新文学01 感想とか自殺とか

ペンは険より強し、いや、険があるからペンが強くなるのだ。


今更になってしまったが新文学01を読んだ。天野年朗×松平耕一の08年創刊の同人誌だ。
前半の天野パートではライトノベルの文学の可能性について書いており、後半の松平パートではゼロ年代学生運動について書いてある。


天野パートで面白かったのが、ツンデレは萌え系における主人公におけるライバルだということ。ライバル不在の萌え系において、ツンデレという拒絶、受容するという関係はまさにライバルキャラクターであり、それによりストーリーが成り立つという解釈をした。これは確かに面白い。

また黒瀬陽平氏の「釘宮理恵はなぜ偉大か?」というテクストも面白い。声優は声を吹き込む「演技」を超えて、すでに声優自身がキャラクターになってるという視点は映画、演劇、ドラマでは普通に享受されていることがアニメ絵を通すことによって見えにくくなってることに視座を与えている。これはもっと議論されるべき話題ではないだろうか。

清水健朗氏の「オタクもスイーツ(笑)も情報に流されやすいという点では同じ」という意見は同意だ。相互にいがみ合ってるのは同族嫌悪か?


松平パートの秋葉原殺傷事件の加藤容疑者から出発する現代の学生運動のありかたについてはとても興味深く、そして大変面白く読めた。
法政大学の「反筑波化運動」などまったく知らなかったことだが、アーキテクチャ化され、動物化されている現代の学生に対してのアンチテーゼとしての運動というのは、はっとさせられるような問題意識だと思った。自分の通っていた和光大学も環境管理によるカオスな空間が徐々に秩序へと変化し、和光大学の伝統的な逸脱した面白さが減っていったのを実感した。それにより自分より下の学年がさらに「逸脱した面白さ」を求める人たちの入学が減って、大学全体のパワーが減ってしまったということがあった。浅原の娘を入学拒否したことにより、より大学の寿命は縮んだことだろう。

話を新文学に戻すと、今行われている学生運動のあまりの社会的影響力のなさに大学側の努力の成果を感じてしまった。いかに学生を押し込めるか?そこに学問が使われていたのは間違いない。技術や学問をどう使うかによって人間を工学的に管理することが可能だということを大学は証明したのかもしれない。


最後に松平氏のライトテロルへの見解は共感を覚えた。2ちゃんねるは立派なライトテロルである。

ここからは自説であるが、テロルとは元々「恐怖的」という意味であり、直接暴力を指すのではない。一年で三万人が自殺するこの日本では、テロが自己に向かっている。これを他者に向けることによって、しかも暴力という手立てではない恐怖を使うことによって社会を動かすことは可能でないだろうか?

これから自殺を考える人は、自己と社会の関係性を考えるべきだ。そこにはかならず自分を追い込んだ社会的な要因があるはずだ。「死」は自己にとっては唯一性のものだが、他者からすればそれは社会に偏在する一問題に過ぎない。死んだって何も変わらない。変わるのは社会に悲劇性が蓄積されるだけである。

だから死ぬんだったらライトテロリストになってもらいたい。暴力ではなく、劇場型パフォーマンスで。遺書をニコニコ動画で流して欲しい。昔、運動会をするなら自殺しますという事件が多発したが、あれは立派なライトテロルだ。自傷の欲望を昇華しろ。抑圧を粉砕すべし!


途中で脱線してしまったが、新文学01は読むべき価値のある同人誌である。
ぜひ模索舎等で買っていただきたい。
新文学02はさらに内容が過密になって面白いので、そちらもどうぞ!

http://literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-376.html
http://q.hatena.ne.jp/1128784395