世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年04月18日(木)肩の力を抜かないと肩こりが厳しそう

張り詰めている

業務中ずっと張りつめているなと気づいた。一息ついて、手元や足元を見直すような余裕が、ほとんど持てていない。まだまだ未熟なため、なるたけ油断しないようにしている、とも言えるが、気を抜いているところを見られたくない、隙を見せたくない、といった警戒心もまたうごめいてはいるんだろう。ほんとうは、ときどき立ち止まって、現在地やロードマップを確認するくらいのほうが(効率も、気持ちも)よいはずなのだけど、なんだかんだで、警戒心が勝ってしまっている。ひと目を気にしているし、見栄を張っているし、身体も硬くなっている。あんまりよい状態ではないかなあ。

道に迷ったかもしれないときに、しかしかまわずぐんぐん進んでしまい、最終的に、かなりの時間を無駄にする、といったケースもなくはない。実際の徒歩移動のときなんかにぼくがやらかしがちなミスだ。仕事上の振る舞いでも同じようなことをやっちゃってるぞ、と気づいた。なんとなくこっちだろうだけの楽観で確認せずに前に向かってしまう。よくない癖だ。

2024年04月17日(水)常に明日に道が延びている

明日がない

明日がある、っておそらくずっと思い続けている。これを、「常に先行きが輝いて見えている」「希望や理想がいつも心の中にある」といった意味合いでとらえるなら、まあよいのだが、しかし、後回しにする動機を常にかかえている、と言うこともできる。実際問題、「明日やればよい」と延々と考え続けているフシはある。「明日なんて来ないかもしれない」「いまやれることやっておかないともうやれないかもしれない」「ここで終わりかもしれない」といった怖れがほぼない。緊急・期限の意識が極めて低い。だいたいのことは、分割して進めたほうがラクなわけだけど、緊急や期限といった意識が弱いから、それに準じて、無邪気に分割してしまう癖が染みついている。分割したうちの「今日」の担当分だけやればよいと決めつけがちである。要するにこれも「明日がある」という観念が生成している習慣だろう。

2024年04月16日(火)ボトルネックで冴えなく見える

冴えない

自分で読み返して「つまらん」ってなる文章はたまにある。理由はだいたい不明だ。今回もなんとか分析できたりしないかなと見つめ直していたのだけど、わからなかった。というか、一意には定められなかった。諦めた。結局、総合力、総合点なんじゃなかろうか。題材だけがよくてもダメ、切り口だけよくてもダメ、言い回しだけよくてもダメ、リズムやテンポだけよくてもダメだ。どこかが乱雑だと、それだけで、全体像が冴えないものになってしまう。一部の欠点に全体が引っ張られる。足を引っ張られる。

レベルの低い要素がボトルネックになる。全体のレベルが落とされてしまう。というのであれば、いずれの要素についても、平均点以上を狙っていく必要がある、とまではいかなくても、とりあえず赤点は免れたほうがよいんだろう。最低限のクオリティは維持できるだけの振る舞いを心がけたい。書く題材についてはしっかり情報収集したほうがよいし、取捨選択もしたほうがよい。鋭い断面を見つけるためにいろいろな角度からためつすがめつ眺めるのも重要だ。さらには、伝えようとしていることに適した言葉選びと、その言葉の配置によるリズム・テンポの調整まで考える必要もある。めっちゃむずい。

新鮮味

こういった「これまで気づいていなかった」「言語化するタイミングがなかった」事柄に関する思索は、たとえシンプルでベーシックな話であっても、なんとなく「つまらん」とはなりにくい傾向があって、ちょっとずるい。新鮮味、新しさ、珍しさ、貴重さ、というものには代えがたい魅力があるんだろうな。シンプルにとらえ直そうとする行動そのものがけっこうな新鮮味を呼び起こしてくれたりもするし。

2024年04月15日(月)最初から出来ていることを褒めるのもいかがか

業務日報

指導の進捗を確認するため、面談を実施した。指導を受ける立場と指導する立場、それぞれからヒアリングをおこなって、それを取りまとめた。同時に、ここまでの評価とこれからの課題を伝えていただいた。だいぶ馴染んできた手順ではあるのだけど、そのぶん、油断の色合いも濃くなってきている。フローの質のチェックなどが粗くなっているとは思う。数を重ねるにしたがって、この業務の意図、目的、背景といった"ポイント"の理解も進んではきているはずなので、それらを基準にしながら、おこなうべき行動そのものをあらためて精査する、といったアクションもまた、意識しておいてよいんだろうとは思った。緊張感が減るぶん視野を拡げ腕前を高めて対抗する案だ。

聞いている限り、今回の指導は、たいへん順調に進んでいるようだった。新人の評価がとにかく高かった。状況をうかがいながら、正直そこに甘えていたところはあったと思う。ほうっておいてもまあだいじょうぶだろう、というような"気の抜けた"判断が漏れ出ていたと思う。こういった予断や寄りかかりにも注意はしたい。憶測にせよ妄想にせよご都合主義な期待にせよ、こちら側で勝手に頭を止めるのはきっとよくない。判断ミスの確率を高めかねない。

まわりからの評価も納得のいく、「よい」人物では、たしかにあった。勢いに乗せられたわけではないけれど、ぼくからもその「よさ」が見える場面はあって、素朴に褒め称えてしまったかなと思う。ただ、振り返ってみれば、乱暴な言語化だった。よくない伝えかただった可能性もなくはない。褒めかたが過剰かつ画一的で嘘臭かったかもしれないという怖れはあるし、一点を褒められて満足されても困る的な問題もあったし、当人が特に褒めて欲しいと思っていないところをしつこく褒めてしまいむしろ嫌がられたのではないかという懸念もあった。無邪気に誉めてりゃよいわけじゃないんだよな、と自戒はした。

ニューロロジカルレベル

誉める・叱るの文脈で「ニューロロジカルレベル」を使った説明を見かける機会があって、なるほどねと思った。よって、記録しておく。

ニューロロジカルレベルは人間の意識のレベルをあらわす理論のひとつだ。ピラミッド図のイメージで、「抽象的・主観的・意識的」なものと「具体的・客観的・現象的」なものが、上下に並び、六階層で設定されている。このうち、最上位段階となる「スピリチュアル」はビジネス文脈だと(関係ないことが多いので)除外されがちだ。上から「アイデンティティ」「価値観」「能力」「行動」「環境」と続く。

おおざっぱに言うと、基本としては、褒めるときは上のほうで褒めたほうが効果が高く、叱るときは下のほうで叱ったほうがよい(ダメージをあたえすぎなくてよい、ので、そうしましょう)、といった話になっている。そういった形で説明が可能になる構造になっている。上位になればなるほど自己の存在意義に近づいていくため、アプローチしたときの衝撃がおおきくなる。そこをしっかりコントロールしよう、という考えかただ。

能力が褒められれば嬉しいが、それよりは価値観が褒められたほうが嬉しいし、アイデンティティ(あなたの存在自体が素晴らしいね)が褒められるなら、なおさら嬉しい。嬉しいというか感情が動く。インパクトが強い。効果も強い。逆に、ぼくが所属する単なる環境を褒められてもたいして嬉しくはない(東京で生まれたなんてすごいね!)。叱る場合も、価値観に対してダメだと言われるよりは、特定の行動に対してダメだと言われるほうが、基本的に傷が浅く済む(はずだ)。傷ついて、ひるんで、改善する気力が奪われるくらいなら、適切な距離感でのアプローチをおこないたい、という方向性になる。

あと、「行動」の源泉には「能力」があり、「能力」は「価値観」から来ており、「価値観」のうしろには「アイデンティティ」がある、というふうに、ある人間の出来事・行為・意志の源泉を追っかけていく目線についても考えさせられる構造なんだろうなと思った。

  • 1段目:アイデンティティ(自己認識)
  • 2段目:信念・価値観
  • 3段目:能力
  • 4段目:行動
  • 5段目:環境

2024年04月14日(日)遊び場もあるところで試してみる

墓参り後の宿泊

昨日の午前中の墓参りのあと、そのまま、近場の宿泊施設に泊まる形で動いた。まあまあの遠出だったのでそんなスケジュールを立てた。お子さまにとっては初の宿泊施設となる。どうなるか見ものだった。あるいは心配だった。施設や設備などある程度は調査のうえでお子さまに適した場所を選んではみたものの、問題のない運用が可能かはあやしいところだった。結論から言えば、お子さまの暴れん坊っぷりの問題よりも、自分自身の体調不良の問題のほうが大きくなってしまい、問題点が曖昧なまま終わってしまった。いや、うーん、でも、やっぱりだいぶ暴れてはいたかな。なんでも手を伸ばそうとする。悪戯心が芽生えてきている空気はすごくある。寝込んでしまったため奥様には迷惑をかけた。一泊して日曜日に帰宅。まったり過ごした。後半少し回復できたのはよかった。夜になって森博嗣氏の新刊小説が出ているのに気づき、歓びながら電子版を買い、読み始めた。

bookmeter.com

2024年04月13日(土)思い出の光景の中に入ってもらう

漢語

文章術や指南書で「漢語よりやまとことば(和語)を使ったほうがよい」といった教えを見かけることは多い。意識的にそうしたほうがよいと言われるだけの利点もわかるようにはなった。「利点」という漢字二文字が置かれているよりは、「よいところ」や「よさ」と書かれていたほうが、すっと頭に入ってくるし、「接戦」よりは「ぎりぎりの戦い」のほうがわかりやすく、「痛苦」よりは「痛みと苦しみ」のほうがわかりやすい。もちろん日常での馴染み具合によっても変わってはくるんだろうが、統計的にいえば、やまとことばのスルスル具合は間違いないところだろう。わかりやすい、というか、つかみやすい。やまとことばのほうが、やわらかくて、目にとまる。上滑りしない。

とはいえ、漢語の、というか漢字の、格好よさが、好きだ。熟語が見せてくれる発想の鋭さも好きである。綺麗だなとも思う。新しい熟語を知るのもシンプルに好きである。あと、熟語の漢字の上下を入れ替えてみせるみたいな遊びかたが、そもそもだいぶ好きかな。

展墓

ひさしぶりに墓参りに訪れた土曜日だった。墓参りにもなにかしら格好のよい漢語的な言い回しがあるんじゃないかな~、と思って調べてみた。結果、「墓参する」「展墓」にはたどりついた。むしろそれくらいしかなかった。残念だった。墓や寺や死の周辺には歴史的・儀礼的な言い回しがたくさん転がっていそうで期待したのだけど。

お墓のまわりではお子さまがなかなかに傍若無人な振る舞いを見せていて、非常に大変ではあった。ぼくにとっての「親戚の集まり」は、お墓参りの記憶ばっかりなところがあって、思い出の下地になっているその空間にお子さまを連れていけたのは、ちょっとだけ嬉しかった。つかれたはつかれた。