仲正昌樹『「みんな」のバカ!』

仲正昌樹『「みんな」のバカ!無責任になる構造』光文社新書、2004年6月
三島由紀夫はエッセイ『太陽と鉄』(ISBN:4122014689)のなかで、子どものころ御輿の担ぎ手たちが言われぬ陶酔した表情を見て、彼らは一体なにを見つめているのか疑問に思ったという。やがて「肉体の言葉」に目覚めた三島由紀夫は、みずから御輿担ぎに参加することで、「彼らはただ空を見ていたのだった」という答えを見つけたのだった。
この体験は自分自身にとって重要なものであったと三島は述べている。「なぜならそのとき、私は自分の詩的直観によって眺めた青空と、平凡な巷の若者の目に映った青空との、同一性を疑う余地のない地点に立っていたからである。」
御輿を担ぎながら、青い空を見つめる。そのとき、御輿の担ぎ手たちと「私」が一体となる陶酔感を三島は味わった。三島が終生求めて止まなかった全体と「私」が溶けあい一体となる瞬間である。三島が全体との融合化を激しく主張したのは、絶えず「みんな」と「私」(=三島由紀夫)との間に埋めがたい距離があることを意識していたからであろう。三島は病弱な子どもで運動はまったくできなかったし、学習院に入学させられたことで貴族の子供たち(=「みんな」)のなかで過ごさざるを得なかった。「みんな」との埋めがたい距離をいやでも意識せざる得ない状況だったのだ。したがって「みんな」との距離を消して一体になりたい、そう願い続けたことは容易に理解できる。そんな三島の言動が、いまから見ると滑稽なものと映る。だがしかし、はたしてその滑稽さを笑うことができるのだろうか。
本書によると、「みんな」という言葉が出て来るときというのは、自分が何か危ない目にあっていうときだという。つまり、「みんな」から「私」がはみ出してしまっている時だ。たとえば、違法駐車を咎められ「みんなもやっているではないか」と言うとき、「みんな」のなかにいた紛れていた自分ががどうして責任をとらねばならないのか、なぜほかならぬこの「私」なのか、「みんな」から自分が逸脱してしまったことを感じてしまうのだ。そして「みんなも…」と口にすることで、自分が「みんな」と一緒であることを確認したいのである。
そんなふうにして「みんな」と発することで、「みんな」との関係の危機を乗り越えたとしても、いつしか「みんな」と「私」との間に齟齬が生じること、つまりいったん「私」が「みんな」とは食い違うことを体験すると、「私」の個別性を意識せずにいることは難しいと仲正氏は述べている(p.199)。「みんな」のなかに溶けこもうとしているという時点で、すでに「みんな」から浮き上がってしまっているのだと。このあたり、仲正氏がドイツロマン派研究から学んだ「アイロニー」の方法が活かされている。
いったん「私」という個別性を認識してしまった近代の市民社会においては、「みんなの共同体」を復活させようとしてもつねに挫折してしまうという。三島の挫折は、ロマン派の「アイロニー」そのものだったといわけだ。
「みんな」のなかに溶けこんでやろうという努力は、いつも挫折してしまう運命にある。そこで問題となるのは、「個別の「責任主体」としての「わたし」をほとんど意識しないまま、匿名的な「みんな」の中に包み込まれているので大丈夫という「神の国の皆様」的な感覚で生きていけるのか」(p.198)ということになる。こうして本書は副題にもあるように「責任」ということが現代思想の文脈から論じられていく。
ここでのポイントは、「応答可能性」のようなあらゆる他者に無限に責任を負うということも、「みんな」に紛れて無責任になるのと紙一重の危険性があるということだろう。誰がどこまで責任を負うのか、そうした議論が必要になってくる。
けっきょく、私はこの「私」として生きざるを得ない。「みんな」というのはなんだか分からないし、いざというときにはあてにならないものなのだ。と分かっていても「みんな」を呼び出して、そこに隠れていたくなる。ああ、どうしたらよいのだろうか…。

「みんな」のバカ! 無責任になる構造 (光文社新書)

「みんな」のバカ! 無責任になる構造 (光文社新書)