だから「暴言」と「本音」はそれぞれ違うとあれほど

「暴言」に甘いというか、「本音」に甘い社会。



日本語はどうして「暴言」に甘いのか? | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
少し前に話題になった国連での日本の人権大使のシャラップ発言からの、冷泉先生の日本人の「暴言に対するタブー意識が薄いのではないか論」について。

 それにしても、日本というのは暴言に甘い社会だと思います。

 例えば、現在問題になっている在日韓国人朝鮮人の人々への憎悪スピーチの問題に関してもそうです。企業内におけるパワハラやセクハラ、大学や研究機関でのアカハラ、高校以下の教育現場における暴言と体罰、そうした問題の背景も同じです。子供同士の社会における「いじめ」の問題も「暴言に甘い」文化は反映していると思われます。

 理由については、私は日本語の特質に原因があると考えます。

 日本語というのは、表現が多種多様のバラエティに富んでいます。そのために、同じことを言うのに「新しい言い方や強い言い方」をしないとすぐに「陳腐化」してしまうのです。これが1つ目の問題です。表現の強度を変えずに同じような表現を繰り返していると、本当に陳腐化して行きますし、時には滑稽になることすらあるわけです。

日本語はどうして「暴言」に甘いのか? | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

まぁ日本が「暴言に甘い社会」というのは概ねその通りなのでしょう。もちろんそのバリエーションの豊かさななども挙げられますけども、しかしその理由としてはより大きなモノがあるんじゃないかなぁと。つまり、この場合の要因というのは「建前」社会に生きる日本人だからこそ、という点が大きいのではないかと。
「建前」社会に生きる私たち。ただそれって私たち日本人自身もそれなりに自覚しているんですよね。
だからこそ私たちはそんな建前社会に生きる中にあって、その本音を様々な言い回しで婉曲に表現しようとする。まぁ上記リンク先でも言及されているように、あまりにも普及しすぎて一般化した結果、全然婉曲じゃなくなっている場合も多々あるんですけど。


ともあれ、そうした建前社会に生きる私たちだからこそ、逆説的に「本音」を露呈している人、あるいは「しているように見える人」に対して、かなり甘い見方になってしまうのではないかなぁと。
この息苦しいタテマエ社会に生きている中にあって、敢えて本音(暴言)をぶっちゃけている人に素朴な憧憬を抱いてしまう。だからといって必ずしも暴言と本音がイコールであることなんてまったくないわけですけども、しかし何故かそこでは「本音ニアイコール暴言」という構図が出来上がってしまっている。最も大きな要因はそこにあるんじゃないかと思うんですよね。
私たちはなんとなく「暴言」を発している人を見ると、「本音」を言っている人として捉えてしまう。もちろんそれがイコールである場合もあるし、しかしそうでない場合だって多々あるはずなのです。ところが上記のように建前社会に生きる私たちは――それが不慣れのせいかどうかはわかりませんが――「暴言」を見るとそれより先にまず「本音」を言っている人だと認識してしまう。
そして更にはそれが逆侵食して、暴言でなければ本音ではない、という次元にまで達しつつある。かくして「本音を述べようとして敢えて暴言を使う」という愉快な構図へ。


私たちは建前社会に生きるからこそ、その「本音」を特別視(そこまで言うなら何か理由があるのだろう)してしまい、結果として必ずしもそれとイコールにはならないはずの「暴言」までもが副次的に許容される状況を生み出している、のではないかと思います。
建前社会に生きすぎて、本音の正しい見分け方が苦手となっている私たち。
暴言を吐いている人が常に本音を吐露しているわけではないし(その方がよりタチが悪いだろうというのはさて置くとして)、逆に本音だからといって暴言を吐かなければいけない理由はないはずなのに。
懐かしのここが変だよ日本人オチ。


みなさんはいかがお考えでしょうか?