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備後の武将と山城(WEB版)

2011-06-27 戦国山城の典型、備後楢崎氏の居城「朝山二子城」

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府中市久佐盆地の東にそびえる朝山二子城

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戦国山城の典型、備後楢崎氏の居城「朝山二子城」

はじめに 

福山市の中心部から芦田川を逆上ること約二十キロ、府中市の市街地を過ぎると芦田川の流れは同市父石町で二股に分れる。

北流するのが本流で、更に逆上れば八田原ダム、三川ダムを経て世羅台地の源流地帯に達する。

本稿で紹介する朝山二子城跡(楢崎城跡とも呼ぶ)は、この芦田川が世羅台地から府中市の平野部に出る直前の同市久佐町に存在する。

地理的に見ると、初めに述べた芦田川の水運を押えると共に、備後中部の穀倉地帯世羅台地から備後の平野部へ通ずる古道の出口を押さえた、政治経済上の好位置を占めている。

 城跡は、芦田川の上、中流地帯に点々と分布する小規模な河谷平野の一つ、河佐盆地の東を画す朝山の山頂に残り、主峰の曲輪群と共に北方尾根続きにも曲輪跡が認められ、城名「朝山二子城」の由来となっている。

 この城跡は、戦国時代備後の有力国人とし活躍した楢崎氏の本拠として知られ、江戸時代より注目されて来た山城だ。

古くは戦国末期に初稿本が成ったといわれる『備後古城記』にもその記述があり、江戸後期に続々と著わされた備後の地誌、『備陽六郡志』、『西備名区』、『福山志料』にも城主を中心とした多くの伝承が記録されている。

なかでも『福山志料』は、城跡に「高さ五尺丈」の石垣が残ると記し、城主楢崎氏の伝承と共に城跡自体も関心を呼んでいた。

本丸の周囲に残る石垣

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 この城跡を、主に城主の履歴にしぼって初めて学問的な検討を加えたのは大正十三年発行の旧版『広島県史』である。

この書は本格的な歴史書ではないが、江戸期の文献と異なり、史料として評価の高い長州藩関係の記録を引用している。

城主についての研究が比較的早い時期に始まったのに対し、山城遺跡としての研究は大部遅れる。

備後郷土史界の大先輩、得能止通が紀行文楢崎城跡踏査並びに今高野山久井稲荷御調八幡参拝」備後史談八―十二 一九三二)で、

「項上は三段となり、最も高き檀は僅かに方四、五間、中央に五輪石塔の風輪と水輪との残れるを見る」、と述べているのはその最も早い例だ。

城郭の現状

 朝山二子城は、河佐盆地の北東にそびえる標高三百四十一メートルの山頂より西南に派成した一支峰、朝山の山頂に築かれた中世山城跡で、城跡の最高所は標高二百七十一、五メートル、麓よりの比高は約百三十メートルである。

 主曲輪は、東西に細長い平坦地で、東西五十七メートル、南北二十二メートル。北、東、西の三面はやや丸みを帯び、南面は直線によって構成され、現在、中心からやや西側に神社の社殿、及び拝殿が建っている。

主曲輪で注目されるのは、中央南端に残る高さ約一メートルの壇だ。

この壇は、上面に東西七メートル、南北六メートルのほぼ正方形の平地が残り、ここには後世でいう天守閣にあたる城の中心的な櫓が建っていた。

二段目の曲輪は、南に約一、五メートル低く築かれた平坦地で、東西約五十四メートル、南北最大二十一メートルを測り、西が広く、東に行く程狭くなる。

城跡に残る礎石

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この段には、西南部の現在の登山道付近に「ほぞ穴」の刻まれた礎石が存在し、相当立派な建物が存在した可能性がある。

三段目の曲輪は、南に約五メートル低く築かれた長き約百メートルに達する長大な平坦地で、東端と西端は腰曲輪状に広がり、その中間は幅四・五メートルの帯曲輪状の細長い平坦地となり、西端山側に径二、五メートルの円型石組井戸跡が残る。

西の尾根上には大規模な堀切を築き、敵兵の侵入に備えている。

 この城で注目されるのは竪堀の多用と石垣の使用である。

竪堀は、城の北面を除き全周に分布し、規模は現状では幅三〜五メートル、深さ一、五メートル前後で、谷側に二〇メートル前後伸び、城の西南、及び南面の防禦力を高めている。

石坦は主曲輪の周囲に残り、高さは約一、五メートル、使用された石は径二〇センチ前後の小規模なものだが、周辺の山城では類例が少なく、この城の大きな特徴の一つとなっている。

楢崎氏について

 府中市久佐町を本拠に備後国人衆の一人として名を馳せた楢崎氏は、出雲の国人湯原氏の庶流にあたり、近江国犬上郡楢崎村に居住したため楢崎氏を称したという。

備後入部の時期は、一般に、鎌倉時代末期の正慶二年(一二三二)、楢崎豊武が足利尊氏より軍功の賞として、備後国芦田郡久佐村の地頭職を与えられたことにはじまると伝える。

城跡に残る井戸跡

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しかし、疑問の点も多い。まず、「正慶」の年号が問題だ。正慶は、「元弘の変」で後醍醐天皇を廃した鎌倉幕府の立てた光厳天皇の年号で、『西備名区』が言うように、この時期は「尊氏いまだ土を封ずる勢い」ではない。

更に問題になるのは、南北朝期以降、楢崎氏の本拠久佐(草) 村の所職が、足利氏より尾道浄土寺京都西芳寺に与えられていることだ。

この間、楢崎氏の名は関係史料に全く現われない。

 『浄土寺文書』によると、尾道浄土寺に与へられたのは、「草村公文職」で、室町幕府初代将軍足利尊氏より、暦応二年(一三三九)十月六日、「浄土寺塔婆料所」として寄進され、室町後期の文明十五年(一四八三)まで浄土寺の所領であった。

一方、京都西芳寺が有していたのは、「草村国衙地頭職」で、「国衙」とはこの地が備後国衙領(公領)であったことを意味し、「並地頭職」とあることから、西芳寺浄土寺領を除いた久佐村全域の支配者であったと思われる。

このことは長享二年(一四八八)という若干遅れた時期の史料に見えるのみだが、西芳寺は五山系の有力寺院であり、その知行は室町初期に逆上るものと考えてよい。

 そこで注目されるのが、楢崎氏の備後久佐村入部を戦国時代とする一連の資料である。

 『備中府志』や『三備史略』によると、楢崎氏は岡山県新見市鳶巣山城を本拠とした備中の有力国人で、楢崎豊景の代、永禄四年(一五六一)毛利元就の命によって備後久佐村へ移住したという。

備中での楢崎氏の初見は南北朝期に逆上り、貞治元年(一三六二)山名時氏の部将として楢崎氏の名が見える。

又、『東寺百合文書』には、楢崎氏は東寺領新見庄周辺の有力国人として登場し、明徳元年(一三九〇)十一月、楢崎備前守の子息鶴寿丸は東寺公文所より東寺領備中新見庄の「領家方公文惣追捕両職」に補任されている。

 これら一連の史料から推定すると、楢崎氏は備中北部の国人で、それが室町後期から戦国時代にかけての或る時期、備後に本拠を移した可能性が高い。

備中の国人で備後にも本拠を有した者には甲奴郡の新見、伊達両氏がいる。

但し、その時期を永禄四年とするのは年代的に無理がある。

その備後での活躍の証拠は、天文年間に逆上り、弘治三年(一五五七)十二月の毛利元就他一七名連署起請文案には他の備後国人と並んで、楢崎彦左衛門尉信景の名があり、既にこの時期、楢崎氏は備後国人として活動している。

『福山志料』巻二十一、芦田郡久佐村、朝山二子城の項には、正慶○年の楢崎豊武築城説の他に、三河守宗真の築城説を挙げ、割注で「○元年ココニ来ルト云」としている。

「○元年」では全く意味が通らず、これは同書の刊本に脱字があることを示しているが、楢崎三河守宗真は、享禄三年(一五三〇)三月二十一日に没した人物で、前記信景の曾祖父にあたる人物である。

又、『芦品郡誌』によると久佐村八幡神社は享禄年中楢崎三河守の再建を伝えており、楢崎氏の備後土着は大概この頃と考えられる。

ちなみに、備中国人としての楢崎氏は、文明十一年(一四七九)の備前守を最後に、姿を消しており、楢崎氏の備後移住の時期が、この時期以降、享禄年間までの間であったことを示している。

城下安全寺に残る楢崎氏の石塔

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 備後楢崎氏は、天文年間以降、毛利氏旗下の有力部将として活躍した。

特に豊景、信景、元兼三代の活躍は目覚ましく、その所領も久佐村以外に世羅郡一円に存在し、『毛利家八ケ国時代分限帳』によると、天正末年の楢崎一族の総知行高は、貫高で千八百貫に及んでいる。

 しかし、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原合戦は、この楢崎氏の運命を一変させた。

楢崎氏が主と仰ぐ毛利氏は西軍与同の罪によって領国を防長二ケ国に削減され、楢崎氏も備後の本領を失しない、一族は離散し、帰農したものは農民として、毛利氏に従った者は長州藩士として近世を生き延びていった。