日本の伝統的な座具と正しい座り方

 普通の座椅子に座っても、ちっとも姿勢が良くならないため、パソコンの前で、腰痛や肩凝りを抱えて悩んでいる人は多いようです。うちの神社の氏子のなかにも、座る姿勢が悪いことが原因で、体の不調を訴える人がかなりいて、手かざしで気のめぐりを良くしてもらおうと、たびたび耀姫を訪ねる人がいます。でも、座り方の習慣を変えなくては、しばらくするとまた同じことの繰り返しなんですよね。

 そこで、今回は日本人の体にとって望ましい座り方と座具について、観察してみようと思います。

 日本人は、唐の時代の中国や、明治維新以降ヨーロッパの椅子に座るライフスタイルに触れていながら、それを完全には受け入れませんでした。そのもっとも大きな理由は、体の筋肉のつき方が違うからでしょう。鋸などの道具を使うときにも、洋式は押すけど和式は引くように作られていて、筋肉の使い方がまるで違います。幕末の頃、西洋人と長時間面談しなくてはならなくなった幕府の高官達は、日本人は椅子に座ると安定せず、長時間座っていることが困難、という問題に直面することになったようです。椅子に慣れた現代人から見ると、どうして長時間座れないのか疑問に思いますよね。一つには、人間は普通の椅子に座ると背筋を伸ばしていることが困難になるからです。これは、バランスチェアのメーカーのサイトなどにある、人が椅子に座ったときの背骨の状態を描いた画像を見れば、容易に理解できる問題でしょう。背骨が持っている自然なS字カーブが描けなくなるため、腰に無理な負担がかかり続け、腰痛や肩凝りになるのは必然と思われます。それに、当時の硬い木の椅子は、太ももの裏側を圧迫するので、足への血行が悪くなって、居心地が悪いと感じられたのでしょう。足が冷えて困っている人に、圧迫が少ない椅子を用意してあげると、それだけで冷えを感じなくなることもあります。自覚される血行不良の問題などには個人差があるようですが、表面化しないに越したことはありません。

 西洋式の椅子を用いたライフスタイルに慣れていなかった幕末当時の日本人は、そういった問題点を、受け入れ難いと体感したようです。そのとき、創意工夫できる人が現われて、今日のバランスチェアに見られるような、適切改善が施されれば良かったのですが、人間工学的デザイン、といった言葉すらなかった時代ですから、良いものが登場しなくても、仕方がなかったのかもしれません。腰痛や肩凝りが辛い人々を量産し続ける、望ましくない洋式のライフスタイルが流行していく結果になったようです。

 ここに、一般常識を覆す情報を提示しておきましょう。「姿勢の良い正式な日本人の座り方は正座」というのが、近代以降の常識?のようです。ところが、本当に伝統的な日本人の体に合った座り方が正座かと言うと、じつはノーなのです。うちの神社は、嘘か本当か二千年以上古い時代からの文化を伝承していると言い伝えられています。正座についても、古い時代の日本人の考え方が正確に伝わっています。「正座は、その体勢から片足の親指の腹を床につけることで、即座に立ち上がって抜刀して相手に斬りかかれる、特別な座り方。目上の人や神棚と対面して、正座で座ることは、相手に危害を加える意思があるとみなされかねないため、たいへん失礼なことで、決してしてはならない」とされてきたのです。

 いつの時代から、正座が今のように広く一般に普及していったのかは知りませんが、おそらく厳格な軍国主義教育を求めていった、明治維新以降のことでしょう。昔の日本人は一般的に、あぐらをかいたり、立て膝で座っていたようです。あぐらは、現代人からは、かなり特殊な座り方に見えます。両足の裏を向かい合わせてつけられるぐらい、左右に大きく開いて座るというものでした。徳川家康などを描いた古い絵を見ると、そういう座り方が正式なものだったことが分かります。国風文化によっては育まれた平安装束の和装を、風格良く堂々と見栄えがするように見せる座り方なのです。

 公式行事や神事のときの作法として伝わっている正しい座り方が、日本人の正式な座り方でしょう。それに対して正座は、即座に抜刀して斬りかかる体勢に移れるものとして、武士の間では奨励されて普及していたものと思われます。でも、正座は目上の人に対しては失礼なものとされ、痺れがきれて大変なことになるので、日常的な座り方ではなかった筈なんですよね。したがって、「正座は正式な座り方ではない」というのが、本物の伝統的な日本の文化を学んできだ者の間では、正しい認識なのです。一般的な現代人の、日本の文化に対する常識的な考え方は、間違っているのです。長時間座るとしびれがきれるような座り方が正しいものなんて、意地を張っても、二千年間の歴史の重みを持つ、私達が伝承する本物の日本の国風文化の前では、何の意味もありません。

 昔の人は、姿勢を正そうと、無理して正座などしていなかったことは、うちの神社に古くから伝わる正座椅子を見ることでも分かります。正しい姿勢で無理なく座れる正座用の椅子は、近年になって普及してきた、という認識が一般的なようです。ところが、うちの神社には、平安時代末期に作られたと思われる正座椅子が存在します。そのなかでも、国宝に指定されてもおかしくないような、豪華な装飾が施されたものは、神社でもっとも神聖とされる、神様が座る場所に用意された正座用の椅子です。神降ろし(巫女舞)によって、神様と身心一体になった巫女(斎女)が、神事のときにのみ座るものです。その形状は、膝の下にもクッションが付いた、同心円状の正座椅子です。まるでお雛さまのように眉一つ動かさずに長時間座り続ける神事用の椅子なので、その座り心地は最高です。市販の正座椅子では、ホーグ社のライセンスを受けて、日本でだけ販売されているバランスマルチシットというバランスチェアが、いちばん近いと思います。

 一般に、古い時代の日本には、床几のような椅子しか存在しなかった、と思っている人が多いようです。ところが、じつは邦楽の世界では、古くから合曳と呼ばれる、板だけで構成されたクッションのない、簡易組み立て式の正座椅子が使われてきた歴史があるのです。それを、正座、座禅の座り方、あぐら、立て膝(平安時代の女性の座り方として推奨されていた)でも座れるように、さまざまな改良を加えていった究極の姿が、うちの神社に伝わっている正座椅子です。長時間に及ぶ神事の間、身じろぎ一つしないで余裕で正座していられる、国産最高級の神器とも言える椅子に匹敵しそうなものを、外国のボーグ社が再現している現状は、意外ですよね。

 じつは、うちの家には、コタツをぐるりと囲んで座れる、ドーナツ状になった正座椅子など、さまざまなバリエーションがあります。うちの一族には、腰痛になった人や肩凝りに悩む人なんて、ほとんどいません。無理せずに快適に、すらっとした姿勢で座れる和室用の座椅子があるのですから、そういうトラブルと無縁なのもとうぜんでしょう。

 じつは私は十代の頃、盛んにネットゲームをやっていたのですが、家臣達からは、シゴキの鬼姫と恐れられていました。子供の頃は、自分に出来ることでも、他の人には出来ないことがあるとは、十分に理解できていなかったので、3時間睡眠プラスお昼寝5分の休憩以外は、長時間休みなくレベル上げの廃プレイをし続けるように求めていました。家臣達には過剰な負担を強いる形になっていたので、鬼姫と呼ばれたのも当然のことと思います。大人になった今では、廃人の量産は好ましくないと悟って、廃仕様のネットゲームからは一歩距離を置いています。長時間の廃プレイを求めたのですから、とうぜんのように、家臣団のなかに、肩や首の凝りを訴える人々が現われました。そこで父におねだりして、家臣団への褒賞として、うちの神社に伝わる正座椅子を現代風のデザインに仕立て直したものを量産してもらいました。4万円ぐらいで市販してもおかしくない完成度のものが出来上がり、200個ぐらいは配布したでしょうか。他にもさまざまなオリジナルグッズを褒賞として用意して、家臣達をシゴキにシゴキまくりましたが、そのなかで、家臣団をサーバー最強のレベル上げ軍団へと育て上げるうえで最も効果が高いとされたのが、この軍団オリジナルの正座椅子でした。ですから、最強の廃レベリング・サポートグッズとして、トップクラスのゲーマー達の間で評価が高かった、父が作った正座椅子は、最も優れたパソコン用の座椅子ということになります。

 同じような機能を備えたものが、バランスマルチシットという名前で市販されているようなので、腰痛や肩凝りに悩む人達は、使ってみるとよいと思います。神社で最も神聖な、神様が座る場所に置かれている座具に通じる、非常に優れた設計思想によって作られた、日本人の体に最も合った座具ですから、腰痛や肩凝りを抱えて悩んでいる人、姿勢良く長時間座りたい人は、試してみても損はないでしょう。

 一般の正座椅子には、幾つかの欠点がありますが、最も気になるのは、膝の下にクッションがないものが多く、また膝を曲げる角度が大きすぎることです。そのため、このタイプの正座椅子に長時間座り続けると、無理に曲げられている膝が痛くなるケースがあることです。その点、耀姫用の正座椅子や、バランスマルチシットは、膝下に柔らかいクッションがあるので、無理なく長時間座れて、どこも痛くなりません。又、お尻を乗せる座面が、適度に前傾しているため、すっと背筋が伸びた姿勢を、無理なく長時間維持できるようになっています。猫背に慣れている人は、姿勢を保つ筋肉が不足していて、気付くと猫背になっていたりするようですが、『着座生活環境を改善しよう。アクティブ・サドルチェア』 で書いたように、定期的に正座椅子のうえで、前後左右に体を揺らす運動をすることで、筋肉が付いてきて、自然に良い姿勢を長時間保つことができるようになるようです。

 じつは、この話を氏子達に向かってしたら、大勢の人が正座椅子を求めて父のところに殺到してしまいました。私が頼めば、どんな無理難題でも引き受けてくれる父ですが、氏子集団に向かっては容赦がありません。機嫌を損ねたらしく、こともあろうに「オカルトは嫌いだ」と、故意に意味不明の言葉を言い放って、追い返してしまったそうです。困ったものですね。でも、入手困難だからといって、うちの神社の奥座敷から、勝手に正座椅子を持って帰らないでくださいね。バランスマルチシットでも、同じような座り心地が得られるので、必要な人は市販のものを購入するのが良いのではないかと思います。

ネットゲームが高じてネカフェの駐車場でリアルバトル?

周りからちょっとした事件として扱われているようなので、この場でも事情を説明しておきます。

トラブルを起こしたのは、まだ中学生の、私の弟の一人です。父親は同じですが母親は異なります。うちの一族は基本的に母系継承の社会なので、母親が伝承集団に所属していない場合、神道の文化に深く触れることなく、普通の子として育てられます。私のように、母親が海外の生まれなのに、継承者として育てられるケースは非常に稀です。その弟は、神道の世界に深く触れることなく育てられた子なので、耀姫のことを勘違いしていて、それが今回のトラブルの原因になったと思われます。

耀姫は、神社に伝わる神話の伝承をもとに斎女(依憑きの巫女)がイメージした架空の人格です。もちろん正真正銘、幾つかの神社に正式に祭られている姫神で、精神文化的な存在です。巫女舞などによって自己催眠状態になった斎女と一心同体になることで、人の目に見える状態になります。姫神は、ものの考え方や言動が人間とは大きく異なる一面があり、神の目線で行動し、託宣します。

トラブルが起こったのは、遠縁の親戚が運営している某ネットカフェの駐車場です。某ネットゲームの戦闘内容に納得がいかなかった弟が、神がかりしてプレイするのは卑怯だと言って、こともあろうに、私に対してではなく、耀姫に対して食って掛かってしまったのです。

神がかりはトランス(変性意識)状態なので、脳のリミッターが解除されます。たとえば、車に轢かれそうになって死を意識した瞬間、人はそれまでの一生を追体験すると言われています。走馬灯のように記憶が駆け巡る、という表現がよく使われるようです。これは、生命の危機を直感したことで、本能的にピンチを切り抜ける方法を、過去の記憶の中から引き出そうと、通常では考えられないスピードで、脳内を超高速検索する過程が意識された結果です。人間の脳はオーバーヒートを防ぐために、普段は作動速度に制限がかかっていますが、生命の危機に直面すると、リミッターが解除されて超高速で思考できるようになるのです。交通事故に遭った瞬間の、ほんの数秒の出来事を、数分間かかった出来事のように、スローモーションで体験する人も稀にいます。これは、実際に時間が遅くなったのではなく、脳の情報処理の速度が早くなったので、相対的に時間が経つのが遅いと感じているだけです。生命のピンチを直感することが引き金になるので、自分にそう感じさせるような危険な修行を行なって、この種の能力を引きだす技法を習得するのが、うちの一族の男衆の修験道の修行の体系です。対して、斎宮制度に代表される、兄である男王を妹である女性神官が補佐するパターンの、卑弥呼の時代の風習を色濃く伝承している、女性神官が男性神官より上位にあるうちのような、古風な神道の一族の世界では、イメージ・トレーニングを用いた修行体系が整備されていることが多いようです。

脳のリミッターの解除は、自己催眠によってトランス状態になったときにも起こります。顔の産毛を風が撫でる感覚すら、時間が間延びした状態になるため、神がかりすると、まるで空気がゼリーのように感じられます。その弟も、リミッターが解除される効果は何度か体験しているので、私に憑依した状態で耀姫が操るネットゲーム上のキャラが、あまりにも人間離れした反射神経で操作されていると感じて、私がリミッターを解除していると判断したようです。PVPをやっても絶対に勝ち目がないと感じた弟は、女に負けて悔しい気持ちで一杯になって、ネカフェの駐車場で、こともあろうに姫神の耀姫に食って掛かってしまいました。日本の神社に祭られている神々は、昔から祟ることが知られていて、耀姫も例外ではありません。迷信深い昔の人々の間では、本気で怒らせたら命を奪われると考えられてきました。神社に祭られている神様に対して、卑怯者呼ばわりの無礼を働くなど、通常はありえないことです。もちろん、人間である私に向かって、腹立ち紛れに負け惜しみを言うのは、姉弟間なら なんら問題はありませんけどね。

耀姫の付き人として一緒にいた妹や従兄弟達4人が、興奮した弟を制止しようとしたのですが、殴り倒されてしまいました。弟は耀姫のほうに向きを変えると、側頭部を蹴ろうとしました。一瞬の回し蹴りですが、脳のリミッターが解除された状態の私に憑依している耀姫にとっては、スローモーションの世界です。弟の蹴りはかすりもせず、勢い余って舞い上がった体の上下が逆さまになって、まるでパイルドライバーのように、頭から駐車場の舗装面に落ちてしまいました。意識がなかったので、病院に運ばれていきました。

この言い争いを見ていた、私達が理事を務める私立の学園の高校生達が、ネットゲームのトラブルがリアルファイトに発展した、という噂を友人の間に広めてしまったので、ちょっとややこしいことになっています。耀姫は弟の体に一切触れていないので、リアルファイトは成立していないと兄達は解釈して、高校生達にそのように説明して口止めしました。しかし、話を聞いた周りの人々は、回し蹴りから上下逆さまの状態に人間の体が浮き上がるなど、普通ではありえないと受け止めているようです。お年を召した氏子の間では、姫神の霊力と解釈するなどの混乱が認められます。若い人達は非科学的な発想を持ちたがらないので、合気道の達人になると、相手の体に触れることなく倒せることから、その系統の技だろうと推測しているようです。

高句麗国の王家が成立した東明聖王の時代から、二千年以上男王の武芸を精神的に支えてきた守り神という一面も持っている姫神なら、現代の合気道の達人以上の高度な技を使って祟ることも十分にあると考えている人もいるようです。男王を具体的に補佐するもっとも分かりやすい手段は、脳のリミッターを解除して、神通力と見間違えるような火事場パワーを導き出す、ネットゲームで言えばバッファーに相当する役割でしょう。兄である男王を、妹である女神官が守護するパターンは、天皇を宗教的に支える斎宮制度や、琉球王国祝女ノロ)と呼ばれる女司祭の長、聞得大君(チフィジン)が行なっていた祭政一致体制にも見ることができます。その源流は東アジアの広い地域に伝わるオボ(塚)信仰にあると見る研究者もいます。その原初的な姿は、脳のリミッターを解除するバッファーだった可能性が濃厚なのです。

うちの宗教法人の大学の教授陣は、駐車場の防犯カメラの画像から、弟の体に加わった加速度を推定して、耀姫の気が、蹴り上げる動きを作り出す弟の運動神経に干渉した結果、蹴り技とは異なる動きが生まれたと結論しています。つまり、気功治療などと同じ、気が伝達する精神的な遠隔作用の結果、運動神経が乱されてオーバーアクションになって、勢い余った状態で自爆したという解釈です。合気道の世界では、襲い掛かってくる相手に触れることなく倒す系統の技を、普通に見ることができます。空気投げなどと呼ぶ人もいるようです。合気によって技を受ける人の脳の運動神経が影響を受けるとする解釈は、他校の量子脳力学が専門で合気道にも精通した某教授なども著作物の中で唱えているので、オカルト現象や似非科学とは認識されていません。親戚の道場で普通に見られる現象です。ユーチューブで他の流派の動画を見ることができますが、武道の世界を知らない人から見ると、信じられない超常現象のように見えてしまうため、話題になることがあるようです。合気の力の伝播は、脳のリミッターを解除した状態で行なうと大幅に増強されるため、圧倒的な技量の差になって現われる点も、勘違いを生む原因になっているようです。

幸いにも耀姫は、弟に対して、祟り神の一面を見せませんでした。子供が相手ということもあり、手加減したのでしょう。外の家で育った子に対して、うちの一族のルールをそのまま当てはめるわけにはいきませんが、古い時代なら、神に向かって死に値する無礼を働いたとして、その場で斬首になってもおかしくないでしょう。PVP姫神に負けたという事実を、女に負けたと弟が取り違えてしまったことが、トラブルの原因です。あの子は、本格的な神道の世界観に触れたことがなく、修行を積む機会もなかった、まだ中学生の心得違いした腕白坊主です。私と耀姫は、雰囲気がまるで違う、人と神なので、混同する人はまずいません。ところが、弟の頭の中では、神がかりしていても自己催眠現象なのだから、私が姫神を演じているだけで中身は同一人物、という間違った解釈が生まれていたようです。こうしてみると、科学的視点からの解釈は誤解を生むため、昔ながらの神様の霊が降りてくる、というオカルト発想の認識を持っていたほうが、間違いが起こらなくて良いのかもしれません。伝統的な精神文化が抱えている、ちょっと困った解釈上の問題点ですね。

一族の長老が判断することで、私が言及する問題ではありませんが、おそらく適切な教育を施すということで、一件落着でしょう。たとえネットゲームの土俵の上でも、人が神に勝つことは困難なようです。お爺様は、この一件を耳にして血相を変えて、「耀姫様も、対戦ゲームなどと、お戯れをなさらないように」と諌めたくてしかたがないような顔をしていました。もちろん、本能的な畏怖の念が先に立って、誰一人姫神に対してそんなことは口にできませんけどね。父は、精神鍛錬も積んでいないのに、耀姫を恐れることなく蹴り技を繰り出すとは、さすが自分が選んだいい女の子供だと、感心していました。駐車場の画像を見て、鍛えれば強くなっただろうが、この年から訓練を始めても遅すぎる、と残念そうでした。それ以前に、自制心の欠落や粗暴な振る舞いなどを、矯正しなくてはなりません。

というわけで、本人はネットゲームをめぐって姉弟喧嘩をしたつもりが、相手が神社に祭られている本物の神だったので、事が大きく受け取られてしまった、というのが実際のところです。神との対戦は、人の側から望んでも叶わないことですが、私とリアルファイトをしたければ、一緒に親戚の道場に遊びに行って手合わせしたいと申し出ればいいのに、激高してネカフェの駐車場で喧嘩を始めてしまったのが間違いのもとでしょう。相手が一族直系の濃い血筋の者だったとはいえ、本格的な武術を学んだことがない子供に、いいように倒されてしまった、耀姫の付き人役だった兄弟達は、今大変な叱責を受けています。もちろん、あの弟は非凡な才能を持っているため、情状酌量の余地はありますが、本来あってはならないことですからね。

人間の知性は動物の知能とは異なるもの(隠された文化の継承)

今から10年ほど前、中学生の頃のことですが、奥池の夏の家の近くで、痩せ衰えていく猫を見かけて、セミの捕り方を教えてあげたことがありました。猫って、犬のように躾けることは出来ない動物ですが、人がすることをじーっと観察していて、レバー式のドアの開け方を覚えたりするんですよね。猫の前で、故意に何かを警戒するような緊張した仕草をすると、何が起こっているのかと、目をきょときょとさせることがあります。だから、猫の注意力を引き出すのは簡単です。そうしておいてから、さっとセミを捕まえて、食べる仕草をして見せたのです。

数日経って、私の部屋の窓辺に現われたその猫が、セミを1匹置いて行きました。次の日もまた1匹。その夏の間はほぼ毎日のように置いていったので、窓辺は蟻の行列も出来ていました。妹達が「猫の恩返し?」と不思議がってました。その猫は、私がセミを食べると本気で信じていたようです。

うちで飼っている犬達は、自分で好きな缶詰を選んで父が作ったオープナーに投げ込んで、好きなときに食事をします。そのオープナーの使い方を犬達に教えるときに、私はトントンと叩いたり、さまざまな仕草をするのですが、犬は缶詰を開けるのに必要な動きだけを覚えて再現します。ところが、人間の子供にオープナーの使い方を教えると、私がトントンと叩いて注意を引く所作や、機械の動作を確認するために指で触る仕草といった、直接缶詰を開けるのに必要のない動きまで、そっくり真似をするのです。私は、父の義手や義足の製作を子供の頃から手伝ってきたので、指で触って振動を感じ取るだけで機械の調子が分かりますが、親戚の子はそんなことなど分からないのに、指で触る仕草を模倣するのです。

動物と人間では、模倣の学習に、このような差が認められます。目的を達成するのに必要のない、意味のない仕草まで模倣するのは、ある意味迷信の発生を意味します。しかし、子供にとってその時点では迷信でも、その奥には、成長していけば気付くだろう、機械の調子を見るという、隠された意味が潜んでいるんですよね。犬達には考えも及ばない、隠された物事こととの関連付けを想定した、一見無駄に見えるような意味のない仕草を模倣し、後々学習が進んだ段階で、隠された情報を発見して理解を深めていく予定学習の能力は、人類の脳が進化していく段階でも、大きく貢献した可能性が指摘されています。

科学知識が発達する前の精神文化である宗教は、一見すると無意味な風習、迷信だらけの知識の体系に見えます。ところが、よくよく観察していくと、その背後に隠された意味が存在しているケースが多いのです。実用本位、実証主義もいいところはありますが、人間の知性は、働いて食事して寝る単調な毎日を繰り返して、ただ表面的に生きていくためだけに存在しているのではないようです。先祖から受け継いできた精神文化のなかには、もっと深い意味を持った知性の領域が存在しているように見えます。それを汲み取ることなく、優れた伝統的な文化を、表面だけ観察して、迷信の塊と決め付けてしまう人が多いことを、残念に思います。

風邪やインフルエンザに対抗するアロマテラピーと袖炉のお話

今年も風邪やインフルエンザが流行する季節になってきました。私立の学園の理事をしているので、学級閉鎖が起こらないように気を配っています。アロマテラピーの分野の研究が進んで、細菌やウイルスに対して植物が持つ香りの成分がかなり有効なことが分かってきています。試しにグーグルでネット検索してみたら、上位にアロマスターというサイトがヒットしました。抗菌・坑ウイルス作用を持った香りを病院施設内に散布するアロマディフューザーを販売しているところみたいです。こういったものを用いて風邪やインフルエンザその他の感染予防に積極的に取り組む病院や介護施設が増えてきているみたいです。じつは、メーカーは異なりますが、うちの大学病院や学園にも、必要に応じて似たような装置が配置されていて、患者や子供達を守るシステムが機能しています。

樹木やハーブが持つ良い香りが、悪い菌やウイルスの活動を阻止してくれるのは、それら精油成分は、植物が身を守るために生産している物質だからです。殺菌・抗菌作用については一般の人でも理解は容易だと思いますが、ウイルスの活動を止めるメカニズムのほうは、ちょっと分かりにくいと思います。じつはウイルスって、他の生物の細胞の中に寄生していないと、増えることが出来ないんですよね。人から人へと感染するときは、宿主の細胞から出ないといけません。宿主から飛び出したときに無防備だと、紫外線などの作用であっという間に壊れてしまって、活動できなくなるウイルスもいます。そこで、インフルエンザウイルスなどは一工夫して、糖タンパクの殻作って身を守るようになっています。その殻には、再び人の体に入り込むときに、免疫系をすり抜ける働きをしたり、細胞の壁を突破して内部に侵入するための、さまざまな機能が搭載されています。空気中を漂う植物の香りの成分がウイルスの殻に吸着すると、感染に必要なそれらの機能が使えなくなってしまうため、ウイルスは感染力を失うのです。

近年流行しているアロマセラピーは、西洋のハーブや香水を用いた古い民間療法から生まれてきたものです。昔から、ローズマリーなどのハーブには殺菌作用があることが知られていました。もともとは、お肉の臭みを取り除く香り付けとして使っていたのでしょう。やがて、燻製などの保存食を作るときに、ハーブや調味料が含まれた液に漬けるようにすると、お肉が痛みにくくなることが経験的に知られるようになり、いろんな香りを持つ植物の効果が試されていき、製造ノウハウの発達に伴って、殺菌作用を持つハーブに関する知識も豊かになっていったようです。植物の香りには病魔を退ける、魔除けの力が備わっていると信じられ、香水を聖水として使うようになっていったのも、長年培われた経験からでしょう。つまり、香水の聖水って、根拠がないただの迷信とはちょっと違うみたいです。

じつは日本のお風呂の風習も、アロマセラピーに近い知識から生まれてきたものです。風呂ってお湯に入るものだと思っている現代人が多いのですが、古い時代の日本のお風呂は、湯船につかるものではなく、蒸し風呂だったようなのです。だから、風呂という文字には、水に関連した要素が含まれていませんよね。蒸し風呂ですから、熱した石の上に殺菌作用を持つ成分をたくさん含んだ生木や、適当な海草を乗せて、噴出すフィトンチッドの蒸気を浴びるようにしていたのです。一種森林浴にも近いものですね。今でも、ヒノキの湯船を好む人は多いようです。ヒノキの良い香りには、抗菌作用があるため風呂桶が腐りにくいだけでなく、吸入すると免疫機能をアップする効果も報告されています。今でもお正月に神社やお寺に初詣に行くと、煙が立ち昇る大きな火鉢が置いてあるのを目にすることがあると思います。あれが、古い時代のお風呂の名残なのです。もともと、お風呂って服を着たまま大勢の人が一緒に入るものだったんですよね。うちの神社に関連する神道の修行用の施設には、昔ながらの湯帷子を着たまま入る蒸し風呂が存在します。冷たい井戸水で禊をしたあと、体温が下がったままの状態では風邪を引く可能性もあるからなのでしょう。蒸し風呂で体に良い香りを纏いながら暖を取るようになっているのです。もちろん、その間もイメージトレーニングを行ないます。神社やお寺で、大きな火鉢から出る煙を体に浴びると、一年間無病息災でいられるって言われています。一回浴びた程度で本当に一年間効果が持続するかは疑問があるけど、もしも参拝客の中に、風邪を引いている人がいたとして、咳やくしゃみと一緒に飛び出した菌はどうなるでしょう? 殺菌されるか、活力が落ちて感染力が弱くなった状態で、他の人の体内に吸入されるので、免疫力をつけるのに役立つ働きをしてくれることもあるようです。そうすれば、風邪を引かない効果が、ある程度の期間持続することが、期待できないわけではないでしょう。予防医学の観点から設置されている医療用の器具ではないので、データを集める人は誰もいませんが、可能性は十分にあります。焚かれる護摩から出てくる、抗菌・坑ウイルス作用を持った煙のなかから、有効成分を取り出して、それを散布する冒頭で紹介したようなアロマディフューザーが作られているんですよね。神社などに伝わってきた伝統的な技術が、科学的に原理を解明されて、21世紀に復活したと言うことも出来るでしょう。

日本に伝わる民間療法の中で、迷信染みていると一般に認識されているものに、加持祈祷があります。病人のいる部屋に祭壇を設けて、大量の護摩を焚いて祈祷するのですが、あれって本当に迷信だと思いますか? だって、樹木から出る抗菌・坑ウイルス作用を持った精油成分が、病室を満たすんですよ? もうお分かりの方が多いと思いますが、健康法として普及していた蒸し風呂を、病室に持ち込んだだけで、現代の病院で行なわれている感染対策の一つと、原理は同じと考えるのが妥当でしょう。アロマセラピーの知識がまだ十分でなかった20世紀の人々が、勝手に非科学的な迷信と思い込んで、色眼鏡で見ていただけのようです。さらに祈祷ですが、じつは人間の脳から免疫系に対して出されている指令は、好きな歌を聴いたりすると調整されることが、身心医学の発達とともに明らかになってきています。だから、祈祷の効果を信じている人々が聞けば、病は気からの部分に暗示として作用して、免疫活性を改善することも可能なのです。ただし、古い宗教の文化と馴染みが薄い現代人の感覚では、祈祷の言葉がうるさく感じられることもあるでしょう。そういう人は、自分が好きな流行歌を歌ったほうが、はるかに気分が良くなって効果的だと思うんですよね。心療内科の教授にデータを録らせてみたところ、好きな音楽のほうが脳から出されるホルモンなどの命令が改善されることが分かっています。だから私は、知人の病室にお見舞いに行ったら、その人が好きな歌を歌ってあげるようにしています。耀姫の言霊を響かせる声は催眠暗示効果が非常に高いのですが、病院で超音波成分が豊富な声を出すと、寝ている他の病人を起こしてしまうので、静かに鼻歌程度の音量で歌うだけです。それでも、医薬品ではちっとも反応がなかくて、内科医がどうしたものかと思案していたのに、歌のパワーで免疫活性が改善されるデータが得られて、助かったって言われることもあります。もちろん、神社に祭られている耀姫に神がかりしたトランス状態で私が歌う場合だけ効果が現われるわけではなく、普通の人が自分で好きな歌を歌っても、効果があることが確認されています。つまり本来は、宗教の文化とはまったく無関係な現象です。このような形で、伝承されてきた日本の文化の良さが、科学的視点から解明されて、21世紀にふさわしい新しいライフスタイルに姿を変えて、再び普及していく動きが見られます。

一昨日、ある講演会の会場で、あまりにも激しく繰り返し咳き込んでいる人がいたので、休憩時間に私が廊下に出て袖炉(服の中に入れておく携帯香炉)に点火していたら、建物の管理者が来て、「他の人からクレームが出たからやめて欲しい」と言われました。そんな認識不足の人がこの集まりにいるの? と私と同じ疑問を感じた付き人が「誰ですか?」と尋ねても返事がなく、けっきょくクレームが出た話は嘘だったことが判明しました。管理者は政治家からかかってきた電話に真っ青になって謝ってましたが、そのあとで、私のところに謝罪に来ようとしました。付き人が立ち塞がって「これ以上の無礼は許されません」と一言で追い払いました。タバコの煙が有害なことは、誰もが認識していますが、日本の香道の健康効果は、一般の人にまだ十分理解されていないため、抗菌・坑ウイルス作用を発揮することや、浴びると健康になることは、ある程度予備知識を持った人でないと分からないようです。その日の講演は、感染症対策についての専門的なものだったので、アロマテラピーの効果について知らない人は、会場にいないはずでした。したがって、クレームが出る可能性はなかったのです。咳が止まらなかった人は、袖炉を燻らせていることを管理者とのやりとりから知って、私のところに来て、女狩衣の肩口の隙間から立ち昇る香りを吸って、落ち着きを取り戻していました。もちろん、手かざしして温感を与えてあげたことも、相乗効果として働いたようです。

私は子供の頃から一度も風邪を引いたことがありません。小学校・中学校と私がいるクラスだけは学級閉鎖になることがなく、しかも私の席を中心に欠席者が出ないことが、同級生の間で知られていました。その理由は、常に袖炉を携帯して香りを燻らせ、香木の扇子を用いて身の周りを抗菌・坑ウイルス作用のあるフィトンチッドで満たしていたからでしょう。愛用の扇子に使われている香木は、中国雲南省の高山にしか生えない樹齢数千年の仙樹で、中国の皇帝から日本の朝廷に贈られたものとされています。貴族に下げ渡され、応仁の乱で京都が焼け野が原になったときに、疎開してきた貴族が神社に奉納して、神宝になったとする記録が残っています。後世になってそれを薄く削って扇子の形に仕立てたものです。香りの効果は、薄く削って組み立ててから3年から5年なので、扇子自体はそう古いものではありません。削りかすは練り物の燻物に混ぜ込まれて、袖炉で焚かれます。

本来の香木の使い方は、聖徳太子の絵などで木笏を手に持っている姿から理解できると思います。メモ用紙兼アロマセラピーのアイテムとして使われていたようです。メモの数が増えると短冊のように紐で束ねて使うようになり、やがて扇子が日本で発明されたとされています。昔の人々が、香木に対してどのような認識を持っていたかは、「うちわ」という言葉の起原を辿れば見えてきます。もともと中国の皇帝を仰ぐための、巨大な扇だったようです。虫が嫌う香木で作られた扇を用いることで、ハエや蚊などの虫から皇帝を守っていたようです。そのフィトンチッドが、アロマテラピーの効果を持ち、病魔を寄せ付けないことが経験的に知られるようになっていったようです。日本に扇が伝来したときに、虫や病魔を討ち払うアイテムと説明されたので、討ち払うを短縮してうちわと呼ばれるようになったのです。

私が愛用している扇子に使われている雲南省産の香木は、今ではワシントン条約で輸出が制限されているらしいのですが、抗がん剤に使える成分なども検出されているので、それなりの効果を発揮してくれているようです。小学校・中学校と一緒に過ごしていた同級生達は、私の周囲だけ風邪を引いて休む子がいないことを、しだいに意識するようになっていきました。神社の娘だから、何か見えないバリアーか結界のようなものが存在しているのだろうと、薄々思っていたようです。中学のときに、どうして私の周囲だけ風邪を引かないのか興味を示した教師がいて話題になったので、私がうちわの由来を説明したことで、それまで神秘のベールに包まれていた見えないバリアーの正体を同級生達が知るところとなりました。私が片時も手放さずに動かしている扇子が、雅な雰囲気を作り出すお嬢様アイテムではなく、抗菌・抗ウイルス作用を持つ精油が正体の、物理的な見えない結界を形成していることを知って、あっと驚いたようです。神社で売られている無病息災の木のお守りも良い香りがするという話が校内に広まって、受験生を中心に木のお守りを買い求める動きが生まれ、その日のうちに完売してしまいました。

神社で売られている香木のお守りから出るフィトンチッドの量は、たいしたものではないので、予防医学の観点から見て、本当に効果があるかは、やや疑問符が付きます。今ではアロマディフューザーがあるので、無病息災のお守りが病魔を遮る結界を生み出す働きを科学的に調べようとする人はいません。お守りって、基本的には、精神を強くするための心の支えとなるアイテムです。だから、お守りの香りは、精神に作用する目的で付けられていると考えるべきです。東南アジアの国々で流行している嗅ぎ薬程度には、機能するでしょう。実際に、フィトンチッドの対病魔結界を形成するときは、扇子だけでなく、袖炉から出る香りの成分も、かなりの比重を占めています。もしも木のお守りや木笏だけで十分なら、わざわざ携帯香炉を衣類の中に入れて持ち歩く風習は生まれなかったでしょう。袖炉は、袖やポケットの中で転がってどんな方向を向いても、常に燻炉が上を向くように龕灯(がんとう)返しの仕掛けが入っています。七宝焼きの袖炉の例はここにありますが、愛用しているものはもっと構造が複雑で、たとえ大きな衝撃が加わっても炭団の火がこぼれて飛び散らない安全な構造になっています。というのは、戦国時代の日本で主に水軍が用いた焙烙玉(ほうろくだま)という名前の手榴弾の導火線に点火する携帯用の火種としても使われていたからです。弾薬を積んだ揺れる軍船の中で、ちょっとしたことで火が飛び散ったら、危なくてしかたありませんよね。薫法についてはここのサイトに情報があります。ただし、このページのグラフのように短時間で温度が下がることはなく、3時間程度香りが出続ける仕組みになっています。愛用の銀製の袖炉は、神社の宝物蔵にある古いものをベースに父が図面を起こして、親戚の飾り職人が作った透かし彫りの球に、私が有線七宝の装飾を施したものです。洋装のときは袖ではなくて、スカートの下に履いて適度な膨らみを持たせる働きをするペティコート(アンダースカート)のポケットに入れています。

今年も風邪やインフルエンザが流行する季節になってきたので、学園内のアロマディフューザーの総点検を行なっています。でも、学校にいくらフィトンチッドのバリアーを張っても、通学のバスや電車の中で病気の人と接していれば、感染する可能性がありますよね。かといって、私のように、神社に伝わる古い慣習に従って、昔ながらの袖炉を持ち歩くのは、一般の生徒にとって負担になります。そこで、指定した種類の香油を染み込ませた木の板を裏側に仕込んだネクタイやリボンを着用することになっています。みんながバラバラの香りを身に付けると、それが混ざって凄い匂いになることがあるので、学校側で成分を指定しています。そうそう、このような話を聞くと、ネクタイやハンカチなどの布に、直接アロマテラピー用の精油を染み込ませて使おうとする人がいますが、これは危険です。エステティックサロンで衣類やタオルが自然発火を起こす事故が続発し、問題となったことがあります。精油の中に含まれる不飽和脂肪酸などが重合を起こして酸化熱が発生し、繊維の断熱効果によって熱が蓄積して発火点に至ったことが原因とされています。乾燥機にかけて反応が加速して発火点まで温度が上昇して自然発火したケースもあるようです。揮発性の高い植物の油は、比較的低温で空気中の酸素と化学的に結びつく反応が起こりやすく、自然発火して燃えることを絶対に忘れてはいけません。

ネクタイというアイテムは、現在では装飾的な意味が強いようですが、もともとはもっと幅が広い、首を保護する布だったんですよね。喉仏のところにあるリンパ腺の温度が下がる状態が続くと、免疫細胞の活力が低下して風邪を引きやすくなるので、本当は常時薄い布で覆って冷たい風が当たらないように喉を守る使い方をされていたようです。NHKの有名なアナウンサーなども、テレビに映らないときは、薄布を首に巻いているようです。本当は、長時間屋外で寒い風に当たりながら獲物を追跡する狩りをしなければならない成人男性は、喉仏が冷えないようにヒゲが生えているのですが、現代人は何を勘違いしたのかこれを剃ってしまいますから、ヒゲのない子供のようにみえる幼態化したつまらないファッションを好む男性も、女性と同じように首に薄布を巻いていたほうが良いのです。ただ、そうすると同性愛者のファッションのように受け取る人もいるため、学校の制服として採用するわけにはいきません。そこで、代わりにネクタイやリボンの裏側に仕込む木片に、精油成分を染み込ませて発散させる方法が採られているのです。似たような発想で作られた市販のものとして、殺菌力が強いユーカリのエキスなどを主成分とする、胸に塗る風邪薬ヴィックス・ヴェポラップがあります。体で温められた精油成分が漂って吸入されることで、風邪の症状を緩和する効果がうたわれています。でも、残念ながら予防医学の観点から作られたものではないようです。日本はお守りを持ったりお風呂に入るといった、予防する発想からさまざまな風習やアイテムが発達してきたのに対して、西洋は治療する発想が中心になっているような印象を受けます。アロマディフューザーが病院や介護施設に普及して、予防医学が発達していく動きが見られるので、今後は違ってくると思いますけどね。

私が使っている袖炉用の燻物は、一般の精油とはまったく違う性質のもので、180度ぐらいの温度で香りを放出するようになっています。これを携帯懐炉などで代用するアイディアもあるのですが、やはり持ち歩くのはややこしいと思います。開放的な和装と違って、気密性が高い洋服の中に袖炉を入れると、場合によっては酸素不足になって、毒性が強い一酸化炭素が服の中に発生する可能性もありますからね。私のペティコートのポケットは、汗が発散しやすい通気性の良い素材で出来ているし、スカートは開放的な構造なので、まったく問題がありませんけどね。

最近、充電式カイロとしてエネループ・カイロが市販されているので、これと精油を染み込ませた木札のお守りを組み合わせて、即席の携帯型アロマディフューザーとして使う人もいるようです。神社で売られている無病息災のお守りが、古い伝統的なスタイルから離れて、ハイテクと組み合わされた新たしい感染予防アイテムとして復活する動きが見られるようです。すぐに精油成分が風で飛ぶ、服の外に露出したネクタイやリボンよりも、服の中に一定時間適度な濃度で滞留しながら、体温であたたまった空気と一緒に首筋の隙間から周囲にフィトンチッドが徐々に発散していく充電式携帯型アロマディフューザーのほうが、良い効果が期待できると思います。新しいライフスタイルですから、現代人の創意工夫でどのような推移を辿るのか、見ていて楽しみです。もちろん、私の普段の服装は、女狩衣に一本刃の高下駄の姿ですから、昔ながらの袖炉と仙樹で作られた扇子の組み合わせという、平安の国風文化の時代にタイムスリップしたような古風なスタイルのままですけどね。

着座生活環境を改善しよう。アクティブ・サドルチェア

現代人は、椅子の前に座って生活する時間が非常に長くなってきています。そのため、見過ごされがちな着座生活環境にも気を配る必要があると思います。市販されているバランスチェア達は、楽に正しい姿勢を長時間保って集中力を維持できるため、優れた学習椅子として一般に普及しています。でも、それだけでは、じつは足らないんですよね。人間の体は、長時間一定の姿勢を維持するように出来ていないので、どうしても歪みが生じることがあるようです。

じつは、人間が創造的な活動を行なうときには、集中力を発揮するよりも注意散漫でいるほうがよいことが分かっています。人間の集中力は、「不必要なノイズのような刺激を無意識のうちにカットする」能力、つまり「潜在抑制」(Latent Inhibition)力の測定によって、数値化して観察することも出来ます。ハーバード大学トロント大学で2003年頃に行なわれた面白い実験によって、潜在抑制機能が低い人、つまり注意散漫な人ほど、作業記憶(ワーキングメモリ)の中に多彩な思考を保持していることが明かになりました。そういった人の脳は、外界から入ってくるさまざま情報をフィルターにかけるのが苦手なので、なんでもかんでも意識してしまい、一見関係がなさそうな事柄で頭の中が溢れかえっている状態です。ところが、「優れた創造的な業績をあげた」と分類された学生達に、潜在抑制の機能障害が7倍の割合で見つかったそうです。潜在抑制機能の低さが創造性の高さに結びつくのは、頭の中から溢れそうなぐらいたくさんの考えを、意識して分析し、価値ある答えを探求しようとする意思を持っている場合に限られる、という結論が導き出されました。

以上のことから、創作活動や創造的な活動を行なうときには、じっとしないで、ある程度注意散漫な状態にしたほうがよいことが分かります。たとえば、机の前に座っているときよりも、歩き回りながら、あるいは屋外を散歩しながら考えたほうが、よいアイディアが思い浮かんでくる人もいますよね。注意力散漫で有名で「優れた創造的な業績をあげた」人の代表格は、発明王エジソンでしょう。彼は小学校に入学した直後から、授業中そわそわしてあまりにも落ち着きがない子として、問題視されたようです。おそらく、今で言う 注意欠陥・多動性障害(ADHD)のような状態だったのでしょう。先生の勘気に触れてあっという間に小学校一年生で放校処分になってしまったようなのです。でも、教育熱心な母親は子供の才能を信じて、長所を伸ばすように教育していき、結果的に発明王に育てあげることに成功してるんですよね。注意散漫は悪いことではないと彼は自らの個性の長所を実証して見せたのです。

以上のことと、現代人が長時間椅子に座るライフスタイルを、繋いで考えてみましょう。じーっと同じ良い姿勢で座り続けることで、集中力を発揮できるバランスチェア達は、知識を身に付ける受身の学習には役立っても、能動性を発揮して、創作活動や創造的な仕事をするときにはどうでしょう? 私は、機能不足の印象を受けるんですよね。じつは、子供の学習椅子として日本で一般に普及しているタイプと違って、北欧家具として作られている本格的なバランスチェアのなかには、椅子を前後に揺り動かす機能を備えていたり、複数の姿勢で座れるなど、体を一つの姿勢に固定することなく動かせる設計が施されたものがたくさんあります。北欧で生まれた元祖のバランスチェア達には、意識的に注意散漫な状態が作れる工夫が施されているのです。

能動性を発揮して創造的な活動を行なうときには、椅子を揺らしたり、姿勢を不安定な状態にして、モゾモゾ体を動かしているほうが良いようです。座禅の修行をする禅宗のお坊さん達は、結跏趺坐したら何時間もじーっと動かないで公案と対峙していますが、修行はそれだけではないようです。歩行禅といって、歩きながら考える修行も行なっています。つまり、作業記憶(ワーキングメモリ)を積極的に変化させる修行のカリキュラムが存在するのです。では、一般の人は椅子に座るライフスタイルの中で、どのような工夫をして、潜在抑制の機能が低下した注意散漫な状態を作ればよいのでしょうか? 一つの方法は、椅子に座って体を調整する、ゆっくりとしたなにげない体の動きができるように工夫することです。

5センチぐらいの厚みがあるエアークッションを、普通のキャスター付きの椅子に乗せて、その上に座って、好きな音楽を聴いてリズムを取りながら、体を適当に前後左右に揺り動かしたり、床を蹴ってキャスターで椅子を前後左右に動かしたり、部屋の中を動き回るようにするだけでも効果があります。ユーチューブを見ていたら、参考になる動画を見つけたのでリンクしておきますね。

あまりにも単調な体の動きですが、これを意識して行なうのではなく、気分転換に音楽を聴きながら自然に行なうのが理想でしょう。ビデオのなかに登場する座面が傾く特殊な椅子が、今後普及していくかは分かりませんが、とりあえずはエアークッションを椅子に乗せても、似たような運動が可能だと思います。椅子の上で不安定な感覚を覚えるようにすることが目的ですが、椅子から落ちないようにしてくださいね。

無意識に椅子の上で体を動かしていると、すぐ気になってくるのがキャスターの存在です。「出来ればもっと自由に足を遊ばせたいのに邪魔だな」と思う人も多いでしょう。そんなときは、天才?発明家の父の出番です。義手や義足の製作者ですが、私がオネダリすれば、いろんなものを作ってくれます。今から十年ぐらい前のこと「ねーねー、この椅子の5本足のキャスター邪魔なの。取ってちょうだい。」と、一見無理難題?とも受け取れる変なおねだりをしてみたら、ホームセンターに行ってヤザキイレクターを買ってきました。自転車のサドルに三輪車のような三本の足を付て、その先端にフリーキャスターを取り付けた椅子を作ってくれました。適当な長さにパイプカッターでパイプを切っては金属ジョイントで組み合わせていき、アーレンキーでネジを締めるだけです。非常に効率の良い製作方法だなと思いました。サイズを私に合わせて、直進安定性を出すための振れ取りを終えるまで、3時間かからないスピード製作。娘思いの父親の鏡みたいな、便利に使える人です。なんでも父の発明仲間の一人で、広島県でタウンモビリティの福祉活動をしている、椎間板ヘルニアで足に軽度の麻痺が出ているとある方が、運動不足の解消を目的に設計なさったものだそうです。了解を得てほぼそっくりコピーしたもので、「出来が良いから、あまり改良の余地がない」と話していました。あれから10年経って、少しずつ改良が進んで来ていますが、基本形はほとんど変わっていません。

今ではアクティブ・トレーニング・チェアを略してトレチェア、またはアクチェア、アクティブ・サドルチェアなどと、いろんな人から幾つもの名前で呼ばれるようになったこの発明品の外観は、ハンドルとペダルがない子供用三輪車? というよりも、3つ付いてるフリーキャスターのホイールのサイズが15センチ径なので、歩行器と言ったほうがいいものです。ただし、足が不自由な人が使用する一般的な福祉用の歩行器は、手すりを付けることが絶対条件になっています。だから、自分の足で立って歩けない人は使えません。膝を痛めて多少の痛みや違和感を感じているものの、杖を使うほどではない人が、膝に衝撃が加わらない運動をするのにも適しています。つまり、歩行器とキャスター付きの椅子の中間ということになります。ハンドルも手すりもなくて、不安定で危ないんじゃないの?と思う人もいるでしょうが、そこは大丈夫。自分の二本の足でもある程度支える形になるので、3つのキャスターと合計すると5本になり、5本足の椅子と同程度の安定感が得られます。足元に何も障害物がない構造なので、相撲取りが腰を落として歩くような中腰の足捌きで歩行したり、膝に衝撃が加わらないジョギング運動が出来ます。体育館のような下が平らな場所で思い切って床を蹴れば、時速40キロぐらいで滑るように移動することも可能です。屋外の上り坂ならジョギングに匹敵する運動量が得られる優れものです。

アクティブ・サドルチェアは、室内で使われているほか、祖父母達が毎朝公園でコレに乗って走っています。ジョギングとほとんど変わらないスムーズな足の動きで、スイスイ気持ちよさそうに滑って移動していくからなのでしょう。すれ違いざまに若者達から「かっこいー」とか「乗りたい」と言われることもあるそうです。汗びっしょりになってラジオ体操の広場に行くと、「楽そうに見えますが、そんな強度の運動になるんですか!」と驚く人もいます。「パナソニックの乗馬運動器並の運動が出来るから」とお爺様が説明すると、「体に良いんですね。ちょっと貸して下さい」とかなり人気があります。

アクティブ・サドルチェアは、自分の足で立って歩ける人用の、歩行禅のような修行と運動を可能にする椅子として設計されているので、一般の歩行器と混同して足が不自由な人が使うと、体を支えきれずに転倒したり、歩道の傾いた場所で使えば車道に転げ落ちて、交通事故に遭う可能性もあります。そういった誤用によるトラブルが起こって、危険な乗り物と受け取られては困るということで、父達は市販を見合わせているようです。膝を悪くする人は、膝の上の太ももの筋肉の内側と外側の筋力バランスが崩れて、膝関節に偏った力が働くようになって軟骨を痛めているケースが多いので、アクティブ・サドルチェアのような、力士が腰を落として歩く動きに似た運動をすると、筋力のバランスが回復して膝の痛みが出にくくなる可能性があるようです。もしも市販する場合にも、一般のリハビリ用の歩行器と混同されて誤用されることがないように、リハビリの効果をうたう予定はまったくないそうです。なので、うちの大学病院の理学療法士に効果を調べさせる予定はありませんが、ラジオ体操に集まってくるお年寄り達は、膝の痛みがなくなったと話しているようです。乗馬運動器具に近い運動をすることによって、腰や体幹の筋肉も鍛えられると思うので、相乗的な結果かもしれませんね。セカンドライフというメタバースの世界に3次元CGで再現して、アバターが乗って動き回れるように作ったものがあるので、そのうち画像を載せて紹介しようと思っています。

写真や画像を見れば、素人でも半日程度で作れそうに見えます。真似して作った知り合いの中学生や高校生もいましたが、どれも強度不足だったので、けっきょく父が手直しすることになったようです。ヤザキイレクターはそれほど丈夫なパイプではないので、似たようなサドルチェアを作っても、補強を忘れると簡単にポキッと折れたりグニャッと曲がる可能性があります。父達が作ったものは、強度が必要な部分はパイプを2本使ってあったり、力を分散する構造にして補強が入っていたり、プレストレスド・フレームなんて父の友人が命名したちょっとした工夫によって、パイプフレームがバネのようにしなりながら振動を吸収して、強度も増す非常に優れた設計になっています。子供用の玩具の三輪車や、一般の歩行器と違って、滑らかな場所なら40キロのスピードが出ることを想定して、スポーツ用品としての性能が得られるように設計されているそうです。そうでないと、私のような男性の競輪選手並みの1.4馬力を発揮するふともものパワーには対応できませんよね。創意工夫が出来ない人が、真似して作って壊して怪我をするのは望ましくないと思って詳しく書いていますが、必要とする性能は人それぞれでしょう。もちろん、40キロものスピードで、上で紹介した動画のような運動や、乗馬運動器具のような運動をする人はまずいないでしょう。だから、かなりオーバースペックになっている印象を受けます。一般の道路を普通の人が移動するときは、15センチ径程度のキャスターでは路面の凸凹から受ける抵抗が大きいので、時速6キロから8キロ程度になります。体育館の床のように滑らかな場所では速いのですが、普通の公園内の道路でジョギングの速度を維持しようとすると、それなりの走行抵抗があっていい運動になるのです。体力がある人は、性能が低めの10センチ径のキャスターにしたり、走行抵抗を作り出す特殊な構造のキャスターを使うこともあります。私が屋外で使うときは、普通の人が体育館の床を蹴って移動しようとしても、2メートルぐらい進んで止まってしまうほど、強い抵抗力が生まれる設定になっています。この抵抗強度だと、体だけ前に進んで椅子がその場に残ろうとするので、サドルから腰が離れないように、腰ベルトとサドルチェアを繋いだり、急な上り坂手では綱をしっかり両手に握って力を入れて体に引き付ける必要があります。両手も使うのでそれなりに大きな運動効果が得られます。ハンドルが付いてないのは、自由度の高い運動をするためなんですよね。

スーパーなどに乗ったまま入って買い物をするときは、サドルの後ろのフックに買い物カゴを取り付けると非常に便利です。ただし、上りのエスカレーターに乗るときは、前後反対に向いて、後ろからエスカレーターの手すりを持って乗らないと、体が残ってサドルチェアだけ落下する可能性があります。前後反対になって上りのエスカレーターに乗ると、エスカレーターの傾きによってサドルチェアがゆっくり傾いて自然にサドルの位置が上昇するので、自分の足で立ち上がった状態になります。立った姿勢でベルトにつかまっていれば、トラブルが起こることはまずないでしょう。下りのエスカレーターは正面を向いて手すりを持って乗ればいいのですが、このときもエスカレーターの傾きによってサドル位置がゆっくり上昇して、自然に両足で立つ状態になります。間違った使い方をすると危険な状況になる最も典型的なパターンを示しましたが、動くものなのでそれなりの注意が必要です。たとえば、他の動かない家具と同じように、手でつかまって体を支えようとしたら、キャスターで椅子が逃げるので転倒することは目に見えていますよね。基本的にキャスター付きの椅子ですから、横向きの力が加わった状態で人間の体から離れると、椅子だけがどこまでも滑って行ってしまいます。だから、屋外の傾斜がある場所で使用するときは、人間と椅子をロープで繋いでおく必要があるのです。

一般の人が、潜在抑制機能を低下させて、能動性を発揮して創造的な活動を行なう目的で、屋内だけで使用する椅子は、アクティブ・サドルチェアのような本格的な運動性能を備えている必要はないと思います。もしも、アクティブ・サドルチェアを、ホームセンターで手に入るパーツでプラモデル感覚で自作するなら、金属ジョイントの値が張るので材料は2万5千円程度になると思います。もしも今後市販されることがあったとして、製品を買う場合はその2倍ぐらいの出費を強いられる可能性もあります。父は、自転車に比べて構造がシンプルで部品も少ないから、大量生産すれば市場価格5千円ぐらいに出来そうな話をしていました。でも、私用の丈夫なつくりのものは、サドルだけでも4千円。エアークッションのサドルカバーが3千円。キャスターは1個8千円x3で、他にフレームなどの部品があるのですから、とうていその価格に納まりそうに見えません。したがって、時速40キロで滑走できるオーバースペックのキャスター付きの椅子が必要かどうか、迷う人も多いですよね。つまり、どこまでの強度の運動をするかによって、ピンキリってことです。屋内でちょっとライフスタイルを工夫するつもりなら、普通のキャスター付きの椅子の上に5センチ程度の厚みのエアークッションを置いて座るだけでも十分。それによって着座生活環境は大きく変わると思います。騙されたと思って試してみても損はないでしょう。ただし、椅子から落ちないように気を付けて。

現代人が神に向ける心と神道の在り方について

アメリカ人に向かって「あなたは神の存在を信じますか」と問うと、8割以上の人々が「信じる」と即答するようです。一般的な日本人の感覚からすると「えーそんなに?」ですよね。では、同じ質問を日本人に対して行なうと、どうなるでしょう? 非常に曖昧な反応しか返ってきません。日本人の宗教観を外国人の目から見ると、「無宗教の希薄な信仰心」を持っているように見えるそうです。お正月には神社にお参りし、結婚式は教会で挙げて、御葬式はお寺で行なうのですから、そう見えても仕方がないでしょう。神道を信じているのか、キリスト教徒なのか、仏教徒なのか、行動している本人達すらはっきり自覚していない曖昧な状態なのですから、「無宗教?」と外国人に勘ぐられても当然かもしれませんね。「困ったときの神頼み」という言葉があるように、日常生活をおくっているときには、神様のことなんてすっかり忘れているのに、受験とかスポーツの試合といった、精神的プレッシャーを跳ね除ける必要がある大切な局面になると、思い出したように神社を訪れる人が多いようです。ヨーロッパで生まれ育った母はそんな姿を見て、「日本人の信仰心はきわめて希薄」と受け止めているようです。

人生を決める受験や大切な試合の前に神社を訪れる人々にとって、日頃神様を信じているかどうかはあまり重要ではないようです。何か漠然としたものでもいいから「精神的な支えとなる心のよりどころが欲しい」というのが本音でしょう。祈願して決意を硬めることで、心を強くするのが目的なんですよね。これが、一般的な現代の日本人が神に対して持っている精神文化と考えて良いと思います。手と口を水で清めてから鈴を鳴らして、定められた所作に従って祈願することで、決意を新たにして、強い気持ちを抱いて帰っていく人がほとんどです。祈願した後も希薄な気持ちでいる人は稀ですから、「日本人の信仰心は希薄」という外国人の受け取り方は、理解不足で事実を正しく捉えていないことになるようです。

私は神社に伝わる祭祀で依憑きの巫女(いつきのみこ)を担当しています。巫女舞によって神と身心一体の神遊びの状態になって託宣するのが役目ですが、こういった年中行事の神事は、出来るだけ一般の人目に触れないようにするのが、お爺様達の意向です。いわゆる非公開神事の扱いです。なぜそうなっているかは、いろいろ歴史的経緯など理由があるようですが、一番重要視されているのは、以下のようなものでしょう。神社に祭られている神の多くは、生前の業績を没後称える形で神格化した抽象的な存在です。祈願に訪れる一般の参拝者から見れば、神様は目に見えない精神的な存在であることに意味がある筈です。それなのに、人の体に降臨した神は、目の前に座って呼吸しているだけでなく、御神酒が大好きで、祭壇の御供え物を酔った勢いで飲み食いしながら、ペラペラ人と会話して、キャッキャと笑い転げて、「こんなゲームが発売されたよ」と聞けばゲームに興じるし、挙句の果てはネット上のブログにまでこうして降臨しちゃうのですから、普通の人間とまるで変わらないような振舞いをしていることになります。実際は、神社には厳格な作法が伝わっていて、神と身心一体になった巫女と会話するには、言葉を取り次ぐ役目の者を介する必要があるなど、一般の人から見るととっても窮屈に感じられるかもしれませんが、ここでは感覚的に理解しやすいように、かなり茶化して書いています。

すでに気付いた人も多いと思いますが、神社に心のよりどころを求めて訪れて祈願する現代人の感覚と、千数百年前から伝承されてきた神降ろしなどを伴う祭祀の内容は、完全にズレてきてしまっている、という認識があるのです。そのため「一般の参拝者には見せない」という判断が働いているのです。神様ともあろうものが、酔って人間とまるで変わらない振舞いをするのは、巫女が悪いのかというと、そうではありません。奉納された御神酒を美味しそうに飲んであげることは、神様の大切な役目です。
神社には、神様の生前の姿形や、ものの考え方や、気質や立ち居振る舞いの癖に至るまで、かなり詳細な情報が伝承されていることもあります。神がかりという現象の正体は自己催眠現象です。依憑きの巫女、略して斎女(いつきめ)は、神社に伝承されてきたそれらの情報を頼りに頭の中にイメージした人物になりきっている状態です。気質や立ち居振る舞いの癖については、言葉ではなくて、先代の巫女の所作を通して直接学ぶ必要があります。簡単に言うと、有名な芸能人の芸風を物真似するのに近い感覚です。人間は物真似を見ると「あ、そっくり!」とかなり感動する生き物なので、こういった目に留まりやすい要素が、精神文化として伝承されてきたのでしょう。

神様の生前の気質や立ち居振る舞いの所作を一般の人に対して伝授しようと試みても、あまりうまくいかないことが分かっています。人の仕草を認識して共感する働きを司る神経細胞は、ミラーニューロンと呼ばれています。神道の世界から離れた私のもう一つの専門分野は生命情報学、人の脳が遺伝子の命令によってどのように作られていくかを研究するのがライフワークです。立ち居振る舞いの所作を伝授するときに、脳がどのように働くのか、さまざまな手法を用いて観察することができます。調べてみると、一族の者とそうでない人では、教え手と学び手の同調率に、顕著な差があることが分かってきました。遺伝的に、または気質的に近い人の仕草は模倣しやすいのか、幼少時から修行を積んできた巫女と、そうでない一般の人の差の表れなのか、被験者の数が少なすぎるため今のことろ判然としませんが、身心一体になるレベルに歴然とした差が認められるのです。計測されたデータの上だけでなく、傍から見てもこの違いは顕著です。本物の神様と物真似に失敗した偽者の差、のような印象を受けてしまいます。このこともあって、生前の気質や立ち居振る舞いの所作は秘伝とされて、一般の人の目にはあまり触れないように御簾が下げられたりと、模倣に失敗した偽者の神が出現しないように、さまざまな対策が取られてきたようです。

冒頭の質問、「あなたは神の存在を信じますか」のなかには、じつは「神の霊の存在を信じますか」という意味も含まれています。父は神職を継ぐのを嫌って「ガンダムを作るんだ」と言い放って家出して、海外でロボット工学を学んで帰ってきた機械畑の人。母はヨーロッパ生まれで、キリスト教ユダヤ教と親密な関係にある、本物の西洋魔法(カバラ)に憧れて育った、今でも魔法少女が心の中に住んでいるような大人(心理学者)です。そんな両親から生まれて、社家の古いしきたりに従って育てられた私はというと、神様の霊が人の心から離れて、天上界や霊界などという、見たことも聞いたこともない場所に実在するなんて神話や昔話は、まったく信じていません。神話は故事や伝承をもとにしたフィクションです。神がかりは自己催眠現象です。神降ろしの神事を行なうときに、霊の存在といった、非科学的な神秘主義の発想を持つ必要はまったくない、というのが私の認識です。生前の業績を称えて没後神格化されて奉られている神様は、精神文化として伝承されてきた抽象的なものであり、人の心の中にだけ存在するイメージです。依憑きの巫女は神社に伝わる伝承を基にして、神聖な仮想の人格をイメージし、催眠暗示によってなりきっているだけなのです。

神が宿る依代(よりしろ)となる神聖な子として、まるで生き神様のように、社家の風習に従って育てられました。ほとんど自分の時間が持てない生活を強いられて育ちましたが、私は直接自分の目で見たものしか信じないタイプです。2010年10月8日に書いたブログ『直接意識できないものをイメージ化して思考対象にする技術』のなかで、薔薇の妖精マリーベルのことを紹介しましたが、これら式神と呼ばれる架空の人格のイメージを日常的に使役して、思考の補助に役立てています。しかし、彼等が物理的な現象として見えたことなど一度もありません。たとえば、風になびく稲穂が太陽の光を反射して美しく見えるのに感動して、水田の魂を感じれば、それを擬人化した人の姿が想い浮かんできます。彼と会話することで稲の生育状態を把握して、その年の水田への配水スケジュールの決定に役立てられるように、イメージトレーニングを積んでいます。農家の水争いが起こると大変ですから、いい加減な判断は許されません。各水田の稲の状態をしっかり把握するのに、稲の精霊ともいえる式神とのコミュニケーションが必須なのです。でも、式神はあくまでも、自分がイメージした架空のキャラクターにすぎません。だって、彼等は現実の世界と二重写しになって透けて見えているのですから。こう書くと、「それって幽霊じゃないの?」と思う人もいるでしょう。じつはそうではなくて、私が見ているのは、心理学の世界で直感像と呼ばれているものです。その証拠に、これらのイメージ上のキャラクターは、私の意志で自在に呼び出したり、消したり出来るのですから。じつは、幽霊と呼ばれてきた、半透明で現実世界と二重写しになって見えるイメージ、つまり幻覚も、心理学の世界で直感像と呼ばれている、脳の中で起こる現象と、密接な関係があるのです。

直感像は、幻覚と同じように「外に見える」のですが、「思い浮かべたもの」という主観的な自覚があるところが、心像や表象と同じです。「自分が思い浮かべた」という自覚があるので、自由にイメージを操れます。これに対して、夜見る夢と同じように「無意識のうちに思い浮かべていて、自覚がないもの」は、自分の意思ではコントロールできないので、幽霊などの幻覚と呼び分けられてきたのです。日本の幽霊は、足がないことがお約束ですよね。また、人の顔だけ見える、なんて話す霊能者がたくさんいます。じつは、人の姿全体がイメージされずに、部分だけの再生にとどまることってよくあるので、幽霊の足がなかった、顔だけ空中に浮いていた、人の手だけが地面から生えて見えた、といった奇妙な怪談が生まれてくるのです。幽霊が壁をすり抜けるのは、不思議でもなんでもありません。頭の中に存在するイメージなのだから、現実の世界の物体は移動の障害にならないのです。幽霊が夜現れやすいのは、脳の活動状態と密接な関係があります。幻覚や直感像が見える精神的テンションが高い状態になるのは夜間だからです。「この場所は幽霊が出る心霊スポットだから怖い」と考えれば、それだけ精神的テンションが高くなるので、頭の中に無意識のうちに連想によって描かれたイメージが、現実の世界と二重写しになって見える現象が起こりやすくなります。霊感が強い人は、科学的視点から見れば、暗示に掛かりやすくて、無意識のうちに生み出される直感像を体験しやすい人にほかなりません。

西洋魔法の世界には、カバラと呼ばれる神秘主義の体系があります。これはマジック(手品)の技術ではなくて、古代エジプトなどから引き継がれて西洋に伝わっている精神文化の体系です。その中に霊視能力を高める修行方法があります。どんなものだと思いますか? 魔法少女に憧れた母が持っているW.E.バトラー著「魔法入門」は、日本語にも訳された有名な本なので、内容を確認できると思います。この本の扉絵に「閃く色彩」と呼ばれている、イメージトレーニング用の図形が載っています。W.E.バトラー氏は、小説や映画の世界の登場人物でも手品師(マジシャン)でもなくて、現実に西洋の精神文化としての魔法(カバラ)を伝承した、本物の近代の魔法使いです。魔法の正しい理解と普及のために、通信教育を行なう魔術団体 Servants of the Light(光の侍従)を設立しました。だから「閃く色彩」というキーワードでネット検索すれば、幾つか色彩が鮮やかな六角形を組み合わせた図形を見つけることが出来ると思います。この図形は、補色関係にある残像を発生させて、そのイメージを出来るだけ長く保つ訓練を行なうためのものです。しばらくこの図形を見てから、白い壁などに視線を移すと、壁と残像が二重写しの状態になって、補色の残像が見えると思います。何の役に立つかというと、直感像を維持するイメージトレーニングになっているのです。じつは神道の世界にも、同じような霊視能力を鍛えるとされるトレーニングの方法が、秘伝として伝わっています。西洋の魔法の世界と同様の原理で残像を保持する技法の体系が存在するのです。つまり、洋の東西を問わず、霊視の正体は直感像ということになります。オーラが見えるとされる現象も原理は同じです。自分の頭の中に思い描いたイメージを外界に投影して、二重写しに見る技法にすぎないのです。本格的な修行を積んだ巫女が、自然界のさまざまなものを擬人化したイメージを想い描いて、八百万の神々と心を通わせる技術は、直感像をベースとした思考様式の体系です。仏教には、さまざまな精神的要素を擬人化して表現した、曼荼羅というものがありますが、じつは神道にも、4方位8方位16方位24方位32方位48方位と、各方角に神々を配置することで、自然界のさまざまな要素を配置し分類して考える、曼荼羅とよく似た図形が伝承されています。八百万の神々のままでは、数が多くて戸惑うので、神々のイメージを整理整頓できるようになっているのです。フトマニ モトアケといったキーワードでネット検索すれば、うちの神社に伝承されている図形に似た形のものを見ることが出来ると思います。お正月にその年の出来事を占う神事があり、日本語の48音が配置された図形を頼りに、昔は動物の骨を焼いてその割れかたで占っていたようです。いつしかこの形の的に向かって弓を射る神事へと変化したようですが、これはテーブル・ターニング(こっくりさん)の日本語版のようなものですね。この神事を行なうと48神の姿が現われて、さまざまなことを教えてくれますが、もちろん架空のキャラクターです。抽象的な概念を補助的に用いて一年の間に起こるだろうさまざまな出来事を考える手助けをしてくれるようにシステム化されています。

うちの一族の中にも迷信的な発想をする人達はいて、生前の業績を称えて神社に祭られている神様には霊があって、巫女に憑依するのだから、幽霊が憑く現象と基本的には同じと解釈する人もいます。でも、よく考えてみてください。もしも本当に霊が憑くのであれば、憑かれた巫女が知らない、昔の人の知識や技術を共有することができる筈ですよね。日本全国の巫女が集まれば、日本史の謎の部分を解き明かすことができるかもしれません。本当に出来ることなら、すでに昔から行なわれているはずです。でも、試みられていないということは、つまりはそういうことなのです。6歳の頃だったと思いますが、ある祭祀の席で、私と身心一体になった耀姫が「神の霊がいつもは天上の世界にいるなんて話は迷信です」と言ってしまったので、一族の長老達が真っ青になったことがありました。「神社の神様が自分の存在を迷信と否定した」ようにも受け取れたので、審神者(さにわ)が即座に止めに入ろうとしたのですが、耀姫の機嫌を損ねたらしく、審神者に対して遠当ての技を用いて気絶させてしまうという、前代未聞の事態になりました。このとき耀姫が使ったのは、遠当てのなかでも黄泉送りと呼ばれている秘伝の技です。バロセプターと呼ばれる肺の圧受容体に対して気を送り込んで誤作動させると、ヘーリング・ブロイエル反射と呼ばれる、呼吸や心臓の鼓動を低下させる指令が脳から出される反応が起こります。心肺機能の低下によって脳が虚血状態に陥って失神したり、効果が強く現れると心停止して仮死状態に陥り、蘇生処置を取らなければそのまま死んでしまうこともある、非常に危険な技です。アメリカの有名なスポーツ番組ファイトサイエンスのなかでは、忍者のデスパンチとして紹介されたこともあるので、すでに秘伝ではなくなっています。中国の武術のメッカ少林寺などにも、気功を用いた技の体系が伝承されていたようですが、第二次世界大戦の混乱と文化大革命による破壊の嵐のダブルパンチによって、伝承が絶えてしまったようです。日本の八幡宮(軍神を祭る)系統の幾つかの神社には、今でも秘伝として受け継がれています。修行中の未熟な巫女が、正しい神のイメージを想い描くことに失敗して、変なものに取り憑かれた状態に陥ると、暴走して暴れ巫女の状態になることがあります。脳のリミッターが外れた状態になっていると、火事場パワーを発揮して暴れるので、まともに取り押さえようとしても容易ではありません。そこで、これをスマートに取り押さえて鎮めるための古武術として、御式内の作法などが伝承されています。親戚には古武術の道場を構えている家もあり、そこの師範代など、手乞いや合気道や剣道の有段者が、ずらりと列席していたのですが、耀姫が憑依した6歳の女の子一人を相手に、40人近い男衆が取り押えようとしても、気の押し合いに勝てず、耀姫が神剣を振る所作をしただけで、まるでドミノ倒しのように仰向けにひっくり返って、体に力が入らない状態になりました。似たような現象は、ユーチューブなどにアップされている合気道の実演でも見ることができます。こうなった理由は、私が北欧の血を1/4引いている雑種の子だから、と父が看破しました。純血種より雑種のほうが強かったわけです。

機械畑の技術者の発想をする父は、この有様を見て「いい大人が揃いも揃って子供相手に情けない」と大笑いしながら耀姫を軽々と制して胸に抱き上げて、ただ一人娘に味方して「実験してみましょう」と言い出しました。これも前代未聞のことでしょう。「神を実験する」などという発想はない世界です。真相を明らかにするために、耀姫の命によって神がかりできる20人の巫女が集められて「神の霊は実在するか大実験」をやることになりました。もしも実在するなら、生前の業績を称えられて神社に祭られている人物の、気質や立ち居振る舞いの所作を直接見知っていなくても、霊に憑かれただけで巫女達は再現できる筈です。耀姫(あかるひめ 阿加流比売)神を表向き祭っている神社は、国内に幾つもありません。これは、日本書紀が編纂された当時、朝廷が行なった大規模な宗教改革によって、耀姫を祭っていた神社の多くが、祭神を神功皇后などに強制的に置き換えられていったからのようです。そのため、水面下で祭祀することを余儀なくされて、多くの神社が一般に公開しなくなって久しい女神です。神降ろしされた耀姫を見たことがない巫女も半数近くいたので、実験には最適でした。各々耀姫に神がかりしてもらったのですが、彼女の生前の所作とされるものを伝授されていない巫女達は、霊に憑かれたはずの状態でも、生前の姿をまったく再現できないという、一族の長老達から見れば惨憺たる結果に終わりました。

人から人へと直接伝承される、知識や所作や技術の教育の場から離れて、単独で神の霊は存在しないことが明らかです。神がかりは、伝承を頼りに依憑きの巫女が頭の中にイメージした人格になりきる自己催眠現象であって、人の手で伝承されてきた精神文化を離れて、神の霊が独立して天上や霊界などの別世界に存在しているわけではないということになります。つまり、神話の内容は、故事や伝承をもとに作られたフィクションであり、現実とは違うのです。たとえ神の姿が直感像として見えたとしても、頭の中に想い描かれたイメージにすぎず、霊視しているという解釈も間違っています。神がかり状態の耀姫の額に第三の目が見えるという話をよく聞くことがありますが、それも直感像にすぎません。

こんなこともありました。生前から合気道の神様と呼ばれていた晩年の塩田剛三氏に、私は子供の頃何度かお会いしていて、「長生きしてくださいね」と気を送ってさしあげたこともあります。没後親戚の道場の神棚に合気道の神様として私達の手で祭りました。塩田氏のお弟子さん数人が、親戚の道場を訪れたときに、是非先生に会いたいと懇願されたので、私が塩田氏を神降ろししたのですが、憑依した塩田氏の技を見て懐かしさに涙を流しながら「若い頃の先生にそっくり」と言われました。これは、神がかりの技法に限界があることを意味しています。私はかなりお年を召した塩田氏の技しか知りません。なのに若い頃の動きしかできていないと指摘されてしまったのは、幾つか理由があるでしょう。塩田氏は身長154cm体重46kgと非常に小柄ですが、私は身長175cm体重80kgと少しあります。3サイズはノーコメントですよ。あ、胸は96あるって、ネットゲームのチャットで話しちゃってるので、内緒にしておくのは無理ですね。塩田氏の技は小柄な人向きで、大柄な私ではミラーニューロンを介して完全にコピーしても、生前と同じ動きにはならなかったようです。後日機会を見て、試しに、生前の塩田氏を知らない年下の子達に、道場の祭壇の前で神がかりしてもらったことがあるのですが、神技は再現できませんでした。合気道の神様塩田剛三の霊が天上にあって神降ろしすれば誰でも生前の技を使えるわけではなく、私達の心の中に直接記憶として受け継がれていることは明らかですね。私に憑依した塩田氏から神技を学んだ子達は、脳のリミッターが解除された神がかり状態の高速学習効果によって、短時間でそっくりの動きができるようになりました。特に小柄な妹の動きは「晩年の先生が乗り移ったよう」と、審神者を代行したお弟子さん達から太鼓判を押されました。このケースからも、人から人へと直接伝承される知識や技術を教育する文化から離れて、単独で神の霊が存在しているわけではないことが明らかでしょう。

神がかりは自己催眠現象ですから、なにも神社に祭られている神でなくても、マンガやアニメのキャラといった、人格をイメージできるものなら、何でも依憑きの巫女に憑依させることが可能です。そのとき、神秘的な霊の存在やその働きを考える必要はまったくありません。古典心理学の範囲でも、十分に説明できる心理現象なのです。神は、人の心が神話などの伝承を頼りに作り出している架空のイメージだとしても、心のよりどころとなる精神文化的な存在という本質は何も変わりません。耀姫が起こした宗教改革?は、祭祀の場から迷信を追い払う形になりましたが、科学技術文明に生きる現代人から見れば、「ああやっぱりそういうことか」と納得がいく話の内容だと思います。ここに書いていることは、一般的な神社ではあまり表立って議論されないようです。神道八百万の神々を祭るので、祭祀の仕方はそれぞれの神社でまちまちです。キリスト教のように神様が一人しかいないなら、ローマ法王庁が統一見解を示せば済むことですが、神道の場合はそのような枠に人々の信仰のスタイルをはめ込む構造にはなっていません。各人が好きに信じていればそれでいいのです。「神様の霊は実在するか大実験」の結果が出た後も、神様の霊は天上にいて降りてくるという、古い伝承をそのまま信じている人々もいれば、祭壇の御神体に宿っていると考える巫女も少なからずいます。伝承されてきたものをどう受け止めて理解するかは、本来個々人の自由なので、無理に自分の考えを人に押し付けるような動きはありません。上に書いた耀姫の宗教改革?騒動は、審神者(さにわ)が止める風習があったから起こった混乱にすぎません。しかし、この種の議論が、十分事情を飲み込めていない氏子達の間で話題になって表面化すると、混乱が生じる可能性がないわけではないと思います。多くの人が心のよりどころとし、生きる精神的な支えとしていることを考えれば、混乱を招くのを望まない空気が存在するのは当然だと思います。そこで、私はどこの誰かをこの場で明かさないことにしています。薄々気付いてる方もおられると思いますが、現実の人々と直接繋がるコメントは、控えていただきたいと思います。

以上の解説から、神社の一般の参拝者が祈願するときに思っている神と、私達がイメージしている神の間には、それなりの隔たりがあることが明らかになったと思います。母は当代の耀姫のことを「特殊な無神論者」と理解しています。「あなたは神話の時代から、人々を異なる世界に導く役割を担ってきた日女神(姫神)だから、今の時代では、科学技術文明との間に軋轢を生まない、新しい精神文化を生み出す道標の役割を果たそうとしているのですね」って言われました。私自身は「人の脳内には実証しなくても生まれたときから正しいことが確定している知識(真理)が大量に存在する」ことを示して、産業革命以後の実証主義に基づく科学知識のみに依存する、偏重した社会のありかたを正して、一段階上の自然調和した世界観を持つように人々導くことのほうが重要だと考えています。このことを説明すると「やはりあなたは神ですね。生まれながらに真理を知り、人々を導こうとしているのですから」とからかうように笑ってました。「私の神威は、人の脳の機能を最大限まで高める形でしか働きません」と言うと、「それが精神文化の本質でしょう」と返されました。

一般の参拝者が、神前で祈願して決意をあらたにするときに思いを馳せているのも、心を強くしてくれる精神的な支えとなる存在でしょう。一般の人には見えていない扉の奥には、人の脳のリミッターを解除して、機能を最大限まで高めて、懸案を解決する閃きを得るための伝承技術が存在します。心の中に思い浮かべた神が、当代の耀姫が説くように、心理学や脳科学によって説明できる構成を持つ精神文化の産物か、それとも非科学的な要素を含む霊的な存在かは、それほど重要なことではないんですよね。解釈は人それぞれが自由に行なえるようになっているのです。つまり日本の神道は、西洋人が宗教にとって絶対に必要と思っている、宗派の信条や信仰心すら、求めていないように感じられるわけです。「日本人の無宗教で無信仰の宗教観は、東洋の神秘」と受け取って理解を諦める外国人が多いようですが、現代人から見ても日本の神道の世界は、やはり神秘的な要素を残しているのでしょうか。

熊撃退用唐辛子エキス入りボール(忌避剤)

今年も熊の被害が増える季節になってきました。熊対策として、以前から唐辛子エキスを詰めた撃退用ボールを普及させてはどうか、というアイディアがあります。しかし、幾つか普及を阻む問題点が指摘されています。そのあたりの事情を、私に分かる範囲で少し書いてみようと思います。

父はファーストガンダム世代の人で、十代の若い頃、宗教臭い社家の家風や神職を継ぐことを嫌って、「ガンダムを作るんだ」と言って家出して、海外に渡ってロボット工学を学んで帰ってきた人です。さすがに実物大のガンダムを作るのは諦めたらしく、小さく妥協して義手や義足の製作者になったようです。今は筑波大学が開発した電動アシストロボットスーツHALと同じような系統の、エアーチューブ駆動方式のパワードスーツを試作して、ガンダムの着ぐるみに内蔵して遊んでるほどのオタクです。「エアーフローで、着ぐるみを着て運動しても涼しいぞー」なんて言って、近所の小学生を集めては神社の境内の一角でロボット遊びをやってるので、弟達が「いい歳をして、恥ずかしいからやめてくれ」と懇願しましたが、マイペースの趣味人ですから、家族が何を言っても無駄でしょう。

この着ぐるみロボット戦闘ゲームで使う玩具の銃から発射される弾は、キャベツの植物色素のカラーペイント弾です。ところが、子供達は服に色が付いたぐらいでは戦闘を止めないで、撃ちまくろうとすることがあります。ゾンビ攻撃の状態になるとゲームとして成り立たないので、ヒットしたときのペナルティとして、薄めた唐辛子エキスが入っています。命中したらその場で涙目になっちゃうので、ゾンビ攻撃は無理ですね。というわけで、実用的な熊撃退用唐辛子エキス入りボールを作るノウハウを持った人が身近にいるのです。

じつは、うちの一族が管理する神社の一つ、八幡宮(軍神をまつる)には、古武術の体系が伝承されていて、親戚が道場を構えています。そのなかに、印地と呼ばれてきた投石技術の体系があります。これは、ロープに石を引っ掛けるための布が付いていて、遠方に投石する西洋ではスリングと呼ばれているアイテムの技術に相当するものです。戦国時代は戦場で盛んに使われていたようです。弓矢より飛距離があり、丈夫な鎧の上からでもそれなりのダメージが入るといったメリットがあったようです。織田信長が子供の頃好んで石合戦をした、なんて話も伝わっています。昔は5月5日になると、日本各地で大人まで参加して石合戦を楽しむ風習があったようですが、怪我人や死者が出るという理由で、明治維新後に禁止されたようです。今では雪合戦として残ってますよね。

この印地の技は、手拭いなどに石を引っ掛けても十分使えるので、江戸時代は喧嘩にも使われていたようです。じつは、うちの一族の女の子は、小さい頃から女性用の印地の技を護身術として習わされます。そのときに使うのは手拭いではなくて、昔の女性の絵に描かれている羽衣の衣装などに見られる、肩の上に棚引いている布、比礼(ひれ 比禮 領巾)と呼ばれるストールを用いるのです。振風比礼(かぜふるひれ)などのキーワードでネット検索すれば、耀姫や天日矛などの神を奉る、弓月の君に率いられた秦氏の一族、おそらく私達のご先祖様が、神宝として大陸から伝えたことが分かると思います。

領巾は本来魔除けの品とされ、装飾と護身を兼ねたアイテムと言われてきました。顔や首を蚊などから保護する効果があり、マラリア避けにはなるだろうから、魔除け(疫病避け)というのも、実用性から来た言い伝えなのかもしれません。護身用と言われているのは、石を引っ掛けて投げる印地の技に使うアイテムでもあるからです。もちろん、まともに当たれば相手は即死する、実用性の高い技の体系なので、危険性を考えて訓練内容は非公開とされています。中国には流星錘と呼ばれる、ロープに錘をつけた武器が伝承されていますが、同じような使い方もできるので、熟練者なら大勢に囲まれてもあっという間に殴り倒したり捕縛出来ます。この系統の技に対して、侍が持つ刀はほとんど無力です。剣道の上級者でも対抗することはほぼ不可能で、あっという間に体の自由を失って絡め取られる運命です。神社は流血の汚れを嫌うので、曲者を捕らえるのに最適の技術として発達したのでしょう。

一族の女の子達は、まずお手玉(小豆の袋)の遊びを覚えさせられ、次に領巾にお手玉を引っ掛けて振り回して遊ぶ方法を習得させられます。綾取りも教えられ、領巾とお手玉を組み合わせて、綾取りを応用した捕縛術をマスターすれば、10歳ぐらいで印地の技の免許皆伝となります。うちの一族が管理する神社に隣接した住居の敷地内に、巫女萌え用の盗撮画像を仕入れようと潜入してくる曲者が稀にいるのですが、これは止めておいたほうがいいと思います。神社の境内は、特別神聖な場所を除いて、基本的に誰でも入れるようになっています。でも、隣接する住居はプライベートなゾーンです。無断で塀を乗り越えて立ち入れば、不法侵入になります。盗撮しようとすれば曲者として捕らえられても仕方がないでしょう。人の気配に石を飛ばす人はいないと思いますが、印地の技を使って領巾から撃ち出された、唐辛子エキス入りのボールが飛んでくるでしょう。テニスボールよりもはるかに速いので、まず避けられません。

中学・高校と風紀委員をして、カツアゲ(強盗)グループなどと長期間やりあっていたので、私が印地の技で撃ち出した唐辛子エキス入りのボールを、実際に体験した苦い思い出を持つ人もこのブログを読んでいるかもしれません。武器を持たない人には投げた記憶がないので、子供時代かなりのワルで通した不器用な人しか、ぶつけられた記憶はないと思います。本物のカツアゲは一般に、現場を押えられても言い逃れできるように、合法的なストーリーを作ろうとします。武器など見せびらかしたりはしません。「センコウにチクリやがった」などと、自分達の理屈を振り回して風紀委員達を攻撃していたようですが、ナイフをちらつかせている強盗に出会ったら、防犯用のカラーボールを投げつけて犯人を捕まえるのがあたりまえです。それを、自分達を裏切る行為と決め付けて「チクッた」と咎め立てるのは異常発想でしょう。一般の生徒や風紀委員は強盗の仲間ではないことが、理解できていないようでした。先生や警察に言いつけられたくなかったら、最初から強盗にしか見えない、間違った方法でカツアゲの真似事などしなければいいんですよね。たぶん常識が通じない人達だから、逆恨みで変な理屈を振り回していたのでしょう。

メカマニアの父が創意工夫を凝らして作っている唐辛子エキス入りのカラーボールが命中するとどうなるかは、体験した人でないと分からないと思います。神社の社家の住居に不法侵入した巫女萌えマニアが、盗撮を試みて失敗すれば、服やカメラにべっとりキャベツ色の液体が付いて涙目になる、程度のマンガ的なイメージを抱いているなら、認識が甘すぎます。たしかに、その程度の被ダメージで済んだ人もいると思います。ところが実際には、幾つかの濃度のものを、状況に応じて使い分けているのです。一番威力があるものは、頭から浴びると5分以上呼吸困難に陥ります。鼻水が出て咳き込むため、まともに行動できなくなります。皮膚にかなりの痛みを感じるし、目に入れば30分ほど盲目になるので、犯行現場からの逃亡はまず不可能です。この威力を発揮するタイプは、ナイフなどの凶器を持っている相手に使用を限ることにしています。もとが食材(香辛料)とはいえ、過剰防衛と判断されると、暴行や傷害に問われる可能性もあるからです。

食べられるものが材料ですが、濃度が高すぎると致死的な作用も懸念されます。肺毒性、神経毒性などがあるという報告も出ています。悪用すれば暴行や傷害に問われる可能性があるし、店舗の中で使って営業の妨げになれば、威力業務妨害に問われる可能性も出てきます。もちろん、小学生の子供達が遊びで使っている玩具の銃から発射される唐辛子エキス入りのカラーペイント弾は、濃度を必要最低限まで下げてあります。だから、ちょっとの間涙目になる程度で済んでいます。といっても、稀に過敏な体質の人もいるので、問題が出る可能性がゼロではありません。遊ぶ前に唐辛子に対して体がどう反応するか、テストをすることになっています。

以上の予備知識を踏まえたうえで、熊撃退用ボールについて考えてみましょう。まず、市販されている熊撃退用の唐辛子エキスのスプレーですが、これはそれなりに実用になります。仕事上、熊や虎などの生態を調べにいくことがありますが、万が一に備えて携帯してる人がいます。殺してしまっては観察にならないので、襲われたときに銃で身を守る発想はナンセンスなのでしょう。でも、唐辛子スプレーはガスの圧力で9メートルぐらいしか飛ばないので、十分に近づかないと使えません。熊の襲撃から逃れる最後の手段にはなっても、たとえば、離れた位置で住宅地を徘徊する熊を発見したときに、追い払う手段として使うのは難しいですよね。人間よりも足が速いので、できれば近付きたくない相手です。そこで、遠くから投げられる撃退ボールの登場となる筈ですが、幾つか問題があるようです。

まず、どのように使っていくかです。
熊を捕獲したり殺す目的で唐辛子エキス入りのカラーボールを使うことに、私は反対です。呼吸困難や一時的な盲目状態になる濃度のものを使えば、熊の行動を封じて捕獲の専門家が到着するのを待つことが出来るでしょう。でも人間の都合で野生動物を追い詰めて絶滅させるのを、好ましいこととは思いません。捕らえる、殺すという発想ではなく、熊が棲む森と、人間の居住地域を明確に分けて共存出来るなら、そのほうが良いと思うのです。そうなると、熊が人間の匂いがする場所を嫌って、近づかないように躾ける必要があります。住宅街の近くで熊の姿が見えたら、そのつど積極的に唐辛子ボールを投げていけば、人間が住んでいる場所に近づくと餌が手に入るどころか、とんでもない痛い思いをするという、学習ができると思います。それには、大勢の人が唐辛子ボールを携帯して、見かけたら必ず投げつけて追い払っていく必要があります。この目的用のボールには、熊の行動力を完全に奪うような、高濃度の唐辛子エキスを使う必要はないでしょう。間違って人や家屋に当たってしまった場合も、被害の程度を低くできるように、薄めのものが使えるなら、それに越したことはないと思います。そういう観点からも、人里から追い払って近づかないように躾ける方法を選ぶことが望ましいようです。

つぎに、使用上の問題点です。
市販されている防犯用カラーボールを実際に使えば分かることですが、慌てるからなのか、訓練で、自分の足元に落として割ってしまう人がそれなりにいるんですよね。私達は小さい頃からお手玉で遊ばされて育つので、何の問題もないのですが、最近はテレビゲームの普及で、現実の世界でスポーツをしなくなり、ボールの扱いに不慣れな不器用な人が増えています。もしも間違って唐辛子入りを足元に落して、強烈な刺激を受けて咳き込んで苦しむ体験をしたら、二度と使いたくなくなりますよね。熊が出没する地域の小学生の登下校時に携帯させたら、熊に向かって使用するより、自爆頻度のほうが高かった、なんて話では困りますよね。この問題があるため、市販が見送られていると指摘する人もいます。

私が中学・高校と風紀委員をしているときに使っていたものは、少々のことでは壊れないようにケースに入れて制服のスカートの下に履くペチコート(アンダースカート)のポケットに収納していました。スカートの膨らみを形良く維持し、汗を急速に蒸発させるための大量のヒダヒダが付いているので、スカートの中を覗いても下着は見えない構造になっています。ボーラのカートリッジを仕込んだ振り杖や、領巾(印地用のストール)や、ベール付きの折り畳める帽子、扇子や袖炉などもスカートの下に携帯していました。いろいろ入れても不自由に感じたり、自爆することはありませんでした。ペティコートは、父が設計して母が縫製したものですから、振り杖を居合いのように取り出して使うのにも困りませんでした。一般の人がどのように熊撃退用ボールを携帯すればいいのか、ちょっと分かりませんが、女性は収納機能がついたペティコートを使うのが一番簡単でしょう。これとは別に、ハンドバッグに入れておいて、ひったくられたときにも唐辛子エキスが噴出するものを母が使っていました。海外でひったくりにあったときに作動して、犯人は警察官が到着するまで20分近く悲鳴を上げてのたうち回って地獄絵図だったそうです。あまりにも凄惨な状況にショックを受けたらしく、母は「もう怖くて使えない。バッグを奪われたほうがまだいい」と話してました。ペティコートやバッグに入れる場合に比べて、男性は持ち物が一つ増えたと感じて、不便さを強いられることになるでしょう。うっかりズボンの後ろポケットに入れて座ったりしたら、お尻の圧力で自爆する可能性があると思います。かといって、胸ポケットに入れていて、誰かに強く蹴られたり殴られて弾けたら、自分の顔に浴びてしまうかもしれませんね。というわけで、携帯はそれほど簡単ではなさそうなのです。

他の問題点としては、
一般の人が防犯用カラーボールを投げても、相手が動いていると、うまく命中させられないという問題があります。私は風紀委員をしていた6年間、一度も外したことはありませんが、一般の人はなぜか思っている以上に当たらないものなのです。熊は人間より素早く走るので、ますます当てにくいかもしれません。外れたら、熊の注意を引いてしまい、かえって襲われる可能性もあると思います。クマは視力が悪いので、ある程度離れた位置から不意打ちする形で物を投げると、攻撃したことを悟られず、反撃を受けずに済む可能性はあります。反撃を受けない距離から正確に当てるには、戦国時代の日本で普及していた、印地の技術を復活させる必要があると思います。手で投げるよりはるかに遠い距離まで正確に投擲できます。明治になるまでは、毎年5月5日の行事として行なっていたことですから、伝統文化として復活させても良いように思います。父が中心になってやっている着ぐるみロボット戦闘ゲームでは、ペイント弾を玩具の銃で発射していますが、その銃を持った父と領巾で対決したら、いつも私が勝ちます。だから、熊相手に玩具程度の射出機を用いるメリットはないと思います。父や兄弟もストールを使えば私達と互角の遠戦ができますが、木立を盾に接近戦に持ち込むと、ほとんど女性陣が勝ってしまいます。接近した綾捕り状態では、手数が同じなら体の柔軟性が高いほうが有利です。印地の綾捕りは体が柔らかい女性向きの技なのです。昔から、お手玉や綾取りが女の子の遊びとされてきたのは、おそらくこのような理由からでしょう。ある研究施設内で虎が暴れて麻酔銃が手元になかったとき、綾捕りしたこともあるので、熊より敏捷な動きをする猛獣の捕獲にも使えることは実証済みです。熊が相手でもボーラや領巾を使えば、大きな力を出さなくても楽に絡め捕ることができます。といっても、うちの一族は代々厳しい修行に生き残ってきた人々の末裔なので、大人になれば女性でも内家の者はみんな握力が80キロを超えるし、運動神経が良い人揃いですから、一般の女性に同じことが期待できるかどうかは、疑問符がつくと思います。

いずれにしろ、熊を捕まえるときに綱引きなどして勝てるわけがないので、ストールやボーラで絡め捕って行動力を奪ってから、十分なお仕置きをして、人間に対する恐怖心をしっかり植え付けて放獣するしかないと思います。お仕置きをしていじめるのを見て、可愛そうに思う人もいるでしょうが、恐怖心を植え付けておかないと、何度でも人里に現われてしまい、最終的には撃ち殺さなければならなくなります。人里と距離を置いて生活することを教えるのは、重要なことなのです。熊は鼻や耳がよく、人の気配に敏感な臆病な生き物です。通常は人の気配や臭いを怖がって、自分から距離を取りますが、なにかに熱中すると集中力を発揮して、周囲のことがまったく気にならなくなる習性があるので、人が間近に接近するまで気付かないこともあるのです。至近距離で人と出会ってしまうと、自分が殺される前に相手を撃退しないと生き残れないと思って、決死の覚悟で攻撃してきます。熊は攻撃するとき、立ち上がって前足を左右に振り回します。だから、立ち上がった人間を見ると、ファイティングポーズを取って威嚇しているように見えてしまい、本能的に恐怖心を覚えてしまうのです。そのため、二本足で立っている人間と、至近距離で遭遇した熊は、恐怖に駆られてどうしても人を襲ってしまうわけです。怖がらせないように四足になって、相手の存在を知っていながら、別に気にしていないような素振りで、ゆっくり近づいてから熊の流儀で挨拶すると、襲ってくる熊はまずいません。人の肉の味を知らない熊にとって、人間は食料ではないので、攻撃する理由はないのです。一般の人は立って歩くことで、不必要に熊を威嚇しすぎるから、襲われてしまうのです。熊に出会ってしまったら、慌てずに目を合わせたままゆっくり後ずさりして距離を取れば、攻撃されずにすむこともあります。月の輪熊は犬と同じように、目の前にある足などに噛み付こうとする習性もあるので、近づいてきたら失脚と呼ばれる古武術の足技を使って動きを封じたり、蹴っ飛ばしてあしらうこともあります。普段から犬とこういった遊びをして慣れている人でないと、噛まれてしまうかもしれませんね。うちの一族の男衆は、昔から修験道の修行として山野を渡り歩いてきたので、クマと戦える足技を伝承しているのです。ヒグマはサイズや攻撃パターンが違うので、微塵を用いて急所の鼻っ柱を叩いたり、懐に飛び込んで抱きついて攻撃を封じるなど、まったく対処方法が違います。アイヌの人々も今は普通の日本人として生活していますから、打ち根や日本刀でヒグマを倒す技の体系を今も伝承しているのは、親戚の道場ぐらいかもしれません。

気が弱い人は、怖い生き物と出会うと、本能的に腰を抜かして座り込んで、動けなくなる習性を持っています。座ることでファイティングポーズを解除することになり、戦意がないと相手に伝えられると同時に、熊は動くものを追いかけるので、座って動かなければ、他の動き回っている人にターゲットを変更します。結果的に気が弱い運動能力が低い人でも、生き残れるチャンスが生まれるようになっています。熊は目を合わせている間はなかなか襲ってこず、視線を逸らした瞬間攻撃に移ることがよくあるので、恐怖心で怖い対象から目が離せなくなるのも良いことです。熊の前で死んだフリは意味がありませんが、腰が抜けて座り込んで声が出ない状態になるのは、悪いことではありません。熊に驚いて至近距離で大声をあげるのは、相手を興奮させるだけなので、怖くて声が出なくなるのは正しいのです。このように、人間は本能的に対して正しい行動を取れる本能を持っています。

子供達を引率して登山していて、不用意に熊の親子に接近しすぎて襲われそうになった子がいたときに、腰を抜かしたおかげで、動いている私のほうに母熊がターゲットを変更して、間に合って助かったケースがあります。他の子達も怖くて凍り付いて一瞬動けなかったようですが、それが正解でした。今の小学生は、山で熊を見ると動物園にいる感覚で、大喜びで奇声を上げて自分から走り寄ってしまうことがあるんですよね。いくら私でも、そういった行動を取られると、見えない位置には飛び道具が届かないことがあります。熊撃退ボールを持たせてはいましたが、恐くて投げつけることが出来なかったようです。出発するときに、熊が出ると危ないという話をしたのに、ちゃんと聞いてなかったというよりも、浮かれて「熊さんに会いたい」なんて勝手な話をしていたようだし、困ったさんでした。いずれにしろ、弱い人は無理をせずに、自分の本能を信じて、上手に危険を回避すれば良いと思います。フィールドワークで野山を探索することがありますが、本能的な恐怖心が麻痺した人は、同行してて怖いと感じます。

最後にまとめると、

  1. 唐辛子エキスを用いた熊撃退ボールは、遠距離から投げて熊を追い払って、人の居住エリアに寄り付かないように躾ける運用方法が望ましい。
  2. 濃度を適度に低くして、自爆や誤爆や悪用時の被害を抑えるようにしておいたほうがいい。
  3. 悪用すれば、暴行、傷害、威力業務妨害、家屋汚損などの罪に問われる、という認識を広めて抑止力とする。
  4. 自爆しないように携帯する工夫が必要で、女性はポケット付きのペティコートや、引ったくり防止アイテムとして、バッグに忍ばせて使う方法もある。
  5. 安全・確実に運用できるように、伝承されてきた印地の技を再び普及させる訓練をする。

といった感じでしょうか。

現在市販されていない理由は、防犯グッズの専門家ではないので正確なことは分かりませんが、私が思いつく範囲で挙げてみると、

  1. 真っ先に悪用される可能性がある。
  2. 高濃度のものは、人体に有害という報告があり、被ダメージが大きすぎる。
  3. 熊に使うより自爆する頻度のほうが高くなる可能性がある。
  4. 動いている相手に対しては命中させることが難しく、物を投げて熊を怒らせると、逆に襲われる可能性がある。

といったところでしょうか。
これらの課題がうまく解決できるようなら、そのうち市販されるかもしれませんね。たとえば、一つのボールを投げるのではなく、狩猟アイテムのボーラの形にして投げれば命中範囲は広がります。熊は目が悪いので、十分距離を取って不意打ちで投げれば、反撃される状況にはならないでしょう。

オマケ。
唐辛子エキスのボールは父が精製して、幾つかの創意工夫が施されて機能が強化されたエキスが使われていますが、私が園芸用に使う唐辛子エキスは、自分で作っています。ハダニ、ヨトウムシ、アブラムシなどを追い払ってくれるので、ハーブと組み合わせて薔薇の花壇などに用いています。作り方は簡単で、細かくした唐辛子を2ヶ月ほど焼酎に漬けておくだけ。主成分のカプサイシンなどはアルコールに溶けやすいのです。おっと、このオマケの話程度で、簡単に熊が撃退できるアイテムが作れるとは思わないでくださいね。