古き良きアメリカ精神を生み出したジェームズタウンの『飢餓期』

開拓精神、自らの力のみを頼りにする独立心、勤労意識、そして後の民主主義誕生の契機となったもの。



北米大陸初の英植民地で起きた食人の証拠、14歳少女の骨から発見 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News
ということで食べられた死体が出てきたそうで。
あのアメリカ建国神話の一つとして語られる『巡礼始祖』の苦難と並んで、こちらも有名なお話ではありますよね。その巡礼始祖よりも一足先に起きた、いわゆる1609~10年頃のジェームズタウンの飢餓期について。

 新世界に到着した植民者たちが、厳しい生活環境によって食人行為を強いられた可能性は、かねて論じられてきたが、今回の発見はジェームズタウンで食人が行われたことを示す初めての物的証拠となった。

 ジェームズタウンの植民地は、100人あまりの植民者によって1607年に設立された。だが飢饉や干ばつ、疫病によって、人口は最初の9か月で38人にまで減り、住民らは補給船からの物資に大きく頼らざるをえなかった。(c)AFP

北米大陸初の英植民地で起きた食人の証拠、14歳少女の骨から発見 写真4枚 国際ニュース:AFPBB News

この食料不足によって入植地の70〜80%に近い人が死んだといわれているそうで。周辺インディアンへの略奪だけでなく、その時期に「墓をあばいて人肉を食った」と伝えられてきたその内の一人が、この14歳の少女なのでしょう。
しかし、皮肉な話ではありますが、この最初のイギリス人たちのこの悲惨過ぎる苦労があったからこそ、彼らこそが後にアメリカ建国につながる政治の中心地であるバージニアの地で、その独立心を育てていくことになるのです。



もちろん慣れない新世界の環境や気候もあったわけですけど、しかしそもそもこうした苦難の構図って、実はかなり自業自得ではあるんですよね。
元々このジェームズタウンに入植してきたイギリス人入植者たちは、まぁアメリカ大陸をナメ切っていました。それ以前から入植していた、北にはフランス南にはスペインが入植していた中にあって、遅れてやってきたイギリス人たちはそれはもうグータラな人材しか送り込まなかったのです。彼らのほとんどが、それはもう素朴に「アメリカ大陸には金銀財宝が眠っている」なんてことを無邪気に信じる一攫千金を狙う人間ばかりだったのです。
――かくして、そんな人間ばかりによって造られたジェームズタウンは当然の如く、衰退していきます。
そもそも自立心の薄かった彼らは開拓に必須であるはずの自給自足のための農耕さえ放棄し食糧不足に陥っていくだけでなく、インディアンの襲撃(彼らの食料を盗んだ為に敵対した)や病気によって次々と死んでいきます。
イギリスの出発時の144名の内、航海中に39名が死に、そして到着してから一年後までに67名が死亡し、うち残っているのはわずか38名という有様でした。


こうした中で一人のリーダーが生まれます。現在でも色々と評価の分かれるキャプテン・ジョン・スミスであります。
元々どちらかといえば集団内で自分勝手なことをやるタイプだった彼は、しかしこのバージニアが楽園などではなく、またイギリスとも違ったまったく未知の土地であることを見抜き、状況を正しく受け入れ行動する最初の人物となるのです。そこで彼は生きる為に、強制的にでも人々を働かせ、(私たち日本人も大好きな)あの有名な聖書から引用した「働かざるもの食うべからず」という植民地のルールを公にします。
働かないものは追放=事実上の死亡宣告をし、食料を盗んだだけで死刑、といった監獄のような生活を続けることで彼らの生活はギリギリ踏みとどまることができ、また援軍となる追加の入植者たちが到着するようになりますが、しかし根本的な解決にはまったく遠く生活は全然楽になりませんでした。
1609年頃の、上記の少女が食べられたのはおそらくこの頃でしょう。まさにこうした状況下にあったからこそ、皮肉にも彼らのその自立精神や勤労精神というものは、選択の余地なく、確固たる信念となっていくのです。


さて置き、このギリギリの植民地生活を決定的に救ったのが、近隣インディアン(部族長の娘と入植者が結婚したことで)から贈られた「タバコ」でした。
1612年になるとジェームズタウンはタバコの栽培に成功し、以後数百年続く「バージニアタバコ」の産地として名を馳せ、そしてその後に南部アメリカ経済の主柱となる「綿花」が後に続くのです。
こうして、まず入植当初の苦難によって人々の意識を根本から変えられ、そしてその後に「勤労意識」に報われるだけの作物=武器を手に入れた彼ら。そんな紆余曲折の果てに、自立心あふれる政治的基盤と、そして豊かな経済力、この両輪を手に入れたバージニア。当然そこは植民地時代のアメリカにおける文化的中心地の一つとなっていきます。
この地での苦難の経験によって、彼らの意識には「勤労に対する正当な報酬」という信念が根付くことでイギリス本国から派遣される総督の対抗として、直接民主政治の走りである『代議院』を生み出し、そうした政治風土はあのバージニア州の「代表なくして課税無し」というイギリスへの最初の反旗へ繋がっていくのです。
故にこのバージニアの地から、あの代表的な「建国の父」たち――ワシントン、ジェファーソン、マディソン、メイソン――を輩出することとなるのです。


ちなみに蛇足ではありますが、そんな輝かしいバージニアどん底からの成り上がり物語ではありますが、やっぱり「負の歴史」でもあるわけで。それはタバコを贈られ一発逆転の契機となったはずのインディアンとの血みどろの戦いでもあるし、またそんなタバコや綿花の大量栽培には単純労働を担う「奴隷」こそが最適解でもあったからです。
かくしてそこで彼らはその自立意識をイギリスから独立した形での独自の「奴隷の法制化」という形で実現させ、強大な南部農園主たちが生まれることでその果てにあの南北戦争へと繋がることになるのです。


アメリカ植民地時代における二つの中心地。『巡礼の始祖』たちの北部のニューイングランドと、そして『代議院』を生んだ南部のバージニア
ニューイングランドの方は『メイフラワーの誓約』にあるようにある意味で自ら「望み」「計画した上で」その地平に至った一方で、バージニアの方は、こうして女の子の死体を食うほどの辛酸を舐め「追いつめられた」経験の果てに、独立戦争南北戦争にまで続く(南部流の)アメリカ精神の基礎を生みだしている。
もちろん時間軸としては10年以上差がありジェームズタウンの経験があった上で前者は計画されてもいたので、単純に比較はできませんが、両者のアプローチの違いについてはやっぱり興味深いよなぁと。
当時のアメリカにあった二つの対照的な文化。清教徒の下に平等が作られていったニューイングランドと、流動性に富みながらも貴族的なバージニア、そしてその中間に作られた両者の混交的な植民地たち。


その意味で、この「人食」というただの悲劇的な事件という見方もできますけども、しかしここまで追い詰められたからこそ後のバージニアという植民地の文化の形成にあってかなり象徴的な意味があったりするのでしょう。
いやぁ色々と考えさせられてしまいますよね。