最近、「NHKの大河ドラマが面白くなくなった」、という声を良く聞く。確かに、私の経験でも、一年を通じて楽しく見る、ということはなくなった。記憶をたどっていくと、最後まで熱心に見たのは毛利元就(平成9年)ぐらいまでであったであろうか。もちろん、忙しくて見る時間がなくなった、ということもある。だが、それにも増して「途中で見る意欲が失せた…」というのが大きな理由であろう。
 なぜか、それは余りにもストーリーが「荒唐無稽」になってきたためだ。
 今年(江―姫たちの戦国)も、初回の放送をテレビの前に陣取って固唾を呑んで見守った。だが、やはり最後まで見通すことはできなかった。私が特に「歴史好き」だということもあるだろう。それにしても歴史上の人物や事件を題材にして、「大河ドラマ」と銘打つからには「歴史の事実」は大事にして欲しかった。例えば、初回織田信長の前で徳川家康が家臣と同列の座に座っているシーンがあったが、事実は家康は信長の家臣ではなく、このようなシーンはありえない。また、ストーリーが人物や事件の一面、それも「良い面」しか描いていないのも気になった。信長は主人公の「江」にとって憧れの男性に描かれているが、「江」の兄万福丸を「串刺しの刑」で殺し、父浅井長政の髑髏を肴に家臣たちと宴会を開いたのは誰であったのか…。それは信長自身ではなかったのか…。
 振り返ってみると、大河ドラマ大河ドラマでなくなったのは、もうずいぶん昔からのような気がする。最初に「おや」と思うようになったのは7年前の香取慎吾主演の「新撰組」からだろうか。息子が熱心に見ていたのでつられて見たが、若き近藤勇が後の仇敵桂小五郎坂本龍馬と親友になるシーンなど今から思うと全くありえない場面であった。
 昨年福山でも大いに盛り上がった「龍馬伝」も前半はわりとまともだったが、後半がいただけなかった。龍馬が薩長同盟の仲介をしたのは紛れもない事実だが、見ているとそのほかの明治維新にいたる事件や、後の日本の近代化はみな龍馬の功績とされており、こんなことは「ありえない」話であった。スーパーヒーローにされてしまった龍馬も地下で苦笑いをしていると思う。
 NHKの大河ドラマの制作費は一話あたり6000万とも7000万とも言われている。しかもそのお金は税金にも等しい「受信料」から出ている。今回の歴史の事実から離れた大河ドラマが、民放の娯楽時代劇だったら誰も文句は言わない。時代考証や所作考証家をそろえた大河ドラマだったらもっとしっかりとしたものを創ってもらいたい。政党や民放のように大衆に迎合する必要はないはずだ。