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かんぶつ屋のひとり言 このページをアンテナに追加

2005-09-02 街なかに魚市場があった、浜松の肴町

浜松市肴町の歴史


元亀元年(1570年)徳川家康が浜松城*1築城した時、榎門の前の道筋に6軒の魚商があった。その六人を、家康が岡崎城時代からの腹心、三河奉行の本多作左衛門重次*2天野三郎兵衛康景・高力与左衛門清長のはからいで名主とし、往還の裏に町を作り、西は舞阪港・東は掛塚港の間でとれた魚類を、優先的に買い上げ売ることができるる専売権を与えた。



天正十八年(1590年)二代目浜松城主の堀尾帯刀が魚商を今の浜松市元魚町へ一旦移したが、城より遠くて不便で、人数も五十七人 に増えたので、慶長五年(1600年)更に現在肴町のある地に移して商いを営ませた。

よって、移転前に魚商がいた町を元魚町(もとうおちょう)新しくできた町を肴町(さかなまち)と呼ぶこととなった。今でも元魚町には、肴町に魚商が移る時そのままにしてきた氏神様の松尾神社がある。

慶長五年(1600年)から現在まで当店のある肴町は、この名前で呼ばれている。


明治40年(1907年)頃、魚問屋が集まって浜松魚鳥(ぎょちょう)株式会社を発足、三星市場設立した。せり台には魚いっぱいの木箱が並べられ、毎朝仲買人が魚や乾物を仕入れていった。

年末には黒山の人だかりで上野アメ横のように活況を呈し、時には肴町通りの道路上に並べてせりを行うことも度々あった。

今ではとても魚市場があったとは思えない町並みだが、現在その場所には肴町魚がし跡という標識が立っている。



(路上に魚を並べてせりをおこなっていた)           



戦前肴町通りを、南から北に向かって写した写真



ちなみに現在肴町についてはこちら


その後、第二次世界大戦浜松の町は、爆撃機B29が落とす焼夷弾(しょういだん)と遠州灘戦艦が撃つ艦砲射撃(かんぽうしゃげき)で焼け野原となってしまった。

当店も、カラの金庫がひとつ残っただけですべて焼けてしまった。


商売はここ肴町で200年以上続けているが、昔の品物・お宝というのは殆どないのである。

地道に商売をするという姿勢が、歴史であり伝統なのかもしれない。

戦後もまだ魚屋・乾物屋も結構あったが、今は3〜4軒だけだ。



現在肴町ブティック飲食店が多くなったが、当店のような乾物屋・糀(こうじ)屋・豆屋など生活密着型のお店もあり、客層も若い人から年寄りまでと、なかなか味わいのある街となっている。

肴町は、新しいものもどんどん受け入れるという、遠州っ子・浜松人の気質が生きているのかもしれない。

*1浜松城
永禄11年(1568年)徳川家康が、飯尾豊前守連竜の妻お田鶴の方が女城主となって守っていた曳馬城(引馬城)を攻め落とし、引馬城の西南浜松城を築いた。引馬という名称は「馬を引く」、つまり敗北につながり縁起が悪いということで、城名・地名ともども「浜松」と改めた。
そして、元亀元年(1570年)家康29歳のとき嫡男の信康に岡崎城をゆずって自らは浜松城へ移り駿遠経営本拠を定めた。その後家康が46歳で駿府城に入るまでの17年間在城した

*2:本多作左衛門重次(ほんだ  さくざえもん  しげつぐ):
重次は、享禄3年(1530年)現在愛知県岡崎市宮地町に生まれ、幼名を八蔵又は作左衛門と称し7歳の時より松平氏に仕え数々の合戦に手柄をたてた。三河平定後には、三河奉行として高力清長・天野景康らとともに任命され、「仏高力、鬼作左、どちへんなし(どっちつかず)の天野三郎兵衛」と呼ばれ、20代の家康に強い影響を与えた。重次は三河武士典型といわれています。
また、家康・信長連合軍が武田勝頼を破った「長篠・設楽が原の戦い(長篠の戦い)」で、重次が戦場より浜松の妻に送った一筆啓上 火の用心 おせん泣かすな馬肥やせ」という日本一短い手紙でも有名です。

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