heuristic ways

2006-06-06 テキストなき生

最近私は、なぜかひょんなことから3人の神学者(フロマートカ、ボンヘッファー、カール・バルト)に関する本を読んでいるのだが*1、彼らのことを調べていくうちに思ったのは、「現代神学の冒険」は、「現代思想」に勝るとも劣らず、実に刺激的で、時には物騒で、人を「異質な世界」へと導く恐るべき起爆力を秘めたものなのではないかということだった。日本では「神学」というと、憲法第9条の解釈をめぐる「神学論争」*2という言い方に象徴されるように、「机上の空疎な議論」という意味で使われることが多い。だが、憲法第9条の問題が「神学論争」を招き寄せざるをえないのは、それが国家の主権(交戦権)や「武力の行使」、「正義と秩序」といった国際社会の「神学的」次元に関わる問題だからだということを、われわれはもっと真剣に考えたほうがいい。

フロマートカ〔1889−1969〕、ボンヘッファー〔1906−45〕、カール・バルト〔1886−1968〕の3人に共通するのは、ナチス政権を握った時代に公然とナチスを批判して弾圧を受けたということである。フロマートカとカール・バルトはそれぞれ亡命を余儀なくされ、ボンヘッファーは39年にいったん渡米するもわずか1ヶ月で帰国し、翌年、国防軍情報部に入って諜報活動をするかたわら、密かにヒトラー暗殺計画に連座して43年に逮捕、45年2月、絞首刑にされた。彼らのこうした「すごい生き方」は、まさに神学の問題を真剣に主体的に受け止めることから来ている。

バルトの神学は、決して神学の学問的方法からの、批判的思惟からの、不安定な世界からの逃避ではなかった。人間の知的、哲学的、社会的、政治的カテゴリーを超越する現実に対する批判的な闘争であった。私は、この大胆かつ積極的な決意に、バルトの神学的闘争、すなわち後に、ナチス時代のドイツプロテスタンティズム宿命的危機のなかで根本的な姿をとるようになった闘争の真の特別の意味を理解した。神学が根本的機能を回復し、時代の激しい社会的・政治的波に巻きこまれた人々の人生の中で創造的な力となるためには、生ける教会のまさにその土台へと降りていくことが不可避となるのである。(フロマートカ『なぜ私は生きているか』)


彼らのこうした「歴史的使命」の自覚は、聖書の「福音(Evangelion)」を、たんに過去の歴史的事実としてではなく、むしろ「今ここ」での同時代的な呼びかけとして聴くことから始まっている。大島末男『カール=バルト』(1986年)によると、バルトは「キリストの出来事」ということを言っていて、それは「まずイエス=キリストの具体的な歴史的事実を指し、次にこの事実の中に巻き込まれて生き方を変えられた人間が神の呼びかけに応答することによって展開する根源的歴史(関係)を指す」という。

私はかろうじてキルケゴールドストエフスキートルストイらのイエス=キリストや聖書へのこだわりに興味がある程度で、神学の深い森の中に分け入ったり、彼らのような「すごい生き方」をすることなど到底できそうにない人間だが、ふと思ったのは、彼らの「聖書」への徹底したこだわりとは対照的に、現代の「世俗化」した人々とは、生の「導きの糸」となるような根源的「テキスト」を持たない人間ではないかということだった。

 現代社会でわれわれが遭遇する出来事に関連した現実的、具体的問題に関して、私は宗教的用語を用いたくない。しかし、言うまでもなく、信者、教会員であるか否かにかかわらず、人間の闘いと問題、希望と失望のなかで、いかにわれわれは隣人と兄弟を実際に助けることができるのかについて、私は多くの時間を費やした。特に、多くの相異なる経験をし、深い困惑にさらされているのみならず、無気力と冷笑主義の雰囲気の中で分断されている若者に、今日われわれは何を語ることができるのだろうか。(フロマートカ)


「福音は旧約聖書の最初の証言(イスラエル)と現在の苦難を結合し、また、われわれの思考を未来へと向けるのである」とフロマートカは言う。もちろん、今の若者の多くは、神学者の言うことになど耳を傾けようとしないだろう。しかし、「現在の苦難」の渦中にあるとき、その苦難の意味や性質を理解させてくれるような「テキスト」(他者の言葉)に出会うことができるか否かというのは大きな違いだと思う。

たとえば私のようなフリーターは特に、自分のライフストーリーの展望を思い描くことが難しい。初期フリーターに関して、自分の「夢」を追うためにあえてバイト生活を選んだ人々と言われたことがあったが、私はむしろ、個人的な成功や社会への貢献という「夢」(=テキスト)をもつことができなかったために、今のようなフリーター生活を(結果的に)選んだのだと思う。多くのフリーターにとって、フリーター生活が無意味な「苦難」に感じられるのは、そこに「われわれの思考を未来へと向ける」ような展望がないこと、自分のライフストーリーを意味づけ方向づけるような「テキスト」を見出すことができないからではないだろうか。*3 たとえば私がスチュアート・タノック氏の『使い捨てられる若者たち』を読んで解放的な喜びを感じたのは、そこに現代の「腰掛け仕事」に携わる若者たちのリアルな言行が「テキスト」として書き込まれていたからだった。


ところで興味深いのは、ルターやカルヴァンの宗教改革が「職業(calling)」の問題と結びついていたこと。*4 今日、ひきこもりと呼ばれる人たちは、家族や他人からの呼びかけ(calling)に応じない人々として現れており、ニートと呼ばれる人たちは、学校や企業から呼びかけられ(募集され)ないか、もしくは呼びかけに応じない人々として現われている。フリーターとは、企業からの条件(制限)付きの呼びかけに対して、条件付きで応ずる(あるいは応じない)人たちだと言っていいかもしれない。「腰掛け仕事」のような労働に関して、われわれはそれを「神からの召命(calling)」と考えることはできないし、企業の呼びかけ(命令)に従順に応じているならば、いずれ「使い捨てられる」ことにもなりかねないということを、われわれは経験上よく知っている。

だが、学校や企業や国家のシナリオに対抗しうるに足る「テキスト」を、われわれはいまだ持つことができないでいる。

*1:直接のきっかけは、佐藤優氏の『国家の罠』『国家の自縛』『国家の崩壊』を読んで、衝撃を受けたこと。佐藤氏は1985年同志社大学大学院神学部研究科修了の後、外務省に入省。87年にソ連に着任して以来、独自の人脈を広範に開拓して情報収集と分析に努め、91年8月のソ連共産党守旧派によるクーデター未遂事件時には、いち早くゴルバチョフの安否・所在に関する情報を掴む等の実績を上げ、「上質な情報が面白いように取れる異能な若手外交官」との評判を得ていたという(斎藤勉『日露外交』)。95年より外務省本省国際情報局分析第一課に勤務。そのかたわら、モスクワ国立大学哲学部客員講師(神学・宗教哲学)、東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)をつとめた。2002年に「背任罪」と「偽計業務妨害容疑」で逮捕勾留日数512日の後、2003年10月に保釈。佐藤氏が学生時代に研究していたのがフロマートカだということで、氏が訳したJ・L・フロマートカ自伝『なぜ私は生きているか』を読み始め、フロマートカに関連する人物として、ボンヘッファーやカールバルトにも興味を抱いた。

*2:たとえばこちらを参照。

*3:一方で、仕事マニュアルハウツー本のようなテキストは巷に溢れているが。

*4ルターの『キリスト者の自由』を読むと、ルターは内面的な魂の問題と地上での身体的生活の問題とを一応区別しており、前者については「キリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いをも要しない」のに対し、後者に関しては、「ここに行いが始まるのであって、彼は無為に時を費すということは許されない」という。地上の生活では「彼自身の身体を制御しまた人々と交りを続けなければならない」と。「内なる人と信仰」に肉体を徹底的に「服従」させるという思想から、規律訓練=労働倫理確立する必要が生じてくる。不登校やひきこもりの問題が、いわば肉体の「反乱」と結びついた「無為」の問題として現われることを考え合わせると、不登校やひきこもりの問題が逆に照射するのは、典型的日本人の「信仰」=「労働倫理」のあり方ではないかと思えてくる。

yanaseyanase 2006/06/07 03:16 ドイツ神学では知る人ぞ知る深井さんの本。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4423301210/503-6379606-6444723?v=glance&n=465392

matsuiismmatsuiism 2006/06/07 09:24 柳瀬さんの論文に、「世俗的批評の〈神学的次元〉」というのがありますね(未読ですが)。暴力や戦争、貧困や労働、自由と従属といった問題は、いわば「神学的な意地悪さ」に満ちていて、われわれは「神のみぞ知る」偶然や運命に翻弄されていると思うんですよ。カール・バルトは自由神学とその破産(第一次世界大戦勃発時に戦争支持の声明を出したドイツ自由主義神学者たちへの幻滅)を通過してますから、神認識の問題を、実践的な「出来事」(介入)の問題として捉えている。ボンヘッファーは、サルトルとほぼ同年代で、絶対平和主義からナチスとの対決に向かうというのも何か似ている。
 ただ、今のアメリカのネオコンやブッシュ政権にも「神学的」背景があって、それが外交や軍事における積極介入の根拠になっているという説もありますから、神学というのはどこかやばい。

yanaseyanase 2006/06/07 11:17 論文つうか季評ですね。送りましょうか。

matsuiismmatsuiism 2006/06/07 12:00 なんか前ので懲りてるんで…、機会があればいずれ。
 あ、『原爆文学研究』増刊号、この間ようやく注文しましたよ。まあぼちぼち、マイペースでやります。

yanaseyanase 2006/06/07 12:12 今度のは分量少ないから大丈夫ですよ(たぶん)

matsuiismmatsuiism 2006/06/07 16:03 そうですか? では、お手数でなければ。いつもすみません。