世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月04日(土)カードゲーム・ゲシェンク・オンライン

ゲシェンク

深夜にオンラインのボードゲームで遊んだ。極めて楽しかった。翌日になってこれを書いているのだが、昨夜は充実していたな、と素直に微笑みたくなる心持ちだ。遊んだのは、ボードゲームアリーナの『ゲシェンク』。リスクの取りかたと邪魔のしかたの噛み合いかたが、鮮やかに繋がっていて、攻守に関する視点の切り替えが気持ちよいカードゲームだった。説明だけなら数分で済むようならシンプルなルールで、ふたつのおもしろさが、こんなふうに並立させられるものなんだ、と驚かされた。名作・傑作と呼ぶのもおこがましいくらいの歴史的優秀作品だが、あらためて、すごくよかった。そしてやっぱりボードゲームはよい。

深掘りたい

人生観・世界観・死生観・価値観などを深掘りしてみたい心持ちはある。身近なひとほど丁寧に聞く機会がない印象だ。だからこそ逆に聞いてみたくなる場面も多い。ただ、迷惑かなとも思わなくはない、お願いしづらいなと思う。話すことなんてない、あっても別に話したくない、むしろなぜわざわざ話さねばならないのだ、なんて思われるリスクもあるだろうとは思えるからだ。あんまり気にせず、自然に質問してみればよいんだろうか、とも考える。下手に重く考えなくてもよいんじゃなかろうか、と決め打ちしてみたくもなる。けれど、だからといって(ぼくが吹っ切って自然体で質問してみたからといって)、相手がフラットにとらえてくれるってわけでもないだろう。誰もが同じ思いで見つめられる話題じゃない気はしている。ひとによって重みづけが大きく異なりそうな話題には見える。ときには不信感すら抱かれそうである。それは、怖いし、嫌かな。まあでも、そんなふうに避けているうちに、けっこうな年齢にもなってきたし、今後、訊く機会がより減っていきそうにも思えるので、なんとかしたいとは思った。そんな話題を軽く友人に振った。

2024年05月03日(金)数日後に書いた言葉も混じっている

日付に置いていかれる

日記を書き忘れたときは、たいてい、翌日や翌々日に、穴埋めするようにして書く。この日記の遅れによって、時間の速さを実感させられることも多い。気づけばすぐ「日付」に置いていかれている。こんなスピード感で進んでいってしまうなら、ほんとうに人生はあっという間だな、と痛感させられている。日記で得られるよい感覚かなと思う。怖いところでもあると思うけど。

せわしなくなる

時期的に家族が忙しそうなこともあって、ゴールデンウィークにかけて、子どもの世話でせわしなくなりそうだ。戦々恐々としている。とはいえ、追い詰められるくらいのシチュエーションもときにはあったほうがよいんだろう。むしろ歓迎してよいんだろう。致命的でない状況の中で動けるならなおさらだ。当事者意識を持ってあたらざるを得ない機会のことは好ましく思っている。強制的な実体験はありがたい。なんとなくサボろうとする傾向も見られるため、ほどよくそれが抑止できるなら、感謝したいくらいの気持ちである。

2024年05月02日(木)まるまる書店

渋谷〇〇書店

www.hikarie8.com

渋谷ヒカリエの「渋谷〇〇書店」を訪れた。個人に棚を貸し出しているシェア型の書店だ。さまざまな棚主の濃いセレクションが堪能できる。8階のクリエイティブスペース「8/」 の中にある。前から気にはなっていた。が、営業時間にいつも間に合っていなかった。今回、初めて立ち寄ることができた。正直むちゃくちゃよかった。文系、理系、芸術、まんが、ビジネス、IT、同人誌、独自性のあるコンセプト、小さな棚の中に多種多様な本が凝縮されている姿は、見ているだけで楽しかった。結果として下記3冊を買った。「日記」にフォーカスしたセレクトになったかな。と同時に、今回の三冊を通じて(いまだに行けていない)文学フリマに対する興味も増したと言える。渋谷〇〇書店だけでなく、周辺のスペースもだいぶ楽しそうだった。時間があればギャラリーも眺めてみたかった。是非また遊びに行きたい。

c.bunfree.net

note.com

kanibooks.stores.jp

2024年05月01日(水)的を射た疑問を持ちたくはある

見当違いクレーム

たとえ理想的な状況や指針が思い描けていたとしても、なんでもはできない。変に手を出しすぎると、意識も手数も散漫になり、結果、効果も薄まるため、一点集中的に振る舞わなければならない、ってことはざらにある。そもそもリソースの問題もあって、ぜんぶやるには時間も人手も足らない、ってことも少なくない。さらにいえば、コインの裏表のような、あることをやったとき、そのあおりを受け、逆効果的に、反対側に位置するアクションの価値が削られる、なんてシチュエーションもあったりもする。粗雑な優しさを見せると、相手をつけあがらせることとなり、厳格な管理体制が崩れる、というような。むろん、適切な用法・用量で、効果のおよぶ範囲を掌握し、悪影響がないように調整することも(ときには)可能だ。が、常にその範囲が見極められるわけでもない。その調整のためのリソースが足りないことだって少なくない。

といった事情があるにもかかわらず、それに気づくことができておらず、なんでこれをやらないんだ、こういうふうに進めないんだ、と、ピントのズレた不満をかかえ続けていることは、まあある。経験的にも、あとから気づくことのできるケースはあった。そのせいで、無邪気に否定意見を口にするのがためらわれたりもする。が、視野の狭さを怖れ、盲目的に従い続けているのも、なんか違うというか、おそらく、よくはないんだろう。ときには端的な"ダメさ"だってある。誰かが指摘しないと変わらないこともある。あるいは、指摘したところで変わらないため、諦めて、距離を置いたほうがよいことだってあるだろう。いずれにせよ、事情を汲んで、ってことばかり思っていたら、場が動かない。かき回したほうがよい、と思えるシチュエーションのほうが世には多いようにも見えるし。

疑問点というか微妙点

前述したような見当違いを怖れ、丁寧に考えようとしても、微妙だ、と思うところが最近の業務内でいくつかあった。複層的な難点のようにも見えるが、しかし、まとめて考えようとすると明らかに混乱し始めるため、腑分けした。というか、腑分けするためにとりあえず出てくるところだけ言葉にした。ずっとこんな混乱をかかえ続けてはいるよな~。いろいろあって難しい。

  • 評価の基準というかコードに引きずられすぎに見えた。思考停止の気配というか。なぜかここだけ判断が雑になる。給与水準などをできるだけ上げないようにしたいという思惑から、とにかく厳しくすることが可能な理由を探しているせいで、あえて雑に見ようとしている気もする(無意識かもしれないが)。たとえば、評価A、評価Bといったレベル設定に、以前とは変わったところがあって、今回のBなら以前のAに匹敵するケースがあるようだったのだけど、AはAじゃん、BはBじゃん、Bなら上げないよ、といった評定が下されていた(ように見えた)。このような問題と、おれの若い頃は同じような給与でやりくりしていた、という、物価高や給与控除額、あるいは家族形態、といったものの時代の違いが認識されておらず、ただ「頑張ってない」に収斂させるような問題が、悪い感じに噛み合っていて、報酬面では期待できない場だな、とあらためて思わされた。

  • 協力的に物事を進める意識が薄いなとあらためて感じた。懸念点をあげて、それを指摘しておけばよい、という空気が強いように見える。指摘はしたという免罪符をつくっているというか(指摘するための調査はしっかりやる印象だが)。一緒にやってあげるとつけあがると思っていそうな雰囲気すらあった。だから指示しかしない。それで相手が動かないなら相手が、悪い、サボっている、と、相手側を非難するところまでを仕事だと思っていそうでもあった。実状を踏まえ、どういうやりかたが可能か、考えよう、ということは、(たぶん、あえて)しない。結果、動きが悪い。適した業務の進めかたなのか疑問だ。リスクを自覚させることだけが我々の仕事であり、改善策は相手側が考えるものだ、という思想が基本になっている。さらにいえば、出してきた改善策の良し悪しを判定(だけ)するのが当然のおこないだ、という意識も垣間見える。損や害や違法性がないよう、安全性だけ担保していれば、よい、という認識なのかな。相手側に寄り添おうとすると嫌な雰囲気が出て困る。

2024年04月30日(火)タイトルの文言がそもそも魅力的という話はある

作品名そのままのタイトル

感想文、推薦文、書評、レビュー、といった文章があらためてとても好きだ。ブログ記事のタイトルで最も好きなパターンって、結局、作品名・作者名がシンプルに記されているやつだな、と気がついた。視界に入った直後にはクリックさせられている。こんな作品を見ました!よかった!といった(嬉しそうな)話はいくらでも聞きたい。楽しいというより気持ちよい。コレクション気質なのは間違いない。コレクションがひとつ増えるのが気持ちよいんだろう。死ぬまでに読み切れない本の話も、遊びきれないゲームの話も、何度も聞いてきたし、多少は身に染みるようにもなってきたのだけど、それでも、新しいものに出会いたい、リストアップしておきたい、という欲は鎮火させられていない。傑作・名作がいつでも控えているんだぞというテンションで生きていたいらしい。とはいえ、いずれ、どこかのタイミングで、ほんとうにすっかり吹っ切れて、記憶力と検索力を変なところに費やしてしまったなあ、って後悔し始める可能性も、ある。ときどきはそんな落ち着いた気分もただようようにはなってきた。それでも、現状、消し切れていない性向だ。

2024年04月29日(月)日記の話をまたしている

着想・生活・作品

着想の日記と、生活の日記と、作品の日記は、それぞれで分けて、ぜんぶ書き残しておきたいな、という欲はずっとある。けれど時間は足りない。日によってどういう言葉が出てきやすいかも違うし。毎日三つ書き残す時間はない。結果として、混在させながら、うまく出てきてくれたものだけをここに書いているわけだが、種類別に整頓された文章の並びをまざまざと見せつけられると、素敵だ、そうしたい、とは思わされたりはする。まさに隣の芝生が青く見えて羨ましくなる形だ。見栄えのよさにすぐ釣られるというか。

昔は、ブログのカテゴリ設定を使って、多少はやりくりもしていたのだけど、いまはそれもやってないしな~。読書メーターなりブクログなりのサービスを活かして言葉の置き場所を区分けしておく手もなくはない。ぜんぶを置いておくところと、そこから切り出す形で、種類ごとの言葉を置いておくところに、分けるのは、まあアリだろう。

というような迷いがあった。同じことを何回迷うんだとも思わなくはない。が、こうして、日々、日記なり言葉なりを書いているのであれば、そこに関する振る舞いに目が向くのも当然ではあるか、とも思わされた。毎回視界に入ってくるなら、疑問だって浮かぶし、検討もしたくなる。あるいは気が散る。

なんかもう、こういった、「文章を書くという行動が、普段から視界に入ってきて、それに対して、ごちゃごちゃ考えるぜ」、っていう状況そのものが楽しい、趣味になっている、ってところがありそうだな~、とも気づかされた。日記やら文章やらが趣味っていうより、範囲設定でいえば、そのあたり一帯が趣味と化している気がする。なにが趣味なのって問われたときに答えにくいことこのうえないけども。