終わらない、終われなかった作品の結末

バスタ新刊の感想巡ってて、たまに聞くのが、「もう結末がどうなるかだけ教えてくれ、そしたら読む必要ないから」というの。長期に渡り続いている作品で、作品自体には既に魅力は感じないけど、長らく付き合ってきて愛着もあるし、結末だけでも知りたい……というファンの人からよく聞かれる発言ですが、こういう風に、終わらなかった作品、終われない作品の幻の結末をプロットだけ語られるってのは、どれだけの意味があることなんだろうなあ、もし自分がそういうファンの立場に置かれたらどういう気分なんだろうなあ、とかちょっと考えます。


最近見たその実例が、吉田直の「トリニティブラッド」。作者が急逝してしまったため、シリーズ途中で中断。未収録短編などを含むこれで、始まりから終わりまで、シリーズ全体の構想を公開。そして、現在もメディアミックス企画が続いている「ブシロード」のノベライズも同じく中断。こちらはそれほど進んでいなかったようで、1巻ラストに同じく「その後」を含む全体の構想メモが公開されているようです。


この場合は、作品が作者の手によって完結することは最早ないのだし、作品が長期に渡って続いてきた結果、一部読者がついていけなくなった作品とは問題の質が違うような気もしますが、にしても「もうこの際、物語の外でもいいから結末を知りたい」、という読者がいるという点では共通しています。「ガラスの仮面」の紅天女問題や、「マリみて」の妹問題。物語の核となる部分が結末と明確に繋がっている場合、それらはより強調されます。


自分がそういう作品のファンだったらどうするか。例えば、現時点で「バスタ」の結末までのプロットを作者自ら公開するとしたら……?少なくとも、表面上は否定してみせると思います。本編が面白くないから読むのをやめたのだとしたら、所詮自分がその程度の興味しか持ち得なかったということで、その結末だけ知っても意味がないとか。不謹慎なifですが、それは作者が逝去した場合でも同じで、物語の態を為していないプロットだけ読んでも、それは結局物語としての終わりを意味しないとか。そういう理屈抜きでも、「ああするつもりだったこうするつもりだった」という構想を読んだところで、妄想の材料になりはしても、自分がどれだけ慰められるか、というのはちょっと疑問です。結局、「ああ、作者が生きててくれればこれが実現したんだなあ……」と、寂しさが増すだけになりはしないか。


んが……結局は読むなり買うなりしちゃうんだろうなあ。特に、もう作品が終わりだとはっきり分かっている場合は。それは作品の結末をそういう形で受け入れるというより、他の読者の人とああでもないこうでもないと話すというオタク的な欲求のためなんでしょうけど。でも、それも結局は自分を慰めてるだけなのかもしれない。


まあ、そういう事態にはあんまり陥りたくないもんです。「温めますか?」「ああ、たのむ」とかはあれはあれで面白かったですけどね。……そういえば最近は商業で打ち切られても同人で続きを書く、という人もいるようだけど(私の知る限りだと小林めぐみとか川崎康宏とか)、ああいうのを考慮に入れてなかった。まあ、次の機会に。