「表現の自由」論争についての適当なお話

現代の宗教はどこまで『権威』か?


「シャルリー・エブド」の風刺画、ハフポスト各国版で掲載判断が分かれた理由 | ハフポスト
イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ | ハフポスト
ううーん、まぁ、そうね。やっぱり個人的にこの辺の議論を見ていて考えるのは「表現の自由」についての判断が云々というよりは、「宗教的権威」の扱いの差こそが問題なのかなぁと。


これまでうちの日記でもずっと書いてきたお話ではありますが、そもそも近代社会における『自由権』の多くは歴史的経験から獲得した「政治的権力からの自由」という意味であるわけですよ。国家から個人が必要以上に恣意的な制約を受けてはならない。故にそれは最も基本的な人権の一つである。その意味で、フランスなどがこうした権利を異常に強く愛すのも当然なんですよね。だって、まさにフランスという国家は、そうした封建制に端を発した上位階級=権力者たちとの闘争が最も熾烈な国の一つでもあるわけだから。不当な権力・権威を否定する為に自由を叫ぶ。
こうした世界観に住む彼らにとって自由とは、守るべき権利というだけでなく武器なんですよ。自由の権利を守る為に自由を武器にしなければならない。*1


だからこの原則を例えば「国家対個人」という枠組みではなく「個人対個人」という構図で用いてしまうと、自由対自由という最強の矛対最強の盾以上に不毛な論争となってしまうわけで。どちらも等しく自由を武器に自由を守る為に戦うことになる。そんなの決着がつくわけないですよね。

どうか冷静に考えてほしい。無制限の言論の自由を信じる者など誰もいない。私たちはみな、法と秩序のために越えてはならない一線があり、分別と慎みのために越えるべきでない一線もあることに合意している。私たちの唯一の違いは、どこでその線引きをするかなのだ。

イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ | ハフポスト

はっきりさせておこう。ジャーナリストや漫画家を撃ち殺すことに正当性は一切ない。それは私も同意する。だが、人の神経を逆撫でする権利に責任が伴わないという主張には、私は同意できない。神経を逆撫でする権利は、逆撫でする義務になるわけではないのだ。

イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ | ハフポスト

自由の名の下に個人攻撃することは許されないし、無制限の言論の自由は存在しない、というこの主張は正しい。ただしそれはあくまで「個人対個人」の場合においては。
もしこれが「(自由を束縛しかねない)政治的権威対個人」という構図であればそこに一線を引くことは必ず権力者を利することになるでしょう。権力ひいてはその権威に対して「自由に」風刺や批判の声を上げることができなければ、それはもう既に個人の諸権利としての自由を半ば失っていることに等しいから。常に権威には風刺される余地があるべきである、という主張は政治権力を正しく監視することを大正義とも考える私たちの民主主義的価値観にも概ね合致しているとも言える。


さて、ここで問題となるのは現代世界においても尚、宗教は権力者であるのか、という点なわけですよ。
かつてのヨーロッパにおいて宗教に強力な支配力があったことはまず間違いない歴史的事実ではあります。キリスト教と政治的権力者は半ば一体であり分けて考えることなんて難しく、故にそれらに抵抗する為に宗教的権威をも否定する声をあげたのは必然の帰結だった。出来る限り自由であるべき個人に、盲従を強いて自由を奪う可能性のある権威は常に自由な批評が許される余地があるべきである。


――では現代のイスラム教は?


ここが最大の議論の分かれ目かなぁとは個人的に思っています。イスラム教が国家権力と結びつき国民の『自由』を不当に奪っている、あるいはそうした可能性があるのであれば、当然それは自由に表現されるべきであると*2イスラム国関連の存在を見るとそれなりに説得力はあるでしょう。ここで更にもう一歩議論を進めると、それを現地の国内でやるのは議論の余地がなく正当化できる。まさに当事者である人たちの不当な権威を否定しようという決断であるわけだから。
――では、それをほぼ無関係な外国のフランスがやることについては?
上記リンク先でも述べられているように、実際フランス国内ではイスラム教まだ少数派であるわけですよ。それなのにそうした『表現の自由』を外国に向けて上から目線の啓蒙主義ばりに行使することは果たして本来あるべき「政府対個人」という構図に適っているか? それともただ傲慢なだけ?
どちらにしてもこれって、無視できないほどには大きな少数派であるイスラム教を抱えるフランスが抱えるユニークなジレンマだよねぇと。
実際、個人的にも(不当に個人の自由を制約する可能性のある『国外』の)権威を自由に批評するのは概ね正しいと同意できます。しかしそれは国内的に見れば少数派への個人攻撃と紙一重でもある。ところが同時にまたそれはイスラムの宗教権威も(キリスト教のそれと同じく)潜在的に持つ盲従性について、フランス自身がまったくの無関係な他人事ではない当事者的要素をも含むことになる。
まさにこの「国内に抱える無視できないほどの少数派」というフランスの構造は、問題を複雑にしている最大の原因ではないかと思います。そしてヨーロッパ諸国はそれが全然他人事ではなかったりする。


いやぁめんどくさいお話ですよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:逆説的にそうした封建制からの階級闘争の歴史が薄いアメリカや日本などの文化圏では、これってあんまり説得力を持っていないんですよね。

*2:この辺は以前少し書いた。「分散するスンニ派」と「集中するシーア派」どっちがつよいの? - maukitiの日記