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2005-03-22

matterhorn2005-03-22

チェルフィッチュ『ポスト*労苦の終わり』



 人間生きていると、幸か不幸か「なんてドラマチックなんだ」と思える事態に、少ない人でも一度や二度は、また多い人ならば日常茶飯のように出会ってしまうことだろう。そのとき、人はどのような身振りをとるだろうか。僕には、三種類の人間がいるように思える。それは、「眉間にしわを寄せる人」「何事もなかったような顔をする人」「笑う人」である。各タイプの人間は、それぞれ直面した「ドラマチック」が興奮の極致に達したとき、「叫ぶ」「涙を流す」「黙る」という行動をとる。つまり、「眉間にしわを寄せ」ながらドラマに入った人間は最終的に「叫び」、「何事もなかったような顔をしつつ」ドラマに入った人間は最終的に「涙を流し」、「笑って」ドラマに入った人間は最終的には「黙る」のである。


 チェルフィッチュが描く世界の住人は、間違いなく第三のタイプ、つまり「笑い」→「黙る」タイプの人間だと云える。チェルフィッチュの芝居を「超リアル」とする根拠は例えば人によって「言葉遣い」だったり、「仕草」だったり、「物語の強度」だったりと、まあたくさんあるだろうが、僕個人にとってチェルフィッチュという演劇ユニットがとてもリアルに響くのは、ひとえに彼らのこの、「ドラマチック」という一見よく分からないものに対する身の置き方に大きな共感を覚えるからだ。そしてこれは、同時に現代的な身体のあり方とも云えると思う。


久しぶりだね、三項対立



 第一のタイプ、すなわち「眉間しわ」→「叫ぶ」タイプの人間というのは、大島渚増村保造井筒和幸映画に見られるように、非常に政治的・闘争的な肉体を持った者たちだと云える。彼らは、自らに押し寄せる感情の波を最もストレートに身体へと転化させることが出来るタイプの人間だ。少年漫画アニメーションが専らこのような身体を軸に据え物語を描くのは、これらのメディアがいまだこの「闘争の原理」とでも云える原理に貫かれた世界観を持っている証拠だろう。彼らは感情を露にすることで、読者や観客の不定形な感情を誘導し、解放させる。作品は読者の「闘争」への欲求を刺激することで成立している。僕は、これら「眉間しわ」→「叫ぶ」という身体を軸にした一連の作品群を「高血圧メディア」とでも呼びたい。


 一方で、フランス映画や一部の洒落た恋愛小説などに見られる「何事もなかったような顔」→「涙」という第二のタイプの人間というのは、非常に哲学的・自己省察的な肉体を持った者たちだと云える。彼らは直面する「ドラマチック」に対しつとめて理性的な処理を試みるが、物語の強度の高まりとともに内なるストレスを増大させ、最終的には一筋の涙に結晶させることで表出を行う。そこでの彼らの感情は、「身体」ではなく、あくまで「物質」としての涙へと転化される。読者や観客は、彼らの自己省察に同調し、また自らとの距離感を測りながらそれぞれの感情の深淵に降りてゆく。僕はこれらの作品群を、先の「高血圧メディア」に対する形で「低血圧メディア」と呼びたい。


「高血圧」でも「低血圧」でもなく



 さて、「高血圧メディア」がドラマと「闘争」し、「低血圧メディア」がドラマに「凍瘡」するのだとすれば、残った「笑う」→「黙る」というタイプの人間は、常にドラマからの「逃走」を試みる者たちだと云える。彼らは、自らの身体が「ドラマチック」な展開に置かれたとき、戦うでも、立ち止まるでもなく、必死にそのドラマを相対化しようと努めるだろう。それゆえ彼らは「笑う」わけだが、結局、最終的にどこまで逃げても自らがドラマの当事者でしかありえない、ということを知らされたとき、彼らは「黙る」しかなくなるのである。


 先も述べたようにチェルフィッチュの作品が提示するのは、まさにこのような第三の身体性だ。彼らは「今泉くんは〜」「純ちゃんは〜」と、三人称で自らのドラマを語り、また、「〜という話を今から演ろうと思うんですけど、」と云って常に当事者性から逃れようとする。他者の視線を借りてドラマを演じ、またそのドラマにすら耐えきれずに奇怪な動きを見せる。ゆえに「献血メディア」とでも呼ぶべきこれらの作品は、最後までこれと云ったドラマ性を帯びぬまま物語を終える。しかし、このような「ドラマチック」から神経症的に回避し続ける無様な姿勢こそが何よりも現代的であると云えるのは、それは我々が「ドラマチック」というものを外側から見ることに慣れすぎてしまっているからだろう。


 全てを相対化することに慣れっこで、「ドラマチック」への耐性を著しく劣化させた人間として僕らはいる。現代では「高血圧」であることは恥ずかしいとされ、「低血圧」であることも自己満足というレッテルを貼られ辱めを受ける。政治と闘争の街・新宿はとうに性質を変容させ、個性と自己肯定の街・下北沢再開発煽りを受けまさに滅ばんとしている。全ては相対化され、しかしもちろん「献血圧」を選んだ所で最終的に沈黙するしかないのだから、僕らの身体は誠に不自由としか云いようがない。この不自由さに耐えながらも、それでも前回書いた北田暁大の言葉を借りれば「消費社会シニシズム」を越えた「ロマン主義シニシズム」へ、いかに身体を旋回させていくかが問われるだろう。


 チェルフィッチュの試みは、この「不自由さ」を自覚することから始まっている。この発見は手放しで賞賛に値すると思う。しかし、惜しむらくは、そこに「嗤い」を越えたところの「笑い」がもっと欲しい。それがあれば、僕らはもう少し「不自由さ」を肯定出来るかもしれない。




    チェルフィッチュ『ポスト*労苦の終わり』

    @横浜STスポット(23日まで・・チケット完売だそうですが)

  http://www.jade.dti.ne.jp/~stspot/stage/index.html#cheru