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2004-02-18

オンリーワンであるために


 例のごとく憶測で考えている訳だけれど、ネットを色々見ていると、表現するという事の意味合いが以前とは全く違って来ているということに今更愕然とさせられる。僕個人としてよくあるのが、完全にオリジナルだと思って考えついたギャグが既にネット上では常識とされている事。これはショックである。「竹村健一さん、好きな色は?」「だいだいやね〜」というのはネットというものがなければ僕は自分のオリジナルギャグだと信じて疑わなかっただろう。むろん、威張るほどのギャグでは全然ないが。


 この、オリジナルでありたい、というのは表現するものにとって至上の命題と云える。オリジナルな表現者こそが僕らにとって「かっこいい」存在であり、「かっこよくありたい」という自己顕示欲を満たすためにはオリジナルな表現が必要だとされる。少なくとも僕にとってこれは当たり前のことだったし、表現を夢見る者は、どうにかしてでもオリジナルな存在であろうとしてあれこれ苦しむのだと思っていた。でも、ネット上で流れる無記名のギャグを見るにつけ、オリジナルな表現というものの価値の揺らぎを感じずにはいられないのだった。

複製技術時代


 物質のオリジナルに価値があったから、所有のオリジナルがかっこよかった。

 情報のオリジナルに価値があったから、発信のオリジナルがかっこよかった。


 ベンヤミンが何を言っているのか詳しい事まではよく知らないけれど、最初にその考え方を聞いた時、僕は自分が「複製技術時代」の芸術観でしか物を見ていないんだということを強く意識させられたのを覚えている。ベンヤミンは複製技術時代が到来すると、物質のオリジナル性が持つアウラ(オーラ)が失われる、と云っている。これはまったく正しい、とそれを聞いた僕は思った。というのは、僕自身が物質のオリジナルに全く関心を示さずに生きて来たからだった。僕は絵を描くのだが、絵を描いた後、たいていはコピーをとる。この時の僕の心情として、オリジナルが大切だからコピーをとるのだ、という意識はじつはあまりない。それよりもむしろ、コピーをとるために絵を描いている、という意識の方が強いのだった。僕は、オリジナルな現物を所有することよりも、自分の作品が複製され、記号として流通することの方により喜びを見出すようなのだった。


 たぶん僕にとって作品というのはあくまでもひとつの情報であって、いかにオリジナルな情報を発信出来るか、ということが僕の主眼だった。だから、現物にはそんなに意味がなかった。ベンヤミンが云っているオリジナルな物質に宿るというアウラは、僕にはほとんど感じることのない感覚だった。博物館美術館は嫌いだが、そのカタログは好きだ。音楽のライブには行った事がない。演劇に行くより、演劇DVDが欲しい。


 これは、まさに複製技術時代芸術観だと云えるんじゃないだろうか。そんな芸術観にあっては、現物を持っている事はちっとも「かっこいい」事じゃなくなる。それよりも、流通性の高い記号こそが素晴らしく、まさにその記号にサインした表現者を「かっこいい」と思う。そして多分、この芸術観にあまりに強く毒されているからこそ、僕はネットにあふれる無記名の作品に強烈な違和感を感じずにはいられないのだ。どうして彼らは発信のオリジナルを主張しなくても平気なのか?


 多分、ネットでは誰もが発信出来る。そして、発信すればそれは誰もが容易にコピペ出来て発信者から切り離された二次情報と化してしまう。発信する人、コピペする人が無数にいて、お互いの顔が見えない。誰でも発信出来る。誰でも二次利用出来る。自分の発信した情報に自分の名前をサイン出来ない。ここでは必然的に情報を発信することのオリジナリティが相対的に低下せざるを得ないんじゃないか?そして彼らは、発信することを「かっこいい」なんて全然思っていないんじゃないか?やばい!オリジナルな表現は「かっこいい」個人に結びつかない!

データベース時代


 情報のオリジナルが価値を失ったら、システムのオリジナルがかっこいい?


 もし、今まで書いて来た流れが正しいとしたら、表現者は今まで通りの「かっこいい」存在じゃなくなる。オリジナルな表現をしていても、個人として名前が残らないことになる。2ちゃんねるが象徴的で、吉野家コピペは残っても、あれを書いた人間の名前は残らない。2ちゃんねるで起こる事は、すべて「2ちゃんねる」が主語。「かっこいい」個人はどこにいったのか?そうなった時、僕の中では、ひろゆきという個人の名前が浮上せざるを得なくなる。


 ひろゆきという人は2ちゃんねるというシステムを作った人だ。そのシステムの中では様々な表現が行われているが、ひろゆきは何もしない。何も表現しない。なのに、2ちゃんねるというシステムは、ひろゆきという個人名に還元されてしまう。そして、2ちゃんで表現された「芸術」も、ひろゆき以外の個人に還元する事は事実上出来ないのだ。


 僕は、これと少し似たものを映画批評の世界にも感じる。僕が映画について色々書くと、「映ってるものを見ようよ」「物語しか見てない」等の批判を受ける。それは勿論その通りで、もっともなことだとは思うけれど、その言葉は大抵蓮實重彦がどこかで云ったことだったりする。ならばと思い、そうやって批判する人間の書いた映画批評を読んでみると、確かに僕なんかよりよく映画を観てはいるけれど、やっぱり蓮實重彦が提示した問題についての考察が書かれているだけだったりするのだ。ある種の映画批評というものがいまだに蓮實重彦を相対化出来ていないのは、きっと蓮實が表現者であると同時にシステムだからだろう。表現者というものが「かっこよく」無くなりつつある今、映画批評と云う名の表現はそのうち全て蓮實重彦という個人に還元されるのではないか、という恐れが少し僕にはある。


 確かに今、ひろゆきはそんなに「かっこいい」とはされていない。ひろゆきなんかよりは芥川賞作家のほうがやっぱり今では「かっこいい」。でも、そのうち芥川賞レベルの作品がネットに無記名で出回る時代が来たら?もし、そんな世の中が来たとして、それはいったいどんな世の中だろうか?ちょっと考えてみたい。


 まず、資本主義が表現から撤退している、ということが挙げられるだろう。表現にくっついていた資本がそのままシステムというものにくっつくだろう。これは、わかりやすい。表現というものは資本からはなれ、人々は再び純粋に文化的な表現を楽しむようになる。そして、そのシステムを作った人こそが「かっこいい」とされる時代が来るんじゃないか。発信する時代から、招き入れる時代へ。複製技術時代が来たことで、それ以前の芸術家さえもが、それまで以上の「かっこよさ」を帯びたように、世界の歴史を「システム史観」とでも云うべきものが覆うようになるかも知れない。そこでは、ひろゆきや蓮實が、ジョン・レノンゴダールよりもはるかに「かっこいい」。


 僕が、ネット上で今のところ「僕」以外の主語や学術用語を当たり前のようを使わなかったのは、恥ずかしながらこんな自分でも、ちょっとはその流れにあらがいたいと思っていたからだったんだろう。考えてみれば、「学問」というのはシステムのことだった。だからこそ、学問の世界にオンリーワンは通用しない。二次利用がいくらでも可能なテクスト群としてそこにあるだけだ。そして今や、表現の世界ですらオンリーワンは難しくなりつつあるのだとしたら、「かっこよくなりたい」そう思ってしまった人間はもはや自分でシステムを作り出すしか無いのだった。


 というわけで、まーどっちにしても、世界に一つだけの花になるのは非常に難しい、という話だった。

虎は野に放たれない


 そこで、先日書いたオタクサブカル論の続きを性懲りもなく書く。この分析はあくまで「共同体論」「消費論」「コミュニケーション論」であって、個人の資質を云々するものではない、ということに気付いた。だから、先日ここに「僕はインテリな気もする」と書いたが、あれは間違い。「インテリ型消費をしている気もする」が正確なところだ。


               オタク型消費

                 知識

                  l

                  l

                  l

                  l

                  l

      感覚ーーーーーーーーーーlーーーーーーーーーー分析 

  ミーハー型消費         l         インテリ型消費

                  l

                  l

                  l

                  l

                 経験

               サブカル型消費



 経験をベースに分析・感覚で交感・・・サブカル

 知識をベースに分析・感覚で交感・・・オタク

 経験・知識をベースに分析で交感・・・インテリ

 経験・知識をベースに感覚で交感・・・ミーハー


が、この前考えた図式だった訳だが、とりあえずはこの布置が正しいことを前提にして考えていきたい。今後これは改良を余儀なくされることにはなるだろうけど、進展含めここに書いていこうと思う。


この図を見れば分かる通り、ミーハーはインテリと、オタクサブカルと対局にある。つまり、となりあう文化は視界に入るけれども、対局にある文化は視界に入らない。オタクは経験をベースに語る作品に興味はないし、サブカルは知識をベースに語る作品に興味は無い。インテリとミーハーは興味の対象はかぶるけれど、交感の仕方が違うので接触を持たない。それはつまり、こういうことだ。


 東浩紀ミーハーの視界に入らない。 

 唐沢俊一サブカルの視界に入らない。

 みうらじゅんはインテリの視界に入らない。

 リリー・フランキーオタクの視界に入らない。


 さてここで、「価値」というタームをどのように代入すれば良いかで僕は悩んでいる。「経験価値」「知識価値」というものを僕らは語る。これを僕は失念していた。完全に手落ちくさいが、明日もう一度じっくり考えてみることにする。