そう、「お前は反ユダヤ主義だ!」と罵ればね。

表現の自由」の下でも宗教の聖性を保護できる方法について。(iPhone風)


イスラム協力機構、「宗教恐怖症」の法規制を呼びかけ| Reuters
ということで昨日の日記でも少し触れたお話であります「表現の自由」と「預言者風刺」のお話でありますけども、まぁやっぱり昨日の日記でも書いたように、彼ら「表現の自由」側に立つ人がそれを認めることはおそらくないのでしょう。
しかし現実に、その二つをかなり近い意味で両立させている人たちがいるんですよね。実は昨日の日記はこっちの前フリだったというオチ。

パキスタンのアクラム国連大使はOICを代表して国連人権理事会で演説を行い、同映像の内容を非難。宗教に対する中傷や否定的な固定観念から生じる憎悪犯罪、発言、差別、脅迫、抑圧のほか、崇拝対象への侮辱などを防ぐため、規制が行われる必要があると強調した。

また、ムハンマドを侮辱する映像の制作やイスラム教の聖典コーランの焼却、ムハンマドの風刺画の掲載などは、イスラム教徒に対する差別、侮辱、中傷、非難を意図的に引き起こしていると指摘。このような行為は「暴力行為を誘発」し、表現の自由によって保護されないと述べた。その上で、イスラム恐怖症が差別行為として認められ、それに応じた処分が行われなければならず、反ユダヤ主義と同様に扱われるべきだとの考えを示した。

米国側は24日、国連人権理事会に対し、宗教の自由と表現の自由は分離できないとの考えを示し、言論の自由が制限されれば、暴力行為、貧困、不満などを引き起こすと指摘した。

イスラム協力機構、「宗教恐怖症」の法規制を呼びかけ| Reuters

つまり「反ユダヤ主義」という形で既に。
もちろん元々かなり広義の意味を持つ『ユダヤ』という定義なので、単純にそれが宗教という属性そのもので用いられているわけではありません。しかしそれでも彼らは「表現の自由」を掲げる社会の中で、その教義の神聖さをある程度まで防衛することに成功しているのです。
そして彼らイスラムの人たちもまた、イスラエルロビーを代表とするようなユダヤの人たちと同じ結論にたどり着こうとしているのは、ぶっちゃけ愉快なお話だなぁと思うんです。


一部の*1ユダヤの人たちはよく組織された圧力団体と、豊富な資金でもって、そうした差別意識――だけでなく揶揄や冗談の類そして時には正当な議論までをも徹底的に攻撃し、そして伝家の宝刀である「お前は反ユダヤ主義者だ!」と一方的にレッテルを張ることで言説を封殺し、それだけでなく相手を社会的に抹殺することさえしているのです。「表現の自由」が支配する社会の下でもそれは滞りなく行われ、それはまぁ一部の暴走を除けば概ね合法的活動でもあります。
実際「お前は反ユダヤ主義だ!」というレッテル貼りは欧米社会――特にアメリカでは絶大な威力を発揮するわけで。とりあえずそれを言っておけば相手の(都合の悪い)言論を封殺できる、という点でとてもお手軽で強力な手法として機能している。
もちろんそうしたことの背景には事実として「反ユダヤ主義」が猛威を振るっていた長年の歴史が確かにあったわけで。あのホロコーストポグロムを頂点として、ヨーロッパの歴史のほとんどで正体不明の隣人として扱われてきたユダヤの人びとの苦難。そして更には現在進行形でもそうした意識が残っている事はやっぱり否定できないでしょう。私たち日本人のような他人事からするとあまり理解しにくいですけども、おそらくその加害者意識と罪悪感がある程度の暴走を許容してもいるのかもしれません。ただそうは言っても、現代の欧米社会はそうした「反ユダヤ主義」は最も抑制されている時代でもある、ということもまた事実なんですよね。
彼らの歴史背景としてのそれを知るとまぁ確かに理解はできるものの、しかしながら今尚続くその病的な「反ユダヤ主義!」というレッテル貼りは、効果があがっていると感心すると同時に、端から見ていてやり過ぎていて結果として自分の首を絞めつつあるよなぁと生暖かい気持ちになってしまいますけども。


ともあれ、上記リンク先にもあるように、「イスラム恐怖症が差別行為として認められ、それに応じた処分が行われなければならず、反ユダヤ主義と同様に扱われるべきだ」という所に辿り着こうとしているイスラムの中の人たち。
ユダヤ人と同じやり方を真似ようとしているイスラムの人々。確かにそれは「表現の自由」の社会の中でも通用する冴えたやり方だと言うことはできるかもしれません。「お前はイスラム恐怖症だ!」と一方的にレッテルを貼ることで相手の言論を封殺する。よく考えるとそのやり方は色々とアレではあって、ならば「反ユダヤ主義者め!」とやることの正当性にまで云々しなければならなくなってしまう。だから今回の流れは結果として既存のユダヤの人たちのやり方にまで影響を与えることになるんじゃないかと少し思ったりします。
「何故反ユダヤ主義は配慮されているのに、イスラム恐怖症は配慮されないのだ」なんて。でもまぁその辺については色々めんどくさそうなので割愛。


端的に言って不倶戴天の敵同士である彼らが、教義の神聖さを守る為に同じ手段で訴えようとしている構図について。ただ「表現の自由を制限しろ」というよりも、こちらの「イスラム恐怖症だ!」というやり方のほうがずっと筋はいい気がします。だってそれは既に先駆者がいるんだから。
どちらにしてもまぁくすっとしてしまうお話ですよね。

*1:もちろん全てのユダヤ人・イスラムの人がそうではないでしょう。が、めんどくさいの以降では省略。