツスクールの時間を加算してみると良い。おそらく時間的に医大生を超えるだろう。

 費用はいかほどか。これも単純に音大、美大、書道教室、各競技のスポーツスクールの授業料を加算してみると良い。

 ともかく現在の教員を養成するシステムで上記のような人材は育成できていないと思うし、「先生」のスキル不足を問題とするのなら根本はそこだろう。



 担任制で難しいのなら、技能教科のみ専任の教師にしてみる。これには、1学年1クラスの学校1つあたり、4〜5人の増員が必要だろう。
(音楽図工各1人、体育2〜3人)
 しかし現在、文科省が数校に1人程度の教師を増員する為の折衝すら難航する有様だ。
 (教師の数は、教師の給料を全額ではないが国が負担しているため、その学校規模に応じて国によって定められていると考えて良い。)


 MSN産経ニュース 文科省VS財務省 教職員増員めぐってバトル
 http://sankei.jp.msn.com/life/education/071114/edc0711141827002-n1.htm


 もし、市が独自で教員を雇おうとすると、財政状況によりまちまちだが、(あくまで目安として)歳出総額が5%程度は増えると思う。(ざっと1人あたり年間10万円程度)

※ 市の労働人口5000人。市の財政規模200億円。教員を40人、1人1000万円(社会保障込み)で雇うとする。上記の仮定は、以上の数字を基に試算しました。かなりおおざっぱな計算です。

 または、今の教員の年収を一律で約2割カットすれば、上記の規模の増員を図れるかもしれない。どちらにせよ今の自民党政権では実現できないだろう。
 
 
 我々は、より質の高い教育を子供に受けさせることができるのなら、年間で10万円の増税を受け入れることができるだろうか?
(おそらく全て民間に任せたら質はぐんと高まると思うが、金額は2倍近くかかると思う。)



 現状で良いとは私も思わないが、ただ単に教師を責めるだけだとか、この状態を嘆くだけでは何も変わらないと思う。


 問題の本質をもっとえぐっていきたいのだが、ここから先の文を書く力が今の自分にはないので、他の方のお知恵を貸していただこうと思う。


 津久井進の弁護士ノート 教育はサービス業ではない より引用
 http://tukui.blog55.fc2.com/blog-entry-612.html

■学校の問題点を検討することもそれが改善につながれば結構なことであるし,
■消費者主権(≒国民主権)の意識が高まることも,それ自体は結構なことである。
■それから,国民が,行き過ぎた構造改革格差社会化にNOを突き付けるのも,それ自体,たいへん結構なことだろう。

 ならば,「たいへん結構なこと」が連なると,どうしておかしくなるのか?
 その矛先がどうして「教育」に向けられるのか?
 多くの人々が,「教育」を,「サービス業」だと勘違いしているからではないか。

 「教育」は,私たちの社会,私たちの未来,そして,私たち自身をかたち作る,とても大切な機会(場)である。
 憲法に照らして見てみれば,
   「教育」は,
     私たちの個人の尊厳を育み,
     私たちの立憲民主主義を支えるために,
絶対に欠かせない営みである。

 これ以上に「公(おおやけ)」の名がふさわしい業(わざ)があるだろうか。

 私は,この「教育」に携わっている「学校」や「教師」を大事にせず,民間サービスと同視してきたことが大きな過ちだったと思う。

 この津久井さんの考えには私はうなずける部分が多い。
 今回は今まで以上に、自分の考えが充分に表現できなかった思いが強い。
 それでも、私は「公」については、これからも考えを巡らせていきたいと思っている。