Tue, Jul 26

  • 00:29  「インベーダーにあってパチンコにないもの」がゲーム性、というのはどうなんだろう?ミクロに見ると、パチンコにはユーザーにできることがなさそうだけれど、パチプロの人の日記なんかを見ると、あれは自らの戦略とで、お店を攻略するゲームにも見える
  • 00:30  システムにとって、ゲームであることをやめてしまう、あるいは禁じられてしまうことは自殺に等しい。「これは想定する必要がない」だとか、「そういう想定を行ってはいけない」という発言がデザイナーから出された時点で、システムはもはやゲームでいられない
  • 00:31  ルールが「フェアでない」ことは、ゲーム性を著しく損なう。それはユーザーに対するゲームのルールもそうだし、自然やヒューマンエラー、「運勢」に対してフェアでないルールでシステムを設計してしまった場合もそうであって
  • 00:33  壊れない機械を設計せよ、という命令に置いてすら、駆け引き性を保った設計を行う必要があるんだと思う。駆け引き性は、自然に対するフェアネスであって。これをやらないと、壊れない機械は「壊れることを許されない機械」になって、とんでもないことになる
  • 00:35  「ルールからプレイヤが最適解を求めようとする」という関係が成立する時、それはゲームだと言える」 http://bit.ly/n6Besj ワーストケースの探索を禁じるシステムは、もはやシステムであることをやめてしまっている
  • 00:37  ルールがシナリオを規定することは、いいゲームの必要条件であると言える。シナリオがルールを規定する、プレイヤの振る舞いを縛るのならば、ゲームであることをやめてしまっている可能性がある
  • 00:39  シナリオとシステムは、同じベクトルを共有しなくてはいけない。「これだけの努力を注ぎ込んだのだから、このシステムは壊れることが許されない」というありかたは単なるお祈りであって、努力の方向を間違えている可能性が高い
  • 00:40  壊れない機械を設計しようと思ったときに、壊れない機械を目指すのは間違っているような気がする。悪い努力賞の発生余地がそこに生まれてしまうから。漠然と、「面白い機械」を目指した結果として、それが壊れにくくなることはあっても
  • 00:41  @tessy3 スコープの取りかたによっては、本屋さんで本買うのだってゲームですもんね。。  [in reply to tessy3]
  • 00:42  @hennaojisan 10年ものって、プラスチックの弾力がなくなって、いかにも「そろそろ」というお迎え感が出てきたりしますよね。。  [in reply to hennaojisan]
  • 00:45  物語を作りたいからゲームを作っているわけじゃない。 http://bit.ly/nBGAg3 誰もが首肯するのに、努力したいからシステム複雑にしてるように見えることはけっこうある不思議
  • 00:46  麻雀でも、モノポリーでも、現金を賭けるとまるで別物のゲームになる、という逸話があって、この場合、麻雀とかモノポリー本体がシステム、現金がシナリオで、別物になった感覚が、シナリオの力なんだと思う
  • 00:52  「○○を悪用しないで下さい」なんて、ルールで無しに単なる呼びかけで場をコントロールしようとするのは、違反する人を助長するようなところもあって、ゲームであることをやめる行為であると言える。一方で、これは「道徳ゲーム」というもっと大きなゲームの部品にもなっていて、ルールに影響する
  • 00:53  ゲームには「独立性」と「依存性」という考えかたが導入できる。道路の適正利用を呼びかけるやりかたは、道徳というもっと大きなゲームに依存することで、初めてゲームとして成立する。ゲームであるために、別のゲームのルールをプレイヤが理解しているのが前提になってくる
  • 00:55  「パチンコはゲームじゃない」が、一台の台とプレイヤ、という空間内で真であったとして、「パチンコで生活する」という、もっと大きなゲームにおいては、これはゲームに、あるいはゲームのコンポーネントになる
  • 00:56  ゲームと聞いて誰もが想像できるほとんどの何かは、ゲームとして独立している。一方で、社会のルール、特に理不尽なそれのほとんどは、何か別のゲームに依存しないと、それ自体がゲームとして存在できない。大きなゲームは、道徳や正義、これが年期になると老害と直結する
  • 00:56  @taknuno55 実際問題、そうしないと収拾つかないですもんね。。  [in reply to taknuno55]
  • 01:00  ロバストなシステムを目指すときに、そのシステムが「ゲーム性を持つ」「ゲームとして独立である」「ゲームとしてフェアである」「ルールがシナリオに優先している」ことは、それがゲームでない、「まじめな」ものであっても欠かせない。まじめさは、堅牢さにはなんの役にも立たない
  • 01:03  @taknuno55 スポーツの報道は、まさに「シナリオでゲームを縛る」行為で、あれは下手すると、せっかくのゲームを台無しにしかねないですよね。。  [in reply to taknuno55]
  • 01:04  ロバスト性のある側面は、それがゲームであることに関係しているような気がする。複数の経路を用意することだとか、ラダーフレームみたいに、問題が全体に波及するのを防ぐ仕組みといったものは、結果として外乱というプレイヤに対して、より「フェアな」状況を提供していることにつながっている
  • 01:05  ロバストであることが要求されるシステムは、ゲームとして遊ばれることで、その堅牢さを試されるのが正しいのだと思う。遊んでみて「つまらない」システムは、恐らくはどれだけの鉄量を投入しても、案外容易に壊れる脆弱性を内包している
  • 01:09  「そのシステムを舞台にした不謹慎ゲームは、遊んだとして面白いものになりますか?」と問われるべきで、「これはまじめなシステムだからそんなものは必要ない」というのは反論になっていないし、面白いものが作れないシステムをどれだけまじめに運用したところで、堅牢さには結びつかない
  • 01:10  @taknuno55 原発を見ていて、こんなことを考えるのです。。あれクソゲだよな、と。  [in reply to taknuno55]
  • 01:50  ジレンマは堅牢さの助けになる。どれだけ頑丈な鍵もいつか破られるけれど、会場を開始して30分後に警備会社が飛んでくる、というルールを付加することで、金庫破りにはジレンマが提供される。
  • 01:52  ジレンマは外乱に対するコントロール性を上げる。あえて細かく壊れるようにシステムを組むことで、自然のような外乱が大きな力を行使したときには、そこが壊れる。コンポーネントをピンポイントで狙うような外乱は、逆に大きな力にはなり得ない
  • 01:54  設計者はシステムを通じて、外乱に対して制約を提示することができる。その制約にゲーム性が備わっていて、それが十分に「面白い」ものであれば、外乱はルールに従う。これは「あらゆる事態に備えて万全の備えを行った」という物語よりも、実際的な外乱をコントロールする効果が期待できる
  • 01:55  設計者が恐れるべきなのは、外乱によってシステムを破壊されることでなく、システムが提示したゲームを、外乱が遊んでくれなくなることなのだと思う。前者を目標にするのは、コントロールを志向していない。これは大きすぎる目標であって、最初から敗北が前提になっている
  • 01:56  大きすぎる目標をあきらめて、「万全のことは行った。仕方がなかった」と居心地よくつぶやくのは、備えになっていない。大きすぎる目標に「ゲーム」を仕掛けて、それを「遊んでもらえる」ことで、初めて状況がコントロールされたと言える

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