Hatena::ブログ(Diary)

まっつねのアニメとか作画とか このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-09-23

天空の城ラピュタ未来少年コナンについて


先日、藤津亮太さんの「アニメを読む」を聞きに行った。

題材は『未来少年コナン

言わずと知れた宮崎駿による傑作TVアニメだ。

f:id:mattune:20140923193602j:image:w360

今回聞きに行ったのは、

スタジオジブリ宮崎駿というものを先に知っている世代として、

未来少年コナン』をリアルタイムで見ていた世代目線というものに興味があったからだ。


収穫は色々とあったが、私の中で一番大きかったもの

ラピュタとの比較からみたコナンという切り口、

そしてそれが世代によって違うのではないか、

ということだ。


宮崎駿にとっての漫画映画

ラピュタコナン比較の上で重要なのが、「宮崎駿にとっての漫画映画」。

漫画映画というのは、それ自体にはあまり意味はなくある種政治的言葉だが、

宮崎駿にとっては、意味のある言葉だったようだ。


宮崎駿発言などを総合すると

漫画映画性は


1、説得力を持ちつつも、ルール破りな嘘

2、秘めている願いや憧れを呼び起こす理想的主人公

にあると解釈できる。

例えば、コナン6話の有名な大ジャンプルール、今風にいうと「リアリティレベル」を破っている。

しかし、そのルール破りが作品漫画映画としての魅力となる。

宮崎駿漫画映画の魅力とは、自転車自動車競争して、説得力をもって勝つ様子を描けること」)

f:id:mattune:20140923193603j:image:w360

そして、コナンは「ラナを助ける」というまっすぐな行動原理しかもたない、

高潔主人公であり、そのコナンのまっすぐな高潔さが物語を切り開いていく。


漫画映画ではなかったラピュタ

一方、その後に「漫画映画」として企画されたラピュタはどうか。

f:id:mattune:20140923193604j:image:w360

何人かのリアルタイムで『未来少年コナン』を視聴し、

その後にラピュタを見たという人に聞いてみたが、

ラピュタ未来少年コナンと非常に似ているが、

 ラピュタにはコナンほどの興奮や感動はなかった

という意見が多かった。


ラピュタ構成要素だけ見ると『未来少年コナン』と非常に類似している。

だが、大きく異なるところがあるという。

それはラピュタ主人公の一人であるパズーが、

コナンのような「漫画映画主人公」ではなかったからだ。


彼はコナンのような超人的な身体能力精神力も、高潔さもない。

その代りに挫折葛藤があるという普通少年だった。


逆に言えば、コナン葛藤がなかったからこそ『未来少年コナン』は漫画映画だったのだ。

パズー漫画映画主人公足りえないパワー不足の普通男の子であったために、

天空の城ラピュタ』も漫画映画の魅力を失い、

コナンにハマった人たちには物足りないものとして映った。


コナンはラナとレプカの二人に割って入るだけの力があったが、

パズーにはそれが無く、

結果的に「パズーが居る必要があったのか?」という疑問を呈される事態に陥っている。


ラピュタ起点での見方

前項までは、藤津さんの講座の要約(の一部分)であるが、

子供のころ、ラピュタを何十回とみて、

そして時間がたってからコナンを見た人間としては、

これまでの話が裏返る。


私は、『未来少年コナン』というアニメ面白いと思いながらも

どこか違和感を感じていた。

特にラナだ。


ラナは意志の強さを見せるシーンがある反面、

コナンの助けが無ければ無力であるという一面も持ち合わせる。


その両面性が私には一種の狡さに見えた。

言ってしまえば、

宮崎さんの「意志の強い娘萌え

コナンに助けられるエスコートヒロイン

という二役を背負った結果、

コナンの力を利用するしたたかさを感じてしまうのだ。

しろ、ラナはラスボスレプカとの最終決戦から離脱させられてしまい、

彼の最後にすら立ち会ってないのだ。


そして、その違和感の源泉は

天空の城ラピュタ』のシータとの比較だ。

無意識のうちにラナにシータ投影し、その違いに違和感を感じていたのだ。


パズー漫画映画的な魅力を持たない普通の子であったために、

シータ自身ムスカ対峙しなければならなくなる。

彼女にはラナのようなエスコートヒロインとしての甘えはない。

シータはラナとは違い、最終決戦に最後まで参加し、

その代償として髪を失うことになる。

f:id:mattune:20140923193605j:image:w360


ラピュタ基準で見れば、

シータの自立心は、ラナの依存心よりもずっと魅力的だ。



ムスカレプカ

コナン漫画映画の不在で変わったのはシータだけではなく、

敵役であるムスカもそうだ。


未来少年コナン』のレプカという損な役回り押し付けられてしまった存在と言っていい。

藤津さんが展開していた

「『未来少年コナン』=戦後風景」論で言えば、

レプカもまた大戦被害者であろう。


大戦引き起こし戦前世代(ラオ博士委員たち)

大戦時には子供であった世代モンスリー

大戦後に生まれた世代コナンやラナ)


この世代構成の中で、

おそらくレプカ大戦時に若い将校であったのだろうと思われる。

軍国主義時代教育を受けて実戦を経験したレプカが、

野心を持ってしまうのも仕方がない。


しかし、コナン漫画映画性によってレプカは「悪者」として断罪されてしま

それでいいのだろうか?


その意味において、ムスカはもう一人のラピュタであるという役割を得た

ラピュタ』においての主人公は言ってしまえば、

二人のラピュタだったのだ。


コナンが割って入ったことで文字通り崩れてしまった

つの可能性という構造が、

天空の城ラピュタ』ではしっかり機能している。


無意識の枷

それまでのアニメ視聴のキャリアやその中での感動などは、

過去作品を遡ってみていく時に思わぬ枷となることもある。


コナンを見る時にラピュタ意識したことはほとんどなかったが、

今回、そこが無意識の枷になっていることに気が付いた。


バンダイチャンネル見放題やdアニメストアで手軽に過去作品に触れるようになった今、

この無意識の枷をどの対処していくか、

ということを考えねばならないのかもしれない。

へにまるぺへにまるぺ 2015/07/20 10:10 こんにちは。現在、未来少年コナンの一気見中です。
ぐぐってこちらの記事を拝見させていただきました。
そういえば以前わたしもなんか書いたよなと思い出し、そっちも読み返したしました。(blogもうとっくに止めてしまいましたが)

私はリアルコナン世代で、例に漏れずラピュタはコナンの劣化版と位置付けています。
今回まっつねさんの記事を読み、コナンという世界感は、コナンのキャラの強さ、まっすぐでぶれず超人で全てを収斂させる絶対性があってのものだったのだ、という思いを強くしました。
他キャラがどれだけぶれても、自由きままであっても、コナンが前を向いて走り出せば物語が流れていくのです。少年の少女への一本気が世界を救っていく。どんな困難にも打ち勝っていく。コナンは絶対に負けない、負けるはずがない。それは漫画的幻想・妄想なんですけど、しかしそれこそが宮崎が土台とした作品の中心であり、逆説的に、だからこそ他キャラの持つ価値観のぶれを多層的に作品中に配置できたのであろう、と思います。

PS. 碧岡烏兎さんのコナン論も面白いですのでぜひ。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto02/bunsho/conan.html

ナナシナナシ 2017/06/05 20:06 いや、どっちも傑作
もののけ以降の宮崎作品を批判するならともかく
ラピュタを物足りないというやつは贅沢すぎる

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/mattune/20140923/1411471146
Connection: close